2022年09月23日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 289 高良社が残された九州王朝の若宮八幡神社 千曲市 武水分八幡神社

新ひぼろぎ逍遥 スポット 289 高良社が残された九州王朝の若宮八幡神社 千曲市 武水分八幡神社

  20220815

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回のリポートを書くとして、主要な目的地としての長野の4市を先行して書き上げ、それ以外の地域の神社については、余裕があれば、後で書き加えることにしたいと思います。

 千曲市、上田市、小諸市、佐久市の順で事前に抽出した神社を中心に踏査しましたが、最初に訪れたのはかなり立派な八幡神社で、普通なら調査対象にさえしないのですが、やはり若宮神社が絡んでいるのです。

 既に事前調べで取り上げましたが、ここで長野県の若宮八幡神社をご覧になって下さい。

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再掲載)信濃の若宮神社20社 周辺の県と比較しても非常に多くの数の若宮八幡神社があるのです


 我々がこの事実に拘るは、この若宮が誰であるかが多少は見当が付いているからです。

一般的に、若宮神社の祭神は“応神天皇、神功皇后、仲哀天皇(応神天皇の父)3柱”とする場合もあるのですが、普通は“応神天皇の皇子”などとされるオオササギの命=仁徳天皇と言われます。また、これとは別に、カミムスビ(博多の櫛田神社の大幡主)の御子であるヤタガラスを若宮として扱う神社もあり、これまたとんでもないことですが、所謂、奈良の春日若宮の問題も具体的には存在します。

まあ、応神の子などというのはとんでもない話で、真実は、仲哀死後の神功皇后を妃(皇宮皇后)とした第9代(藤原がそう扱っただけですが)開化天皇の5人の皇子の長子シレカシノミコト=藤原によりオオササギとされる仁徳天皇そのひとであり、事実上最後の九州王朝の天皇だからなのです。

 これは「高良玉垂宮神秘書」を基盤とする百嶋神社考古学からの真実へのアプローチなのです。

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


仁徳が応神の子などとは後の藤原となる多氏=宇治氏=阿蘇氏が造ったとんでもない話ですが、通説派の御用学者共にとっては真実の皇統などどうでも良いのであって、単に崇め奉った大嘘の聖典なのです。

一方、若宮がこれほど存在する信濃が如何なる土地だったかを探る使命が我々に託されているのです。

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武水分八幡神社 カーナビ検索長野県千曲市大字八幡3012

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同社由緒


その信濃の一社として今回最初に見せて頂いたのが、千曲市の武水分(若宮八幡)神社でした。

特に重視しているのは、高良社と若宮社であり、この複合体は、全国に痕跡を残す九州王朝の高良玉垂命=開化天皇と神功皇后(仲哀死後=皇宮皇后)の神社であり、その長子こそが、大雀命とされるも、開化天皇と神功皇后(仲哀死後の)直系の5人の皇子の筆頭シレカシノミコト=仁徳天皇なのです。

これについては、久留米市山川町の高良皇子神社=九躰皇子神社などを検索して下さい。

事実、若宮では応神を抑え筆頭神となっており、高良玉垂命も祀られているのです。

 これこそが、九州王朝系の氏族が甲斐、信州一帯に展開していた痕跡ではないかと考えているのです。

 今回、勇んで書き始めたのですが、浮かれ過ぎていたからか現地調査の写真の撮影状態が不味く、一部、敬愛する「玄松子」様の画像と記事などを借用させていただきます。以下。


式内社 信濃國更級郡 武水別神社 名神大 旧県社


御祭神 武水別大神

配 祀 誉田別命 息長帶比賣命 比淘蜷_

長野県千曲市(旧更埴市)八幡にある。JR姨捨駅の北東2Kmほど、千曲川の西岸に鎮座している。

南から道路を北上すると、正面に大鳥居がある。道路は、大鳥居から西へ少し湾曲して北上する。境内は、内境内と外境内に別れており、大鳥居をくぐると、外境内。参道を進み、参道の鳥居をくぐると、内境内となる。孝元天皇の御代の鎮座と伝えられている。別名を更級八幡宮といい、鎮座地も八幡。

石清水八幡から勧請された八幡三神が、相殿に祀られている。主祭神は、武水別大神。「たけみずわけ」と読むが、本によっては「たけみくまり」ともある。千曲川の水神を祀ったものだろう。

木曾義仲が、横田河原の合戦の戦勝祈願をし、勝利のお礼に水田を奉納。収穫された米で餅を作り、参拝客へ授けられる。休日の境内は参拝客が多く、特に車の祓いに来る人が多いようだ。社殿の前に、ずらっと車が並び、順番待ちをしていた。外境内にある茶屋で、うづら餅を食べながらお茶を飲む。普通の餅だが、こういう場所で食べると、なんとなく美味。境内は広々としていて、明るい雰囲気。


以下が今回の参拝の最も重要な目的だった武水別神社の高良社です。


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−境内案内−

長野県宝 武水別神社摂社高良社本殿一棟

一、指定年月日 昭和五十年七月二十一日

二、指定理由

この建造物は室町時代後期の特色を示す 神社建築として貴重なものである。

三、説明

高良社本殿は一間社流造の系統に属する もので建築様式から見て室町時代後期 十六世紀ごろ建てられた建築と考えられ る。ふつうの流造に見られる周囲の廻縁や 階段は省略され 正面に小さな縁をつける のみで いはゆる見世棚造に類する形式で ある。主屋の桂上の組物に舟肘木に用い 軒の垂木を省略して板のみで屋根を支えて いるなどは略式な手法であるが側面の妻 飾に太瓶束と扠首組を併用しているのは珍 らしい手法である 頭貫の先端の絵様や虹 梁に彫りこまれた文様に室町時代後期の特 色が見られ その上建築当初の主要部分が よく保存されている点 貴重な建築物である。

武水別神社御由緒

御祭神

      主祭神武水別大神 たけみずわけのおおかみ

      相殿   誉田別命 ほんだわけのみこと 息長足比売命おきながたらしひめのみこと 

比淘蜷_ ひめおおかみ

三大祭 祈年祭三月十五日 例大祭 九月十五日 新嘗祭      十二月十二日


御由緒

 社伝によると、武水別大神は第八代孝元天皇 の御代に御鎮斎と伝えられており、善光寺平の 五穀豊饒と千曲川の氾濫防止とを祈念して祀ら れました。十二月の大頭祭(新嘗祭)は、御神徳 に対し氏子民が感謝の誠を捧げる、この地方 最大の祭典であります。

 八幡三神は、安和年間に京都石清水八幡宮 より勧請され、相殿に奉斎されました。誉田別 命は応神天皇、息長足比売命は応神天皇の御母 君の神功皇后のことであり、比淘蜷_とは 田心姫・湍津姫・市杵嶋姫の三女神の総称で 国家鎮護、航海・交通安全の守護神と仰がれて おります。

では、主祭神の武水別大神とは誰なのでしょうか。全国的に隠されてはいますが、高良玉垂命とは言うまでもなく第9代(藤原によってそう扱われた)開化天皇であり、そもそも神殿から出され脇殿に移されたのだろうと思います。

その開化天皇が仲哀死後の神功皇后(皇宮皇后命)を妃としてもうけられた直系の5人の皇子の筆頭こそがシレカシノミコト=一般にはオオササギ命とされる仁徳天皇でありこの武水分神社の主神に相応しいのです。元々は、本殿に開化天皇=高良玉垂命も神殿内に祀られていたはずですが、宇佐八幡宮が高良大社を九州の宗廟から追い落とし、応神を宇佐神宮に置き換えた749年(「高良玉垂宮神秘書」)以降、石清水八幡の橘一族の指揮下でこの形式を採ったのではないかと考えています。

 武水別大神とはしていますが、若宮八幡宮とも呼ばれていることから考えれば、九州王朝の最後の天皇である仁徳天皇の別名であろうと思うものです。

 勿論、仁徳が応神の子などと言うのは藤原による偽装であり、百嶋神社考古学では認めません。

ただ、引用した“孝元天皇の御代の鎮座と伝えられている。別名を更級八幡宮といい、鎮座地も八幡”

