2022年11月22日

スポット297 州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❼ 上田市 生島足島神社 (下)

スポット297 州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❼ 上田市 生島足島神社 (下)

常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった49.生島足島神社探検記(長野県上田市)からの転載

  20220908

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 信濃最奥部の神社調査に入りその記憶が残っている間にブログを書こうとしていますが、未だに上田の生島足島神社に停滞し続けており先に進めないでいます。

 基本的には故)百嶋由一郎氏、「常陸の国ふしぎ探検隊」氏の見解で良いかと思うのですが、引っ掛っているのは、947 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❹ 上田市 前山鹽田神社 で取り上げた呉橋(現地の表現では神橋)の問題です。

 これは宇佐神宮の呉橋、古代官道(勅使道)の延長上にある薦神社の呉橋と同種のものであろうと考えています。

 この勅使道(古代官道)も何故か宇佐神宮から西に延びており近畿大和朝廷が造ったものではないと考えてきました。

無題.png

宇佐市寄藻川に掛る呉橋(現在も天皇とその勅使以外は渡ることが出来ない)

無題.png

大善寺玉垂宮(久留米市三潴) 高良大社下宮(久留米市) 米ノ山峠 飯塚市大分(ダイブ)八幡宮 

香春宮(香春町、採銅所) 大富神社(勅使井戸あり 豊前市) 薦神社(呉橋あり中津市) 宇佐八幡宮(呉橋 古代九州王朝神宮) これも私だけが主張している仮説中の試験的仮説ですが、紀氏の地で知られる国東半島の付け根豊後高田の若宮八幡宮にもどう見ても勅使門としか思えない門がある若宮八幡宮が六郷満山国東王国の入り口にもあるのです この九州王朝古代官道の象徴が呉橋なのです

 ここにおいて、今回、上田市に 前山鹽田神社の神橋(呉橋)に加えて生島足島神社にも同様のものを見ると、これは只ならぬものであり、以前に但馬で遭遇していた兵庫県朝来市の粟鹿神社、赤淵神社(この二社は明らかに勅使門との表現を残している)と併せ考えなければ、生島足島神社の古層に存在する祭神も特定できないのではないかという新たなテーマが浮かびあがってきたのでした。


兵庫県朝来市に勅使門を持つ二つの神社がある 粟鹿神社 赤淵神社

無題.png
無題.png

赤淵神社 カーナビ検索 兵庫県朝来市和田山町枚田2014

無題.png
無題.png

れに加えて、生島足島神社と前山鹽野神社の神橋(呉橋)をどう考えるべきかを整合性を持って説明できなければ、生島足島神社の祭神は確定できない様に思えるのです。


無題.png 但馬の赤淵神社の創建は継体天皇25年(531年)とされ、常色元年(647年大化3年)と言う九州年号が書かれています。また、


赤淵神社

 赤淵神社の祭神は、大海龍王神、赤渕足尼神、表米宿彌神の三神です。赤渕足尼命 は表米宿彌命の祖神です。

 神社略記によると大化元年(六四五)、表 米宿彌命が丹後、白糸の浜に来襲した新羅 の賊を討伐した際、沈没しかけた命の船が、 海中から浮かび上がった無数のアワビに助 けられたので、命はそのアワビを持ち帰り、 赤淵神社に祭ったとされています。大海龍 王は海神で、アワビを使い難を救う神で ある といわれています。

 その後、赤淵神社の祭礼にはアワビの 神事が行われ、近隣では今でもアワビを 食べない風習が残っています。

赤淵神社由来記

仰 赤淵大明神 人皇始以来第九代開化天皇御代也 是時皇子四道将軍祀彦坐王  是粟鹿大社之流也 彦坐王為但馬國造子孫代々國造而 司神事執行政務開 拓國土劃治水振興農業以愛民生偉業烈烈恩澤普及 自是營一祠祀歴代國造赤淵 大明神是也


「赤淵神社由来記」は通説とは大きく異なる内容ですが、青枠の「常色元年」が九州年号である事がお分かり頂けますね…従ってこの時代に使われた九州王朝の天皇の一族とその勅使だけが使える門であろうとしか考えようがないのです。

