2020年01月18日

727 後の熊襲=菊池氏の北上したルート(一ツ瀬川)上の神社を歩く A 児原稲荷神社

727 後の熊襲=菊池氏の北上したルート(一ツ瀬川)上の神社を歩く A 児原稲荷神社

20190204

太宰府地名研究会 古川 清久


 このシリーズには既に四本書いた狭上稲荷神社や村所神社の外に、西都市に編入された東米良の銀鏡神社や小川の米良神社などを書くべきですが、銀鏡神社や米良神社までは気力が続かず次回に回す事にしました。

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熱も頭痛もなくインフルエンザではないようですが、一週間ほどタンと咳が切れず(胆石ではないですね…冗談ですが)、咳ばかりしていました(国学者に新井白石がいましたが…これもジョークです)ので体がきつく、一応、直した上でトレッキングに参加したのですが、やはり病み上がりで気力が続きませんでした。

 この神社は前述の伊吹戸主神社と西米良の村所の中間のダムの真横にあるような神社で、移転補償でなければ、良くも氏子もいないような所にある神社と感心したほどでした(実際、氏子の3割はダム建設で消えたそうです)。

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トルコ系匈奴=熊襲後裔が菊池氏ではないかと気付いたことから急いで周辺の神社を調べるに至ったのですが、最初に遭遇したのが狭上稲荷神社であり二番目に遭遇したのが児原稲荷神社でした。

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児原稲荷神社 カーナビ検索 宮崎県児湯郡西米良村越野尾134


菊池氏が何者であるかを考える時に、何故、稲荷神社を調べる必要が有るのかを分かられない方は、逆に言えば、それが分かれば菊池氏が如何なる存在であったかが分かる…のであり、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から、以前書いた、以下の二本


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(下)

711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(上)


ひぼろぎ逍遥

723

菊池氏とは熊襲(トルコ系匈奴)であった “ようやくその尻尾を掴んだ”


などお読み頂くとしてここでは触れません。

 重要な点は、稲荷様とは大山祗の長女である神大市姫の娘であることで、伊勢の外宮の豊受大神でもある女神様とは、大山祗の孫娘にあたる事なのです。

 同時に、良く引き合いに出される菊池氏の亡命地(一般的にそう言われていますのでそうしておきますが…)の一つである東米良(現西都市)の銀鏡神社の祭神が醜かったことからニニギから返された磐長姫というとんでもないデマ(恐らく藤原が貶めるためにそう描いた…)のイワナガヒメ=アカル姫の父は博多の櫛田神社の大幡主でありその妹が埴安姫で、同時に大山祗のお妃となっている事から、アカルヒメから見れば、大山祗とは自らの実父である大幡主の妹で叔母の旦那様にあたる事になるのです。

 これらの関係から菊池氏に絡む神々が全て大山祗、大国主、コノハナノサクヤ…に絡む事から、菊池氏が本来祀る神々が大山祗であることから、我々が考えるトルコ系匈奴の後裔氏族であろうとの考えに納まって来たのでした。

 今後ともこの観点から裏取りの作業を行う事になるでしょう。

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筆頭の倉稲魂命は稲荷様であり、実は伊勢の外宮の豊受大神なのです。

 従って、夫神を従えており、山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦こそ稲荷様の旦那様なのです。

 太田命がこの神社の場合誰なのかが不明ですのでここでは保留しておきます。

 大宮姫は、鹿児島県下だけで広がる大宮姫伝承の大宮姫(戻って来られた天智天皇のお妃とも)ならばそのまま理解しますが、これも保留します。

 木花咲耶姫命は説明不要

 大山祗命も説明不要

 この児原稲荷神社の一帯も亡命菊池氏の本拠地ですからですが、そういう辺境の安全地帯だからこそ不用心に大山祗系=熊襲の神々が祀られているのかも知れません。

この氏子の一族も恐らく宮司家も生粋の南朝方の菊池氏そのものであろうことは言うまでもありません。

 現在でも、菊池である事を隠していると言われますが、何故、菊池が自らの素性を隠し続けたかは、朝敵とされた熊襲の後裔であることを公とし難い立場にあった事、つまり、南朝方として阿蘇氏と連携し戦う時に対外的に朝敵である事を隠す必要があったのではないかとようやく分かるようになりました。

 ここまで考えると本来の菊池氏の本拠地とは、当然にも西都市であり西都原古墳群だったのではないかとまで考える訳で、米良一帯を亡命菊池氏の根拠地とこじつける必要もないのではないかと思うのです。

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百嶋由一郎氏が残された音声CD、手書きデータ、神代系譜を必要とされる方は09062983254まで

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2020年01月15日

726 後の熊襲=菊池氏の北上したルート(一ツ瀬川)上の神社を歩く @ 伊吹戸主神社

726 後の熊襲=菊池氏の北上したルート(一ツ瀬川)上の神社を歩く @ 伊吹戸主神社

20190204

太宰府地名研究会 古川 清久


 ようやく菊池氏が何者かの尻尾を捕まえた気がしていますが、その検証のためにも少しずつ西都〜西米良〜人吉への道=一ツ瀬川沿いの神社を踏んで行こうと思っています。

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古代史ファンなる好い加減な人々(他人の書いた本だけを読んで古代史家気分になっているだけの人々と言う意味で)にも西都原古墳群(オサホヅカ、メサホヅカ程度ですか…)は比較的知られていますが、

第二古墳群最大の前方後円墳(柄鏡型)が伝 大山祗の墓とされる大型古墳であり、その正面には石貫神社(大山祗を主神に木花之佐久夜毘売=木花開耶姫を祀る)があり、その傍らには桜川(関東ではコノハナノサクヤは桜姫とされている)が流れている事まではあまりご存じにはなっておられないでしょう。

 さて、一ツ瀬川が注ぐ西都市の中心部から同川を遡上すると、大湾曲部に吊り橋が掛けられ伊吹戸主神社 速開都比売神社があります。

 二十年来気にしていましたが、今般、西米良村の狭上稲荷神社に熊本のメンバー5人ほどで二度目の参拝を行なった事から、遠回りながら(行程が80キロは延びる)同社に訪問する事にしました。

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伊吹戸主神社            速開都比売神社


 さすがに、速開都比売神社の青い鳥居には驚かされますが、この神社はどちらが先に存在したのでしょうか?いずれも祓戸の神ですから多分同時期なのでしょうが、ここではこの神様が誰であるかを明らかにしておこうと思います。伊吹戸主神社は近年無題.png再建されたようで、資材はどのようにして運ばれたのか大変だっただろうと思います。

さて、祓戸の神です。皆さんも大祓いの祝詞をご存じだと思いますが、要は異なる民族同志の衝突が起こり男は皆殺しにされ残された子供と老人を救う代わりに女は新たな支配者の男を受入れるための儀式を司ったのが神官であって、その最重要の祝詞が大祓だったのです。神官とか禰宜が如何なる存在の人間であるかが良く分かりますね。少なくとも強い者に従う人々なのです。勿論、藤原が送り込んだ連中が大半なのでしょうが、従って、その選に洩れた神々と考えられれば分かり易いかも知れません。

 つまり、祓戸の神とは藤原が自らに都合が良いように設えた敵国条項か藤原が関与しない占領政策のための神々のようなもので、まずは、藤原に順応する神々ではないと見るべきでしょう。

 単純には言えないのですが、大祓の本質とは敗残した先住神の一族を鎮めるためのものと考えれば本質に迫れる訳で、それに単純には従わなかった神名なのかも知れません。それだけに、地域本来の神とも、本来の失われた大切な先祖神とも言える訳で、だからこそより強く祀られるべき神々とは言える訳です。

ただ、如何なる神であるかが分からなければ意味はない訳で、少しご説明申し上げたいと思います。


祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司どる神である。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味である。

神職が祭祀に先立って唱える祝詞である「祓詞」では「伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓給ひし時に生り坐せる 祓戸大神等」と言っており、祓戸大神とは、日本神話の神産みの段で黄泉から帰還した伊邪那岐が禊をしたときに化成した神々の総称ということになる。

なお、この時に禍津日神、直毘神、少童三神、住吉三神、三貴子(天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊)も誕生しているが、これらは祓戸大神には含めない。「祓詞」ではこの祓戸大神に対し「諸諸の禍事罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へ」と祈っている。

『延喜式』の「六月晦大祓の祝詞」に記されている瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神を祓戸四神といい、これらを指して祓戸大神と言うこともある。これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、「大祓詞」にはそれぞれの神の役割が記されている。

瀬織津比売  (せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す

速開都比売  (はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む

気吹戸主    (いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ

速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う

速開都比売を除いてこれらの神の名は『記紀』には見られず、『記紀』のどの神に対応するかについては諸説あるが、上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。

本居宣長は、瀬織津比売を八十禍津日神(やそまがつひ)に、速開都比売を伊豆能売(いづのめ)に、気吹戸主を神直日神(かむなおび)に当て、速佐須良比売は神名の類似や根の国にいるということから須勢理毘売命(すせりびめ)に当てている(当てているだけでその神と同一視されるほどのものではない)。『中臣祓訓解』『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』は伊勢神宮内宮荒祭宮祭神の別名として瀬織津姫、八十禍津日神を記している。

ウィッキペディア(20190204 1615による

実は、いつもご紹介している百嶋由一郎最終神代系譜にこの祓戸の神が書かれています。

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伊吹戸主神社    金山彦=火之迦具土神、軻遇突智 でイスラエル系の製鉄神です

          息子は有名な神武後兄五瀬命、娘も本物の神武天皇の本物のお妃アイラツヒメ

速開都比売神社   この女神様はタカミムスビの神の長女の豊秋ツ姫(ヤタガラスのお妃)で豊玉姫の母神に当る方です

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祓戸4神が元々祀られていたとの記述は非常に重要かと思います


ウイキペディアに掲載された本居宣長先生の見解と百嶋由一郎氏の見解に少し異なる所がありますので、

本居宣長は、瀬織津比売を八十禍津日神(やそまがつひ)に、速開都比売を伊豆能売(いづのめ)に、気吹戸主を神直日神(かむなおび)に当て、速佐須良比売は神名の類似や根の国にいるということから須勢理毘売命(すせりびめ)に当てている(当てているだけでその神と同一視されるほどのものではない)。

百嶋説による修整を試みます。

瀬織津比売を櫛稲田姫に、速開都比売を伊豆能売(いづのめ)=豊玉姫の母神の豊秋ツ姫に、気吹戸主を金山彦に当て、速佐須良比売は神名の類似や根の国にいるということから鴨玉依姫に当てている。なお、須勢理毘売命(すせりびめ)は市杵島姫。

いずれにせよ宗像三女神(白族)大幡主の子の豊玉彦=ヤタガラスの一族が絡んでいます。

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2020年01月12日

725 2019年2月に行なう古代糸島水道を探るトレッキング “下調べから”

725 20192月に行なう古代糸島水道を探るトレッキング “下調べから”

20190130


太宰府地名研究会 古川 清久


 古代史の世界に於いてもっと重要なエリアと考えられるのが糸島市から福岡市の周辺部の市町域ですが、新年二度目の神社トレッキングを行なう事にしました。念頭にあるテーマは古代糸島水道です。

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集合場所は変更になっています


 2月のトレッキングは、福岡市西区から糸島(旧前原)に掛けて67社を巡るだけではないかと思われているかも知れませんが、その配神、摂社、分社の扱われ方から、その神を奉斎した勢力、氏族、民族までも見通す事ができるようになっており、いつの時代に如何なる勢力がこの地を支配していたのか…同種の神社がどのように分布展開しているかを把握できる事は、古代の氏族がどのように動いたかが理解できるのです。

 例えば、糸島市でも良く知られた産ノ宮神社です。

この祭神の奈留多姫とは第二代綏靖天皇(阿蘇神社の最奥神殿に祀られる金凝彦)の母との振れ込みにはなっているのですが、百嶋神代系譜によれば、その実体は事実上の阿蘇初代の惟人(コレヒト)の姉か妹かであって、後の建御名方のお妃となった八坂刀女でしかないのです。

このように大国主系(中期の九州王朝の主力であった)から阿蘇系(藤原系=事実上の近畿大和朝廷系)へのすり替えが行われているのであって、そのまま真に受ける事ができないのです。

 この様な視点を持っていない持とうとしないまま漫然と神社巡りをして御朱印を集めるなどは殆ど愚かなことで、このような訓練、演習を兼ねた調査研究を行っているのです。

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たまたま20192月はこの企画だけにしていますが、実は22日には三県から6名を人吉盆地の最奥部の市房山に近い宮崎県西米良村の中心部の村所地区から10キロ入る最奥部の狭上稲荷神社に訪問し宮司から話をお伺いする予定ですし、1月の最期の土日には熊本(菊水インター)で合流し、3名で福岡県糸島市の桜井神社と玉名市の熊野座神社を参拝する等、常設の研究会による通常のトレッキングとは別に随時調査、探索の作業を続けているのです。

 上の地図に出た神社群はざっとひっぱりだしただけのものですが、中島茂氏が選ぶ神社ですからそれなりの意味をもっているはずです。

 今回のテーマは、古代糸島水道周辺の神社の痕跡をたどる企画ですのでまさに博多の古代を探るトレッキングとなるでしょう。

混雑する場所ですので本心を言えば乗り気じゃないのですが、重要性は無関係ですね。


集合 やよいの風公園 福岡市西区 吉武 092-711-4666


飯石神社 福岡市西区飯氏294      蛭児命 素戔嗚命 月読命 旧三郎神社 現在は御食入沼命

八雲神社 福岡市西区今宿上ノ原416   素盞鳴命 櫛稲田姫命 大己貴命

埴安神社 福岡市西区今宿町260     埴安神 天穂日命 太田神

老松神社 糸島市前原中央1-4-14    天穂日命 天満天神(新)

老松神社 糸島市前原前原220-6     天穂日命 天満天神(旧)現人神社 大己貴神 恵比寿神社(事代主命 里守(さともり)神社 霊神 宮地嶽三社大明神 社日宮(しゃにちぐう)

老松神社 糸島市高来寺92       祭神不詳

産宮神社 糸島市波多江駅南1丁目13-1 奈留多姫命 ウガヤフキアヘズ尊 玉依姫命

社伝によれば、「奈留多姫は懐妊に当たり、大いに胎教を重んじ、玉依姫命、豊玉姫命両神の前にて、「月満ちて生まれん子は端正なれば永く以て万世産婦の守護神ならん」と誓いて、出産に臨んで苦もなく皇子、神渟名河耳命(第二代、綏靖天皇)を安産し、以後、「産宮」と称えて安産守護の神と祭る、とある。

神功皇后が朝鮮出兵の時、出産が遅れることをこの神に祈り、そのしるしがあって、帰国後、無事に皇子(応神天皇)を出産した。そのお礼に百手の的射を奉納したと伝えられている。

天平年間(729 - 749年)、聖武天皇が僧行基に命じて、この社に庶民のお産が安産であることを祈願した。その後、正安3年(1302年)後伏見天皇も同じ祈願をしたという伝承がある。

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