2026年08月03日

ひぼろぎ逍遥1142 筑豊から柏崎刈羽に逃亡した物部氏が徳川氏になった!? ❷

ひぼろぎ逍遥1142 筑豊から柏崎刈羽に逃亡した物部氏が徳川氏になった!? ❷


(先行改訂再掲載版=新ひぼろぎ逍遥には順次掲載予定) 2016010520251231

    太宰府地名研究会 古川 清久


新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。

休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。

場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。

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物部神社正面 物部神社 カーナビ検索 新潟県柏崎市西山町二田607-2


これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。

立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。

尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。ここまでは10年前のブログ ひぼろぎ逍遥295 北北東に進路を取れ! N 柏崎刈羽に筑豊から展開した二田物部を確認した の一部です。

 そこで、ここからは、この話の裏取をして行きましょう。

 まずは、その物部氏はどこからやって来たのかを探るところから始めましょう。

 既に申し上げた通り、筑豊の物部25部族だろうとしましたが、実際には北部九州の東部域(つまり三郡山以東の北九州市を含むエリアです)、一般的には筑豊地方は北九州市を除く飯塚市、宮若市、嘉麻市田川市、中間市、直方市に加えて多くの町村の様に思われていますが、次の物部25部族展開図の中に現在の北九州市の一部が含まれている様に、筑豊とは、所詮、明治以降の概念であって、古代には対応しませんのでその程度の意味として理解して下さい。

中でも徳川家に直接関係が在りそうなのは二つです。[二田物部](ふた) 鞍手郡小竹町新多二田ケ浦 と[筑紫贄田物部](ちくしのにぎた) 鞍手郡鞍手町新北 です。


小竹町と鞍手町とは隣接しており、飯塚市の北側の町とでも表現しておきましょう。

実際には、googlマップなどで検索して下さい。

ただ、物部氏は半島から入ってきているという説と、大山祇の本拠地としての宮崎県西都市に拠点を置き、九州の東岸から北上した人々と西岸を北上した人々があったとの説があり、最終的に橋頭保を確保して以降は半島経由でその北の遼寧省辺りから直行する人々が増えてきたはずなのです。

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以上は、無題.png敬愛するHP「倭国九州王朝」様より

念のため物部研究者の推定をもう一つご紹介します物部氏分布 様より


一目瞭然で、[遠賀川流域][鞍手町][宮若市]周辺に多いことがわかるしかも、なぜか[遠賀川]西岸に偏る、「津」地名も確かに遠賀川西岸に顕著遠賀川東岸に別の勢力がいた可能性、[スサノオ][物部世真古.icon]遠賀川の川筋者、筑豊、北九州のヤンチャさは炭鉱よりもっと古い物部氏の名残かもしれない?遠賀川の川筋者が物部氏由来であれば、その理想像は当地出身の[高倉健]さんであろう。「高倉健」という名も、[岡垣町][高倉神社]=[タカクラジ][草薙剣]にも関わり、不思議な縁がある

 [天物部二十五部]

[二田物部](ふた) 鞍手郡小竹町新多二田ケ浦  [当麻物部](たぎま) 未詳

[芹田物部](せりた) 宮若市芹田        [鳥見物部](とみ) 直方市頓野

[横田物部](よこた) 飯塚市横田        [嶋戸物部](しまと) 遠賀郡遠賀町島門

[浮田物部](うきた) 未詳           [巷宜物部](ちまたき) 未詳

[足田物部](あしだ) 未詳、鞍手郡疋田説あり  

[須尺物部](すさか) 糟屋郡粕屋町酒殿     [田尻物部](たじり) 未詳、みやま市田尻?

[赤間物部](あかま) 宗像市赤間        [久米物部](くめ) 未詳、糸島市久米?

[狭竹物部](さたけ) 鞍手郡小竹町       [大豆物部](おおまめ) 嘉穂郡桂川町豆田

[肩野物部](かたの) 北九州市小倉北区片野   [羽束物部](はつかし) 遠賀郡岡垣町波津

[尋津物部](ひろつ) 鞍手郡鞍手町八尋?    [布都留物部](ふつる) 鞍手郡鞍手町古門?

[住跡物部](すみと) 未詳 [讃岐三野物部](さぬきのみつの) 未詳、福岡市博多区美野島?

[相槻物部](あいつき) 朝倉市秋月?

[筑紫聞物部](ちくしのきく) 北九州市小倉南区企救

[播麻物部](はりま) 未詳、筑紫野市針摺?針磨とも書いた

 [筑紫贄田物部](ちくしのにぎた) 鞍手郡鞍手町新北

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無題.png御覧になってお分かりと思いますが、新多、新延、新北…と「新」と書いて、二、ニイ、ニュウ…と発音するヨーロッパ系の言語が持ち込まれている可能性があるのです。

 その象徴的な場所が、宮崎県の宮崎市の北隣…大山祇の本拠地西都原からも近い宮崎県新富町に航空自衛隊新田原(ニュータバル)基地が在りますよね。

 勿論、福島県の(しんでんはら)南会津郡南会津町、しんでんばる、福岡県行橋市のしんでんばる(ここも何故か空自の築城基地があります)、長崎県諫早市小長井町に(しんたばる)地名があります。

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我が百嶋神社考古学では大山祇系は伽耶の金海金氏が天御中主命(水天宮様)との間で派生した氏族と考えていますが、前ブログでも書いた通りトルコ系匈奴(東西分裂後の南北分裂によって生じた王昭君の一族)と考えています。

 ただ、オスマン朝、セルジューク朝以前のトルコ(チュルク)民族はオグズ族とも呼ばれアラル海周辺からパキスタン辺りまで展開していた民族で、直接的には半島から列島に移住してきた天孫族以前の国ツ神とされた人々で、熊本県玉名市(石貫)から宮崎県西都市(石貫)に展開した稲作を行わない人々だと考えています。

 当然にも、イラン(現在、偉大なアーリア系民族…というナチス ドイツの扇動のためアーリアと言う概念が否定されていますが、イランはアーリアンのイラン風の読みであって、イランはインド同様のヨーロッパ系民族なのです)はペルシャ(プルシャプラ)と混血を続け、実質的にはヨーロッパ系言語も取り込んでいるのです。アフガニスタンの主要民族パシュツーンもペルシャです。

 この大山祇系民族の本拠地にニュータバル基地が存在するのですから、「新」「仁」「二」と書いて、「ニュウー」とか「ニイ」、「ニフ」…などと呼ばれる地名が九州から関東まで拡がっているのです。

 それを何でも中央構造線の丹生地名で説明しているのが進歩のないお師匠さんの説を引き継ぐだけの通説派の学者は一本足打法で説明しているようです。

 特に、新多、新延、新北は我々が「ニュウ」地名と呼ぶ「新」を「ニュウ」と発音する痕跡地名であり、九州王朝論者の間では、「新北」は佐賀県の佐賀市諸富と併せ、小竹町の「新多」を充てる説も出され議論が沸騰したのも二十年前の話です。白村江の海戦に愛媛から関門を抜ける無題.pngとは思えませんが通説派はどうしても畿内に近い所を主張するのです。

「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」

口語訳現代文 熟田津で船に乗ろうと月が出るのを待っていると、潮の流れも(船出の条件と)合致した。さぁ、今こそ漕ぎ出そう。

額田王(ぬかたのおおきみ)とか斉明天皇が詠んだ歌とされ、一般には熟田津(にきたつ)は道後温泉あたりなのではないかと言われています。まあ、通説派の説ですが、そことて、九州王朝の本拠地なのです。遠賀川流域を探ると、これ以外にも「新」地名は在りますので探してください。

一例ですが、直方市の上下新入(シンニュウ)地名などをご紹介しておきます。特に小字を…。

 さらに、筑豊の物部氏は筑後川流域から北上してもいるようで、それは故)谷川健一もそういっています(これについては直接聴いています)。

 そこで、我が百嶋神社考古学しか言っていない話を致しましょう。

 熊本市の南、熊本地震で犠牲になった熊本県「益城町」、福岡県現朝倉市の旧「甘木市」、同じく福岡県飯塚市の「馬敷」が全て物部氏の北上した痕跡地名であり、同一の地名だと考えているのです。これが、東海道の三島女郎衆の三島(大山祇神社)から伊豆への「天城越え」にまで成っているのです。

 以下ご説明申し上げます。故)百嶋由一郎は“「甘木」をアマギと読んではいけません。ウマシキと読みなさいと言っておりました。

 甘いと旨い(ウマイ)であり、甘木とはウマシキの意味なのです。つまり、益城町のマシキはウマシキ=マシキであり、飯塚市の「馬敷」はそのままウマシキなのであり、これは大山祇系の北上した痕跡地名なのです。

 益城町をご存じない方は多いでしょうからご説明も仕上げますが、

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この無題.png黄線の南は、大体、有明海が入っており、それが海退により水田に成っているのです。この益城から南は古代日向の国から米良を経由し人吉から八代を経て北上して来た大山祇系氏族が定着し、一分が更に北上し、筑後、筑前に拡がって来たと考えるのです。

