新ひぼろぎ逍遥@1060 盆明けの既に涼しい晩秋の南阿蘇 南郷谷最深部への神社トレッキング 0818+25
サブ資料 “日本武尊に誅伐された熊襲 猛の生誕地を発見した”(全体像)佐賀、福岡、大分、熊本
20240708 太宰府地名研究会 古川 清久

本来は、この4本のパワー・ポイントの元となったブログ(大半はネットでオンエア中)を読んで頂きたいのですが、近稿も含め相当の数に上るため概略を簡単にご説明したいと思います。
この4本のP.P.は左上から佐賀川上峡、福岡市早良区、豊後大野、南阿蘇高森を舞台としています。
1. 肥前の川上峡の川上 猛
始めは10年程前に旧大和町(現佐賀市)川上峡の淀姫神社近くの健福寺で1.を講演したものから始まりました。
これについては、佐賀市に吸収合併される前の旧「大和町町史」の古代偏に川上 猛の墓が嘉瀬川の河口部の川上峡に淀姫神社があり、付近の健福寺の元寺が在った旧境内地の一角(現在はゴルフ場のコース)に川上 猛の墓誌があったとの寺の伝承が書かれている外、「佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告」にも川上峡に隣接する旧鍋島村蠣久には千軒の人家が並び、多くの商家が並ぶ九州最大級の大都会であり、後の日本武尊も日向からこの地に入っていたといった話が書かれているのです。
2. 福岡市早良区の川上 猛
ネックだったのは同じ佐賀県の“現神埼市の旧脊振村広滝で許され、脊振山を越え猛の一族は福岡市早良区の某所に移動しその一族は現在もある神社の周りに纏まってお住まいになっておられます”。と故)百嶋由一郎から聴かされていたことでした。ただ、同氏は川上 猛の一族が何処に落ち延びたのかについては可哀そうだから話せないとして、何れは話すつもりでおられたようで、当方も聴きだそうと思っていたのですが、そのまま鬼籍に入られ永久に謎は解けないまま消えると諦めたのです。しかし、3年程前に先生が残した手書き資料から、“川上 猛と淀姫の母である奈留多姫が八坂刀売と名を変え建御名方の妃となり共に道行となった…失礼”というメモがある事に気付いたのでした。八坂刀売は諏訪に封印された建御名方の妃である事は有名な話です。その妃について諸説ある事は承知していますが、これが虚偽とは思えなかったのでした。こうして、当会の事務局長N氏と現地に入ったのでした。何故ならば、早良区の諏訪神社は原にある一社しかなかったからでした。
これまであて途も無く南から早良区の神社を探っていただけに、天国の百嶋先生が気付かせてくれたような気さえしたのでした。その後この事を確認するためにメンバーを集めてトレッキングを行いましたが、謎の一つが解決できた瞬間でした。その決め手になったのは境内に残された氏子の敬老会の記念碑でした。そこには、多くの「大神」(オオガミ)姓の方が筆頭から並んでおられたのでした。
詳細は公開中のブログか、DVD内に収めたWord文書ファイルかP.P.をお読み頂くとして。
当然にも、建御名方が福岡から諏訪に向かったなど聞いたこともない…と言う方しかおられないのは仕方がないのであって、増してや大国主命の子の兄が事代主、弟が建御名方なんだから出雲から諏訪に向かった…はずだ…と言った通説に靡いてご高説を語る方しかいないはずなのです。
ところが、百嶋神社考古学は、大国主は日向(古代日向国)の西都市を本拠地とした大山祗の子で博多の櫛田神社にいた大幡主(カミムスビ神)への入婿となり、宗像の市杵島姫と豊玉姫を妃としたのです。妹の木花咲弥(コノハナノサクヤヒメ)も姉の神大市姫(ミヅハノメ)も九州に居た事を知っており、出雲の国譲りの現場が高木大神の後の本拠地である彦山の南北福岡県朝倉郡と田川郡一帯であったとしているのです。当然にも国を奪われた建御名方(田川郡で国土開発を…)が原に居て悲嘆と怒りに暮れていた可能性は高く、その時期に奈留多姫と出会い二人での道行となったのだと分かるのです。
つまり出雲は、元々、博多の櫛田神社の一族の植民地の一つだったのであり、大国主命担ぐ袋は引っ越し荷物だったのです。結果、出雲は近畿大和朝廷のテーマ・パークとして扱われる事になるのです。
3. 豊後大野の大神一族も川上 猛の末裔ではないか
その後、大神(オオガミ)姓と豊後大野の大神(オオガ)一族とは読みは違うものの同族ではないかと思うようになったのは自然な流れでした。ただ、豊後の大神一族をご存じの方はそれほど多くはないいと思われある種ローカルな土豪と言った感もあるのです。ただ、実際には「平家物語」にも登場する祖母山の御使いとしての大蛇の血を受けた豪の武人として描かれた大神惟基、大神惟栄はその時代広く喧伝されているのです。この大神一族は惟基、惟栄と言う名でも分かるように阿蘇系大族の分流だったのです。
詳しくは、竹田の穴森神社と豊後大野市清川の宇多姫神社に関わる故事をお調べ下さい。
現在、豊後と日向の国境を成す祖母山系でも祖母山を北から崇める竹田市、豊後大野市の一帯では阿蘇系氏族が展開しているのです。一方、南北からも先行して神武皇兄五瀬命が祀られてもいるのです。
彼らは祖母山山頂に、豊玉姫、姥岳神社(鴨玉依姫)などを祀り、自らの先祖の祖母、姥と見なしたのでした。そもそも、祖母山とは誰かの祖母であり、釣針(チ)の回収で山幸彦=ニギハヤヒと豊玉姫が出会い、三年の間に子(ウガヤフキアエズ)を成し、そのウガヤが、乳母として送られた鴨玉依姫と結ばれ生まれた子が安曇磯羅だったのです。それについては、豊玉姫を妃とした山幸彦が彼女の子育て放棄に遭遇し途方に暮れると、カミムスビ系氏族側(博多の大幡主)から送り込まれた乳母としての鴨玉依姫がぴったりするのです。
そのウガヤと、奈留多姫の間に生まれたのが川上 猛、淀姫兄弟となるため、祖母山の名を与えたのは、川上 猛から見た意味であり、猛を始祖と考える大神一族が猛の後裔氏族大神一族だったと言えるのです。大神惟栄が鎌倉期には義経を総大将として受入れ、頼朝と一戦構えるために造ったのが難攻不落の岡城(実は大神城)であり、平家方が集結し始めていた宇佐神宮を焼き打ちしたのも知られた話です。
4. 南阿蘇高森が川上 猛の生誕生育地だったのではないか

これで、北部九州4県に跨り大きな足跡を残した川上 猛という人物の足跡とその後裔氏族の活躍の全体像が不十分ながらもある程度把握できたことは非常に幸運だったと思います。
ヤマトオグナの熊襲猛退治は誰でもが知っていながらもどこの誰の話か見当さえつかない中で、神話から現場が目に見える形で理解できたことは、神社研究が馬鹿にならないと思ったのでした。戦後、米軍によって神社研究の破壊が日本人の思想と宗教を極限まで進めましたが全てが架空でも無かったのです。