20220308
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
玖珠町でも中心的な太田の天祖神社については、映画 「愛国女子」を見てきました A でご紹介しました。
どうしても気になることがあり、再度、西4キロほどのところにある玖珠町の四日市(木牟田)の天祖神社を見れば、胸に残る違和感を解消できるかも知れないとの思いと、広く多くのファクターを把握することによって別の発見もできるのではないかと思い再び現地を踏むことにしました。
そして、実際にそれなりの感触を得たのでした。この発見はやはり思っていた通りでした。

思い描いていたことは天祖神社の祭神はある種偽装されたもので、本当の神様は別にあるのではないかという直感でした。それはこの地区が大山祗神社の裏側(西側)に当たる背後地を守る防衛(砦)集落に思えたからでした。

実際には中心的な末廣神社が何かを知ると知らないでは、この地域の政治的性格を見落とすことになります。まず、同社の南にはJR久大線が東西に走り、豊後森駅があります。この名の通り、ここには森藩が開封されているのです。
森藩(もりはん)は、江戸時代に豊後国日田郡・玖珠郡・速見郡内を領した藩。藩庁として森(現在の大分県玖珠郡玖珠町)に森陣屋が置かれた。
瀬戸内海で村上水軍の一軍として活躍した来島水軍の後裔である来島長親(のち康親)は伊予国来島(愛媛県今治市)に1万4千石を領していた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで本多正信を通じ家名存続の沙汰を得た。慶長6年(1601年)、豊後森に旧領と同じ1万4千石を得て森藩を立藩した。
2代通春は、元和2年(1616年)に名字を来島から久留島に改めた。3代通清は寛文3年(1663年)、参勤交代のおりに飛び地である別府湾頭成港(大分県速見郡日出町豊岡)から瀬戸内海を航行中、周防国屋代島沖で暴風雨に遭い藩主の弟・通方の御座船が座礁転覆、通方はじめ乗っていた家臣10名全員が溺死するという惨事に見舞われた。こののち通清は弟の通貞に1千石、通迥に500石をそれぞれ分与している。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20220308 20:13 による
この末廣神社は森藩の久留島氏が伊予国の大三島の三島宮を勧請したものです。後に妙見宮(天御中主)を加え末廣神社としますが、この時のものと思われる妙見宮は今も同社直下正面に残っています。

いつもながら美しい画像ですが、写真は「旅人のブログ」様のものです(大分県玖珠郡玖珠町森)
末廣神社は森藩のものです。来島氏=村上水軍が信仰した伊予・大三島の大山祗神社を持ち込んだ三島宮と同体のものであり、その本体は大山祗神なのです。ここでは何故山の神が海にといった話はしませんが、参拝殿に立たれれば、隅切り角に波型三の紋章を確認できるでしょう。

ここまで見てくると、末廣神社が大山祇命を祀るものであることは一目です。
既に、戦国期の毛利攻めや、その後の瀬戸内海の海上交通権を巡る確執を含め太閤殿下の時代から、関ヶ原で西軍に与した村上家=来島家=森家(これを大雑把に括って良いかはありますが)が小藩ながら、旧領を守り貫き幕末まで命脈を保てただけ幸運だったと言えるでしょう。
その意味では、大山祇命の権威とご加護があったとまでは言えるのです。
ただ、残念なことに瀬戸内海の通行税とも言うべき関銭を失い、海から切り離され山上に上がらざるを得なくなり、事実上は陸に上がった河童状態になった事だけは甘受せざるを得なかったのです。
ここで、大山祇命の息子が大国主命であることをお知らせしたいと思います。
そんな馬鹿な、「大国主命は出雲の人のはず」だといった通説派が撒いた大嘘と反論の大波が直ぐに返ってくる事になるのです。
ここでも、これまで多くを書いてきているので敢えて触れることはしませんが、まずは、百嶋神代系譜を見て頂きます。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
お判りでしょうか?大国主命は大山祇命の息子であり、天御中主命は母親になるのです。
してみると、末廣神社に天御中主命が祀られたことも納得がゆくでしょう。
振り返って、もう一つ、末廣神社の背後にある角牟礼(ツノムレ)城の名は、日向一之宮都農神社から付されたとしか考えられません。
「牟礼」「室」「諸」…はシルクロードに広がる砦集落や村を意味するもので、大分県には驚くほどの「牟礼」地名が拾えます。
竹田市 津賀牟礼城、騎牟礼城址… 佐伯市 栂牟礼山… 豊後大野市 牟礼鶴酒造… 大分市 花牟礼山…
後はご自分でお探し下さい。勿論、大分以外にもありますし、実は関東にもたくさんあるのです。
山口県 防府市牟礼… 香川県 高松市牟礼町… 長野県上水内郡飯綱町牟礼 東京都三鷹市 牟礼… と。

都農神社 カーナビ検索 宮崎県児湯郡都農町川北13294
百嶋神社考古学では、大山祇系をトルコ系匈奴とします。
これについては、多くの例で、何故そう言えるかを書いてきていますが、まずは ひぼろぎ逍遥(跡宮)版から下記の話をお読み下さい。
623 | 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu |
622 | タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下) |
621 | タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上) |
もしかしたら玖珠(珠の文字を充てていますので、古くはクスではなくクシュと呼んでいたのではないかと思います)そしてこれもトルコ語起源の言葉ではないかと考えています。
クシュはトルコ語で「鳥」を意味するのです。ヒンズークシ山脈のクシも同様でしょう。
ちなみに本物の(神武僭称贈る崇神ではないという意味で)神武天皇の本当のお妃はアイラツ姫です。
これもトルコ語と思われ、アイラールもトルコ語で「月」を意味するのです。これも先行ブログに当たって下さい。ちなみに、玖珠町には三日月地名もあるのです。三日月はトルコのシンボルですね。
つまり、アイラール姫=月子ちゃんだったのです。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)を見ていただければ、彼女は金山彦(イスラエル系)と大市姫(トルコ系匈奴のオチヒメ)との間に生まれています。
愛媛県に越智姓が集中していることは良く知られています。その越智(朝鮮半島の金海金氏=金越智)を大市と表記しているのです。これも恐らくトルコ系言語なのでしょう。
これについてはきりがないので、トルコ系匈奴 ひぼろぎ逍遥 ダブル検索を試みてください。
木牟田の天祖神社
前置きが長過ぎましたが、本題に入ります。玖珠町でもこれまで一度も入った事がなかった北山田駅の北側に初めて入りました。ある程度下調べをしていましたので驚きませんでしたが、意外と大きな集落にかなりの規模の神社が鎮座していたのです。

天祖神社(木牟田) カーナビ検索 大分県玖珠町四日市2864
きっと茅葺に被いを掛けているのです 壁のない(この方が湿気に強く耐久性がある)質素な社殿です

初めに目に入ったのは社殿再建の記念碑でした。かなり読み辛かったのですが、大正13年の延焼により社殿を失うも15年には再建されているようです。
同社の起源はやはり前ブログで書いた玖珠町太田の天祖神社から天御中主命の勧請から始まっているようです。
この太田の天祖神社が末廣神社の後背地を守る位置に当たるためどうしても大三島の大山祇神社の防衛集落に見えると思ったからでした。
しかし、表立っては 大山祇〜その息子である大国主命を前面には出していないのであり、徳川の寺社奉行への遠慮だったのかも知れません。

拓本を取らないと正確には読めませんね これについては玖珠町町史などを調べることにします…
驚いたのは、記念碑の揮毫をした人物でした。
同社が仮に前ブログでお示しした太田の天祖神社と同体の神社としましょう。
909 映画 「愛国女子」を見てきました “登場する天御祖神社の東西分離とは何か…” A
では、何故、妙見様と祇園様を祀る人々が、出雲大社まで出向き、千家の宮司から揮毫を頂いておられるのでしょうか。以下は太田の天祖神社の由緒です(再掲載)。

ここでは祭神として妙見神が筆頭に書かれ、併せてスサノウが祀られています。ホンダワケは宇佐八幡宮のお膝元だけに渋々ながらも権威を認め甘受していると見るべきでしょう。
何よりも天御祖には相応しくないことだけは明らかです。
これで、909 映画 「愛国女子」を見てきました “登場する天御祖神社の東西分離とは何か…” A
に於いて、“天御祖神社の東西分離とは何か…”とした事の解決への糸口がようやく掴めました。
東京都下で重要な神社と言えば、武蔵大国玉神社以外には浮かんできません。

武蔵大國魂神社 カーナビ検索 東京都府中市宮町3丁目1
景行天皇四十一年(111年)の創建。大國魂大神は大国主神とご同神で、武蔵国の守護神として祀られ、後に国内諸神、国内著名の六社が合祀され、厄除、八方除、開運、縁結の神として崇敬される。例大祭は「くらやみ祭」として古くより親しまれている。 東京都神社庁
結局、関東の天祖神社群は天照大御神という当り障りのない祭神を表に出し、中心部の発展に合わせ大きな教線を張り、それが成功したものではないかという気がするのです。
神社の祭神とは時として看板であり、内なる信仰を守るそれこそ御祖神なのです。

再掲載 東京都下に大きな広がりを見せる天祖神社
はたしてこれで良いかは今後の検証に待ちますが、恐れていては何も進みません。仮説は仮説であり、過ちは直ちに修正すれば良いのです。
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