2022年01月31日

スポット 271 緊急リポート 誅伐されたはずの熊襲 猛は許されその一族は背振を越え福岡市早良区の某所に今も住んでおられます

スポット 271 緊急リポート

誅伐されたはずの熊襲 猛は許されその一族は背振を越え福岡市早良区の某所に今も住んでおられます


20211216

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回は、百嶋由一郎氏が残された手書きスキャニング・データ 百嶋神社考古学(逸文@)から採題させて頂きます。

故)百嶋由一郎氏の手書きデータには解析が必要なものどころか貴重極まりない重要なものが多々ありますが、知識も資金も不足しているアマテュアの片手間作業でやっている程度ではなかなか追いつきません。今後、少しづつでも今までとは異なった側面からアプローチを加えたいと思います。

これは有名なヤマトタケル(日本武尊)に誅殺されたとされた河上 猛のその後に関する話です。

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“河上 猛のその後に関する話です”としましたが、ヤマト・オグナに誅殺された…はずの熊襲猛のその後の話…?と訝しがる方が多いかも知れません。この話を一から説明していては全く先に進めませんので、この部分を読みたい方は、以下のひぼろぎ逍遥〜新ひぼろぎ逍遥をお読み下さい。


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淀 姫 C ” みやま市高田町江ノ浦の淀姫神社について”

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淀 姫 B

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淀 姫 A

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淀 姫 @


また一般には、熊襲猛だからこの鹿児島だか宮崎の蛮族を誅伐するなどと理解されている話の舞台が、実は有明海最北部の佐賀県佐賀市(旧大和町)の川上峡温泉(佐賀大和IC)一帯での話しである事についてパワー・ポイントも作成していますので希望される方には実費程度でお送りしてもおります。

この話は「旧大和町町史」にも採録されているもので、40年近く前にこの話を知って以来、「古事記」の河上 猛の説話の舞台はこの地で起きたことであり、その話を回収された故)百嶋由一郎氏はさらにタケルは許され、その一族は今も山を越えた福岡市早良区にまとまって住んでおられます。分かっているけど可哀そうで公表できないと語っておられたのですが問い詰めることまではできず、他のメンバーもそれっきりにしていたのでした。

ただ、ロマンチックな話であり私を含めどの氏族だろうと思い続けていたのです。

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阿須波神 あすはのかみ……阿須波神は大年神の御子神。

『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。

奥津日子神、奥津比売命(大戸比売神)、大山咋神(山末之大主神・鳴鏑神)、庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神(土之御祖神)。

これらの神々は、竃や屋敷、庭、農地など、農業生活(稲作)のための神々だと思う。

阿須波神は足盤、足場の神・足下の神。足で踏んで立っているところを守る神とされ、 『万葉集』巻二十・防人の歌にも「庭中の阿須波の神に木柴さし、吾は斎はむ帰り来までに」と詠まれている。 4350

延喜式神名帳、宮中神の条に「座摩巫祭神五座」として、 「生井神(いくゐ)・福井神(さくゐ)・綱長井(つながゐ)神・波比砥(はひき)神・阿須波神」の五神の名を掲げている。

生井(いきいきした井)・福井(栄える井)・綱長井(生命の長い井)の三神は井の神。ハヒキは境界、アスハは基盤で、ともに屋敷神をさす。 これらを総合して、ヰカシリ(居処領)の神と言った。

「座」は「居処」、「摩」はシリの音転スリの宛字。つまり敷地の神で、注に「大宮地の神の霊」とある通りである。

敬愛する「玄松子」氏による

以下、百嶋手書きメモより


アスハは、長脛彦叛のあの事に心が揺れて道行に✓失礼、道ゆきに(ママ)為に、外宮サマに連れられて、八咫烏下鴨サマに詫びの為山城を訪ねられました。その頃の名残のアスハ社は、(ごまかしのために下鴨ではなくて)上鴨の神紋の前に…。今もございます。


ナガスネヒコの叛乱の折に建御名方(草部吉見と豊受大神=外宮との間に生まれているにも拘わらず)はナガスネヒコの側に立って動いたようなのですが、彦山南麓の旧朝倉郡一帯の大国主の葦原中津国を奪われる際に、彦山北麓の自ら開いた筑豊の開拓地をタカミムスビ=高木大神から同時に奪われた事もあってか(これについては、以下をお読み頂きたいのですが、911914は半年後に公開しますので、それまではそれ以下をお読み下さい)、彼らはナガスネヒコの一派に与したようなのです。ともあれ先生が書かれているのは、外宮様に連れられて、八咫烏=下鴨に詫びを入れているというのです。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

914

出雲の国譲りは筑前の旧朝倉郡から筑豊〜豊前に掛けての

旧田川郡、行橋市一帯で起こった

913

福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は春分

秋分のラインに参道を置いていた(下)

912

福岡県東峰村小石原の高木神社(大宮司社)の参道は春分

秋分のラインに参道を置いていた(上)

911

彦山直下 添田町中元寺の諏訪神社は真実の出雲の国譲り=

強奪を今に伝える

ひぼろぎ逍遥

260

若き大国主命=大己貴(オオナムチ)ならぬ大己彦を祀る

“春日市の白玄社”への再訪!

177

大国主を出雲の神様と考えておられる方に対して僭越ながらも…

176

少彦名命とは何か?


