2025年02月28日

新ひぼろぎ逍遥@1060 盆明けの既に涼しい晩秋の南阿蘇 南郷谷最深部への神社トレッキング 0818+25 サブ資料 “日本武尊に誅伐された熊襲 猛の生誕地を発見した”(全体像)佐賀、福岡、大分、熊本

新ひぼろぎ逍遥@1060 盆明けの既に涼しい晩秋の南阿蘇 南郷谷最深部への神社トレッキング 0818+25

サブ資料 “日本武尊に誅伐された熊襲 猛の生誕地を発見した”(全体像)佐賀、福岡、大分、熊本

20240708 太宰府地名研究会 古川 清久

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本来は、この4本のパワー・ポイントの元となったブログ(大半はネットでオンエア中)を読んで頂きたいのですが、近稿も含め相当の数に上るため概略を簡単にご説明したいと思います。

この4本のP.P.は左上から佐賀川上峡、福岡市早良区、豊後大野、南阿蘇高森を舞台としています。

1. 肥前の川上峡の川上 猛

始めは10年程前に旧大和町(現佐賀市)川上峡の淀姫神社近くの健福寺で1.を講演したものから始まりました。

これについては、佐賀市に吸収合併される前の旧「大和町町史」の古代偏に川上 猛の墓が嘉瀬川の河口部の川上峡に淀姫神社があり、付近の健福寺の元寺が在った旧境内地の一角(現在はゴルフ場のコース)に川上 猛の墓誌があったとの寺の伝承が書かれている外、「佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告」にも川上峡に隣接する旧鍋島村蠣久には千軒の人家が並び、多くの商家が並ぶ九州最大級の大都会であり、後の日本武尊も日向からこの地に入っていたといった話が書かれているのです。

2. 福岡市早良区の川上 猛

ネックだったのは同じ佐賀県の“現神埼市の旧脊振村広滝で許され、脊振山を越え猛の一族は福岡市早良区の某所に移動しその一族は現在もある神社の周りに纏まってお住まいになっておられます”。と故)百嶋由一郎から聴かされていたことでした。ただ、同氏は川上 猛の一族が何処に落ち延びたのかについては可哀そうだから話せないとして、何れは話すつもりでおられたようで、当方も聴きだそうと思っていたのですが、そのまま鬼籍に入られ永久に謎は解けないまま消えると諦めたのです。しかし、3年程前に先生が残した手書き資料から、“川上 猛と淀姫の母である奈留多姫が八坂刀売と名を変え建御名方の妃となり共に道行となった…失礼”というメモがある事に気付いたのでした。八坂刀売は諏訪に封印された建御名方の妃である事は有名な話です。その妃について諸説ある事は承知していますが、これが虚偽とは思えなかったのでした。こうして、当会の事務局長N氏と現地に入ったのでした。何故ならば、早良区の諏訪神社は原にある一社しかなかったからでした。

これまであて途も無く南から早良区の神社を探っていただけに、天国の百嶋先生が気付かせてくれたような気さえしたのでした。その後この事を確認するためにメンバーを集めてトレッキングを行いましたが、謎の一つが解決できた瞬間でした。その決め手になったのは境内に残された氏子の敬老会の記念碑でした。そこには、多くの「大神」(オオガミ)姓の方が筆頭から並んでおられたのでした。

詳細は公開中のブログか、DVD内に収めたWord文書ファイルかP.P.をお読み頂くとして。

当然にも、建御名方が福岡から諏訪に向かったなど聞いたこともない…と言う方しかおられないのは仕方がないのであって、増してや大国主命の子の兄が事代主、弟が建御名方なんだから出雲から諏訪に向かった…はずだ…と言った通説に靡いてご高説を語る方しかいないはずなのです。

