スポット300 宇佐八幡宮中宮の若宮神社から宇佐神宮の近畿大和朝廷の宇佐八幡宮への変化を探る
20221110
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
全く迂闊だったのですが、遡る事4年ほど前、宇佐八幡宮の中宮(これは私達がそう呼ぶものですが)の若宮八幡神社の未公開文化財の公開が行われていました。
ところが、22年11月初頭から県立博物館(宇佐市)に於いて、同様の展示が行われる事が分かり、10人ほどに呼び掛、遅ればせながらもオオササギ=仁徳天皇以下の木造の5体の神像を見せて頂く事にしました。
しかも、「大鷦鷯命(おおささぎのみこと)」(仁徳天皇)、「大葉枝皇子(おおばえのみこ)」、「小葉枝皇子(こばえのみこ)」、「隼別皇子(はやぶさわけのみこ)」、「雌姫皇女(めどりのみこ)」の5柱…とこれまえ神名さえも分からなかった若宮神社が何なのかが分かるかも知れないのです。以下はネット上に残っている4年前の文書です。
六郷満山開山1300年記念非公開文化財特別公開 ―宝物館特別展―
六郷満山開山1300年を記念し、当神宮摂社である若宮神社に祀られる御祭神のお姿を現した木造神像(国指定重要文化財)展示の特別展を開催致します。 若宮神社
【若宮神社について】
御輿掛より上宮へ上がる参道の途中に、若宮神社が鎮座されています。
仁寿2(852)年に造営創始され、「大鷦鷯命(おおささぎのみこと)」(仁徳天皇)、「大葉枝皇子(おおばえのみこ)」、「小葉枝皇子(こばえのみこ)」、「隼別皇子(はやぶさわけのみこ)」、「雌姫皇女(めどりのみこ)」の5柱が祀られます。
古来より明治に至るまで、若宮神社の本殿と拝殿の間に「炉」が設けられ、そこで「亀ト(きぼく)」という亀の甲羅を用いた占いが行われていました。
【若宮御神像について】
若宮神社の御祭神のお姿を現したとされる5躰の木像です。
平安時代のものとされ、昭和25年に国指定重要文化財となりました。
【展示場所】
宇佐神宮 宝物館第二展示室 宝物館ページはこちら
【展示期間】
平成30年10月17日(水)〜10月29日(月)まで
※10月23日(火)は臨時開館致します。
【拝観料】
常設展と併せての開催のため、宝物館入館料のみで拝観可能です。
お問い合わせ
宇佐神宮 〒872-0102 大分県宇佐市南宇佐2859 TEL:0978-37-0001 / FAX:0978-37-2748
館内もでひときわ目立つ堂です
こちらは現在のネット広告です
正に天から降ってきたような有難い再展示であり、恐らくこれを外したら一生観る事が出来ないと考えられ、何とか見たいと考え、メンバーにも呼び掛けを行った分けです。とりあえず4〜5名はお出でになりますが、全ての方の日程が合うわけでもないでしょう。最低でもあと数名は加わるはずで、うちのメンバーの熱意にも頭が下がります。
では、何故これ程までに私達がこの問題に拘るかをご説明したいと思います。
何故、若宮八幡宮(若宮神社)に拘るのか
私達のような神社考古学の洗礼を受けたものと言わず、普通の九州王朝説を正しいと考える方(邪馬台国九州説論者は一般人と同じですし、Yなどの通説派に摺り寄るさもしい東遷説はどうにもなりませんが…)に於いては、どの時点で、如何にして呉の太伯の流れを汲む皇統が曲げられ若しかしたら戻ったのかに心を逸らせるはずなのです。その意味でこの仁徳天皇問題は極めて重要かつ留意するべきポイントなのです。そもそも我々百嶋由一郎の面授の者としてしては仁徳天皇が応神天皇の子などと言う大嘘は全く信用していません。そもそも応神天皇とは藤原の一派が持ち込んだどこのどなたか解かりもしない人物のはずなのです。そして、宮内庁と言わず神社庁もこのことについては十分理解しているはずなのです。
馬鹿丸出しなのは通説派のさもしい御用学者だけで、自説を通説と擦り合わせるだけの価値のない人生で死んでいけば良いだけなのです。
002百嶋系図(極秘)003込
