2019年08月16日

003改 佐賀市富士町下無津呂に乳母神社が鎮座する意味 「焼き塩」

003改 佐賀市富士町下無津呂に乳母神社が鎮座する意味 「焼き塩」

20131221


太宰府地名研究会 古川  清久


全国的にも珍しい「乳母(めのと)神社」という変わった名前の神社に遭遇したのは、ほんの数か月前の事でした。

無題.png

乳母神社 カーナビ検索佐賀県佐賀市富士町大字下無津呂400


この神社の発見は、いわば、上無津呂の淀姫神社を調べていたことによる副産物だったのですが、その底流にはかなり興味深い意味があることが分かり、まずは、この僻陬の地にある古社について話をしてみることにします。

無題.pngなお、姉妹神社の上無津呂の淀姫神社、また、淀姫神社全体については、太宰府地名研究会のHPNO.31「淀姫」をお読みください。

そもそも、「乳母」とは何かが忘れられていることから、まずは、ネット上の「weblio」辞書から引用すれば、


めのと 2 1 【〈乳母〉】

(1)生母にかわって赤児に乳を与え育てる女。うば。 「ちごの―の、ただあからさまにとていでぬるほど/枕草子 25

(2)(「傅」と書く)貴人の子どもを育てる役の男性。お守り役。ふ。 「御―讃岐守重秀/平家 4


とあります。

ただ、この神社の祭神が玉依姫と大海神命(恐らく安曇磯良=アズミノイソラ=大川風浪宮の祭神)であることから、通説の神代系図を鵜呑みにすれば、ぎりぎり、玉依姫を神武天皇の母=乳母と見られないこともないことから、ギリギリ、乳母と見立ててのことのようです。

ともあれ、そう言った話は後回しにして(祭神云々についてお急ぎの方は、太宰府地名研究会HPから、「淀姫」を…)、身近な話から始めましょう。


山に住む武士と言わず、山中に住む人にとって、生活上最も必要なのは「塩」でした。

もう、「焼き塩」のことを覚えておられる方はいないでしょうが、昔は笊に焼き塩を入れて吊るし、湿気を吸って垂れてくる汁は下で大切に集められて、自家製豆腐を作る時の苦汁として使われていました(かく言う私も昭和三十年代の母の実家で見たことがあります)。

私が持っている「米朝落語全集」第六集(桂 米朝) にも、「百年目」「焼き塩」が出てきます。


同じく「weblio」辞書


やきしお ―しほ 0 【焼()塩】


焙烙(ほうろく)などで煎()った塩。苦みがとれ、風味がよくなる。古くは、素焼きの壺で蒸し焼きにした。


無題.png焙烙も忘れられているでしょうから念のために画像を出しておきます。

(ほんの五十年前まで)は、豆腐と言わず、味噌でも醤油でもコンニャクでも寒天でもトコロテンでも…何でも家で作っていたのでした。

そもそも車が普及していなかった時代には、つまり、つい最近の戦時中においてさえ、佐賀県で言えば、嬉野市と鹿島市の境の山上集落(春日、大野)では泊り込みで塩造りのための若者組の部隊を海まで送り出していたという話を聴いたことがあります。

下無津呂集落においても条件は同じで、駄賃牛、駄賃馬が塩を運んでくる時に、買いに行っていたと言う話を聞きました。

いざとなれば、直接、海水を煮炊きすれば良いのですから、海のそばの集落は塩に不自由はありませんが、数百年前を考えたとしても、車もポリ・タンクも一升瓶さえもないのですから、海水を運ぶことなど全く出来なかったはずで、本当に必要になれば、部落の若手が徒党を組み、大鍋を背負って山を登り、峠を越え、川を下り、河口などに総出で仮小屋をこさえて泊まり込み、波で打ち寄せられた木切れを拾い、流木などを集めては塩を焼き、数日掛けてようやく必要な塩を手にして帰って来ていたのではなかったかと思うのです。

無題.png
posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:06| Comment(0) | 日記

676 瀬戸石崩れ “語り継ごう…球磨川で起こった自然ダム決壊による大災害の記憶”(上)

676 瀬戸石崩れ “語り継ごう…球磨川で起こった自然ダム決壊による大災害の記憶”(上)

20181003


太宰府地名研究会 古川 清久


崩(クエ)


二百五十年前の江戸の中頃(一七五五年)、熊本県の人吉盆地から八代平野に下る球磨川の中流から下流一帯にかけて、想像を絶する大災害が起きています。

大雨による大規模な崖崩れと、言うよりも、山体崩壊ともいうべきものによって球磨川が堰き止められ巨大な天然のダムができたのですが、さらに、それが決壊することにより、河口にかけて大規模な洪水が起きたのです。これを地元では“瀬戸石崩れ”“瀬戸石崩(クエ)”と呼ばれています。

もちろん規模は違いますが、同じ江戸期の大災害、長崎県の島原半島雲仙岳の一角、眉山(マユヤマ)の崩壊によって引き起こされた大津波による大災害“島原大変 肥後迷惑”の方は比較的知られていますが、“瀬戸石崩れ”は規模は小さいのですが、なぜか、ほとんど知られていません。

まずは、地震、火山活動、大雨、台風、津波、高潮といった災禍を頻繁に受ける日本列島というものが、それらの災禍の襲来に耐えていくという宿命を背負った土地であったことを再認識させられます。

 球磨川と言えば、川辺川ダムとのかかわりの中で語られることが多いのですが、人造であれ、天然のものであれ、ダムの決壊がいかに恐ろしいものであるかということを改めて知らされます。

それはさておき、これはあまりにも知られていない球磨川沿いの瀬戸石という土地で起こった大規模な崖崩れと、それをきっかけとして引き起こされたさらに大きな大災害の話です。

 タイトルの瀬戸石はもちろん地名ですが、崩れは大規模な崖崩れのことです。

“崩れる”の古形は“崩(クエ)る(クユ)る”ですが、崖が崩れることを言います。「坂本村史」によると、瀬戸石崩(セトイシクエエ)とされ、字名にもそれが残っています。九州ではこの古形が比較的に残っている(クユルル、クユッ)ように思いますが、江戸の半ば頃に起こったことでもあり、室町以来の先進地であった八代に起こった事からか、八代の現地では“瀬戸石崩れ”と呼ばれています。

無題.png

【崩え・潰え】(クユの連用形から)崖崩(がけくずれ)。また、崖、つえ。(広辞苑)


九州の秀峰に祖母山、傾山がありますが、その一峰に大崩山(オオクエ)がありますので、この山を見られれば、意味がより鮮明になるかもしれません。


瀬戸石


八代市はこの中九州の大河=球磨川が注ぐ熊本県第二の工業都市ですが、この河口から人吉盆地に向けて遡ること二〇キロ余り、崖にへばりつくような瀬戸石という小集落があります。旧肥薩線(えびの高原線)はここでは左岸を走りますが、瀬戸石という駅もあり、比較的分かりやすい場所かもしれません。ここで取上げる瀬戸石は、この駅から二百メートルほど下流の小集落ですが、今でも十軒ほどの人家があります。

