2026年08月30日

ひぼろぎ逍遥 スポット331 “(跡宮)A1148 「鳥海」❼ “肥前の「鳥海」”から考える”の転載

ひぼろぎ逍遥 スポット331 “(跡宮)A1148 「鳥海」❼ “肥前の「鳥海」”から考える”の転載

        20260710

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1148 “263月安倍講演への余計な資料として”

「鳥海」❼ 安倍貞隆(大分市安倍一族本家)様をお迎えして “肥前の「鳥海」”から考える        

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


2026315日に再び筑紫野市に安倍貞隆様をお呼びしてお話をお聴きすることに致しました。

本稿は安倍講演を前に当方の考えを提起するつもりですが、お考えに沿わない可能性も在りますので、結果、門外漢による勝手な話になるかも知れません。調査研究とは「日本書紀」「古事記」に追従するものでもなければ、村興し町興し世界遺産登録にさもしげに近づこうとするものでもないのです。

では、簡潔に箇条書きで私の提案をお示し致したいと思います。

東北の安倍氏は有明海沿岸から北に進出したのではないか

 通説でも東北の安倍氏は大彦の末裔とします

AIによる概要 安倍貞任(あべ の さだとう)と大彦命(おおひこ の みこと)は、主に系図上の繋がりで結ばれる、古代〜平安時代の陸奥の豪族とヤマト王権の将軍です。

安倍貞任は前九年の役(11世紀)で源頼義・義家と戦った奥州安倍氏の棟梁であり、一方の大彦命8代孝元天皇の皇子で、四道将軍の一人として北陸・東国を平定した伝説的な人物です。

家庭画報 +2 直接的な関係と歴史的背景は以下の通りです。1. 系図上の繋がり後世の『秋田家系図』などによると、奥州安倍氏は長髄彦(ナガスネヒコ)の兄・安日王(アビヒコ)を祖とし、その系統は大彦命へと繋がると伝承されています。

これは、東北の安倍氏が、古代のヤマト王権(大彦命ら)に征服されながらも、その支配下に組み込まれて土着した系譜を示すものと解釈されています。ただし、この系譜は「エミシ」の末裔としての矜持を示すもの(伝承)であり、歴史学的には朝廷系(阿倍氏)の血統を称して権威付けを行ったものとも考えられています。

2. 安倍貞任(前九年の役)

人物:安倍頼時の息子で、宗任の兄。

特徴:『陸奥話記』によれば、身長が六尺(約180cm以上)を超え、巨漢で色白の容貌魁偉な人物であった。

最期: 1062年、源頼義に敗れ、深手を負って捕らえられた。その首は釘で丸太に打ち付けられ、朝廷へ送られた。

無題.png

大彦の末裔とすると、久留米の高良大社の高良下宮社の中央神殿に祀られているのが第8代孝元天皇で第9代開化天皇(高良玉垂命)の父になるのです。孝元を祀る神社を土佐の聖社の外知りません。

貞孝さんは否定されていますが(伊万里講演)、百嶋由一郎の金神神代系譜では、呉の太白の一族に妃を送っていた金山彦(同社の女紋は木瓜ですね)の孫にあたる長髄彦が初代神武と衝突した結果、殺害を実行した草部吉見(だから高良山の北麓に吉見岳が在る)が妹を側室=戦利品としているのです(高千穂と中津市の守実では今も花房姫と呼ばれています)。その瀛津世足姫を後に八咫烏が妃とし(救済した)生まれた葛城高千那姫8代孝元天皇の間に生まれたのが大彦と武内宿禰なのです。れを通説では以下の様に偽装しているのです。一例右矢印1上コトバンク次葉:百島由一郎金神系譜参照

 無題.png当然にも九州王朝の王族の血をひく玉垂命の腹違いの兄が大彦(日本書紀の四道将軍の日本海ルートで会津に入った)で、その末裔が安倍貞任と宗任になるのです。だからこそ貞任の末裔も朝倉に戻った可能性があるのです。

❷ 福島から宮城に注ぐ阿武隈川河口にも鳥海地名が在る

九州の北半を中心に「雑餉隈」など多くの「隈」地名が存在する事は当会のメンバーはどなたもご存じだと思います。そもそも故)百嶋由一郎は「東北の阿武隈川を調査した時、周辺を見て回り、やはり、阿武隈地名は九州から移動した人々によって持ち込まれたと判った…」と言っていました。

今にして思えば、阿武隈とは安倍氏が持ち込んだ隈地名のの意味なのであり「鳥海(トノミ)」地名も在るのです。

無題.png

 安倍貞任は出身地からか鳥海の三郎と呼ばれた 

まず、鳥海山ほか東北全域に鳥海地名が散見されます。少し全県検索を試みましたが、東北地方と九州にしか鳥海地名は拾えませんでした。今後も広げ、鳥屋、遠見、遠海などを調べる予定です。

では、佐賀県武雄市に残る鳥海地名、併せて大彦の弟武内宿禰を思わせる武雄市武内町、母親の山下影姫を祀る黒尾神社などをご紹介します。

 ご覧の通り、佐世保線武雄温泉駅の西隣の次の駅が永尾駅でその正面が鳥海地区なのです(二つに分かれている理由は調査中)ここに注ぐ犬走川は不思議と東の70m低い武雄川に落ちず、西に流れ、松浦川と合流し唐津に注いでいるのです。つまり、有明海側から一気に唐津湾=玄海灘=日本海の対馬海流に乗る事ができるのです。逆に言えば70m程登れば日本海側に筏で移動できるのです。今も。

無題.png
無題.png

JR永尾駅付近で西から北に流れる鳥海川はこの元湿地から数キロ先の武内町の大字真手野辺りで佐賀県でも最大級の松浦川と合流し唐津湾に注ぐのです。上は山形の鳥海山で白鳥でしょうか?

 開化天皇の指揮下で行われた(通説では第10代崇神が行ったとされていますが)四道将軍であれ、近年架空とされる神功皇后の三韓征伐であれ、ほぼ、近接する時期に行われたと思います。玄海灘側には食料、木材、衣料、金属…など物資が少ないことは皆さん良くお分かりの事と思います。

その中で、仮に途中で休憩、宿泊したとしても半日から一昼夜で唐津湾の最奥部の旧相知町大字山崎辺りには到着するはずで、労せずして有明海側から玄海灘側に多くの人員と船舶建設用の木材、糧秣などの物資を大量に送り込む事ができたはずなのです。

では、有明海沿岸から玄海灘側に兵員、物資を送るとして外に方法があるか便利かを考えて下さい。

普通は、反時計周りで流れる有明海を利用し、島原まで移動し、三つの船越地名(大船越、小船越、貝津船越目でしたか)三つの船越地名が残る諫早から(釣瓶方式で随時搬送する)大村湾に入り、西海橋or早岐の瀬戸(普通は補給を得やすい早岐ルートでしょうが)北九十九島から平戸の支々伎崎を廻り対馬海流に乗る可能性もありますが、まず、長崎半島=野母崎を廻るのは危険性が在り、よほどでなければ無理しては使わないでしょう。有田川コースはあり得ますが陸送が延び不利でしょう。

増しては、脊振山系を越えるルートは論外で、太宰府丘陵を北に越えるのが普通に思えますが、貝原益軒が反対した様に水量が少ない御笠川では搬送できなかったはずです。逆に北九州の堀川運河は戦後も川平田舟、五平太舟で石炭などを運んでいた事はご存じの通りです。とすると、武雄市鳥海以外には考えようがない事になるのです。まあ、米の山経由で飯塚に入り筑豊から送る事は可能ですが。

だからこそ、有明海側の福岡県現筑前町の大己貴神社に神功皇后が兵員を集める話が残っているのです。では、再び話を戻します。上の図を見て頂くと、鳥海川と松浦川が合流する場所に「筏橋」と言う地名が残され橋が今も掛けられています。

ご存じの通り川の合流地は平坦地であれば川幅が広がり水深も深く流速も緩やかになります。

筑後川もそうですが、戦後の夜明ダム建設(S28)まで筏流し川流しが行われ合流地で筏の編成が行われていたのです。当然ながらこの松浦川でも佐賀県西部域の物流に寄与していたはずなのですが。

田舎のためかそれほどの伝承は残ってはいません。

 今後も探索は続けますが物理的条件として整っているように思います。言うまでもなく古代には川は道だったのです。そして川沿いに道も造られ宿も鍛冶屋も大工も集まり町もできたのでした。

❹ 神功皇后の三韓征伐でも

浜玉での鮎釣りという奇妙な話は置くとしても、一端は唐津湾の西の神集島にも濃厚な伝承があり、呼子、平戸の西に出て対馬海流に乗らないと半島には移動できない上に、有明海側の武雄市、嬉野市の三韓征伐による兵員の療養の伝承を含め長崎県にも多くの伝承が有るように、有明海側に凱旋、復員しているのです。通説派はそれを消すために有明海側の伝承を神功皇后紀では隠しているのです。

それは、九州王朝の事績であることを意図的に消しているのです。近畿大和朝廷による熊襲退治の体裁を守るために有明海側への復員、増してや凱旋など絶対に肯定できず否定しているのです。

ところが、朝倉市の三奈木神社でも林田の三奈木神社は、その由緒で“神功皇后は肥前高橋の津に凱旋した”と堂々と書いているのです。山手の三奈木神社は全く祭神も異なり、近畿大和朝廷側の伝承を伝えていますが、彦山の高木大神〜阿蘇=藤原に靡いたからなのでしょう。元は、異なるというのは林田の三奈木と同様の祭神、由緒だったのでしょうが、藤原天皇制の時代になると、後漢の霊帝の末裔=阿智王の一族(大蔵、財津、田尻、原田、秋月、笠、龍…)の一族が藤原のエージェントとして専横を振るい宇佐の応神を持ち込みますので正しい伝承は消したのではないかと思います。この後漢の末裔を無視して考えるのは大きな間違いに繋がりますので、おいそれと載せられないように。

❺ では、最後にこの肥前では東部の現在では忘れ去られた様な地方の佐賀県の西部域に於いて、偽装された通説と言うだけの事ですが、一般的には武内宿禰と山下影姫との間に生まれたとされるテーマ・パークの様な世界が閉じ込められている事に気づくのです。

 武雄心命と山下影姫の子が武内宿禰とされその父を堂々と祀るのが三千年とも言われる大楠で知られる武雄市の武雄神社があり、その北4キロ程の柏岳の麓にその母とされる山下影姫を祀る黒尾神社が在るのです。

 皆さん、現在、武内宿禰の出身地は和歌山県とされていますが、山下影姫を祀る神社は1社も無い事をご存じでしょうか。これには武内宿禰を近畿大和周辺としたい思惑が働いているのです。

 対して福岡県西域から佐賀県に掛けて山下影姫を祀る神社10数社程が拾えるのです。

 特にテーマ・パークなのか、古来の伝承からなのか、武内町と武内神社が存在する武雄市は無視できない存在になるのです。大きな神社としては島根県松江市の9号線沿いに武内神社が存在します。

境内、平濱八幡宮と武内神社が仲良く鎮座しています。参道を上がると正面に平濱八幡宮、その左隣奥に武内神社の拝殿が並立します。平濱八幡宮は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后、武内神社は武内宿禰命が主祭。

一方、武雄市には武内町があり武内神社が在り、山下影姫と武雄心とされていますが、黒尾神社が45社拾えます。その他佐賀県東部域にも1社武内神社が在り、福岡市にも45社武内神社(武内宿禰)を祀る神社が存在します。久留米市正面の千栗神社の武雄社には孝元と影姫の子が宿禰と…

無題.png

我々九州王朝論の立場から古代を見通そうとする者としては、神功皇后の三韓征伐と大彦の日本海北上から会津に入った東北遠征を考える時、鳥海の三郎とも呼ばれた安倍の宗任が鳥海の由来を祖先から聴いていなかったとは考えられず、この遠征の重要な兵站基地と成った武雄市の鳥海は遠征出撃の起点でもあったと考えるのです。

この点も含めて佐賀県武雄市の鳥海を探る神社トレッキングを何時か行おうと考えています。

AIによる概要

鳥海三郎安倍宗任(あべのむねとう)は、平安時代中期の奥州安倍氏の豪族で、頼時の三男。鳥海柵(現在の岩手県金ケ崎町周辺)を拠点とし、前九年の役で活躍した。別名・鳥海弥三郎宗任。敗北後は伊予国や大宰府に流されたが、その名や逸話は奥州の歴史に深く刻まれている。

由利本荘市公式ウェブサイト

詳細な解説は以下の通りです。

鳥海三郎・弥三郎宗任:前九年の役において、兄の貞任と共に源頼義・義家軍と戦った豪族。宮城県亘理郡の「鳥海の浦」が出生地とも推定されており、鳥海弥三郎や鳥海三郎と称された。

鳥海柵(とりのみのさく):安倍氏の主要な防衛拠点の一つ。現在の岩手県金ケ崎町西根本町周辺に位置したと考えられている。

無題.png

金ケ崎町も日本海側の福井県敦賀市の金ヶ崎城の置き換えですが、一般的には織田、徳川連合軍によって滅ぼされた朝倉義景の居城の一つでした。しかしその前は兵庫県養父市の甘木に居たわけで、弟の小佐氏に譲り、金ヶ崎に進出しているのです。そのまた前を辿れば、鳥栖市の養父町、現朝倉市の甘木であることは明らかな上に、金ヶ崎が宗像大社正面の鐘ケ崎とすれば、九州から北上川流域に進出した九州王朝の一族であった事を考えない人はいないはずなのです。

無題.png
posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット

2026年08月29日

ひぼろぎ逍遥 スポット330 “(跡宮)A1147 「鳥海」❻ “ 安倍の宗任の先祖は…”の転載

ひぼろぎ逍遥 スポット330 “(跡宮)A1147 「鳥海」❻  安倍の宗任の先祖は…”の転載

        20260710

ひぼろぎ逍遥(跡宮)A1147

「鳥海」❻ 安倍の宗任の先祖は有明海側から兵員を送った事を知っていたか…? 松浦と佐里

        202600304

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


いみじくも、安倍家の先祖を探ると不思議と「鳥海」「鳥屋」といった地名に遭遇すると言ったのは「豊後阿部氏の伝承」外を出版(限定自家製本)された大分市在住の安倍貞隆さんでした(初対面時)。そして、この「鳥海」地名は東北地方一帯と佐賀県に分布しているのです。

無題.png

一等巡洋艦 鳥海 (重巡洋艦)高雄型重巡洋艦4番艦


AIによる概要

「鳥海(ちょうかい/とりうみ)」は、

秋田県と山形県にまたがる名峰・鳥海山に由来する地名です。かつての秋田県由利郡鳥海町や岩手県の鳥海村など、周辺地域や山岳名として定着しており、その由来には鳥海弥三郎宗任の領地説や山頂の湖「鳥の海」説など諸説あります。

由利本荘市公式ウェブサイト +2詳細な地名由来や主な場所は以下の通りです。

1. 地名の由来と背景

         鳥海山(ちょうかいさん): 秋田・山形県境に位置する標高2,236mの火山。古くから信仰の山として知られる。

         由来説:

o    人名説: 安倍宗任(鳥海弥三郎)がこの地を治めた、あるいは関連する旧跡であることに由来するという説。

o    地理説: 鳥海山の山頂にある湖(鳥の海)に由来するという説。

         歴史的背景: 鎌倉時代以前、この地域は由利弥三郎宗任の支配下にあったと伝えられ、由利郡一帯にその勢力が及んでいた。

 福島県 福島県大沼郡三島町大登に「鳥海館跡」が確認できます。

無題.png

❻ 山形県鳥海山 どなたもご存じの鳥海山


東北地方と佐賀県とに分布する「鳥海」地名の不思議な分布から連想されるのは、ベクトルが北向きか?南向きか?ですが、どのような結果になろうともどうも無関係には思えないのです。


前九年の役 [編集]奥州奥六郡岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦う(前九年の役)。一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害されるが、宗任らは降伏し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという。(『平家物語』剣巻)

ウィキペディア 20260306 08:12 による 安倍宗任で検索したデータの一部


これまで「鳥海」地名をキー・ワードに若しかしたら九州北部に居た大彦の一族が、佐賀県武雄市から松浦川を利用し玄海灘に下り対馬海流に乗り福島から東北地方に移動したのではないかを探ってきました。ただ、未だに解決しない問題として松浦党の本流が嵯峨天皇後裔説と安倍宗任後裔説が解決しないでいます。

どうも研究会内部でも多くの皆さんがこの問題について結論を出せない状態にある様に思うのです。

私は古代史でも前半から神代史が守備範囲ですので、この問題に関しては即応できないのですが、幸いにも必要な情報を纏められ公開されておられました。それは、ネット上で「平戸城」を検索されれば出てくると思いますのでご紹介したいと思います。勝手ながら一部を引用させて頂きます。


無題.png----ひらどじょう ----無題.png
別名:亀岡城
かめおかじょう・玄武城げんぶじょう・朝日嶽城あさひだけじょう

「安倍宗任末孫説」を概説しよう。永承六年(1051)から康平五年(1062)の前九年の役(ぜんくねんのえき)で源頼義(みなもとのよりよし)に敗れた安倍宗任(あべのむねとう)が、頼義の領地・伊予国(いよのくに=愛媛県)に流されたのち、逃亡の気配があるということで治暦三年(1067さらに筑紫・大宰府(だざいふ)へ流された。大宰府では離島の大島(現在の宗像市大島)に宗任を置いた。このとき、宗任は長男・宗良、二男・仲任、三男・季任とともに大島に上陸した。宗任は天仁元年(1108)大島で死去、墓は大島の安昌院にある。三人の子は、長男・宗良は大島太郎安倍権頭(おおしまたろうあべごんのかみ)として大島の統領となり、その子孫は宗像社の神職などについたそうだ。二男・仲任は薩摩国へ行ったというが詳細は分からない。そして、三男・季任は松浦へ行き、松浦三郎大夫実任(まつらさぶろうたゆうさねとう)と名乗った。実任(季任)はのちに豊後国宇佐郡へ行くが、その子孫は松浦に残った。これが松浦氏になったという。この「安倍宗任末孫説」については、古く鎌倉時代後期に成立した「平家物語」の写本のひとつ、屋代本にあるという。ずいぶんと古くからある説だ。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」、安川浄生氏 「宗像の歴史」、伊藤篤氏 「福岡の怨霊伝説」) なお、季任の子孫・安倍高俊(あべのたかとし)は宗任五世の孫であり、平清盛(たいらのきよもり)の側近となったが壇ノ浦で敗れ、今の山口県大津郡油谷町に流されたそうだ。そこで娘をもうけ、娘は平知貞(たいらのともさだ=平知盛の庶子)に嫁いだ。その子孫、宗任から四十四代目が安倍晋三(あべしんぞう)元首相だそうだ。(安川浄生氏 「宗像の歴史」)


もう一つの「嵯峨天皇末孫説」について、松浦史料博物館発行の「史都平戸」でみてみよう。第五十二代嵯峨天皇(さがてんのう)の第十八皇子・融(とほる)は源姓を賜って源融(みなもとのとおる)と名乗った。嵯峨天皇には五十人の皇子女がいたという(吉川弘文館 「歴代天皇年号事典」)。源融は左大臣まで昇りつめた人物で、また「源氏物語」の光源氏のモデルともいわれる。その第二子・昇(のぼる)も大納言となり廟堂に列したが、昇の第二子・仕(つかう)は武人となり平将門の乱、藤原純友の乱に功をおさめて武蔵守に任ぜられ、武蔵国箕田(みた)に住んだ。その子・充(みつる)も父に従って純友の乱鎮圧に加わり、多田満仲(ただのみつなか、まんちゅう)の娘を娶ったが二十歳くらいで没した。その多田満仲の娘が生んだ子が、綱(つな)だ。綱は幼くして親を亡くしたため母方の親戚に育てられた。京かその周辺で育ったのだろう。十一歳のとき源頼光(みなもとのよりみつ)に仕え、のち大江山の酒天童子、葛城山の土蜘蛛退治に活躍した。摂津国渡辺に住み、渡辺綱(わたなべのつな)と名乗り、源頼光の四天王と呼ばれるようになる。頼光が正暦元年(990)肥前守として下向したときこれに従い、岸嶽あたり(唐津の南方)の賊を平らげた。綱は致仕したのち摂津渡辺から武蔵箕田へ移り、そこで没した。綱の子・授(さずく)は肥前奈古屋(なごや=名護屋のことだろう)に住み、奈古屋次郎太夫(なごやじろうたゆう)と称したが、のちに京へ戻り内舎人(うちとねり)となった。その子・泰(やすし)は摂津渡辺に住み、後三条院に仕えた。そして泰の第一子が久(ひさし)である。久は延久元年(1069)に松浦郡の宇野御厨検校(うのみくりやけんぎょう)となり肥前国松浦の今福に下向した。ついで検非違使(けびいし)を命ぜられ上下松浦郡、彼杵郡の一部、および壱岐を治め、松浦を姓とした。久は今福村に梶谷城(かじやじょう)を築いたという。これが松浦氏の起こりとされている。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
宇野御厨とは、現在の平戸・五島、および長崎県北松浦郡一帯の荘園だそうだ。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」90頁)

無題.png

では、「安倍宗任末孫説」と「嵯峨天皇末孫説」のどちらが事実なのだろうか。長崎大学の外山幹夫氏は、両説のいずれも決定的な根拠を見出すことはできないまでも、「嵯峨天皇末孫説」のほうが難点が少ないとしている。その理由として、松浦氏が源姓であること、松浦氏と関わりがあると思われる源聞、源知といった人物が肥前国司であることは捕囚あがりの安倍宗任とは相容れないこと、また青方氏や宇久氏のような現地勢力が松浦氏のもとに集まり松浦党となったことは、捕囚出身の宗任よりも嵯峨天皇の貴種のほうが説明できることなどを挙げている。その一方で、二つの説が双方とも成立する可能性、および双方とも違う可能性を指摘して結論を避けている。合理的な判断だと思う。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
ここで、拙者の考えを述べておくと、両説とも事実なのではないかと考えている。松浦氏の名が、始祖とされる久をはじめ代々「一字名」であることは渡辺源氏の特徴であるので、これは無視できないと思う。もっとも、渡辺源氏を詐称した可能性もないではないが、そんなことは周りの人々の支持を得られることではないので、滅多にやらないことだと思う。現代人が考えるほど、昔の人は権力者におもねっていないものだ、と拙者は考える。しかし一方で、鎌倉時代後期には「安倍宗任末孫説」が「平家物語」に記されていることも無視できないので、いろいろ考えると、両説とも事実であって、安倍宗任の子孫の女子が、嵯峨天皇の末裔の男子に嫁いだと考えればいいのではないだろうか。もっとも、単なる想像の話ではある。
さて、源久(みなもとのひさし=松浦久まつらひさし)のあとを「史都平戸」に従い、続けて追ってみよう。
久は子だくさんで、子供たちにそれぞれ所領を分け与え、それぞれが松浦一族の祖となっていく。久の長男・直(なおし)には御厨(みくりや)を、二男・持(たもつ)には波多(はた)を、三男・勝(まさる)に石志(いしし)を、四男・聞(きこう)に荒久田を、五男・広(ひろし)に神田、六男・調(しらぶ)に佐志(さし)、養子・高俊(たかとし)に牟田部を、それぞれ与えた。ここで、養子の高俊というのは例の安倍晋三元首相の祖先という高俊のことだろう。ただ、同書には「一の谷の合戦」で戦死とあり、壇ノ浦ののち流されたことと矛盾している。外山幹夫氏の言うように、謎の人物ということだろう。
さて、御厨を継いだ直(なおし)には八人の男子があったという。第一子・頼は京へ行き、その後不明。第二子・清には今福・志佐(しさ)・相浦・佐世保・壱岐の一部などを与え、この子孫がのち相神浦(あいこうのうら)松浦氏になっていく。直は第三子・栄(さかう)には有田を、第四子・遊(あそぶ)には大河野を、第五子・披(ひらく)には江迎・佐々・平戸を、第六子・囲(かこむ)には伊万里・山代、第七子・彊には八並、第八子・連(つらぬ)には値賀を、それぞれ与えた。まさに末広がりのお目出度い一族だ。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
ただ、それぞれが各氏の始祖になったというよりも、直が子供たちを現地の豪族に次々と養子に入れたという説もある。たしかに、その方が理にかなっていると思う。また、直の第一子については、この頃九州へ下向してきた鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)の家臣となり、為朝の上京に従って京へ赴き保元の乱で戦死した、という話もある。(神尾正武氏 「松浦党戦旗」)

無題.png

ところで、直の子のなかで、清が今福の地を譲られているということは、松浦氏の嫡子なのだろう。この時代、必ずしも年上が嫡子とは限らない。ただし、嫡子や嫡流といっても松浦一族の場合はその特徴として、惣領が松浦一族の中心的存在ではなく一族の中に埋没しており、松浦一族が「松浦党(まつらとう)」という集団の名前で記録などに登場する。のちに松浦党には、もともと松浦一族でない青方氏や宇久氏なども加わっていくようになる。
この頃のこととして、壇ノ浦合戦(だんのうらのかっせん)がある。元暦二年(1185)三月二十四日、彦島(ひこしま=現山口県下関市)に逃れた平家と源義経率いる源氏が壇ノ浦で戦い、平家は滅びた。この合戦に松浦党が参戦していたといわれる。「吾妻鏡」に、平家方は五百艘の舟を三陣に分かち、山峨兵藤次秀遠(やまがひょうとうじひでとお=山鹿秀遠)ならびに松浦党を大将軍となした、とあるそうだ。同様の記事は「平家物語」にもあって、事実と考えてよさそうだ。ということは、松浦党は平家方だったということになる。
しかしながら、源平合戦に決着がついて源氏の世となったあとも松浦氏は生き延びていく。同じ平家の大将軍だった山鹿秀遠は
山鹿城を追われ没落したが、松浦党のほうは処罰された証拠がないようだ。外山幹夫氏は緒方惟能(おがたこれよし)や菊池隆直(きくちたかなお)らと違い、松浦党の中心人物がはっきりせず「A級戦犯」がいなかったことが原因とみている。拙者はそのほかに、松浦氏が源姓だったことも関係しているのではないか、と考えている。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
さて、直の第五子・披(ひらく)は峯(みね)氏を称し、これがのちの平戸城主・松浦氏へとつながっていく。ただ、峯(みね)の地がどこなのか、分からないそうだ。峯披(みねひらく)は、建久三年(1192)六月二日、肥前国宇野御厨(うのみくりや)のうち紐差浦(ひもさしうら)の地頭職を幕府から安堵されている。紐差は平戸島の中部にある。また、披は建保六年(1218)、子の三郎上(のぼる)に伊万里浦・福島・田平のうち粟崎などを譲っている。そして、上の兄である持(たもつ)には、披の弟・松浦十郎連(つらぬ)が小値賀島(おぢかとう)を承久元年(1219)に譲り、二年後の承久三年(1221)五月、幕府は持に対して小値賀島地頭職を安堵した。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」)
したがって峯持は小値賀にいたわけだが、のち嘉禄元年(1225)頃、平戸へ移り、館山に居を構えた。これが平戸松浦氏へとつながっていく。居館をおいた館山は、今の松浦史料博物館の裏山のことだという。持の子・繋(つなぐ)も平戸館山に住したが、子がなく、宇久太(うくふとし)の二男・湛(たたう)を養子にもらい跡を譲った。宇久太は松浦直の子で大河野を譲られた遊(あそぶ)の子孫だそうだ。このように松浦一族の中で養子縁組や婚姻を相互に行っていたのだろう。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
峯湛(みねたたう)は、小値賀島地頭職を鷹島源三満(たかしまみつる)と相論したが、文永八年(1271)幕府から平戸・河内・野崎・南黒島・小値賀島の地頭職を安堵されている。

無題.png

というブログがあります。

その、大分市に安倍氏伝承6 勝光寺 に安倍宗任の三男の実任の墓が在ると書かれていました。

無題.png
無題.png
無題.png
posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット

2026年08月28日

ひぼろぎ逍遥 スポット329 “(跡宮)A1146 「鳥海」❺ “ 安倍の宗任の先祖は…”の転載

ひぼろぎ逍遥 スポット329 “(跡宮)A1146 「鳥海  安倍の宗任の先祖は…”の転載

        20260710

「鳥海」 安倍の宗任の先祖は有明海側から兵員を送った事を知っていたか…? 武内町と真手野

        202600304

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


A1145 「鳥海」❹ 安倍の宗任の先祖… 鳥海の周辺 からの続きになります。

まず、一般に宗任の先祖とされる大彦を、第8代孝元天皇と山下影姫との間に生まれた大彦、武内宿禰兄弟とすると、前ブログでご紹介した通り、福岡県久留米市から佐賀県武雄市一帯に、多くの関係する人々に関わる神社、地名、伝承…が分布している事が分かって頂けると思います。

具体的には天武が建てたと考えている(白鳳年号で二年)久留米の高良大社直下の高良下宮社の主神は今でも堂々と孝元天皇とされていますし(外にはあまり見かけませんね)、通説で言われる武内宿禰の父武雄心命を祀る神社=武雄神社(佐賀県武雄市)、通説でも武内禰の母とされる山下影姫を祀る黒尾神社(武雄市朝日町黒尾)があり、旧武雄市には旧山内町添いに武内町が在り武内神社までが鎮座しているのです。

 そして、佐賀県から福岡県に掛けて武内宿禰、山下影姫を祀る神社が二十社近く存在しているのです。そうであるにも拘わらず武内宿禰の出身地は紀州=和歌山県などと騒いでいるのです。

 勿論、武内宿禰の出身地は有明海沿岸の久留米市〜武雄市一帯のはずですし、その兄大彦もその一帯で生まれその末裔が安倍貞任、宗任であると考えているのです。

無題.png

佐賀県武雄市武内町


 そして、この地に隣接して旧山内町大字鳥海も在るのです。最低でも、武内宿禰と武内町は無関係ではないはずなのです。

無題.png

 何故、二つに分かれているかは不明ですが、この一帯が非常に気になるのです。

無題.png

そして、武内町には真手野という大字があり、ここでかなり大きな水量を持つ支流鳥海川は松浦川に合流するですが、面白いことにその正面に筏橋なる橋が在るのです。

勿論、今時、筏で渡す様なものがあるのではないのですから、かつてはこの地で筏を組んだ地域の記憶がこの橋の名称に成っている様な気がするのです。

無題.png

神功皇后の三韓征伐の折に書いた(A1141「鳥海」❶)筏による兵員+物資輸送に対応する場所がここだったのではないかと思うのです。

 言うまでもなく、川の合流部はため池状のワンドが出来易く、流した木材を筏に編成するには便利だったと思います。当然、大彦の東北遠征(四道将軍)にも兵站基地となったはずです。

 その地に曹洞宗の東禅寺が在り、真手野という安倍宗任に関係の有りそうな地名が拾えるのです。

無題.png

真手野に曹洞宗の東禅寺があり、大阪府門真市に真手山黄梅寺が在るという事は、真手が観音の衆生のための救いの手としての意味が込められた地名で観音信仰に関係するのではないか…とまでは言えそうです。

 ここで安倍の宗任の先祖にあたる大彦の弟である武内宿禰と関係がありそうな武内神社をご紹介しましょう。

無題.png

武内神社 カーナビ検索 佐賀県武雄市武雄町武雄5327


以下AIによる武内神社の祭神

佐賀県武雄市にある武雄神社(たけおじんじゃ)の主祭神は、武内宿禰(たけうちのすくね)、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武雄心命5です。これらは総じて「武雄大明神」と称され、延命長寿、開運、厄除けの神として崇敬されています。

武内宿禰命- 360歳まで生きたとされる伝説的長寿の神、武雄心命- 武内宿禰の父、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇

無題.png
無題.png

この外にも黒尾神社が武雄市山内町大野(松浦川流域)、伊万里市波多津町に黒尾神社が在ります。

これらは、武雄市の黒尾神社同様、武内宿禰命を祀る神社と考えられます。以下は伊万里市波多津の黒尾神社

無題.png

念のために、大彦、武内宿禰の実母である山下影姫を祀る神社で恐らく本物の可能性が高い武雄市朝日町の黒尾神社もご紹介しておきましょう。

昔は、武雄神社の主神の武雄心命が山下影姫の夫神と思い込んでいたのですが、百嶋神社考古学を知ってやはり偽装であり、久留米の高良大社の79代の正統皇統の呉の太白の血脈をひく三代の天皇(孝霊、孝元、開化)を隠し、近畿大和朝廷を補完する内容にされていると理解し、消された血脈を探るのが当サイトの任務であり、その立場から、再度、この黒尾神社を考え直したいと思います。


AIによる概要 佐賀県内で山下影姫命(やましたかげひめのみこと)を主祭神、あるいは配祀神として祀る代表的な神社は、武雄市朝日町にある 「黒尾神社」です。武内宿禰の母として知られ、高良大社(福岡県)の玉垂命の神妻ともされる影姫を祀っています。

神社名: 黒尾神社 所在地: 佐賀県武雄市朝日町6741特徴: 玉垂命(高良玉垂命)の妻、山下影姫命を祀る。関連: 福岡県小郡市の力武竈門神社も山下影姫命を祀る神廟として知られています。小郡市埋蔵文化財調査センター周辺エリアを含め、高良玉垂命関連の伝承を持つ神社に祀られていることがあります。小郡市埋蔵文化財調査センター

無題.png
無題.png
無題.png

山下影姫はナガスネヒコの叛乱が草部吉見によって鎮圧されたようですが、結果、その妹の武内足尼は草部吉見の妃とされ、後に(百嶋先生は「生活困窮した後」)八咫烏の世話になり、生まれた一族が武夷鳥でその姉の葛城高千那姫の間に生まれたのが山下影姫だったのです。

 その山下影姫と久留米の高良山に居たと思われる孝元天皇との間に生まれたのが、兄の大彦であり、弟の武内宿禰なのです。

 ここで注意を要するのは大彦が全く触れられていない事です。

 大彦とその後の東北の阿部一族が大和朝廷〜藤原天皇制の敵となったことから大彦が消された可能性があるのですが、今のところは不明です。

 白村江の敗戦の結果、九州王朝が滅び、天武系が九州から奈良に本拠地を移すも、最終的には阿蘇氏の流れを汲む連中が天智系に協力し皇統が天武系から天智系に取って代わられなど中央政権の変化によって、結果、逆賊扱いになった東北の阿部一族、奥州藤原氏が滅ぼされる事になるのです。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット