2024年08月30日

新ひぼろぎ逍遥スポット340 盆明けの既に涼しい晩秋の南阿蘇 南郷谷最深部への神社トレッキング

新ひぼろぎ逍遥スポット340 盆明けの既に涼しい晩秋の南阿蘇 南郷谷最深部への神社トレッキング

豊後大野に川上 猛の痕跡を探して  “日本武尊に誅伐された熊襲 猛の生誕地を発見した” 改訂版

20240612

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久



 阿蘇南郷谷の高森町でも外輪山外側の最奥部に鎮座する野尻川上神社(皆さん良くご存じのヤマトタケル命=後の日本武尊に誅伐された川上 猛の出生地の可能性あり)の重要性に気付き、本年8月の盆明けにこの一帯での神社トレッキングを行う事にしました。最も重要と考えているのは大谷川正面に鎮座する野尻川上神社です。この神社の価値は限りなく大きいのですが、皆さんにも理解して頂けるでしょうか。

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野尻川上神社 カーナビ検索熊本県高森町野尻649

 そこで、8月は盆休みとしてイベントは行わない事としていましたので、阿蘇高森の最深部を探る神社トレッキングを行う事にしました。以下はその仮案ですが、普段、殆ど入らない神社56社を巡る企画を立てました。このため、その数社について下調べとしての作業を行っています。

  8月盆明けの仮日 奥阿蘇神社トレッキング 太宰府地名研 “川上 猛の生誕地を探る” 雨天中止or延期

日 時:818日(仮案)930集合1000出発 参加費 1000円 連絡 090-6298-3254(お杖代 古川)

集 合熊本県高森町高森2216スーパー フレイン 駐車場 参加費+資料代(500700円)弁当+お賽銭+雨具持参

参加費:連絡 太宰府地名研究会 090-5289-2994(事務局中島)宿泊地は各自で確保して下さい! 時間厳守

順路:@ 矢津田御霊神社 ➁ 祭場阿蘇神社 ➂ 野尻川上神社 ➃ 尾下菅原神社 ➄ 永野祖母嶽神社

余裕があれば、最後に草部吉見神社も巡ります (ご注意を順路は変更有…実際にはパスする神社も出ます)

※ 参加される方の各々ご都合があると思いますので、集合場所と集合時刻を決めておきますので本当に見たいと思われる方だけで決行したいと思います。奥阿蘇物産館or高森町スーパーマーケットフレイン930集合(仮案)で、特に御霊神社は高千穂のひのみこ社の二子石女史に案内して頂きます。

(仮案)高森町のフレインに集合し直接、御霊神社に向かい祭場阿蘇神社を経て野尻川上神社を巡る

 盆明けの8月下旬なら標高800超の現地のこと、暑いと思われるでしょうが、午前中は元より阿蘇でも外輪山の外は既に涼しいためこの点の問題はないでしょう。

 同エリアの最初の訪問地は、御霊神社〜祭場阿蘇神社〜野尻川上神社(初見の方が多いと思います)ですが、この3社に訪問できればとりあえず目的は達成できると考えています。状況に合わせて、最後は希望者のみ草部吉見神社に参拝し戻ります。

 現在、検討中ですが、基本的にはカーナビで移動できますので、全56社の住所を表示します。


➊ 矢津田御霊神社  :熊本県阿蘇郡高森町矢津田1979  吉備内親王、佗戸親王の母、光仁皇子、

早良親王、伊予親王の母、桓武天皇皇子

➋ 祭場阿蘇神社   :熊本県阿蘇郡高森町中2168    健磐龍外11

 ➌ 野尻川上神社   :熊本県阿蘇郡高森町野尻649    淀姫、川上大神…9

 ➍ 尾下菅原神社   :熊本県阿蘇郡高森町尾下3843    菅原道真、国常立神、天字受女命

 ➎ 永野祖母嶽神社  :熊本県阿蘇郡高森町津留      山幸彦、豊玉毘賣命、鵜葺草葺不合命

玉依毘賣命、神日本磐余彦命=神武天皇、吾平媛命、木花佐久夜毘賣

 ➏ 草部吉見神社   :熊本県阿蘇郡高森町草部2175    彦八重耳外11

無題.pngフレイン(高森店)熊本県阿蘇郡高森町高森2216 

営業時間 日曜日      900分〜2200

現地では食料購入できません川上淀姫社で昼食予定ですので事前に準備を!フレインでも9時には購入可能

ゴミは持ち帰りが原則!お賽銭は各自でご準備下さい。

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コンビニなど皆無の地域です。トイレについては以下をご利用下さい。トイレ:親水公園 高森町津留

尚、永野祖母嶽神社や草部吉見神社にもきれいなトイレットがあります。川上神社より下は川上渓谷です。
詳細はブログ本数が多いためCD,パワポで配布します。

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参加予定者 40

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2024年08月27日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 339 不思議な坂本一族 探求編 ➊ 山ちゃんブログより

新ひぼろぎ逍遥 スポット 339 不思議な坂本一族 探求編 ➊ 山ちゃんブログより

20240725

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


坂本、阪本、坂元、酒本、酒元、坂下…と多くの表記のある人々ですが、私にも多少関係のある一族でもあるのです。

無題.png伊号1号潜


 当初、坂本神社については志賀海神社の宮司家の一族は安曇姓を名乗っているが、配下にいる人々は皆坂本姓を名乗っており、海神族であり外洋航海をできる人々であったから、古い時代に列島に入っているフェニキア系の人々ではないかと考えていたのですが、今回、彦太忍信命がヘブライ系である事が漸く分かってきました。知人に阪本様がおられた事から少しお尋ねしたのですが、サカモトでも九州(熊本)では少ない阪本ですが…と断られた上で話始められました。お父さんが外洋航路の船長だったとも言われており、びっくりしましたと言われたのでした。

実際、サカモト姓は坂本も阪本もあり、大阪城も元は大坂城であった事からどちらも同じ意味である事が分かっていましたので、構わずお話を勧めた経緯がありました。

 特に家紋についても、跡で三盛亀甲紋に唐花=花菱である事が分かり、アーリア系ではなくヘブライ系なのであろうと、その様に考を改めたのでした。

 実は、私(古川)の仲人さんも職場の上司(地方公務員)の坂本様でした。

 この方のお父さんも旧帝国海軍の潜水艦の艦長で、本来はアメリカ海軍の、迎撃戦を戦う予定だったのですが、ガダルカナル戦に於ける制空権、制海権の喪失に伴って、丸通業務を行わされ、糧秣(米、味噌、醤油)や弾薬、薬品…をドラム缶に詰め込み補給を行う)という消耗戦に追われ、とうとう米艦船による攻撃を受け、半舷は飢島に上陸するも残った半舷と伴に今も海底に横たわっておられる…という話をお聴きしたのでした。具体的には申し上げませんが、伊号1号潜の艦長で…その孫も(つまり仲人の方の息子様)三菱重工で新型魚雷の開発に携わっているとお聴きしたのでした。私はその事を偶然ですが戦記としてハヤカワ文庫で読んでいたので驚いたことがあったのでした。


291830、ガダルカナル島カミンボ岬付近で半浮上して揚陸準備中、ニュージーランド掃海艇モア、同キーウィの爆雷攻撃を受けて損傷したため、浮上して交戦する。1920、伊1は左舷後部にキーウィの体当たり攻撃を受ける。モアとキーウィの砲撃により艦長が戦死したため、水雷長の是枝貞義大尉(海兵64期)の指揮で南緯0913分 東経15940 / 南緯9.217度 東経159.667度のカミンボ沖合1km地点付近で2315に座礁した。やがて、伊1は浸水で右舷側に大きく傾斜して放棄され、その後沈没した。艦長の坂本榮一少佐以下乗員27名が戦死し、66名が生存した。その後機密書類の一部が回収され、海岸で焼却された。しかし、艦内の暗号書等の機密書類のほとんどは処分が不徹底のままだった。生存者は艦内の機密文書の捜索のために乗員2名を残無題.pngしてガダルカナル島に上陸し、後に帰還した。30日、モアは機密文書を捜索中の生存者2名を発見し、1名を機銃で射殺して1名を捕虜にした。生存者からの、機密文書の処分が徹底されていないとの報告を受け日本軍は伊1の処分を行った。22日夜、乗員5名と陸軍第1船舶団11名が大発で現場海域に向かい、爆雷2発を使用して艦体を爆破するも失敗。10日、第26航空戦隊第582海軍航空隊の99式艦爆9機が直援の零戦20機とともに爆撃を行うも、1発を命中させたのみにとどまった。11日、米魚雷艇のPT-65が伊1の艦体の調査を行った。13日、ニュージーランド特 設敷設艇マタイと米潜水艦救難艦オルトラン(英語版)(USS Ortolan, AM-45/ASR-5)によるさらなる調査が行われた。この結果、艦内水没部を米軍の潜水夫に隈なく捜索されて20万頁に及ぶ日本海軍の暗号書や機密書類が引きあげられ、日本軍の暗号解読に大いに役立った。同日、姉妹艦の伊2が雷撃処分するために現場海域に到着。15日まで伊1を捜索するも発見できず、さらに米魚雷艇からの爆雷攻撃を受けたため伊2は帰投した。                        伊号第一潜水艦 (初代)

沈没した伊1を捜索するアメリカ海軍のPT-65                          以上、推敲前草稿

新ひぼろぎ逍遥@ 1048 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 (下)坂本編 より


第五十五話  「崇神天皇」(1)  百嶋神社考古学東海ビューロー やまちゃんブログ」より転載

 2022.02.19

写真 貴志川 十三神社の参道梯(みやばし)より撮影出典:Wikipedia(2 022/02/18  2050)


無題.png○『古事記・日本書紀』記事の特徴

○崇神天皇は正統な天皇ではない

○贈崇神天皇の皇后・妃と皇子・皇女


1.『古事記・日本書紀』記事の特徴

同天皇に関する『記紀』記事は「安寧〜開化天皇」までとは対照的に極めて豊富です。その意図するところは、阿蘇ご一家を先祖とする藤原氏による遠大な歴史改ざん計画の中核を成すものです。

2.崇神天皇は正統な天皇ではない

御真木入日子印恵命こと崇神天皇は、藤原氏によって贈られた天皇で、正統な天皇ではありません。

『記紀』は、父開化天皇、庶母伊迦賀色許売命との皇子としますが、名に「倭」あるいは「倭根子」がなく、明らかに開化天皇の皇子ではないことが一目瞭然です。

「神々の系図−平成12年考」では、御真木入日子印恵命(みまきにゅうひこいにゑのみこと)は、天忍穂耳命こと贈孝昭天皇と市杵島姫(いちきしまひめ)の御子大山咋(おおやまくい)こと熊甲安羅梶彦(くまかぶとあらかじひこ)を父、母は市杵島姫と大国主の間に生まれた鴨玉依姫(かもたまよりひめ)とし、姉に活玉依姫(はえたまよりひめ)、兄は稻飯命(いなひのみこと)、弟に梶取こと椎根津彦(しいねつひこ)またの名に倭彦としています。

したがって、正当な天皇ではなく藤原氏によって贈られた「贈天皇」と、故百嶋氏は述べています。

3.『古事記』記事が記す皇后・妃と皇子・皇女

(1)木の国造荒河刀弁(あらかわとべ)の娘、遠津年魚目微比売(とおつあゆめはしひめ)を娶り、豊木入日子命(とよきにゅうひこのみこと)・豊鉏入日女命(とよすきにゅうひめのみこと)の二柱。