九州には石、牛、臼という地名が多くあります。いずれも急峻な崖に囲まれた臼状の窪地に付けられる地名であり、地形もそれを示しているように思います。


無題.png

瀬戸石付近


今回のレポートは、あまりにも知られていないこの大災害をお知らせする事を任務と考えますので、コメントを控えて紙面が許す限り様々な資料を掲載したいと思います。


(@)坂本村史に見る『瀬戸石崩』


瀬戸石崩れ 宝暦五年六月九日、五月中旬から降り続いた雨も六月の初めになり、殊のほか強雨となり、球磨川上流から流れてくる多量の水と、瀬戸石崩(セトイシクエ 現在の小字)の両岸の山からの山崩れで土や石が川に落ち込み、流れを止めて、一時的に「ダム」となった。このありさまを肥後国誌には、「高さ二百間、横百五十間程崩落、川向ニ有之候山ニ右之崩先山高二百間、横約百間程突上、是亦崩落、球磨川突埋」と記されている。しかし上流から流れ来る水量に持ち切れず「ダム」は決壊し、そこから流れ出た水は激流となって下流の村々に古今未曾有の甚大な災害をもたらしたのである。これを世に「瀬戸石崩れ」と称している。山崩れのあったクエの道端に洪水の犠牲になった人々を供養する石造りの地蔵尊が祭られている。

明和三年八月に村中の人が建てたと台石に刻してある。

六月九日、朝八時前求磨川筋の洪水の地水が一丈八尺出増、塘笠九分目ほど出て、塘筋が危なくなったので、萩原御番所から報告されているのである。

このように未曾の洪水で、萩原御番所人ともの居宅近くの塘から洗い切り根石もなく、そのほか近在の鏡村、新牟田村の方までおびただしい揚水、もちろん城下小路並びに町中ともに水があふれ、城内の二ノ丸通り、北ノ丸御屋形、黒御門御屋形にも床の上にも水上がり、役所の床上三尺余り逆流してきた。しかし、本丸には水は入り込まず、穎当御門けはなし際までも水はせき込んではこなかった。

八代郡誌(幕府に提出された「損耗覚書」)によると人家の流出二一一八、溺死者五〇六人、高一三万五六〇余石=潮入石砂入洗剥山崩 田=二万五七五三町余 畑=七六二五町余(以下省略)等と記され、八代萩原塘についても上道幅一〇間余、根張四〇間余もある大堤防を決壊させたという(熊本県歴史の道調査球磨川水運)。


「坂本村史」坂本村村史編纂委員会 平成二年一二月二五日 第一三節洪水・火災


と、あります。

少々分り辛いのですが、崩落そのものによる瀬戸石の直接的な被害や坂本村における被害は「坂本村史」の瀬戸石崩れによる両松求麻村・両久多良木村被害状況(いずれも坂本村)として一覧表があり、これによると死者としては四八人であったようです。

しかし、被害はここに止まらずに、下流に押し寄せた猛烈な川津波による犠牲がはるかに甚大な被害をもたらし、死者五〇六人とあります。八代市の球磨川河口に近いところでさらに大きな被害が出たのです。そのあたりが八代郡誌に記載されています。

恐らく、堰き止められた場所からの奥行きがかなり深かったと思われ、決壊によって、想像を絶する大水塊が一気に下流に流れ出したとものと想像されます。


「坂本村史」はそれとして、地元郷土史家の中村重之氏(八代史談会会員、建設会社取締役)による「かませ村の伝承」に書き留められている宝暦の大洪水を紹介しておきます。

無題.png

(A)中村重之氏の「かませ村の伝承」に見る“宝暦の大洪水”


宝暦五年六月(一七五五)に八代地方再び集中豪雨で大洪水となり瀬戸石山が大山崩れで球磨川を堰止めてしまった。鎌瀬の球磨川も干し上がる寸前であったが、ほぼ同じころ鎌瀬山のカナッチョ畑と渡瀬の二ヶ所で大山崩れとなり、一時は鎌瀬川が干し上がった。

一瞬の内に川津波が発生し、小川地区は人畜家財流出。死者多数で行方不明五〜六体あり、遠くは天草で発見された死体もあった。

渡瀬の塚山と上の畑はこの時の崩土によって出来た。又、小川(こがわ)の川の流れは大渕があって曲がっていたが、この時の洪水により現在の直線の流れに変わった。

これにより二百四十年程度後年の平成九年ごろの集中豪雨により同じ場所の山が大

崩落を起こしている。注目すべき事実である。宝暦後、岩崎、田中、藤原、田口の四家が上鎌瀬へ移住。

(平成一六年一二月発行)


(B)五十年ごとの慰霊祭 


八代の上流、鎌瀬、瀬戸石の犠牲もさる事ながら、最大の犠牲者を出したのが現在の球磨川河口右岸の八代市萩原町から下手の当時の八代の中心地と左岸にあたる八代市高田(コウダ−旧鹿児島本線八代の次ぎの駅が肥後高田です)、豊原(ブイワラ)地区でした。この土地は南北朝争乱期において、九州南朝方の最大勢力であった菊池氏が敗北した後も名和氏を中心に最期の拠点となった場所です。

高田を拠点とした彼等は、大陸との交易路を資金源にしていたと思われます。このためか当時は貿易に関係する海洋民、漁撈民が多く、浄土真宗の門信徒も多かったようです(真宗教団と海洋民とは伝統的に関係が深いのです)。

この地区に正現寺( ショウケンジ 浄土真宗本願寺派=西本願寺 )という古刹があります。

大半の犠牲者がこの寺の門徒であったためかは不明ですが、この災害を忘れずに必ず後世に言い伝えるとして、五十年ごとに追吊會(ツイチョウエ 追弔会=慰霊祭)を行っているということです。また、瀬戸石崩れの当時この寺も洗われ一部は流されたと聞きます。

ちょうど、一昨年が第五回目の五十年の二百五十年目に当たったことから法要が行われ、新たな供養塔が建てられています。

「瀬戸石崩れの碑」(掲載写真)により文が読めるかも知れませんが、「…球磨川をせき止め濁流の水嵩三、四十間山を打ち越すほどの勢いで人吉城下まで逆流したと伝う。…」とあります。

大変に有難い御縁ながら、この正現寺の御住職から丁寧なご教授を頂き、五十年ごとに追吊會を行っているという興味深い話と記念碑の建立の経緯をお聞きすることができました。

その一つに、過去帖の中に下記の記入があるということでした。


宝暦五年大洪水ノ水難死亡者ノ追吊會五十年ゴトニ大法會ヲ営ムベキコト

十代住職大正三年ニ百五十年大法會ヲ営ム

代々ノ住職ハ厳重ニ必ズ勤修スベキコト

◎明治三十八年以降


このように、先代先占々代の御住職による申し送りは弥陀の言葉にも近く、如何なる住職といえども逆らい難いものであり、今後も確実に伝えられていくことになるでしょう。

無題.png

未曾有の洪水の犠牲者を供養する記念碑と碑文


(C)野田信氏の小本に見る“亡者供養のことについて”