スポット 041オオナムチの移転先@ スポット042オオナムチの移転先A

スポット 050「日隅宮」の発見は何を意味しているか

ビアヘロ 023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

ビアヘロ101 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…

などをお読みください。

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左)須波神社 賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境内摂社  右)阿須波神社 千葉県市原市


周囲(旧字の圑)から世話をしてもらった、“妻”奈留多姫は、八坂刀売と変名して、二人の新天地=信州諏訪へ赴れました。

奈留多ヒメは一族(※熊襲及びゆかりの人達 阿蘇家)を、福岡市早良区にのこしてゆかれました。


この同園は不明です。「同」ではないのかも知れません(初は周囲の旧字と分からずにいましたが…)。

ただ、奈留多姫は阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミの娘(母は高木大神の次女タクハタチヂヒメ)である天豊ツ姫と健磐龍の間に生まれた雨宮姫と、大山咋(日枝神社、山王神)との間に生まれた人で、阿蘇宮司家の初代である惟人の妹か姉であるため、阿蘇系の人物である事は間違いないと思われます。

実は、当の阿蘇宮司家は速甕玉(阿蘇北山国造神社の主神)との間に生まれたのが惟人としますが。

結局、河上タケルは母方を見れば、阿蘇系(それを持って「古事記」は熊襲猛と呼んだのでしょうが…惚けた話です)なのでしょうが、父方から考えれば、草部吉見=ヒコヤイミミ=海幸彦の対極である彦火々出見=山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦の子であるウガヤフキアエズであるため、福岡市早良区に残された河上猛の一族は、諏訪神社、建御名方、阿蘇氏、淀姫などをキー・ワードに探る価値があると思うのです。

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ここで周辺の氏族を理解するために百嶋由一郎最終神代系譜をご覧いただきました。

建御名方は高木大神が本拠地としていた彦山北麓の筑豊は田川郡から行橋市一帯の国土開発を行っていた(添田の諏訪神社の由緒)ようですが、この一帯では添田町の一社を除き、ほぼ諏訪神社が一掃されています。

多分、争いがあり高木大神系=天照大神系=阿蘇系の勢力に土地を強奪されたのだと思います。

この遺恨があってか 建御名方の一族は南や西(佐賀県も諏訪神社が多い)に逃げ(日向に南方神社が多い理由はこのためです)、それが後に諏訪神社と呼ばれた理由は、恐らくこの酷い目に合ったもの同士の奈留多姫と建御名方の道行以降の社名なのでしょう。

遡れば、建御名方はイスラエル系の金山彦(櫛稲田姫)の娘を妃とした〜スサノウ系〜ナガスネヒコの妹のオキツヨソ足姫の恨みがあったからこそ、その子孫として与したのではないかとも考えられます。

もう一つは系譜です。直上の系譜の〇円内の拡大図をご覧頂くと、二本線と一本線が建御名方に繋がれていることがお分かりいただけると思います。

無題.pngこの建御名方は草部吉見=海幸彦とオキツヨソ足姫との間に生まれているのですが、母親=伊勢の外宮様の流れがそうさせたのか、ヒミコ宗女イヨ、山幸彦=ニギハヤヒの子であるウマシマジなどとの義理の兄弟になっている事が判るのです。

これこそが、阿蘇系であり高木大神、天照大御神系であるにも関わらず、心が揺れた背景の様に思えるのです。

そして、河上 猛と淀姫の母=奈留多姫は、冷や飯を食わされた者同士手で手を取って建御名方と諏訪に旅立ことになったとのです。   

そこでヤマト・オグナから許された熊襲 猛の一族が母共々早良に入っているとすれば、第一義的には、早良で奈留多姫を祀る神社を探すべきですが(これについては福岡市の西隣の糸島市に産宮神社があり、奈留多姫が主神として祀られているのですが、残された一族の移動によるものではないでしょうか)、都合が良い事に福岡県でもそれほど多くもない諏訪神社が一社早良区 の原(ハラ)にあるのです。千葉の市原と対応していますね。

このため、この諏訪神社を軸に奈留多姫+建御名方の背景を探れば、熊襲猛の一族が探れる事に成ると考えるのです。


阿波須神社 市原市五井3389 (平成261223)

東経1400603.79秒、北緯353010.62秒に鎮座。無題.png

【神社情報・「狛犬小僧」さんより】R五井駅より南東に約1kmの道路左側に鎮座しています。近くにケーズ電気、イトーヨーカドーあり。

阿須波神社を探していたのに阿波須神社と勘違いして辿り着いてしまった神社です。この辺りには両方の神社があるので要注意ですね。ちなみに阿波須神社は古事記にも出てくる神社だそうです。また阿須波神社は旅立の際に安全を祈願して参拝した神社だそうです。


御祭神 天乃比理刀当ス  由緒 治承4年、源頼朝が安房より上総を経て東上の際、同年9月29日当所に阿波須権現を勧請され、武運長久を祈られたという。時に家僕岡崎某が、石橋山の戦に公を失い追慕の情止み難なく陸路より公の行方を追跡したところ、図らずも当所阿波須権現の森林中において会見できたという。宝治元年社殿を改造。以後建武2年〜宝暦元年までの400余年間に5度の社殿改造を施され、近年に入っては明治34年9月29日改造、現今の社殿は昭和60年9月新修造された。(以上 神社のひろば 神社探検隊より抜粋) 注:ここまでは引用文本文です。


普通、古事記を軸に、阿須波神(アスハノカミ)を考えれば、…竃神(足場・足下の神・旅の神)の総称である坐摩神(イカスリノカミ)の中の一柱で、摂津国一宮・坐摩(イカスリ)神社が著名です。

