スポット 271 緊急リポート
誅伐されたはずの熊襲 猛は許されその一族は背振を越え福岡市早良区の某所に今も住んでおられます
20211216
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
今回は、百嶋由一郎氏が残された手書きスキャニング・データ 百嶋神社考古学(逸文@)から採題させて頂きます。
故)百嶋由一郎氏の手書きデータには解析が必要なものどころか貴重極まりない重要なものが多々ありますが、知識も資金も不足しているアマテュアの片手間作業でやっている程度ではなかなか追いつきません。今後、少しづつでも今までとは異なった側面からアプローチを加えたいと思います。
これは有名なヤマトタケル(日本武尊)に誅殺されたとされた河上 猛のその後に関する話です。

“河上 猛のその後に関する話です”としましたが、ヤマト・オグナに誅殺された…はずの熊襲猛のその後の話…?と訝しがる方が多いかも知れません。この話を一から説明していては全く先に進めませんので、この部分を読みたい方は、以下のひぼろぎ逍遥〜新ひぼろぎ逍遥をお読み下さい。
554 | 淀 姫 C ” みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について” |
553 | 淀 姫 B |
552 | 淀 姫 A |
551 | 淀 姫 @ |
また一般には、熊襲猛だからこの鹿児島だか宮崎の蛮族を誅伐するなどと理解されている話の舞台が、実は有明海最北部の佐賀県佐賀市(旧大和町)の川上峡温泉(佐賀大和IC)一帯での話しである事についてパワー・ポイントも作成していますので希望される方には実費程度でお送りしてもおります。
この話は「旧大和町町史」にも採録されているもので、40年近く前にこの話を知って以来、「古事記」の河上 猛の説話の舞台はこの地で起きたことであり、その話を回収された故)百嶋由一郎氏はさらにタケルは許され、その一族は今も山を越えた福岡市早良区にまとまって住んでおられます。分かっているけど可哀そうで公表できないと語っておられたのですが問い詰めることまではできず、他のメンバーもそれっきりにしていたのでした。
ただ、ロマンチックな話であり私を含めどの氏族だろうと思い続けていたのです。

阿須波神 あすはのかみ……阿須波神は大年神の御子神。
『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)。
これらの神々は、竃や屋敷、庭、農地など、農業生活(稲作)のための神々だと思う。
阿須波神は足盤、足場の神・足下の神。足で踏んで立っているところを守る神とされ、 『万葉集』巻二十・防人の歌にも「庭中の阿須波の神に木柴さし、吾は斎はむ帰り来までに」と詠まれている。 4350
延喜式神名帳、宮中神の条に「座摩巫祭神五座」として、 「生井神(いくゐ)・福井神(さくゐ)・綱長井(つながゐ)神・波比砥(はひき)神・阿須波神」の五神の名を掲げている。
生井(いきいきした井)・福井(栄える井)・綱長井(生命の長い井)の三神は井の神。ハヒキは境界、アスハは基盤で、ともに屋敷神をさす。 これらを総合して、ヰカシリ(居処領)の神と言った。
「座」は「居処」、「摩」はシリの音転スリの宛字。つまり敷地の神で、注に「大宮地の神の霊」とある通りである。
敬愛する「玄松子」氏による
以下、百嶋手書きメモより
アスハは、長脛彦叛のあの事に心が揺れて道行に✓失礼、道ゆきに(ママ)為に、外宮サマに連れられて、八咫烏下鴨サマに詫びの為山城を訪ねられました。その頃の名残のアスハ社は、(ごまかしのために下鴨ではなくて)上鴨の神紋の前に…。今もございます。
ナガスネヒコの叛乱の折に建御名方(草部吉見と豊受大神=外宮との間に生まれているにも拘わらず)はナガスネヒコの側に立って動いたようなのですが、彦山南麓の旧朝倉郡一帯の大国主の葦原中津国を奪われる際に、彦山北麓の自ら開いた筑豊の開拓地をタカミムスビ=高木大神から同時に奪われた事もあってか(これについては、以下をお読み頂きたいのですが、911〜914は半年後に公開しますので、それまではそれ以下をお読み下さい)、彼らはナガスネヒコの一派に与したようなのです。ともあれ先生が書かれているのは、外宮様に連れられて、八咫烏=下鴨に詫びを入れているというのです。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
914 | 出雲の国譲りは筑前の旧朝倉郡から筑豊〜豊前に掛けての 旧田川郡、行橋市一帯で起こった |
913 | 福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は春分 秋分のラインに参道を置いていた(下) |
912 | 福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は春分 秋分のラインに参道を置いていた(上) |
911 | 彦山直下 添田町中元寺の諏訪神社は真実の出雲の国譲り= 強奪を今に伝える |
ひぼろぎ逍遥
260 | 若き大国主命=大己貴(オオナムチ)ならぬ大己彦を祀る “春日市の白玄社”への再訪! |
177 | 大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも… |
176 | 少彦名命とは何か? |
スポット 041オオナムチの移転先@ スポット042オオナムチの移転先A
スポット 050「日隅宮」の発見は何を意味しているか
ビアヘロ 023 筑前町に「日隅宮」を発見した!
ビアヘロ101 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…
などをお読みください。

左)須波神社 賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境内摂社 右)阿須波神社 千葉県市原市
周囲(旧字の圑)から世話をしてもらった、“妻”奈留多姫は、八坂刀売と変名して、二人の新天地=信州諏訪へ赴れました。
奈留多ヒメは一族(※熊襲及びゆかりの人達 阿蘇家)を、福岡市早良区にのこしてゆかれました。
この同園は不明です。「同」ではないのかも知れません(初は周囲の旧字と分からずにいましたが…)。
ただ、奈留多姫は阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミの娘(母は高木大神の次女タクハタチヂヒメ)である天豊ツ姫と健磐龍の間に生まれた雨宮姫と、大山咋(日枝神社、山王神)との間に生まれた人で、阿蘇宮司家の初代である惟人の妹か姉であるため、阿蘇系の人物である事は間違いないと思われます。
実は、当の阿蘇宮司家は速甕玉(阿蘇北山国造神社の主神)との間に生まれたのが惟人としますが。
結局、河上タケルは母方を見れば、阿蘇系(それを持って「古事記」は熊襲猛と呼んだのでしょうが…惚けた話です)なのでしょうが、父方から考えれば、草部吉見=ヒコヤイミミ=海幸彦の対極である彦火々出見=山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦の子であるウガヤフキアエズであるため、福岡市早良区に残された河上猛の一族は、諏訪神社、建御名方、阿蘇氏、淀姫などをキー・ワードに探る価値があると思うのです。


ここで周辺の氏族を理解するために百嶋由一郎最終神代系譜をご覧いただきました。
建御名方は高木大神が本拠地としていた彦山北麓の筑豊は田川郡から行橋市一帯の国土開発を行っていた(添田の諏訪神社の由緒)ようですが、この一帯では添田町の一社を除き、ほぼ諏訪神社が一掃されています。
多分、争いがあり高木大神系=天照大神系=阿蘇系の勢力に土地を強奪されたのだと思います。
この遺恨があってか 建御名方の一族は南や西(佐賀県も諏訪神社が多い)に逃げ(日向に南方神社が多い理由はこのためです)、それが後に諏訪神社と呼ばれた理由は、恐らくこの酷い目に合ったもの同士の奈留多姫と建御名方の道行以降の社名なのでしょう。
遡れば、建御名方はイスラエル系の金山彦(櫛稲田姫)の娘を妃とした〜スサノウ系〜ナガスネヒコの妹のオキツヨソ足姫の恨みがあったからこそ、その子孫として与したのではないかとも考えられます。
もう一つは系譜です。直上の系譜の〇円内の拡大図をご覧頂くと、二本線と一本線が建御名方に繋がれていることがお分かりいただけると思います。
この建御名方は草部吉見=海幸彦とオキツヨソ足姫との間に生まれているのですが、母親=伊勢の外宮様の流れがそうさせたのか、ヒミコ宗女イヨ、山幸彦=ニギハヤヒの子であるウマシマジなどとの義理の兄弟になっている事が判るのです。
これこそが、阿蘇系であり高木大神、天照大御神系であるにも関わらず、心が揺れた背景の様に思えるのです。
そして、河上 猛と淀姫の母=奈留多姫は、冷や飯を食わされた者同士手で手を取って建御名方と諏訪に旅立ことになったとのです。
そこでヤマト・オグナから許された熊襲 猛の一族が母共々早良に入っているとすれば、第一義的には、早良で奈留多姫を祀る神社を探すべきですが(これについては福岡市の西隣の糸島市に産宮神社があり、奈留多姫が主神として祀られているのですが、残された一族の移動によるものではないでしょうか)、都合が良い事に福岡県でもそれほど多くもない諏訪神社が一社早良区 の原(ハラ)にあるのです。千葉の市原と対応していますね。
このため、この諏訪神社を軸に奈留多姫+建御名方の背景を探れば、熊襲猛の一族が探れる事に成ると考えるのです。
阿波須神社 市原市五井3389 (平成26年12月23日)
東経140度06分03.79秒、北緯35度30分10.62秒に鎮座。
【神社情報・「狛犬小僧」さんより】R五井駅より南東に約1kmの道路左側に鎮座しています。近くにケーズ電気、イトーヨーカドーあり。
阿須波神社を探していたのに阿波須神社と勘違いして辿り着いてしまった神社です。この辺りには両方の神社があるので要注意ですね。ちなみに阿波須神社は古事記にも出てくる神社だそうです。また阿須波神社は旅立の際に安全を祈願して参拝した神社だそうです。
御祭神 天乃比理刀当ス 由緒 治承4年、源頼朝が安房より上総を経て東上の際、同年9月29日当所に阿波須権現を勧請され、武運長久を祈られたという。時に家僕岡崎某が、石橋山の戦に公を失い追慕の情止み難なく陸路より公の行方を追跡したところ、図らずも当所阿波須権現の森林中において会見できたという。宝治元年社殿を改造。以後建武2年〜宝暦元年までの400余年間に5度の社殿改造を施され、近年に入っては明治34年9月29日改造、現今の社殿は昭和60年9月新修造された。(以上 神社のひろば 神社探検隊より抜粋) 注:ここまでは引用文本文です。
普通、古事記を軸に、阿須波神(アスハノカミ)を考えれば、…竃神(足場・足下の神・旅の神)の総称である坐摩神(イカスリノカミ)の中の一柱で、摂津国一宮・坐摩(イカスリ)神社が著名です。
子安神社、天神社、稲荷神社、大杉神社、阿夫利神社、四社大神、白山宮、愛宕社等が祀られています。
百嶋神社考古学といってもここまで細部に亘って定説がある訳ではないのですが、百嶋由一郎手書きメモに 建南方 → 阿須波 → 建御名方 とはっきり書いている以上、鹿児島に南方神社集中しているのは武甕槌=草部吉見によって敗残した熊襲の軍団が薩摩に落ち延びたと考えるべきで、その後の時期が奈留多姫と伴に諏訪に入り諏訪の神となって以降の呼称と考えるべきなのでしょう。
そして、建御名方と呼ばれたのであって、やはり、諏訪に逃れて以降諏訪神社と呼ばれるようになったのではないかと考えています。

市街地で要路が集中考査していますので、駐車スペースも見つけ難いと思いますが、近くにはイオン原店(今はドンキホーテ)もありますのでお買い物のついでに同社を見に行かれてはと思います。
許された熊襲猛の一族がまとまって住んでおられる地区を探りたいのですが、失礼になってもいけないため心して探索を進めたいと考えています。まだまだ、取り掛かったかりですので、情報をお持ちの方はご一報下さい(09062983254)。
百嶋神社考古学に携わるメンバーでもこの問題はかなり関心を引くテーマであり、フィールド・ワークにほとんど参加されない方々の中でも、O女史は、これについて別の仮説を提案されています。
詳しくは申し上げませんが、同じ早良区にある杉山神社です。
まあ、奈留多姫のお祖母さんにあたる草部吉見の娘の天豊ツ姫(この呼称は阿蘇の健磐龍の妃だった時のものです)は、天豊ツ姫→阿蘇ツ姫→天比理刀刀iアマノヒリトメ)→寒川姫→杉山姫と名を変えます。
この<お騒がせ姫> は建御名方ではなく最後にヤタガラスのお妃となって以降の呼称なのです。ともあれ、今後の問題です。
杉山神社 カーナビ検索 福岡県福岡市早良区10
既に主神として奈留多姫を祀る産宮神社が福岡市の西の糸島市にあるとしました。
これは、残された一族が奈留多姫を偲んで奉斎する神社だと思うのです。これについては、新ひぼろぎ逍遥に “732 産の宮神社に見る藤原氏の影 “福岡県 ...” - 書いていますが、今回の視点を全く欠いた深みの無いリポートであり、念のためにこれもご紹介しておきます。いずれにせよ、会内部で多くの説が提案され議論される環境があることこそが研究会会の生命です。
百嶋由一郎氏が残された神代系譜DVD、音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD…を必要とされる方は09062983254まで

と、ここまで書いてブログ一本を書き上げ閉じたところ、「宮原誠一の神社見聞諜」の宮原さんから連絡が入りました。それは、ありがたいことに古川説を補強する内容でした。それは、諏訪神社の境内に祠があり、1500年代に諏訪神社から勧請されたものがあり、八坂刀を祀っているというのです。
この名は、阿蘇ツ姫ではなく孫の奈留多姫が建御名方と一緒になって以降の名であり、奈留多姫=八坂刀唐祀る祠であった事が判るのです。恐らく、その祠の裏にはこれを諏訪から持ってこられた氏子の有志が居られるはずで、その方々こそ栄えある熊襲 猛の後裔氏族である可能性が非常に高いのです。
宮原さんはネット情報でこれを拾われたようですが、O女史もさることながら、万葉集の専門家であるI女史、宮原誠一氏、事務局の中島氏…の共同研究によって百嶋先生が敢えて伏せられた真実に迫る話も蘇るかも知れません。次報をお待ちください。改めて現地を踏み改めて報告をさせて頂きます。
残された紙面で追加情報を…。以下は5〜6年前にパワー・ポイントです。500円+送料程度+作業経費の千円程度でお送りします。

かつて熊本に孤高の九州王朝論者の平野雅廣先生が居られました。師の「倭国史談」の49pには河上猛の墓所があり(健福寺の元寺)現健福寺の時報にも記録があるというものでした。旧大和町史にも採録されていますが、当方のパワー・ポイントにも引用しています。特に古田武彦亡き後、何の研究もおこなわない堕落しきった福岡の九州王朝論者の方々是非お読み頂きたいと思うのですが、まあ、無駄でしょうね。