2022年09月27日

910 映画 「愛国女子」を見てきました “再び、天御祖神社の古層を探る…” B

910 映画 「愛国女子」を見てきました “再び、天御祖神社の古層を探る…” B

20220308

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 玖珠町でも中心的な太田の天祖神社については、映画 「愛国女子」を見てきました A でご紹介しました。

どうしても気になることがあり、再度、西4キロほどのところにある玖珠町の四日市(木牟田)の天祖神社を見れば、胸に残る違和感を解消できるかも知れないとの思いと、広く多くのファクターを把握することによって別の発見もできるのではないかと思い再び現地を踏むことにしました。

そして、実際にそれなりの感触を得たのでした。この発見はやはり思っていた通りでした。

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思い描いていたことは天祖神社の祭神はある種偽装されたもので、本当の神様は別にあるのではないかという直感でした。それはこの地区が大山祗神社の裏側(西側)に当たる背後地を守る防衛(砦)集落に思えたからでした。

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実際には中心的な末廣神社が何かを知ると知らないでは、この地域の政治的性格を見落とすことになります。

まず、同社の南にはJR久大線が東西に走り、豊後森駅があります。この名の通り、ここには森藩が開封されているのです。


森藩(もりはん)は、江戸時代に豊後国日田郡・玖珠郡・速見郡内を領した藩。藩庁として森(現在の大分県玖珠郡玖珠町)に森陣屋が置かれた。

瀬戸内海で村上水軍の一軍として活躍した来島水軍の後裔である来島長親(のち康親)は伊予国来島(愛媛県今治市)に14千石を領していた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで本多正信を通じ家名存続の沙汰を得た。慶長6年(1601年)、豊後森に旧領と同じ14千石を得て森藩を立藩した。

2代通春は、元和2年(1616年)に名字を来島から久留島に改めた。3代通清は寛文3年(1663年)、参勤交代のおりに飛び地である別府湾頭成港(大分県速見郡日出町豊岡)から瀬戸内海を航行中、周防国屋代島沖で暴風雨に遭い藩主の弟・通方の御座船が座礁転覆、通方はじめ乗っていた家臣10名全員が溺死するという惨事に見舞われた。こののち通清は弟の通貞に1千石、通迥に500石をそれぞれ分与している。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20220308 20:13 による


この末廣神社は森藩の久留島氏が伊予国の大三島の三島宮を勧請したものです。後に妙見宮(天御中主)を加え末廣神社としますが、この時のものと思われる妙見宮は今も同社直下正面に残っています。

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いつもながら美しい画像ですが、写真は「旅人のブログ」様のものです(大分県玖珠郡玖珠町森)


末廣神社は森藩のものです。来島氏=村上水軍が信仰した伊予・大三島の大山祗神社を持ち込んだ三島宮と同体のものであり、その本体は大山祗神なのです。ここでは何故山の神が海にといった話はしませんが、参拝殿に立たれれば、隅切り角に波型三の紋章を確認できるでしょう。

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ここまで見てくると、末廣神社が大山祇命を祀るものであることは一目です。

 既に、戦国期の毛利攻めや、その後の瀬戸内海の海上交通権を巡る確執を含め太閤殿下の時代から、関ヶ原で西軍に与した村上家=来島家=森家(これを大雑把に括って良いかはありますが)が小藩ながら、旧領を守り貫き幕末まで命脈を保てただけ幸運だったと言えるでしょう。

その意味では、大山祇命の権威とご加護があったとまでは言えるのです。

 ただ、残念なことに瀬戸内海の通行税とも言うべき関銭を失い、海から切り離され山上に上がらざるを得なくなり、事実上は陸に上がった河童状態になった事だけは甘受せざるを得なかったのです。

ここで、大山祇命の息子が大国主命であることをお知らせしたいと思います。

そんな馬鹿な、「大国主命は出雲の人のはず」だといった通説派が撒いた大嘘と反論の大波が直ぐに返ってくる事になるのです。

 ここでも、これまで多くを書いてきているので敢えて触れることはしませんが、まずは、百嶋神代系譜を見て頂きます。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


お判りでしょうか?大国主命は大山祇命の息子であり、天御中主命は母親になるのです。

 してみると、末廣神社に天御中主命が祀られたことも納得がゆくでしょう。

無題.png 振り返って、もう一つ、末廣神社の背後にある牟礼(ツノムレ)城の名は、日向一之宮都農神社から付されたとしか考えられません。

 「牟礼」「室」「諸」…はシルクロードに広がる砦集落や村を意味するもので、大分県には驚くほどの「牟礼」地名が拾えます。

竹田市 津賀牟礼城、騎牟礼城址… 佐伯市 栂牟礼山… 豊後大野市 牟礼鶴酒造… 大分市 花牟礼山…


 後はご自分でお探し下さい。勿論、大分以外にもありますし、実は関東にもたくさんあるのです。

 山口県 防府市牟礼… 香川県 高松市牟礼町… 長野県上水内郡飯綱町牟礼 東京都三鷹市 牟礼… と。

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都農神社 カーナビ検索 宮崎県児湯郡都農町川北13294


百嶋神社考古学では、大山祇系をトルコ系匈奴とします。

 これについては、多くの例で、何故そう言えるかを書いてきていますが、まずは ひぼろぎ逍遥(跡宮)版から下記の話をお読み下さい。


623

続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu

622

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

621

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)


もしかしたら玖珠(珠の文字を充てていますので、古くはクスではなくクシュと呼んでいたのではないかと思います)そしてこれもトルコ語起源の言葉ではないかと考えています。

クシュはトルコ語で「鳥」を意味するのです。ヒンズークシ山脈のクシも同様でしょう。

ちなみに本物の(神武僭称贈る崇神ではないという意味で)神武天皇の本当のお妃はアイラツ姫です。

これもトルコ語と思われ、アイラールもトルコ語で「月」を意味するのです。これも先行ブログに当たって下さい。ちなみに、玖珠町には三日月地名もあるのです。三日月はトルコのシンボルですね。

つまり、アイラール姫=月子ちゃんだったのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)を見ていただければ、彼女は金山彦(イスラエル系)と大市姫(トルコ系匈奴のオチヒメ)との間に生まれています。

 愛媛県に越智姓が集中していることは良く知られています。その越智(朝鮮半島の金海金氏=金越智)を大市と表記しているのです。これも恐らくトルコ系言語なのでしょう。

 これについてはきりがないので、トルコ系匈奴 ひぼろぎ逍遥 ダブル検索を試みてください。


木牟田の天祖神社


前置きが長過ぎましたが、本題に入ります。玖珠町でもこれまで一度も入った事がなかった北山田駅の北側に初めて入りました。ある程度下調べをしていましたので驚きませんでしたが、意外と大きな集落にかなりの規模の神社が鎮座していたのです。

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天祖神社(木牟田) カーナビ検索 大分県玖珠町四日市2864


きっと茅葺に被いを掛けているのです 壁のない(この方が湿気に強く耐久性がある)質素な社殿です

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初めに目に入ったのは社殿再建の記念碑でした。かなり読み辛かったのですが、大正13年の延焼により社殿を失うも15年には再建されているようです。

 同社の起源はやはり前ブログで書いた玖珠町太田の天祖神社から天御中主命の勧請から始まっているようです。

 この太田の天祖神社が末廣神社の後背地を守る位置に当たるためどうしても大三島の大山祇神社の防衛集落に見えると思ったからでした。

 しかし、表立っては 大山祇〜その息子である大国主命を前面には出していないのであり、徳川の寺社奉行への遠慮だったのかも知れません。

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拓本を取らないと正確には読めませんね これについては玖珠町町史などを調べることにします…


 驚いたのは、記念碑の揮毫をした人物でした。

同社が仮に前ブログでお示しした太田の天祖神社と同体の神社としましょう。

909 映画 「愛国女子」を見てきました “登場する天御祖神社の東西分離とは何か…” A

 では、何故、妙見様と祇園様を祀る人々が、出雲大社まで出向き、千家の宮司から揮毫を頂いておられるのでしょうか。以下は太田の天祖神社の由緒です(再掲載)。 

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ここでは祭神として妙見神が筆頭に書かれ、併せてスサノウが祀られています。ホンダワケは宇佐八幡宮のお膝元だけに渋々ながらも権威を認め甘受していると見るべきでしょう。

何よりも天御祖には相応しくないことだけは明らかです。

これで、909 映画 「愛国女子」を見てきました “登場する天御祖神社の東西分離とは何か…” A

に於いて、“天御祖神社の東西分離とは何か…”とした事の解決への糸口がようやく掴めました。


東京都下で重要な神社と言えば、武蔵大国玉神社以外には浮かんできません。

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武蔵大國魂神社 カーナビ検索 東京都府中市宮町3丁目1


景行天皇四十一年(111年)の創建。大國魂大神は大国主神とご同神で、武蔵国の守護神として祀られ、後に国内諸神、国内著名の六社が合祀され、厄除、八方除、開運、縁結の神として崇敬される。例大祭は「くらやみ祭」として古くより親しまれている。                  東京都神社庁


結局、関東の天祖神社群は天照大御神という当り障りのない祭神を表に出し、中心部の発展に合わせ大きな教線を張り、それが成功したものではないかという気がするのです。

 神社の祭神とは時として看板であり、内なる信仰を守るそれこそ御祖神なのです。

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再掲載 東京都下に大きな広がりを見せる天祖神社


はたしてこれで良いかは今後の検証に待ちますが、恐れていては何も進みません。仮説は仮説であり、過ちは直ちに修正すれば良いのです。



百嶋由一郎氏が残された神代系譜DVD、音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD…を必要とされる方は09062983254まで

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2022年09月24日

909 映画 「愛国女子」を見てきました “登場する天御祖神社の東西分離とは何か…” A

909 映画 「愛国女子」を見てきました “登場する天御祖神社の東西分離とは何か…” A

20220305

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 映画「愛国女子─紅武士道」(大川隆法・製作総指揮・原作)の中に3人の愛国女子が登場します。中でも武道に秀でた主人公の女子の武道場の正面に祀られた祭壇に“天御祖神”が出てきます。

 では、この“天御祖神”とは何なのでしょうか?

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連動するネット上の:映画「愛国女子」を10倍楽しむ! 日本の源流──天御祖神の聖地を探る - 強羅・相模・静岡熱海編 という販促=プロモーション文書には以下のような事が書かれています。 


強羅・相模・静岡熱海編 あの富士山から、日本文明は始まった──。

3万年前に存在した古代富士王朝の面影を、富士山麓の地域に求めた。…3万年前日本を創造した「天御祖神」同作最大のキーワードとなる「天御祖神」は、幸福の科学の霊査で明かされた、実在の神である。今から約3万年前、宇宙から富士山麓に降り立ち、日本文明の源流である「富士王朝」を築いた。日本が誇る精神文明のほとんど、例えば日本語、お辞儀・合掌などの礼儀作法、柏手・しめ縄・禊払いといった神道の作法やお祭り、剣や相撲の道、そして武士道などは、いずれも3万年前に天御祖神が伝え、人々が現在まで脈々と受け継いできたものだという。

王朝の多くは溶岩に埋もれるもその富士王朝も、富士山の大規模な噴火により現在は溶岩の下に覆われてしまった。後継者たちが全国に散り、大和朝廷をはじめとする日本の歴史を紡いできたというが、その間に、富士王朝の記憶や天御祖神の名は、忘れ去られていった。

しかし近年、霊的に明かされ始めた富士王朝の実在を前提に、富士山周辺の文物を注意深く読み解いてみたい。そこには王朝の痕跡が、確かに見えてくる。…


無題.png これによると、所謂「富士文書」とか言ったものが描く世界を取り込んでおられるようです。映画の中に登場する神まで議論する必要などないのであって、それはそれで良いのですが、まず、東大出身の大川氏の目にも止まったはずの文京区大塚、駒込、早稲田…には56社の天祖神社があります。

 これは文京区中心に見ただけで、新宿、杉並、中野…と見ていくと、恐らく数十社は簡単に拾えるのではないか、しかも、天照大御神を祀るものが多く、言わば、江戸っ子のベランメイ調に単純化されている様に見えます。

九州にも「天祖神社」なるものが福岡県飯塚市、大分市、湯布院温泉の由布市や当会の研修所からもそう遠くはない大分県玖珠町にもかなり存在していることから、この神or神々がどのような関係になるかを少し考えて見たいというのが今回のテーマです。

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ただ、富士文書とか物部文書として名高い「先代旧事本紀」にも天御祖神という名の神が存在するのではないのであって、それは大川氏のリーディングなり表現が適切ならば、ヒーリングにあるのです。

それ自体は、思考の行き着くところであって、神道であれ仏教であれ、現代人が求めるものであれば、そして、現代の日本人、日本民族にとって必要ならば、宗教家としては許されるものと思うものです。

ここでは、列島に渡来した多くの神々でも現代の日本人の血流に流れ込んだ有力かつ強力な先祖神を御祖神とし、ある時期の渡来を意味する天御祖神として崇めることは許されるべきであり、必要性があるならば祀られるべきものかも知れません。

ただ、私達百嶋神社考古学の者からすれば、テーマは日本人が如何に形成されたのか、日本人がどこからやってきたのか、また、多くの民族の渡来による混血も含め、一体どのような、衝突、争乱、共存…の結果によって形成されたかの深相を探るのが我々の任務なのです。

ここで“天祖神社”を考えると、分布が関東圏と北部九州に分裂していることに気づきます。

多少の例外はあるものの、どうもそれ以外の分布領域がないようなのです。

この現象がそもそも何を意味しているのか?若しくはそもそもこの二つの領域は元々異なるかも知れないという問題が横たわっています。これは落ち着いて調べなければ分からないのであって、それは当会の任務になるはずなのです。

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地図からは漏れていますが、福岡県糸島市の北端にも大祖神社(天祖ではない)がありますので、最低でも10社は拾えます


ここで天祖神社について一旦は置くとして、北部九州には太祖神社、神祖神社、玉祖神社(周防の防府)、水祖神社(飯塚市)…もうなかったですかね。

このうち、玉祖神社は造化三神の一神、天御中主命、高皇産霊神、神産霊(カミムスビ)神でその実体は博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神、水祖神社は女性神で、大山祗の三人の子の長女神大市姫(ミズハノメ)と分かっています。

太祖神社、神祖神社はまだ良く判らないのですが、ここ十年では結論を出さなければならないと思っています。

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この問題は取り敢えず後回しにするとしても、概念としての天祖神社は、渡来系の古い先祖神と考えれば、列島民族の祖先神、開拓神と考える事は許されるでしょう。

ただ、九州の天祖神社は関東圏内の天祖神社が天照大御神としている事とは違いもう少しはっきりとした具体性を持っていますのでこれからご紹介したいと思います。

取り敢えず最も近い二社を選びましたが、大分県でも豊後と豊前の分水嶺には近いものの、まだ海からは最も遠い山の上に追い上げられた人々が奉斎する神社で、所在地は大分自動車道玖珠インターから西に二、三キロといったところで、物部氏の匂いのするその名も大田田根子と同じ太田に鎮座の立派な一社です。

この神社は、78年前に何度か別のテーマで参拝させていましたが、今回訪れると、小規模ながらバイパス工事が行われており、昔の参道はそのまま元のまま残され、元の道路がバイパス化され付け替えられていました。

このため、多少は神秘性が消えましたが、今なお立派な社殿が地元の信仰、崇拝を集めているという強い印象を受けました。

では、ご覧いただきます。

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気づきませんでしたが、北山田駅の南にも天祖神社があるようですそのうち行ってみましょう。辺鄙なところほど、原形が残るもので、何かつかめるかも知れません。

湯布院温泉の天祖神社は承知していますので大分県下の天祖神社の実踏は意外と早く終わるでしょう。

重要なのは、太田地区の天祖神社です。

ここは不思議なことに、500メートルも離れていない地区に分社があるのです。

元宮を余程神聖視していたか、そもそも奉斎する人々が民族的に異なっていたのかも知れません。

初めにお断りしておきますが、不思議なことに大分県には通常どこの県でも作られている神社誌がありません。

明治期の神名帳はあるのですが、県立図書館クラスしかなく、かなり不自由です。

宇佐八幡宮の専横だろうと勝手に考えていますが、対立が凄まじかったからかも知れません。

このため、いずれどうにかしますが、仮に調べても神名が書かれているだけで、それほど詳細な情報が得られる訳でもないため、二時間以上かけて大分の中心部にまでは中々足が伸びません。

むしろ、沢山の神社を見て、帰納演繹的に共通性を見ていく民俗学的手法の方が効率が良いという気がしています。一般的に、「古事記」「日本書紀」などの文献に重点を置き過ぎるのであって、そもそも記紀も偽書中の偽書と考え研究すべきと思うばかりです。

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ここでは祭神として妙見神が筆頭に書かれ、併せてスサノウが祀られています。

ホンダワケは宇佐八幡宮のお膝元だけに甘受していると見るべきでしょう。

何よりも天御祖には相応しくないことは明らかです。

実質的に、久留米の高良大社が九州(という意味は列島全体の意味ですが)の宗廟を宇佐八幡に渡すのは奈良朝を越える749年と「高良玉垂宮神秘書」に書かれており、藤原が持ち込んだ応神が天御祖神ではありえないのです。

従って、天照大御神とスサノウとが本来の祭神のはずなのです。

一方、湯布院温泉で知られる由布市湯布院町川上の天祖神社は、祭神を天之御中主神、素盞鳴男命、軻遇突智命(金山彦)、事代主命とし、後世、大物主神が合祀されています。

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結局、北部九州の福岡県糸島市から大分県大分市の南東部に掛けて偏った分布が認められ、この現象が何に基づくものかは今のところ何とも言えません。

やはり、何らかの氏族が西から東に移動した可能性は否定できないと思うのですが、仮に天照大御神とスサノウ、もう少し広げたスサノウの両親としての半島系(新羅系)のイザナギ+イザナミの移動があり、高木大神(タカミムスビ神)の許可を得る(衝突を避けるために)ために、天照を名目的に受け入れたのではないかという仮説を立てています。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


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2022年09月23日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 289 高良社が残された九州王朝の若宮八幡神社 千曲市 武水分八幡神社

新ひぼろぎ逍遥 スポット 289 高良社が残された九州王朝の若宮八幡神社 千曲市 武水分八幡神社

  20220815

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回のリポートを書くとして、主要な目的地としての長野の4市を先行して書き上げ、それ以外の地域の神社については、余裕があれば、後で書き加えることにしたいと思います。

 千曲市、上田市、小諸市、佐久市の順で事前に抽出した神社を中心に踏査しましたが、最初に訪れたのはかなり立派な八幡神社で、普通なら調査対象にさえしないのですが、やはり若宮神社が絡んでいるのです。

 既に事前調べで取り上げましたが、ここで長野県の若宮八幡神社をご覧になって下さい。

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再掲載)信濃の若宮神社20社 周辺の県と比較しても非常に多くの数の若宮八幡神社があるのです


 我々がこの事実に拘るは、この若宮が誰であるかが多少は見当が付いているからです。

一般的に、若宮神社の祭神は“応神天皇、神功皇后、仲哀天皇(応神天皇の父)3柱”とする場合もあるのですが、普通は“応神天皇の皇子”などとされるオオササギの命=仁徳天皇と言われます。また、これとは別に、カミムスビ(博多の櫛田神社の大幡主)の御子であるヤタガラスを若宮として扱う神社もあり、これまたとんでもないことですが、所謂、奈良の春日若宮の問題も具体的には存在します。

まあ、応神の子などというのはとんでもない話で、真実は、仲哀死後の神功皇后を妃(皇宮皇后)とした第9代(藤原がそう扱っただけですが)開化天皇の5人の皇子の長子シレカシノミコト=藤原によりオオササギとされる仁徳天皇そのひとであり、事実上最後の九州王朝の天皇だからなのです。

 これは「高良玉垂宮神秘書」を基盤とする百嶋神社考古学からの真実へのアプローチなのです。

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


仁徳が応神の子などとは後の藤原となる多氏=宇治氏=阿蘇氏が造ったとんでもない話ですが、通説派の御用学者共にとっては真実の皇統などどうでも良いのであって、単に崇め奉った大嘘の聖典なのです。

一方、若宮がこれほど存在する信濃が如何なる土地だったかを探る使命が我々に託されているのです。

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武水分八幡神社 カーナビ検索長野県千曲市大字八幡3012

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同社由緒


その信濃の一社として今回最初に見せて頂いたのが、千曲市の武水分(若宮八幡)神社でした。

特に重視しているのは、高良社と若宮社であり、この複合体は、全国に痕跡を残す九州王朝の高良玉垂命=開化天皇と神功皇后(仲哀死後=皇宮皇后)の神社であり、その長子こそが、大雀命とされるも、開化天皇と神功皇后(仲哀死後の)直系の5人の皇子の筆頭シレカシノミコト=仁徳天皇なのです。

これについては、久留米市山川町の高良皇子神社=九躰皇子神社などを検索して下さい。

事実、若宮では応神を抑え筆頭神となっており、高良玉垂命も祀られているのです。

 これこそが、九州王朝系の氏族が甲斐、信州一帯に展開していた痕跡ではないかと考えているのです。

 今回、勇んで書き始めたのですが、浮かれ過ぎていたからか現地調査の写真の撮影状態が不味く、一部、敬愛する「玄松子」様の画像と記事などを借用させていただきます。以下。


式内社 信濃國更級郡 武水別神社 名神大 旧県社


御祭神 武水別大神

配 祀 誉田別命 息長帶比賣命 比淘蜷_

長野県千曲市(旧更埴市)八幡にある。JR姨捨駅の北東2Kmほど、千曲川の西岸に鎮座している。

南から道路を北上すると、正面に大鳥居がある。道路は、大鳥居から西へ少し湾曲して北上する。境内は、内境内と外境内に別れており、大鳥居をくぐると、外境内。参道を進み、参道の鳥居をくぐると、内境内となる。孝元天皇の御代の鎮座と伝えられている。別名を更級八幡宮といい、鎮座地も八幡。

石清水八幡から勧請された八幡三神が、相殿に祀られている。主祭神は、武水別大神。「たけみずわけ」と読むが、本によっては「たけみくまり」ともある。千曲川の水神を祀ったものだろう。

木曾義仲が、横田河原の合戦の戦勝祈願をし、勝利のお礼に水田を奉納。収穫された米で餅を作り、参拝客へ授けられる。休日の境内は参拝客が多く、特に車の祓いに来る人が多いようだ。社殿の前に、ずらっと車が並び、順番待ちをしていた。外境内にある茶屋で、うづら餅を食べながらお茶を飲む。普通の餅だが、こういう場所で食べると、なんとなく美味。境内は広々としていて、明るい雰囲気。


以下が今回の参拝の最も重要な目的だった武水別神社の高良社です。


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−境内案内−

長野県宝 武水別神社摂社高良社本殿一棟

一、指定年月日 昭和五十年七月二十一日

二、指定理由

この建造物は室町時代後期の特色を示す 神社建築として貴重なものである。

三、説明

高良社本殿は一間社流造の系統に属する もので建築様式から見て室町時代後期 十六世紀ごろ建てられた建築と考えられ る。ふつうの流造に見られる周囲の廻縁や 階段は省略され 正面に小さな縁をつける のみで いはゆる見世棚造に類する形式で ある。主屋の桂上の組物に舟肘木に用い 軒の垂木を省略して板のみで屋根を支えて いるなどは略式な手法であるが側面の妻 飾に太瓶束と扠首組を併用しているのは珍 らしい手法である 頭貫の先端の絵様や虹 梁に彫りこまれた文様に室町時代後期の特 色が見られ その上建築当初の主要部分が よく保存されている点 貴重な建築物である。

武水別神社御由緒

御祭神

      主祭神武水別大神 たけみずわけのおおかみ

      相殿   誉田別命 ほんだわけのみこと 息長足比売命おきながたらしひめのみこと 

比淘蜷_ ひめおおかみ

三大祭 祈年祭三月十五日 例大祭 九月十五日 新嘗祭      十二月十二日


御由緒

 社伝によると、武水別大神は第八代孝元天皇 の御代に御鎮斎と伝えられており、善光寺平の 五穀豊饒と千曲川の氾濫防止とを祈念して祀ら れました。十二月の大頭祭(新嘗祭)は、御神徳 に対し氏子民が感謝の誠を捧げる、この地方 最大の祭典であります。

 八幡三神は、安和年間に京都石清水八幡宮 より勧請され、相殿に奉斎されました。誉田別 命は応神天皇、息長足比売命は応神天皇の御母 君の神功皇后のことであり、比淘蜷_とは 田心姫・湍津姫・市杵嶋姫の三女神の総称で 国家鎮護、航海・交通安全の守護神と仰がれて おります。

では、主祭神の武水別大神とは誰なのでしょうか。全国的に隠されてはいますが、高良玉垂命とは言うまでもなく第9代(藤原によってそう扱われた)開化天皇であり、そもそも神殿から出され脇殿に移されたのだろうと思います。

その開化天皇が仲哀死後の神功皇后(皇宮皇后命)を妃としてもうけられた直系の5人の皇子の筆頭こそがシレカシノミコト=一般にはオオササギ命とされる仁徳天皇でありこの武水分神社の主神に相応しいのです。元々は、本殿に開化天皇=高良玉垂命も神殿内に祀られていたはずですが、宇佐八幡宮が高良大社を九州の宗廟から追い落とし、応神を宇佐神宮に置き換えた749年(「高良玉垂宮神秘書」)以降、石清水八幡の橘一族の指揮下でこの形式を採ったのではないかと考えています。

 武水別大神とはしていますが、若宮八幡宮とも呼ばれていることから考えれば、九州王朝の最後の天皇である仁徳天皇の別名であろうと思うものです。

 勿論、仁徳が応神の子などと言うのは藤原による偽装であり、百嶋神社考古学では認めません。

ただ、引用した“孝元天皇の御代の鎮座と伝えられている。別名を更級八幡宮といい、鎮座地も八幡”

をそのまま正しいとすれば、孝霊、孝元、開化の孝元期の鎮座に若宮=仁徳が祀られるはずはないのであって、どう考えるかを迷っています。別名更科八幡宮と呼ばれていたとすると、これは恐らく前身の神社で、元はカミムスビの神として良く知られるヤタガラスの父=大幡主を祀る正八幡神社だった可能性もあります。とすると、その時代に疱瘡の神として正八幡神社の社外に出され、高良と仁徳が祀られたのでしょう。このようにこの武水別八幡神社にも何派もの政情の変化による変化が見て取れるのです。

それもこれも、古い神々を粗末にせず、きちんと守っておられるから後付けの勝手な解析もできるのです。感謝します。ありがとうございます。素晴らしいものを見せて頂きました。


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こちらはまあまあ良く撮れていた自前の写真で、住吉の神紋が打たれた高良玉垂命の社です


 本当は、境内にある十数柱の分社の神々についても大体の見当が付きますので触れたいのですが、今回の調査旅行の記憶が薄れないうちに書き上げたいため、今回は省略させていただきます。

一点だけ、分社の一つに疱瘡の神で不明と記述されているものがありますが、これは恐らくカミムスビの神として良く知られるヤタガラスの父=具体的には博多の櫛田神社の主神大幡主そのものだと思います。この神様は高皇産霊神と並ぶ超大物であり(造化神)、疱瘡の神とは海外から持ち込まれる流行り病(天然痘)の神に関係する神なのです。大型船を駆使して半島から大陸、インドシナ方面までも外洋航海、渡洋航海を行っていたカミムスビ神にこそ疱瘡の神は相応しいのです。

 手足の神、目の神、疱瘡の神…といった表現は、九州でも熊本に目立つもので、思い込みと言われそうですが、ここには九州の人達が入っているとの印象を強く持ったのでした。

多分、大幡主か住吉の神(底筒男の神)のいずれかではないかと思っています。


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