 何故、そう言えるかと言うと、益城町の西隣の嘉島町にはご丁寧にも「北甘木」という地名が在るからです。

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さて、ここからは、一部、他人の説を交えて説明しますのでご了解の上お考え下さい。

 益城町の南に朝来山が在ります。

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この朝来山が大山祇系地名なのです。当然、もうお気づきの方も居られるでしょう。

 旧甘木市は現朝倉市の甘木町なのです。その朝倉市のべつの表記が朝来でもあるのです。

 兵庫県の日本海側但馬の国の同じ県ながら播磨との国境に在るのが、「天空の城」で知られる朝来(アサゴ)市の竹田城跡なのです。

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そして、朝来市の南の兵庫県養父市の市役所の前の交差点に「朝倉」とか「天子」(アマゴ)とか言った交差点があり、戦国期の浅井朝倉連合軍の朝倉氏の出身地とされる看板までが掲げられているのです。

ここでは養父市の中心部に朝倉という字地名があり朝倉と言う交差点があることをお知らせします。

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朝来市から養父市への幹線道路の終点付近にこの交差点があります  養父市八鹿町朝倉


 まず、兵庫県にある播磨と但馬の国境に朝来山があることを見て下さい。全てはここから多くの連想が走ったのです。


朝来山(756.5m)展望の丘から竹田城址を望む   2014年10月17日(金)


 朝来山(あさごやま)は但馬(たじま)南部の和田山の南に位置し、近年、天空の城ラピュタとして有名になった竹田城址の展望台だ。立雲峡(りつうんきょう)から朝来山へ登るつもりだったが、竹田から与布土(よふど)へ向う県道に入ると立雲峡へ通じる林道が工事通行止めだ。近くに駐車場が見当らないので与布土方向へ直進、峠手前を右折して南但馬自然学校から朝来山へ登ることにした。自然学校の駐車場を利用させていただき、本館で懇切丁寧な説明を受け、拝借した入山許可証を首に掛けて出発だ。

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「老若男女のハイキング・山紀行」より

近年、「天空の城ラピュタ」として人気沸騰の和田山の竹田城ですが、数年前に竹田城まで車で登り、眼下に広がる和田山の山間沃土を眺め驚嘆したものでした。

既に五回ほど但馬地方の調査に入っていますが、九州からは姫路辺りから播丹自動車道で北に向かうのが普通のコースであり、その峠を越えたあたりにあるのが朝来市です。

調査が日本海側の海岸部や養父市周辺に集中していたこともあり、実のところ、当方もほとんど手抜きしていたのが朝来市一帯でした。

さて、熊本市の南隣接する益城町の南の端に朝来山が在るのがお分かりになるでしょう。

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ただ偶然の一致として無視される方は、それはそれで一向に構いませんが、では、次の地名対応をどのようにご覧になるでしょうか? もし、対応する地名群としてなら受け容れられるのであれば、益城町の朝来山にそのような対応する地名群が認められるでしょうか?


AI による概要

兵庫県養父市八鹿町の朝倉地域が、戦国大名・越前朝倉氏の出身地です。朝倉氏は古くは日下部氏を称していましたが、平安時代末期に朝倉高清がこの地を苗字として称するようになったとされています。


 AI様は、“兵庫県養父市八鹿町の朝倉地域が、戦国大名・越前朝倉氏の出身地です。”としていますが、そんなものは福岡県朝倉市の朝倉こそが越前朝倉氏の直接的な出身地であり、それ以前のルーツを西都市まで探っているのです。詳しくは以下を検索しお読みください。


ひぼろぎ逍遥

146

「朝来」地名について B “朝倉氏と小佐氏”

145

「朝来」地名について A “但馬、朝倉、養父、志波” 

144

「朝来」地名について @  “兵庫県朝来市の朝来山から”


 さて、ここから話を少し変えます。

 我々が大山祇系氏族、民族の展開地と考える朝倉市には、朝倉町はもとより、志波地区が在ります。戦国武将の朝倉氏=朝倉義景は、室町時代は守護大名の斯波氏の臣下と言われているのです。

以下、『ウィキペディア(Wikipedia)』20251124 16:03による

斯波氏(しばうじ、しばし)は、武家・華族だった日本の氏族。室町幕府将軍足利氏の一門で細川氏・畠山氏と交替で管領に任ぜられる有力守護大名であった。越前・尾張・遠江などの守護を世襲したが、戦国時代になると越前は守護代朝倉氏に、遠江は今川氏に奪われ、尾張の織田氏に擁されるも戦国末期に織田信長に放逐されて滅亡した


