新ひぼろぎ逍遥 1074
もしかしたら、風三郎神社と宮沢賢治の風の又三郎には関係があるのではないか…と考えたのですが ?
20241121
太宰府地名研究会 古川 清久
この直感は、天竜川左岸に風三郎神社を見出した時からのものでした。ただ、その段階ではこの風三郎神社が本当にヒコヤイミミの子である新(ニュウ)彦=興ツ彦の事であることを確信するまでは後回しにしていたのでした。
右は「中川村 風三郎神社 祭神」で再掲した記事です。

我々、百嶋神社考古学の者にとっては、期待していた通りの記事で、「級長津彦命」(しなつひこのみこと)と「級長戸辺神」(しなとべのみこと)とは、級長津彦命が草部吉見=ヒコヤイ(ハエ)ミミで、級長戸辺神が高木大神の次女の栲幡千千姫命(タクハタチヂヒメ)との間にもうけた高千穂の三田井にいた高木大神系の直系の跡継ぎになる人物なのです。ここまでくると、阿蘇系神社に精通した方でも中々分からない部分になるかも知れません。
恐らく、草部吉見そのものは進出した三郎かその後裔氏族によって祀られたものであろうと考えています。その時代はまだまだ3〜4世紀であり、初期九州王朝の真っただ中という時代であり、海幸=ヒコヤイミミ、山幸=猿田彦=ニギハヤヒの深刻な対立が起こっている段階でもないはずなのです。
ただ、三郎は建御名方命に対して20年程年若であり、実際に出会っている可能性もあるはずなのです。
さて、“風三郎と風の又三郎とは関係があるのか”というテーマに入りましょう。
まず、風の又三郎という宮沢賢治の晩年の短編ですが、私も確か中学生の頃にNHKで見たような気がしています。
どう考えても風三郎神社という名称は非常に印象的な名前で、龍田神社の話を知らない人でも心が躍るような社名であるため、宮沢賢治が信州に縁故がないとしてもかなり気になるものだったのです。
そこで、これについて検索を繰り返していると、かなり魅力的な話が出てきたのでした。
ただし編集の都合から、書体、色、レイアウトなどは変えています。できるだけ原本をお読み下さい。
特定非営利活動法人
風ノ三郎伝説
宮澤賢治の童話「風の又三郎」の基となった「風野又三郎」のなかに「そんな小さなサイクルホールなら僕たちたった一人でも出来る。(中略)甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ヶ岳の麓の野原で休んでたろう。(中略)下に富士川の白い帯を見てかけて行った。」と、岩手県生まれで山梨県を訪れたことがない賢治の作品の一節に八ヶ岳や富士川などの名前がでてくることから、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)の寮で同室であった韮崎市(旧駒井村)出身の保坂嘉内から聞いた八ヶ岳の三郎風の話をヒントに書かれたのでないかと言われている。
三郎風とは八ヶ岳おろしの別称で、甲斐国史(1814年)には八ヶ岳に風ノ三郎ガ岳があったことが記されている。現在、風ノ三郎ガ岳がどの山であったかは定かではない。さらに風切りの里と呼ばれる北杜市高根町清里樫山地区には、暴風雨除けの「風の三郎社」があり、雨乞いをする「八ヶ岳権現社」、晴天を祈願する「日吉神社」と合わせて三社参りといって、270年前から終戦の頃まで「オハンネリ」といって米を紙に包んで奉納する神事が行われていた。
風の三郎伝説は、福島・新潟・長野県などにもあり、いずれも210日などの風水害から農作物を守り、五穀豊穣を願う信仰で、八ヶ岳山麓では高根町樫山と南牧村平沢の集落だけです。さらに嘉内が中学時代に描いた鳳凰三山から甲斐駒ケ岳に向って尾を引いて飛んでいくハレー彗星のスケッチに「銀漢(注:銀河のこと)ヲ行ク彗星ハ夜行列車ノ様ニニテ遙カ虚空ニ消エニケリ」の文章が添えられていることから、「銀河鉄道の夜」も嘉内から聞いた彗星の話しがヒントになったかもしれないとのことです。賢治と嘉内は同じ理想を持ち、文学などを通じて生涯の親友となるが、やがて宗教観の違いなどから離れていってしまう嘉内への心情を、「銀河鉄道の夜」の中で孤独な少年ジョバンニ(賢治)とその友人カンパネルラ(嘉内)に置き換えて書いたともいわれています。はたして賢治は嘉内から風ノ三郎伝説や彗星の話を聞いたのでしょうか。 (小村寿夫)様
風切りと呼ばれる赤松の防風林と八ヶ岳:風ノ三郎ガ岳はどこに。この防風林の中(右方)に八ヶ岳権現社がある。
八ヶ岳権現社:そば処北甲斐亭の近くの「五幹の松」と呼ばれる赤松(高根町指定天然記念物)の根元に明和元年(1764年)造年の八ヶ岳権現社の小さな石の祠(右)と、「風切りの松 風の三郎」と彫られた新しい石碑が並んでいる。