正現寺の御住職から、私が把握していなかった野田信 氏による資料外を頂きました。

これについてもホーム・ページ掲載についてのお許しがありますので、正確を期すため

に災害にかかわる部分の全文を掲載させて頂きます。


亡者供養のことについて


瀬戸石崩れで高田の川原に流れ着いた幾人かの溺死体を球磨川沿いの豊原地区の人たちが埋葬され、その供養をなされたのだと思われます。特に豊原の小路、佐高の人たちは二百三十六年という長い年月、無縁仏となられた人たちの冥福を祈り続け、一月十九日を亡者供養の日と定められ、今日まで私たちに言い伝えてくださいました。

先人の篤い信心と敬天愛人の精神に深くこころ打たれる思いです。私たちは、この尊い遺志を守り、亡者供養をこれから先、いつまでも続けて行きたいものと思います。

                                            平成四年七月一日

                            豊原小路在住

野田 信(旧姓郡)

宝暦五年(一、七五五年)(今から約二三六年前) *平成四年七月時点(古川注)


大雨洪水のことについて(瀬戸石崩れ)


細川重賢公が幕府に報告された文書の覚書

宝暦五年六月朔日より九日までの強風に山崩・破損

所流家多く、死人死牛場(ママ)等の改出来八月五日

御届被成候御書

私(細川重賢)領分肥後国の内朔日より

同九日まで追々強雨、洪水、山崩、損亡、破損の覚  


一、 高    二十三万五百六十石

潮入、石砂入、洗、山崩

此田   二万一千七百五十三町余

畑    七千六百二十五町余

       塩浜    九十七町五反

一、 塩塘   三千四百十五間

一、 川塘   十三万二百九十間

一、 井手塘堤 八万七千八百九十九間

一、 水除石垣 八百五十間

一、 水除柵  四千二百八十七間

一、 山岸崩所 一万七千百四十三間

一、 土橋   百九十五箇所

一、 往還道筋 一万九千百四十六間

一、 井樋   百七十八箇所

一、 流舟   百一艘

一、 流出番所 二か所(遥拝、萩原)

一、 社・辻堂 十か所(高田、萩原)

一、 八代密柑の木のうち 二百四十本余

一、 流家   二千百十八戸

一、 流木   三千八百二十二本

一、 溺死男女 五百六人

一、 怪我人  五十六人

一、 溺死牛馬 五十八頭


右損亡破損の儀水引き候上相改国元留守居の者より申越候、右損所、郡、村の中 葦北郡球磨川筋に有之候。瀬戸石山高さ二百間 横百五十間程崩落 川向に有之候 山に崩先高さ二百間 横百間程突上是又崩落球磨川突埋候間洪水却て逆流仕り 水かさ三、四十間碽上げ小山抔者山上を水打越し候程の水勢 一同に川下に溢れ候故塘筋悉く崩れ申候 右者先祖祖越中守入国以後終に無之損所にて わけて水先の村々 亡所溺死の者も有之候由注進仕候に付申し上げ候              以上

宝暦五年八月五日

第 八 代 細 川 重 賢


この記事は、守山貞雄先生(八代市文化保護委員)が、細川家の古文書から調べてくださったものです。昔の文章は、むつかしく読みづらいもので、次のように解りやすく書き直していただきました。


   田畑が無くなったり、破損したことについて水が引いてから詳しく調べあげ、国元

  (ここでは肥後)の留守居の者から言ってよこしました。右の損所は、領内のうちの葦北郡球磨川筋にある瀬戸石山で高さ二百間(約三百六十m)、横百五十間(二百七十m)ほど崩れ落ち、川向かいにある山に崩れた山の先端が高さ二百間、横百間(約百八十m)ほど突き上げ、それがまた崩れ落ち、球磨川に突き込んで流れを埋めたので、洪水は返って逆流して水かさが三十間から四十間(約五十mから七十二m)にも碽上って、下からすくい上げた水は山上を超すほどの勢いで、一時間余りもその様子で、程なくして突き埋めた所を洗い流し、切り落とした。水の勢いは、一度に川下に向かって溢れたので塘上の道巾十間(約十八m)余り、根張りが四十間もある塘筋が全部崩れ落ちてしまった。

   この堤防は、先祖越中守(細川忠利)が入国以来一度も破損したことのないところで、とりわけ水の流れ先の村々及び消失した場所、溺死した者も沢山あったとのこと。報せがあったので申し上げます。                    以上

宝暦五年八月五日

第 八 代 細 川 重 賢


なお、野田氏は健在でしたが、ご高齢のためにこの小本制作の経緯についてお聞きすることは致しませんでした。

無題.png

八代市球磨川河口周辺(マピオン)


(D)「八代地方小史」(一九七〇年刊)宮本正夫


宝暦の水害


・・・ときは流れて宝暦五年(一七五五)六月、肥後はまたまた大水害に見舞われた。ことに球磨川流域は洪水のため、ひどい災害を受けた。

 六月九日、なが雨のため地盤のゆるんでいた上流の瀬戸石山が突然崩壊し、これに応じて対岸の楮木(球磨領)山もくずれ落ちた。この山くずれは、高さ三百六十米、横二百七十米に及ぶ大崩壊で、たちまち球磨川の流れを堰き止めた。せき止められた水勢は一旦逆流したが、折からの洪水のため、水嵩六十米にのぼり、一大湖水となった。だが、水の圧力は、間もなくへい塞した山塊を一気に押し破り、奔流となって流れ下った。

 かくて、加藤正方が築いたという萩原堤は、たちまち打ち破られ、濁流は福正原・日置村・横手村をことごとく押し流し、八代の城下をはじめ、付近の村々に氾濫して、八代地方は大災害を蒙った。

   細川藩より幕府に提出された報告書を八代郡誌には、

田    二万五千七百五十三町余


【 『八代郡誌』には「 田 二萬千七百五十三町餘 」とあります。原典にあたってはいませんので確実ではありませんが、これは誤植ではないかと思われます。実は、

 八代郡誌(幕府に提出された「損耗覚書」)によると・・・田=二万五七五三町余 畑・・・

と、「坂本村史」も同様に二万五七五三町余とあるのですが、漢文調で書かれた「八代郡誌」の写しによる資料が正確であると判断して、ここでは、「 田 二萬千七百五十三町餘 」を採用しておきます。古川:注 】


畑    七千六百二十五町余

       塩浜    九十七町五反

 道路   一万九千七百四十六間

流舟   百一艘

流失家  二千百十八軒

溺死者  五百六人

橋流失  百九十五ヵ所

流出牛馬 五十八疋

怪我人  五十六人

(この外は略す。)

右、消耗破損の儀、水引き候上相改め国元留守居の者より申し越し候、右損所郡村の中、葦北郡球磨川筋に之有候瀬戸石山高さ弐百間、横百五十間ほど崩れ落ち、川向こうこれ有り候山に右の崩れ先高さ弐百間、横百間ほど突き上げ、是れ亦崩れ落ち、球磨川突き埋め候間、洪水却て逆流仕り、水嵩三四拾間程せき上げ、小山などは山上を水打越候程の水勢、半時余も右の通りにて程なく右突き埋め候処を、先切り押落し候水勢一同に川下に溢れ候故、道幅拾間余根張り四拾間程これあり候塘筋ことごとく崩れ申候、右は先祖越中守入国以後ついにこれ無き損所にて、別而水先の村々亡所に及び溺死の者も之有候由、注進仕り候に付申上候。

と記されている。

   この惨状と、欠潰ヵ所の大きさから見て、早急の復旧は到底望めそうもない状況であった。


稲津頼勝の功績 この修築にあたったのが、郡目付けの稲津弥右ェ門頼勝である。頼勝は自ら進んでその任にあたらんことを藩丁に申しいで、藩主重賢の許しを得た。かれはこの難工事を達成するには、尋常の工役では難しいと考え、カメ数百個に銭を盛り、

 「男女十五才以上、よく土石を運び、労役に服する者には銭を与うべし。」

と、郡内に布告し、その力に応じて三級に分け、毎日銭を与えた。

 当時は公共の労役に狩り出されることを公役(くやく)と称し、弁当持参の無報酬で使役できる掟であった。それなのに働く者には銭をやるというのである。しかも自分たちの生活に直接関係のある堤防工事でもある。近郷近在の住民はこぞって工事にかけつけ、力のかぎり精出した。

 頼勝は自ら工事の先頭に立ち、河中に馬を乗り入れ、水煙りを立てながら指図する。その熱意と適切な措置によって、さしもの難工事もわずか七日間で完成した。ために八代地方はその年の八月、再び襲った風雨の害をまぬがれたという。

 されば附近の住民は

 『あのや 稲津さまは 仏か神か 死ぬる命を助けさす。』

という歌を作って、頼勝の功たたえた。

 後日、藩主重賢は宴席の上で『あのや 稲津さま』の歌を口ずさんだ。これを伝え聞いた頼勝は、涙をこぼして感激したという。

   「およそ家来たる者はこの国に多けれど、その名を主君から様をつけて呼んでもらった者は、おそらくわしだけであろう。」

   年とってから後まで、頼勝はときどき思い出しては人に語り、喜んでいたといわれる。


千人供養 国道三号線が鉄道を越すところに天満宮がある。この神社はもと祈祷の森という所にあったのを、細川忠興が萩原堤の守り神として現在の位置に移したが、宝暦の水害によって流失した。いまの神社は頼勝の復旧工事完了後に再建されたものである。その附近には今でも当時の爪跡が、沼となって残っている。

   提を破った奔流は、今の八代駅から十条製紙附近をすべて押し流し、大手町・横手町一帯に氾濫した。大手町一丁目附近の字を『洗切』というが、この地名が災害の名残りであることはいうまでもない。死者五百六人といえば、昭和二十八年の熊本水害よりはるかに多い。

 されば出町の光徳寺で、毎年災害のあった日に『千人供養』というものを営み、死者の冥福を祈る行事があった。今も続けられているだろうか。


しめ縄祭り 六・七月ごろ、瀬戸石附近を通ると、球磨川を横ぎって山から山へ張り渡された長いしめ縄を、つい最近まで見ることができた。ここが山崩れのあった所である。

   五月の終わりごろから降りだした雨は、いつ止むとも知れず、人びとの気持ちは暗かった。六月九日、瀬戸石の人びとは、対岸の楮木部落の上にそびゆる山が崩れかかっているのを見て、声をかぎりに、

 「山が崩れかかっているぞ、早く逃げろ。」

と、絶叫した。また楮木の者たちは、瀬戸石の背後の山が崩れかかっているので、

 「早く逃げろ、早く逃げろ、山がくずれるぞ。」

と、しきりに叫んだが、篠つく雨音で声もとどかず、お互い頭の上にある山だから、自分の方のことはわからなかった。依然、瀬戸石の山が崩壊して球磨川を埋めると、これに応じて楮木の山もくずれ、両部落は全滅した。

毎年六月、山くずれのあった日に、瀬戸石と楮木の山から山へ、球磨川を渡してしめ縄が張られる。この行事は災害当時の死人の供養と、再びかかる惨事が起こらぬようにと神仏に祈る村人が、二百年もつづけてきた行事である。


前述の千人供養において、「・・・されば出町の光徳寺で、毎年災害のあった日に『千人供養』というものを営み、死者の冥福を祈る行事があった。今も続けられているだろうか。」と、ありますが、光徳寺(こちらは浄土真宗大谷派=東本願寺)の御住職に確認したところ、“初めて聞いた話で知らない。先代から引き継いだのが二十年前だが、その間は行っていない”とのことでした。

 どうも、話が通じないために首を傾げていましたが、正現寺の御住職から光徳寺のお隣りの「千佛寺がそのお寺かと思います。遺体が多く流れついたという話です。昔の入江です。」とのお知らせを頂きました。


(E)細川家の資料から(部分)

無題.png

細川家の資料(部分)


(F)肥後八代類例集−宝暦〜文化年間の記録

八代古文書の会叢書第七巻(一九九六年刊)蓑田勝彦編集


洪水ニ付御達等の例


宝暦五年六月九日

一 五月中旬比ヨリ数日雨降続、六月上旬比ニ成候ては殊外の強雨昼夜難相止、六月九日ニ至候て求厂川(球磨川のこと古川:注)筋以ノ外ノ洪水ニて、萩原御番人居宅手前の塘より洗切根石も無之、近在鏡村新牟田方迄夥揚水、勿論御城下小路井町内共水溢、御城内儀ハ二ノ丸通リ・北ノ御丸・黒御門御屋形床の上ニ水揚、会所床ノ上三尺余水セキ揚、御本丸の儀ハ水入不申、頬当御門けはなし際迄水セキ込、此節御町奉行ニ及沙汰、御城内外小路町共ニ艜舟ニて致往返、御城附御自分・御役人中・両御番頭衆・御家司衆を初何れも前川塘筋え罷出、越水等の儀及裁判、御両殿様えも塘筋御出馬被遊、今朝五時分より烈水溢、今暮前ニ漸水引落、・・・・・・


この外にも同じく蓑田勝彦氏編集による「八代市史」−近世資料編\(大風、出火、洪水など)八代市教育委員会(二〇〇〇年刊)などがありますが、割愛します。


(G)肥後高田、今に残る小さな民間伝承


“瀬戸石崩れ(瀬戸石崩え)”と、それに伴う法要が浄土真宗の寺で五十年ごとに行われるという話を最初に教えてくれたのは、拙著『有明海異変』の共著者であり編集者でもある米本慎一氏でした。

彼はこの災害の被災地である八代市高田で生まれ育ったのですが、“瀬戸石崩れ”にまつわる別の話を書いてくれました。この話も既に半世紀を越え、いまや現代に生きる伝承とも云うべきものになっていますので、記録に留めておく必要があると考えその全文を掲載します。


瀬戸石崩れにちなむ話


正月に帰省した折に正現寺の瀬戸石崩れの碑のことを母に話したところ、次のような関連する話を聞いた。


 終戦後しばらくたった頃のこと、当時仕事がなかった母の兄のO氏は球磨川の河口に近い前川でバラスを取って糊口をしのいでいた。当時のバラスの採取は、人が半裸で川に入り、川底を掘って適当な大きさの砂利をふるいで選別して集めるという重労働だった。小さな砂利の層に到達するためには上にある大中の石をはぎ取らなければならない。O氏が作業をしていると、石の間にひとかかえもある木片のようなものが埋まっていた。掘り出してみると、その木片には衣服のひだのような模様が刻まれていて、頭部の顔は判然としないものの、どうやら木彫りの仏像のようだった。そのまま河原に打ち捨てておくのは憚られて、O氏は休憩に利用していた船宿の女将に「地蔵さんのようなものが出てきた」と押し付けて帰宅した。

 その夜から、O氏は風邪でもないのに原因不明の熱が出て、ふるえが止まらなくなった。医者にかかったかどうかは不明であるが、三日目に家族が“よく当たる人”を連れてきた。枕元で「地蔵さんを粗末に扱わなかったか」と問われてO氏がくだんの木片のことを話すと、それは瀬戸石崩れで流されてきて川底に埋まっていた地蔵さんであるとのご託宣だった。最初に見つけた者が祀るべしとの助言で、その夜、O氏の妻が夫に代わって船宿に出かけて事情を話し、このままではこちらにも迷惑をかけることになるからと、たんすの上に安置されていた仏像を背負って家に連れ帰ったという。


 それからO氏の病が平癒したことはもちろんであるが、母からこの話を聞いて私(米本)は、三、四才の頃、一時一家で身を寄せていたO氏の家の屋敷の隅に小さな祠のようなものが祀られていたことを思い出した。確か年に数回、「茶飲み」と称して近所の年寄がたちが集っていたと記憶するが、そのことと瀬戸石崩れとの関係は今度帰省した時にO氏の長女であるいとこに確認してみようと思う。

 なお、『有明海異変』の注(P160)でふれている昭和四〇年代初めまであった球磨川下流の渡町(わたしまち)は、正現寺の碑から推測すると宝暦五年(一七五五)の瀬戸石崩れの後に発達した集落であることがわかる。往時、畑や人家があったとしても、堅牢な萩原堤や高田側の塘を決壊させた水の力の前にはひとたまりもなかったことは明らかだからである。瀬戸石崩れで出現した広大な河原に幾度かの洪水で砂が堆積し泥が沈んで渡場が復活したのは江戸ももう終わりに近づいた頃だったのではないかと思う。そう考えると、今は河川改修で消えてしまったこの集落の印象が私の幼少期の記憶の中で周辺の農村部と比べて妙に明るかったことの理由とでもいうべきものがストンと胸に落ちるのである。


『有明海異変』の注(P160

昭和四十年代には球磨川下流の八代市渡町では洪水対策のために町ぐるみの移転が行われ、川幅が拡げられて現在は運動公園や畑となっています。町名に示されるようにここにはダムなどなかった頃から人が住み着いて漁業や製材業や周辺の工場への勤め人として暮らしていたのですが、結論だけを言えばダムの建設を含めた上流の乱開発によって三十年代から洪水の常襲地帯となり、直接的には道路やビル建設のために数百年の年月をかけて堆積した砂利や川砂が大乱掘(海砂などという低品質なものは昔は使わなかったのです)されたことでその跡が洪水時にえぐれてあちこちに大きな穴が拡がり、畑も道路も宅地も危険になって町ぐるみの移転となったものです。


瀬戸石崩れの教訓


 今回は、ひたすら“瀬戸石崩れ”を知らしめる事に徹しましたが、以上、五〜六本の資料によって、なんとかこの“瀬戸石崩れ”の全貌が浮かび上がってきたようです。

構造線が地下を走り、現在でも時として大規模な崖崩れによって交通途絶が生じる球磨川ですから、このような大規模な崖崩れが起こったとしても不思議はありません。しかし、さすがに五百人を超す犠牲となると度肝を抜かれます。

ただ、歴史の風化は凄まじく、坂本村の住民でも若い世代では瀬戸石崩を知る人は少なく、八代市民も大半はあまり関心を持っていないと聞き及んでおります。

何よりも、瀬戸石崩れは、奥行きの深い川が堰き止められて決壊すると、いかに凄まじい災害をもたらす“か、という事を端的に示した歴史的事件であり、現在から未来に向けて伝えるべき教訓でもあるでしょう。

正現寺の御住職からのお手紙に、「小生の一番の驚きは、天然のダムの崩れるまでの時間の短さです。二〜三日后に崩れていたものと思っておりました。・・・中略・・・何の計画も時の流れには耐えられないものであると思っています。」という印象的なフレーズがあるのですが、確かに、今でこそ“島原大変肥後迷惑”は知られるようにはなりましたが、つい最近まで忘れられていたのです。してみると、“瀬戸石崩”が忘れられたとしても一向におかしくはないのかもしれません。

やはり、時の流れとはそのような逆らいがたい力を持っているものなのでしょう。

国がこの大災害を伝える任務を怠る中で、まさに、正現寺という浄土真宗の寺と碑文だけが、歴史を伝える要になっているように思えます。

もちろん、人工のダムではあったとしても同様の事は起こるわけであり(事実イタリアのバイロントダムでは性質は異なる洪水ですが、三千人に近い犠牲を出しています。)、その決壊が大災害をもたらしたといった話を、その上流の川辺川でダム事業を推進している国土交通省が積極的に宣伝するとも思えませんが、考えられる全ての災害、水害に対して備えを呼びかけるのが、本来の行政の役割ではないでしょうか。

この大災害については、一〇年ほど前に建設省(当時)が作成したパンフレットの中で部分的にふれた記事が掲載されたことがあるという話を正現寺の御住職から聞きましたが(私は現物を確認してはいません)、恐らく、だからこそ災害に備えてダムを整備する事が必要であるとしているものと想像しています。

国交省は、天下り先のコンサルタント業者の仕事になるためか、ハザード・マップの整備などには非常に熱心なのですが(この手のものはいざとなったら何の役にも立たないと思います)、もちろん河川改修は行われていますが、さらに、こういう事実を周知させ、できるだけ危険な場所には住み着かないように誘導し、長期的には遊水地化することには全く努力をしていないように思えます。全てはダムで解決できるとして、そんな事は一切必要ないとしているようです。

もっとも、本当に大規模な災害が発生した場合には人間の力など元より無力であり、災害に遭遇した人々への保障を制度化すべきでしょう。

この背後には、球磨川の上流に建設中の川辺川ダムへの影響を気にしているとするのは、多分、ただの思い過ごしであって、恐らくこういった考え方に対して、日常的には部分的な知識も保有、蓄積していないからとする方がより真実を伝えていると思います。 

私はもはや、彼らはなんらの使命感も持っていないのではないかと考えてしまうばかりです。もしも、違うと言う人がいるのならば、試しに九州地方建設局のどのセクションのどのクラスで最初の反応が出るものか問い合わせて見れば一目瞭然でしょう。手始めに、読者の皆さんから川辺川ダムの国営ダム建設事務所かどこかに“瀬戸石崩れ”について質問されてみてはいかがでしょうか。既に、荒瀬ダムの撤去が決定され(熊本県)、瀬戸石ダムも撤去の話が出されてはいるのですが、まあ、期待するだけ虚しい事と思ってしまいます。これが、河川行政の実態であり現実なのでしょう。

今回の瀬戸石崩に合わせて、本来は、既に撤去が決まった荒瀬ダムと、要望が強い瀬戸石ダム撤去の問題にまで触れ、荒瀬ダムの堆砂問題、その土砂の処分をどうするのかとか、それが廃棄物処理業者と地場の土建業者との間で争いにまでなっているといった話まで拡大しようとしたのですが、残業ばかりやっている状態では、下調べに時間がかけられずに断念してしまいました。いずれ別稿として書きたいと考えています。


今回掲載した六本の資料の内、(B)〜(E)の四本は正現寺の松岡香城住職から頂いたものです。これは二年前に亡くなられましたが、八代史談会に所属されていた大堀重雄氏から御住職が入手されたものです。今となっては、詳しい資料の典拠やいわれさらには周辺資料についてまでは知る由もありませんが、立派な御業績であったと感服しています。

今後、広くインターネット上で公開し、多くの人々に“瀬戸石崩れ”について知っていただき、今は亡き大堀重雄氏の遺志に沿いたいと考える次第です。

ここに、改めて犠牲になられた五百数十人余の冥福を祈りたいと考えます。合掌。


(B)五十年ごとの慰霊祭について補足


この論考は、散逸し消失する小資料と記憶に一定の歯止めを掛ける役割を担うものになる可能性もありますので、法要に関する分かりにくい部分について若干の補足をしておくことに致します。全体の文の構成には直接関係がありませんので一般には読み飛ばして頂いても結構です。筆者による直接的注釈文でも良いかもしれませんが、正確を期すために正現寺ご住職による説明をそのまま掲載させて頂きます。


<ご住職へのお尋ね>

@ 過去帖の記述は第十代住職よるもののようで。大正三年に百五十年目の大法会を行なわれているとの事ですが、勘定が合いません。まず、宝暦五年(一七五五年)に災害があり、五十年後、百年後の法会は行なわれたのでしょうか?

百五十年後(一九〇五年)は明治ですから、大正三年は十年ほど遅れて行なわれたのか、その時に始まったのか?良く分かりません。分かる範囲でお教えください。

さらに二百年後の昭和三〇年(一九五五年)の法会は行なわれたのでしょうか?

過去帖にある「◎明治三八年以降」の記事は百五十年後ですから、“明治三八年以降行なえ”ただし、法会を行なったのは十年後の大正三年だった。と理解しますが、宜しいでしょうか。


私は仏教については全くの門外漢ですが、一応、過去帖に“法会”とありましたので“法会”という用語を使いました。ご住職からは“法要”とお書き頂いております。一般的に、法会は奈良仏教、平安仏教の用語で、鎌倉以降の浄土教系では法要との印象をもっていますが、よく分かりません。浄土真宗においては自らが成仏するために念仏を唱えるのであって、基本的に追善供養といったものはないと理解しておりますが、とりあえず、ここでは難しい事を考えずに東大寺などの大法会と同様の意味で使わせて頂いたつもりでおります。


<ご住職からの回答>

については意外なことがわかりました。書き込みは第十一代によるものです。

○年以降の“以降”は本来“年度”とか書くべきもので、明治三七年の物故者、三八年の物故者という表題であり法要の記述とは別物です。又、この過去帖は古いものを整理し書き改めたもので、その時その時に書きつがれたものではありません。故に記述のスペースがとれている訳です。他の部分は十二月分の次はすぐ新年度で全く余裕なしです。更には大正三年の一月、十世は亡くなっておりますので実際には法要はできません。考えられるのは、十世は病の為、法要が出きなかった。逝去后、十一世がその年に法要を行い、名目上は十世が行ったこととし、記録には本来の年、明治三八年に後世にむけての遺訓を残したということでしょう。その甲斐あって二〇〇年はその年に行われ、記念の写真等あります。確証はないのですが、五十年、百年は実施され、百五十年を気にしながら十世は失くなり、十一世が記述を残したと考えます。


◎明治三十七年以降

○月○日某

○月○日某

・・・

宝暦五年大洪水ノ水難死亡者ノ追吊會五十年ゴトニ大法會ヲ営ムベキコト

  十代住職大正三年ニ百五十年大法會ヲ営ム

代々ノ住職ハ厳重ニ必ズ勤修スベキコト

◎明治三十八年以降

○月○日某

○月○日某

・・・

(D)「八代地方小史」(一九七〇年刊)宮本正夫 宝暦の水害 について補足


千佛寺のこと


 正現寺の御住職から、千人供養について光徳寺のお隣りの「千佛寺がそのお寺かと思います。遺体が多く流れついたという話です。昔の入江です。」とお知らせ頂いた事は前述しましたが、このため、二月四〜五日、再度八代を訪れ、五日の朝に千佛寺(高野山真言宗八代市新町=旧千仏町)から千人供養についてお聞きしてきました。「昔は確かに行っておりましたが、現在は、“縁者が少なくなって行うことが出来ないでおります。”」との事でした。なお、都市計画によって移転された本堂にも千人供養の際に収められた仏像が数多く祭られておりました。千人供養、千佛寺という名前から、真言宗ではないかとは思っておりましたが、確かにそのとおりで、たまたま出ようとされていた御院家様からお話を聞けてよかったと思っています。

 また、寺の敷地の一角に八代の史談会が建立した木製の記念塔が建てられており、千人供養と千佛寺について解説がされておりました。四日は史談会の方に同行して頂いていたのですが、この記念塔が立てられていたことも直前まで分らなかった次第です。

既に十年が経過して表面が痛んでおり全文は判読出来ませんでしたが、一応、読み取れた範囲で記述されていた内容を紹介しておきます。恐らく“瀬戸石崩れ”に詳しい八代史談会の大堀重雄氏(故人)によるものと思われます。


千仏寺

八代史談会建立 平成五年十二月一日 NO.37

「肥後国史」によれば、当寺は「悟真寺支配ニシテ南松江村ニアリ、貞享元年(一六八四)ニ八代ニノ町名和甚次郎ト云う者、千躰土仏ヲ造立ス、近来浄土宗ノ僧居千仏庵ト云」と記されている。この千体仏に由来して千仏町名が生まれ・・・判読不明・・・四月「奉行所より寺構えなどせず末庵とする旨」とある。千体仏は現在約二百体が保存・・・判読不明・・・甚次郎の千体仏造立動機は延宝五年(一六七七)六月九日水害・・・判読不明・・・水死者が四二二あったという。その時

洗切(現在平安閣付近)一帯の多数の犠性(ママ)者が流れついたという。その供養のために造立されたと伝えられる。この庵は明治以降、寺として独立し真言宗派に属している。

当寺には天井裏の模様入りの板、約二十枚が保存されている。当寺前の堤防に包石垣跡が残っている。


とあります。やはり風化は致し方ないと思うばかりです。


 本稿は200773日の佐賀県内の某地方自治体に在職中に書き上げ公開していた文書ですが、散逸の危険性が出て来ましたので、再度、新ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に回収し、永く語り継ごうとするものです。

 再度、公開するにあたり、新たに地図や画像を加えましたが、本文には一切手を付けておりません。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:02| Comment(0) | 日記

2019年08月12日

675 亀甲船に乗った浦島太郎は亀に乗ったと言われた…

675 亀甲船に乗った浦島太郎は亀に乗ったと言われた…

20180926


太宰府地名研究会 古川 清久


 時として思考の暴走は新たな展開を見せてくれる場合があるものです。

 これまで、博多の櫛田神社の大幡主(実は造化三神の一柱で神産巣日神、神皇産霊尊とされる)=ヤタガラスの父神こそ塩土老翁であり、同時に浦島太郎にも準えられ、藤原が第3代安寧天皇とまで持ち上げた存在(百嶋説)であった事を書いてきました。

無題.png

今回は浦島太郎の乗った亀の話に踏み込みますので、とりあえず、以下を参考にして頂きたいのですが、


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

616

浦島太郎はなぜ亀に乗って竜宮城に向かったのか? (拡大編)

615

浦島太郎はなぜ亀に乗って竜宮城に向かったのか? (本編)

614

浦島太郎はなぜ亀に乗って竜宮城に向かったのか? (導入編)

613

有明海、不知火海沿岸の猿田彦神社探訪から見えた神像の素性について


亀甲船の起源が古代まで遡れるかは不明ですが、古代において、もしも、亀の様に見える舟があったとしたら、それは物資輸送用の大型の交易船であり、波を被らない蓋付きの外洋船であっただろうとまでは想像ができそうです。当然、武装商船隊として戦闘艦船は随伴していたはずです。

一応、イメージとしてあるのはインドのダウ船であり中国のジャンク船です。

思えば、船が「亀」と表現された例は、太平洋戦争でも「ドン亀」があり、実際に末期に配備された陸軍の輸送用潜水艦「丸ゆ」(三式潜航輸送艇)までが存在したのです。

無題.png

まず、造艦設計として細長い船は速度が高く幅広の船は速度が低いというのは常識ですが、では鉛筆のような船にすれば良いかと言うと、そうではなく、積載量は少なくなる上に当然にも折れやすくなり、海で折れるとどうなるかは言わずもがななのです。

実際、海軍の造艦史では知られた話ですが、昭和10年には「第四艦隊事件」という衝撃的な海難事故が起こっています。


海難前[編集]日本海軍は前年(1934年)に起こった水雷艇友鶴の転覆事件に鑑み、保有艦艇の復原性改善工事を終了していた。更にロンドン海軍軍縮条約の失効と国際情勢の悪化に伴い、海軍力の拡充に奔走していた。

1935年、昭和10年度海軍大演習のため臨時に編成された第四艦隊(第二期編成・司令長官松下元中将)は、岩手県東方沖250海里での艦隊対抗演習に向かうため924日から925日にかけ、補給部隊・水雷戦隊・主力部隊・潜水戦隊が函館港を出港した。

海難[編集]すでに台風の接近は報じられており、926日朝の気象情報により、午後には艦隊と台風が遭遇することが明らかになった。そのため、反転して回避する案も出されたが、すでに海況は悪化しており、多数の艦の回頭による接触・衝突も懸念された。また、台風の克服も艦隊の練度向上になると判断され、予定通りに航行を続けた。主力部隊は台風の中心に入り、最低気圧960mbarと最大風速34.5m/sを観測、右半円に入った水雷戦隊は36m/sを記録し、波高20mに達する大波(三角波)が発生した。その結果、転覆・沈没艦は無かったものの、参加艦艇(41隻)の約半数(19隻)が何らかの損傷を受けた。

特に最新鋭の吹雪型(特型)駆逐艦2隻は波浪により艦橋付近から前の艦首部分が切断されるという甚大な被害を受けた。なおこの際、初雪の艦首を発見した那智は、曳航を試みるものの高波のため断念、更にこの中には暗号解読表などの機密書類を保管している電信室があり、漂流した結果他国の手に渡ってしまう事態を回避するため、やむなく艦首部を艦砲射撃で沈めている。艦首部には24名の乗員がいると予測され、状況的にも全員死亡している可能性が高く、救出の見込みもない状況ではあったが、生死の確認が取れないまま砲撃している。             ウィキペディア(20180927 0741による


話が逸れましたが、古代の交易船を考えた場合、瀬戸内海や有明海〜不知火海といった言わば地中海の様な波静かな内海では、蓋の無い剝き出しの船でも良いでしょうが、利益が大きい海外との貿易船となると、その交易品としての物資を守るためにも、蓋付の船=船倉付の船が必要になったはずなのです。

もしも、物資を満載し喫水線を越え深く沈んだ大型船を見た場合、「亀」に見立てられてもおかしくは無く、亀に乗って龍宮だか琉球(古代には台湾も琉球だったのですが)だかに向かうと言う表現が産まれたのではないかと考えるのです。

これが大幡主=神産巣日神、神皇産霊尊が浦島太郎に準えられたという話をお読みでない方は、お読み下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

201

宮崎市(日南海岸)のアコウの茂る野島神社

474

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… 

E 宇良神社(伊根町)浦島神社再々訪


ここまで考えてくると、浦島太郎が亀に乗って龍宮に行ったと言う話になったとしても決しておかしくはないはずです。ただし、証拠と言えるものはほとんどありません。

 しかし、やはり…と思える事は散見されるのです。幾つか拾い出しをしてみましょう。

 大幡主が天御中主、白川伯王に遡る白族であろうとの話はこれまで何度もお話ししてきました。

 この白族が列島に入って来た場所こそ不知火海であり、熊本県八代市の妙見宮〜氷川町〜宇城市の一帯だったのです。

時代は異なりますが(それさえも九州年号の「白鳳」で記述されています)、この八代妙見の一族そのものが亀で入って来たとしているのです。


白木山妙見大菩薩縁起
天武天皇ノ御宇白鳳九年明州ノ津自リ亀ニ乗リ肥後州八代ノ庄土北郷八千把村竹原津ニ御着三箇年御鎮座、小隈野村千代松カ峯九十年鎮座、是ヲ白木平ト号ス(現地シラキビラ)古川注


 さらに言えば、大幡主の神紋自体が亀甲紋(三盛り亀甲三五桐)であり籠目紋でもあり、亀の甲羅を思わせ、亀甲船をさえ思わせるのです。

無題.png

もう一つ、ひぼろぎ逍遥(跡宮)のバック・ナンバーからご説明致しましょう。


350 和風諡号から考えてみた  20170117

@  神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A  綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B  安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C  懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D  孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E  孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシシヒコクニオシヒトノスメラミコト)玉名半阿蘇系(黎族)

F  孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G  孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H  開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I  崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J  垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K  景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L  成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M  仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N  応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O  仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統


藤原が勝手に並べた(ざるを得なかった)だけですが、第3代安寧天皇は「玉手看」と玉手箱を見た天皇と書かれているのです。

無題.png

百嶋由一郎極秘神代系譜阿蘇ご一家(部分)


 山幸彦=猿田彦が贈安寧の子(大幡主の子)…については ひぼろぎ逍遥(跡宮)613などを参照を…

無題.png

当会のエース宮原誠一氏は近稿で以下のように書かれています。詳しくはそちらを…。

「宮原誠一の神社見聞諜」No.77 宮原(みやのはる)から見える宮野 B からいくらか拾い出しして見ます。

 この中にも亀や亀蛇(キダ)が出てきます。

 どうも、古代には亀は蛇の親で、蛇が大きくなれば亀になる…という理解もあったようです。

 勿論、古代には亀甲船などなく、大型の喫水線の低い遅い船は確かに亀に見えたのではないかと思うものです。

無題.png

白木山妙見大菩薩縁起
天武天皇ノ御宇白鳳九年明州ノ津自リ亀ニ乗リ肥後州八代ノ庄土北郷八千把村竹原津ニ御着三箇年御鎮座、小隈野村千代松カ峯九十年鎮座、是ヲ白木平ト号ス


九州年号・天武天皇白鳳9年は669年であり、百済国滅亡6年後である。その間、百済王族とその一族が九州へ亡命渡来し、火の君の世話により白木平に落ち着かれたのであろうと推察しています。
八代郡氷川町立神から上流域の泉町地域及びその北部の宇城市小川町の海東地域が"火の君の中心地"だったのでしょう。

(2) 熊野座神社
白木平より氷川を下りますと立神峡谷に熊野座神社が鎮座されている。
祭神について、
 速玉男神(はやたまのお)大幡主(博多櫛田神社の祭神) 伊弉冊神(いざなみ)大幡主の妃 事解男神(ことさかお)金山彦(イザナミの兄)となり、この祭神の配祀が熊野神社の基本になっています。
 この時、伊弉冊神は伊弉諾尊の妃ではありません。
 八代から氷川、小川にかけての地帯が大幡主の領域であることを考えると、熊野神社の基本は、この氷川の熊野座神社にあるのではと思うのです。


久留米地名研究会における百嶋先生講演 201125

邪馬台国の中心地は、宮崎県の高原町(たかはるちょう)あたりです。もとは姫原(ひめはる)でした。ところが、高木の大神の一派が盗み取りして、名前を勝手に姫原から高原(たかはる)に変えています。本当の神武天皇のゆかりの地です。姫城(ひめぎ宮崎県都城市姫城町)は都城市市役所付近の地名です。もとの鹿児島県の国分市及び隼人町(はやと)あの付近一帯を姫城という。それから熊本県の八代のちょっと上に九州王朝のどえらい集落があります(宮原三神宮がある氷川町宮原、以前は「宮原町」その前は「火の村」といった。北東の山手に姫城あり)。そこにも姫の城が残っている。そして、ここから余り遠くない福岡県浮羽町千足の小高いところの姫治(ひめはる)も神武天皇ゆかりの地です

無題.png

九州年号・天武天皇白鳳9年は669年であり、百済国滅亡6年後である。その間、百済王族とその一族が九州へ亡命渡来し、火の君の世話により白木平に落ち着かれたのであろうと推察しています。

八代郡氷川町立神から上流域の泉町地域及びその北部の宇城市小川町の海東地域が"火の君の中心地"だったのでしょう。


(2) 熊野座神社

白木平より氷川を下りますと立神峡谷に熊野座神社が鎮座されている。

祭神について、

 速玉男神(はやたまのお)大幡主(博多櫛田神社の祭神)  伊弉冊神(いざなみ)大幡主の妃  事解男神(ことさかお)金山彦(イザナミの兄) となり、この祭神の配祀が熊野神社の基本になっています。

この時、伊弉冊神は伊弉諾尊の妃ではありません。八代から氷川、小川にかけての地帯が大幡主の領域であることを考えると、熊野神社の基本は、この氷川の熊野座神社にあるのではと思うのです。


竹原神社由来記
この地は、妙見神が渡来した竹原の津跡と考えられています。
「肥後国誌」などによると、天武帝白鳳9(680)の秋、中国明州(寧波)から妙見神が眼深検校・手長次郎・足早三郎の三人に姿を変え、亀蛇の背に乗って海を渡り、この八代郡土北郷八千把村竹原ノ津に上陸し、約3年間仮座したと伝えています。その後、同11(682)益城郡小熊野村の千代松が峯に移って鎮座し、さらに天平宝字2年(758)に八代郡土北郷横嶽ノ峯に移り、その地に妙見上宮が創建されました。
その由来により、この地に妙見神を奉り、竹原妙見宮と呼ばれました。文治2年(1186)、後鳥羽天皇の時代に現在の宮地に妙見宮が建てられたのに続いて、竹原妙見宮が建てられたと伝えられています。天正16年、小西行長の兵火にかかり焼失。後、加藤清正によって再建されました。そして、明治元年(1868)に神仏分離令が出されたため、明治4(1871)に竹原妙見宮から竹原宮(現在の竹原神社)となりました。


竹原神社由来記では、天武天皇白鳳9(680)の秋、中国明州(寧波)から妙見神が眼深検校・手長次郎・足早三郎の三人に姿を変え、亀蛇に乗って竹原ノ津に上陸した。妙見上宮の創建は孝謙天皇の天平宝字2年(758)に八代郡横嶽ノ峯に鎮座とある。
「妙見神が亀蛇に乗って竹原ノ津に上陸した」ことは、各由来記に共通している。
「亀蛇 きだ」とは、船首に龍頭を付けた竜骨構造の大型船であろう。
古代の八代の海岸線は竹原神社が鎮座する竹原ノ津の井上町付近となる。










百嶋由一郎氏の神代系譜、講演録音声CD、手書きスキャニング・データDVDを必要な方は09062983254

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記