 では、朝倉市の地図をご覧ください。志波柿の産地で知られる志波(シワ)地区が在るのです。

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この事でも明らかなように、守護大名の斯波の臣下が朝倉氏であり、朝倉義景は金ヶ崎城を捨てさらに奥の福井県大野市に立て籠もるも織田、徳川の軍門に下ったのでした。彼らも大山祇系のトルコ系匈奴だったのです。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記

2026年08月01日

ひぼろぎ逍遥 1141 筑豊から柏崎刈羽に逃亡した物部氏が徳川氏になった!? ➊

ひぼろぎ逍遥 1141 筑豊から柏崎刈羽に逃亡した物部氏が徳川氏になった!? ➊


(先行改訂再掲載版=新ひぼろぎ逍遥に順次掲載予定)     2016010520251120

    太宰府地名研究会 古川 清久


新潟の彌彦神社へと快調に走っている途中、有名な東京電力(株) 柏崎刈羽原発の辺りを通過していると、二田という地名と物部神社という表示がカーナビに飛び込んできました。

休憩も必要ですからこれ幸いでもあり、まずは見聞とばかりにハンドルを右に切りました。

場所はこれまた有名な出雲崎町の手前、柏崎刈羽原発の北東五キロほどの旧西山町です。

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物部神社正面 物部神社 カーナビ検索 新潟県柏崎市西山町二田607-2


これほどはっきりした幟を揚げた物部神社も珍しいと思いますが、この「二田」が筑豊の物部25部族(「先代旧事本記」)の移動先の一つである福岡県鞍手郡小竹町新多=二田(ニイタ)であることは疑いようがありません。

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遠来の地であり軽々には語れないのは重々に分かっていますので、ここでは、筑後物部の筑豊への、さらには日本海側への展開の一例を発見したとだけとして、これ以上の深入りを止めておきますが、一目、社殿の造りは筑後物部の鞘殿の様式と見たいところです。

 ただ、雪深い土地柄ゆえの鞘殿かも知れないため単純な当て嵌めも危険かもしれません。

当然、ガラスの温室風の参拝殿も寒さ対策としての土地柄のもたらすものの可能性も考えておくべきでしょう。

ここで面白いと思ったものに、社殿に付された神紋がありました。これまた、一目、徳川葵の原型とも言うべきものに見えるのですが、注意すべきは、この神紋が中世の豪族の物であるのか、古代に入った物部氏の一派が使っていた物かが分からないのが残念な限りです。

ここら辺りになると地域の文化、歴史への体系だった知識の蓄積がなければ判断できない領域になるのです。

いずれにせよ、物部氏が後の武士階級に成長した可能性を示すものであり、その裏付けを発見したと言いたいところですが、当面は保留を余儀なくされそうです。

地元の郷土史家などとの接触も必要ですが、ただの物見遊山の旅人の質問においそれと耳を貸す識者もいないでしょう。

しかし、物部氏から「モノノフ」と言う言葉が生まれ武士が生まれたとするのは痛快な仮説ではあります。

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立ち葵から三つ葉葵さらに徳川葵への変化の一つを表すものであれば興味深いものです。

尻合わせ三つ葵紋は徳川氏=松平氏がその初期に使っていた形跡があるようで、面白くなって来ました。

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ここで、いつも参考にさせて頂いている「苗字と家紋」… 無題.png に助っ人を頼みたいと思います。以下。

無題.png徳川家の三葉葵紋
 一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」という 決め台詞が有名だ。

無題.png←尻合わせ三つ葵紋(神殿上部)

徳川家の三つ葉葵の原形は、二葉葵といわれている。この二葉葵を紋章とするのは、だいたいが加茂明神信仰から出て いる。二葉葵は京都の賀茂神社の神事に用いられてきやもので、別名カモアオイともいわれる。そして、加茂祭には 必ずこの二葉葵を恒例の神事よして用いたことから、この祭を葵祭という。
 このように葵は、加茂祭に用いた零草であるため、この神を信仰した人々がこの植物を神聖視し、やがて、 これを家紋としたことは当然のなりゆきと言える。『文永加茂祭絵巻』に、神事の調度に葵紋が用いられているのが 見られる。このころから家紋として用いたようだ。 ………
・写真:上賀茂神社の紋-二葉葵
 葵紋が武家などの家紋となったのはかなり古い。『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。このなかで、本多氏の場合「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』にある。このことから、本多氏の祖先が賀茂神社の神官の出であることにちなんだことが知られる。………
・家紋:立ち葵紋
 同じく、松平氏が葵紋を用いたのも加茂神社との関係に基づいたもののようである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は加茂朝臣と称しており、加茂神社の氏子であったことがある。これは松平三代信光が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあることでもわかる。このように、松平氏は加茂の氏子として葵紋を使っていた。その葵紋は二葉か三葉か確たるところはわからない。
 しかし、徳川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」または「一引両」である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすればさきのいずれかでなくてはならない。松平氏に婿入りしたためにあえて新田の家紋を使わなかったのであろうと思われる。また、三代・信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着していなかったようにも思われる。