をそのまま正しいとすれば、孝霊、孝元、開化の孝元期の鎮座に若宮=仁徳が祀られるはずはないのであって、どう考えるかを迷っています。別名更科八幡宮と呼ばれていたとすると、これは恐らく前身の神社で、元はカミムスビの神として良く知られるヤタガラスの父=大幡主を祀る正八幡神社だった可能性もあります。とすると、その時代に疱瘡の神として正八幡神社の社外に出され、高良と仁徳が祀られたのでしょう。このようにこの武水別八幡神社にも何派もの政情の変化による変化が見て取れるのです。

それもこれも、古い神々を粗末にせず、きちんと守っておられるから後付けの勝手な解析もできるのです。感謝します。ありがとうございます。素晴らしいものを見せて頂きました。


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こちらはまあまあ良く撮れていた自前の写真で、住吉の神紋が打たれた高良玉垂命の社です


 本当は、境内にある十数柱の分社の神々についても大体の見当が付きますので触れたいのですが、今回の調査旅行の記憶が薄れないうちに書き上げたいため、今回は省略させていただきます。

一点だけ、分社の一つに疱瘡の神で不明と記述されているものがありますが、これは恐らくカミムスビの神として良く知られるヤタガラスの父=具体的には博多の櫛田神社の主神大幡主そのものだと思います。この神様は高皇産霊神と並ぶ超大物であり(造化神)、疱瘡の神とは海外から持ち込まれる流行り病(天然痘)の神に関係する神なのです。大型船を駆使して半島から大陸、インドシナ方面までも外洋航海、渡洋航海を行っていたカミムスビ神にこそ疱瘡の神は相応しいのです。

 手足の神、目の神、疱瘡の神…といった表現は、九州でも熊本に目立つもので、思い込みと言われそうですが、ここには九州の人達が入っているとの印象を強く持ったのでした。

多分、大幡主か住吉の神(底筒男の神)のいずれかではないかと思っています。


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDについては09062983254まで

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2022年09月21日

908 映画 「愛国女子」を見てきました “ここに登場する天御祖神社とは何か…” @

908 映画 「愛国女子」を見てきました “ここに登場する天御祖神社とは何か…” @

20220305

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 熊本市在住の神道家でその筋では全国的に知られたF女子から“「愛国女子」―紅武士道”のチケットを貰いました。

当初、その経緯については良くは分からなかったのですが、チケットのリミットが23日しかなかったことから、まずは無駄にしては…とばかりに早々にも見てきました。

勿論、大川隆法氏監修の映画であることから、まずは“見ずんばあるべからず…”とばかりに足を動かすことにしたのでした。

ただ、チケットを特別に回してくれた女性も、言わば神道会の風雲(女子)児と考える事から、時代の必要性が昂揚(高揚)する時には、それなりの人物が社会の要請で自ずと現れるものだと思ったのです。

彼女は、あの悲惨極まりない熊本地震の最中、自らの家が被災していても、翌日には自らのネット・ワークを駆使して周辺の方々への救援のための炊き出しに動いたのですから、その意志には尋常ならざるものを感じていました。このため、私も山を越え翌日には手に入るものを持って翌日にはお手伝いに向かったのでした。これを、単純に日本版ジャンヌダルクとするのは誇張に過ぎるかも知れませんが、時代の要請とはそのようなものなのでしょう。それほど彼女の動員力と即応性には目を見張るものがあるのです。

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STORY

ある日、街で芸能事務所にスカウトされた大学4年生の大和静は、案内された事務所で武器を手にした4人の男たちに襲撃される。しかし、大和一心館の10代目道場主である父に鍛えられ、剣道4段・全国大会優勝の腕前を持つ静は、あっという間に相手を倒してしまう。身構える静の前に、芸能事務所の社長を名乗る高山悟志という男が現れる。戸惑う静に高山は、自分の本当の姿は、日本を古来より守りし創造神である天御祖神を本尊とする「日本救済会議」という団体の事務局長であり、この国を守るために活動していること、そして今まさに日本が滅亡の危機にさらされていることを告げるのだった......。物語の舞台はやがて現実世界から霊的世界へ。日本の未来と静自身の命をかけた激しい戦いへと続いていく。

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2022.2.21

【週末観客動員数ランキング第2位】映画『愛国女子―紅武士道』

2022218()に公開した映画『愛国女子―紅武士道』。全国227館でスタートし、公開初週の土日2日間においては、動員数116,629名、興行収入は145,676,540円を記録しました。また、興行通信社が発表する週末観客動員数ランキングでは、数々の大作映画が上位を争う中、堂々の初登場第2位にランクインしました!

同日公開された作品の中においては、本作が第1位の成績であり、公開初日を含めた3日間(218日〜220日)では、動員数154,504名、興行収入は193,081,010円を記録し、華々しいスタートを切りました!本当にありがとうございます。

SNS上では、「日本人なら必ず観るべき映画」「今の日本が置かれている状況・問題にリンクした内容であり、観る前と観た後とで意識が変わった」「今の日本があるのは、先人たちが日本を守るために命を懸けてくれたおかげであることを思い出させてくれた」「セリフ一つ一つに言霊が込められて、熱い涙が止まらなかった!」「今の自分が日本の国を守るために何かしているか?これから何ができるか?と考えるきっかけになった!」と、熱い想いを載せた投稿が多く見受けられています。

軍備の増強を続ける近隣諸国との外交問題、そして止まらない新型コロナウィルスの猛威など様々な困難に直面している現代日本。多くの方々が本作をご覧いただき、今こそ日本の明るい未来を切り開くため立ち向かう愛国女子・愛国男子となる方が一人でも増えていくことを願うばかりです。

大ヒットスタートを記録した映画『愛国女子―紅武士道』。今後の続報をお待ちください!


news | 映画『愛国女子―紅武士道』公式サイト より


 今回、このF女史を殊更引っ張り出した事には多少この映画と符号するものを感じたからでした。

 それは、自らが再建した神社(売りに出されていた宮崎県高千穂町内の廃社)を確保し、これまでの多くの蓄積から多くの人々を校合し、整地は元より、屋根の吹き直し、床の張替え…など、地域を巻き込んで、社殿の再建をやってのけているのです。そして、今や、定期的に合気道の教練まで行っているという妙邂を意識したからでもあったのです。

 その意味で、ここでは、まず、彼女の独立系神社を改めてご紹介しておきたいと思うものです。

 その神社は「ひのみこ社」と名付けられました。当方のブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」と「ひのみこ社」でダブル検索しても直ぐに拾えますので、一部をご覧いただきたいと思います。


851 高千穂町の一角で神社を再建する運動が始まった “ひのみこ社のご由緒について”

20200906

太宰府地名研究会 古川 清久


 全国の神社の建物が劣化し、それを支えるべきはずの氏子の組織までが壊滅しつつある今、宮崎県高千穂町の一角において、売りに出されていた神社の敷地と社殿を買い取り再建する運動が始まっています。

 かく言う私もこの土地と社殿を管理していた不動産屋との相談にも多少は関与していた事から、参加できる日は阿蘇の外輪山沿いの100キロ近い道をひた走り、社殿を磨いたり参拝殿の床を磨いたりというささやかなお手伝いの作業をさせて頂いています。

 その運動と言うよりも、熊本の霊能者と言うか神ごとに関係する女性先導者自身が、あまりにも素晴らしいそのロケーションと古代にまでも遡る地域の歴史に感じいった事から、何とか再建し皆の拠り所としたいとの思いの実現に踏み出し実際にそれをやってのけておられている事に感じ入り書き始めたものです。


851


仮称 ひのみこ社 カーナビ検索 宮崎県高千穂町上野(カミノ)4956地先 ※この地番は上野中学校


 この神社の正面に四恩(シオン)岳がある事がお分かり頂けるでしょう。

 長年、神社調査を行ってきた者として解るのですが、神野、上野(カミノ、ウエノ…)と呼ばれる姓の人若しくは地名は何らかの形でイスラエル系、ユダヤ系と言われる人々との関係が辿れるのです。

 ただ、始めからこのような話を持ち出せばトンデモ説扱いされる事は明らかで、一般的には曹洞宗や浄土真宗などでも主張される仏の「四恩」としておくことが穏当かも知れません。

 無論、シオン山とはイスラエルの聖地エルサレムの南にある山とされていますよね。

 少なくともそういった知識を持った人々が入っていた土地だったとまでは言えそうです。


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エルサレム シオン丘陵


この上野地区の北には愛宕山があり金山彦(「古事記」ではカグツチ)の象徴ですし、同じく南の下野地区にも烏岳があります。

ヤタガラス(豊玉彦)系の山岳修験(豊前の求菩提山)の南の拠点であった事までが見えてきます。

 熊本の南阿蘇から宮崎の高千穂へと繋ぐ国道傍の住宅地ながら、同社の脇には素晴らしい清流が流れ

ています。

 F女史がこの地を惚れ込んだ理由もこのロケーションがあった事は言うまでもありません。

 しかし、そればかりではなく霊能者である彼女は自らの霊能によってこの地の歴史的重要性を感じ取り、神社の再建を始めたのでしょう。

 さて、そもそもこの地にあった元々の神社はそれほど古いものではありません。

 同社に残されている創立者田尻武雄氏の略歴(碑文)によれば、明治の教派神道系の言わば新興宗教団体で、その背後にあるのは、現在、石見、出雲、伯耆辺りに閉じ込められている出雲大社が全国的教団として教線を強化するために創られた教団と思われます。


出雲大社教 出雲大社教(いずもおおやしろきょう)は、1882年(明治15年)、当時の出雲大社前大宮司・第八十代出雲國造・千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団である。教派神道(神道十三派)の一つ。

明治13年に東京都日比谷の神道事務局に設けられた神宮遥拝所において、神造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)および天照大神の四柱を祀ると決定されたことに対して、出雲派は大国主大神も祀るべきだと主張し、伊勢派との間で大きな論争になったが、伊勢派が明治天皇の支持を得たこともあって、出雲派は敗北し、大国主は祀られないことになった(明治13年の祭神論争)。さらに、明治151月に明治政府が布告した「神官教導職分離令」によって、神社に奉仕する神官と布教を行う教導職が分離され、これによって出雲大社に勤務する神官が国家とは別に独自に出雲信仰の布教を行うことが禁止された。そのため、当時の出雲派(千家)のトップである千家尊福は、出雲大社大宮司を辞職して自らが教団の開祖となり、信仰組織を出雲大社本体および国家神道から分離させる形で明治15年に設立した。出雲大社教は昭和26年に出雲大社と統合されたが、その後も法人としては出雲大社教と出雲大社は別団体となっている。      出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20200811 12:18 による

結局、良く知られた 黒住教、御嶽教、神理教、金光教、天理教…などと同様の明治期の新興宗派であり、主祭神を大国主命とする教団の神社だったのです。ちなみに隣県の熊本市にも同教団の教会があります。出雲大社熊本教会: 熊本県熊本市中央区九品寺2丁目6-61  096-364-3779


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「古事記」の大国主命と因幡の白兎の話はどなたもご存じですが神殿入口の欄干には折れたまま耳のない波乗り兎が(因幡の白兎の故事ですね)…


波乗り兎のモチーフです、誰か耳を治して頂ければ有難いのですがやりようが分かりません。

高千穂にしかも九州に大国主命とは訝しがる方は多いでしょうが、実は九州の方なのです。

これについては百嶋神社考古学の根幹を成す部分で、かなり多いので関心をお持ちの方はとりあえず以下辺りから探ってみて下さい。


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 新ひぼろぎ逍遥

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全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

買い取り再建する作業が始まった(追補)

839

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

買い取り再建する作業が始まった(下)

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全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

買い取り再建する作業が始まった(中)

837

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を

買い取り再建する作業が始まった(上)


