スポット 274
阿田片隈神とは何か? “博多の櫛田神社の境内摂社石堂神社から” ➊
202204018
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
つい最近メンバーに加わって頂いた?福岡市在住の女性メンバーから直接電話での照会があり、お答えする事がありました。
かなり上級者向けの話であることからその場である程度のお答えはしたのですが、一日置いて再度お話しさせて頂きました。
今回、この内容については公開しておく価値があるものと考えたことから改めてブログ化する事にしたものです。
お問い合わせの内容は、“最近、博多の櫛田神社に行ったのですが、神殿背後の石堂神社という境内摂社に阿田片隈なる神が祀られており、それが如何なるものか”といった問い合わせだったのです。
この辺りの神様になってくると、私もそうですが、あれ誰のことだったかな?と瞬間たじろぐことが良くありますし、資料を見なければ直ぐには思い出すことはできません。
この問題に関しては…というよりも、二〜三年ほど前に熊本在住のお二人の中々の美形の女性と櫛田神社を訪れ、二時間近く丹念に見て回り、書いたリポートにある程度は書いていました。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
770 | 熊本の二人の女性と博多の櫛田神社を二時間掛けて観察した |
以下、一部ですがお読みください。
博多には何度も足を運んでいます。
当然にも博多山笠祇園祭で知られる櫛田神社にも数回は参拝しています。
ただ、実質的な観光地でもあることから中々足が向かず、理解力も乏しかったことから、いずれは解読しようとは考えていましたが、中韓の観光客も避けたいことからこれまで事実上の棚上げ状態にしてきました。
今回は熊本の女性メンバーからの要請もあって、渋滞を避け早朝8時から熊本の植木インターを出立し福岡に向かうことにしました。
当方は熊本市植木町の道の駅 すいかの里に朝4時には移動し二時間ほど仮眠し、予定の8時を待っていたのですが、なんとか10分遅れで3人が揃いました。
高速で一路博多を目指しましが、山笠の期間でもあったためか結構な人出があった上に依然中国、韓国からの観光客の連中が大声で闊歩する様で、冷静に祭神を考える心の余裕がなくなっていました。
それもこれも売国奴小泉竹中のせいで国民所得が半減した上に、財務省と日銀白川による極端な緊縮政策の継続によって財政が縮小させられ、韓国からも馬鹿にされるような20年も続いたGDPの停滞の結果、安物の国に成り下がった事から、その価格の安さで海外からの観光客が激的に増えているだけでしかなく、それを安倍政権が中国にまで宣伝するありさまでは、早晩日本は滅び去ることになるでしょう。多分、数十年後と言わずいずれ山笠もやれないような国になることでしょう。
最初から枝道に入りましたがそんなことは無視して本題に入ることにしましょう。
櫛田宮 カーナビ検索 福岡県福岡市博多区上川端町1−41、櫛田宮 佐賀県神埼市神埼町神埼419−1
まず、櫛田神社が二つあることはご存じでしょうか?
神社に明るい方は十分にご存じでしょうが、博多の櫛田神社とは別に佐賀県の神崎市役所の隣に櫛田宮があるのです。ただ、百嶋神社考古学の立場から言わせてもらえば、この二つの神社は非常に強い関係性を持つものの、実は全く性格の異なる神社なのです。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
勿論、櫛田神社の「櫛田」の意味は櫛稲田姫の櫛稲田、櫛田の意味しているはずです。
ただ、結論を急げば、クシナダヒメはイスラエル系の金山彦と白族(紀元前に雲南省昆明から海南島を経由し肥後から筑紫に進出した民族+越族)である博多の櫛田神社の大幡主の妹の埴安姫との間に産まれた神話の世界でも最も知られたプリンセスです。
良くご存じの通り八岐大蛇退治によってスサノウのお妃となったクシナダヒメも、ナガスネヒコの乱が原因だったのでしょうか、埴安姫の息子である豊玉彦=ヤタガラスの傘下に入ったのでした(婚姻関係)。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
このように博多の櫛田神社は大幡主と埴安姫〜ヤタガラスとスサノウを祀る神社であるのに対して、神崎の櫛田宮とは金山彦〜櫛稲田姫〜(もしかしたらナガスネヒコの妹=オキツヨソタラシ系)…を祀る神社なのです。このように性格が異なる神社なので、神埼の櫛田神社とダブル・イメージで解釈されないように…お願い致します。要は上の神代系譜の赤枠と青枠の違いなのです。ここでは現在の櫛田神社の元宮である野芥櫛田神社外、市内にある櫛田神社数社については触れません。
では、現在の櫛田神社の祭神を考えることにしましょう。
櫛田神社は、博多の氏神・総鎮守として地元の人々がお参りをする神社でした。
御祭神は、大幡主命(オオハタヌシノミコト)、天照皇大神(アマテラススメオオミカミ)、素戔鳴尊(スサノオノコミコト:ここにはナガスネヒコも反映されてはいるはずです)の三神とされています。しかし、個人的にはこのアマテラスについてかなりの疑いを持っています。
また、社伝では平安時代に松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まったとされていますが、これも疑わしく、熊野からの出戻りが正しいのです。一旦熊野に進出し博多に戻った…のであり、百嶋翁の云いに沿えば、出戻り新山こそがこの神社の本質であるようです。
さて、天照皇大神が本当に祀られているのかと言えば、今は確かにそうかも知れません。
ただ、神紋との齟齬を感じられるのです。つまり桜紋がおかしいのです。 一旦はここまで…
ではもう少し観察してみましょう。かなりの数の分社、祭祀がありますが、依然は気づかなかった小さな点も少しは分かるようになりました。
これも小さなことですが、山門の脇に置かれていた狛犬を見て驚いたのですが、九尾の狛犬だったのです。初めに気づいたのは宮地嶽神社でしたが、後に大阪の難波高津宮にもあることに気づき考えあぐねていました。宮地嶽神社は、現在、神功皇后と藤高麿、藤助麿を祀るものとされていますが、戦前の祭神は阿部の…であり、本来は久留米の高良大社の高良玉垂命=第9代開化天皇とお后(皇宮皇后)仲哀亡き後の神功皇后が本来の祭神で、実は、高良大社も同様です。高良大社では神功皇后を隠し、宮地嶽神社では高良玉垂命が隠されているのです。その長子が仁徳天皇=シレカシノミコト(オオササギ)であり、難波高津宮に祀られているのです。それが、何故、櫛田神社にも置かれているのかは今のところ不明です。いずれ分かるかも知れません。
実は、今回、訪問した理由の一つに境内末社の石堂神社があることでした。 同行された女性の旧姓が石堂姓と関りがある事から今回の参拝に繋がっていたのですが、「神社誌」によれば、祭神は吾田片隈神、多紀理比賣、狭依比賣、市杵島姫という聞き慣れない神様と宗像三女神=多紀理比賣、狭依比賣(市杵島姫のことです)、多岐都比賣とされています。ただ、何故、このような後代の祭祀が持ち込まれたのかは不明です。 結果的には誤りでしたが、当たらずとも遠からずで、大国主神の孫裔であろうことは間違いないようです。なお、石の付く地名、特に石木、石貫、石城、石動、石堂…恐らく岩城などもこのトルコ系匈奴=熊襲の移動した痕跡と考えています。※ 実はタシクルガンの中国表記が石城山、石頭城なのです。 |
これについては、重複もありますが以下を参考にしてください。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
623 | 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu |
622 | タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下) |
621 | タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上) |
初めは分かりませんでしたが、三女神の内、多紀理比賣、狭依比賣(市杵島姫)をお妃としたのが大国主命であることを考えれば、普通に考えれば吾田片隈神とは大国主命と考えられるのです。ところが、「玄松子」氏のサイトを見ると、以下の記述があり、改めて識見に感心したところです。深謝します。 |
吾田片隅命あたかたすみのみこと別名 阿多賀田須命:あたかたすみのみこと
……素盞鳴尊八世孫、和邇君の租神。大国主神の六世の孫裔ともいう素盞鳴尊の御子・宗像三女神の七代孫とする説もあり、 「新撰姓氏録」では「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあり、宗形朝臣の祖。大神朝臣の祖。 敬愛する玄松子による
と、ここまで書きましたが、思い込みを排除しもう少し話しを進めてみましょう。
この照会があった直後、当会の事務局の中島さんからこの阿田片隈に関する資料をもらいました。
偶然でびっくりしましたが、同時期に二人の人物が阿田片隈に関心を持ったことになるのです。
彼は、あまりネットを使わずに、直接、神社などに照会し、本を探し回るといった手法を取るのですが、この神を祀る神社を探し出し資料を手に入れ、櫛田神社の阿田片隈を探し出しているのです。
これは中島氏が同社に照会し多分郵便で直接手に入れた由緒書をスキャナーで読んだものです
確かに由緒には「阿太賀都建熊命」と「阿太片隈神」とも読める神が書かれていたのでした。
しかも、天夷鳥命という比較的知られた鳥子の神の別名が阿田片隈命の別名であると書かれていたのです。
これほど明快な証明は通常神社調査で成立することはありないのであって、先ずは照会された女性には十分に納得のいく回答を送れほっとしたのでした。
特に、出雲大社北辺の日本海に面した小集落の神社であり、古い伝承を一身に守ってきた可能性が高く、疑いようがないのです。
現在は、岐神社、御領神社を経て同地に入れますが、私は十五年ほど前にこちらは有名な日御埼神社を経由し、それこそ離合もできない隘路、悪路を抜け通過したことがありました。
それ以前にも二十年前でしたか東から西に通過を試み諦めたことがあったのでした。それほど隠岐へのフェリーの出船港の七類〜日御埼間は船でしか移動できない、移動しない、陸路の存在しない地域だったのでした。このようにあまりご存じでない神社どころか、はっきり言えば、ほとんど人が入らない地区の神社だったのでした。
出雲大社摂社伊奈西波岐神社 カーナビ検索 島根県出雲市大社町鷺浦102
私も以前見ているはずですが、当時はとても理解できるレベルではなく、言わば、猫に小判状態だったのでした。では、ここでこの阿太片隈神の話に入りますが、紙面の問題、オンエアの問題もあるため稿を改めることにしましょう。
ヤタガラスの子にはお妃が異なることから最低でも6系統以上はあるはずなのです。
私は熊本の西原村に天日鷲・鳥子大神を見つけ百嶋由一郎氏に過分に褒められたことがありましたが、今回は中島氏が別系統の武夷鳥を発見したのでした。
神社研究には皆が素人として百嶋神社考古学に足を踏み入れたのですが、中島さんは道真研究を続けてこられました。その意味では花が咲き始めたのかもしれません。皆、経験を積み真面目にフィールド・ワークを続けるとそれなりのご褒美が得られるものなのでしょう。そういえばいつの間にか皆歳を重ねています。そして、今年になり急に若いメンバーが増え始めているのです。一先ず継承は見込めそうです。
百嶋由一郎 024〆鳥子系図(部分)続く ❷ブログでこの系譜を考えて見ましょう