2024年12月27日

新ひぼろぎ逍遥@ 1050 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 八木編 (下)

新ひぼろぎ逍遥@ 1050 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 八木編 (下)

20240526

太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


 最近知己を得た八木様があまりにも高学歴かつ頭脳明晰な方だけに、八木姓についてレクチャーするなど烏滸がましい事は十分に承知の上ですが、それに輪を掛けて高千穂は、ひのみこ社の二子石様を介在していただけに中途半端な話で収める訳にも行かず、本稿を書くことになりました。

 (上)では元々が関東でも東京都下の方である事から、一応、星宮、カガセオの話にまで触れたのですが、ここでは、再度、落ち着いた話をしてみたいと思います。

 八木姓の方がイスラエル系の人であるという話に疑いは持ちませんが、この八木姓と金山彦を繋ぐ決定的な証拠の様なものを持ち合わせている訳も無く、実際には、八木姓=カグツチと言った方程式的な考えさえ持ち合わせて無い事に気付き愕然としているのが実情と言えばそのとおりです。

 ここでは、百嶋先生の神代系譜を駆使して最大限、真実に近づきたいと考えています。

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百嶋由一郎 最終神代系譜(部分)


秦の始皇帝、先行する周王朝、殷王朝を含めイスラエル系であった事は(上)編に於いて触れました。それに派生し、周王朝の正当な後継者であった古公亶父の正室の子である長男、次男=太伯・虞仲

が越に入り新国家「呉」の王室に担がれたことから、呉越同舟の呉も別の意味でイスラエル系の後継国家とまでは言えるでしょう。

 ただ、その春秋戦国の呉も夫差の時代に越に滅ぼされます。既に国家の命脈が尽きたのかも知れませんが、その夫差の子孫が、恐らく熊本から博多の九州東岸部に入っている様なのです。

 従って、熊本県にもこの呉の後裔氏族が九州に入り神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)に象徴されるイスラエル系呉の太白王の末裔が初期の天皇(正当皇統)となっているのです。

こうして、“倭は太白の末”とか裔という良く知られた歴史観が古代史の世界には定着しているのです。

 そして、それを示すかのように、本物の神武のお后であるアイラツヒメは金山彦と大山祗の姉に当たるオチの姫の間に生まれた女性で、後に神武と別れて阿蘇の金凝(カノコリ)彦の妃となったことから蒲池姫と名を変え宇土半島南岸の郡浦神社に祀られているのです。

 対して、金山彦のもう一人の腹違いの娘である櫛稲田姫(ヤマタノオロチ退治で知られるスサノウの妃

)は熊本県山鹿市の某神社で現在も丁重に祀られているのです。決して出雲などの話ではないのです。

 勿論、それは出雲の話ではないかと言う疑問がある事は十分承知していますが、九州で起こった事ではないとして創られた話なのです。言わば、畿内の延長、一部としたい後の畿内王権の意図が見えているのです。

 「古事記」は天武朝(天武とその父が白江戦を闘った張本人)により創られた史書あり、その後、九州から大和に本拠地を移すのです。それは太宰府が郭務悰により占領されたから首都を移したのでした。

 対して「日本書紀」は壬申大乱以降に藤原政権(阿蘇氏でも草部吉見は藤原の直接の始祖)が創った史書なのです。こうして天武系が打倒され畿内王権が成立し最後は阿蘇系の藤原王朝となったのでした。

 同時に博多の櫛田宮の一族の植民国家の一つでしかない出雲が古代出雲王朝などというとんでもない輪を掛けたお伽噺までが生まれたのでした。

 ちなみに出雲大社の巨大な古代神殿の大柱の痕跡と大騒ぎされた木柱の痕跡は、その後の理化学調査の結果、鎌倉期の物と判りましたが、ネットに公表されたまま大騒ぎしたNHKも全く修正をしてはいません。


「天下無双の大廈(二つと同じものが無い壮大な神殿)」と称えられる御本殿は、悠久の歴史の中でその度々の御造営遷宮と御修造遷宮を繰り返し、今にその姿を受け継いできました。
現在の御本殿は延享元年(1744)に御造営されており、昭和27年に国宝に指定されました。

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古代御本殿柱

御本殿を支える九本の柱 御本殿の高さは8丈(24メートル)にも及び、大社造と呼ばれる日本最古の神社建築様式を 今に伝えています。
その特徴は切り妻、妻入りの構造で、平面は九本の柱が田の字型に配置された 正方形の間取りとなっています。
その中心には心御柱と称する太柱があり、その正面向かって右側の側柱との間は板壁となって殿内が仕切られ、この壁の奥に大国主大神が御鎮座されている御内殿(御神座)があります。
従って、御神座は御本殿と同じ南向きではなく、西向きになります。
御内殿の前室には板壁に接して御客座があり、天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・神産巣日神・高御産巣日神・天之御中主神の別天神5柱の神をお祀りしており、 又、中心の柱である心御柱の近くには大国主大神の御子神である和加布都努志命(牛飼神)がお祀りされています。


天下無双の大廈 た い か 、出雲大社巨大柱の発見 出雲大社境内遺跡(出雲市大社町)、調査年:2000(平成 12)年 松尾充晶

出雲大社の発掘調査が進められていた当時、地元の大社町教育委員会には文化財の専門 職員がいませんでした。そこで技術支援のため、県埋文センターから私が調査に参加するこ とになり、3 月初頭から発掘現場の最前線で苦闘していました。4 5 日に巨大なスギ材 1 本が見つかり、かつての出雲大社本殿の柱であることがわかると、報道機関の取材合戦が白 熱することになります。その最大の関心事は、「柱材は 1 本だけなのか、それとも幻の束ね 柱なのか」という点にありました。出雲大社の宮司、千家家に伝わる古図「金輪 かなわの 御造営差図 ご ぞ う え い さ し ず 」 には 3 本束ね柱の本殿が描かれていますが、そのような特殊な高層建築は実在自体が疑わ れていたからです。 4 22 日は土曜日のため発掘作業は休みでしたが、調査の行程が遅れており、私は図面 を描くため現場に出勤することにしました。釣りに行く予定を変更して T さん(当時、県 文化財課勤務)が手伝ってくれます。柱穴の土層断面図を朝から描き続け、日が傾き始めた 夕方 5 時前のことでした。巻き尺の目盛りを読む役の T さんが、1 本だけ見つかっていた 柱材となりの土を指差して「か、なんだや?(これは、なんだ?)」と大きい声を出したの です。指差す先には、2 本目の柱材である巨木の肌がわずかに顔を出していました。これが、 束ね柱確定の瞬間でした。ひと目でその意味がわかった T さんと私は、無言でがっちりと 握手したのです。 その後の分析で、見つかった本殿跡は鎌倉時代(宝治 21248)年)の造営であること がわかりました。『古事記』『日本書紀』では国譲りに由来するとされ、平安時代には「天下 無双の大廈」と讃えられた出雲大社の高く大きな本殿ですが、中世には造営が困窮し、規模 が縮小したことが知られています。出土した鎌倉時代の本殿は、古代を通じて繰り返された 大規模建築の更新が難しくなっていた中世への過渡期にあたり、いわば「最後の高層神殿」 ということができます。巨大な用材の確保が難しくなったため、合成材として大きな柱を作 るための工夫が三本束ねの構造ではないか、「金輪御造営差図」はそうした「最後の高層神 殿」の姿を伝えるための記録ではないか、という説も出されるようになりました。 神話に強調される古代出雲の特殊性は実体の無い虚構である、という見方もありますが、 国譲り神話にちなむ出雲大社本殿が特異な大型建築として実在していたことは、この発掘 調査が証明したと言えるでしょう。人類史上、最大の木造建築柱材の発見であり、それが大 勢の参拝客が見守る中で調査されたという点においても、「天下無双の発掘現場」だったと 思います。 (古代文化センター専門研究員)


山鹿市の大宮神社


 熊本県山鹿市に鎮座する大宮神社(1943年昭和18年県社となった)は、現在、景行天皇と阿蘇12神を主神として祀る神社とされています。

ただ、同社では元々祇園祭が現在も行われています。スサノウを祀る祇園神社が伝統的な祭神である同社が、阿蘇氏を祀る様になるのは南北朝期以降の話なのであって、阿蘇系でも何でもない山鹿の人々は古来阿蘇の神々を祀ったはずはないのです。また、天照に逆らったスサノウでは県社には不適なのです。また、客人の様な景行天皇を出迎えた話があり、県社昇格のために天皇を迎えたとすることは都合が良かったはずなのです。しかも、「ヨヘホ、ヨヘホ…」と出迎えたとする伝承もヤファエ、ヤファエの可能性が高く、元来、この地の人々がどのような人々であったかを今に伝えている様なのです。

つまり、景行天皇の伝承を持ち込んだのは、神社そのものであったはずで、やはり県社昇格と関係がありそうです。

一般的に肥後の神社を考える上で最も重要な事は、阿蘇神社の印象が強烈なためか阿蘇神社こそが全ての様な理解がされていることでしょう。

「熊本県神社誌」上米良純臣(監修)S56年発行 27pには県内3237社中、阿蘇系神社は300社程度あって、最も多い神社は全体の三分の一に近づく」1,012社の菅原系神社であると言う事実なのです

これは一般的な印象とは全く異なるものなのです。そこでこの菅原系神社が何かなのですが、仮に菅原道真=菅公を祀るとするとき、父方に造化三神の神産巣日神系(具体的には博多の櫛田神社の本家)と母方に金山彦系の本家の伴の女との間に産まれている事を考えれば、この系統が肥後の神社の最大勢力だった事が分かるのです。

特にこの傾向が、人吉盆地と山鹿市が顕著である事から、ある時代に於いては、山鹿市が如何に重要な地域であった事が分かってくるのです。

そこで、大宮神社を考えるのですが、景行、阿蘇を後付けと考えれば、元々、祇園社を持ち、祇園祭を行っていた山鹿神社とは、金山彦を祀る神社だった事が見えてくるのです。

これについては、大宮神社として、二十本のブログを書いており、400シートのパワー・ポイントも創っているのです。

これをご覧頂くか、ネット上の以下のブログを拾い読みして頂ければ一端は把握できるかと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

300

大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”

299

大宮神社と猿田彦大神 R “広島県庄原市の蘇羅比古神社にも

山幸と豊玉姫が…”

298

大宮神社と猿田彦大神 Q “岡山県津山市の大美禰神社も天宇

受賣命を祀る古社”

297

大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は

猿田の意味を知っていた”

296

大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?”

295

大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と

安心院の佐田神社 再掲”

294

大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の

経津主も猿田彦大神なのです”

293

大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“

292

大宮神社と猿田彦大神 K “全国展開された猿田彦大神“

291

大宮神社と猿田彦大神 J “古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“

290

大宮神社と猿田彦大神 I “山幸彦=猿田彦のもう一つのルーツについて”

289

大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから”

288

大宮神社と猿田彦大神 G “猿田彦がニギハヤヒで山幸彦であることについて”

287

大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の櫛田神社の

主神の大幡主の子であった”

286

大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経夫(神理教教団)と菊鹿町「吾平」の

ウガヤフキアエズ陵”

285

大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経夫(神理教教団)と猿田彦大神”

284

大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は

熊本県山鹿市で産まれた! ”

283

大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 

282

大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 

281

大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?

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ところで、「熊本県神社誌」を書いた上米良純臣氏は人吉市の青井阿蘇神社の宮司や熊本県神社長になっておられます。

 無題.pngしかも、菊池志誠会の会長をされており、百嶋由一郎氏は同会の福岡県支部長と言う間柄であったと聴き及んでいます。

 そのような間柄であった事から、福岡、熊本県下のみならず九州全域の神社情報が手に入れられる環境下にあった事が容易に想像できる上に、室町戦国期の江戸時代以前から、三十年前ぐらいまでは、人吉市の青井阿蘇神社で数百年の単位で、神社の研究会が継続されており、本当の神社情報が継承されていたとお聴きしています。その僅かな一部を私達百嶋神社考古学の者が継承している事に今更ながら戦慄を感じざるを得ず改めて使命を意識するこの頃です。

 百嶋由一郎氏に対し慎んで感謝します。

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2024年12月24日

新ひぼろぎ逍遥@ 1049 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 八木編 (上)

新ひぼろぎ逍遥@ 1049 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 八木編 (上)

20240525

太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


 次に最近接触を始めた八木(ヤツキ、ヤギ…とも読みますが、今回の方はヤギさんです)様のお話をしたいと思います。表記の違う矢木さんもおられますが、同族で間違いないでしょう。

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鹿児島、山口、愛媛、兵庫、京都、大阪、愛知、静岡、新潟、宮城、岩手への分布が認められます。

 今まで、八木姓の方に遭遇したのはニ度しかありませんでしたが、最初はお医者様で、今回も超高学歴の技術系の博士でした。下は矢木姓の分布です。

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八木姓の方は優秀な方が多いという事は他の例も含め経験的に分かっていましたが(戦時中の八木アンテナは著名です)、具体的には遭遇例が少ない事からイメージが固定できていませんでした。ここで注意を要するのは、上の紋章、丸に木瓜は、イスラエル系の金山彦=軻遇突智のもので、朝倉氏は三つ盛木瓜/九曜 (日下部氏朝倉氏族)を使う一族だと理解しています。

三盛木瓜と木瓜紋は必ずしも同族を意味しないという経験則を持っていますが、実のところ朝倉氏の本願地は福岡県の現朝倉氏であって、彼らの更なるルーツは熊本県玉名市の石貫地区から宮崎県西都市の石貫(石貫神社)に移動したトルコ系匈奴(普通の理解に従えば大山祗系と言えば理解し易いと思います)であって、意外に思われるでしょうが南北朝騒乱期に阿蘇氏と共闘した菊池氏もその一族なのです。

 更に驚くのはこの「石貫」という地名は新疆ウイグルの「タシクルガン」城塞を意味しており、中国表記での「石城山」「石頭城」の日本での置き換えなのです。不思議に思われる方は「タシクルガン」を検索してご覧ください(動画も複数あります)。

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匈奴は漢の武帝との戦いに消耗し、東西分裂の後に東匈奴は南北分裂を起こし、徹底抗戦派は北に移動し、傭兵として曹操に用いられる時期に南下するのです(武帝以前に呼韓邪単于に贈られた王昭君の一族=だから熊本城最下部に昭君の間が置かれたのです)。彼らは魏が滅ぶと王昭君の故地に戻り金官伽耶の金氏となり、後にウマシアシカビヒコチと天御中主命列島に入っているのです。

彼らは、本来、日足紋を使う別族だったのですが偽装の為並び鷹羽紋に換え阿蘇氏の一派の様に装うのでした。その理由は宮方(南朝)としながらも大山祗系=熊襲と理解されると、北朝方から逆賊と非難されるからであり、菊池神社でも本来の神を(大山祗、ウマシアイカビヒコヂ、ミズハノメ)祀らず、通常、祖先神とする菊池武時、武満と言った先祖神しか祀っていないのです。

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「武家家伝」 但馬八木氏 

但馬の戦国武将八木氏は、但馬の古族日下部氏から出た朝倉高清の次男安高(一説に孫)が、但馬国養父郡八木を領して八木氏を称したのが始まりとされる。以後、同地の豪族として成長し、南北朝期には但馬守護山名氏の配下となり国老四家のひとつと呼ばれた。見聞諸家紋をみると「横木瓜紋」が日下氏の注記をもって八木氏、太田垣氏の家紋として収録されている。

 日下部氏の嫡流は朝倉氏であったようだが、承久の乱において朝倉信高は京方に味方して勢力を失い、代わって鎌倉方に味方した八木氏が勢力を拡大した。すなわち、信高の兄弟である八木新大夫安高、小佐次郎太郎、土田三郎大夫らが新補地頭や公文に任じられ、それぞれ地名を名字として但馬各地に割拠したのである。

 現在、朝倉地名はちょっと拾うだけで全国に30ケ所近くあり、これだけでも彼らの移動を追う事ができます。

 以下、再度「武家家伝」から、


八木城は平安時代末期の康平六年(1063)頃、閉井四郎頼国が源義家から但馬国を与えられ、この地に築城したのが始まりとされている。その後、鎌倉時代初頭の建久五年(1194)に朝倉高清が源頼朝から但馬国を与えられ、八木から東へ約4.7キロメートル離れた朝倉に城を築いた。やがて、閉井氏と朝倉氏が対立し、朝倉氏が閉井氏を滅ぼす。その後、朝倉高清は第二子の重清を八木城に入れ、八木氏を名乗らせた。以後、八木氏は十五代三百余年にわたって同地に勢力を振るった。

武家家伝「八木城址」による

まあ、トルコ系匈奴とイスラエル系金山彦の一族の対立ですね。


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無題.pngこれまではトルコ系匈奴の話でしたが、ここから漸く八木姓の話に戻ります。

 八木姓は恐らくイスラエル系で良いと考えていますが、この流れは時代的に3系統を考えるべきです。一つは岩手の一戸〜九戸までの戸来集落=古々代ヘブライの集、次に始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦系。最後に秦の消滅に伴い半島から豊前に流れ込んだ始皇帝の一族とその臣民(この中には万里の長城の建設に送られる事を嫌った秦の民も…)、そこから京都に移動した太秦の勢力、また、高千穂の三田井に入っていたタカミムスビ系の人々もイスラエル系であり、高句麗からの渡来人 高麗王若光の一族もイスラエル系と言えるでしょうが八木姓とは繋がりそうになく除外します。

恐らく、八木姓に関係があるのは、古々代ヘブライ(事代主系)や秦の始皇帝の亡命氏族ではなく 紀元前247 - 紀元前210年の僅かな期間に列島に進入した(中国は火山国ではないため)製鉄神の一族=金山彦、金山媛(妹)=イザナミの一族であり、神武天皇までの九州王朝成立以前の時代を支えたイスラエル系の人々だと考えています。

この金山彦の一族は秦の始皇帝と姻戚関係を結び、後に始皇帝の一族も敗残し列島に避退している事から、追い越して列島に入った事になります。

秦の始皇帝は政(エイセイ=インチョン)でしたね、この名に近い名を使うのが宗像三女神の市杵島姫です。彼女もを使います。瀛ツ島姫です。


ひぼろぎ逍遥 230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

 159 秦の始皇帝と市杵島姫 を参照ください。

同(跡宮)   106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)” 054 秦の始皇帝と市杵島姫

「臝」(エイ)は秦の始皇帝の姓であり、始皇帝は臝政(エイセイ=インチョン)と呼ばれていました。対して、「瀛」(イン)は、始皇帝の一族と姻戚関係を結び先行して列島に移動したヘブライ(イスラエル)系氏族を意味し、具体的には博多の櫛田神社の大幡主の一族、スサノウのお妃の櫛稲田姫の父親に当たる金山彦、飯塚市鹿毛馬の厳島神社の一族などの事なのです。

彼らは秦が滅びる前に渡海し列島に入っていることから、さんずい偏を加え臝+水=「瀛」を姓としたのです。「東瀛」と言う言葉もありますが、これも大陸から見た東の夷どころか、東の秦王朝の一族そのものも意味しているのです。

始皇帝の一族も政治的な変化によりその一族は列島に避退してきているようです。列島では、瀛(イン)氏、忌部(インベ)、卜部、陰陽師、そして役(エン)=役小角の一族がそれに当たるのです。

宗像大社の市杵島姫も本来の表記は津嶋比売」ですね。これについては以下も書いています。

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文句なく瀛津嶋比賣命=市杵島姫命ですね(朝倉市佐田町の高木神社の境内摂社)


再掲載

178朝倉市佐田の山奥深く瀛津嶋(イツクシマ)比賣命を発見した!”安倍貞任後裔の秘密集落の高木神社“

2015130 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


推定継体天皇陵長田大塚古墳(朝倉市)説の検証作業を進める中、安倍宗任の後裔一族の墓を発見し、更には死んだはずの貞任の末子の後裔の一族までもが朝倉市内に居られる事を知り、その現地確認作業を進めているのですが、そうした中、七年ぶりに朝倉市佐田の高木神社を訪れることになりました。予定では二週間後のつもりでしたが、今日が祭礼日と聞き、急遽訪問した訳です。ただ、神事の形跡は見られるものの、既に直会(ナオライ)に入っているようで、ただ一人、静かな社殿を見せて頂くことになりました。この地は“安倍貞任の末子を、血を絶ゆさぬように“…と宗任に託され逃れた一族の定着した隠棲地と聞き及んでいます。それを伝えるかのように、今も一族の名の刻まれた石柱が静かに立っています。こちらの安倍一族は、木和田、地下両地区に十戸ほどおられ、アベでも「安陪」の字を使っておられます。

無題.png高木神社参拝殿(朝倉市佐田)


表記 * 紀金山彦神、記金山毘古神 * 紀 … 金山媛神、記金山毘売神、金山姫

概要 イザナギ・イザナミ神による神生みの段で、火の神であるカグツチ神を生み女陰を焼かれ苦しんでいる時の嘔吐物から化生した神。「金山」は「鉱山」のことと解するのが一般的。嘔吐物が鉱石の原石と似ているから、あるいは金属を溶かした状態と似ているからなどとも言われています。したがって鉱山従事者、製鉄従事者たちから信仰された神。これとは別に出生を火山の噴火の表象と捉え、嘔吐が溶岩流を表しているとの解釈も。その溶岩流にはもちろん鉱物が含まれているということに。金山彦神と金山媛神は兄妹ですが、夫婦神であるとも。また中国地方で多く祀られる金屋子神社と同神とされたり、或いは御子とされることも。 無題.png*神名* 金山彦神・金山媛神 (改定) 以下も…

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2024年12月21日

新ひぼろぎ逍遥@ 1048 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 (下)坂本編 

新ひぼろぎ逍遥@ 1048 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 (下)坂本編 

20240524

太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


新ひぼろぎ逍遥@ 1047 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 (上)坂本編から続く

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百嶋由一郎 012聖神社系譜A


 この系譜を見ると彦太忍命の孫にあたるのがイスラエル系の武内宿祢である事が良く分かります。

 通説とは異なり、山下影姫と孝元天皇の間に生まれたのが大彦であり、豊後安倍氏、東北の安部氏に繋がるのです。かつて天皇扱いにされ今や架空と貶められた孝霊〜孝元〜開化の九州王朝を示しています。

 屋主(ウズ)忍男武雄心命が私が通った佐賀県立武雄高校の傍の武雄神社の主神になるのです(通説

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百嶋由一郎 002百嶋系図(極秘)003


 当初、坂本神社については志賀海神社の宮司家の一族は安曇姓を名乗っているが、配下にいる人々は皆坂本姓を名乗っており、海神族であり外洋航海をできる人々であったから、古い時代に列島に入っているフェニキア系の人々ではないかと考えていたのですが、今回、彦太忍信命がヘブライ系である事が漸く分かってきました。知人に阪本様がおられた事から少しお尋ねしたのですが、サカモトでも九州では少ない阪本ですが…と断られた上で話始められました。お父さんが外洋航路の船長だったとも言われており、びっくりしましたと言われたのでした。

実際、サカモト姓は坂本も阪本もあり、大阪城も元は大坂城であった事からどちらも同じ意味である事が分かっていましたので、構わずお話を進めた経緯がありました。

 特に家紋についても、跡で三盛亀甲紋に唐花=花菱である事が分かり、アーリア系ではなくヘブライ系なのであろうと、その様に考を改めたのでした。

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百嶋由一郎 016‐1金神細密系譜(部分)


 実は、私の仲人をして頂いた上司(地方公務員)の坂本様でした。

 この方のお父さんも旧帝国海軍の潜水艦の艦長で、本来はアメリカ海軍の、迎撃戦を戦う予定だったのですが、ガダルカナル戦に於ける制空権、制海権の喪失に伴って、丸通業務を行わされ、糧秣(米、味噌、醤油)や弾薬、薬品…をドラム缶に詰め込み補給を行う)という消耗戦に追われ、とうとう米艦船による攻撃を受け、半舷は飢島に上陸させるも残った半舷と伴に今も海底に横たわっておられる…という話をお聴きしたのでした。具体的には申し上げませんが、伊号1号潜の艦長で…その孫(つまり仲人の方の息子様)も三菱重工で新型魚雷の開発に携わっているとお聴きしたのでした。私はその事を偶然ですが戦記としてハヤカワ文庫で読んでいたので驚いたことがあったのでした。


291830、ガダルカナル島カミンボ岬付近で半浮上して揚陸準備中、ニュージーランド掃海艇モア、同キーウィの爆雷攻撃を受けて損傷したため、浮上して交戦する。1920、伊1は左舷後部にキーウィの体当たり攻撃を受ける。モアとキーウィの砲撃により艦長が戦死したため、水雷長の是枝貞義大尉(海兵64期)の指揮で南緯0913分 東経15940 / 南緯9.217度 東経159.667度のカミンボ沖合1km地点付近で2315に座礁した。やがて、伊1は浸水で右舷側に大きく傾斜して放棄され、その後沈没した。艦長の坂本榮一少佐以下乗員27名が戦死し、66名が生存した。その後機密書類の一部が回収され、海岸で焼却された。しかし、艦内の暗号書等の機密書類のほとんどは処分が不徹底のままだった。生存者は艦内の機密文書の捜索のために乗員2名を残してガダルカナル島に上陸し、後に帰還した。30日、モアは機密文書を捜索中の生存者2名を発見し、1名を無題.png機銃で射殺して1名を捕虜にした。生存者からの、機密文書の処分が徹底されていないとの報告を受け日本軍は伊1の処分を行った。22日夜、乗員5名と陸軍第1船舶団11名が大発で現場海域に向かい、爆雷2発を使用して艦体を爆破するも失敗。10日、第26航空戦隊第582海軍航空隊の99式艦爆9機が直援の零戦20機とともに爆撃を行うも、1発を命中させたのみにとどまった。11日、米魚雷艇のPT-65が伊1の艦体の調査を行った。13日、ニュージーランド特 設敷設艇マタイと米潜水艦救難艦オルトラン(英語版)(USS Ortolan, AM-45/ASR-5)によるさらなる調査が行われた。この結果、艦内水没部を米軍の潜水夫に隈なく捜索されて20万頁に及ぶ日本海軍の暗号書や機密書類が引きあげられ、日本軍の暗号解読に大いに役立った。同日、姉妹艦の伊2が雷撃処分するために現場海域に到着。15日まで伊1を捜索するも発見できず、さらに米魚雷艇からの爆雷攻撃を受けたため伊2は帰投した。                        伊号第一潜水艦 (初代)


沈没した伊1を捜索するアメリカ海軍のPT-65                          以上、推敲前草稿


 坂本神社を調べているのか知人の阪本さんを調べているのか分からなくなってきましたが、聞くところによれば阪本様の家紋(まだ、確認してはいませんが…)は、三盛亀甲(唐花=花菱)紋とのことです。

無題.png間違いやすいのが 無題.png三盛亀甲剣唐花紋です(浅井家など)

北近江(滋賀県)の戦国大名浅井長政が有名ですね…阪本様の家紋は三盛亀甲唐花ですので、


無題.pngになりそうです。出羽米沢藩重臣直江氏(直江兼続).でしたか。

そもそも、博多の櫛田神社の主神=大幡主は三盛亀甲紋ですが、詳しくは三盛亀甲に五三の桐紋であり、天皇家そのものとも言えそうですがそれは誤りで、天皇家と姻戚関係を結んだものである事を示しており五三の桐紋ではなく、天皇家は五七の桐紋なのです。

 ただ、第九代開化天皇=久留米の高良山に祀られる高良玉垂命はただのシンプルな唐花紋=花菱紋なのです(右下)。表向きは左三つ巴紋、裏紋に木瓜(モッコウ)紋にしていますがそれは臣下の紋なのです。

 無題.pngここまで見てくると、やはり阪本様も志賀島の氏子の一族の坂本様で良いのではないかと思います。後は、詳しくご一族の方から取材させて頂く事にします。 その方が阪本様により近いような気がします。



posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記