子安神社、天神社、稲荷神社、大杉神社、阿夫利神社、四社大神、白山宮、愛宕社等が祀られています。

百嶋神社考古学といってもここまで細部に亘って定説がある訳ではないのですが、百嶋由一郎手書きメモに 建南方 → 阿須波 → 建御名方 とはっきり書いている以上、鹿児島に南方神社集中しているのは武甕槌=草部吉見によって敗残した熊襲の軍団が薩摩に落ち延びたと考えるべきで、その後の時期が奈留多姫と伴に諏訪に入り諏訪の神となって以降の呼称と考えるべきなのでしょう。

そして、建御名方と呼ばれたのであって、やはり、諏訪に逃れて以降諏訪神社と呼ばれるようになったのではないかと考えています。

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市街地で要路が集中考査していますので、駐車スペースも見つけ難いと思いますが、近くにはイオン原店(今はドンキホーテ)もありますのでお買い物のついでに同社を見に行かれてはと思います。

許された熊襲猛の一族がまとまって住んでおられる地区を探りたいのですが、失礼になってもいけないため心して探索を進めたいと考えています。まだまだ、取り掛かったかりですので、情報をお持ちの方はご一報下さい09062983254

百嶋神社考古学に携わるメンバーでもこの問題はかなり関心を引くテーマであり、フィールド・ワークにほとんど参加されない方々の中でも、O女史は、これについて別の仮説を提案されています。

詳しくは申し上げませんが、同じ早良区にある杉山神社です。

まあ、奈留多姫のお祖母さんにあたる草部吉見の娘の天豊ツ姫(この呼称は阿蘇の健磐龍の妃だった時のものです)は、天豊ツ姫→阿蘇ツ姫→天比理刀刀iアマノヒリトメ)→寒川姫→杉山姫と名を変えます。

この<お騒がせ姫> は建御名方ではなく最後にヤタガラスのお妃となって以降の呼称なのです。ともあれ、今後の問題です。


杉山神社 カーナビ検索 福岡県福岡市早良区10


既に主神として奈留多姫を祀る産宮神社が福岡市の西の糸島市にあるとしました。

これは、残された一族が奈留多姫を偲んで奉斎する神社だと思うのです。これについては、新ひぼろぎ逍遥に “732 産の宮神社に見る藤原氏の影 “福岡県 ... - 書いていますが、今回の視点を全く欠いた深みの無いリポートであり、念のためにこれもご紹介しておきます。いずれにせよ、会内部で多くの説が提案され議論される環境があることこそが研究会会の生命です。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜DVD、音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD…を必要とされる方は09062983254まで

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と、ここまで書いてブログ一本を書き上げ閉じたところ、「宮原誠一の神社見聞諜」の宮原さんから連絡が入りました。それは、ありがたいことに古川説を補強する内容でした。それは、諏訪神社の境内に祠があり、1500年代に諏訪神社から勧請されたものがあり、八坂刀を祀っているというのです。

この名は、阿蘇ツ姫ではなく孫の奈留多姫が建御名方と一緒になって以降の名であり、奈留多姫=八坂刀唐祀る祠であった事が判るのです。恐らく、その祠の裏にはこれを諏訪から持ってこられた氏子の有志が居られるはずで、その方々こそ栄えある熊襲 猛の後裔氏族である可能性が非常に高いのです。

宮原さんはネット情報でこれを拾われたようですが、O女史もさることながら、万葉集の専門家であるI女史、宮原誠一氏、事務局の中島氏…の共同研究によって百嶋先生が敢えて伏せられた真実に迫る話も蘇るかも知れません。次報をお待ちください。改めて現地を踏み改めて報告をさせて頂きます。

残された紙面で追加情報を…。以下は56年前にパワー・ポイントです。500円+送料程度+作業経費の千円程度でお送りします。

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かつて熊本に孤高の九州王朝論者の平野雅廣先生が居られました。師の「倭国史談」の49pには河上猛の墓所があり(健福寺の元寺)現健福寺の時報にも記録があるというものでした。旧大和町史にも採録されていますが、当方のパワー・ポイントにも引用しています。特に古田武彦亡き後、何の研究もおこなわない堕落しきった福岡の九州王朝論者の方々是非お読み頂きたいと思うのですが、まあ、無駄でしょうね。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 23:38| Comment(3) | スポット

2022年01月21日

スポット270 熊本県に鹿島、香取を探るトレッキング(下)

スポット270 熊本県に鹿島、香取を探るトレッキング(下)

20211227

太宰府地名研究会(神代史研究会)編集員 古川 清久

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熊本県下では既に何度かの神社トレッキングを行っています。色々なスタイルで試みましたが、なかなかパーマネントな形では定着せず、熊本県在住メンバーだけでは過去十回程度しか行っていません。

今般、車2台程度で動きやすい10人弱のトレッキング・メンバーが揃いましたので、23ケ月に一度程度の日程で継続したいと考えています。そこで取り上げたのが氷川町でした。既に201803月に太宰府地名研究会で20人規模のトレッキングを取り組みましたが、今回はその成果をご確認頂きたいと考えています。集合は下記の通りですが、できれば10時集合にして八代の霊符神社に向かいます。

 

集合場所 道の駅 うき サンサンうきっ子 宇城彩館 カーナビ検索 熊本県宇城市松橋町久具757-3

@  妙見宮   カーナビ検索 八代市妙見町405 0965-32-5350

A  霊符神社  カーナビ検索 八代市妙見町妙見宮東隣

B  霊符神社  宇城市小川町西海東1395-1海東郵便局先から川沿いに右折 途中に湧水地あり

C  宮原三神宮 カーナビ検索熊本県八代郡氷川町宮原491 492の三神宮前 パス可能銀杏が秀麗

D  香取神社2社  下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)上有佐(氷川町上有佐)の香取神社で  

す。町村合併で有佐は分かれたのでしょうか?

