2022年05月27日

スポット 275 阿田片隈神とは何か? “博多の櫛田神社の境内摂社石堂神社から” ❷

スポット 275 阿田片隈神とは何か? “博多の櫛田神社の境内摂社石堂神社から” ❷

   202204019

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は 939 阿田片隈神とは何か? “博多の櫛田神社の境内摂社石堂神社から” ➊ からの続偏になりますので ➊ を読まれてない方はできるだけ先行ブログからお読みください。

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百嶋由一郎 024〆鳥子系図(部分)

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そして、道真の祖先に繋がるヤタガラスの本流氏族となっているのです。

実に良い勉強をさせていただきました。ようやく武夷鳥の実態も突き止められました。

では、念のために敬愛する玄松子様のブログからも確認させていただきます。


稲背脛命 いなせはぎのみこと……

出雲国譲り神話において、大己貴神が御子神事代主命の意見を聞くため使者として稲背脛を熊野諸手船に乗せて遣わした。

熊野諸手船を「天鴿(はと)船」とも呼ぶためか、天夷鳥命と同神とする場合がある。

稲背脛とは、「諾否(いなせ)を問う足」らしい。

稲背脛命 を祀る神社(玄松子が参拝した神社のみ)

伊奈西波岐神社             島根県出雲市大社町鷺浦102

西刀神社                   兵庫県豊岡市瀬戸字岡746

阿須伎神社                 島根県出雲市大社町遙堪1473

大江神社                   鳥取県八頭郡八頭町橋本734

美保神社 大后社に合祀の神使社 島根県松江市美保関町美保関

能義神社 境内 鷺神社           島根県安来市能義町366

宇留布神社                 島根県松江市八雲町平原2038【 稲背脛命:玄松子の祭神記 】


武夷鳥の一族は出雲から鳥取、兵庫に展開したのかも知れません。そして奈良の天理では和爾氏に…

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 今のところここまでしか書けません。そのうち玄松子様が歩かれた全7社を巡り、武夷鳥の実感を掴み、改めてリポートを書かせて頂きます。

以前、奥出雲町を三度訪問して全70社を巡り全てをネット上に公開した事を考えれば、10分の1程度の分量で、移動距離は三県に跨り大きくなるものの、一度に済む分量です。

百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254までご連絡ください

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2022年05月21日

スポット 274 阿田片隈神とは何か? “博多の櫛田神社の境内摂社石堂神社から” ➊

スポット 274

阿田片隈神とは何か? “博多の櫛田神社の境内摂社石堂神社から” ➊

   202204018

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


つい最近メンバーに加わって頂いた?福岡市在住の女性メンバーから直接電話での照会があり、お答えする事がありました。

かなり上級者向けの話であることからその場である程度のお答えはしたのですが、一日置いて再度お話しさせて頂きました。

今回、この内容については公開しておく価値があるものと考えたことから改めてブログ化する事にしたものです。

お問い合わせの内容は、“最近、博多の櫛田神社に行ったのですが、神殿背後の石堂神社という境内摂社に阿田片隈なる神が祀られており、それが如何なるものか”といった問い合わせだったのです。

 この辺りの神様になってくると、私もそうですが、あれ誰のことだったかな?と瞬間たじろぐことが良くありますし、資料を見なければ直ぐには思い出すことはできません。

 この問題に関しては…というよりも、二〜三年ほど前に熊本在住のお二人の中々の美形の女性と櫛田神社を訪れ、二時間近く丹念に見て回り、書いたリポートにある程度は書いていました。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

770

熊本の二人の女性と博多の櫛田神社を二時間掛けて観察した

以下、一部ですがお読みください。

博多には何度も足を運んでいます。

当然にも博多山笠祇園祭で知られる櫛田神社にも数回は参拝しています。

 ただ、実質的な観光地でもあることから中々足が向かず、理解力も乏しかったことから、いずれは解読しようとは考えていましたが、中韓の観光客も避けたいことからこれまで事実上の棚上げ状態にしてきました。

今回は熊本の女性メンバーからの要請もあって、渋滞を避け早朝8時から熊本の植木インターを出立し福岡に向かうことにしました。

当方は熊本市植木町の道の駅 すいかの里に朝4時には移動し二時間ほど仮眠し、予定の8時を待っていたのですが、なんとか10分遅れで3人が揃いました。

高速で一路博多を目指しましが、山笠の期間でもあったためか結構な人出があった上に依然中国、韓国からの観光客の連中が大声で闊歩する様で、冷静に祭神を考える心の余裕がなくなっていました。

それもこれも売国奴小泉竹中のせいで国民所得が半減した上に、財務省と日銀白川による極端な緊縮政策の継続によって財政が縮小させられ、韓国からも馬鹿にされるような20年も続いたGDPの停滞の結果、安物の国に成り下がった事から、その価格の安さで海外からの観光客が激的に増えているだけでしかなく、それを安倍政権が中国にまで宣伝するありさまでは、早晩日本は滅び去ることになるでしょう。多分、数十年後と言わずいずれ山笠もやれないような国になることでしょう。

最初から枝道に入りましたがそんなことは無視して本題に入ることにしましょう。

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櫛田宮 カーナビ検索 福岡県福岡市博多区上川端町141、櫛田宮 佐賀県神埼市神埼町神埼4191


 まず、櫛田神社が二つあることはご存じでしょうか?

神社に明るい方は十分にご存じでしょうが、博多の櫛田神社とは別に佐賀県の神崎市役所の隣に櫛田宮があるのです。ただ、百嶋神社考古学の立場から言わせてもらえば、この二つの神社は非常に強い関係性を持つものの、実は全く性格の異なる神社なのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 勿論、櫛田神社の「櫛田」の意味は櫛稲田姫の櫛稲田、櫛田の意味しているはずです。

 ただ、結論を急げば、クシナダヒメはイスラエル系の金山彦と白族(紀元前に雲南省昆明から海南島を経由し肥後から筑紫に進出した民族+越族)である博多の櫛田神社の大幡主の妹の埴安姫との間に産まれた神話の世界でも最も知られたプリンセスです。

良くご存じの通り八岐大蛇退治によってスサノウのお妃となったクシナダヒメも、ナガスネヒコの乱が原因だったのでしょうか、埴安姫の息子である豊玉彦=ヤタガラスの傘下に入ったのでした(婚姻関係)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


このように博多の櫛田神社は大幡主と埴安姫〜ヤタガラスとスサノウを祀る神社であるのに対して、神崎の櫛田宮とは金山彦〜櫛稲田姫〜(もしかしたらナガスネヒコの妹=オキツヨソタラシ系)…を祀る神社なのです。このように性格が異なる神社なので、神埼の櫛田神社とダブル・イメージで解釈されないように…お願い致します。要は上の神代系譜の赤枠と青枠の違いなのです。ここでは現在の櫛田神社の元宮である野芥櫛田神社外、市内にある櫛田神社数社については触れません。

 では、現在の櫛田神社の祭神を考えることにしましょう。

櫛田神社は、博多の氏神・総鎮守として地元の人々がお参りをする神社でした。

御祭神は、大幡主命(オオハタヌシノミコト)、天照皇大神(アマテラススメオオミカミ)、素戔鳴尊(スサノオノコミコト:ここにはナガスネヒコも反映されてはいるはずです)の三神とされています。しかし、個人的にはこのアマテラスについてかなりの疑いを持っています。

また、社伝では平安時代に松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まったとされていますが、これも疑わしく、熊野からの出戻りが正しいのです。一旦熊野に進出し博多に戻った…のであり、百嶋翁の云いに沿えば、出戻り新山こそがこの神社の本質であるようです

 さて、天照皇大神が本当に祀られているのかと言えば、今は確かにそうかも知れません。

 ただ、神紋との齟齬を感じられるのです。つまり桜紋がおかしいのです。 一旦はここまで…

ではもう少し観察してみましょう。かなりの数の分社、祭祀がありますが、依然は気づかなかった小さな点も少しは分かるようになりました。

 これも小さなことですが、山門の脇に置かれていた狛犬を見て驚いたのですが、九尾の狛犬だったのです。初めに気づいたのは宮地嶽神社でしたが、後に大阪の難波高津宮にもあることに気づき考えあぐねていました。宮地嶽神社は、現在、神功皇無題.png后と藤高麿、藤助麿を祀るものとされていますが、戦前の祭神は阿部の…であり、本来は久留米の高良大社の高良玉垂命=第9代開化天皇とお后(皇宮皇后)仲哀亡き後の神功皇后が本来の祭神で、実は、高良大社も同様です。高良大社では神功皇后を隠し、宮地嶽神社では高良玉垂命が隠されているのです。その長子が仁徳天皇=シレカシノミコト(オオササギ)であり、難波高津宮に祀られているのです。それが、何故、櫛田神社にも置かれているのかは今のところ不明です。いずれ分かるかも知れません。