 ところが、百嶋神社考古学は、大国主は日向(古代日向国)の西都市を本拠地とした大山祗の子で博多の櫛田神社にいた大幡主(カミムスビ神)への入婿となり、宗像の市杵島姫と豊玉姫を妃としたのです。妹の木花咲弥(コノハナノサクヤヒメ)も姉の神大市姫(ミヅハノメ)も九州に居た事を知っており、出雲の国譲りの現場が高木大神の後の本拠地である彦山の南北福岡県朝倉郡と田川郡一帯であったとしているのです。当然にも国を奪われた建御名方(田川郡で国土開発を…)が原に居て悲嘆と怒りに暮れていた可能性は高く、その時期に奈留多姫と出会い二人での道行となったのだと分かるのです。

 つまり出雲は、元々、博多の櫛田神社の一族の植民地の一つだったのであり、大国主命担ぐ袋は引っ越し荷物だったのです。結果、出雲は近畿大和朝廷のテーマ・パークとして扱われる事になるのです。

3. 豊後大野の大神一族も川上 猛の末裔ではないか

 その後、大神(オオガミ)姓と豊後大野の大神(オオガ)一族とは読みは違うものの同族ではないかと思うようになったのは自然な流れでした。ただ、豊後の大神一族をご存じの方はそれほど多くはないいと思われある種ローカルな土豪と言った感もあるのです。ただ、実際には「平家物語」にも登場する祖母山の御使いとしての大蛇の血を受けた豪の武人として描かれた大神惟基、大神惟栄はその時代広く喧伝されているのです。この大神一族は惟基、惟栄と言う名でも分かるように阿蘇系大族の分流だったのです。

 詳しくは、竹田の穴森神社と豊後大野市清川の宇多姫神社に関わる故事をお調べ下さい。

現在、豊後と日向の国境を成す祖母山系でも祖母山を北から崇める竹田市、豊後大野市の一帯では阿蘇系氏族が展開しているのです。一方、南北からも先行して神武皇兄五瀬命が祀られてもいるのです。

 彼らは祖母山山頂に、豊玉姫、姥岳神社(鴨玉依姫)などを祀り、自らの先祖の祖母、姥と見なしたのでした。そもそも、祖母山とは誰かの祖母であり、釣針(チ)の回収で山幸彦=ニギハヤヒと豊玉姫が出会い、三年の間に子(ウガヤフキアエズ)を成し、そのウガヤが、乳母として送られた鴨玉依姫と結ばれ生まれた子が安曇磯羅だったのです。それについては、豊玉姫を妃とした山幸彦が彼女の子育て放棄に遭遇し途方に暮れると、カミムスビ系氏族側(博多の大幡主)から送り込まれた乳母としての鴨玉依姫がぴったりするのです。

そのウガヤと、奈留多姫の間に生まれたのが川上 猛、淀姫兄弟となるため、祖母山の名を与えたのは、川上 猛から見た意味であり、猛を始祖と考える大神一族が猛の後裔氏族大神一族だったと言えるのです。大神惟栄が鎌倉期には義経を総大将として受入れ、頼朝と一戦構えるために造ったのが難攻不落の岡城(実は大神城)であり、平家方が集結し始めていた宇佐神宮を焼き打ちしたのも知られた話です。

4. 南阿蘇高森が川上 猛の生誕生育地だったのではないか


 無題.pngでは、今回、豊後大野に注ぐ大野川(大分市まで流れる)のさらに上流は大谷川になり、ある一帯からは川上渓谷と呼ばれている事を知ったのでした。もちろんそれは後付けでしたが、その地には野尻川上神社が在ると教えてくれたのは、南阿蘇在住で当会のメンバーであるM女史だったのでした。直ちに同社を踏むと、鳥居の前の大きな石塔には、肥前の川上淀姫大神を勧請したと深く深く掘り込んであったのでした。



 そもそも、佐賀の川上峡はどう見ても2000年前の海岸線であり、川上峡温泉も川上ではなく川下でしかないのが疑問でした。今回、高森でも外輪山外延部の標高800mの地に野尻川上神社を見出し同社正面の川上渓谷の存在を知ると、川上 猛と呼ばれたものと判り、同じ阿蘇氏の本流中の本流であった川上 猛、淀姫の一族とは、阿蘇谷に拠点を置いた健磐龍の阿蘇神社よりも、高森でも阿蘇カルデラ外延部から派生したより戦闘的な草部吉見系の氏族であった事が見えて来たのでした。

 これで、北部九州4県に跨り大きな足跡を残した川上 猛という人物の足跡とその後裔氏族の活躍の全体像が不十分ながらもある程度把握できたことは非常に幸運だったと思います。

 ヤマトオグナの熊襲猛退治は誰でもが知っていながらもどこの誰の話か見当さえつかない中で、神話から現場が目に見える形で理解できたことは、神社研究が馬鹿にならないと思ったのでした。戦後、米軍によって神社研究の破壊が日本人の思想と宗教を極限まで進めましたが全てが架空でも無かったのです。

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2025年02月25日

新ひぼろぎ逍遥@1059 盆明けの既に涼しい晩秋の南阿蘇 南郷谷最深部への神社トレッキング 豊後大野に川上 猛の痕跡を探して “日本武尊に誅伐された熊襲 猛の生誕地を発見した” 改訂版

新ひぼろぎ逍遥@1059 盆明けの既に涼しい晩秋の南阿蘇 南郷谷最深部への神社トレッキング

豊後大野に川上 猛の痕跡を探して “日本武尊に誅伐された熊襲 猛の生誕地を発見した” 改訂版

20240612

太宰府地名研究会 古川 清久

 阿蘇南郷谷の高森町でも外輪山外側の最奥部に鎮座する野尻川上神社(皆さん良くご存じのヤマトタケル命=後の日本武尊に誅伐された川上 猛の出生地の可能性あり)の重要性に気付き、本年8月の盆明けにこの一帯での神社トレッキングを行う事にしました。最も重要と考えているのは大谷川正面に鎮座する野尻川上神社です。この神社の価値は限りなく大きいのですが、皆さんにも理解して頂けるでしょうか。

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野尻川上神社 カーナビ検索熊本県高森町野尻649   

 そこで、8月は盆休みとしてイベントは行わない事としていましたので、阿蘇高森の最深部を探る神社トレッキングを行う事にしました。以下はその仮案ですが、普段、殆ど入らない神社56社を巡る企画を立てました。このため、その数社について下調べとしての作業を行っています。

  8月盆明けの仮日 奥阿蘇神社トレッキング 太宰府地名研 “川上 猛の生誕地を探る” 雨天中止or延期

日 時:818日(仮案)930集合1000出発 参加費 1000円 連絡 090-6298-3254(お杖代 古川)

集 合熊本県高森町草部1170−2 奥阿蘇物産館 参加費+資料代(500700円)弁当+お賽銭+雨具持参

参加費:連絡 太宰府地名研究会 090-5289-2994(事務局中島)宿泊地は各自で確保して下さい! 時間厳守

順路:@ 矢津田御霊神社 ➁ 祭場阿蘇神社 ➂ 野尻川上神社 ➃ 尾下菅原神社 ➄ 永野祖母嶽神社

余裕があれば、最後に草部吉見神社も巡ります (ご注意を順路は変更有…実際にはパスする神社も出ます)

※ 参加される方の各々ご都合があると思いますので、集合場所と集合時刻を決めておきますので本当に見たいと思われる方だけで決行したいと思います。奥阿蘇物産館or高森町スーパーマーケットフレイン930集合(仮案)で、特に御霊神社は高千穂のひのみこ社の二子石女史に案内して頂くけるかも知れません。

(仮案)高森町のフレインに集合し直接、御霊神社に向かい祭場阿蘇神社を経て野尻川上神社を巡る

 盆明けの8月下旬なら標高800超の現地のこと、暑いと思われるでしょうが、午前中は元より阿蘇でも外輪山の外は既に涼しいためこの点の問題はないでしょう。

 同エリアの最初の訪問地は、御霊神社〜祭場阿蘇神社〜野尻川上神社(初見の方が多いと思います)ですが、この3社に訪問できればとりあえず目的は達成できると考えています。状況に合わせて、最後は希望者のみ草部吉見神社に参拝し戻ります。

 現在、検討中ですが、基本的にはカーナビで移動できますので、全56社の住所を表示します。

➊ 矢津田御霊神社  :熊本県阿蘇郡高森町矢津田1979  吉備内親王、佗戸親王の母、光仁皇子、

早良親王、伊予親王の母、桓武天皇皇子

➋ 祭場阿蘇神社   :熊本県阿蘇郡高森町中2168    健磐龍外11

 ➌ 野尻川上神社   :熊本県阿蘇郡高森町野尻649    淀姫、川上大神…9

 ➍ 尾下菅原神社   :熊本県阿蘇郡高森町尾下3843    菅原道真、国常立神、天字受女命

 ➎ 永野祖母嶽神社  :熊本県阿蘇郡高森町津留      山幸彦、豊玉毘賣命、鵜葺草葺不合命

玉依毘賣命、神日本磐余彦命=神武天皇、吾平媛命、木花佐久夜毘賣

 ➏ 草部吉見神社   :熊本県阿蘇郡高森町草部2175    彦八重耳外11

無題.pngフレイン(高森店)熊本県阿蘇郡高森町高森2216 

営業時間 日曜日      900分〜2200

現地では食料購入できません川上淀姫社で昼食予定ですので事前に準備を!フレインでも9時には購入可能

ゴミは持ち帰りが原則!お賽銭は各自でご準備下さい。

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コンビニなど皆無の地域です。トイレについては以下をご利用下さい。トイレ:親水公園 高森町津留

尚、永野祖母嶽神社や草部吉見神社にもきれいなトイレットがあります。川上神社より下は川上渓谷です。 詳細はブログ本数が多いためCD,パワポで配布します。

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2025年02月22日

新ひぼろぎ逍遥@1058 川上 猛と日本武尊を別の百嶋神代系譜から見ると

新ひぼろぎ逍遥@1058 川上 猛と日本武尊を別の百嶋神代系譜から見ると

20240705

太宰府地名研究会 古川 清久


これは、普段お騒がせ姫系譜と呼ぶ百嶋由一郎 018阿蘇系譜@-2神代系譜です。

最終神代系譜ばかりでご紹介していますが、今回は違う側面から考察したいと思います。

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まず、四角い青枠は、高木大神の次女タクハタチジヒメと草部吉見の間に生まれたのが阿蘇ツ姫で、初代神武(カムヤマトイワレヒコ)と金山彦の娘のアイラツヒメの間に産まれた第4代懿徳天皇の后になった上で、後に手研耳=健磐龍の妃となっている事が分かるのです。所謂、百嶋由一郎が言う皇后陛下かっぱらいです。その間に産まれたのが悲劇の雨宮姫でご存じの方は少ないでしょうが、人吉盆地の相良村に雨宮神社が在りますね。その他にも熊本県内に数社この御姫様の神社が在ります。

同じく、高木大神の次女タクハタチジヒメと草部吉見の間に生まれた新(ニュウ)彦=興ツ彦と前述の雨宮姫の間に産まれたのが阿蘇宮司家初代とされる惟人と奈留多姫で、その奈留多姫が久留米の高良山にいたウガヤフキアエズとの間に設けたのが川上 猛と淀姫(ユタヒメ)=豊姫となるのです(赤丸枠)。


次は、通商金神系譜と呼ぶもので、最も重要かつ難解なものです(068細密系譜原本)。
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日本武尊の妃。尊の東征に従い、相模から上総に渡るとき、海が荒れたので、海神の怒りを鎮めるために尊の身代わりに海に身を投じたと伝えられる弟橘媛は彦坐王と息長水依姫の間の子ではないかとしています。日本武尊の活躍でも知られた琵琶湖北岸に伊吹山があります。山上の荒ぶる神の話ですが、息長の一族は琵琶湖北岸にもおられますので、百嶋先生の指摘は良く分かります。

 開化天皇のお后にもなる神功皇后のご両親を祀る神社下ノ宮は、佐賀県の旧三ツ瀬町の野波神社の下手に在りますので、仲哀死後の神功=息長帯姫は、両親を祀る神社が三瀬町杠ユヅリハですので、元々は佐賀県に出身地があったと考えています。

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