E  香取神社  カーナビ検索熊本県上天草市大矢野町登立1238 外1社(こちらはご自分で…)

F  鹿嶋神社  カーナビ検索 八代郡氷川町鹿島773  余裕があれば廻ります 

  
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兼川 晋 小松洋二いずれも不知火書房092-781-6963の名著

そこで、故)百嶋由一郎氏の最終神代系譜をご覧頂きたいと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


そこで、良く知られた八代の妙見宮ですが、最近になって列島にとっても九州王朝にとっても最も重要な神社であった事がようやく分かってきました。

ここでは通常話されるありきたりの内容から離れ最も重要な側面についてだけお話しさせて頂きます。

言うまでもなく、祭神である天御中主神と國常立神とは、白山姫と博多の櫛田神社で祀られている大幡主の二神です(「熊本県神社誌」省略)。

 この間、八代の妙見宮の重要性に関しては十分に理解していたつもりではあったのですが、大幡主〜豊玉彦=ヤタガラスのご先祖の一族(白族)は、直接、熊本に入っていると思っていた事から、八代の妙見は河童渡来(揚子江流域からの越族の移動)による後付だろうといった程度で考えていました。

 ところが、妙見宮に隣接する霊符神社の記述と氷川の北宇城市小川町の霊符神社の記述が対応し、さらに佐賀県(肥前)の白石町(旧有明町)の稲佐神社(百済の王族を祀る神社)の境内地に百済の王族を火の君の世話で受入れたとの記述が相互に対応する事が判明するや肥前〜肥後に掛けての領域を支配領域としていたのが火の君であり、妙見宮=天御中主命=白山姫を奉斎する白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)であった事が分かって来たのでした。

 実は、最終神代系譜(上)の鴨玉依姫こそが、表向き玉依姫を祭神としている京都の下賀茂大社に繋がっているのであり、豊玉彦(ヤタガラス)とは賀茂建角身命も鴨玉依姫の父神になるのです。

もう十分にお分かり頂いたと思います。大雑把に言えば、妙見宮こそ下上鴨神社のルーツであり、九州の古代史に於いて重要な位置を占める火の君とはこの下鴨神社に繋がる一族だったのです。

そこで、氷川の北に「豊」地名がかなり拾えることもお考えいただきたいと思います。

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熊本県宇城市豊野町(旧豊野町)地理院地図


氷川町から宇城市に掛けては「豊」地名が拾えます。代表的なのが旧豊野町であり、旧松橋町にも豊福(現宇城市豊福)、豊川、豊崎…が拾えるのです。

一般的には秦の一族と豊国(大分県)ばかりが取り上げられますが、それ以前からこの一帯には豊玉彦の一族の居留地を思わせる初期の豊の国が存在した事が分かるのです。

ついでに言えば、宇城市には「東海東」「西海東」という奇妙な地名があるのです。

これも主として百済系の人々が住み着いた半島系の人々の亡命地だったのではないかと考えています。

「海東諸国紀」は、李氏朝鮮の日本国と琉球国について記述された歴史書ですね。

とにかく不知火海北部の東岸は白族(妙見宮に象徴されるヤタガラスの一族)の国だったのです。

この一帯には、有名な東北三社の鹿島神社(武甕槌)1社と香取神社(経津主)3社が拾えます(香取1社は上天草市)。当然にも常陸からの勧請とはされていますが、良くお考えください、佐賀県の稲佐神社がある杵島(古代には宇土半島と同様に有明海に浮かぶ島)の南には佐賀県鹿島市があり熊本県には嘉島がある事は皆さんご存じの通りです。そして、香取神社の経津主の「布津」(フツ)が島原市の南にもあるのです(旧布津町=現南島原市)。これらのことから常陸、房総も不知火海、有明海一帯の人々が展開した可能性を否定できないのです。詳しくはひぼろぎ逍遥(跡宮)を参照下さい。

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関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない?A ”氷川以北の鹿島神社”

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関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない?@ ”氷川以南の香取神社”

鹿嶋神社 カーナビ検索 八代郡氷川町鹿島773 香取神社 カーナビ検索 熊本県上天草市大矢野町登立1238 外1社 下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)上有佐(氷川町上有佐)の香取神社です。町村合併で有佐は分かれたのでしょうか?

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509 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? @”氷川以南の香取神社”

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! D 水俣市塩浜運動公園の塩釜神社

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡

 そこで、今回の氷川左岸の香取神社の発見です。

 それほど大きな神社でない事は始めから見当が着いていました。

それなりの大社であればこれまでのフィールド・ワークで気づかないはずはないからです。現在、宮原誠一氏と共に肥後は氷川流域の神社調査を進めていますが、最も関心を持っていたのは、氷川町の西隣の八代市鏡(旧鏡町)に鎮座する二つの香取神社でした。香取神社については、既に、ひぼろぎ逍遥 370 キッコーマン醤油と博多の櫛田神社の大幡主 という奇妙なタイトルで妙な話を公開しています。百嶋神社考古学では、千葉県から茨城県に掛けて展開する鹿島神社と香取神社とは、各々、海幸彦(阿蘇高森の草部吉見神=ヒコヤイミミ…)、山幸彦(ニギハヤヒ=猿田彦=五十猛…)と考えています。当然にも、塚原卜伝が信奉した鹿島大神=武甕槌こそ阿蘇の草部吉見神と理解していましたが、香取神社の経津主がニギハヤヒなら彼らも九州のどこからか移動したのだろうと考えていました。ところが、11月に熊本県上天草市の大矢野島に二つの香取神社を発見したに留まらず、相次いで、宮原誠一氏から熊本県氷川町の南の旧鏡町に香取神社が二社ある事を告げられたのでした。この天草の二つの香取神社(香取社)は千葉県からの勧請と考える事はできるのですが、九州では香取社を見ない上に、醤油の醸造でも絡んでいれば別ですが、何故、この地へ香取社が勧請されたかが不明なのです。ただ、醤油の醸造には塩が欠かせない事から、最大の生産地であった天草との関係はあるかも知れません。 これについても ひぼろぎ逍遥(跡宮) 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説 外を併せてお読み頂きたいと思います。が下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)で、が上有佐(氷川町上有佐)の香取神社です。町村合併の折、有佐は分かれたのでしょうか良く分かりません。

香取神宮の御神体で経津主=山幸彦と豊受大神となるのですが…一方、旧宮原町の香取神社はピカピカの真新しい社殿でした。「熊本県神社誌」によれば上有佐の香取神社の祭神は「経津主神」(宮原町有佐303)とされています。経津主とは布津主であり、山幸彦の根拠地を思わせます。島原市に吸収前の布津町ですね。

終戦直後のそれこそ安直な千葉県佐倉市からの勧請神社説においそれと乗るつもりはありませんが、ここでは、不知火海を中心に香取神社が4社ほど確認できる事をお知らせして、以前から気にしている事が幾つかあるため、ここではそれをお話しする事にしましょう。

 まず、常陸国〜上総(カヅサ)国の「上総」はいかにも読めない地名であり、カヅサと呼ばれている土地を無理やり、上総、下総との文字を充て、そのまま読ませたようにしか思えません。

一方、房総半島は上総の国、下総の国と呼ばれています。

さて、上総(カズサ)で思い描くのは長崎県南島原市の南の加津佐です。

上総国 上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。

下総国 現在の千葉県北部と茨城県西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接する。『古語拾遺』によると、よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)(ふさのくに)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐(しもつふさ)」と呼び、これが(しもふさ)(しもうさ)に転じたという。

この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている。上総国と下総国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある。ウィキペディア(20171121 18:59

『古語拾遺』の調子はともかくとして、この鹿島、香取に関しては九州からの進出である事は確信しています。何故そう考えるかと言うと、上総(カヅサ)とはどう考えても読めない表記の地名であり、元々「カヅサ」と呼ばれていたところに無理やり漢字表記が振られたとしか思えないからでした。

この鹿島、香取のルーツが有明海沿岸であったとすると思い当たる事があるのです。

有明海の西への出口 加津佐(上)口之津(下)をご紹介しましたが、海幸彦、山幸彦の震源地である有明海沿岸から瀬戸内海、勝浦、東海、房総へと進出するとした場合、口之津、加津佐に集結し、有明海からの海流を利用し自然に吸い出され対馬海流に乗るのが最上策であり、恐らく、玄海灘、関門、瀬戸内海、南紀、東海、房総へと進出したと考えています。思えば口之津とは海員学校が置かれ、明治期から始まる初期の上海への石炭の積出し港として税関が置かれた国際貿易港でもあった場所であ無題.pngり、現在でも口之津港の湾奥には高良山神社が置かれているので あう。つまり、九州王朝の軍港であった可能性さえも考えられる場所なのであって、この西隣の加津佐が房総の地名として振られたのではないかと思うのです。太宰府地名研究会のHPには「苧扱川(オコンゴウ)」を掲載していますが、これこそが九州王朝の最重要港湾であったと考えています。詳しくは「苧扱川」を読まれるとして、上の地図には野田浜という地名がある事にお気付き頂けると思います。そうです。キッコーマンは香取神社の氏子の一族であり、だからこそ大幡主の神紋である亀甲を使い、共に「主」(大幡主、経津主)という称号を使っているのです。

経津は島原市に編入された旧布津町ですし、千葉と言えば野田の醤油ですね!上総=加津佐も、野田という地名も持ち出されたのです。だからこそ大幡主の神紋亀甲紋章がキッコーマンになっているのです。

猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒが大幡主と組んで天草で日本最大規模の製塩事業をやっていたことは何度となく書いてきました。

その延長上に廻船業、倉庫業、醸造業…に入ることは極めてリーズナブルです。

 しかも、彼の別名として五十猛があります。その名を冠された神社が島原市の猛嶋神社であり、布津、島原、加津佐、天草…を拠点に彼らが大活躍していた事が分かってきました。

上総の国の「上総」はどう読んでも読めませんね。でも加津佐町の故地名の持ち出しとすればよく理解できますし、このには野田浜まであるのです。

これで違うと言うのならば、どういう場合が整合すると言うのでしょうか。

そうすると有明海沿岸の香取神社が九州起源だと分かるはずです。


百嶋由一郎が残した70枚に上る神代系譜、手書きデータス・キャニングDVD、講演録音声CDなどを必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。

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上総、下総の鹿島神社(海幸彦=猿田彦)、香取神社(山幸彦)、息栖神社(長脛彦=カガセオ)

上総(カズサ)は南島原の加津佐であり千葉の野田も加津佐の野田浜なのです!  

百嶋由一郎氏が残された80枚近い神代系譜、手書き資料 スキャニングDVD 6枚、カーステレオやパソコンで聴くことができるMP3音声CD9枚などを必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。随時対応。

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2022年01月16日

スポット269 熊本県に鹿島、香取を探るトレッキング(上)

スポット269 熊本県に鹿島、香取を探るトレッキング(上)

20211227

太宰府地名研究会(神代史研究会)編集員 古川 清久

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熊本県下では既に何度かの神社トレッキングを行っています。色々なスタイルで試みましたが、なかなかパーマネントな形では定着せず、熊本県在住メンバーだけでは過去十回程度しか行っていません。

今般、車2台程度で動きやすい10人弱のトレッキング・メンバーが揃いましたので、23ケ月に一度程度の日程で継続したいと考えています。そこで取り上げたのが氷川町でした。既に201803月に太宰府地名研究会で20人規模のトレッキングを取り組みましたが、今回はその成果をご確認頂きたいと考えています。集合は下記の通りですが、できれば10時集合にして八代の霊符神社に向かいます。

集合場所 道の駅 うき サンサンうきっ子 宇城彩館 カーナビ検索熊本県宇城市松橋町久具757-3

@  妙見宮   カーナビ検索 八代市妙見町405 0965-32-5350

A  霊符神社  カーナビ検索 八代市妙見町妙見宮東隣

B  霊符神社  宇城市小川町西海東1395-1海東郵便局先から川沿いに右折 途中に湧水地あり

C  宮原三神宮 カーナビ検索熊本県八代郡氷川町宮原491 492の三神宮前 パス可能銀杏が秀麗

D  香取神社2社  下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)上有佐(氷川町上有佐)の香取神社で  

す。町村合併で有佐は分かれたのでしょうか?

E  香取神社  カーナビ検索熊本県上天草市大矢野町登立1238 外1社(こちらはご自分で…)

F  鹿嶋神社  カーナビ検索 八代郡氷川町鹿島773  余裕があれば廻ります 


熊本県現氷川町は旧八代郡の龍北町と宮原町によって成立した主として氷川の南側に成立した町です。古来、この地こそ火の国であり、火の君の中心地であったと考えられてきた土地であり、古代史、特に九州王朝論者にとっても極めて重要なテーマでもあったのです。勿論、この地の大半は自然陸化と干拓によって産みだされた土地であり(国道3号線や旧薩摩街道以西)、古代の中心は山際から山間の小平地だったはずですが、阿蘇や熊本や菊池山鹿などではなくこの地こそ火の君の地とされてきた理由にはそれなりの理由があったはずなのです。ところがそれが何なのかが分からずにこれまで前進を阻まれてきました。特に重要なのは、肥前国と肥後国とは連続せず、筑紫に貫入を許しています。つまり、連続していないのです。このため古代国名は単なる符合でしかないのかと考えたこともあったのですが、長年神社を調べているとようやくその縺れた糸が解れてきました。きっかけは霊符神社と呼ばれる奇妙な名の神社の存在でした。この氷川の北にある「霊符神社」と同名の神社が八代市の妙見宮(八代神社)の東隣にもあるのですが、この妙見宮の分身とも言える神社の由緒には、対岸の佐賀県白石町の稲佐神社直下の掲示板にも有名な武寧王の子である百済の聖明王の阿佐太子(肥後側では第三王子淋聖太子)が王族数十人を引き連れ、火の君の世話で亡命している事が書かれているのです。肥前の杵島、肥後の氷川の北岸の泉地区の霊符神社一帯、八代の霊符神社の三ケ所に等しくこの話が伝えられている事は極めて重要で、@天御中主命を祀る八代の妙見宮に隣接する霊符神社と氷川の北の霊符神社(宇城市小川町)が同系統のものである事。A火の国の大王である火の君とは百済からの王族の亡命記事から鑑み6世紀初頭(完全な九州王朝の全盛期)に君臨した妙見宮を奉斎する一族=雲南省昆明から進出した白族=白川伯王〜大幡主〜ヤタガラス(豊玉彦)の一族である事。B宇城市の豊崎、豊野、豊福…地名もヤタガラスと関係がある事(西の豊の国)。C宇城市の旧小川町の海東地区(元寇の竹崎季長の恩賞地)という奇妙な地名も百済の王族の一部が亡命後定着した地名(「海東諸国記」)である事。D橘氏の後裔の本流の一派である宮原一族が故地としていた事からも、この橘一族こそ妙見宮の流れを汲む古代九州王朝の本体とも言うべき最重要氏族であったこと。これらの事が一気に分かり、ようやく火の君がどのような人々であったのかが分かるようになったのでした。今年の初夏にはこの火の国を探るトレッキングを行ないます。次の課題は野津〜大野古墳群の主と火の君との関係になりそうです。この火の君は百済滅亡の時期まではいたと考えられており、有明海を挟んだ肥前、肥後の両岸に火の君の伝承が書き留められていた事を考えると、九州王朝の全盛期を支えていた人々こそこの妙見宮=天御中主命=白山姫(北辰信仰)を持つ一族であり、博多の櫛田神社の大幡主、ヤタガラス、熊野、上賀茂、下賀茂に繋がる一族であった事が一気に分かったのでした。火の君の伝承が等しく三か所で確認できます。

これらの事から白村江の戦いを持って百済と心中した形となった九州王朝の中枢部にこの一族が関与していた事までもが見えて来るのです。詳細についてはblog「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)外をダブル検索して下さい。

熊本県現氷川町は旧八代郡の龍北町と宮原町によって成立した主として氷川の南側に成立した町です。古来、こここそが火の国であり、火の君の中心地であったと考えられてきたのであり、古代史、特に九州王朝論者にとっても極めて重要なテーマでもあったのです。勿論、この地の大半は自然陸化と干拓によって産みだされた土地であり(国道3号線や旧薩摩街道以西)、古代の中心は山際から山間の小平地だったはずですが、阿蘇や熊本や菊池山鹿などではなくこの地こそ火の君の地とされてきた理由にはそれなりの意味があったはずなのです。ところがそれが何なのかが分からずに、これまで前進を阻まれてきました。特に重要なのは、肥前国と肥後国とは連続せず、筑紫に貫入を許しています。つまり、分断されているのです。このため古代国名は単なる符合でしかないのかと考えたこともあったのですが、多くの神社を調べているとようやくその縺れた糸が解れてきました。きっかけは霊符神社と呼ばれる奇妙な名の神社の存在でした。この氷川の北にある「霊符神社」と同名の神社が八代市の妙見宮(八代神社)の東隣にもあるのですが、この妙見宮の分身とも言える神社の由緒には、対岸の佐賀県白石町の稲佐神社直下の掲示板にも有名な武寧王の子である百済の聖明王の阿佐太子(肥後側では第三王子淋聖太子)が王族数十人を引き連れ、火の君の世話で亡命している事が書かれているのです。そして、肥前の杵島、肥後の氷川の北岸の泉地区の霊符神社一帯、八代の霊符神社の三ケ所に等しくこの話が伝えられている事は極めて重要で、@天御中主命を祀る八代の妙見宮に隣接する霊符神社と氷川の北の霊符神社(宇城市小川町)が同系統のものである事。A火の国の大王である火の君とは百済からの王族の亡命記事から鑑み6世紀初頭(完全な九州王朝の全盛期)に君臨した妙見宮を奉斎する一族=雲南省昆明から進出した白族=白川伯王〜大幡主〜ヤタガラス(豊玉彦)の一族である事。B宇城市の豊崎、豊野、豊福…地名もヤタガラス=豊玉彦と関係がある事(西の豊の国)。C宇城市の旧小川町の海東地区(元寇の竹崎季長の恩賞地)という奇妙な地名も百済の王族の一部が亡命後定着した地名(「海東諸国記」)である事。D橘氏の後裔の本流の一派である宮原一族が故地としていた事からも、この橘一族こそ妙見宮の流れを汲む古代九州王朝の本体とも言うべき最重要氏族であったこと。これらの事が一気に分かり、ようやく火の君がどのような人々であったのかが分かるようになったのでした。今年の秋にはこの火の国を探るトレッキングを行ないます。次の課題は野津〜大野古墳群の主と火の君との関係になりそうです。

この火の君は百済滅亡の時期まではいたと考えられます。有明海を挟んだ肥前、肥後の両岸に火の君の伝承が書き留められていた事を考えると九州王朝の全盛期を支えていた人々こそこの妙見宮=天御中主命=白山姫(北辰信仰)を持つ一族であり、博多の櫛田神社の大幡主、ヤタガラス、熊野、上賀茂、下賀茂に繋がる一族であった事が一気に分かったのでした。火の君の伝承が等しく三か所で確認できるのです。

これらの事から白村江の戦いを持って百済と心中した形となった九州王朝の中枢部にこの一族が関与していた事までもが見えて来るのです。詳細についてはblog「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)外をダブル検索して下さい。

 火の君を頼り百済の王族が亡命してきたとの神社伝承が肥前の稲佐神社と肥後の二つの霊符神社に残り、その亡命地と見られる場所に東海東、西海東という朝鮮風(「海東諸国記」)の地名が認められる事から、やはり氷川流域に火の君の拠点が存在したと考えられそうです。

 当然にも、この一帯に阿蘇系神社が少ない事からこの「火の君」は阿蘇氏が勢力を拡大して以降に「火の君」との表記に変えられ阿蘇氏の先祖神と描いたものと理解していますが、ここでは、一応、「氷ノ君」(これも冷水が注ぐ氷の川の意か)、「日ノ君」、「肥ノ君」(貶めた表記かも)、「干ノ君」「櫃ノ君」(樋島)の可能性もあるとしておきます(上代特殊カナはせせら笑っています)。ただ、右の画像をご覧ください、今回取り上げた三社もこの円内に入っているのです。もしかしたら、雲仙普賢岳をシンボルとしているのかも知れません。というより、それ以外にはありあえないとさえ思うのです。

火の君とは歴代の橘一族だった 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”

 九州の古代史には火の君が横たわっています。

九州王朝を探索する者にとって、この火の国、火の君をどのように理解するかは極めて重要で、この解明無くしては全く前に進めないと言っても過言ではないものとさえされてきました。

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ひのくに【肥の国(火の国)】古代の九州の地域名の一つ。のちの肥前国,肥後国,現在の熊本,佐賀,長崎の各県に当たる地域を指す。《古事記》国生みの段に筑紫島が身一つにして面(おも)四つありとするが,その一つに肥国が見える。《日本書紀》には,景行天皇の船が,夜暗くして着岸が困難であったとき,遥かに火の光を見て無事陸に着くことができたので,その地八代県(あがた)豊村を火の国と名づけたという地名由来伝承をのせる。また《肥前国風土記》には,肥君らの祖,健緒組が土蜘蛛(つちぐも)を討ったとき,不知火(しらぬい)が天から降ったため,火の国としたという伝承をのせている。