仮称 ひのみこ社 カーナビ検索 宮崎県高千穂町上野(カミノ)4956地先 ※この地番は上野中学校


ここからは、再生なったひのみこ社のチラシの素案です。

ひのみこ社に参拝された皆様へ


ご参拝になった ひのみこ社 は、神社庁にも属していません。

また、色々な新興宗教団体にも属しておりません。

いわばどなたでも自由にお参りになられ思うように願いを託すことのできる神社です。

この神社の前身は、明治の初め(明治5年)に出雲大社がその教えを普及するために創られた出雲大社(イヅモオオヤシロ)教の枝の一つとして旧上野村村長も務められた田尻武雄氏によって設立された高千穂教会を始まりとしています。

それについては、今も同社参拝殿正面に残された碑文に書き留められています。

このため元々は大国主命と繋がりを持つ神々が祀られていたのです。

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「古事記」の大国主命と因幡の白兎の話はどなたもご存じですが神殿入口の欄干には折れたまま耳のない波乗り兎が(因幡の白兎の故事ですね)…


このため、現在も神殿の欄間にはうさぎのモチーフがあり、神殿にも神鏡が残されています。

しかし、数年前にこの教会を継承されていた方がご高齢のため離れられ、その際にその神霊は出雲に戻され大国主命の祭祀は完全に消えております。

古来、続く多くの神社であれ、新興の教団であれ、地域や集落の力が失われていけば、このような神社も後を継ぐことができなくなり潰え去って行くのは仕方がないでしょう。

それどころか、ほぼ一世代に亘るここ30年の構造的経済社会の停滞によってか、全国の多くの神社がその継承者、支援者、氏子組織に衰えを見せ廃社、統合、合祀どころか災害なども加わり地域そのものを押し潰しつつあります。

そうした中、この高千穂町と谷で隔てる熊本県高森町草部出身の女性が荒れて行く神社を建て直そうと思い立ったのでした。

まだ、子育ても完全には終了していないうら若き身にありながら、多くの悩みをもつ困窮者、社会的弱者を救済する拠り所にしたいとの思いから神社の再生のための活動を始められたのです。

本来、神社であれ、寺院であれ、教会であれ、教団そのものの利得や名声を優先する向きがあるとも聴きますが、社会や地域が崩れ落ち人生さえも失う人々が増えつつある今日、本来、教団の有るべき姿を追い求めたいとの気持ちが在られたのではないかと思っています。

そうでもなければ、いくら子供の時から良く通っていた思い出深く素晴らしい背景を持った土地だったとしても、個人で土地建物を求め相当の資金を注ぎ込んで手間の掛かる事業に踏み入れる人などいるはずは無いはずなのです。

しかし、彼女を慕う多くの人々の手によって神社の蘇生は始まりました。

多い日には20名近い人々が入れ替わり立ち代わり加わりで作業が行われました。

それこそ手弁当に食事持ち込みで床磨き〜天井磨き、壁磨きが行われ、資財、道具、備え付けの器具などの持ち込みも行われました。

また、素人には手に負えない大工仕事、左官仕事、解体作業、廃棄物の搬出…なども、いつしか地域の協力者が現れ、元の出雲大社教時代の信者おばあさんから頼まれたとして子、孫などの世代のその道の専門家が協力を申し出てこられ、瞬く間に再生へと向かったのでした。

新しい神社の名称は“ひのみこ社”とされたようです。古代日向国のことその意味は日に向かうまさしく陽の御子(巫女)の意味であろうと思うのですが、まだ、その真意はお伺いしてはいません。

少なくとも、熊本から宮崎そして大分に掛けての方々が関心と救いを求めて訪問される心の拠り所となる本物の神社が生まれたと思うものです。

ひのみこ社社務所:熊本市or高森町草部連絡先問い合わせ先 090-9793-4630



さて、話がひのみこ社に偏ってしまいましたので、話を戻しましょう。後は、…

909 映画 「愛国女子」を見てきました “ここに登場する天御祖神社とは何か…” A 20220305

 に引き継ぎます。今やNHKをはじめとして地上波や大手新聞などの既存のマスコミを敬遠し避けて久しいのですが、「幸福の科学」大川隆法総裁、釈 量子、及川幸久…氏の動画は、ほぼ全てを見ていますし、少し前の幸福実現党の「日本を変える! 123の政策」などに異論は抱きません。

