2022年09月15日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 287(後) 佃 収 和水町講演 ➊ と、天武王権と長屋親王木簡問題

新ひぼろぎ逍遥 スポット 287(後) 佃 収 和水町講演 ➊ と、天武王権と長屋親王木簡問題

   20220708

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


新「日本の古代史」(佃説)

はじめに

これまで書いてきた論文を年代順に並べて『新「日本の古代史」(上)(中)(下)』として出版した。
しかし、各論文は独立して書いている。そのため「歴史の流れ」を読み取るのは難しいという声があった。
今年(20204)、二日間(夜まで延長有り)の講演をすることになった。講演資料はほぼ完成した。ところが新型コロナ・ウィルスのために中止(延期)になった。そこで講演資料を基に「日本通史」を書くことにした。講演にも使えるように考慮しながら「歴史の流れ」を理解してもらうことに重点を置き「通史」を書いた。
私の「古代史」は従来の「日本史」とはまったく異なる。それを明確にするために「(佃説)」を挿入した。
新しい「日本の古代史」を「通史」として理解していただければ幸いである。
(概要篇)ではあるが、次の二点については詳細に記述した。
一つは、「倭人(天氏)」の渡来(天孫降臨)である。
「倭人」(天氏)」の渡来により、「日本人」が誕生する。「現代日本人」のDNAの8割は「倭人」(天氏)」のDNAである(本文)。
「倭人」(天氏)」は「日本語」をもたらした。「日本」の始まりである。
そのため「倭人(天氏)」の「誕生」から「渡来ルート」、「渡来地」について詳述した。
もう一つは、「邪馬壹国」問題である。「邪馬壹国」関連の本は毎年出版されている。「邪馬壹国」問題は未解決になっている。国民の関心も高い。
そのため「邪馬壹国」について、その争点、問題点等をほぼ網羅するように「邪馬壹国の誕生」、「邪馬壹国への行程」、「邪馬壹国と伊都国の争い」、「邪馬壹国と狗奴国の争い」、「邪馬壹国の終焉」等について詳述した。未解決問題は無いと考えている。
図表は各章の最後に掲載している。
本文に「××号」とあるのは巻末の【参考文献】を参照されたし。2020年 7



202265日(日)13001700 60人規模で佃 収 講演を北九州市(戸畑区)でも行います

会場   福岡県北九州市戸畑区汐井町16 ウェルとばた 8F JR鹿児島本線 戸畑駅 隣

講演者 『古代文化を考える』(同人誌)主宰 佃 収 (著書多数) 参加費1000

テーマ 熊本は「貴国から高市天皇」でした北九州では、「日本人の起源」〜「倭の五王」まで

テキストとして「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)1200円当日:40部限定販売

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佃 収氏の講演会を長年に亘って実施されてこられた事だけでも敬服に値しますが、菊水史談会の功績は何と言っても「納音(ナッチン)九州年号対応表」(和水町の旧庄屋の住居に保管されていた古文書の一部)の確保でした。これは長年に亘って佃 収先生の著書を隈なく読み込んで来られた前垣事務局長でなければ発見できなかった功績であり、あれほどの実例のある「九州年号」を認めない教育委員会や学芸員(通説が嫌がる九州王朝実在の証拠だからです)が如何に無視しようとも歴史的業績は消え去る事は無いでしょう。「九州年号」には「二中歴」を始めとして「海東諸国紀」「如是院年代記」「本朝皇代記」「和漢春秋暦」「興福寺年代記」「王代年代記」…など実際には20以上の実用例があり、明らかに近畿大和政権以前に実在し使用されていた言わば九州王朝を現在に伝える物証なのです。

ただ、この幾つかに分かれた年号群は大半は対応するも、初年号が幾つかのもので「継体」「善記」と異なるとか、使用期間が違うと言った点があり、初歩的な議論では磐井の乱で九州王朝を滅ぼしたはずの継体(福井県から出てきたなどと言われる)の名が付された「継体」が何故九州年号と言えるのかと言った話まで出ていたのでした。

そこでお考え頂きたいのですが、この「九州年号」に幾つかの系統があり、それが九州王朝の分裂と関係があるのではないかと指摘されたのが佃 収先生でした。皆さんも後醍醐天皇と南北朝騒乱期の事は良くご存じの事と思います。近畿大和朝廷の延長上の内戦時においても従来の年号は使用されており、南北朝期の60年間は互いに別々の年号を創っていたのです。後に南朝の後亀山天皇は、統合を受諾し三種の神器が後小松天皇の御所に移され南北朝分裂が終わり、この時南朝の年号が廃止しされ北朝の年号「明徳」が存続したのでした。これについて古代史の復元シリーズ 5》「倭の五王と磐井の乱」を読まれるべきですが、新著の早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)第2二部第1章物部麁鹿火政権(佃説)以下第2章阿毎王権(俀国)、第3章豊王権、第4章上宮王権、第5章天武王権、第6高市天皇…をお読みください。実に素晴らしいクレバーな解析です。

古田武彦が鬼籍に入り、続く多くの研究者も続き九州王朝論を正しいと考える研究者は、佃 収氏と僅かな方しか残っておらず、何れ、九州王朝って何のことだと言われる時代が目前に来ています。

かつては九州王朝を意識した研究会もあったのですが、研究者を失い村興し町興し果ては世界遺産登録に浮かれ、通説派の教育委員会関係者や学芸員のご高説を賜り賛意を表する状況では早晩九州王朝研究も消失するでしょう。

中には自称九州王朝論の研究者と称すも、行政の芸人に成り下がる方々も出るようではさぞかし古田武彦も草葉の陰から嘆いているでしょう。佃収先生は九州王朝論の主流派である古田史学などから独立し自らの研究を続けて来られました。それだけでも敬服に値しますが、九州のフィールド・ワークを徹底して続けて来られました。現在そうした研究者を見ません。かつては「法隆寺は移築された」を書かれた米田良三氏も居たのですが氏も鬼籍に…。

現在、当会は熊本、福岡(福岡、太宰府、久留米)、佐賀、大分の4県で研究機、講演会、勉強会と合わせ現場でのフィールド・ワークも続けています。関心をお持ちの方は、ブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」外のトップ画面スケジュール表をご覧ください。また、九州内だけでも当会メンバーによるブログ(百嶋由一郎神社考古学に触発された)が十数名により20本(全国レベルでも356本)が公開されています。

太宰府地名研究会+百嶋由一郎神社考古学研究会(文責:古川)

事務局 中島 茂 09052892994 (通信不能時連絡 古川 清久  090-62983294


今回、延10時間に及ぶ佃先生の講演を聴き非常に感銘を受けましたので、CD二枚組で配布を進めています。もう二十回は聴いたと思いますが、特にカー・ステレオで聴いていると雑念がなく頭に吸い込まれて行きます。

MP3方式で作成しておりお送りすることもできますが、パソコン、ここ10年ぐらいのカー・ステレオ、ソニーなど数社のCDプレイヤーをお持ちの場合はお聴き頂くことができます。

今般、九州王朝論の心臓部ともいえる貴国、倭の五王政権、大彦の渡来と言った時期から物部麁鹿火王権、阿毎王権(俀国)辺りまでを最初の70分ほどで一気にお話になりました。

これについては、随時、ユーチューブにアップしたいと考えています。

次に、豊王権、上宮王権、天武王権、高市天皇…と進みますが、これについては、ネット上の日本古代史の復元というサイトから早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)によりPDF画像で論文をお読み頂くことをお勧めします。

九州年号には幾つかの系統があり、九州王朝という単独の政権が、仮に卑弥呼以降、単独の王権が8世紀初頭まで存続していたといった理解をされている方が大半ではないかと思いますが、佃収説では、そのような単純な理解はされておらず、前述した王権が入れ替わりながら、年号に変更が加わり推移しているという仮説を提出されているのです。

南北朝争乱期に於いても、分裂期には、北朝年号、南朝年号(吉野)が各々異なった年号を使用していることと対応するのです。

このような最先端の議論に結びつくのであり、是非ともお聴きいただきたいと思います。

尚、冒頭で、天武天皇の子である高市王子の子(天武の孫)の長屋親王の木簡問題に触れておられますので、佃講演と併せ「のんびりと古代史」お読み頂きたいと思います(以下)。


「長屋親王宮木簡」への雑感  2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理 20

【東野治之『続日本紀』と木簡を検索してください(他にもありますが一例として紹介します)。

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無題.png勝手ながら「のんびりと古代史」様から引用させて頂きます。

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「長屋親王宮木簡」への雑感  2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理

無題.png【東野治之『続日本紀』と木簡

 新日本古典文学大系月報3(1989年3月、第12巻:続日本紀一付録)の冒頭に東野治之氏の『続日本紀』と木簡と題された小論が掲載されている。この中で東野氏は、「(日本古代史の研究には)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。正史の記述は、ある年代を隔て、公的な制約のもとに書かれているからである。」とした後で、長屋王家木簡出土についての見解を記している。

「長屋王は高市皇子の子で、祖父は天武天皇、文武天皇や元正天皇とはいとこ同士で、やはりいとこで草壁皇太子の娘、吉備内親王を娶っている。その長屋王が、神亀六年(719)二月、謀反を計っているとして自殺させられる事件が起こった。事件の背後には、王が皇位継承者となることを恐れた藤原氏側の謀略があったとされている。それが事実であったことは、『続日本紀』天平十年七月条の記事からも明らかである。しかし長屋王が全く悲運の人であったのかどうか、今回の木簡は、そのような見方に再検討を迫るものといえる。」 

 東野氏は論点をずらして長屋王が悲運の人であったことを見直さなくてはならないと木簡の意義を主張している。しかし、この木簡に「長屋親王」と記されていたからといって、東野氏が言うように、「長屋王が全く悲運の人であったのかどうか」とは全く無関係である。「親王」と呼ばれていようがいまいが、後に濡れ衣であることが判明する謀反の罪で自殺を強要され家族とともに自害したと記される「長屋親王」が悲運の人であることに変わりはない。

 長屋王の出自や経歴を紹介した後で主題である木簡の話題に移る。「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡についての説明では、「律令制下では、天皇の子であるか孫であるかは明確に区別があった。ところがこの木簡では、長屋王が親王と呼ばれている。すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と述べている。

 「(公的な制約のもとに書かれている)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。」と客観的な立ち位置に自ら立っていると宣言しておきながら、「長屋親王宮鮑大贄十編」を前にして、『続日本紀』の記述に合わせて、長屋王が親王と呼ばれていたのは「すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と論点を巧妙にずらしているのである。 

【一次史料>二次史料が前提】

 このように解釈すればどのような発見があっても既成概念に合わせるように論を組み立てることは可能であろう。研究者が前提としなければならないのは、史実を追究するならば、後世の人が何らかの意図を以て作成した『続日本紀』よりも何の意図もなしに1300年近く地中に眠っていて偶然発掘された木簡の記述をまず信用しなければならない。『続日本紀』は正史とはいえども、政権の意図を反映するために編纂された二次史料であるが、「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡は長屋王を後世の人に長屋親王であると思わせるなどの意図とは全く関係なく捨てられていた一次史料なのである。一次史料に記された内容を史実として歴史を組み立て直すことが必要とされるのではないだろうか。

 東野氏のように新史料を真正面から受け止めずに論点をずらして解釈すれば、これまでの学会の通説を守ることはできても学問が追求しなければならない真実へ近づくことは永遠にできそうもない。当代一流といわれる研究者の30年以上前の論文を俎上にあげて批判したが、最近になっても学会で「高市天皇論」が議論されたということを聞かないので依然として前掲の東野論文の主張が主流となっているのではと危惧している。勇気をもって自説を展開する若手研究者の出現を期待したい。

これを御用学者と言わずして誰をそう言いいましょうか…こんなものは学者、研究者ではない!(古川)

第一級の一次資料を無視し、自説を優先するのですから酷いですね。彼は、自らの著書で親王は普通の皇子とか王ではない、皇位継承権があるから親王なのだ…と書いているのです。

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新ひぼろぎ逍遥 スポット 287(前) 佃 収 和水町講演 ➊ と、天武王権と長屋親王木簡問題

新ひぼろぎ逍遥 スポット 287(前) 佃 収 和水町講演 ➊ と、天武王権と長屋親王木簡問題

   20220708

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


当研究会+丁巳歴史塾は、熊本県和水町の菊水史談会と提携し、埼玉県在住(熊本県玉名市出身)の佃収先生をお呼びして延べ10時間に及ぶ和水町講演〜北九州市戸畑講演を行いました。

菊水史談会は、元々、先生が玉名市のご出身であったことから十数年前から佃先生の講演会に取り組んでこられました。菊水史談会は10数年前から佃研究に取り組んでこられ最盛時は180人規模で講演会も行われていました。正に、熊本県でも民間研究団体の最大業績と言えるでしょう。

当方も、福岡県久留米市や久留米大学などで佃 講演に取り組みましたが、菊水史談会のご努力には敬意を表しています。

巷の史談会、郷土史会が、どこかで聞いた風な通説派のインチキ話を、教育委員会関係者とか学芸員から拝聴し、ただただ平伏し、翌日には忘れてしまっているという有様である事を考えれば、古田武彦九州王朝論を遥かに抜き去っている佃 収 九州王朝論 を支えて頂いた事には、十分な賛意を表したいと思うものです。

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しかし、同会も高齢化と、若手の新規参入が堪え、何れは消失への道へと進むものと思われ、今後の佃収九州王朝論を継承は無理としても、保持し、拡散する責務を担わされた事になります。

幸いなことに、我々のグループにはまだまだ若い熱心な研究者が集まっており、生涯を掛け、一生を費やして研究を続けてこられた佃先生や百嶋先生の業績を後世に残し引き継ぐ作業を行う事が出来ればと、新たな決意をしているところです。

多くの、史談会、郷土史会、地名研究会…が、自らの研究を放棄し、ただの親睦会に堕落しつつ、村興し、町興し、邪馬台国シンポジウム…といった、文化庁の天下りの腐臭が漂ようような(全国に邪馬台国の候補地は百か所もあります…お前ら馬鹿か!)インチキ文化運動、果ては、世界遺産登録へと進むと、日本文化の崩壊へと突き進むとしか思えず、ただのフィクションに過ぎない、韓国、中国の歴史ファンタジーと同列以下に堕落して行くことでしょう。

我々だけはそうした底なし沼には近づかないつもりですが、何時の時代にもさもしい人間はいるもので、更に戒めるべきと思うばかりです。

ともあれ、今回、熊本県和水町40人(529日の6時間)〜北九州市戸畑区60人(65日の4時間)での連続講演を行うことが出来、何とか述べ100人の講演会を行うことが出来ました。

先生のご年齢を考えると、今後も年に一度と言わずお話をお聴きしたいと思っているのですが、何としても、武漢肺炎ウイルスによる3年間のブランクは悲しいばかりです。

我々は、むしろ、これまで以上に、福岡(北九州、久留米)、熊本、大分、佐賀での小規模集会、分散集会、トレッキングを継続していたことから、勢力を維持し、むしろ拡大をさえ見ていますが、熱心な若手参集者を得ており、今後もこの傾向は継続するものと考えています。

しかし、国家的規模での思考停止状態に追い込んだ行政の無策には怒りを禁じえないばかりで、そればかりか、数十兆(6070)もの金を外国資本に毟り取られているそうですから(ワクチン6億回分)子供にまで無理やり摂取させようとするのでしょう。ウクライナ支援+復興支援で10兆円…これも一部の官僚どもだけにキックバックが送られているはずなのです。日本は事実上、全世界の破産国家のATMの役割をさせられている事になっているのです。話が逸れましたが、実験的に 佃 収 講演の音声ドキュメントをオンエアしたいと考え、本ブログとYouTube音声とを結合させたメディアを実行したいと思います。

熊本神代史研究会トレッキング(太宰府地名研究会)202267月のスケジュール

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 穴森神社 カーナビ検索 大分県竹田市神原1432番地 祭神:穴森大明神 嫗嶽大明神とも…延喜式内社 豊後國直入郡 健男霜凝日子神社とも…   ※ お賽銭は各自でご準備下さい(オープン参加)。

➋ 健男霜凝日子(タケオシモゴリヒコ)神社神幸所(里宮) カーナビ検索竹田市神原2447

➌ 宇田姫神社 カーナビ検索 豊後大野市清川町三玉1493 御祭神   華ノ本姫

➍ 岡 城址 カーナビ検索大分県竹田市竹田2889                  お杖代09062983254(古川)

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今回、佃収先生の熊本(和水町)講演が急遽決まりました。このため、準備不足ながら8日間に2度もの講演会を行うことになりました。日々追われる皆様にはご迷惑をお掛けしますが、逆に言えば最良かつ念願の講演者のお二人をお迎えすることになります。時間に余裕がなく宣伝できませんが最大の取り組みを行います。

皆さん宗像市に何故 かのこの里、かのこゆり と二つもの施設(道の駅)があるかお分かりになりますか?

無題.pngこの花は市杵島姫が愛した花との伝承があるのですが、彼女が幼少期を過ごしたと思われる飯塚市鹿毛馬の厳島神社の鎮座地が田島(宗像の辺津宮)でその隣接する大字が佐與(サヨ)なのです。ここに住んでいたから別名が作用姫(兵庫の佐用町佐用津姫神社)になっているのですが、これが古代中国語ではユリを意味していたようなのです。赤間、東郷は市杵島姫の実在を思わせます。そしてこの花は鹿児島県いちき串木野市(市杵島姫が地名に反映していますね)、薩摩川内市の沖に浮ぶ甑島が列島でも最大の群生地なのです。百嶋神社考古学では阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミと市杵島姫とは夫婦で、先生からも神武巡行に随行し甲府から戻り、薩摩の阿多の村主(スグリ)になっていると聴いています。これが甲府の天津司神社の舞として残り、徳島の二つの天都賀佐比古神社として痕跡をとどめているのです。してみると甑島に鹿島町があったことも分かってきます。の鹿島も草部吉見=ヒコヤイミミ(藤原氏の祖神)なのです。彼女も共に。

ここで、ネット上の無題.pngから佃先生の簡略化された通史の目次を紹介します。

目 次

第1部 倭人の誕生から「倭の五王」まで ( )内はページ

第1章 人類の誕生と移動(3)

DNAと遺伝子(3)

ホモ・サピエンスの誕生(4)

出アフリカ(Y染色体遺伝子による)(4)

第2章 倭人の誕生(佃説)(7)

北方モンゴロイドの移動(約18000年前)(7)

無題.png満州人・朝鮮人・日本人の祖先(7)

第3章 倭人(天氏)の移動(9)

呉の倭人(9)

呉越の戦いと東表の倭人(10)

山東省の倭人(天氏)(11)

第4章 倭人(天氏)と箕子朝鮮(佃説)(13)

箕子朝鮮(13)

倭人(天氏)の移動(14)

第5章 倭人「卑弥氏」(佃説)(18)

倭人(卑弥氏)とは(18)

「倭人(卑弥氏)」の移動(19)

第6章 中国東北地方の古代史(周〜戦国時代)(22)

燕と箕子朝鮮の戦い(22)

古代中国王朝の領域(23)

「燕の長城」と「万里の長城」(23)

箕子朝鮮と大凌河(25)

「倭人(天氏)」と「箕子朝鮮」の関係(26)

第7章 中国東北時代の古代史(前漢時代)(31)

前漢時代の中国東北地方(31)

漢と衛氏朝鮮(32)

第8章 「倭人(天氏)」と高天原(佃説)(38)

天氏と卑弥氏の出会い(38)

天氏による「高天原」の建国(39)

高天原の時代(41)

第9章 『古事記』『日本書紀』の「天孫降臨」(44)

『日本書紀』の「天孫降臨」(44)

『古事記』の「天孫降臨」(45)

『古事記』『日本書紀』の「天孫降臨」の問題点(47)

10章 「倭人(天氏)」の移住(佃説)(48)

高天原の危機(48)

高天原からの移住の決意(49)

筑紫へ移住(天孫降臨)(49)

11章 「倭人(天氏)の渡来」の[検証](52)

吉武高木遺跡(52)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(須玖遺跡)(54)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(吉野ヶ里遺跡)(56)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(考古学から)(57)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(人類学より)(61)

12章 伊都国と神都(佃説)(67)

伊都国の樹立(67)

伊都国の発展(68)

13章 「卑弥氏」の渡来(第1回目)(佃説)(70)

「倭城」からの逃亡(第1回目)(70)

「倭人(卑弥氏)」は朝鮮半島へ(71)

朝鮮半島の「倭国」(71)

弥生時代後期と委奴国の樹立(72)

「委奴国」と金印(74)

不彌国(75)

伊都国王権(76)

14章 「後漢時代」の倭(佃説)(78)

公孫氏と「倭」(78)

15章 「卑弥氏」の渡来(第2回目)(佃説)(80)

「倭人国」と「倭国」(80)

伊都国王権と倭国の戦い(第1回)(81)

「倭国(邪馬壹国)」の位置(佃説)(82)

「邪馬壹国」と「狗奴国」(87)

北部九州「倭国」の樹立(88)

公孫氏の滅亡と「景初二年」問題(89)

16章 倭国と伊都国、狗奴国の戦い(佃説)(94)

倭国と狗奴国の戦い(1回目)(94)

伊都国王権と倭国の戦い(95)

「倭国」と「狗奴国」の戦い(2回目)(96)

17章 神武東征(逃亡)(佃説)(98)

伊都国と倭国の戦い(98)

神武東征のルート(99)

18章 崇神天皇(佃説)(105)

崇神天皇の渡来(105)

19章 貴国の樹立(佃説)(111)

熊襲征伐(111)

20章 「倭の五王」の倭国(佃説)(116)

倭国の樹立(116)

「倭の五王」による全国支配(116)

「倭の五王」による全国支配の検証(117)

「倭の五王」と年号(119)

21章 「第1部」のおわりに(122)

「大彦」の子孫(122)

「天氏」と「卑弥氏」の渡来ルートとDNA(122)

「現代日本人」の形成(123)

第2部 「磐井の乱」から「高市天皇」まで(127)

1章 物部麁鹿火王権(佃説)(129)

「磐井の乱」(129)

「磐井の乱」の年代(130)

稲荷山古墳(131)

「辛亥年=471年」説(定説)の根拠(134)

「定説」の検討(135)

「辛亥年」=「531年」(佃説)(136)

「礫槨」の年代(137)

物部氏と物部麁鹿火(139)

物部麁鹿火王権とは(佃説)(140)

物部麁鹿火王権の本拠地(佃説)(141)

仏教伝来(佃説)(142)

第2章 阿毎王権(俀国)(佃説)(146)

新王権(146)

新王権の本拠地(147)

新王権=「俀国」(佃説)(148)

阿毎王権と百済救援(151)

阿毎王権と元興寺(152)

阿毎王権と蘇我氏(佃説)(153)

阿毎王権と日羅事件(佃説)(154)

第3章 豊王権(佃説)(158)

用明天皇(158)

「欽明天皇」への疑問(159)

用明天皇の本拠地(160)

用明天皇の殺害(163)

用明天皇の系譜(164)

推古天皇(165)

豊王権と磯長(167)

第4章 上宮王権(佃説)(170)

上宮法皇(170)

上宮王権(171)

上宮王家(174)

上宮王権の本拠地(176)

舒明天皇(177)

第5章 天武王権(佃説)(181)

「天武王権」の樹立(181)

天武天皇と「天武天皇の父」(183)

天武王権の本拠地(184)

『日本書紀』の記す百済救援(185)

天武天皇と「百済救援」(187)

朝倉宮(189)

天武天皇と「白村江の戦い」(192)

天武天皇による西日本の支配(193)

「壬申の乱」(193)

第6章 高市天皇(佃説)(199)

高市天皇とは(199)

「高市天皇紀」(200)

藤原京の造営(200)

第3部 「王権乱立」の時代(佃説)(203)

第1章 豊王権の樹立(佃説)(205)

豊王権の独立(205)

阿毎王権と豊王権の独立問題(1)(206)

阿毎王権と豊王権の独立問題(2)(206)

第2章 上宮王権と豊王権(佃説)(208)

上宮王権と蘇我氏(208)

上宮王権の独立(209)

上宮王権と阿毎王権(210)

豊王権の再興(211)

第3章 阿毎王権から天武王権へ(佃説)(212)

「天武王権」の樹立(212)

第4章 上宮王権内の争乱(佃説)(214)

上宮王権と蘇我氏(214)

「豊王権」の逃亡(215)

「豊王権」の滅亡(216)

第5章 天武王権と上宮王権(佃説)(218)

天武王権は上宮王権を滅ぼす(218)

上宮王権の逃亡(218)

「上宮王権」の滅亡時期(219)

「壬申の乱」の深層(221)


第4部 「古代史」の改竄(223)

第1章 天武天皇による「古代史の捏造」(佃説)(225)

「万世一系」の系譜(225)

第2章 『日本紀』『日本書紀』『続日本紀』の成立(佃説)(227)

『日本紀』の成立(227)

『日本書紀』の成立(228)

『日本書紀』と『続日本紀』の成立時期(228)

第3章 『日本紀』を『日本書紀』に改竄(佃説)(230)

『日本紀』改竄の理由(230)

『日本紀』改竄の方法(1)(230)

『日本紀』改竄の方法(2)(231)

『日本紀』改竄の方法(3)(232)

講演では冒頭で長屋親王木簡について話しています。名指しはされていませんがネット上にはこの問題に対して多くの情報がアップされており、東野氏の事であろうとすいていできます。恥ずかしいですね。

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906 続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? 

906 続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? 

20220212

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この間、前ビアヘロ版194で大神一族を穴森神社〜宇田姫神社に関わる大蛇伝説から触れてきましたが、もう少し話を掘り下げたいと思います。

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思えば、この三つ鱗紋に遭遇したのは二十年以上前、鹿児島県の曽於郡(現曽於市)で天子宮調査を行っている時でした。

 まだ神社については、駆け出しも駆け出しで、全く理解できなかったのですが、今、改めて考えれば大神一族の政治情勢に翻弄される宿命のようなものも感じ少し見えてくるものもあります。それはともあれ、この大神一族の突出した戦闘性、敢闘精神、英雄性には驚かされます。


大神惟基 『平家物語』や『源平盛衰記』などに記されている、祖母山大明神の神体である蛇との蛇神婚伝説で殊に有名である。

平家物語には、豊後国国司の刑部卿藤原頼輔とその息子で代官の藤原頼経が、京から、平氏一族を匿う九州の武家らを源氏に従わせよとの旨の命を受け、これを緒方惟義に下命した件があるが、ここで緒方の先祖「あかがり大太」のことが語られている。

すなわち、豊後国の山里に住んでいた娘の許に、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。母に唆されて娘が男の狩衣に糸を通した針を刺し、その後をつけると、男は祖母山の麓の岩穴へと入っていく。娘が姿を見せるように請うと、男はついに大蛇の本身を現す。そして、狩衣に刺したと思った針は、大蛇の喉元に刺さっており、大蛇は、生まれてくる子供は男児で、武芸で九州二島に並ぶ者はないであろうと告げ、息絶える。やがて生まれた子は、大蛇が言うとおりの男児で、祖父から名を取って大太と名付けられた。成長が早く7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太」と呼ばれたという。件の大蛇は、日向国にあがめられ給える高知尾高千穂のことの明神の神体なり。この緒方の三郎は、あかがり大太には五代の孫なり。           −平家物語 巻第八

平家物語は作者が不明であるが、このことから緒方惟義(栄)の五代前の祖とされる大神惟基が、あかがり大太にあたるとされている。

大分県竹田市の健男霜凝日子神社(穴森神社)には、この大蛇が住んでいたと伝えられる岩穴がある。

出生伝説は有名であるが、惟基自身の生涯については詳細はわかっていない。

宇佐八幡宮を開いた、大神比義が豊後大神氏の始祖となったとする説が有力である

他の有力説としては、宇佐神宮の宮司であった宇佐大神氏に出自を求めるものもある。

豊後国海部郡を本拠とし、藤原純友(893年(寛平5))? - 941年(天慶4)))の副将であった佐伯惟基(是基)を惟基と同人物として擬する説もあるが、年代上問題があるとされる。

神婚伝説のためか、神社の創建や再興との関わりが伝えられている。熊本県人吉市にある青井阿蘇神社は、大同元年(806年)、大神惟基が阿蘇神社の祭神12柱のうち3柱を分祀して創建したと伝えられる。

また、宮崎県西臼杵郡高千穂町にある天岩戸神社は、社伝によると、弘仁3年(812年)に大神惟基によって再興されたとされる。              ウィキペディア(Wikipedia20220212 12:05


緒方惟栄尾形(緒方) 三郎 惟栄(おがた さぶろう これよし、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領した。通称は三郎。諱は惟義、惟能とも。大神比義の子孫で、臼杵惟隆の弟。

『平家物語』に登場し、その出生は地元豪族の姫と蛇神の子であるなどの伝説に彩られている。

宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ。治承4年(1180年)の源頼朝挙兵後、養和元年(1181年)、臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。寿永2年(1183年)に平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたためこれと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った。

こうした緒方一族の寝返りによって源氏方の九州統治が進んだとされる。

また惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り佐伯荘に住んだとも、途中病死したとも伝えられる。                ウィキペディア(Wikipedia20220212 12:17


 元々九州は平家方が圧倒的な多数派であり、平家滅亡への大きな政治情勢の変化に連動し、宇佐神宮が平家の拠点となり始めていたことから旧宮司家でもあった大神比義の流れを汲む大神氏が九州全域を制圧しようと動き宇佐神宮焼き討ちという衝撃的な手段に打って出たようなのです。

 「平家物語」「源平盛衰記」「義經記」「吾妻鏡」…とかなり異なった事を伝えており、義経の最後に関わる部分だけでも全く異なる記述があり、良く判らない部分も多のです。

 ただ、義経は静との間に子をもうけており、静は宮地嶽神社のエリアの福津市で義経の子を産み、元々豊後の臼杵の地頭の娘であったことから、その子は地頭職を引き継いでいるという確度の高い話があります。これについても百嶋由一郎氏から聴いていた話でしたが、5年ほど前に静が使っていた井戸の現場も踏んでおり、某ブログにリポートを書いています。

 このため、以前から大神一族が後鳥羽上皇から肥前、筑前、豊前の支配権を義経に与えるとしたとする話と大神氏が連動していた可能性がある上に、義経を豊後の奥深く豊後竹田の難攻不落の巨城岡城(大神城)を築き頼朝政権とも一戦を構えようとした事はかなり納得がゆく話なのです。

 兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かも、船団は嵐に遭難…と全くもって不可思議です。

ただ、これもロマンチックな話で、政治の転換点で大きな役割を果たした一族だったとまでは言えるでしょう。通常、大神氏の祖とされる平安期前後の大神惟基が阿蘇大蛇伝説の発信源であり、大蛇の三つ鱗を家紋としたのもそこから始まっているとまでは言えそうです。

 ただ、惟基の「惟」が、阿蘇宮司家初代「惟人」の「惟」以外にはありえず、大神一族が阿蘇系であったことは間違いがないでしょう。してみると、河上 猛の 奈留田姫がその惟人の姉か妹であることから、阿蘇本流の人であったことは間違いが無いはずなのです。

 無題.pngそれが、後付けなのか本来のものかは確認しようもないのですが、河上 猛の母が奈留田姫である以上、同族もしくは、最低でも彼らが大神一族に近接する人々だったことは間違いがないように思います。

 後に中川氏により総石垣の天空の城が築かれますが、1185年頼朝に追われた義経を迎え入れるべく大神惟義(栄)が築いたとされます。

 では、ウガヤフキアエズ王朝論と大神氏との関係はどうなるのでしょうか?


祖母山大明神の正体とは? - ウガヤフキアエズ王朝実在論


彼らが持ち上げる大神一族がウガヤフキアエズの後裔氏族であったであろうことも疑いようがありません。

通常、神武皇兄五瀬命を義理の兄として扱うのは本物の神武天皇(藤原が捏造した神武僭称贈る崇神ではないと言う意味で…)の本物のお妃だったアイラツ姫(宮崎県日南市油津)の実兄が五瀬命だったからです。

 ここで話を戻しますが、何故、祖母山と呼ばれているのでしょうか?それは言うまでもなく誰かの祖母だからなのです。

 まったくでたらめな話なのですが、百歩譲ってその説を説明すれば、それは、彼らにとっての「神武天皇」の祖母が玉依姫(実は神玉依姫ではなく鴨玉依姫)だからなのだ!と言っているのです。ここには二重三重の誤りが転がっているのですが、真実が隠されてしまうと言いたい放題になってしまっているようで、ほとんど漫画です。

 これが宮崎のインチキ神話の底流に流れる錯誤というか偽装なのでしょう。

しかし、それに悪乗りするのが阿蘇系の後の藤原だったために嘘に嘘が輪を掛け闊歩したのでした。

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上下とも百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

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お分かりでしょうか?大幡主ことカミムスビの姉=ヤタガラスの伯母 様に当たる方なのです。

大体、ウガヤフキアエズの子が神武天皇=スサノオノミコトなどといった話を吹聴される方は何も分かっちゃいないと思われて間違いありません。では、再び話を戻しましょう。

 あくまでも百嶋由一郎によればですが、ご覧のとおり祖母山の神=豊玉姫は河上 猛にとって祖母である事は明らかですね。さらに言えば、ウガヤフキアエズ(当時久留米の高良山に居たのですが)は父にあたるのです(これについては久留米の高良大社にかろうじて残された「高良玉垂宮神秘書同紙背」を読まれるか、当会メンバーの「宮原誠一の神社見聞諜」or「事代主のブログ」氏が最近公開された2ブログ「神社を科学する」(神社探訪)トップ画面右下の宮神秘書 書き下しをお読みください)。

実際に祖母山山頂に祖母嶽(ソボタケ、ウバタケ)神社が置かれ、日子穂穂出見命(ヒコホホデミノミコト)とそのお妃である豊玉姫命(トヨタマヒメ)が祀られているのですが、祖母山の「祖母」の由来となる神武天皇の祖母、豊玉姫が祭られていますなどと解読されています。

この神武が本物の初代神武であるカムヤマトイワレヒコでないことは明らかで、藤原が拵えた神武僭称贈る崇神ことハツクニシラススメラミコト(黒枠)なのです。

この人物は久留米高良山にいたウガヤフキアエズと第9代扱いとなっている呉太伯の血を惹く本物の天皇高良玉垂命(ワカヤマトネコヒコ)開化天皇(后は仲哀死後の神功皇后=皇宮皇后命)の臣下でしかない阿蘇系の人物(阿蘇系の大山咋=具体的にはヒコヤイミミと市杵島姫との間に生まれた国造神社様)だったのです。ただ四道将軍を派遣し畿内を制圧した功績から初代神武は崇神だったと描いたのでした。

ただ、その阿蘇系が藤原氏として最後の勝利者となったことから、崇神を神武に見立てヒコホホデミやウガヤフキアエズが神武の父などというとんでもない大嘘をでっちあげてしまい、とうとう宮崎のインチキ神話がこさえられてしまったのでした。

 これが通説派の欠史8代架空説などと言うほとんど漫画でしかない歴史偽造がさらに増幅されてしまったのでした。

実に嘆かわしい限りであり、「古事記」の95パーセントが嘘という百嶋説に従うべきなのです。

 ネット上にはウガヤフキアエズ王朝複数のサイトが何本も出店されています。ここで敬意を表し特筆大書させていただきましょう。


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 まだ、容易にはご理解が得られないと思いますので、再度ご説明したいと思います。

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天神 地神 第一条


地神五代

 第一 天照大神 第二 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 第三 天津彦々瓊杵尊 第四 彦火々出見尊 第四 彦波瀲武鵜草葺不合尊

天照大神の御子は、四人いる。三人は天照大神より四代まで継がれた。 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊の御弟は 天津彦々瓊杵尊 此御弟は彦火々出見尊 此御弟を彦ソソリノ尊(火酢芹尊)という。このソソリノ尊は神代を継がずに海の遠くへ行った。


 ある時、彦火々出見尊が弟彦ソソリノ尊に釣針を借りて、兄の彦火々海原に出て、釣り針を海に入れた。アカメクチがこの釣針を食切る。御弟彦ソソリノ尊の持ち伝えの釣針なので、兄の彦火々出見尊、呆然と呆れていると塩土の翁と云うものが現れた。「吾皇子御徳を忘れず。今現れ来た。」その御礼をするため、ナメシカゴ(目無籠)と云うものに、彦火々出見尊を連れ奉り海中に招き入れると、ほどなく竜宮界に着いた。

 これまでの事を次第に竜王に云うと、「この世界に三年逗留すれば、その間に願いをかなえる。」言い、彦火々出見尊「そのとおりにいたします。」と答えた。

 竜王「諸々の魚寄せ集めよ」とアカメクチに伝えれば、しきりに寄せ集められ、諸々やってきたアカメクチのその中に、頬腫れて異なる口を開けてみれば、釣針見つかり、その釣針を密かに取り、竜宮へ納めた。竜宮の娘と彦火々出見尊へ渡し。その釣針を取り出し、彦火々出見尊へ渡すと。その釣針を受け取り、夫婦共に竜宮を出で、海上にほどなく上陸し、彼釣針を御弟彦ソソリノ尊へ返した。

 竜王の娘と彦火々出見尊は夫婦となり、やがて豊玉姫は妊婦となり臨月となった。産所を造ってほしいといわれ、鵜羽をもって葺いた。葺き合せている最中に出産給し。これにより、この御子の御名を彦波瀲武鵜草葺不合尊と呼んだ。豊玉姫とお避けるうちは百日我慢して御覧下さい、とお避けたが九十九日にあたるとき、彦火々尊、隙間よりご覧するに、豊玉姫は大蛇となって、七又の角の上に その御子を置き、したをもって子降っていたのを彦火々出見尊が覗きみたことにより豊玉姫は御子を捨て海中に帰っていった。

 嘆き悲しむ彦火々出見尊のところに豊玉姫の妹 玉依姫が竜宮よりあらわれ御子を養育した、御子を玉依姫と甥の彦波瀲武鵜草葺不合尊はやがて夫婦になった。

 彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神のことである。その御子住吉五神とは二人は女子 三人は男子 二人の女子の名前は表津少童命 中津少童命といった。男子の名は長男大祝先祖の名は表筒男 次男神武天皇の名は中筒男 三男高良大菩薩の名は底筒男と言った。…以下も続く


 冒頭から、海幸山幸神話が登場します。勿論、海幸は高千穂の三田井にいた高木大神(タカミムスビ)の声が届くような熊本県高森町草部の吉見神社に象徴されるヒコヤイミミその人であり、山幸彦はむしろ有明海〜不知火海沿岸一帯に居り、塩土老翁=大幡主(博多櫛田神社)=カミムスビと共に製塩を行っていたのです(ひぼろぎ逍遥ほかで何度も書いています…)。

メンバーの宮原誠一氏は、“「古事記」「日本書紀」はこの話(海幸、山幸の名は使われていません)を剽窃している”と、また、“海幸は山に、山幸=猿田彦=ニギハヤヒは海にいるという構造を記紀は誤読しているではないか”とまで言われましたが、私は、猿田彦神社の分布と猿田彦+塩土老翁による製塩地と同神社の分布から、塩を中心とする魚の干物などの海産物を山無題.pngに運び、現地での販路を仕切るのが海幸彦と呼ばれ、山のためつもの=鹿革、干し肉、果実、獣脂…など山の幸を海岸部で一手販売したことから、後世、山幸彦と呼ばれたのではないかと理解しています。

少し脇道に逸れましたが、冒頭の引用文にウガヤフキアエズが登場します。

百嶋由一郎氏は長年月の研究により「高良玉垂宮神秘書同紙背」に基づき100枚近い神代系譜を作成されています。

ウガヤフキアエズは豊後竹田とか豊後大野などに居たのではなく、久留米の高良山一帯に居たのです。

そればかりか、この宮神秘書にはヒコホホデミ=山幸彦と、豊玉彦=ヤタガラスと高木大神の長女豊秋ツ姫との間に生まれた豊玉姫の間に生まれたウガヤフキアエズが、母豊玉姫の子育て放棄によって代わりに送られてきた鴨玉依姫(ヤタガラスと櫛稲田姫:スサノウの後)と恋仲になり乳母(姥)に種を付けて生まれたのが安曇磯羅だったこともさらりと書いてあるのです。

このように宮神秘書は臨場感に溢れ、ウガヤフキアエズの実在性を疑う余地はないのですが、彼らが基盤としたのは九州王朝の本拠地である久留米から太宰府に掛けての一帯だったのです。

これに輪を掛け、宮崎のインチキ神話宜しく、神武天皇の父がウガヤフキアエズであったなどというとんでもない話が持ち出されるところに、今更ながらにこのインチキ神話の底の浅さを感じてしまうのです。

ウガヤフキアエズが神武天皇の父親だって!? 実は「日本書紀」「古事記」ともに事績は一切なく系譜だけで伝えているのです。

このことについて、ウキペディアに投稿された方も自問自答されています。


ウガヤフキアエズ 『記紀』に従えば鸕鶿草葺不合尊は天孫瓊瓊杵尊の孫となり、神武天皇は曾孫ということになる。しかし、天孫降臨に随行した者と神武東征の関係者の世代とを比較すると、中臣連、忌部首、久米直等の関係諸氏は必ず祖父と孫という世代関係にあり、皇室系譜だけ何故か一世代多いことになる。また、甥と叔母との異世代婚の例は稀で恒常的なものとは言い難く、その少数例においても母の同母妹との婚姻は一例も存在しない。このことから、鸕鶿草葺不合尊・神武天皇の系譜は騎馬系民族に多く見られる姉妹婚の伝承が転訛したもので、豊玉姫と玉依姫は共に彦火火出見尊と婚し、前者が鸕鶿草葺不合尊を、後者が神武天皇兄弟を生んだものと見る説がある。

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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20220219 12:55


この点、「高良玉垂宮神秘書」を根拠とする百嶋神社考古学には、全く異なる記述があり、ウガヤフキアエズの人間臭いリアルな表情が認められ、後世に伝えるべく残された聖典にこのような記述があることはむしろ真実だったとしか思えないのです。

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竜王の娘と彦火々出見尊は夫婦となり、やがて豊玉姫は妊婦となり臨月となった。産所を造ってほしいといわれ、鵜羽をもって葺いた。葺き合せている最中に出産給し。これにより、この御子の御名を彦波瀲武鵜草葺不合尊と呼んだ。豊玉姫とお避けるうちは百日我慢して御覧下さい、とお避けたが九十九日にあたるとき、彦火々尊、隙間よりご覧するに、豊玉姫は大蛇となって、七又の角の上に その御子を置き、したをもって子降っていたのを彦火々出見尊が覗きみたことにより豊玉姫は御子を捨て海中に帰っていった。

 嘆き悲しむ彦火々出見尊のところに豊玉姫の妹 玉依姫が竜宮よりあらわれ御子を養育した、御子を玉依姫と甥の彦波瀲武鵜草葺不合尊はやがて夫婦になった。

 彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神のことである。その御子住吉五神とは二人は女子 三人は男子 二人の女子の名前は表津少童命 中津少童命といった。男子の名は長男大祝先祖の名は表筒男 次男神武天皇の名は中筒男 三男高良大菩薩の名は底筒男と言った。

 皇代十五代神功皇后のとき、イルキ 日本に渡る、その時筑前四王寺の峰に上り虚空を祈った。〜中略〜明星天子の垂迹住吉明神表筒男七旬老翁と現れ、その御子嫡男日神垂迹表筒男、二人現れた 三男月神ノ垂迹底筒男〜中略〜三韓をせめ従えた 男月神ノ垂迹底筒男ノ尊 皇后と夫婦となり 嫡男の垂迹表筒男は皇后の御妹 豊姫と夫婦となった。男月神ノ垂迹底筒男 物部(阿部)保蓮という。別名 藤大臣 四人の皇子は仲哀天皇の皇子である、五人は藤大臣の子 合わせて九躰皇子という。妹豊姫は肥前国で河上明神となった。

 皇代十七代仁徳天皇の時、神功皇后崩御された、高良明神、豊姫、玄孫大臣 その御子大祝日往子尊 武内大臣 皇宮を共に出、武内大臣は因幡国に立ち残り、炉辺に靴を脱ぎ棄て、御衣を木の枝に掛け山の奥に入給う隠れるとこを知らすなり、残り四人は皇宮よりはるばる行き豊姫 玄孫大臣は肥前国に留まりて豊姫は河上大明神となった。

 九月十三日 大祝日往子尊はその山に還り 皇宮で三種の神器を振り分けた 勾玉は高良大明神が預かった。宝剣は神功皇后 鏡は玄孫大臣が預かった。大祝は職の名で本名は鏡山という。

 皇代四十代天武天皇の時 大祝道麻呂男子美理麻呂に御宣託があり斗藪(雑念をはらって心を一つに集めること。)し密かに来て 意見があった。「天下の万法は ついに仏海にする 当社の明神は一人としましょう仁王経文をもって御法心有 大祝へ大明神は譲り 大井御垂迹なので束帯とつかれ高良大明神を引き換えに高良大井と名乗るように」とおっしゃった。        「高良玉垂宮神秘書」(訳文)

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