ひぼろぎ逍遥1142 筑豊から柏崎刈羽に逃亡した物部氏が徳川氏になった!? ❷
(先行改訂再掲載版=新ひぼろぎ逍遥には順次掲載予定) 20160105→20251231
太宰府地名研究会 古川 清久
新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。
休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。
場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。

物部神社正面 物部神社 カーナビ検索 新潟県柏崎市西山町二田607-2
これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。
立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。
尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。ここまでは10年前のブログ ひぼろぎ逍遥295 北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した の一部です。
そこで、ここからは、この話の裏取をして行きましょう。
まずは、その物部氏はどこからやって来たのかを探るところから始めましょう。
既に申し上げた通り、筑豊の物部25部族だろうとしましたが、実際には北部九州の東部域(つまり三郡山以東の北九州市を含むエリアです)、一般的には筑豊地方は北九州市を除く飯塚市、宮若市、嘉麻市田川市、中間市、直方市に加えて多くの町村の様に思われていますが、次の物部25部族展開図の中に現在の北九州市の一部が含まれている様に、筑豊とは、所詮、明治以降の概念であって、古代には対応しませんのでその程度の意味として理解して下さい。
中でも徳川家に直接関係が在りそうなのは二つです。[二田物部](ふた) 鞍手郡小竹町新多二田ケ浦 と[筑紫贄田物部](ちくしのにぎた) 鞍手郡鞍手町新北 です。
小竹町と鞍手町とは隣接しており、飯塚市の北側の町とでも表現しておきましょう。
実際には、googlマップなどで検索して下さい。
ただ、物部氏は半島から入ってきているという説と、大山祇の本拠地としての宮崎県西都市に拠点を置き、九州の東岸から北上した人々と西岸を北上した人々があったとの説があり、最終的に橋頭保を確保して以降は半島経由でその北の遼寧省辺りから直行する人々が増えてきたはずなのです。

以上は、
敬愛するHP「倭国九州王朝」様より
念のため物部研究者の推定をもう一つご紹介します物部氏分布 様より
一目瞭然で、[遠賀川流域]、[鞍手町]・[宮若市]周辺に多いことがわかるしかも、なぜか[遠賀川]西岸に偏る、「津」地名も確かに遠賀川西岸に顕著遠賀川東岸に別の勢力がいた可能性、[スサノオ]?[物部世真古.icon]遠賀川の川筋者、筑豊、北九州のヤンチャさは炭鉱よりもっと古い物部氏の名残かもしれない?遠賀川の川筋者が物部氏由来であれば、その理想像は当地出身の[高倉健]さんであろう。「高倉健」という名も、[岡垣町][高倉神社]=[タカクラジ]、[草薙剣]にも関わり、不思議な縁がある
[天物部二十五部]
[二田物部](ふた) 鞍手郡小竹町新多二田ケ浦 [当麻物部](たぎま) 未詳
[芹田物部](せりた) 宮若市芹田 [鳥見物部](とみ) 直方市頓野
[横田物部](よこた) 飯塚市横田 [嶋戸物部](しまと) 遠賀郡遠賀町島門
[浮田物部](うきた) 未詳 [巷宜物部](ちまたき) 未詳
[足田物部](あしだ) 未詳、鞍手郡疋田説あり
[須尺物部](すさか) 糟屋郡粕屋町酒殿 [田尻物部](たじり) 未詳、みやま市田尻?
[赤間物部](あかま) 宗像市赤間 [久米物部](くめ) 未詳、糸島市久米?
[狭竹物部](さたけ) 鞍手郡小竹町 [大豆物部](おおまめ) 嘉穂郡桂川町豆田
[肩野物部](かたの) 北九州市小倉北区片野 [羽束物部](はつかし) 遠賀郡岡垣町波津
[尋津物部](ひろつ) 鞍手郡鞍手町八尋? [布都留物部](ふつる) 鞍手郡鞍手町古門?
[住跡物部](すみと) 未詳 [讃岐三野物部](さぬきのみつの) 未詳、福岡市博多区美野島?
[相槻物部](あいつき) 朝倉市秋月?
[筑紫聞物部](ちくしのきく) 北九州市小倉南区企救
[播麻物部](はりま) 未詳、筑紫野市針摺?針磨とも書いた

御覧になってお分かりと思いますが、新多、新延、新北…と「新」と書いて、二、ニイ、ニュウ…と発音するヨーロッパ系の言語が持ち込まれている可能性があるのです。
その象徴的な場所が、宮崎県の宮崎市の北隣…大山祇の本拠地西都原からも近い宮崎県新富町に航空自衛隊新田原(ニュータバル)基地が在りますよね。
勿論、福島県の(しんでんはら)南会津郡南会津町、しんでんばる、福岡県行橋市のしんでんばる(ここも何故か空自の築城基地があります)、長崎県諫早市小長井町に(しんたばる)地名があります。

我が百嶋神社考古学では大山祇系は伽耶の金海金氏が天御中主命(水天宮様)との間で派生した氏族と考えていますが、前ブログでも書いた通りトルコ系匈奴(東西分裂後の南北分裂によって生じた王昭君の一族)と考えています。
ただ、オスマン朝、セルジューク朝以前のトルコ(チュルク)民族はオグズ族とも呼ばれアラル海周辺からパキスタン辺りまで展開していた民族で、直接的には半島から列島に移住してきた天孫族以前の国ツ神とされた人々で、熊本県玉名市(石貫)から宮崎県西都市(石貫)に展開した稲作を行わない人々だと考えています。
当然にも、イラン(現在、偉大なアーリア系民族…というナチス ドイツの扇動のためアーリアと言う概念が否定されていますが、イランはアーリアンのイラン風の読みであって、イランはインド同様のヨーロッパ系民族なのです)はペルシャ(プルシャプラ)と混血を続け、実質的にはヨーロッパ系言語も取り込んでいるのです。アフガニスタンの主要民族パシュツーンもペルシャです。
この大山祇系民族の本拠地にニュータバル基地が存在するのですから、「新」「仁」「二」と書いて、「ニュウー」とか「ニイ」、「ニフ」…などと呼ばれる地名が九州から関東まで拡がっているのです。
それを何でも中央構造線の丹生地名で説明しているのが進歩のないお師匠さんの説を引き継ぐだけの通説派の学者は一本足打法で説明しているようです。
特に、新多、新延、新北は我々が「ニュウ」地名と呼ぶ「新」を「ニュウ」と発音する痕跡地名であり、九州王朝論者の間では、「新北」は佐賀県の佐賀市諸富と併せ、小竹町の「新多」を充てる説も出され議論が沸騰したのも二十年前の話です。白村江の海戦に愛媛から関門を抜ける
とは思えませんが通説派はどうしても畿内に近い所を主張するのです。
「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
口語訳現代文 熟田津で船に乗ろうと月が出るのを待っていると、潮の流れも(船出の条件と)合致した。さぁ、今こそ漕ぎ出そう。
額田王(ぬかたのおおきみ)とか斉明天皇が詠んだ歌とされ、一般には熟田津(にきたつ)は道後温泉あたりなのではないかと言われています。まあ、通説派の説ですが、そことて、九州王朝の本拠地なのです。遠賀川流域を探ると、これ以外にも「新」地名は在りますので探してください。
一例ですが、直方市の上下新入(シンニュウ)地名などをご紹介しておきます。特に小字を…。
さらに、筑豊の物部氏は筑後川流域から北上してもいるようで、それは故)谷川健一もそういっています(これについては直接聴いています)。
そこで、我が百嶋神社考古学しか言っていない話を致しましょう。
熊本市の南、熊本地震で犠牲になった熊本県「益城町」、福岡県現朝倉市の旧「甘木市」、同じく福岡県飯塚市の「馬敷」が全て物部氏の北上した痕跡地名であり、同一の地名だと考えているのです。これが、東海道の三島女郎衆の三島(大山祇神社)から伊豆への「天城越え」にまで成っているのです。
以下ご説明申し上げます。故)百嶋由一郎は“「甘木」をアマギと読んではいけません。ウマシキと読みなさいと言っておりました。
甘いと旨い(ウマイ)であり、甘木とはウマシキの意味なのです。つまり、益城町のマシキはウマシキ=マシキであり、飯塚市の「馬敷」はそのままウマシキなのであり、これは大山祇系の北上した痕跡地名なのです。
益城町をご存じない方は多いでしょうからご説明も仕上げますが、

この
黄線の南は、大体、有明海が入っており、それが海退により水田に成っているのです。この益城から南は古代日向の国から米良を経由し人吉から八代を経て北上して来た大山祇系氏族が定着し、一分が更に北上し、筑後、筑前に拡がって来たと考えるのです。
何故、そう言えるかと言うと、益城町の西隣の嘉島町にはご丁寧にも「北甘木」という地名が在るからです。

さて、ここからは、一部、他人の説を交えて説明しますのでご了解の上お考え下さい。
益城町の南に朝来山が在ります。

この朝来山が大山祇系地名なのです。当然、もうお気づきの方も居られるでしょう。
旧甘木市は現朝倉市の甘木町なのです。その朝倉市のべつの表記が朝来でもあるのです。
兵庫県の日本海側但馬の国の同じ県ながら播磨との国境に在るのが、「天空の城」で知られる朝来(アサゴ)市の竹田城跡なのです。