実は、今回、訪問した理由の一つに境内末社の石堂神社があることでした。

 同行された女性の旧姓が石堂姓と関りがある事から今回の参拝に繋がっていたのですが、「神社誌」によれば、祭神は吾田片隈神、多紀理比賣、狭依比賣、市杵島姫という聞き慣れない神様と宗像三女神=多紀理比賣、狭依比賣(市杵島姫のことです)、多岐都比賣とされています。ただ、何故、このような後代の祭祀が持ち込まれたのかは不明です。

結果的には誤りでしたが、当たらずとも遠からずで、大国主神の孫裔であろうことは間違いないようです。なお、石の付く地名、特に石木、石貫、石城、石動、石堂…恐らく岩城などもこのトルコ系匈奴=熊襲の移動した痕跡と考えています。※ 実はタシクルガンの中国表記が石城山、石頭城なのです。


これについては、重複もありますが以下を参考にしてください。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu

622

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

621

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)



初めは分かりませんでしたが、三女神の内、多紀理比賣、狭依比賣(市杵島姫)をお妃としたのが大国主命であることを考えれば、普通に考えれば吾田片隈神とは大国主命と考えられるのです。ところが、「玄松子」氏のサイトを見ると、以下の記述があり、改めて識見に感心したところです。深謝します。

吾田片隅命あたかたすみのみこと別名 阿多賀田須命:あたかたすみのみこと
……素盞鳴尊八世孫、和邇君の租神。大国主神の六世の孫裔ともいう素盞鳴尊の御子・宗像三女神の七代孫とする説もあり、 「新撰姓氏録」では「宗形朝臣大神朝臣同祖吾田片隅命之後也」とあり、宗形朝臣の祖。大神朝臣の祖。                       敬愛する玄松子による


と、ここまで書きましたが、思い込みを排除しもう少し話しを進めてみましょう。

この照会があった直後、当会の事務局の中島さんからこの阿田片隈に関する資料をもらいました。

 偶然でびっくりしましたが、同時期に二人の人物が阿田片隈に関心を持ったことになるのです。

 彼は、あまりネットを使わずに、直接、神社などに照会し、本を探し回るといった手法を取るのですが、この神を祀る神社を探し出し資料を手に入れ、櫛田神社の阿田片隈を探し出しているのです。

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これは中島氏が同社に照会し多分郵便で直接手に入れた由緒書をスキャナーで読んだものです


 確かに由緒には「阿太賀都建熊命」と「阿太片隈神」とも読める神が書かれていたのでした。

しかも、天夷鳥命という比較的知られた鳥子の神の別名が阿田片隈命の別名であると書かれていたのです。

これほど明快な証明は通常神社調査で成立することはありないのであって、先ずは照会された女性には十分に納得のいく回答を送れほっとしたのでした。

特に、出雲大社北辺の日本海に面した小集落の神社であり、古い伝承を一身に守ってきた可能性が高く、疑いようがないのです。 

現在は、岐神社、御領神社を経て同地に入れますが、私は十五年ほど前にこちらは有名な日御埼神社を経由し、それこそ離合もできない隘路、悪路を抜け通過したことがありました。

それ以前にも二十年前でしたか東から西に通過を試み諦めたことがあったのでした。それほど隠岐へのフェリーの出船港の七類〜日御埼間は船でしか移動できない、移動しない、陸路の存在しない地域だったのでした。このようにあまりご存じでない神社どころか、はっきり言えば、ほとんど人が入らない地区の神社だったのでした。


出雲大社摂社伊奈西波岐神社 カーナビ検索 島根県出雲市大社町鷺浦102

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私も以前見ているはずですが、当時はとても理解できるレベルではなく、言わば、猫に小判状態だったのでした。では、ここでこの阿太片隈神の話に入りますが、紙面の問題、オンエアの問題もあるため稿を改めることにしましょう。

 ヤタガラスの子にはお妃が異なることから最低でも6系統以上はあるはずなのです。

 私は熊本の西原村に天日鷲・鳥子大神を見つけ百嶋由一郎氏に過分に褒められたことがありましたが、今回は中島氏が別系統の武夷鳥を発見したのでした。

 神社研究には皆が素人として百嶋神社考古学に足を踏み入れたのですが、中島さんは道真研究を続けてこられました。その意味では花が咲き始めたのかもしれません。皆、経験を積み真面目にフィールド・ワークを続けるとそれなりのご褒美が得られるものなのでしょう。そういえばいつの間にか皆歳を重ねています。そして、今年になり急に若いメンバーが増え始めているのです。一先ず継承は見込めそうです。

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百嶋由一郎 024〆鳥子系図(部分)続く ❷ブログでこの系譜を考えて見ましょう

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2022年05月15日

スポット 273 伊万里市山代町楠久の再建された七幸神社とは何か? ❷ “伊万里市山代町楠久”

スポット 273 伊万里市山代町楠久の再建された七幸神社とは何か? ❷ “伊万里市山代町楠久”

   202204011

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 前回は、頂いた資料を掲示しただけでしたので、少し詳しく考えて行きたいと思います。

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冒頭の「天山山脈ヤマト」ですが、ヤタガラスの関係者とか紹介者とされる飛鳥昭雄氏が言っておられるもので、その筋に精通された方は大体ご存じではないかと思います。

そうでなくとも、「チクシ」地名が北極海に近いロシアにもあるとか言った話もあり、我が百嶋由一郎も、金毘羅山の「コンピラ」の語源は、“シルクロードのクンビーラ山の事ですよ…”(サンスクリット語のクンビーラ:ネパールのクンビーラ山)と話しておられました。

また、何故、熊本城の最下層に昭君(王昭君)の間があるのか?といったシルクロード起源の話など実際には数多くあるのです。

ましてや、百嶋由一郎は“曹洞宗(曹洞禅宗)の僧侶や天理教の人々は全てヘブライ系の人です”とさえ話しておられたのです。

@  「ホシミ」という地名について触れます。例えば「トノミ」(遠見、遠海)と言った地名があり、物見、遠見をする地の意味であり、富海、鳥海…と言ったものも含めると相当の数拾えるのです。「シオミ」も同様で、船による河川の溯上限界点、干満の大きな海周辺の河川にはこうした地名が付され、このような事に関わる民族、氏族=海人族やヤタガラス=豊玉彦系が展開した地域には同系統の地名がつけられるのです。仮に、安曇族では、熱海、渥美、温見、安曇、安土、的山…そして何時しか、本来の意味を越え、海、美、見…といった単なる地名語尾(そう言わないと収まりが悪い)にまで高まっているのです。この他にもクモミ「雲見」も気象観測に絡むもので、貿易、交易、通詞(外交)など、天文観測、暦法、気象観測、潮見、干満、通詞などに留まらず、多くの船舶建造者、航海術士も抱え込んでいたはずなのです。

A  その意味では、「ホシミ」地名は重要な天文観測点であり数は少ないのですが、岐阜県可児市星見台など数は少ないまでも、散見されます。鹿児島の天文館は外せませんね。

B  「その上陸の湊が…」についても多少のコメントを加えておきたいと思います。

「新撰姓氏録」には、大陸、半島からの渡来人の後裔がまとめられた「諸蕃」には、


秦始皇の三世孫、孝武王より出づ。男、功満王、仲哀天皇の8年に来朝。男、融通王(一に弓月君と云ふ)、応神天皇14年に来朝。127県の百姓を率いて帰化し、金、銀、玉、吊等の物を献りき。仁徳天皇の御世に、127県の秦氏を以て、諸郡に分かち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢らしめたまひき。:左京、太秦公宿禰条


と書かれています。

これらが一般的にいう秦氏の来訪であり、豊の国には人口の九割を占めるなどと言われたのでした。

しかし、これが何時かと言えば、どう早く見ても4世紀初頭にしかならず、秦の滅亡が紀元前206年とすれば遅過ぎるのであって、先行して列島に移動した広義の秦氏がいたはずなのです。

それが、前述の大幡主(博多の櫛田神社の主神=造化三神 天御中主命=北辰=妙見神、高皇産霊尊=高木大神…)の神皇産霊尊であり、外洋航海、外交にも長けた自らの白族が金山彦(カグツチ)=イスラエル系製鉄と強固な姻戚関係を結んで生まれた(イン)氏こそが、地名を残した集団だったのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


C  秦の始皇帝の姓名は嬴、贏、蠃、臝(イン)政(エイセイ=インチョン)であり、周の流れもくむイスラエル系の民族でした。その治世下、モーゼの後裔氏族が来訪し、同族であることが分かり、相互に婿取り嫁取りを行い姻戚関係を結びました。ただ、彼ら(金山彦)は先行し半島から列島へと移動するのです。そして自らと区別ができるように渡海したことからサンズイ偏を付し瀛(イン)称したのでした。これが秦氏渡来以前の列島への瀛氏の渡来であり、金山彦系、白族、大山祗(トルコ系匈奴)による強固な支配集団が形成され、呉越同舟の呉の夫差の後裔氏族の列島渡来以降(紀元前4世紀)数十世代に渡り浪人と化していた古代天皇系集団を彼らが担ぎ倭国が誕生したのでした。

他にも書いていますが、取っ掛かりとしては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下をお読みください。


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白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”


D  ただ、誤解されないように重要な点を指摘しておかなければならないでしょう。図らずもリーフレットには「湊」の文字が使われていました。楠久、楠久津ならば、「港」でも良いはずなのに、敢えて「湊」が使われている底流には、ここは秦氏の港であり、それ以外ではありえないとの思い、自然な発露があったからに相違ないのです。

当然にも、この付近では唐津市湊(背後地には湊厄神社=忌部の神社)、宗像市でも神湊(宗像氏の湊)、遠賀川河口の岡湊、鹿児島県国分湊、大阪府堺市出島の湊、兵庫県は湊川合戦の湊川、紀ノ川が注ぐ和歌山市の湊、宮城県石巻市の湊、新潟県佐渡市両津湊…と切りがありません。

これらは、全て古来、博多の櫛田神社の大幡主に象徴される海人族が支配する重要港湾だったのです。そして、小さな小字でも湊地名は方々にありますので、末端部にも海人族が如何に展開していたかが分かります。

E  鍋島藩、小城藩について触れてありますが、鍋島家と共に一時期は少弐氏と共に千葉氏も肥前全域を支配する勢いを持っているようです。私がその千葉氏の延長上にこの七宝神社の存在もあると考えるのは、当然にも千葉氏と言えば北辰一刀流の千葉周作の道場が、また、印旛沼(忌部の沼)があり、妙見信仰=北辰信仰、周王朝の後継としての呉、秦の列島への避退と見ることも可能だからです。鍋島は良く判りませんが、千葉氏には金山彦系をも含めた忌部、瀛氏を見るからです。

F  そして、何故、小城藩の晴気を拠点とした千葉氏が自らの北の背後の高峰を天山と呼んだのかを考えれば、シルクロードの天山山脈を意識しての事であったろう事は疑いようがないからです。

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G  解像度が低くて申し訳ありませんが、右の岬は祇園崎、沖の小島がほ古敷島と書かれ、左には北辰妙見尊星王 西海道一番札所 肥前国 七幸神社 と書かれています。これ一つでも、祇園崎と名付けているのであり、イスラエルのシオン山を思ひ付された地名と分かりますので、千葉氏であれ、曹洞禅の和尚であれ、イスラエル系の人々が付した地名であることは一目なのです。

H  ここまで見てくると、秦氏が全面的に流入してくる以前から、千葉氏であれ、海人族の中枢部であれ、イスラエル系の氏族が入っていることは疑いようが無いのです。

ここに至るまで、秦の臣民でも万里の長城の建設に送られる事を恐れた逃亡者、秦の国内で敗残した人々、そして、秦それ自体が短期間で滅んだ後は、その王族、将校団、学者、宗教者、技術者の一切が半島に流れ込み、注射針から注がれる様に、優秀な人々が列島に雪崩れ込んできたのです。

そして、半島には忠誠心も正義感も誇りも持たない人々が旗を持ち替え、次の支配者に靡き、賛美する者に鞍替えして行くのです。それが半島国家(韓も元々は周王朝系だったのですが)の宿命であり、漢、魏呉蜀三国鼎立、唐、元、明、清…と繰り返される度に、そのような曖昧かつ主体性を持たない国家が強固に確立し現在の韓国に繋がったのでした。

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ここでは、湊地名から、秦帝国人=秦氏以前にこの地を闊歩し秦氏以前に活動した広義の秦氏の存在を想像するままに描いてみました。

 そして、本格的な秦氏は45世紀辺りから大挙流入し、最終的には京都に鴨川の河道を変えてまで新たな首都を築き、政権を呼び寄せ、今なお続く繊維産業(養蚕から絹糸生産、絹織物生産)を背景に蓄えた膨大な財力を持って新たな国家を列島に打ち立てたのでした。

 皆さんが見ておられるのは、それ以前のつまり日本国以前の倭国=我々が考える九州王朝の時代の一端を「湊地名」から掘り起こして見た事になるのです。

 学会通説に準え、自らの思考もその流れと言うより停頓に浸し、その権威に依拠し自らを打ち立てられようとされる方はそれはそれで良いでしょうが、何某かの真実が見出せるならば、それを追求するのが研究者の本来であり、総じて研究会の任務のはずなのです。

 少なくとも伊万里湾は、古来、西に開いた国際貿易港でした。

 特に、急潮流れる対馬海峡横断による渡海が必要性を持つ以前、揚子江流域から熊本、天草、平戸、伊万里は列島への最新技術、最新文化の入る国際貿易港であり貿易都市だったのです。

 その一つとして楠久津以前の楠久湊の存在を浮き上がらせてくれたのが七宝神社であり、壹之寺だったのです。

 次回は、周辺の神社から例えば楠久神社を解析し七宝神社を炙りだし、また、七宝神社ならぬ七山村が何故七山と呼ばれるかを考えて見たいと思うものです。

 何れにせよ、何もなければ全く気づきもしなかった七宝神社をお教え頂き、伊万里の外港とも言うべき古代港湾を浮かび上がらせられた皆様のご努力と情念には感嘆の言葉と畏敬の念しかありません。

 多くの神社が後継者を失い氏子の組織から一切が潰え去ろうとする中、有難いことと思うばかりです。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜DVD、音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD…を必要とされる方は09062983254まで


先に、ましてや、百嶋由一郎は“曹洞宗(曹洞禅宗)の僧侶や天理教の人々は全てヘブライ系の人です”とさえ話しておられたのです。― G 解像度が低くて申し訳ありませんが、右の岬は祇園崎、沖の小島がほ古敷島と書かれ、左には北辰妙見尊星王 西海道一番札所 肥前国 七幸神社 と書かれています。これ一つでも、祇園崎と名付けているのであり、イスラエルのシオン山を思ひ付された地名と分かりますので、千葉氏であれ、曹洞禅の和尚であれ、イスラエル系の人々が付した地名であることは一目なのです。…

と書きましたが、往々にして批判されますので予防線を張って少し興味深い例をご紹介しておきましょう。話は宮崎県高千穂町下野、上野の例のひのみこ社周辺の話に飛びます。

ここにも、曹洞宗の古刹龍泉寺があり、正面に四恩山があるのです。以下 新ひぼろぎ逍遥


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高千穂町上野の下野八幡神社への下調べ @


烏岳と愛宕岳との線上に上野神社が置かれている事が分かります。

 また、上野(カミノ)集落の正面に四恩山があるのです。

 愛宕岳は二つ(金山彦)、烏岳も二つあり(ヤタガラス)、この一帯がイスラエル系、瀛(イン)氏の集落である事が分かるのです。それにしても四恩岳とは凄いですね…。仏教の外皮を剥げば祇園はシオンの置換えでありシオニストのシオンなのです。

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故)百嶋由一郎氏からは“高千穂と言うか三田井は、元々、高木大神の支配下にありました。長崎県の諫早、島原一帯から高千穂まで高木大神が支配しておられたのです。…”といった話をされていました。

 この事からも、隣の熊本県高森町の草部吉見神社の本当の支配者が実は高木大神=ニニギの親父(祖神)であり、草部(クサカベ)の意味も朝鮮半島の伽耶の支配者でもあった高木大神の影響が及んでおり、伽耶部→茅部→草部との表記の変化(鈍化)が起こっているのです。

…中略…

 次に、伊弉冉命(イザナミ)が祀られるものの、伊邪那岐命(イザナギ)が書かれていない縁起が相当にある事は神社研究者の方はどなたもご存じかと思います。

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百嶋由一郎015金印神代系譜(部分)


この金越智と白山姫=天御中主命との間に生まれた大山祗の姉オチノ姫こそ金山彦のお妃であり本物の神武天皇の后となるアイラツ姫の母となるのです。従って、曹洞禅宗がヘブライ系であり、その底流に敗残した金山彦の流れを汲むのです。

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