 ただ、正しいことを言う人、正しい行動をとる人々は、必ず敗北することを知る事から、それでも尚立向かおうという強固な意志を持つ人しか同行する事は出来ないのです。

 勿論、それでも国家が崩壊する時はいずれ訪れるのであり、その昂揚期の波に乗れる人は幸福であろうと思うものです。このあまりにも大嘘を吐き続ける既存の言論界、科学界、政界からの自らの分離と独立性の保持は、インター・ネットの社会への浸透と、逆にインター・ネットの変質(言論統制)の中で、それでも真実を伝えようとする一群の人々と論客が排出している訳で、中でも一際輝いていたのが及川幸久氏に象徴される同会の人々でもあったのです。

 いずれ、国家と社会と文化の危機はさらに深化してくるはずで、この激変の大波はまだまだ増大し、私達を襲うはずなのです。その事に危機感を持たない人々は不意打ちを食らうことだけは確実なのです。

 ようやく力を落とし始めた親中共、親K韓某学会の〇明党に対し、願うらくは、「愛国女子」の上映に踏み切られた一群の人々のご努力と意気込みに賛意を表したいと思うものです。

 現在の日本にはマッカーサーの占領政策の延長上に二度と米国に歯向かわない国家として骨抜きになりましたが、今は、ドジョウであっても、溯上する鰻の精神から進め本来の国を取り戻すべきなのです。


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2022年09月18日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 288 三度目の信濃、甲斐  7/31〜8/12の真夏の車中泊神社調査

新ひぼろぎ逍遥 スポット 288 三度目の信濃、甲斐  7/318/12の真夏の車中泊神社調査

  20220814

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


34年前、宮崎県諸塚村での神楽の大祭に参加したことから、北九州を拠点とする丁巳歴史塾での講演〜提携へも話が進み、徐々に連携した活動が深まって行く事になりました。

その後、当会のメンバーには講演可能な研究者が多数おられることから、講演者の派遣要請があり、多くの講演者を送り込むことになりました。その数は12人以上になり、年に一回もお鉢が回ってこない状態になってきたのです。

結果、新たな舞台が出現したことから、スケジュールも過密となり、メンバーも相互に融合するようになって、実質、活動量が倍に跳ね上がることになりました。

折しも、武漢肺炎ウイルス蔓延により多くの研究団体(もうそれほどまともなものが残っておらず、ほとんどが村興し町興し世界遺産登録と言った通説派のもので自由な民間研究団体などとは言えないものですが)が活動を休止、規模縮小…へと行政指導宜しく右へ倣いをする中、我がグループだけは提携の前進のために休止することなく手を替え品を変え、小規模集会、小規模トレッキングなどを駆使して活動を増大させてきました。

その延長上に熊本〜福岡に繋ぐ九州王朝論者の雄 佃 収 氏 を埼玉県からお呼びし、延100人を動員する和水(熊本県玉名郡旧菊水村=菊水史談会主催)〜戸畑(北九州市戸畑区)講演も実現できたのでした。

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古田武彦を失った今日、九州王朝論を最先端で支える佃収先生の研究はこちらからお読みください


 ただ、前述の通りスケジュールが過密なってくると長距離での遠征調査が出来なくなり、ここ数年本州中央部などへの神社、寺院の調査に行きたいとの思いが積もるようになりました。

 そうしたなか、丁巳歴史塾から“8月はお盆ですからお休みにしましょう”との有難い提案を頂き(これで二ヶ月の時間が生じるのです)、渡りに船とばかりに信州最奥部の調査に向かうことを考えました。

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これはネットから拾った冬の八ヶ岳であまりにも暑いので納涼を込めて使わせていただきます


 佐久市から小諸市を東に上り詰めると皆さん憧れの山梨県清里村に入り、標高がその観光地周辺でも1400メートルに近づきます。

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この点、佐久市を調査の最終目的地とした2週間ほどの車中泊の旅を企画したのですが、長野県でも千曲市、上田市、小諸市、佐久市の4市を対象とした神社調査にはかねてより幾つかの目的がありました。