そして、朝来市の南の兵庫県養父市の市役所の前の交差点に「朝倉」とか「天子」(アマゴ)とか言った交差点があり、戦国期の浅井朝倉連合軍の朝倉氏の出身地とされる看板までが掲げられているのです。
ここでは養父市の中心部に朝倉という字地名があり朝倉と言う交差点があることをお知らせします。

朝来市から養父市への幹線道路の終点付近にこの交差点があります 養父市八鹿町朝倉
まず、兵庫県にある播磨と但馬の国境に朝来山があることを見て下さい。全てはここから多くの連想が走ったのです。
朝来山(756.5m)展望の丘から竹田城址を望む 2014年10月17日(金)
朝来山(あさごやま)は但馬(たじま)南部の和田山の南に位置し、近年、天空の城ラピュタとして有名になった竹田城址の展望台だ。立雲峡(りつうんきょう)から朝来山へ登るつもりだったが、竹田から与布土(よふど)へ向う県道に入ると立雲峡へ通じる林道が工事通行止めだ。近くに駐車場が見当らないので与布土方向へ直進、峠手前を右折して南但馬自然学校から朝来山へ登ることにした。自然学校の駐車場を利用させていただき、本館で懇切丁寧な説明を受け、拝借した入山許可証を首に掛けて出発だ。

「老若男女のハイキング・山紀行」より
近年、「天空の城ラピュタ」として人気沸騰の和田山の竹田城ですが、数年前に竹田城まで車で登り、眼下に広がる和田山の山間沃土を眺め驚嘆したものでした。
既に五回ほど但馬地方の調査に入っていますが、九州からは姫路辺りから播丹自動車道で北に向かうのが普通のコースであり、その峠を越えたあたりにあるのが朝来市です。
調査が日本海側の海岸部や養父市周辺に集中していたこともあり、実のところ、当方もほとんど手抜きしていたのが朝来市一帯でした。
さて、熊本市の南隣接する益城町の南の端に朝来山が在るのがお分かりになるでしょう。

ただ偶然の一致として無視される方は、それはそれで一向に構いませんが、では、次の地名対応をどのようにご覧になるでしょうか? もし、対応する地名群としてなら受け容れられるのであれば、益城町の朝来山にそのような対応する地名群が認められるでしょうか?
AI による概要
兵庫県養父市八鹿町の朝倉地域が、戦国大名・越前朝倉氏の出身地です。朝倉氏は古くは日下部氏を称していましたが、平安時代末期に朝倉高清がこの地を苗字として称するようになったとされています。
AI様は、“兵庫県養父市八鹿町の朝倉地域が、戦国大名・越前朝倉氏の出身地です。”としていますが、そんなものは福岡県朝倉市の朝倉こそが越前朝倉氏の直接的な出身地であり、それ以前のルーツを西都市まで探っているのです。詳しくは以下を検索しお読みください。
ひぼろぎ逍遥
146 | 「朝来」地名について B “朝倉氏と小佐氏” |
145 | 「朝来」地名について A “但馬、朝倉、養父、志波” |
144 | 「朝来」地名について @ “兵庫県朝来市の朝来山から” |
さて、ここから話を少し変えます。
我々が大山祇系氏族、民族の展開地と考える朝倉市には、朝倉町はもとより、志波地区が在ります。戦国武将の朝倉氏=朝倉義景は、室町時代は守護大名の斯波氏の臣下と言われているのです。
以下、『ウィキペディア(Wikipedia)』20251124 16:03による
斯波氏(しばうじ、しばし)は、武家・華族だった日本の氏族。室町幕府将軍足利氏の一門で細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲したが、戦国時代になると越前は守護代朝倉氏に、遠江は今川氏に奪われ、尾張の織田氏に擁されるも戦国末期に織田信長に放逐されて滅亡した。
では、朝倉市の地図をご覧ください。志波柿の産地で知られる志波(シワ)地区が在るのです。

この事でも明らかなように、守護大名の斯波の臣下が朝倉氏であり、朝倉義景は金ヶ崎城を捨てさらに奥の福井県大野市に立て籠もるも織田、徳川の軍門に下ったのでした。彼らも大山祇系のトルコ系匈奴だったのです。


にお読み頂き有難いと思っています。




←尻合わせ三つ葵紋(神殿上部)





熊本県玉名市の新幹線玉名駅の付近にも石貫地名があり(石貫横穴式石室古墳)、大山祇が玉名から古代日向の西都市に移動したように見えるのです。実はこの「石貫」が中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区に位置する自治県に在るタシュクルガンと呼ばれるトルコ系匈奴の本拠地の名称の中国表記が 



















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