日吉神社:上手集落はずれの山腹にあり、鳥居をくぐって石段を登ると古い社が建っている。300年ほど前から行われている日吉神社の筒粥の神事は、毎年旧暦の1月14日から15日の未明にかけて大鍋に米と葭の筒を入れて炊き、葭筒の中の粥の入り具合で作物の出来具合などを占う神事で高根町の無形民俗文化財に、また、石段両脇の3本の杉の大木が高根町の天然記念物に指定されている。
風の三郎社:東原集落の利根神社の中に小さな石祠の風の三郎社(右)が利根神社(左)と並んで祀られている。風の三郎社は他の場所から移されたもので、苔むした祠の屋根が時代を感じさせる。
賢治と嘉内の碑:韮崎文化ホールの前にある銀河鉄道を模した嘉内が理想の農業を目指した花園農園と嘉内の歌稿、賢治の書簡が書かれた石碑。
銀河鉄道展望公園:南アルプスを望む韮崎市穂坂町には、夜、中央本線の列車の帯が空に駆け上がって行く銀河鉄道のように見えるという銀河鉄道展望公園がある。
まずは、風三郎神社ではなく、甲信越などに広がる風の神信仰の色合いの濃い一般的な風の神信仰に関するものをお知らせしました。
次も、伊那谷と言うより八ヶ岳南麓の話になります。
ただ、宮沢賢治が韮崎に住む生涯無二の親友「保坂嘉内」からこれらの話を聞き、「風の又三郎」を書き上げたのではないかという話がある。と書かれているように、かつて現山梨県韮崎市に住んでいた保坂嘉内との交友を取り上げており、この点、風三郎神社と「風の(野)又三郎」との接点も意識されているようです。


次は、ウィキペディアから保阪嘉内を検索し拾ったものです。
20241119 22:13よる
保阪嘉内 保阪 嘉内(ほさか かない、1896年〈明治29年〉10月18日 - 1937年〈昭和12年〉2月8日)は、日本の詩人。宮沢賢治の親友として知られ、賢治の代表作とされる『銀河鉄道の夜』のカムパネルラのモデルとも言われる。
経歴山梨県北巨摩郡駒井村(現:韮崎市)出身[6]。父は郡役所書記であった。韮崎高等小学校から1910年に山梨県立甲府中学校(現:山梨県立甲府第一高等学校)に進む[1]。星の和名に詳しい野尻抱影に英語を教わり、また文芸同人誌に作品を発表していた。中学入学の年にハレー彗星の最接近を観察しスケッチをつけた。
盛岡高等農林学校へ
盛岡高等農林在学時、同人誌『アザリア』のメンバーと(後列左)。嘉内の右が宮沢賢治。前列は左が小菅健吉、右が河本義行。
1915年に甲府中学を卒業すると、東北帝国大学札幌農科大学(現:北海道大学)を受験するが不合格となり、翌1916年に盛岡高等農林学校農学科第二部に入学する。出身地である山梨の農民生活の改善が進学の目的であった。寄宿舎(自啓寮)では賢治と同室となる。嘉内が石川啄木に興味を持っていることを知った賢治は、入学直後に啄木の短歌に詠われた旧制盛岡中学校(賢治の母校でもある)校舎のバルコニーに嘉内を案内した。賢治は嘉内の進学理由に共感したという。5月には寮の懇親会で自作の戯曲「人間のもだえ」を上演、賢治は「全智の神ダークネス」役で出演した。
1917年7月1日に高等農林で文芸同人誌『アザリア』が創刊されると、嘉内は賢治、小菅健吉、河本義行とともに、その中心メンバーとなった。同年7月、賢治が率いるフィールドトリップに参加、秩父で地質を探り『秩父始原層 其他』に短歌296首を収めた。そのうち岩石や鉱物、地質現象を読み込んだ154首を手がかりに当時のフィールドトリップ(巡検)案内と照らし、訪ねた地点や注目した鉱物の産出地の追跡が地質の専門家によって試みられている。専門書『地質学教科書』にもある秩父長瀞の結晶片岩に魅かれたこと(片岩26首・剥岩5首・シスト2首・結晶片岩1首)、また自然科学の知識の分析から、理系であって文学の素養を備えた人物としての個性を読み取ることができる。
しかし、1918年3月発行の第6号に寄稿した「社会と自分」という文章の中に、「今だ。今だ。帝室を覆すの時は。ナイヒリズム」という一節があったことが問題視され、退学処分となる。賢治は学校当局に再考を求めたが処分は覆らず、退学が決まり寮を出る嘉内に賢治は『漢和対照妙法蓮華経』(島地大等編)を贈った。この年の暮れも押し詰まったころ、日本女子大学校在学中だった賢治の妹トシが入院し、賢治は母にしたがって看病に上京する。賢治は会う機会を求めて駒井の保阪家宛てに手紙を送るものの、このときは再会していない。