佃収説によれば「常色」は九州王朝の天武王朝(天武の父)647年〜651年の白江戦大敗北に遡る10年前ほど前の物になるのです。

 しかも、彦坐王が出てくる以上、開化天皇の指揮下で行われた(神武僭称贈る崇神)四道将軍の時期と重なる以上、この勅使門は近畿大和朝廷期ではない九州王朝の最発展期の事績であると思われるのです。

無題.png

前山鹽野神社 カーナビ検索長野県上田市前山1681 上田市のホーム・ページの画像

無題.png

前山鹽野地区は雨が少ない地区との事で、古代には米が得られない豊かとは言えない土地に何故か県社が

無題.png

但馬から信濃の神社に痕跡を残す勅使殿、呉橋は何を意味するのか?

“白鳳年号から天武天皇より前の父の時期に造られたか前山鹽野神社の神橋(呉橋)+勅使殿”


 当初、「鹽」の文字が入っているだけで、鹽土翁=神皇産霊神(博多の櫛田神社の主神=大幡主)若しくは、最低でもその近縁の神が祀られているとの思いが走りました。神社研究からはそう思うのですが、問題は九州年号から考えるとその時代(百嶋由一郎氏が提案した)的な齟齬(2300年のズレ)が残されてるのです。

 佃収氏は民間の古代史研究者ですが、我々のグループの根幹は佃収説+百嶋由一郎神社考古学を根幹としています。元々は古田武彦九州王朝論の範疇に収まっていたのですが、天照、卑弥呼の邪馬台(壱)国

がそのまま近畿大和朝廷の時代の直前まで一系で繋がっているという立場とはそぐわない事象に遭遇し、1015年ほど前から接触が始まった佃収、百嶋神社考古学による多元的九州王朝論に移行したのです。

 恐らく、高良玉垂命(その揮下で行われた指導将軍)〜天武天皇に至る時代に最大版図を確立した九州王朝の痕跡が今目にしている勅使道=古代官道、勅使門、呉橋…であろうと考えています。

 そう考えれば、生島足島神社の神橋の存在も理解できる、決して近畿大和の物などではないのです。

 天武天皇(むしろ天武の父)こそが九州を拠点に唐、新羅連合軍と激突し白江(白村江)を戦った張本人です。

 そして、唐の太宰府占領に対し北部九州を放棄し、既に占領、開拓、植民が始まっていた畿内に拠点を移したのが天武であり、従って壬申大乱も九州と畿内で起こっているのです。

 以下、佃収氏監修の一般向け講演資料 早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)

182183pをご紹介させていただきます。詳しくはネットで佃収と入力し佃収のHPに入って下さい。

無題.png
無題.png

百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDについては09062983254まで

無題.png
無題.png


posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット

2022年11月16日

スポット296 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❻ 上田市 生島足島神社 (中)

スポット296 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❻ 上田市 生島足島神社 (中)

常陸国ふしぎ探検隊-それは天津甕星から始まった49.生島足島神社探検記(長野県上田市)からの転載

  20220908

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は茨城県に於いて百嶋神社考古学の立場から活動をされている旧メンバーによる生島足島神社に関するブログを勝手ながら転載しています。編集の都合上、書体など一部に手を加えています。

無題.png


49.生島足島神社探検記(長野県上田市)2015-12-05 19:57:06 テーマ:古代史

今回の探検は長野県上田市下之郷中池の式内名神大社、生島足島(いくしまたるしま)神社です。

百嶋先生が無茶苦茶と記録しているところです。ご祭神は生島大神と足島大神。

無題.png



東側鳥居 式内大社 日本中央の文字が見えます。

無題.png



東側参道鳥居にあった祭神一覧と梶の葉紋(諏訪大社のものとは異なる)

無題.png


由緒書


百嶋系図では生島大神は海幸彦=建御雷であり、足島大神はオキツヨソ足姫(スサノヲ娘でナガスネ

彦の妹)です。諏訪大社の祭神、建南方の父母です。

大正八年鉄道省発行「神もうで」によれば、創建の年は詳ならず、社伝によれば神代の昔此処に鎮座あり、建南方富命の諏訪に降り給える時、この地に留まって二柱の大神を祀り、御自ら粥を煮て献供せられたことがあり、かつて崇神天皇の御世に、神八井耳の御孫建五百建(たけいおたけ)命を科野国造に定め、東国の祭祀を掌らしめられた時、この神社も創建せられたというのである。

意味不明の文章です。支離滅裂でしょう。前半では創建年は不明で神代から鎮座していると言ってい

るのに、後半では、崇神天皇の御世に神八井耳の孫建五百建(たけいおたけ)命=建磐龍が科野国造となり、創建したと書いています。

このような由緒がまかり通っていたために、アカデミックな歴史学者たちは神社の研究には興味を示さ

なかったものと考えられます。しかしながら、記紀自体が同様であるとの疑問はあまり持っていないよう

で、古代史研究と言えば記紀を研究することが主流であるようです。かくして、真実の歴史は闇に置き

去りにされています。明治維新の国家神道政策によって、意識的に改ざん、ねつ造された神社の由緒は、学問的には信憑性のない資料として扱われることになってしまったのでしょう。

あるいはお上からの指導で扱えなくなっているのかもしれません。

無題.png




上宮(生島足島神社)拝殿 北向き


北向きということは、北側にある摂社(下宮)の諏訪社が最初に建てられ、後から付けたされたのだと

思います。

そうでなければ栗本慎一郎の言う聖方位に関連のある勢力の造った神社ということになるでしょう。

無題.png




上田情報蔵さんのHPより引用

生島足島神社本殿の前に二つの橋がかけられている。一つは一般の参詣者の渡る橋、一つは「神橋」と名づけられている朱塗りの美しい橋である。
この「神橋」という名は、神様が渡られる橋だからつけられたのだが、それではどういう神様が渡られるのかというと、知る人は案外少ないようだ。この橋を渡る神様は諏訪神なのである。
試みに、この神橋の入口に立って北の方をふりかえると、50mばかり先に、塀にかこまれたりっぱなお宮があるのに気づかれるだろう。(もっともその間に舞楽殿があるので、気をつけなければわからない。)これが、生島足島神社の摂社(本社に付属する縁の深い神社。官国幣社に限ってこの称を用いられた。)諏訪社である。
生島足島神社には、有名な「お籠り祭」という神事がある。それは毎年11月3日の夜、まずこの諏訪神が、生島足島神社の籠殿へ移られる。これを「御遷り神事」という。(もちろん神官が奉仕する。)それから毎夜御飯をたき、諏訪神が自ら生島足島神に献飯される儀式が翌年3月3日までつづく。(もっとも現在は、7日ごと、4月28日まで26回奉仕に改められている)これが「お籠り祭」である。
この祭事は太古から伝えられているもので、諏訪神が天照大神から信濃統治の命をうけて、この地にやって来たとき、すでにこの地に有力な生島・足島神がいた。そこで諏訪神は自ら長期にわたり御供を献じ、はじめて了承を得て諏訪に向かったことに由来するといわれている。
生島・足島神は巻頭写真でも説明したように、もともと宮中で祭られている神であるから、地方神としての諏訪神がこの神に対して奉斎の誠をいたすのは、当然であったかも知れない。信濃の国造(現代の県知事に当る)から出た金刺氏は、後に諏訪下社の大祝(神が人間として現れたものといわれる)となっていることを思い合わせてみる必要もあろう。

無題.png


境内社の子安社 祭神は木花開耶姫とニニギ

木花開耶姫がニニギと夫婦だったのはたったの1年間ですから、対で祀られているということは後世の

下剋上勢力がねつ造したと考える基本となると判断しています。

本体の木花開耶姫を祀った神社も後発のものと考えています。なぜならニニギから豊玉彦に夫を変え

てからは前玉姫となっているからです。したがって前玉姫の名前で祀られた神社が正統派だと考えま

すが、実際に前玉姫で祀られている神社は数少なく、藤原氏や明治政府の神祇官(藤原氏の傀儡)が

木花開耶姫に改名してしまったことによると考えています。

無題.png

神楽殿                       フルール・ドゥ・リス紋
無題.png

無題.png



十三社(祓戸神)瀬織津媛神、速開津媛神、伊吹戸主神、速佐須良媛神、底筒男神、中筒男神、

表筒男神、神直日神、大直日神、綿津見神、八衢彦神、八衢媛神、泉津事解男神の13
無題.png


境内社の八幡社 神功皇后や姫大神の名はなく、玉依比売命とされています。八幡系の玉依比売は姫大神のことだと思うと「玄松子」さんのHPにありましたが、この場合の玉依比売は三人の玉依比売の誰を指しているのでしょうか。姫大神の中には鴨玉依姫がいますからそれが順当だと思います。

無題.png



御歳代部仮殿 御歳神は贈孝安天皇であり、生島大神=海幸彦の御子です。さらには九州王朝特務機関長(要するに中央情報局)です。建南方の監視役だったのか、反対に護衛だったのかかもしれません。後の菅原道真の樋口大善のようです。建南方は正史では、建甕槌と力比べに負けて、諏訪に引き込もることになっていますが、実の父親は建甕槌=生島大神ですからそんなことはなかったのです。まして母親はスサノヲの娘オキツヨソ足姫ですから、父親(生島)よりも身分が高かったのです。

御歳神の母親は豊受姫でやはりスサノヲの娘であり、父親は海幸彦=生島ですから御歳神と建南方は兄弟と言っても過言ではない関係です。

無題.png


八幡宮と秋葉大権現の石碑           境内社の秋葉社

百嶋神社考古学にご興味の方は、久留米地名研究会古川さんまで。090-6298-3254  


今回の無断転載に関してはその理由をブログ948に書いております。なお、本拠地を北九州市に移し、熊本、佐賀、久留米でも研究会の活動が広がり、何よりも民間の研究者を要請する体制が整いました。

 我々は若い新たなメンバーを加え愛媛県、愛知県などにも組織的拡大の動きが顕著になっています。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット

2022年11月10日

スポット295 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❺ 上田市 生島足島神社 (上)

スポット295 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❺ 上田市 生島足島神社 (上)

  20220905

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


元々、上田市ではこの神社を見るつもりでいました。ところが真田氏の本拠地の神社が山家(ヤマガ)神社である事、前ブログで取り上げた前山鹽野神社が勅使殿を持ち呉橋を持つとんでもない重要な神社である事を知り、この生島足島神社の影が薄くなるほどでした。

ともあれ、上田市で最初に参拝したのは生島足島神社だったのです。

無題.png

ここにも安芸の宮島の厳島神社と同型の鳥居が置かれています

無題.png
無題.png

まず、足島大神では誰が祀られているかも分からないと思います。正直、そのようにされているのでしょう。そもそもこの足島大神と重なるかどうかも知られていないのですが、同社のご由緒に書かれる二柱の大神とは一体どなたなのでしょう。

これらが分からなければ、皆さんはお賽銭をあげて帰ってきただけのことになるのです。

御朱印帳を持って参拝されるのは結構ですが、できれば祭神にも目を向けて背後に存在する歴史も考えて頂きたいものです。

この難問に関しても、我々、百嶋神社考古学の者には多少の見当が着くのです。といっても百嶋由一郎最終神代系譜があるからですが、少なくとも失意の建御名方が来た時(由緒では諏訪に下降する途すがらこの地にお留まりになり、二柱の神に奉仕し米粥を献ぜられてたと伝えられ、その故事は今も御籠祭という神事として伝えられています)には二柱の神が祀られていたという事になるのです。

と、言っても、この生島足島神社の主神考えるとき、この二柱を纏めて足島大神と考えるのにはかなり

無題.png

百嶋由一郎(手書き資料)スキャニング・データ・ファイル4/4から


の疑問を抱いてしまいます。多分具体性のある真実の伝承と強権により軌道修正された見解の混合です。

 勿論、百嶋由一郎に従えば、二神は、海幸彦(草部吉見=ヒコヤイミミ)と沖ツヨソ足姫(ナガスネヒコの妹)となるでしょう。

 しかし私には、二神とはナガスネヒコ(彼は殺されていない可能性もあるので)と沖ツヨソ足姫の兄+妹で、足島大神が金山彦にも思えてしまうのです。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 まず、百嶋先生の説をそのまま理解すれば、イザナギとイザナミの子であり新羅の王子様であったスサノウがアシナヅチ、テナヅチに囲まれ悲しんでいた櫛稲田姫を救い妃とします(神話ではそうなっていますね…勿論、我々はその現場は熊本県の山鹿市の大宮神社周辺の話と考えていますが、詳しくは以下を)、そのスサノウと櫛稲田姫の間に生まれたナガスネヒコの妹の息ツヨソ足姫なのです。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

485

ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)

“宮原誠一研究のご紹介”

284

大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)

は熊本県山鹿市で産まれた! ”

283

大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の

主祭神か?” 

282

大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と

摂社群” 

281

大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?


 その後、ナガスネヒコは本物の神武天皇(神武僭称贈る崇神ではないという意味で)と衝突し(恐らくその原因はスサノウの姉の処遇を巡りスサノウ系と阿蘇系が衝突した可能性があると考えていますが…)、その結果敗残した金山彦系+カミムスビ系の勢力が弱くなり、始めはカミムスビの子のである豊玉彦=ヤタガラスの妃となっていた息ツヨソタラシ姫は阿蘇の草部吉見ことヒコヤイミミ=鹿島大神の妃となるのです。それが、生島足島神社の事実上の主神である二柱なのです。

にもかかわらず、主祭神が生島大神ではなく足島大神と書かれている事から考えれば、この神社の底流には、ナガスネヒコの乱で敗残した金山彦系(「古事記」では石析神=アシナヅチ・根析神=テナヅチ、「日本書紀」では磐裂神・根裂神の神と呼ばれる櫛稲田姫の父母神そして東日本ではカガセオと呼ばれるナガスネヒコ…)の系統流れているように見えるのです。

そうでなければ、主神が生島大神であっても良いはずなのです。

にもかかわらず、足島大神を主神としているとすれば、アシ(足)ナヅチの足島大神=金山彦こそを祀る神社、敗残するも栄光ある高貴な神社が生島足島神社に思えるのです。

しかし、初見の神社を云々する資格などないのであって、先ずは考えを進める事にしましょう。

 神橋と呼ばれる呉橋(宇佐神宮、薦神社…様)の参拝殿奥の上宮本殿の千木は男神を示しています。

 もしこれが武甕槌(ヒコヤイミミ)を表す物とすれば草部吉見も偉くなったものだと思ってしまうのですが、多分違うでしょう。恐らくここには天皇と勅使以外は亘ることが出来ない場所だったのです。

 そうすると、前ブログで取り上げた境外摂社の諏訪神社や同じく神橋=呉橋と勅使殿を持つ前山鹽田神社との関係が気になってくるのです。そして鹿教湯温泉の呉橋も不思議ですね。


無題.png前ブログ掲載の前山鹽田神社の神橋


 この呉橋、勅使門、勅使殿問題は、以下と併せご検討ください。


これについて詳しくは「ひぼろぎ逍遥(跡宮)480482」をお読みください。

482

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… M 朝来市の

足鹿神社再訪

481

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… L 朝来市の

赤淵神社の驚愕 下

480

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… K 朝来市の

赤淵神社の驚愕 上

ただ、何故、但馬〜播磨 国界に近い朝来市と上田市に勅使門、勅使殿が置かれているかは益々分からなくなりました。

無題.png

神橋とされていますが、宇佐神宮並みの高級な呉橋ですね


ヨソ足姫のオキは「瀛」の文字を使うのですが…彼女とヤタガラスの関係が分かる系譜をご覧下さい

無題.png

百嶋由一郎 細密系譜原本(部分)


なお、境内社の秋葉社=軻遇突智神とは金山彦の事であり、秦の始皇帝とも同族として姻戚関係を結んだ(イスラエル系)神であり、このため一つ前の神代系譜の真ん中に位置する瀛氏(始皇帝の姓は)嬴政(エイセイ=インチョン)でしたね。

このため宗像三女神の市杵島姫も本来は瀛ツ島姫と表記するのです。

従って、この生島足島神社にも関係する奥ツ彦、奥ツ姫の「奥」も実は「瀛」の置き換えなのです。


無題.png

において、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社です。と書かれている意味も、八坂刀女と名を変えた阿蘇系の奈留多姫と手に手を取って事実上の幽閉地の諏訪へと道行された途上通過された古い諏訪社に示されるように既にその時には存在した古社であると主張されているのです。

 一般的に諏訪の建御名方は出雲から追放されたとお考えだと思います。ただ、実際には二重三重の誤りに近く、大国主の国譲りの現場は島根県の出雲などではなく、彦山の南北の朝倉郡と筑豊の田川郡を奪われており(奪ったのは高皇産霊神、草部吉見=ヒコヤイミミ=マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)、沃土を失い追放された先が出雲の国だったのです。

 このことが分からないと頓珍漢な話になる訳で、まずは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)からお読み下さい。


914

出雲の国譲りは筑前の旧朝倉郡から筑豊〜豊前に

掛けての旧田川郡、行橋市一帯で起こった

 建御名方の一族(物部氏)の大半は故地の鹿児島県に逃げ南方神社(同県には100社近くあるはずです)を奉斎していますが、その一部は博多港、遠賀川河口から船で直江津に入り諏訪にはいっているはずです。小浜辺りから琵琶湖を経由し岐阜から塩尻経由もありえますが、同社の伝承は日本海ルートを今に伝えている事になるのです。

この建御名方の移動の時期についてですが、それについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)923928931934936 辺りが参考になるかと思います。恐らく2世紀半ばの頃だと考えています。


936

ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県

西原村でも行います ⓫

935

櫻に埋もれる佐賀県有田町の山田神社について

934

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とは

どのような土地だったのか?下 ❿

933

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とは

どのような土地だったのか?上 ❾

932

早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

931

河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

930

続)愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) A

929

愛媛県の神社調査を本格化させたい(下調べ) @

928

続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

927

大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

926

「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模

講演会向けに用意したレジュメ ❹ 

925

福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された

方々のご出身地を知りたい ❸ 

924

福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の

一族が住み着いた現地を確認した ❷

923

ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は

許され 今もその一族は福岡市早良区に住んでいる ❶


 荒唐無稽な話にお付き合い頂きどうもありがとうございました。

 ただ、書き漏らしている点が残っていますので、続編を書きたいのですが、その前に、この生島足島神社について、元百嶋神無題.png社考古学グループに一旦は参加され後に自ら離脱された「常陸の国ふしぎ探検隊…」というブログの初期のものに書かれた生島足島神社リポートをお読み頂きたいので、勝手ながら全面転載致します。

 なお、内容については異論を持って反論を提起するものではありませんが、この神社を解読するためには多くの知恵を投入する必要があるため敢えて離脱されたブログを取り上げるものです。

 彼、彼ら(二つのブログのグループですので)が離脱された理由はお聴きしましたが、元々、百嶋神社考古学研究会には多くの研究者が参集され違った立場、異なった角度から多くの研究が行われネット上にも発表が行われています。これ等の一部に百嶋由一郎が主張している内容とは異なるものがあったとしても、修正しろとか閉鎖せよ…と言った封殺を行うつもりはありません。

 それは、九州王朝論者の民間研究組織でも同様で、「古田先生が間違っているとでも言うのか!」などと教条的な封殺への動きが出ると、多くのメンバーが委縮し、将来の研究者が育たなくなるからです。

 このため、仮に百嶋見解と全く異なるものであったとしても、言論上、研究上は排除するべきではないと理解しているからです。私たちは創価学会でも統一教会でもイエズス会でもないのです。彼らは出版の自らの著書の出版上の立場からそうされたとは思いますが、当会にはここ五年ほどの間に多くの優秀な研究者、神社探訪者、古文書の記録者、講演者、ブロガー…、しかも、たくさんの若手のメンバーが加わってきており、通説派の学者や教育委員会関係者や学芸員といった自己保身に走る連中や、村興し町興し果ては邪馬台国シンポジウム(全国には百ケ所もの邪馬台国候補地があります…)や、大嘘に近い世界遺産登録…と言った利権に群がるさもしい集団には成りたくはありませんので、何の富も得ることなく最後まで研究を続けられた百嶋由一郎氏や佃収先生(こちらはまだまだ研究を継続されていますが)や米田良蔵氏の精神を引継ぎ古代の真実に迫りたいと考えています。

 実際、頼もしい優秀な若手メンバーが急増しています。むしろ多すぎて対応に苦慮している程です。

 他人が調べた話を聴かずに聞いて翌月には何の話だったかも覚えていない方をいくら集めても全く意味がなく、後継者もなくいずれは消え失せてしまうだけのことになるのです。


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手描きデータスキャニングDVDについては09062983254まで

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット