2022年09月18日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 288 三度目の信濃、甲斐  7/31〜8/12の真夏の車中泊神社調査

新ひぼろぎ逍遥 スポット 288 三度目の信濃、甲斐  7/318/12の真夏の車中泊神社調査

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


34年前、宮崎県諸塚村での神楽の大祭に参加したことから、北九州を拠点とする丁巳歴史塾での講演〜提携へも話が進み、徐々に連携した活動が深まって行く事になりました。

その後、当会のメンバーには講演可能な研究者が多数おられることから、講演者の派遣要請があり、多くの講演者を送り込むことになりました。その数は12人以上になり、年に一回もお鉢が回ってこない状態になってきたのです。

結果、新たな舞台が出現したことから、スケジュールも過密となり、メンバーも相互に融合するようになって、実質、活動量が倍に跳ね上がることになりました。

折しも、武漢肺炎ウイルス蔓延により多くの研究団体(もうそれほどまともなものが残っておらず、ほとんどが村興し町興し世界遺産登録と言った通説派のもので自由な民間研究団体などとは言えないものですが)が活動を休止、規模縮小…へと行政指導宜しく右へ倣いをする中、我がグループだけは提携の前進のために休止することなく手を替え品を変え、小規模集会、小規模トレッキングなどを駆使して活動を増大させてきました。

その延長上に熊本〜福岡に繋ぐ九州王朝論者の雄 佃 収 氏 を埼玉県からお呼びし、延100人を動員する和水(熊本県玉名郡旧菊水村=菊水史談会主催)〜戸畑(北九州市戸畑区)講演も実現できたのでした。

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古田武彦を失った今日、九州王朝論を最先端で支える佃収先生の研究はこちらからお読みください


 ただ、前述の通りスケジュールが過密なってくると長距離での遠征調査が出来なくなり、ここ数年本州中央部などへの神社、寺院の調査に行きたいとの思いが積もるようになりました。

 そうしたなか、丁巳歴史塾から“8月はお盆ですからお休みにしましょう”との有難い提案を頂き(これで二ヶ月の時間が生じるのです)、渡りに船とばかりに信州最奥部の調査に向かうことを考えました。

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これはネットから拾った冬の八ヶ岳であまりにも暑いので納涼を込めて使わせていただきます


 佐久市から小諸市を東に上り詰めると皆さん憧れの山梨県清里村に入り、標高がその観光地周辺でも1400メートルに近づきます。

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この点、佐久市を調査の最終目的地とした2週間ほどの車中泊の旅を企画したのですが、長野県でも千曲市、上田市、小諸市、佐久市の4市を対象とした神社調査にはかねてより幾つかの目的がありました。

 それは実リポートを読まれるとして、この4市を東に登り詰めると右手に八ヶ岳が迫ってきます。

 ただ、今回は佐久の調査が終わると、開放感からまずは鹿教湯温泉に入りたいと松本方面に戻り、そこで一泊し、別ルートで甲府方面に向かったのですが、山中湖の友人の別荘での合流への日程調整のために、甲府市の手前(韮崎市や富士見町辺り)から涼しい八ヶ岳高原での車中泊をと清里村に向かうという変則的なルートを選ぶことになりました。

 結果、清里村での一泊が加わりましたが、長野4市の終了から鹿教湯温泉での一泊も願いが叶って(40年前は鹿教湯温泉の少し下手の大塩温泉に泊まりパスしましたので)同温泉の雰囲気も満喫できました。

 調査旅行の主要地は上田から佐久でしたが、途中で気になる神社を見掛けると随時参拝する事の繰り返しで、まあ、560社は見たかも知れません。

 車の車検が終わると731日、万全の体制が取れ、一路、山口県山口市から島根県益田市へと向かいました。山陰周りで北陸は福井市から九頭竜川を上り郡上八幡を目指すのです。

そして、飛騨高山から東上し上高地を左に見て松本に入るコースを選んだのでした。

今回、敦賀北から福井までは越前、鯖江、福井と交差点が多く渋滞が激しいため例外的に高速道路利用しました。平野が大きいとどうしても交差点の数が多くなりどうしても渋滞しやすくなります。

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こうして、731日昼から出発した調査旅行は1泊目島根県津和野町、2泊目敦賀市内で車中泊し、よく翌早朝から調査対象領域に入ることになります。

福井から九頭竜川を遡り白鳥町に辿り着き、ここから郡上八幡市、下呂市、高山市方面と言う未踏の地に入る事になった訳けです(不思議ですが、郡上八幡、飛騨高山はこれまで入っていません)。

ともあれ、こうして調査が始まったのでした。3泊目は高山市の町中でしたが、標高からか、かなり涼しく、翌早朝、長野県は松本市を目指して、最大の難関となる山間部の入口に差掛る頃には13度前後になるなど、最奥部の東日本の入口に差し掛かっていたわけです。ともあれ、上高地、白骨温泉付近を通過し、松本に入る手前辺りは夏場の観光地として人が足を向けるのは仕方がないと思うばかりでした。

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新穂高温泉、奥飛騨温泉郷、白骨温泉、上高地…は、登山客、温泉ファンにとどまらず憧れの的ですが、私達の様な神社研究者、古代史研究者のはしくれとしてはただの邪魔な存在でしかありません

そんなものに現を抜かす暇はないとばかりに通り抜け、松本市に駆け下り、猛暑の中、地表を這いつくばり神社を調べて回ることになるのです


こうして岐阜県から長野県、山梨県に亘る神社調査が始まったのでしたが、長野の4市を中心とする現地調査は至ってスムーズで、長野県での2泊を加え、山梨県は山中湖湖畔の別荘へと向かうのでした。

有難いことに、富士山正面の親友の別荘地で34泊休養し、最終日の昼前には掃除を終え、別荘を跡にして、盆前の12日には日田市に戻ってきました。

帰路は別ルートで、諏訪の手前から伊那に入り、さらに一山を越え、西の恵那からJR中央本線沿いに木曽街道を掛け下り、岐阜の手前辺りで仮眠し、翌早朝には関ヶ原から長浜、琵琶湖に入っていました。

以後、小浜、舞鶴、京丹後へ戻り、炎天下に12300キロを12日で走り抜け、ほぼ、ガソリン代だけ(ホンダフィットシャトルはリッター当たり25キロ)の2週間の調査旅行は幕を閉じたのでした。

燃費の良い車とは言え、現状のリッター165170(実際には兵庫県養父市の三菱石油の直営店で151154円で満タンにしましたが)円では、1キロ走行に対して7円に相当し、燃料代だけでも総行程3400キロでは、アイドリング、エアコン使用も含めて、3万円近く要し、往復、5000円以下に抑えた高速道路料金と併せて35千円は使っているでしょう。とは言え、収穫は十分に大きかったと言えます。

これについては、全部は書けませんが、可能な限りリポートを書きたいと思います。

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907 百嶋神社考古学グループにまた新たなブログが加わりました

907 百嶋神社考古学グループにまた新たなブログが加わりました

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 最近、百嶋神社考古学に対する関心が高まっているという印象を強く感じます。

 それは、百嶋由一郎氏が残した100枚近い神代系譜、講演録など340時間もの音声CD、手描き資料スキャニング・データDVD…などを求める話が増えてきているからです(連絡は09062983254まで)。

 病毒肺炎ウイルス蔓延による巣籠もりによる需要の一つなのかも知れませんが、インター・ネットの浸透が拡大することによって、流石に通説の神代史への疑問が普及し、真実を探ろうとする需要が反映されている様に思えるのです。

 そうした中、古くからの友人ともいえるY氏(山ちゃんですから山本、山田、山野…と言った名前の方ですがしばらくは伏せておきましょう)による新ブログがスタートした事からお知らせしたいと思うものです。それは「古代史山ちゃんブログ」です。既に70本以上のブログがアップされている様で、それなりの分量を持っています。

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ざっとみても、上記のようなものです。当方も手を出していない観点、発想、エリアの情報が満載で、また、読まなければならないものが出てきて実際には大変です。しかし、百嶋神社考古学の発展にはありがたいばかりです。

無題.png 第64話は当方にも直接関係する内容であり、現在の河上 猛 問題にも関連するため急いで読ませていただきましたが、さすがは文献史学派のY氏だけに、新たな知見を頂きました。

 実は、ひぼろぎ逍遥(跡宮)にリンクしている「百嶋神社考古学」から見る古代 も同氏による関連ブログであり、併せお読み頂きたいと思います。

 当グループには、神社研究者ばかりではなく、文献史学派、フィールド・ワーカー、穴掘り考古学の専門家、古代祭祀千線研究、万葉集研究、言語学、地名、一般的九州王朝論の古代史研究者…と、盛りだくさんの構成で、他人の研究話を娯楽として聴くだけの研究会風の親睦会ではないのです。頼もしい限りです。

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

はじめに

緋色のボロ着で、神籬=ひもろぎ(ひぼろぎ)を逍遥=彷徨い歩き、神社を探るというほどの意味で、「ひぼろぎ逍遥」を随時書いて行くことにしたものです。

ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。

これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象も認められます。

神社考古学、民俗学、古典文学、考古学、雑学満載の企画です。あくまでも、緋色のボロ着は古川だけの事ですので、悪しからずご容赦。

現在、このブログは本体のアメーバ・ブログのアクセス制限によって、アクセスが落されているため凍結し(新規を掲載しない)、新ひぼろぎ逍遥により続編を連載しています。

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百嶋由一郎神社考古学研究会(神代史研究会準備会) 古川 清久

はじめに

すでに、当方の「ひぼろぎ逍遥」がオンエアされていますが、九州王朝論の立場から、より「神社考古学」へとシフトした神社研究の古層を探るものとして新たなブログをスタートさせました。かなり突っ込んだ内容で書いて行く言わば奥ノ院にしたいと考えています。

この間10年以上地名研究会として主として九州王朝論の宣伝を主眼に古代史の研究会を継続してきましたが、「古事記」「日本書記」といった近畿大和朝廷のために造られた言わば偽書に基づき文献史学の立場からアプローチしておられる方のご努力には敬意を払いつつも、九州の現場にはまだまだ多くの解明を待つ謎が数多く残されている事からフィールド・ワークの延長に九州王朝論の立場による神社研究から真実の古代史に迫ろうとしています。

久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」を基礎に神代史の研究を続けてこられた故)百嶋由一郎氏は多くの資料を残されていますが、まだ、解明もできないまま手つかずの状態で残されています。現在、この百嶋説の立場から古代史以前の世界を解明しようと努力しているのが仮称百嶋神社考古学研究会(百嶋神代史研究会)です。既に20人を超える神社研究者(ブロガー)の連合体が全国規模で出来ており、その周辺にも数倍の百嶋研究の立場から神代史の解明に取り組んでおられる方がおられます。

現在、当方の3本のブログだけでも平均して日量1400件(年間60万件超)のアクセスがあります。九州王朝論を意識した上で、神社研究に進出できる方がおられればぜひ参加して頂きたいと思います。            古田史学の会会員古川清久 09062983254


2014101日から新たなブログ「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)がスタートし、更に201911日から新ひぼろぎ逍遥を加え、3本立てとなっています!

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本当にようやくですが、青森〜東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。


漏れはありますし、一部離脱もありますが、当グループは順調に勢力を拡大させてきました。

 大体、人吉球磨地方で活躍中の女性ブロガーひろっぷさんがリンクされていないのはその後の加盟だったからなのでしょう。

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急いでリンクを張ろうとしていますが、「古代史山ちゃんブログ」に先行すること数日、連日、福岡県内の女性から百嶋先生の資料を送って欲しいとの連絡が入っていました。

 そのうちのお一人がブロガーでもあり、そちらも併せてリンクを張ろうと思っています。

 ということで、もう一つのブログをご紹介します。

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内容に関してはまだ詳細に見ていないのですが、我々の世代より一回り二回り若い世代で、既にブログを始めておられる方が参加して頂けることは、百嶋神社考古学の継承だけを、しかも、いかなる形態であれ後世に残すことを目的としている当方としてはありがたい限りです。

 多少の見解の相違は、通説派の大嘘、九州王朝論者の無自覚、神社研究に関する無関心、九州現地でのフィールド・ワークの欠如から、通説派への有効な基地となっていないことを考えれば、些細なことなのです。

 彼女のブログからミステリー「129」長門豊川稲荷の豊川稲荷から、画像を頂きました。

 今後もどのように展開されるかまずは興味津々というところです。

無題.png 周防と言えば忌宮となりますが、この豊川稲荷は行こうと思いながら、まだ、参内していなかったことから取り上げただけで他意はありません。

 ただ、何故、行きたかったかと言えば、豊という古代国家豊日別は、明らかに関門海峡を跨ぐ海峡国家だったであろうことは間違いがなく。

 豊野町、豊浦町と山口県西部には痕跡地名があり、周防という旧国名自体が、そもそも周王朝の防衛、防府市を連想させるからです。

 これは百済系王族とされた大内氏自身の出自にも関係がありそうな上に、防府の玉祖神社それ自体が博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神を祀る神社であるにも関わらず、宮司はもとより、郷土史家、学芸員、教育委員会関係者の一切が祭神について気づいていないという情けない状態に陥っている状態に有るからなのです。

 ともあれ、この豊川稲荷の存在は、中京の豊川稲荷のルーツと考えており、何とかそれを探り出したいという思いを抑制させていただけに、画像を掲載したくなったのでした。

 その思いは、更に本源的なものを求めており、豊国の源流は熊本県の宇土市一帯だっただろうと考えています。

 言うまでもありませんが、豊地名は全国にあります。しかも大量にあり、何故、この地が発信源だと考えているのかと言われそうです。

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無題.png当然、豊前国、豊後国を意味する福岡県東半部から大分県に掛けての豊玉彦=ヤタガラスの領域は、その前身を熊本県八代市の妙見宮から氷川町一帯に端を発していたはずだからです。

 詳しく知りたい方は、八代の妙見宮東隣の霊符神社、氷川の霊符神社、佐賀県白石町(旧有明町)の豊前坊の伝承

などを考えられれば、大内氏が百済の聖明王の後裔といった話と繋がり、古代の豊がこの一帯であったと考えざるを得ないと理解できるのではないでしょうか。

 宇城から宇土の一帯には、豊野、豊福、豊崎…と多くの地名が拾えますので、ここから豊前、豊後に展開したと考えています。

 そもそも豊玉彦、大幡主、白川伯王、天御中主の流れは周王朝の末裔としての呉の太伯王の後裔を体現しているはずで、その倭人は呉の太伯の末という言葉もあるのです。

 ただ、この氏族=白族は、飽くまでも呉の後裔としての扶差の一族としての神武天皇…(威徳、孝霊、孝元、開化、仁徳という正当皇統の天皇家)の臣下でしかなかったのです。

百嶋由一郎氏が残された神代系譜DVD、音声CD、手書きデータ・スキャニングDVD…を必要とされる方は09062983254まで

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