世界大百科事典 第2版の解説

 まず、@橘一族の後裔にあたる宮原氏(blog「橘氏の末裔」)による自らのルーツ研究がまさにこの一帯(熊本県氷川町)にあった事、A考古学や文献史学に精通した知識を持つ伊藤女史(blog「地図で知る」)によるこの氷川流域の古墳(野津古墳群外)形式の北上仮説による推定、Bもう一人の宮原氏(blog「宮原誠一の神社見聞諜」)との氷川流域に於ける神社トレッキング共同作業、C当然にも65年に及ぶ故百嶋由一郎氏による神社考古学、D熊本県の女性メンバーF女史による氷川流域の重要性へのアドバイス、E古川による有明海を挟む対岸の佐賀県杵島山周辺の橘氏関連調査と火の君伝承、河童伝承への基礎的記憶…これらが総合的に結びついて、ようやく「火の君」の正体が見えて来たのでした。

 そして、今は、確信を持って言えます。博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の子であるヤタガラスの後裔こそが橘一族であり「火の君」の後裔でもあったのです。

 まず、この問題で最も遠い位置にあることから結果的に重要に見える佐賀県側の資料をご覧ください。

十分にお読み頂けると思いますが、稲佐神社(佐賀県杵島郡白石町辺田2925)は直接的に百済の王族を祀る神社です。同社の伝承によると百済の聖明王の子である阿佐太子は“火ノ君を頼って”八隻の船で亡命しているのです。時代は有名な斯摩王こと武寧王(聖明王は武寧王の子)から聖明王の時代ですから6世紀に当たる訳で、まさに九州王朝の最盛期の時代に火ノ君は後の肥前、肥後を支配領域としていた事が分かるのでした。

 ところが、この孤立無縁と思われた伝承が、有明海を挟んで対岸の氷川流域〜八代市に掛けて存在していたのでした。蛇足ながら斯摩王が列島と半島の中間の加唐島で産まれたとの話がありますが、それは両国の学者の説を好い加減な所で纏めるために折半したものであり、当然、糸島半島の「志摩」に決まっているのです。学者、教委、学芸員は馬鹿か嘘つきか!?

 一つは、氷川町の北、旧小川町(現宇城市)の南海東の正しく泉地区にある霊符神社であり、もう一つが、有名な八代市の妙見宮に隣接する同じく霊符神社でした。


稲佐山累縁記により、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる

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佐賀県白石町稲佐神社(万葉の杵島山東麓) 県道傍の境内地に置かれた解説文


466

杵 島 A 2/2

465

杵 島 @ 1/2

505

熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見

508

八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった


詳しくは、稲佐神社を ひぼろぎ逍遥の「杵島」を、二つの霊符神社については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の505508をお読み頂くとして(公開のタイムラグがあり、本稿オンエア時には、まだ、公開されていませんので必要な方は09062983254までご連絡下さい)、実に二つの霊符神社の由緒には、稲佐神社と非常に良く対応する内容が書かれていたのでした。


阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ、6世紀末 - 7世紀前半頃)は、百済の王族出身画家で、威徳王の息子。日本に来て聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。生涯[編集]

『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる。奈良の法隆寺に伝来し、明治以降は御物となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が山背大兄王、左側が殖栗王)を小さく配置した構成である。この配置は、仏教の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられ、あるいは閻立本の作とされる初唐の『歴代帝王図巻』に見られる人物配置に似ることから、その頃の構図法に起因したものと解釈されることがある。

日本学界でも論議が多いこの像は、製作時期においても太子の冠の様式や太子及び王子の服飾から見て、8世紀(奈良時代)の作品だと見る説と、平安時代以降の模本と見る説が概して多い。

このように現在伝えられる聖徳太子像の作者および制作時期は、様式上の問題点と同時に、阿佐太子に対する記録が韓国側資料にはないという事実によって、未解決の課題である。

ウィキペディア(20171225 0114による

聖明王 朝鮮、百済(くだら)の第26代の王(在位523554)。『三国史記』『三国遺事』には聖王とある。武寧王の子である。中国の梁(りょう)によく通交して文物を得、「持節都督百済諸軍事綏東将軍(じせつととくくだらしょぐんじすいとうしょうぐん)百済王」に封ぜられた(524)。また欽明(きんめい)天皇の日本にも通交して仏教などを伝え、任那(みまな)の復興を図った。王は都を熊津(ゆうしん)(いまの公州)から泗(しひ)(扶余(ふよ))に移し、国号を南扶余とした(538)が、新羅(しらぎ)と争って戦死した。[浜田耕策]武寧王(462 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502 - 523年)

        日本大百科全書(ニッポニカ)による

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霊符神社は八代の妙見宮に隣接する高い場所に置かれています。この只ならぬ関係は霊符神社と妙見宮と一体と言っても良いような同族性を感じさせますし、高い場所に祀られていること自体でも霊符神社の方の格式が上なのではないかとさえ思わせます。

 その霊符神社に火の君の記述(火の君こそがその時代その地域の支配者であったことを思わせる)があることから恐らく火の君と妙見宮それに九州王朝との濃厚な関係が存在したと考えられる百済系氏族(だからこそ九州王朝は白村江の闘いに突き進んだ)を受入れたのだろうと考えられるのです。


百嶋由一郎が残した70枚に上る神代系譜、手書きデータス・キャニングDVD、講演録音声CDなどを必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。

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