「神々の系図−平成12年考」によれば、荒河刀弁は、紀の川の最大支流である貴志川、別名荒河とも呼ばれる川畔(現和歌山県紀の川市桃山町)に盤踞した女性首長(酋長)としています。

写真 貴志川 十三神社の参道梯(みやばし)より撮影

私は大学生時代訪れたことがあり、それはきれいな清流でした。出典:Wikipedia(2022/02/18 2050)

娘とされる遠津年魚眼微比売は、父御年神(みとしのかみ)、母古許牟須姫(こけむすひめ)との間に生まれ、兄は水沼君(みぬまのきみ)・伊予御村別(いよみむらわけ)の祖武国凝別命(たけくにこりわけ)です。

したがって、この系譜は御年神こと贈孝安天皇の系譜を紛れ込ませたようです。

○豊城入彦命を祀る神社 二荒山(ふたらさん)神社 宇都宮市馬場通り 祭神:豊城入彦命とされていますが、豊城入彦自身が東国下向の際、御諸山の大神(大物主こと大己貴命)を祀ったとされています。

無題.png赤城神社 前橋市富士見町赤城山

祭神:赤城大明神(=大己貴命)豊城入彦命

写真 赤城神社周辺の四季 出典:赤城神社HP


大荒比古鞆結(おおあらひこともゆい)神社 高島市マキノ町浦

祭神:豊城入彦命・大荒田別命・須勢理比売命・大己貴命・誉田別命

写真 大荒比古鞆結神社 「変形三ツ鳥居」

大荒比古神社 祭神:大荒田別命・豊城入彦命

大荒田別命は、おそらく豊城入彦のまたの名と考えられます。

豊城入彦命は武将として能力に優れ、九州王朝に忠実で、最初は近江国へ赴任、その後大己貴命が支配する上野(こうずけ)国へ赴任。その後、安羅国王として赴任したと推測します。

無題.png2)尾張の連の祖意富阿麻比売(おおあまひめ)を娶り、大入杵命(おおいりきのみこと)・八坂入日子命(やさかにゅうひこのみこと)・沼名木入日売命(ぬまなきにゅうひこのみこと)・十市入日売命(といちにゅうひめのみこと)の四柱。

「神々の系図−平成12年考」によると、ウガヤフキアエズと下照姫との間に生まれた大海姫(おおあまひめ)は意富阿麻比売と同一人物です。

故百嶋氏は講演会で「にゅう(入・乳)」は天皇にお仕えした人物名の特徴と述べています。

(3)大毗古命の娘御真津比売(みまつひめ)を娶り、伊久米入日子伊沙知命(いくめにゅうひこいさちのみこと)・伊耶能真若命(いざのまわかのみこと)・国片比売命(くにかひめのみこと)・千千都久和比売命(ちちつくわひめのみこと)・伊賀比売命(いがひめのみこと)・倭日子命(やまとひこのみこと)の六柱。

「神々の系図−平成12年考」によると、御真津姫の父は大毗古命ではなく事代主としています。

御真津姫の本来の名は『日本書紀』が記す御真城姫(みまきひめ)です。結婚前の名は五十鈴姫です。

ツヌガアラシトのまたの名に御間城入彦があり、御真城姫はツヌガアラシトこと贈崇神天皇と結婚して名を改めてからの名です。

伊久米入日子伊沙知命は、五十鈴姫との間の御子ではありません。詳細は「垂仁天皇」の稿で説明します。

倭日子命は前述したように、ツヌガアラシトの弟椎根津彦です。

国片姫はツヌガアラシトこと贈崇神天皇御真城姫の娘で、後に開化天皇の妃に成られます。

兄は盟神探湯(くがたち)こと壱岐真根子です。

4.『日本書紀』が記す皇后・妃と皇子・皇女

(1)皇后御真城姫との間に活目入彦五十狭茅(いくめにゅうひこいさちの)天皇・彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと)・國片姫命(くにかたひめのみこと)・千千衝動倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)・倭彦命(やまとひこのみこと)・五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと)の六柱。

彦五十狭茅命・彦五十日鶴彦命は不明です。

(2)紀伊國の荒河戸畔(あらかわとべ)の娘、遠津年魚眼眼妙姫(とおつあゆめまくはしひめ)との間に豊城入彦命・豊鍬入姫命の二柱。

故百嶋氏は「紀の国」を大幡主の支配地としています。

したがって、遠津年魚眼眼妙姫は大幡主の血筋に繋がる姫と推測されます。

(3)尾張大海媛との間に八坂入日子命・渟名城入姫命・十市瓊入姫の三柱。

無題.png表  ツヌガアラシトを中心とする家系図 右矢印1

生年は故百嶋氏の推定

次回は「崇神天皇」(2)です。


今回、国方姫が分かり難いためそれをご説明するためだけに、勝手ながら信頼できる文献史学派の「山ちゃんのブログ」を長々と引用させて頂だきました。

悪しからずご容赦を。

 以下、百嶋由一郎手書きメモからも坂本皇子を探ってみたいと思います。


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百嶋由一郎 006橘系譜


百嶋由一郎氏のこの神代系譜については普段はあまり見ないもので、皇子宮、坂本宮でも神功皇后と開化天皇と間のシレカシの命以下5人の皇子に対して、4人の皇子については仲哀と神功皇后の間に生まれた皇子か仲哀の側室の子なのだろうと言った甘い解釈で留めていたのでした。

 ところが、今般、正確に坂本姓や坂本一族を調べる必要が出て来た事から慌てて調べ始めたのが実情であって、ある意味では良い機会を与えて頂いたとも言えます。

こんなことでもなければ本気で考えないのが日常であって、少しでも前進できればまさに天恵とまで言えるのです。

 大恋愛の末に一緒になった大山咋と鴨玉依姫ですがその間に生まれたのが活玉依姫でその活玉依姫が古々代ヘブライ系の事代主(大国主の子でもなければ、建御名方の兄でもない人なのです)の間に設けたのが五十鈴姫(我が研修所の近くにもこの五十鈴姫を主神として祀る神社があります)です。

その五十鈴姫が初国神武こと贈)崇神天皇との間に生んだのが国片姫(国堅大神)になるのです。

その国片姫が正当皇統第9代開化天皇との間に産んだのが国堅大神で、大神と呼ばれるのも開化の側室の子だからなのです。ちょっと面倒でしたが、漸く坂本皇子の素性が掴めたのでした。

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半島と敦賀、熊本県の球磨川の旧坂本村に近い百済木から「日本書紀」に登場するアリシトの子日羅が百済のナンバー2達率(国防大臣)になっているのも渡洋航海を行う能力を持っていたからであり、


百済来村は、熊本県葦北郡にあった村。現在の八代市坂本町百済来上、百済来下、田上、鶴喰、川岳にあたる。

ウィキペディア20240713 15:44


それはクマカブトアラカシヒコ=大山咋(熊本県の甲佐町の甲佐神社付近から対馬海流に乗り半島に移動していたからなのです。

クマカブトのクマは、熊本、カブトは甲佐町の甲佐神社の甲)の血を引いたツヌガノアラシト(敦賀と安羅伽耶を頻繁に移動した)崇神に渡洋航海の技術が継承されたのでしょうか。


甲佐神社は、熊本県上益城郡甲佐町に鎮座する神社である。肥後国二宮で、旧社格は郷社。


ウィキペディア 20240713 15:45

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甲佐神社 カーナビ検索 熊本県上益城郡甲佐町上揚876

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こうして、球磨川、緑川一帯から対馬海流に乗り半島と行き来していた人々が九州王朝の航海術が支えられていた事が見えて来たのでしたくるのです。

ここまで掘下げてくると、初めて坂本姓の本質は大袈裟ですが、後ろ姿が漸く見えても来たのでした。

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新ひぼろぎ逍遥@1030 南魚沼郡への神社調査(下調べの作業ノート)❸ 小出 清津峡 諏訪神社

新ひぼろぎ逍遥@1030 南魚沼郡への神社調査(下調べの作業ノート)❸ 小出 清津峡 諏訪神社

20240411

太宰府地名研究会 古川 清久


 雪の為、春先から夏へ更に秋に延期した越後湯沢〜南魚沼〜小出、そして柏崎刈羽へ最も重視している西山村の物部神社への調査旅行で、是非見たい神社のリスト・アップの作業中を行っているところです。

糸魚川ルート、上越ルート、中央高速ルート、琵琶湖から関ヶ原、岐阜、諏訪に入るルート、そして福井県の九頭竜川から郡上八幡、飛騨高山から穂高と乗鞍の間のトンネルを抜けて松本に入るルートと、甲信越に入るコースを試してきたのですが、残していたのが魚沼市〜南魚沼市〜越後湯沢〜上州に入るルートでした。

ただ、実際に下調べを行ってみると、この一帯にある神社には全く見当の着かない神社とか奇妙な神社…と表現が悪く申し訳ありませんが、あまり触手が動かない思いがしています。

それは、殆ど見当の着く神社ばかりで、九州の多くの神社群と殆ど変わりのない言わば馴染みの神社ばかりで、これなら安心して見たいところを見れば良いと思い返す事になったのです。

つまり、1500年前辺りから九州の人々が大量に入っている事が地名と神社、その祭神によって裏付けられることになった様に見えるからだったのでした。

その意味では、懐かしくもあり大古に分かれた親族達に出会うような親近感を感じているのだろうと勝手な解釈をしているのでした。

 そう考えるとたまには観光としての神社見物に切り替えてみようと思い返すことにしたのでした。

 そして、北魚沼郡の小出から一社を選ぶことにしました。もうこの辺りになると以前の中越、越後への神社調査に入った時に見たエリアと重なってきますので、極力、見ていない所に入ろうと思ったのでした。

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「コデ」と呼ぶのでしょうか?現新潟県十日町市の片隅にあるのが小出です。

 ここには素晴らしい渓谷と珍しい造りの神社(諏訪神社)があるので是非とも見に行きたいと思ったのでした。

 どうせ、見るべき神社は随行者のT氏が選んでくれるはずで、今回は、控えめにお任せしたいと3社に限定したのでした。

 勿論、日本は元より中国の観光地などでもやたら造られる断崖地の見世物的ガラスの橋梁と言った物を好むものではありませんし、造られた癒しとでも言うべき見世物小屋的な観光地を避けるのは鉄則ですが、付近の諏訪神社の社殿の見たさもあって、いつもの古川定石は引っ込める事にしました。


清津峡〜諏訪神社 カーナビ検索 新潟県十日町市小出癸(ミズノト)2374


清津峡

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多分十日町の総鎮守 諏訪神社の分社と思われますのでその限りでお読みください


市街地を一望する高台に鎮座する神社で、織物関係者の信仰を集める「御機神社(黒姫神社)も祀られています。 8月に行われる「十日町おおまつり」で、「オイヨイ」という独特の掛け声と共に担がれる、全国的にも珍しい八角神輿が収められています。


十日町織物産地|機織りの神様 御機神社を訪ねてより


寛政5年(1793年)、ここに機神社が創建される前から、黒姫様は機織りの神様として機業(織物業)の人々から、厚く信仰されていました。

十日町地方では、古くから高柳(現在の柏崎市)の黒姫山を機神様として信仰し、機織りに従事する娘たちが技量の上達を祈って参拝する習わしがありました。黒姫山の山麓には黒姫神社が鎮座し、その昔、地域の民に機織りなどを教えた姫神が祀られています。

そのため、十日町での機神社創建時には、伊勢由来の織物の神様、麻績屋媛命(おうみやひめにみこと)を祭神としつつも、民間信仰として絶大な信心を集めていた黒姫神を合祀する形となり、機神社のことを地域では一般的に「黒姫様」、「黒姫神社」と呼んで信仰し、今に至っているのだそうです。

機屋さんを中心に織物加工業者が数多く集中し、住民の大部分の皆さんが生業として機業に従事してきた十日町。日本の基幹産業であった織物業を支え続けてきた地域において、その信仰の強さは容易に想像がつきます。


黒姫神社(柏崎市)概要:黒姫神社は新潟県柏崎市高柳町岡野町に鎮座している神社です。黒姫神社の創建は不詳ですが応永2年(1395)に黒姫山山頂(標高:890m)に鎮座し延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社の1つ鵜川神社の分霊を合祀して応永3年(1396)に拝殿を再建しています。

その為、祭神は元々の黒姫神と鵜川神社の罔象女命(彌都波能売命)を祀っています(一説には黒姫神は奴奈川媛の母神とされます)。領主からも崇敬庇護され天保3年(1832)には社領3石7斗が安堵されています。

無題.png黒姫山山頂にある鵜川神社の本宮は雪深く10月から5月まで参拝することが出来なかったことから、黒姫神社は合祀以来、鵜川神社の里宮、遥拝所として宮司である大倉家が祭祀を行っています。黒姫神社が所有している旭日双鶴図と竹林猛虎図の一対は昭和58年(1983)に、木造狛犬2躯が昭和59年(1984)に柏崎市指定文化財に指定されています。

黒姫神社の拝殿は入母屋、鉄板葺き、平入、桁行4間、梁間3間、正面1間向拝付き。本殿は一間社流造り、鉄板葺き(元こけら葺き)。祭神:彌都波能売命、黒姫ノ神。合祀:伊弉册尊、速玉雄命、事解男命、倉稻魂命、石動彦命、石動姫命、天目一箇命、建御名方命、埴山姫命。



諏訪神社が諏訪湖から日本海側の新潟県までも大きな拡がりを持っている事は柏崎刈羽の諏訪神社の数社の分布だけでもご理解頂けるでしょう。

勿論、九州全域でも肥前から古代日向の一帯に諏訪神社は大きな拡がりを見せています。通説では、国譲りの強要に対して魚釣りをしていた兄の事代主は直ぐに同意し、国土開発に携わった事代主は抵抗するも武甕槌に負け諏訪から出ない事を条件に許されたとします。真実は出雲の国譲りは九州の彦山の南の朝倉郡と北の田川郡で起こったもので、この一帯からは諏訪神社が消えています。大国主命の子とされる兄弟も、事代主は商売人でしかない古々代ヘブライであり、元々古代日向の熊襲の建御名方の配下は南と西に逃げています。お疑いなら 鹿児島県□南方神社 で検索して下さい。膨大な神社群を発見するはずです。

ここではここで留めますが、高木大神、天照大神、正勝吾勝…(実は高木大神への入り婿のヒコヤイミミ)三悪人によって葦原中津国が強奪されたのです。その現場は北部九州だったのです。

 紙面が不足していますのでネット上から一部ですが、まずは、以下からお読みください。これ以外にも多数書いていますので、出雲の国譲りは北部九州で起こっており、大国主命も大山祗の息子で博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神への入婿で出雲の人ではないのです。

ひぼろぎ逍遥 ビアヘロ021 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見!@ 20160626 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


最近、良く道草をやってしまいますが、今回もその例になります。

 我々百嶋神社考古学の者からすれば、基本的に現出雲の国とは、元々大国主命のものではなく、博多の櫛田神社の大幡主(カミムスビ、出雲ではカモス)の植民国家であって、九州の朝倉郡、田川郡、つまり高木大神の英彦山の南北を勝手に天孫族の日嗣の皇子の治めるべき国として取り上げるとして引き起こされた事件=国盗み=強奪という神代最大の出来事だったのです。

これについて、現在でも「日隈宮」(ウヅノミヤ)が筑前町にかろうじて残っており、それを伝えるのが以下のパワー・ポイントです(もしも、この三部作読みたいと思われる方がおられたら090-6298-3254までご連絡ください)。

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