以上が10年前の掲載分

この点に関しては我が百嶋先生もお気づきだったようです。新田は○に(一引)です。

 一方、同族と言われる足利氏も群馬県新田の東隣、栃木県足利に展開しているのです。〇に(二引)。徳川が新多(田)物部→二田物部→新田氏起源を『見聞諸家紋』は伝えている訳です(源義家後裔)。また別の方向から百嶋先生の資料から葵のヤタガラス神紋系譜をご覧いただきましょう。

これで、この二田(新多)物部からその延長が判れば良いのですが、大まかには大山祇系氏族が主力だったのではないかと考えています。上賀茂=崇神の系統の可能性も在るようです。

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百嶋由一郎「ヤタガラスバリアシオン」神代系譜


「物部」とは職能集団であり、多くの民族(氏族)の複合体ですが、この二田物部がどの系統であるかを考える際に、この神紋から大枠では大幡主系と考える価値はありそうです。

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そもそも徳川家の三葉葵の紋章の根源には二葉葵が有ります。そこから徳川氏が何者かも見えてきます。


フタバアオイ(二葉葵、双葉葵、学名: Asarum caulescens)は、ウマノスズクサ科カンアオイ属に分類される落葉性(秋に落葉するが根茎が残る)の多年草の1種である。茎は地上を這って節から根を生じ、先端に2枚の葉をつける。葉は長い葉柄をもち、葉身はハート形(図1)。3枚の葉を図案化したものが徳川家の「三つ葉葵」である。花期は春、花は椀状で紅紫色、下向きに咲く(図1)。果実はさく果、種子はエライオソームをもつ。日本および中国南部に分布する。京都賀茂神社との関わりが深く、賀茂祭は葵祭ともよばれる。…分布・生態

日本の本州(福島県以南)、四国、九州、および中国南部(甘粛省、陝西省、湖北省、四川省、貴州省)に分布する。       ウイキペディア「双葉葵」で検索した(2025 1119 1009)による


なお、上記の中国南部に雲南省が入っていないため改めて雲南省と双葉葵で検索しました。すると、「雲南産のウマノスズクサ科カンアオイ属」出て来ます。

カンアオイで検索すると想定していた雲南省と海南島(海南省)まで出てくることから、百嶋神社考古学が想定する雲南省昆明から紅川(ファンガ)を降りハノイから海南島東南部に避退し熊本に入った白族の人々こそが京都の下賀茂を拠点に九州王朝崩壊後を生き抜き阿蘇氏=藤原を追い落とした関東武士団を束ね鎌倉〜室町〜戦国期を乗り越え、徳川への武家の千年王国を築いた人々のバックに居たという百嶋想定を裏付けている事に符合する事が分かってきました。そのためこの葵の紋章に拘ったのでした。

右別れ立葵は大山祇系(関東武士団の主力)、二葉葵は、カミムスビ系(関東武士団を背後で操り情報戦で闘い続けた八咫烏=カミムスビの息子〜後裔氏族):橘一族、岩清水八幡宮、鶴岡八幡宮。対して藤原氏は雲南省麗江から瀾滄江(メコン河)からホーチミンそして海南島南東部〜阿蘇に進出した黎族

柏崎刈羽原発から5キロ程度の旧刈羽郡西山町(田中角栄の出身地ですね…ただ、この手の話は対象外ですので進みません。筑後の田中義政は蘇我氏との印象を持ちますので(彼も湿地帯の水郷の柳川を治めるために送り込まれたのでしょう)支配者側かも知れませんが、彼のご先祖様は筑豊からの亡命者と何らかの関係があったのです。この二田物部神社を発見したのは十年前の事でした。

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ここで徳川家の三つ葉葵を発見したのは驚きました。何故、徳川家はこの神社を厚遇したのでしょう。