営農、入隊、文芸記者 嘉内は東京で明治大学に学籍を置き、農業を支える志を貫こうと札幌もしくは駒場の農科大学への進学に向け勉強に取り組んだが、母の急死に遭い断念し、山梨に戻って農業活動に入る。1919年11月から1年間は志願兵として近衛輜重兵大隊に応召した。除隊後は山梨で職に就く傍ら、勤務演習に数度参加して1923年に士官(少尉)に任じられた。農林学校を離れたとはいえ同窓と手紙で交流を重ねており、小菅健吉の書簡録によると、1918年から7年ほどアメリカに滞在した健吉のほか、「アザリア」の仲間だった鯉沼忍と河本義行、やがては健吉・隆子夫妻、嘉内・さかゑ夫妻との親交をうかがうことができる。国柱会に入会して浄土真宗からの改宗をめぐって父と対立した賢治からは、多くの手紙が送られた。その中には嘉内にも国柱会への加入を勧めるものがあったが、父が神道・禊教の関係者であったためそれに応じることはなかった。賢治は家出して上京していた1921年7月、上野の帝国図書館(現:国際子ども図書館)で面会したとされるが、その日の嘉内の日記では「宮澤賢治 面会来」と書かれた文字を上から斜線で消している。この時期を境に賢治から嘉内への手紙の数は大きく減り[29]、以後再び会うことはなかったとされる。1924年から1925年まで山梨日日新聞に文芸記者として勤務し、短歌欄に投稿したさかゑと結婚、その後、念願の農業生活に入り、柳宗悦と小宮山清三らと諏訪で講演した1926年と、1927年、1929年に子どもをさずかる。1928年には歌集出版を企図したが、出版社の火災で預けていた歌稿を失い断念した。営農中に在郷軍人会の分会長や駒井村会議員といった役職にも就く。
以下略載
正確な表現ではありませんが「閑話休題」として
引用したアザリアですが、小坂氏が同人誌の編集権を握っていたとすれば、よく意味が分かるのです。
1917年7月1日に高等農林で文芸同人誌『アザリア』が創刊されると、嘉内は賢治、小菅健吉、河本義行とともに、その中心メンバーとなった。
このazareaは、スペイン語のazarea(アサレア)であって、日本でも一般にはアゼリアとか
アザレアと濁音で呼ばれていますが、アサリア清音で
発音するのが正しいはずで(皆様よくご存じの
怪傑ゾロ=狐も実は「ソロ」でそれはスターウォーズの
ハン・ソロでも分るでしょう)、花の西洋ツツジの
ことなのです。
残念ながらアルゼンチン・タンゴをこよなく愛する
私にも、タンゴにアサリアという単語の入った曲は
知らないのですが、それは乾燥した痩せた土地でも
良く育つという「節制」や「充足」を意味する花言葉
が奔放で場末(アラバレロ)風の酒場の意味にそぐわ
なかったからではないかと思っているところです。
しかし、その痩地故にこそ、甲風のワインの材料であるぶどうが育ったのであり、何が幸いするかは分からないものです。
そこで話は変わりますが、武田信玄公の晩年の居城が躑躅ヶ崎城でしたね。無論、躑躅はツツジの意味ですので、同人誌「アザリア」は甲斐出身の保坂嘉内が躑躅から付したものだったと思うのです。
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった戦国期の居館(または日本の城)[注 1]。甲斐国守護武田氏の居館で、戦国大名武田氏の領国経営における中心地となる。
ウィキペディア 20241122 12:43

旧山梨県北巨摩郡駒井村(現:韮崎市)出身の保坂嘉内の出身地の駒井村は躑躅ケ崎館に近い、韮崎市藤井町駒井ですので、アザリアの意味も、南アルプスを西に越えた現中川村の風三郎神社もその奥宮も知っていた可能性があるのです。勿論、アルプス越えになりますので冬場は無理としても、一泊の行程であれば明治大正期の健脚であれば、当然、可能な範囲のはずなのです。折しも、「アザリア」発行期はロシア革命の真っただ中であり、中央本線全通(1911年に名古屋まで)もその5年程前の事なのです。
甲斐から伊那なり飯田に向かうとしても、諏訪や塩尻まで遠回りはしないはずで、手前の茅野からは結局山越えするしかないのであって、明治大正期は皆、諏訪の手前の茅野まで行かずに、健脚の人は直行していたはずなのです。この話が寄宿舎(自啓寮)で賢治と同室となった宮沢賢治との会話に出ないはずはないのであって、風三郎神社の存在が短編「風の(野)又三郎」と不思議な転校生としての保坂が風の又三郎のモチーフになったと思うのです。しかし、この三郎神社の主が阿蘇の草部吉見(ヒコヤイミミ)の親子だったとはまでは、今もなお誰も知らないはずなのです。