 それは実リポートを読まれるとして、この4市を東に登り詰めると右手に八ヶ岳が迫ってきます。

 ただ、今回は佐久の調査が終わると、開放感からまずは鹿教湯温泉に入りたいと松本方面に戻り、そこで一泊し、別ルートで甲府方面に向かったのですが、山中湖の友人の別荘での合流への日程調整のために、甲府市の手前(韮崎市や富士見町辺り)から涼しい八ヶ岳高原での車中泊をと清里村に向かうという変則的なルートを選ぶことになりました。

 結果、清里村での一泊が加わりましたが、長野4市の終了から鹿教湯温泉での一泊も願いが叶って(40年前は鹿教湯温泉の少し下手の大塩温泉に泊まりパスしましたので)同温泉の雰囲気も満喫できました。

 調査旅行の主要地は上田から佐久でしたが、途中で気になる神社を見掛けると随時参拝する事の繰り返しで、まあ、560社は見たかも知れません。

 車の車検が終わると731日、万全の体制が取れ、一路、山口県山口市から島根県益田市へと向かいました。山陰周りで北陸は福井市から九頭竜川を上り郡上八幡を目指すのです。

そして、飛騨高山から東上し上高地を左に見て松本に入るコースを選んだのでした。

今回、敦賀北から福井までは越前、鯖江、福井と交差点が多く渋滞が激しいため例外的に高速道路利用しました。平野が大きいとどうしても交差点の数が多くなりどうしても渋滞しやすくなります。

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こうして、731日昼から出発した調査旅行は1泊目島根県津和野町、2泊目敦賀市内で車中泊し、よく翌早朝から調査対象領域に入ることになります。

福井から九頭竜川を遡り白鳥町に辿り着き、ここから郡上八幡市、下呂市、高山市方面と言う未踏の地に入る事になった訳けです(不思議ですが、郡上八幡、飛騨高山はこれまで入っていません)。

ともあれ、こうして調査が始まったのでした。3泊目は高山市の町中でしたが、標高からか、かなり涼しく、翌早朝、長野県は松本市を目指して、最大の難関となる山間部の入口に差掛る頃には13度前後になるなど、最奥部の東日本の入口に差し掛かっていたわけです。ともあれ、上高地、白骨温泉付近を通過し、松本に入る手前辺りは夏場の観光地として人が足を向けるのは仕方がないと思うばかりでした。

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新穂高温泉、奥飛騨温泉郷、白骨温泉、上高地…は、登山客、温泉ファンにとどまらず憧れの的ですが、私達の様な神社研究者、古代史研究者のはしくれとしてはただの邪魔な存在でしかありません

そんなものに現を抜かす暇はないとばかりに通り抜け、松本市に駆け下り、猛暑の中、地表を這いつくばり神社を調べて回ることになるのです


こうして岐阜県から長野県、山梨県に亘る神社調査が始まったのでしたが、長野の4市を中心とする現地調査は至ってスムーズで、長野県での2泊を加え、山梨県は山中湖湖畔の別荘へと向かうのでした。

有難いことに、富士山正面の親友の別荘地で34泊休養し、最終日の昼前には掃除を終え、別荘を跡にして、盆前の12日には日田市に戻ってきました。

帰路は別ルートで、諏訪の手前から伊那に入り、さらに一山を越え、西の恵那からJR中央本線沿いに木曽街道を掛け下り、岐阜の手前辺りで仮眠し、翌早朝には関ヶ原から長浜、琵琶湖に入っていました。

以後、小浜、舞鶴、京丹後へ戻り、炎天下に12300キロを12日で走り抜け、ほぼ、ガソリン代だけ(ホンダフィットシャトルはリッター当たり25キロ)の2週間の調査旅行は幕を閉じたのでした。

燃費の良い車とは言え、現状のリッター165170(実際には兵庫県養父市の三菱石油の直営店で151154円で満タンにしましたが)円では、1キロ走行に対して7円に相当し、燃料代だけでも総行程3400キロでは、アイドリング、エアコン使用も含めて、3万円近く要し、往復、5000円以下に抑えた高速道路料金と併せて35千円は使っているでしょう。とは言え、収穫は十分に大きかったと言えます。

これについては、全部は書けませんが、可能な限りリポートを書きたいと思います。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット