2022年09月12日

905 大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? 

905 大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? 

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この間、ビアヘロ版190192でヤマトタケルの熊襲退治の舞台が佐賀市の佐賀大和インターチェンジ付近で起こった事だったという話を書いてきました。

ところが、この話の延長上にもしかしたら阿蘇大蛇伝説で知られ豊後大野、豊後竹田一帯に盤踞した三つ鱗紋(後に左三つ巴紋に収斂)を使った大神一族もこの河上猛の後裔氏族ではないかと言うイメージが過ったのでした。

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今回、ほとんど理解されないまでも、先行ブログ3本で、何とか河上 猛の後裔氏族が「大神」姓を名乗っていた可能性があることに気付きました。

 一つは現地探訪によるものですが、もう一つは「福岡県神社誌」上巻(90p)にも同社宮司家として大神氏が同社を所収されていたことが確認できたからでした。


社記によれば往昔は當地海濱にして神功皇后征韓御凱旋の砌姪濱に御上陸鳥飼への行啓の御途上に當りたるに因み住吉神を祭ると伝う社蔵の慶長五年の棟札に早良郡原村宗廟住吉宮本殿再建本願主泉沙禰とあり(泉沙禰は宮司大神甚座左衛門が高祖大明神の社職上原泉と共に仕へし高祖原田隆種没落後剃髪せる号名なり)貞享五年の棟札に早良郡原村産神諏訪宮本殿再建祠官藤上氏周継とあり。


無題.pngもし仮に、大神氏が河上 猛 に端を発する一族だったとしましましょう。すると面白いことが見えてくるのです。それは祖母山です。以下「高千穂の神話と伝説」より。

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この話に入る前に、僭越ながら先にちょっとコメントを加えておきます。

山頂の祭神の 健男霜凝日子神、豊玉姫命、彦五瀬命 については、百嶋神社考古学としてはそのまま受け入れられないのです。それは祭神が重複しているからです。

それは健男霜凝日子神と彦五瀬命とは同一神だからなのです。この誤りが何故生じたかは不明です。

山頂から下宮にかけて10社とは言いませんが豊後竹田を中心に56社はあり、一応全て参拝させて頂きましたが、実際にはエリアが広く大変です。では百嶋先生の通称金神系譜(部分)をご覧ください。

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通常、神武皇兄五瀬命を義理の兄として扱うのは本物の神武天皇(藤原が捏造した神武僭称贈る崇神ではないと言う意味で…)の本物のお妃だったアイラツ姫(宮崎県日南市油津)の実兄が五瀬命だったからです。

 では、話を戻しますが、何故、祖母山と呼ばれているのでしょうか?

それは言うまでもなくそれは誰かの祖母だからなのです。

 まったくでたらめな話なのですが、百歩譲ってその説を説明すれば、それは、彼らにとっての「神武天皇」の祖母が玉依姫(実は神玉依姫ではなく鴨玉依姫)だからなのだ!と言っているのです。

これには二重三重の誤りが転がっているのですが、真実が隠されてしまうと言いたい放題になってしまっているのです。ほとんど漫画ですね。

 これが宮崎のインチキ神話の底流に流れる錯誤というか偽装なのです。

しかし、それに悪乗りするのが阿蘇系の後の藤原だったために嘘に嘘が輪を掛け闊歩したのでした。

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神武僭称贈る崇神(ハツクニシラススメラミコト)の母神は確かに玉依姫と呼ばれる鴨玉依姫でした。

後の藤原は自らの一族を過剰に宣伝し、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の母神が神玉依姫であることに気づき、畿内制圧に成功した崇神(これも久留米高良大社にいた高良玉垂命=開化天皇+正妃神功皇后=皇宮皇后の指揮下で四道将軍を送ったのですが)は初代神武以上の功績を持つ藤原の祖先を神武に仕立てようとしたのでしょう。

では、この本物の神武天皇の母神とはどなたなのでしょうか?これも最終神代系譜に書かれています。

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お分かりでしょうか?大幡主ことカミムスビの姉=ヤタガラスの伯母 様に当たる方なのです。

大体、ウガヤフキアエズの子が神武天皇=サノノミコトなどといった話を吹聴される方は何も分かっちゃいないと思われて間違いありません。では、再び話を戻しましょう。

 あくまでも百嶋由一郎によればですが、ご覧のとおり祖母山の神豊玉姫は河上 猛にとって祖母である事は明らかですね。さらに言えば、ウガヤフキアエズ(当時久留米の高良山に居たのですが)は父になるのです。

実際には、祖母嶽(ソボタケ、ウバタケ)神社が置かれ、日子穂 穂出見命(ヒコホホデミノ)とそのお妃である豊玉姫命(トヨタマヒメ)が祀られているのですが、祖母山は「祖母」の由来の神武天皇の祖母、豊玉姫が祭られていますなどと解読されています(勿論、我々から見れば大きな誤りですが)。

この神武が本物の初代神武であるカムヤマトイワレヒコでないことは明らかで、藤原が拵えた神武僭称贈る崇神ことハツクニシラススメラミコト(黒枠)なのです。

この人物は久留米の高良山にいたウガヤフキアエズと第9代扱いとなっている呉太伯の血を惹く高良玉垂命(ワカヤマトネコヒコ)=開化天皇(后は仲哀死後の神功皇后)の臣下でしかない阿蘇系の人物(阿蘇系の大山咋=具体的にはヒコヤイミミと市杵島姫との間に生まれた国造神社様)だったのです。

ただ、その阿蘇系が藤原氏として最後の勝利者となったことから、崇神を神武に見立て、ヒコホホデミやウガヤフキアエズが神武の父などというとんでもない大嘘をでっちあげてしまい宮崎のインチキ神話がこさえられてしまったのでした。

 これにより通説派の欠史8代架空説などと言うほとんど漫画でしかない歴史が偽造されてしまったのでした。実に嘆かわしい限りであり、「古事記」の95パーセントが嘘という百嶋説に従うべきなのです。

 ネット上にはウガヤフキアエズ王朝複数のサイトが出店されています。ここで敬意を表し特筆大書させていただきましょう。


祖母山大明神の正体とは? - ウガヤフキアエズ王朝実在論


ただ、彼らが持ち上げる大神一族がウガヤフキアエズの後裔氏族であったであろうことは疑いようがありません。

 そこで、一気にそこに踏み込みたいのではありますが、その前に、阿蘇大蛇伝説と大神一族(大賀、緒方、尾形…)と祖母山、姥ケ嶽(岳)の関係を簡単にお話しておき、その後に触れたいと思います。

阿蘇大蛇伝説と大神一族


 大分県でも辺境に位置する豊後竹田から豊後大野、臼杵、佐伯…と、この一帯が頭に浮かばない方が多いのはいたし方ありませんが、祖母山の西に延びる尾根の北麓に穴森神社という非常に印象的な神社あります。何度となく参拝していますが、何時行っても迷いそうになります。

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無題.png他に比べ、このサイトは当方が書こうとしていた部分を正確に書かれており是非お読みいただきたいと思います。

 まず、一部ですが、本文を掲載し、勝手かつ僭越ながらコメントを加えさせて頂くことにします。


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当地の伝承では、上記の『平家物語』で語られた内容と共に、一部の微細違いと共により詳細が伝承されています。

祖母山大明神(健男霜凝日子神社)の化身である蛇神(穴森神社の神)の子を宿やどしたのは、豊後大野市清川町宇田枝(地図)に在した華御本姫とされています。華御本姫は、藤原伊周の娘で、父君薫育により和歌などの国風に堪た能であったことから歌媛様と称されていました。草木も眠る丑満時になると、その華御本姫のもとに端麗な若者が風の如く寝所を訪れ、未明には煙の如く、所も言わず名も語らず去るのでした。

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2022年09月09日

904 「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ 

904 「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに用意したレジュメ 

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


パワー・ポイントを使い講演するのは便利ではあるのですが、実際の作業となると実に大変で、その基となるブログを作った上で、次に講演用のパワー・ポイントを、パソコンが苦手と言う方のためにも手書き資料を別途用意し、さらにパソコンを使う方のためにCDDVDでの資料を作る場合さえあるのです。

 昔のように、単にお話をさせて頂くだけの方がどんなに楽か考えさせられるばかりです。

 さらに参加できなかった方のためにICレコーダーで音声記録を残し、CDに焼いて配布してくれなどと言われれば、もういい加減にしてもらいたい…と言いたくなるのです。

 しかし、少しでも古代、神代の真実を伝え、残したいと思えば、頚肩腕症候群で二週間寝込もうともやらざるを得ないのです。ともあれ、二つのパワポを準備しました。

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左は一度現地某寺院で講演に使用していますが、今回発表したいのは、年末年始に掛けて取り組んだ続編にあることは言うまでもありません。

 ところが、この「古事記」「日本書紀」に登場する「倭建命」「日本武尊」の説話の舞台が、佐賀県の旧大和町の川上峡であるなどと知る人などいるはずもないのですから、本来は左からお話しし、続編に入るべきなのですが、これについては実験的に、“ヤマトオグナに許された後の河上 猛のその後”の話を先行し、次に元々の佐賀県側(長崎自動車道佐賀大和インター)周辺の話に戻ろうと思うものです。

 何故ならば、福岡市早良区の話は実に臨場感があり、とても神代の話には思えない鬼気迫る現実味があるからで、その延長上に本編に踏み入る方がよりリアルに思えるのではないかと思うからです。

 とはいっても、事前資料は用意せざるを得ません。この現場が、古代の有明海の湾奥の現佐賀市であったという話から始めることにします。ただ、また同じようなブログを書いても二重になるだけですから概略だけを箇条書きにしたいと思います。

@  40年ほど前、旧「大和町史」の拾い読みをしていると、淀姫神社の西の山の中腹に河上 猛の墓(墓があったとの表示)との伝承が存在したと言った記述があることを知りました。一方、以下。

A  無題.png戦時中に熊本市役所にお勤めだったのですが、熊本では稀有の九州王朝論者である平野雅廣(日偏が着く)氏が「倭国史談」外3著を残されています。この「倭国史談」37pには異説「ヤマトタケル」という小稿が収められており、「佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告」上巻に「蠣久府址」の説明文を掲げられ、「往古此地は九州一の都会、…戸数三千、富豪巨商軒を連ねし所、…日本武尊河上村に熊襲追討…」と。また旧川上村は佐賀郡大和町と…昭和50年の同町「大和町史」の伝説民話にも

B 

C   ●大願寺の山中で、熊襲が里の娘たちを集めて、大酒宴の最中、日本武尊に殺された。…そこから一キロ北に行基が創建したという健福寺跡があるが、そこに熊襲の墓と伝えられる墓碑が建っていたという、川上梟師に関する伝承が記されている(大願寺、健福寺は共に大和町北部)。淀姫神社についても…

 無題.png「脊振村(現神埼市)広滝 で許された河上猛とその一族はその後背振山を越え福岡市早良区に移り住んだ」とは我が師百嶋由一郎だった。この話をどこから回収されたかは今後の課題ですが、まずは、真実を探る事に一生を掛けた先生らしいとの想いが募ります。では、早良のどこなのか?誰なのか?は百嶋由一郎の強烈な影響を受けた十数名の人々(百嶋先生の面授の弟子)が等しく抱き続けた謎に踏み入りましょう。私は五年ほど前から早良の南から虱潰しに神社を廻ることから始めましたが埒が明かず結局徒労に帰しました。そこで、年末から百嶋由一郎が残した手書き資料を探し出しました。驚くことに、河上 猛の母奈留多姫は八坂刀女と名を改めアスハ(後の建御名方)と道行に走った。と書かれていたのです。では、早良区の諏訪神社はと言えば、原の諏訪神社しかないのです。しかも、M氏の情報によると八坂刀女が石碑の由緒書きに書いてあるという情報までもたらされました。そこで現地のフィールド・ヲーカーのN氏と111日、諏訪神社を踏むと、裏には大神氏以下、佐賀にもなじみのある多くの名前が無題.png付されていたのです。

 後日、「福岡県神社誌」で確認すると、以前の宮司家の名も掲載されており、河上 猛の一族とはこの一族だったのではないかとの推測が一応は立ったのでした。後は現地伝承を両面から探る作業を行うことになりますが、恐らくこれも徒労に帰すでしょう。ともあれ、当面の課題はクリアしました。

 そこで、栄えある河上 猛のその後の姓が大神だったとしましょう。直ぐに頭を過るのは豊後竹田から豊後大野に掛けて盤踞した阿蘇の大神一族の事でした。後には辛島氏などと並び称せられる宇佐神宮の宮司家=大神比義の一族となり「平家物語」にまで登場するのです。彼らは祖母山に豊玉姫を祀りました。それは河上 猛から見て祖母だったからであり、祖母山の名はここに端を発していたのです。さらに言えば、この一帯に異常にも広がる「ウガヤフキアエズ王朝説」も猛にとっての父とは久留米高良山にいたウガヤフキアエズだったからなのです。この説の底の浅い構造に改めて興ざめしたのでした。

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2022年09月06日

903福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい 

903福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々のご出身地を知りたい 

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


凡そ明治のころまでは、皇室、大名家、高級官僚…といった高位の人々を除き、県を越えて嫁を貰ったり、養子婿を貰ったりするという事は無かったと言われていました。

 だからと言って、犬や狸のように半径一〜二キロからと言うこともなく、うちの一族は決まってどこどこの集落から嫁嬢さんを貰う習慣があり、間違っても通婚の習わしの無い集落からは嫁取り婿取りはしなかったという事は普通に理解される事だったのです。

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今までこそフリッピンやブラジルなどからお嫁さんを貰ったり、息子がオーストラリア留学でイタリア人のお嬢さんを連れてきてしまった…と言った話がありますが、百年前までは100人に1人もない事だったのです。

 なんでそんな話を持ち出したのかと言うと、もしかしたらこの神社氏子の方々の全部とは言わないものの、1700年以上も前にかなり纏まった数の方達が背振山を越えてやってきたのではないかと考えているからです。

 情報が限られた中、それでも河上 猛の末裔の一族が山を越え、この地に辿り着いたのではないかという神代史の消された事実を発掘できるかも知れないという淡い希望性を探ろうとしているからです。

 ここまで言えば罵声が飛んできそうですが、そういう方たちは通説派の学芸員などが言うご追従説を聞いて信じ込んでいれば良いだけで、このような方々には真実の発掘など決してできないはずなのです。

 まず、江戸期の藩政時代に百姓には姓が無かったなどと平然と語る方々がおられますが、仮に百姓身分だったとしても本家が武家の場合は分家は百姓身分で無姓になっていたのですし、そもそも滅ぼされ敗残した武家はお家再興を目指し、荒野の開拓を行いながらも由緒正しき姓を持ち続けた人々もいたのです。

 つまり、幕藩体制下では、百姓は氏姓を持たない、使わない事にしていただけだったのです。

 勿論、最下層に落とされた土地を持たない小作人も居たでしょうし、逃散した人々も居たでしょう。

 だからと言って明治以前の百姓が一切姓を持っていなかったなどと考えるのは早計過ぎるように思います。

 ただ、我々が考える34世紀の背振を挟んだ佐賀、福岡のかなりの有力な人々に共通する姓氏を探ろうとすることは無謀と言われる事には理がある訳で、暴走は承知の議論なのです。

 仮に河上 猛の一族が早良に移動したとしましょう。

 彼らは追放された猛に近い一族(首謀者)だけで移動しているはずで、佐賀県の旧大和町一帯にこの地と繋がりのある人々がいたはずで、娘や婿のやり取りは間断なく行われていたのではないかと思うのです。

 すると、明治になり大っぴらに氏姓を主張できるようになったならば、山を挟んでどの姓を採用するかは同族付き合いの中で、自ずと決められたのではないかとまでは言えそうなのです。

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そこで、昭和61年にこの壽和会に名を連ねられた30人ほどの長老の方々の姓が佐賀とどれぐらいの対応を示しているかを見てみたいと思います。

 まず、筆頭の大神 様です。河上 猛の母君である奈留多姫とは明らかに阿蘇系の人物です。

 百嶋由一郎最終神代系譜で考えても、阿蘇の初代統領とされる惟人の妹か姉なのですから、後の藤原が阿蘇家を起点としている事を考えれば、有力な家系である事は言うまでもないでしょう。

 また、大神一族は、阿蘇大蛇伝説で知られる豊後大野の緒方三郎惟栄(緒方、尾形、大神…)に繋がり、宇佐神宮焼討ちなど「平家物語」にもその名を轟かす豪族でもあったのです。

 ちなみに荒城の月の岡城も本来は大神城であり、義経を招き入れ、頼朝と一戦やらかそうとした剛の者だったのです。

 当然、佐賀にも大神姓はあり、大賀と合わせ、有力家系である事は言うまでもありません。

 それほど多くはありませんが、早良の真南の様な場所に大神さんはおられるのです。

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大蛇の末裔という伝説をもつ大神(おおが)惟基の子孫です。
惟基は大和国大神(おおみわ)氏が下向し土着したとも、宇佐八幡宮創始に関わった
宇佐大神(おおが)氏ともいい、代々大野郡の郡司であったと考えられています。

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平氏の大宰府掌握後、惟栄は重盛(清盛嫡男)と主従関係を結び、緒方荘の荘官から豊後武士団の棟梁となり、優れた指導力を発揮しますが、九州に支配力を強めていた平家に反発し、頼朝挙兵後、重盛の家人でありながら兵を挙げ、反平氏の中心的人物として目覚ましい活躍をしました。
 緒方荘は祖母山北西一帯にあり、中世には108村を併せ持つ大領でした。

平家物語・義経伝説の史跡を巡る

次に、武田姓を考えましょう。関東武士団武蔵7党などにも武田があるのですが、古くは熊本の小国にいたと思っています。海援隊の武田鉄矢氏のご母堂は北里柴三郎の生家の北側の領地(南小国とも)を持つ大地主だったと聴いており、家勢を失った後、母君が博多に出て来て育てられたため海援隊では武田姓を名乗ったとされているので、甲斐姓も含め、甲信に覇を競った武田氏も熊本起源ではないかと考えています(これは何れ別稿としなければなりませんね)。この武田の一族は最近河上 猛の一族とは異なると思うようになりましたので、これ以上追及はしません。

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最も興味深いのは、槙 姓です。

 槙とは古くは有力者の棺をこさえる素材であり、それだけで身の引き締まる思いのする樹種(高野槙)ですが、この槙姓を持つ方が、早良の南に大量に居られるのです。

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真っ赤になっており50家を拾えますが、佐賀市から神埼市そして吉野ヶ里町と古代でも要地に分布されておられ、その意味で、ヤマトタケルの伝承の残る 白角折(オシトリ)神社 佐賀県神埼市の神社がある一帯でもあり、非常に興味深いところです。

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小田姓も佐賀にはたくさんお住まいですが、明らかに系統が異なると思われる真鍋姓も佐賀県には多いのです。有名な那珂川町(当時)の真鍋大覚(九州帝国大学物理学)の真鍋姓です。

 真鍋大覚は自らイスラエル系と自ら言っていた様ですし、ここでは対象外かも知れません。

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全てを取り上げても良いのですが、ここらでやめておきましょう。

 諏訪神社の氏子の壽和会の方々は、福岡市の中心部で戸建て住宅をお持ちなのですから、それこそ地方の人々から見れば垂涎の的ともいえる資産家の方々ですから、1700年の時を経て平安を得たのでしょうか?

 探索はまだまだ続きます。

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