2022年08月13日

スポット284 映画 「愛国女子」を見てきました “再び、天御祖神社の古層を探る…” B

スポット284 映画 「愛国女子」を見てきました “再び、天御祖神社の古層を探る…” B

20220308

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 玖珠町でも中心的な太田の天祖神社については、映画 「愛国女子」を見てきました A でご紹介しました。

どうしても気になることがあり、再度、西4キロほどのところにある玖珠町の四日市(木牟田)の天祖神社を見れば、胸に残る違和感を解消できるかも知れないとの思いと、広く多くのファクターを把握することによって別の発見もできるのではないかと思い再び現地を踏むことにしました。

そして、実際にそれなりの感触を得たのでした。この発見はやはり思っていた通りでした。

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思い描いていたことは天祖神社の祭神はある種偽装されたもので、本当の神様は別にあるのではないかという直感でした。それはこの地区が大山祗神社の裏側(西側)に当たる背後地を守る防衛(砦)集落に思えたからでした。

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実際には中心的な末廣神社が何かを知ると知らないでは、この地域の政治的性格を見落とすことになります。まず、同社の南にはJR久大線が東西に走り、豊後森駅があります。この名の通り、ここには森藩が開封されているのです。


森藩(もりはん)は、江戸時代に豊後国日田郡・玖珠郡・速見郡内を領した藩。藩庁として森(現在の大分県玖珠郡玖珠町)に森陣屋が置かれた。

瀬戸内海で村上水軍の一軍として活躍した来島水軍の後裔である来島長親(のち康親)は伊予国来島(愛媛県今治市)に14千石を領していた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで本多正信を通じ家名存続の沙汰を得た。慶長6年(1601年)、豊後森に旧領と同じ14千石を得て森藩を立藩した。

2代通春は、元和2年(1616年)に名字を来島から久留島に改めた。3代通清は寛文3年(1663年)、参勤交代のおりに飛び地である別府湾頭成港(大分県速見郡日出町豊岡)から瀬戸内海を航行中、周防国屋代島沖で暴風雨に遭い藩主の弟・通方の御座船が座礁転覆、通方はじめ乗っていた家臣10名全員が溺死するという惨事に見舞われた。こののち通清は弟の通貞に1千石、通迥に500石をそれぞれ分与している。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20220308 20:13 による


この末廣神社は森藩の久留島氏が伊予国の大三島の三島宮を勧請したものです。後に妙見宮(天御中主)を加え末廣神社としますが、この時のものと思われる妙見宮は今も同社直下正面に残っています。

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いつもながら美しい画像ですが、写真は「旅人のブログ」様のものです(大分県玖珠郡玖珠町森)


末廣神社は森藩のものです。来島氏=村上水軍が信仰した伊予・大三島の大山祗神社を持ち込んだ三島宮と同体のものであり、その本体は大山祗神なのです。ここでは何故山の神が海にといった話はしませんが、参拝殿に立たれれば、隅切り角に波型三の紋章を確認できるでしょう。

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ここまで見てくると、末廣神社が大山祇命を祀るものであることは一目です。

 既に、戦国期の毛利攻めや、その後の瀬戸内海の海上交通権を巡る確執を含め太閤殿下の時代から、関ヶ原で西軍に与した村上家=来島家=森家(これを大雑把に括って良いかはありますが)が小藩ながら、旧領を守り貫き幕末まで命脈を保てただけ幸運だったと言えるでしょう。

その意味では、大山祇命の権威とご加護があったとまでは言えるのです。

 ただ、残念なことに瀬戸内海の通行税とも言うべき関銭を失い、海から切り離され山上に上がらざるを得なくなり、事実上は陸に上がった河童状態になった事だけは甘受せざるを得なかったのです。

ここで、大山祇命の息子が大国主命であることをお知らせしたいと思います。

そんな馬鹿な、「大国主命は出雲の人のはず」だといった通説派が撒いた大嘘と反論の大波が直ぐに返ってくる事になるのです。

 ここでも、これまで多くを書いてきているので敢えて触れることはしませんが、まずは、百嶋神代系譜を見て頂きます。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


お判りでしょうか?大国主命は大山祇命の息子であり、天御中主命は母親になるのです。

 してみると、末廣神社に天御中主命が祀られたことも納得がゆくでしょう。

無題.png 振り返って、もう一つ、末廣神社の背後にある牟礼(ツノムレ)城の名は、日向一之宮都農神社から付されたとしか考えられません。

 「牟礼」「室」「諸」…はシルクロードに広がる砦集落や村を意味するもので、大分県には驚くほどの「牟礼」地名が拾えます。

竹田市 津賀牟礼城、騎牟礼城址… 佐伯市 栂牟礼山… 豊後大野市 牟礼鶴酒造… 大分市 花牟礼山…


 後はご自分でお探し下さい。勿論、大分以外にもありますし、実は関東にもたくさんあるのです。

  山口県 防府市牟礼… 香川県 高松市牟礼町… 長野県上水内郡飯綱町牟礼 東京都三鷹市 牟礼… と。

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都農神社 カーナビ検索 宮崎県児湯郡都農町川北13294


百嶋神社考古学では、大山祇系をトルコ系匈奴とします。

 これについては、多くの例で、何故そう言えるかを書いてきていますが、まずは ひぼろぎ逍遥(跡宮)版から下記の話をお読み下さい。


623

続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu

622

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

621

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)


もしかしたら玖珠(珠の文字を充てていますので、古くはクスではなくクシュと呼んでいたのではないかと思います)そしてこれもトルコ語起源の言葉ではないかと考えています。

クシュはトルコ語で「鳥」を意味するのです。ヒンズークシ山脈のクシも同様でしょう。

ちなみに本物の(神武僭称贈る崇神ではないという意味で)神武天皇の本当のお妃はアイラツ姫です。

これもトルコ語と思われ、アイラールもトルコ語で「月」を意味するのです。これも先行ブログに当たって下さい。ちなみに、玖珠町には三日月地名もあるのです。三日月はトルコのシンボルですね。

つまり、アイラール姫=月子ちゃんだったのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)を見ていただければ、彼女は金山彦(イスラエル系)と大市姫(トルコ系匈奴のオチヒメ)との間に生まれています。

 愛媛県に越智姓が集中していることは良く知られています。その越智(朝鮮半島の金海金氏=金越智)を大市と表記しているのです。これも恐らくトルコ系言語なのでしょう。

 これについてはきりがないので、トルコ系匈奴 ひぼろぎ逍遥 ダブル検索を試みてください。


木牟田の天祖神社


前置きが長過ぎましたが、本題に入ります。玖珠町でもこれまで一度も入った事がなかった北山田駅の北側に初めて入りました。ある程度下調べをしていましたので驚きませんでしたが、意外と大きな集落にかなりの規模の神社が鎮座していたのです。

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天祖神社(木牟田) カーナビ検索 大分県玖珠町四日市2864


きっと茅葺に被いを掛けているのです 壁のない(この方が湿気に強く耐久性がある)質素な社殿です

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初めに目に入ったのは社殿再建の記念碑でした。かなり読み辛かったのですが、大正13年の延焼により社殿を失うも15年には再建されているようです。

 同社の起源はやはり前ブログで書いた玖珠町太田の天祖神社から天御中主命の勧請から始まっているようです。

 この太田の天祖神社が末廣神社の後背地を守る位置に当たるためどうしても大三島の大山祇神社の防衛集落に見えると思ったからでした。

 しかし、表立っては 大山祇〜その息子である大国主命を前面には出していないのであり、徳川の寺社奉行への遠慮だったのかも知れません。

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拓本を取らないと正確には読めませんね これについては玖珠町町史などを調べることにします…


 驚いたのは、記念碑の揮毫をした人物でした。

同社が仮に前ブログでお示しした太田の天祖神社と同体の神社としましょう。

909 映画 「愛国女子」を見てきました “登場する天御祖神社の東西分離とは何か…” A

 では、何故、妙見様と祇園様を祀る人々が、出雲大社まで出向き、千家の宮司から揮毫を頂いておられるのでしょうか。以下は太田の天祖神社の由緒です(再掲載)。 

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ここでは祭神として妙見神が筆頭に書かれ、併せてスサノウが祀られています。ホンダワケは宇佐八幡宮のお膝元だけに渋々ながらも権威を認め甘受していると見るべきでしょう。

何よりも天御祖には相応しくないことだけは明らかです。

これで、909 映画 「愛国女子」を見てきました “登場する天御祖神社の東西分離とは何か…” A

に於いて、“天御祖神社の東西分離とは何か…”とした事の解決への糸口がようやく掴めました。


東京都下で重要な神社と言えば、武蔵大国玉神社以外には浮かんできません。

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武蔵大國魂神社 カーナビ検索 東京都府中市宮町3丁目1


景行天皇四十一年(111年)の創建。大國魂大神は大国主神とご同神で、武蔵国の守護神として祀られ、後に国内諸神、国内著名の六社が合祀され、厄除、八方除、開運、縁結の神として崇敬される。例大祭は「くらやみ祭」として古くより親しまれている。                  東京都神社庁


結局、関東の天祖神社群は天照大御神という当り障りのない祭神を表に出し、中心部の発展に合わせ大きな教線を張り、それが成功したものではないかという気がするのです。

 神社の祭神とは時として看板であり、内なる信仰を守るそれこそ御祖神なのです。

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再掲載 東京都下に大きな広がりを見せる天祖神社


はたしてこれで良いかは今後の検証に待ちますが、恐れていては何も進みません。仮説は仮説であり、過ちは直ちに修正すれば良いのです。



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2022年08月10日

スポット283 映画 「愛国女子」を見てきました “登場する天御祖神社の東西分離とは何か…” A

スポット283 映画 「愛国女子」を見てきました “登場する天御祖神社の東西分離とは何か…” A

20220305

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 映画「愛国女子─紅武士道」(大川隆法・製作総指揮・原作)の中に3人の愛国女子が登場します。中でも武道に秀でた主人公の女子の武道場の正面に祀られた祭壇に“天御祖神”が出てきます。

 では、この“天御祖神”とは何なのでしょうか?

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連動するネット上の:映画「愛国女子」を10倍楽しむ! 日本の源流──天御祖神の聖地を探る - 強羅・相模・静岡熱海編 という販促=プロモーション文書には以下のような事が書かれています。 


強羅・相模・静岡熱海編 あの富士山から、日本文明は始まった──。

3万年前に存在した古代富士王朝の面影を、富士山麓の地域に求めた。…3万年前日本を創造した「天御祖神」同作最大のキーワードとなる「天御祖神」は、幸福の科学の霊査で明かされた、実在の神である。今から約3万年前、宇宙から富士山麓に降り立ち、日本文明の源流である「富士王朝」を築いた。日本が誇る精神文明のほとんど、例えば日本語、お辞儀・合掌などの礼儀作法、柏手・しめ縄・禊払いといった神道の作法やお祭り、剣や相撲の道、そして武士道などは、いずれも3万年前に天御祖神が伝え、人々が現在まで脈々と受け継いできたものだという。

王朝の多くは溶岩に埋もれるもその富士王朝も、富士山の大規模な噴火により現在は溶岩の下に覆われてしまった。後継者たちが全国に散り、大和朝廷をはじめとする日本の歴史を紡いできたというが、その間に、富士王朝の記憶や天御祖神の名は、忘れ去られていった。

しかし近年、霊的に明かされ始めた富士王朝の実在を前提に、富士山周辺の文物を注意深く読み解いてみたい。そこには王朝の痕跡が、確かに見えてくる。…


無題.pngこれによると、所謂「富士文書」とか言ったものが描く世界を取り込んでおられるようです。映画の中に登場する神まで議論する必要などないのであって、それはそれで良いのですが、まず、東大出身の大川氏の目にも止まったはずの文京区大塚、駒込、早稲田…には56社の天祖神社があります。

 これは文京区中心に見ただけで、新宿、杉並、中野…と見ていくと、恐らく数十社は簡単に拾えるのではないか、しかも、天照大御神を祀るものが多く、言わば、江戸っ子のベランメイ調に単純化されている様に見えます。

九州にも「天祖神社」なるものが福岡県飯塚市、大分市、湯布院温泉の由布市や当会の研修所からもそう遠くはない大分県玖珠町にもかなり存在していることから、この神or神々がどのような関係になるかを少し考えて見たいというのが今回のテーマです。

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ただ、富士文書とか物部文書として名高い「先代旧事本紀」にも天御祖神という名の神が存在するのではないのであって、それは大川氏のリーディングなり表現が適切ならば、ヒーリングにあるのです。

それ自体は、思考の行き着くところであって、神道であれ仏教であれ、現代人が求めるものであれば、そして、現代の日本人、日本民族にとって必要ならば、宗教家としては許されるものと思うものです。

ここでは、列島に渡来した多くの神々でも現代の日本人の血流に流れ込んだ有力かつ強力な先祖神を御祖神とし、ある時期の渡来を意味する天御祖神として崇めることは許されるべきであり、必要性があるならば祀られるべきものかも知れません。

ただ、私達百嶋神社考古学の者からすれば、テーマは日本人が如何に形成されたのか、日本人がどこからやってきたのか、また、多くの民族の渡来による混血も含め、一体どのような、衝突、争乱、共存…の結果によって形成されたかの深相を探るのが我々の任務なのです。

ここで“天祖神社”を考えると、分布が関東圏と北部九州に分裂していることに気づきます。

多少の例外はあるものの、どうもそれ以外の分布領域がないようなのです。

この現象がそもそも何を意味しているのか?若しくはそもそもこの二つの領域は元々異なるかも知れないという問題が横たわっています。これは落ち着いて調べなければ分からないのであって、それは当会の任務になるはずなのです。

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地図からは漏れていますが、福岡県糸島市の北端にも大祖神社がありますので、最低でも10社は拾えます


ここで天祖神社について一旦は置くとして、北部九州には太祖神社、神祖神社、玉祖神社(周防の防府)、水祖神社(飯塚市)…もうなかったですかね。

このうち、玉祖神社は造化三神の一神、天御中主命、高皇産霊神、神産霊(カミムスビ)神でその実体は博多の櫛田神社の大幡主、水祖神社は女性神で、大山祗の三人の子の長女神大市姫(ミズハノメ)と分かっています。

太祖神社、神祖神社はまだ良く判らないのですが、ここ十年では結論を出さなければならない思っています。

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玉祖神社=青枠、水祖神社=赤枠     百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


この問題は取り敢えず後回しにするとしても、概念としての天祖神社は、渡来系の古い先祖神と考えれば、列島民族の祖先神、開拓神と考える事は許されるでしょう。

ただ、九州の天祖神社は関東圏内の天祖神社が天照大御神としている事とは違いもう少しはっきりとした具体性を持っていますのでこれからご紹介したいと思います。

取り敢えず最も近い二社を選びましたが、大分県でも豊後と豊前の分水嶺には近いものの、まだ海からは最も遠い山の上に追い上げられた人々が奉斎する神社で、所在地は大分自動車道玖珠インターから西に二、三キロといったところで、物部氏の匂いのするその名も大田田根子と同じ太田に鎮座の立派な一社です。

この神社は、78年前に何度か別のテーマで参拝させていましたが、今回訪れると、小規模ながらバイパス工事が行われており、昔の参道はそのまま元のまま残され、元の道路がバイパス化され付け替えられていました。

このため、多少は神秘性が消えましたが、今なお立派な社殿が地元の信仰、崇拝を集めているという強い印象を受けました。

では、ご覧いただきます。

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気づきませんでしたが、北山田駅の南にも天祖神社があるようですそのうち行ってみましょう。辺鄙なところほど、原形が残るもので、何かつかめるかも知れません。

湯布院温泉の天祖神社は承知していますので大分県下の天祖神社の実踏は意外と早く終わるでしょう。

重要なのは、太田地区の天祖神社です。

ここは不思議なことに、500メートルも離れていない地区に分社があるのです。

元宮を余程神聖視していたか、そもそも奉斎する人々が民族的に異なっていたのかも知れません。

初めにお断りしておきますが、不思議なことに大分県には通常どこの県でも作られている神社誌がありません。

明治期の神名帳はあるのですが、県立図書館クラスしかなく、かなり不自由です。

宇佐八幡宮の専横だろうと勝手に考えていますが、対立が凄まじかったからかも知れません。

このため、いずれどうにかしますが、仮に調べても神名が書かれているだけで、それほど詳細な情報が得られる訳でもないため、二時間以上かけて大分の中心部にまでは中々足が伸びません。

むしろ、沢山の神社を見て、帰納演繹的に共通性を見ていく民俗学的手法の方が効率が良いという気がしています。一般的に、「古事記」「日本書紀」などの文献に重点を置き過ぎるのであって、そもそも記紀も偽書中の偽書と考え研究すべきと思うばかりです。

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ここでは祭神として妙見神が筆頭に書かれ、併せてスサノウが祀られています、ホンダワケは宇佐八幡宮のお膝元だけに甘受していると見るべきでしょう。何よりも天御祖には相応しくないことは明らかです。

実質的に、久留米の高良大社が九州(という意味は列島全体の意味ですが)の宗廟を宇佐八幡に渡すのは奈良朝を越える749年と「高良玉垂宮神秘書」に書かれており、藤原が持ち込んだ応神が天御祖神ではありえないのです。

従って、天照大御神とスサノウとが本来の祭神のはずなのです。

一方、湯布院温泉で知られる由布市湯布院町川上の天祖神社は、祭神を天之御中主神、素盞鳴男命、軻遇突智命(金山彦)、事代主命とし、後世、大物主神が合祀されています。

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結局、北部九州の福岡県糸島市から大分県大分市の南東部に掛けて偏った分布が認められ、この現象が何に基づくものかは今のところ何とも言えません。

やはり、何らかの氏族が西から東に移動した可能性は否定できないと思うのですが、仮に天照大御神とスサノウ、もう少し広げたスサノウの両親としての半島系(新羅系)のイザナギ+イザナミの移動があり、高木大神(タカミムスビ神)の許可を得る(衝突を避けるために)ために、天照を名目的に受け入れたのではないかという仮説を立てています。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


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2022年08月07日

スポット282 映画 「愛国女子」を見てきました “ここに登場する天御祖神社とは何か…” @

スポット282 映画 「愛国女子」を見てきました “ここに登場する天御祖神社とは何か…” @

20220305

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 熊本市在住の神道家でその筋では全国的に知られたF女子から“「愛国女子」―紅武士道”のチケットを貰いました。

当初、その経緯については良くは分からなかったのですが、チケットのリミットが23日しかなかったことから、まずは無駄にしては…とばかりに早々にも見てきました。

勿論、大川隆法氏監修の映画であることから、まずは“見ずんばあるべからず…”とばかりに足を動かすことにしたのでした。

ただ、チケットを特別に回してくれた女性も、言わば神道会の風雲(女子)児と考える事から、時代の必要性が昂揚(高揚)する時には、それなりの人物が社会の要請で自ずと現れるものだと思ったのです。

彼女は、あの悲惨極まりない熊本地震の最中、自らの家が被災していても、翌日には自らのネット・ワークを駆使して周辺の方々への救援のための炊き出しに動いたのですから、その意志には尋常ならざるものを感じていました。このため、私も山を越え翌日には手に入るものを持って翌日にはお手伝いに向かったのでした。これを、単純に日本版ジャンヌダルクとするのは誇張に過ぎるかも知れませんが、時代の要請とはそのようなものなのでしょう。それほど彼女の動員力と即応性には目を見張るものがあるのです。

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STORY

ある日、街で芸能事務所にスカウトされた大学4年生の大和静は、案内された事務所で武器を手にした4人の男たちに襲撃される。しかし、大和一心館の10代目道場主である父に鍛えられ、剣道4段・全国大会優勝の腕前を持つ静は、あっという間に相手を倒してしまう。身構える静の前に、芸能事務所の社長を名乗る高山悟志という男が現れる。戸惑う静に高山は、自分の本当の姿は、日本を古来より守りし創造神である天御祖神を本尊とする「日本救済会議」という団体の事務局長であり、この国を守るために活動していること、そして今まさに日本が滅亡の危機にさらされていることを告げるのだった......。物語の舞台はやがて現実世界から霊的世界へ。日本の未来と静自身の命をかけた激しい戦いへと続いていく。

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2022.2.21

【週末観客動員数ランキング第2位】映画『愛国女子―紅武士道』

2022218()に公開した映画『愛国女子―紅武士道』。全国227館でスタートし、公開初週の土日2日間においては、動員数116,629名、興行収入は145,676,540円を記録しました。また、興行通信社が発表する週末観客動員数ランキングでは、数々の大作映画が上位を争う中、堂々の初登場第2位にランクインしました!

同日公開された作品の中においては、本作が第1位の成績であり、公開初日を含めた3日間(218日〜220日)では、動員数154,504名、興行収入は193,081,010円を記録し、華々しいスタートを切りました!本当にありがとうございます。

SNS上では、「日本人なら必ず観るべき映画」「今の日本が置かれている状況・問題にリンクした内容であり、観る前と観た後とで意識が変わった」「今の日本があるのは、先人たちが日本を守るために命を懸けてくれたおかげであることを思い出させてくれた」「セリフ一つ一つに言霊が込められて、熱い涙が止まらなかった!」「今の自分が日本の国を守るために何かしているか?これから何ができるか?と考えるきっかけになった!」と、熱い想いを載せた投稿が多く見受けられています。

軍備の増強を続ける近隣諸国との外交問題、そして止まらない新型コロナウィルスの猛威など様々な困難に直面している現代日本。多くの方々が本作をご覧いただき、今こそ日本の明るい未来を切り開くため立ち向かう愛国女子・愛国男子となる方が一人でも増えていくことを願うばかりです。

大ヒットスタートを記録した映画『愛国女子―紅武士道』。今後の続報をお待ちください!


news | 映画『愛国女子―紅武士道』公式サイト より


 今回、このF女史を殊更引っ張り出した事には多少この映画と符号するものを感じたからでした。

 それは、自らが再建した神社(売りに出されていた宮崎県高千穂町内の廃社)を確保し、これまでの多くの蓄積から多くの人々を校合し、整地は元より、屋根の吹き直し、床の張替え…など、地域を巻き込んで、社殿の再建をやってのけているのです。そして、今や、定期的に合気道の教練まで行っているという妙邂を意識したからでもあったのです。

 その意味で、ここでは、まず、彼女の独立系神社を改めてご紹介しておきたいと思うものです。

 その神社は「ひのみこ社」と名付けられました。当方のブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」と「ひのみこ社」でダブル検索しても直ぐに拾えますので、一部をご覧いただきたいと思います。


851 高千穂町の一角で神社を再建する運動が始まった “ひのみこ社のご由緒について”

20200906

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 全国の神社の建物が劣化し、それを支えるべきはずの氏子の組織までが壊滅しつつある今、宮崎県高千穂町の一角において、売りに出されていた神社の敷地と社殿を買い取り再建する運動が始まっています。

 かく言う私もこの土地と社殿を管理していた不動産屋との相談にも多少は関与していた事から、参加できる日は阿蘇の外輪山沿いの100キロ近い道をひた走り、社殿を磨いたり参拝殿の床を磨いたりというささやかなお手伝いの作業をさせて頂いています。

 その運動と言うよりも、熊本の霊能者と言うか神ごとに関係する女性先導者自身が、あまりにも素晴らしいそのロケーションと古代にまでも遡る地域の歴史に感じいった事から、何とか再建し皆の拠り所としたいとの思いの実現に踏み出し実際にそれをやってのけておられている事に感じ入り書き始めたものです。

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再建工事に入る前の出雲大社教(明治の教派神道系教団)高千穂教会
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この神社の正面に四恩(シオン)岳がある事がお分かり頂けるでしょう。

 長年、神社調査を行ってきた者として解るのですが、神野、上野(カミノ、ウエノ…)と呼ばれる姓の人若しくは地名は何らかの形でイスラエル系、ユダヤ系と言われる人々との関係が辿れるのです。

 ただ、始めからこのような話を持ち出せばトンデモ説扱いされる事は明らかで、一般的には曹洞宗や浄土真宗などでも主張される仏の「四恩」としておくことが穏当かも知れません。

 無論、シオン山とはイスラエルの聖地エルサレムの南にある山とされていますよね。

 少なくともそういった知識を持った人々が入っていた土地だったとまでは言えそうです。

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エルサレム シオン丘陵


この上野地区の北には愛宕山があり金山彦(「古事記」ではカグツチ)の象徴ですし、同じく南の下野地区にも烏岳があります。

ヤタガラス(豊玉彦)系の山岳修験(豊前の求菩提山)の南の拠点であった事までが見えてきます。

 熊本の南阿蘇から宮崎の高千穂へと繋ぐ国道傍の住宅地ながら、同社の脇には素晴らしい清流が流れ

ています。

 F女史がこの地を惚れ込んだ理由もこのロケーションがあった事は言うまでもありません。

 しかし、そればかりではなく優れた感受性を持つ彼女は自らの感性によってこの地の歴史的重要性を掴み取り、神社の再建を始めたのでしょう。

 さて、そもそもこの地にあった元々の神社はそれほど古いものではありません。

 同社に残されている創立者田尻武雄氏の略歴(碑文)によれば、明治の教派神道系の言わば新興宗教団体で、その背後にあるのは、現在、石見、出雲、伯耆辺りに閉じ込められている出雲大社が全国的教団として教線を強化するために創られた教団と思われます。


出雲大社教 出雲大社教(いずもおおやしろきょう)は、1882年(明治15年)、当時の出雲大社前大宮司・第八十代出雲國造・千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団である。教派神道(神道十三派)の一つ。

明治13年に東京都日比谷の神道事務局に設けられた神宮遥拝所において、神造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)および天照大神の四柱を祀ると決定されたことに対して、出雲派は大国主大神も祀るべきだと主張し、伊勢派との間で大きな論争になったが、伊勢派が明治天皇の支持を得たこともあって、出雲派は敗北し、大国主は祀られないことになった(明治13年の祭神論争)。さらに、明治151月に明治政府が布告した「神官教導職分離令」によって、神社に奉仕する神官と布教を行う教導職が分離され、これによって出雲大社に勤務する神官が国家とは別に独自に出雲信仰の布教を行うことが禁止された。そのため、当時の出雲派(千家)のトップである千家尊福は、出雲大社大宮司を辞職して自らが教団の開祖となり、信仰組織を出雲大社本体および国家神道から分離させる形で明治15年に設立した。出雲大社教は昭和26年に出雲大社と統合されたが、その後も法人としては出雲大社教と出雲大社は別団体となっている。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20200811 12:18 による


結局、良く知られた 黒住教、御嶽教、神理教、金光教、天理教…などと同様の明治期の新興宗派であり、元々は主祭神を大国主命とする教団の神社だったのです。ちなみに隣県の熊本市にも同教団の教会があります。出雲大社熊本教会: 熊本県熊本市中央区九品寺2丁目6-61  096-364-3779

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「古事記」の大国主命と因幡の白兎の話はどなたもご存じですが神殿入口の欄干には折れたまま耳のない波乗り兎が(因幡の白兎の故事ですね)…これについては許されれば何とか直したいと思うのですが…


波乗り兎のモチーフです、誰か耳を治して頂ければ有難いのですがやりようが分かりません。

高千穂にしかも九州に大国主命とは訝しがる方は多いでしょうが、実は九州の方なのです。

これについては百嶋神社考古学の根幹を成す部分で、かなり多いので関心をお持ちの方はとりあえず以下辺りから探ってみて下さい。


 新ひぼろぎ逍遥

840

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を買い取り

再建する作業が始まった(追補)

839

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を買い取り

再建する作業が始まった(下)

838

全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を買い取り

再建する作業が始まった(中)

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全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を買い取り

再建する作業が始まった(上)


仮称 ひのみこ社 カーナビ検索 宮崎県高千穂町上野(カミノ)4956地先 ※この地番は上野中学校


ここからは、再生なったひのみこ社のチラシの素案です。

ひのみこ社に参拝された皆様へ

ご参拝になった ひのみこ社 は、神社庁にも属していません。

また、色々な新興宗教団体にも属しておりません。

いわばどなたでも自由にお参りになられ思うように願いを託すことのできる神社です。

この神社の前身は、明治の初め(明治5年)に出雲大社がその教えを普及するために創られた出雲大社(イヅモオオヤシロ)教の枝の一つとして旧上野村村長も務められた田尻武雄氏によって設立された高千穂教会を始まりとしています。

それについては、今も同社参拝殿正面に残された碑文に書き留められています。

このため元々は大国主命と繋がりを持つ神々が祀られていたのです。

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「古事記」の大国主命と因幡の白兎の話はどなたもご存じですが神殿入口の欄干には折れたまま耳のない波乗り兎が(因幡の白兎の故事ですね)…


このため、現在も神殿の欄間にはうさぎのモチーフがあり、神殿にも神鏡が残されています。

しかし、数年前にこの教会を継承されていた方がご高齢のため離れられ、その際にその神霊は出雲に戻され大国主命の祭祀は完全に消えております。

古来、続く多くの神社であれ、新興の教団であれ、地域や集落の力が失われていけば、このような神社も後を継ぐことができなくなり潰え去って行くのは仕方がないでしょう。

それどころか、ほぼ一世代に亘るここ30年の構造的経済社会の停滞によってか、全国の多くの神社がその継承者、支援者、氏子組織に衰えを見せ廃社、統合、合祀どころか災害なども加わり地域そのものを押し潰しつつあります。

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そうした中、この高千穂町と谷で隔てる熊本県高森町草部出身の女性が荒れて行く神社を建て直そうと思い立ったのでした。

まだ、子育ても完全には終了していないうら若き身にありながら、多くの悩みをもつ困窮者、社会的弱者を救済する拠り所にしたいとの思いから神社の再生のための活動を始められたのです。

本来、神社であれ、寺院であれ、教会であれ、教団そのものの利得や名声を優先する向きがあるとも聴きますが、社会や地域が崩れ落ち人生さえも失う人々が増えつつある今日、本来、教団の有るべき姿を追い求めたいとの気持ちが在られたのではないかと思っています。

そうでもなければ、いくら子供の時から良く通っていた思い出深く素晴らしい背景を持った土地だったとしても、個人で土地建物を求め相当の資金を注ぎ込んで手間の掛かる事業に踏み入れる人などいるはずは無いはずなのです。

しかし、彼女を慕う多くの人々の手によって神社の蘇生は始まりました。

多い日には20名近い人々が入れ替わり立ち代わり加わりで作業が行われました。

それこそ手弁当に食事持ち込みで床磨き〜天井磨き、壁磨きが行われ、資財、道具、備え付けの器具などの持ち込みも行われました(工事完了後には今や670人もの人々が集まってこられているのです)。

また、素人には手に負えない大工仕事、左官仕事、解体作業、廃棄物の搬出…なども、いつしか地域の協力者が現れ、元の出雲大社教時代の信者おばあさんから頼まれたとして子、孫などの世代のその道の専門家が協力を申し出てこられ、瞬く間に再生へと向かったのでした。

新しい神社の名称は“ひのみこ社”とされたようです。古代日向国のことその意味は日に向かうまさしく陽の御子(巫女)の意味であろうと思うのですが、まだ、その真意はお伺いしてはいません。

少なくとも、熊本から宮崎そして大分に掛けての方々が関心と救いを求めて訪問される心の拠り所となる本物の神社が生まれたと思うものです。


ひのみこ社社務所:熊本市or高森町草部連絡先問い合わせ先 090-9793-4630


 さて、話がひのみこ社に偏ってしまいましたので、話を戻しましょう。後は、…

909 映画 「愛国女子」を見てきました “ここに登場する天御祖神社とは何か…” A 20220305

 に引き継ぎます。今やNHKをはじめとして地上波や大手新聞などの既存のマスコミを敬遠し避けて久しいのですが、「幸福の科学」大川隆法総裁、釈 量子、及川幸久…氏の動画は、ほぼ全てを見ていますし、少し前の幸福実現党の「日本を変える! 123の政策」などに異論は抱きません。

 ただ、正しいことを言う人、正しい行動をとる人々は、必ず敗北することを知る事から、それでも尚立向かおうという強固な意志を持つ人しか同行する事は出来ないのです。

 勿論、それでも国家が崩壊する時はいずれ訪れるのであり、その昂揚期の波に乗れる人は幸福であろうと思うものです。このあまりにも大嘘を吐き続ける既存の言論界、科学界、政界からの自らの分離と独立性の保持は、インター・ネットの社会への浸透と、逆にインター・ネットの変質(言論統制)の中で、それでも真実を伝えようとする一群の人々と論客が排出している訳で、中でも一際輝いていたのが及川幸久氏に象徴される同会の人々でもあったのです。

 いずれ、国家と社会と文化の危機はさらに深化してくるはずで、この激変の大波はまだまだ増大し、私達を襲うはずなのです。その事に危機感を持たない人々は不意打ちを食らうことだけは確実なのです。

 ようやく力を落とし始めた親中共、親K韓某学会の〇明党に対し、願うらくは、「愛国女子」の上映に踏み切られた一群の人々のご努力と意気込みに賛意を表したいと思うものです。

 現在の日本にはマッカーサーの占領政策の延長上に二度と米国に歯向かわない国家として骨抜きになりましたが、今は、ドジョウであっても、溯上する鰻の精神から進め本来の国を取り戻すべきなのです。


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