2022年10月25日

スポット294 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❹ 上田市 前山鹽田神社

スポット294 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❹ 上田市 前山鹽田神社

  20220902

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 方々の神社を見て回り、夕暮れが近づく頃に向かったのが前山鹽田神社でした。

 「鹽」の文字が入っているだけで、鹽土翁=神皇産霊神(博多の櫛田神社の主神=大幡主)若しくは、最低でもその近縁の神が祀られているとの思いが走りました。

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前山鹽野神社 カーナビ検索長野県上田市前山1681


 既に日が陰り、暗くなっていた事から、当方の写真はかなり手振れが酷く使えませんでした。

 このため、市のホーム・ページから素晴らしい写真がありましたので、勝手ながら使わせていただきました。

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前山鹽野地区は雨が少ない地区との事で、古代には米が得られない豊かとは言えない土地に何故か県社が

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画像は敬愛する「玄松子」様

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敬愛する「玄松子」様の記事より


 全ては見る訳にはいかないため、インターネットで上田市の神社を全て拾い出し、始めは呉橋(屋根付きの渡河橋)があったからこれは見なければいけないと思い選んだだけだったのですが、どうやらどえらい神社を発見したと今は思っています。

 それは、まず、呉橋の存在に理解を持たないと先に進めないのです。

 宇佐神宮とその西10キロほどの所にある薦神社(宇佐神宮でも勅使道と説明はしていますが宇佐から何故西に向かう勅使道があるかを説明できないのです)にも呉橋がありその先の豊前市の大富神社には勅使井戸が置かれており平安以降勅使道は使われていないと書かれているのです。

 これは、近畿大和朝廷の古代官道ではないからで、その以前、宇佐に呉の太伯の後裔(周王朝の流れを汲む正当皇統)の神々が祀られる神社だったから呉橋が置かれていたのです。

 間違っても応神などが渡ることなど許されない橋だったのです。

 実は、これと同じ現象に遭遇したことがありました。それは7年ほど前、兵庫県但馬地方でも天空の城で知られる朝来市の神社調査を行っていた時の事でした。

ここで粟鹿神社、赤淵神社という二つの神社に遭遇したのです。

ここにもどう考えても近畿大和朝廷のものとは考える事の出来ない勅使門が残されていたのです。

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勅使門には天武天皇白鳳元年(673)建立と書かれる(白鳳)(常色)も九州年号ですね。

これについて詳しくは「ひぼろぎ逍遥(跡宮)480482」をお読みください。

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突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… M 

朝来市の足鹿神社再訪

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突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… L 

朝来市の赤淵神社の驚愕 下

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突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… K 

朝来市の赤淵神社の驚愕 上

ただ、何故、但馬〜播磨 国界に近い朝来市と上田市に勅使門、勅使殿が置かれているかは益々分からなくなりました。

今のところ、近畿大和朝廷に先行する九州の政権(筑豊の物部氏)が瀬戸内海ではなく対馬海流に乗り日本海側に北上し、但馬、丹後、上越、越中、越後に避退した人々がいたのではないか。

そして、白江戦で敗北する前の九州の政権の残滓がこの勅使門、勅使殿なのではないかと考えているのです。

勿論、応神天皇、和気清麻呂以降の宇佐神宮にも呉橋があり、現在でも天皇と天皇の勅使以外は呉橋を渡ることは許されないのですが、それは、宇佐に応神が祀られ九州の宗廟が宇佐に移行する8世紀半ばまでは、そこには呉の太伯の血を継承する姫(紀)氏の一族が支配する王統の権威が存在してからなのです。

 それが、出雲、播磨、甲信越だったのか?は今後とも継続する課題です。

 また、追放された筑豊の物部氏、建御名方の一族、近畿大和に歯向かった安曇族らが逃亡の末落ち着いた場所の一つが安曇野であり、和田峠の向こう側、つまり北関東だったのではないかと考えるのです。

 どちらにせよ、日本海から逃げ込む安住の地=山上楽園とは、諏訪であり松本であり、甲斐であり、信州、甲斐の最深部であり、武蔵野であり、北関東、東関東、一帯だったはずで、物部は武士として藤原氏を叩き潰す事になりそれは明治維新まで続くのです。

 上越市(直江津)、柏崎刈羽辺りから入った物部が関東武士団に成長したのです。武田も真田も…。

 では、最後に祭神を確認しておきましょう。


本殿前には二階建楼閣造の拝殿(勅使殿)がある。境内案内図や式内社調査報告では、境内左手流造の社殿が勅使殿となっている。とはこれも「玄松子」様。


御祭神

素盞嗚尊 大己貴尊 少彦名尊

創祀年代は不詳。式内社・鹽野神社の論社の一つだが根拠は薄いらしい。社伝によると、白鳳元年四月出雲大社より、塩野入の鷲岩に勧請されていたが、後に現在地・塩野へ遷座。塩野大明神と称されて、西塩田の産土神であった。永禄十一年(1568)四月、武田信玄が社領十貫文を寄進。天正十五年(1587)真田昌幸がさらに七貫文を寄進。この頃から、単に大宮とも称するようになったという。

明治六年四月村社に列し、その後、郷社、県社へと昇格した。

再び敬愛する「玄松子」様の記事より

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なお、上田市内には同名の塩野神社(保野字塩野429)があり、延喜式内社は自分の方だとの争いがあったとも言います。してみれば相当の権威ある神社だったとまでは言えそうです。

 辺りも暗くなり、カメラの手振れで酷い目になりますが、長旅の疲れも手伝って憧れの別所温泉を浴びようと共同浴場に向かいました。

百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDについては09062983254まで

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2022年10月21日

スポット293 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❸ 上田市 山鹿神社

スポット293 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❸ 上田市 山鹿神社

  20220820

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


次の訪問地は上田市です。信州上田と言えば真田幸村しか頭に浮かばないのが私であってそんな人間が上田の神社について語るなど僭越至極ですが、知識も持たぬ遠来の異邦人のリポートとなります。

ただ、城を見たいのではなく、真田が如何なる人々なのかを知りたいのです。当然にも神社を見ます。

まずは、真田の中心地を訪ねましたが、それは比較的傾斜のある山手の丘陵の中心部にありました。

それはともかく、真田と言えば猿飛佐助や霧隠才蔵に象徴される真田十勇士や六文銭or六連銭(リクレンセン)の紋章ぐらいしか知らないのですから先ずは恐る恐ると言ったところになります。

ただ、六文銭からは素性は見えてきません。仏教の六道の六文銭とはわかりますが、ルーツは探れません。

実は、真田家は、六文銭だけではなく「結び雁金」(ムスビカリガネ)や「州浜」(スハマ)を使っていたと分かり少し見えてきました。これは現地でも気付きましたが、ここら辺りになるとネットだけでは分からないのであり、どうしても現地踏査が必要になるのです。

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まず、上田市には真田神社(長野県上田市二の丸1-1-12)があり、歴代城主が祀られています。

 対して、この真田氏の本城がある丘陵の中心部にある神社の名称が山家(ヤマガ)神社なのです。

 我々九州に住む者にとって山鹿と言えば熊本県山鹿市の山鹿なのですが、後でこれは間違いであって、福岡県の山家(筑前山家)以外にはないと思うに至りました。この事実は衝撃的でした。

 勿論、北九州市若松区には山鹿という同名の地名があり、外にも二つの対応する地名(花房、台)もあることから、これは熊本→北九州と移動しているのではないかと考えていました。ただ、これは「山家」です。

 現在、上田市全域の神社の祭神を検討していますが、関係があるのかないのかは分からないでいます。

 それは、真田氏自体がどのようなルーツを持つかが分からないからで、清和源氏、木曽義仲、海野氏、滋野氏…との説も読ませていただきましたが、古代から戦国期の真田の間には1000年もあり、殆どたどり着けないと思うばかりです。ただ、彼らのご先祖様は九州から日本海沿いに新潟まで入り直江津から信濃に入っているはずなのです。

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鳥居だけからも厳島神社(天御中主命=白山姫)を祀る同社の性格が確認できます

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 ここまで見てくるとようやく真田氏もしくは真田氏が居城を置いた上田に住み続けたであろう人々の起源が見えてきました。まずは同社の祭神を見ましょう。白山大権現を祀ることは言うまでもありません。


祭神:大国主神 伊邪那美神(イザナミ) 菊理媛神(ククリヒメ)

        相殿:日本武尊 神八井耳神      境内:真田神社(真田塁代)


この神々からは祭神がかなりばらついており、真田氏が一体如何なる神を奉斎していたかが分かりにくいのですが、まず、祭神の菊理媛神(ククリヒメ)とは天御中主命の別名であり、白山大権現が脱漏している訳ではないのです。

 菊理媛とは本来は潜るの意味であり(大阪府富田林市の美具久留御魂神社)、さらに言えば白山姫とも同体なのです。逆に言えば、祭神を菊理媛神と書いている事は山家神社御由緒に書いている白山大権現とが同一神である事を示してもいるのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 一般的にある氏族が自らの神社に守護神として神を祀る場合、それは祖先神である場合が多く、その意味で真田のルーツを考えているのですが、一つの提案として下記の六文銭以前の真田の紋章が洲濱(スハマ)であったことから、その紋章が黄枠の一つ安曇磯良の後裔だとしたら、多少の整合性が得られるのです。この場合、5代遡れば白山姫(権現は神仏混交の表現)に辿り着くのです。

 もう一つは、相殿の孤立した神八井耳神の存在からのアプローチです。この神は阿蘇氏の一流で、最終的に権力を握った藤原氏のルーツであり、真田も古くは藤原氏の一派としている事から受け入れただけのものかも知れません。

 ただ、この神社の社名となっている「山家」が鴨玉依姫と大山咋の大恋愛事件(朱塗りの矢事件で知られる)現場=筑前山家である事を考えれば、左の黄枠の後裔氏族であるかも知れません。

 何れにせよ、九州の物部地帯から離脱し遠賀川河口から北上し直江津辺りから信濃の最奥部に移動したか、大国主命を祀筆頭神として祀っている事から、その起源を福岡県筑前町の大己貴神社(於保奈牟智神社)に求めることから(オオナムチは出雲の人ではなく、九州の筑後川北岸を奪われたために出雲にひっこししたのです)、同じ筑前町の山家とも対応するのです。

物部氏が武士(モノノフ)になったと考えられるのです。

 この問題については、以前のブログをお読みになっていないと理解できないと思いますので、以下のブログなどから読まれ、パワー・ポイントを手に入れることもできますのでお考えいただきたいとおもいます。

そもそも大国主の国譲りの話、総じて出雲神話は「古事記」だけに存在し、「風土記」などにも記述がありません。


無題.pngひぼろぎ逍遥(跡宮)

ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

ひぼろぎ逍遥

スポット 041 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕の発見! A

スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A

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最後に比較的珍しい山家と四阿屋(東)という地名についてお知らせしておきましょう。

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この二つの地名は県境を挟み比較的近い同一文化圏と思われ、無視はできないと思っています。


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDについては09062983254まで

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2022年10月17日

スポット292 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❷ 千曲市 佐良志奈神社

スポット292 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❷ 千曲市 佐良志奈神社

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 次は佐良志奈神社です。その社名からも藤原=阿蘇氏の影響(支那ツ彦の後裔)が見て取れます。

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今回取り上げる佐良志奈神社は前ブログで取り上げた武水別神社を千曲川沿いに上流5キロほど遡る辺りに在る延喜式内社です。

そこでお考え頂きたいのですが、武水分八幡神社の住所は長野県千曲市大字八幡3012であり、この佐良志奈神社 は長千曲市若宮2となっています。

これだけでも、私にはこの両社が共に高良玉垂命=開化天皇と仁徳天皇(藤原が第9代とした開化と仲哀死後の神功皇后との間の長子=シレカシノミコト)を祀る祭祀だっただろうと考えていますが、はっきり高良玉命と仁徳を祀る武水分八幡神社に対して、大字自体が若宮とされる佐良志奈神社こそより一層若宮(高良の若宮=仁徳)を祀る神社でなければならないと考えるのです。

 勿論、仁徳は祀られてはいるのですが、これが高良玉垂命と神功皇后の長子であることをご存じない方が大半だと思います。

 これは、九州本土でも久留米の高良大社周辺に於ける濃厚な伝承と切断され、一般には何やら聖帝伝説“民の竈賑わいけれ”と言った話しだけが強調れてしまっています。詳しくは調べていませんが、祭神4体の話は、高良玉垂命=開化を排除し、ただの別王でしかない誉田別命を藤原が持ち込んだ際に、事情を理解していた主要な地元の氏子の方々が、処分できずに忍びなく残し粗末にしなかったもののように思えるのです。

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詳しくは前ブログで掲載した百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)をご覧頂きたく思います。ここでは別のものをご覧ください。


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仁徳が応神の子などとんでもない大嘘ですが話が逸れますのでここでは触れません。

 遠方からであり、二階からの目薬となりますので、敬愛する「玄松子」様を引用させていただきます。


式内社 信濃國更級郡 佐良志奈神社 旧郷社


御祭神 誉田別尊 息長足姫尊 大鷦鷯尊

長野県千曲市(旧戸倉町)にある。しなの鉄道戸倉駅から西へ。

大正橋を渡って千曲川を越えたところすぐにある。境内の入口は西にあるので、路地を入って少し回りこむ。当社の南には、戸倉温泉がある。創立年代は不詳。式内社・佐良志奈神社に比定されている古社。

社伝によると、允恭天皇の皇子・黒彦皇子の勧請。また、神社明細帳によれば、当初、誉田別尊は更級山に鎮座していたが、仁和3年(878)震災のため、麓の若桜社(当社)に合祀。

正平年中、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)の御所であった。

 
  


社伝によれば、当初は坂合黒彦皇子が勧請し、更級山地の支嶺に鎮座していたが、仁和3年(887年)の震災により社地が崩落し、山麓に遷座したとされる。『源平盛衰記』には「若宮」とあり[1]、中世まで若宮八幡宮と称したが、宝暦7年(1757年)に現在の社名となった。同9年(1759年)の松代藩書上では社領3石であった[2]。また別当寺として真言宗の神宮寺があった。


ウィキペディア 20220830 13:48 による


境内社には、猿田彦社(山幸彦、ニギハヤヒ)、秋葉社(金山彦)、諏訪社(建御名方)、天神社(菅公)、大国社(大国主命)、住吉社(高良orウガヤフキアエズ)、粟島社(少彦名命)、八坂社(スサノウ)、金刀比良社(オオヤマクイ)が並んでいますが、最も重要かつ本来の主祭神はこの高良神(開化天皇)なのです。なお、福島県耶麻郡磐梯町に同じ社名の神社が3社ありますが、こちらからでしょう。

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山梨、長野でも、過去、高良社、若宮社の複合に過去何度か遭遇していますが、どうやら、正確なカウントではありませんが、信濃の20社、山梨の16社、新潟の15社…と集中する若宮八幡神社に相当の高良社が残っているようですね。

 やはり、この3県の若宮八幡宮は全数調査すべきですね。

 元気なうちにやらないとできなくなります。


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、講演録音声CD、手書き文書スキャニング・データを必要な方は、09062983254までご連絡ください。起きている限り全時間帯で対応します。

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