瞬間、徳川家とは、そして関東武士団のかなり部分がもしかしたら筑豊から逃亡した物部氏だったのではないかという思いが走ったのでした。

 大半の方は蘇我氏と物部氏の内紛は畿内で勃発したと思われているかも知れませんが、6世紀半ばの内紛でそれは九州王朝内の真っただ中の時代で、その舞台とは北部九州だったに決まっているのです。

 少なくとも、ここに住み着いたのは筑豊の巨大湿原から同じく人が好んで住み着かない南魚沼郡の空白地に住み着いた人々だったはずなのです。

 だからこそ、大分県の瀬戸内海沿岸を除き今でも九州全域に色濃く残るO音をU音で代用する(沖縄の三母音の延長とされますが…)「魚」(ウオ)の字が充てられ「ウーヌマ」と呼ばれたのです。

大事を「ウーゴツ」、オッタマゲタを「ウッタマゲタ」、トガ(栂)を「ツガ」と言語上の東西対抗。

これこそ九州から敗残した亡命者が如何に多かったかが良く判る金石文的な物証の様なものなのです。

 そこに、何故か徳川家の家紋=松平、本田の古い家紋尻合わせ三つ葉葵が神殿上部に、参拝殿に水戸黄門の三葉葵の垂れ幕が掲げられていたのです。

 以前からと言っても、江戸の開府以来なのでしょうが、藤原が厚遇した神社に対し、寺院を厚遇し神社を抑え込んだ徳川時代の事、地方の一般の神社に三つ葉葵の御紋など使用させるはずは無いからです。

これは続編の世良田東照宮に続くブログで更にご説明させて頂きますが、今は、逸る想いを抑え、少しずつ説明することに致しましょう。

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祭神   二田天物部命(フタタアマツモノノベ) 物部稚桜命(モノノベオサナザクラ)

   建御名方命(タケミナカタ)      宇摩志麻遅命(ウマシマジ) 正しく物部氏です


社伝によると、天孫降臨の後、当社祭神・二田天物部命は、天香山命とともに当地に来臨。

その上陸の地を天瀬(尼瀬)という。

居るべき地を求めていた時に、多岐佐加の二田を献上する者あり、その里に家居したという。

後、当地で薨じ、二田土生田山の高陵に葬られた。

崇神天皇の御宇、十二世の裔孫・物部稚櫻命、神託により御社を石地より南大崎の浦に遷し、その着船の山を船岡山という。

社伝も先代旧事本紀風のタッチで書かれていますね。


二田物部神社は延喜式内社で大和朝廷より越後の国に弥彦の神様とともに使わされた 二田天物部命を奉る古い神社であります。

 越後二の宮の称号を与えられるなど江戸時代には越後十八社の一つに数えられ越後の 人々の信仰を集めてきた名祠で、戦国時代の武将の領地の寄進や朱印状、起請文(神仏に 自分の言動に偽りのないことを誓ったもの)にも弥彦神社とともにその名がよく見られる。 今から二〇〇〇有余年前の大崎浦にみやしろを建てた時から今日まで連綿として歴史を刻 んでおります。−由緒書きより−


                              敬愛する「玄松子」様による


 では、二田、仁井田、仁田、新多、新田、新井田…で表記される二田物部の進出地を考えましょう。

 まずは、大山祇の墓とも言われる伝大山祇古墳が在る宮崎県西都市から始めざるを得ません。

西都原第二古墳宮に近い航空自衛隊新田原基地(ニュータバルキチ)や、宮崎県児湯郡新富町新田新町(コユグンシントミチョウニュウタシンマチ)九州から関東まで多過ぎるので一部をご紹介。

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御祭神 大山祇命 石貫神社は、天平5(733)の創建と伝えられる古社です。古くは日能若宮、又は石貫大明神と称されていました。創建時の記録「日能若宮元元由来記」によれば「大山祇命(中略)阿佐久良山?木原五百世山元築波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺称と伝えられています。…神社の西側には169段もの石貫階段があり、御祭神の大山祗命の御陵とされる大山祗塚へと続いています。例大祭の1129日には、大山祇塚の前でも神事が執り行われています。


 無題.png熊本県玉名市の新幹線玉名駅の付近にも石貫地名があり(石貫横穴式石室古墳)、大山祇が玉名から古代日向の西都市に移動したように見えるのです。実はこの「石貫」が中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区に位置する自治県に在るタシュクルガンと呼ばれるトルコ系匈奴の本拠地の名称の中国表記が 石頭城、石城山なのです。謎の古代史跡とされる神籠石にも石城山神籠石が在りましたね(山口県光市〜多布施町)。故)百嶋由一郎は、大山祇は冒頓単于に送られた王昭君の系統の南匈奴の末裔=金海金氏としていました。彼らは、漢帝国を圧倒していた時代から武帝に追い落とされる前後から東西分裂が起こり、残った東匈奴の南北分裂によって半島に移動した南匈奴=後のウマシアシカビヒコジの一族としていました(漢帝国への徹底抗戦派が後のフン族に成ったとも聞きます…)。実はこの勢力が列島に大量に入っているのですが一切無視されているのです。彼らは一応トルコ系と考えて良いのですが、紀元前後より数百年の間に、ペルシャ(パシュツーーン)、イスラエル、ユダヤと、ギリシャ…タジク、キルキスと混血が進んでおり、列島に移動する頃には列島は民族の坩堝と化しつつも、山深く谷、沢の険しい列島の地形によって多くの民族が大規模な衝突を起すこともなく、長い年月を掛けて融合していったのです。

 そして、関東武士団の主力が八咫烏系氏族と姻戚関係を結んだ大山祇系氏族であり、その背後で連携し情報収集と組織化に動いたのが橘一族であり伊勢の八咫烏系氏族だった様に見えるのです。

 八咫烏バイアシオン系譜の黄枠で囲んだ部分に象徴されるのが関東武士団の背後にいた下賀茂神社、岩清水八幡宮、没落した伊勢神宮に依拠した橘一族を中心とする人々だったのです。

 そして、太平洋側の三島から日本海側の黒部を結ぶラインで大山祇系氏族によって畿内勢力を遮断し東国武士団の意思を阿蘇系の藤原残存勢力に圧力を加えていったのだと思うのです。

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2026年07月31日

ひぼろぎ逍遥 スポット328  “(跡宮)A1145 「鳥海」❹ 鳥海の周辺の転載”

ひぼろぎ逍遥 スポット328  “(跡宮)A1145 「鳥海」 鳥海の周辺の転載”

        20260627

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1145

「鳥海」 安倍の宗任の先祖は有明海側から兵員を送った事を知っていたか…? 鳥海の周辺

       太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


 佐賀県で黒尾神社をGoogleで検索すると、武雄市に集中し5社ほどの神社が出てきます。

 名称だけで拾っている訳ではないようで、武雄神社は武雄心命(通説では山下影姫との間に武内宿禰を儲けたとする)を祀っているとしますし、その北の黒尾神社は山下影姫を主神としています。

一番西の黒髪神社は鎮西八郎為朝(源為朝)伊邪那岐命、伊邪那美命、天照皇大神 三柱を祀る神社ですがGoogleは拾っているのです(底流には消された神が在るのかも知れません)。

社名で検索するか祭神名で検索するか更には合祀もあり、隠蔽もあるはずで一概には言えないのですが、武内宿禰、山下影姫、武雄心命…の不確かで偽装された祭神の出身地(勿論、移動も在ります)

を判断することはかなり難しい作業に成ります。

ただ、今回の話はこれまでの阿倍宗任の探索が主題と成りますので、その範囲で考える訳です。

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ただ、我々百嶋神社考古学の者は、武内宿禰と山下影姫の子が武雄心命だなどとは考えていませんので、その点からお話を始める事になります。

 故)百嶋由一郎は、第8代孝元天皇と山下影姫との間に生まれたのが大彦と武内宿禰だとするのです。そして、武内宿禰の兄の大彦が安部宗任の祖先になると考えているのです。

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百嶋由一郎 俗称金神神代系譜


 お分かりでしょうか?百嶋神代系譜でも最も難解なものに成ります。

 百嶋神代系譜は久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」に基づいて作成されていますから、高良大社に三代続いていたと考えられる7代孝霊、8代孝元、9代開化の流れの中で成立した政権がその本拠地を久留米に置いていた事は明らかで、その痕跡は第8代孝元天皇が、現在でも高良下宮社の主神と成っている事でも良く理解できます。

 その筑後川を挟んだ正面の佐賀県側に千栗八幡宮が在り、その境内社武雄社に孝元天皇と山下影姫が夫婦であったとの記録が存在しているのです(黄枠のメモ 現在確認中)。

 本系譜の真ん中上部にはオキツヨソタラシヒメが書かれていますが、ナガスネヒコの妹です。神武天皇(カムヤマトイワレヒコ=神武僭称贈る崇神ハツクニシラススメラミコトではない)とナガスネヒコの衝突によってその妹オキツヨソタラシヒメは草部吉見の戦利品になりますが、その後、放置されたため八咫烏のお妃と成りその間に生まれた葛城高千那姫の娘が山下影姫で、孝元天皇の子として生まれるのが後の奥州安倍氏の大彦(日本海ルートの四道将軍)でその弟が武内宿禰なのです。

 当然、有明海沿岸に居たわけで、すると、武内地名と武内神社が残る武雄市武内町や偽装に使われた屋主忍武雄心命を祀る武雄神社が俄かに重要になる事はお分かりに成るでしょう。

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これについては、当会の中京地区ビューローでメンバー山田氏の やまちゃんブログ第五十話  「孝元天皇」(1をお読みください。


生年は故百嶋氏推定

前話では、宇摩志麻治命と壱與によるスサノオの復権と「狗奴国」の復活について記述しました。

孝元天皇の治下では、瀛氏金山彦の擡頭が始まります。それを表わした系図が上記の「金神系

図」です。

北熊本から筑後地方に信仰されているのが「金神信仰」で、神様は「金山彦」です。

金山彦の別名に「珍色許男(うずしこお)」があります。

神武天皇に反逆した長髄彦の母は金山彦の娘櫛稲田姫です。長髄彦が母方の名を名乗る際は「彦

国瀛津彦(ひこくにおけつひこ)」或いは「瀛氏統領の名珍彦(うずひこ)でした。

「瀛氏統領珍彦」の名は以下の人物に引き継がれます。

@長髄彦の御子 「彦太忍信命(ひこふとおしのぶのみこと)」別名「内色許男命(うちしこお

のみこと)」

A彦太忍信命と豊玉彦の娘葛城高千那姫こと菅忍姫との御子「屋主忍男武雄命命(やぬしおしお

たけおこころのみこと)」 屋主忍男武雄心命は後に孝元天皇の養子に迎えられます。

B屋主忍男武雄心命の弟甘美内宿禰(うましうちすくね)

兄屋主忍男武雄心命が孝元天皇の養子に入り、皇子となったため、急遽「瀛氏統領珍彦」を継

承。「宿禰」の姓は「天皇の皇子の弟」であるが故に「宿禰」の姓が与えられたと考えられま

す。

C孝元天皇と山下影姫との皇子「武内宿禰」

武内宿禰の名は、臣下に降った事によります。

皇后・妃と皇子・皇女 故百嶋氏のメモ

『古事記・日本書紀』による系譜の捏造 

1.『古事記』が記す皇后・妃と皇子・皇女

(1)穂積臣等の祖内色許男命(うちしこおのみこと)の妹、内色許売命(うちしこめのみこと)

を娶り、大毗古命(おおひこのみこと)・少名彦建猪心命(すくなひこたけるいごころのみこと)・若倭根子日子大毗毗命(わかやまとねこおおひびのみこと)の三柱。

「神々の系図−平成12年考」によると、内色許売命のまたの名は山下影姫・蘇我姫と云い、父彦太忍信命(ひこふとおしのぶのみこと祖父彦國意祁都ことナガスネヒコ、祖母は八坂刀女)と母葛城高千那姫またの名菅忍比刀iすがのおしひめ)との間に生まれた王女で、兄は屋主忍男武雄心命(やぬしたけおこころのみこと)としています。

したがって、内色許男命は彦太忍信命と同一人物と云うことになります。

ようやく「蘇我」の名が出来ます。蘇我氏は金山彦一族です。

同系図によると孝元天皇と山下影姫の御子は建内宿禰と大彦命またの名建沼河命の二柱としています。

(2)内色許男命の娘伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)を娶り、比古布都押信命(ひこふ

つおしのぶのみこと)の一柱。

(1)より比古布都押信命は内色許男命と同一人物で、『古事記』の記述は腑に落ちません。

(3)河内の青玉繋(あおたまかけ)の娘、波邇夜須毗売(はにやすひめ)を娶り、建波邇夜須毗古

命(たけはにやすのみこと)の一柱。

「神々の系図−平成12年考」によれば、「河内の青玉繋」は大己貴命と豊玉姫の王女で、

「日牟礼氏青玉繋」といい、御子に波邇夜須毗売が生まれとありますが、同系譜は捏造の可能性があります。

・日牟礼氏を祀る神社

「日牟禮八幡宮」 滋賀県近江八幡市宮内町正しくは「ネ+豊」です。

祭神:誉田別尊・息長足姫尊・比賣神

本来の祭神「青玉繋」が削られています。

写真  日牟禮八幡宮   出典:じゃらんネット

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写真 日牟禮八幡宮「萬灯祭」    出典:同社HP


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