宇佐神宮上宮(殿)の配神がいつから始まっているかについては多説あり難しい問題ではありますが、それはひとまず置くとして、現在の上宮の一の御殿:応神天皇(背後に春日神社=草部吉見)、二の御殿:宗像三女神(背後に北辰宮=妙見神…天御名中主命)、三の御殿=神功皇后(背後に住吉大神=高良玉垂命=開化天皇)に対して、中宮の若宮神社の存在が無関係であるはずはないのです。
繰り返しになりますが、通説では仁徳は応神の子とされているのです。しかし謎が解けそうなのです。
仁徳天皇 生年:生没年不詳 5世紀前半に在位したといわれる天皇(大王)。父は応神天皇,母は仲姫。実名はオオサザキ。『古事記』では大雀,『日本書紀』では大鷦鷯の字を当てている。
朝日日本歴史人物事典「仁徳天皇」の解説
無論、我々は応神の子が仁徳などと言う大噓は一切認めませんが、オオササギノミコトは孝元天皇(オオヤマトネコヒコ)の子開化天皇(藤原が第9代としたワカヤマトネコヒコ)と仲哀死後の神功皇后の間に生まれた五人の長子と考えています。 002百嶋系図(極秘)003込参照
これらは、故)百嶋由一郎が高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」をベースに再構成したもので、天武朝期、阿蘇系の流れを汲む藤原が実権を握り創られた「記」「紀」とは全く相入れない異なる神代系譜となっています。
「高良玉垂宮神秘書」は高良大社に奇跡的に残された文書であり、第1条から海幸とも山幸とは書かないものの皆さん良くご存じの「海幸山幸神話」が書かれているのです。しかも異なる部分はあるものの驚くべきことも書かれており、こちらが原型としか言いようがないのです。
当会の内部では、「古事記」はこれを剽窃していると考えているところです。
この文書を知っている人、さらに読み込んでいる人が現在どれほどおられる事でしょう。
九州王朝論者を自認する人でも県外、九州外の方となるとそら寒い思いがしてきます。
それほど本の量も少なければ、存在そのものを知らない方が大半だと思います。
二十年前には新本が高良大社の社務所にも30冊はあり、そのうち当会のメンバーなどが10冊以上は買い込んでいるはずで、今や残本は0冊となり、ネット上で出てくるものも5万円に跳ね上がっている状況では事実上の絶版、禁書状態の上に、当の高良大社本体が保身のためか普及しようとは全く考えていないようで、他も含めて通説に尾を振る様な有様では、所詮、在野にしか真面な研究者も真実の古代の探索も育つことは望めない訳で、日々真実から遠ざかりいずれは消失することになる事でしょう。
ここからは耳障りのする情けない話をお知らせしておきます。反省なくしては前進はないのです。
間が抜けたことに、九州の九州王朝論者の組織と自称していた○○古代史の会自体が今年の春辺りで、九州王朝論の団体である事を捨て去り、普通の古代史研究団体に変わる事を宣言し、事実上の古代史愛好団体と成る事を宣言してしまってまでいるのです。
ほんの十数年前までは古田史学の会さえも乗り越える本当の九州の古代史を探求する会とか言っていた連中がこの様なのですから、通説派から笑われ嘲られることを気にしない言わば恥を知らない団体に成りきっているのです。まあ、落ちるところまで落ちたと言えばその通りでしょう。正しくザマーない。
結局、おらが村興し町興し、果ては世界遺産登録などという官製歴史運動に堕落し消失したのでした。
このような文書に関心を持って読まれる方は少ないと思いますが、まだ当会には十人以上がこれを持ち、かつ読みこなし、数人は書き下し分さえも作成しているのです。
試しに、スペースを入れ、高良玉垂宮神秘書 書き下し とでも検索されたらいかがでしょう。
この様な驚天動地の話が落ちているにも拘わらず、高良山研究の第一人者とか泰斗などと言われた方さえも結局は通説とのバランスを取り尾を振った様で、何の継承もされていないと言うのが実情なのです。
最早、当会メンバー以外に真面目に取り組んでいる人はいないようで、十数年前から警鐘を鳴らし続けていたのですが、九州王朝論者の大崩壊も始まっており既に終息へと向かいつつあるのです。
ただ、当会メンバーにあっては僅かでも若手の研究者が徐々に増え始めており、何とか継承できるのではないかと思っている所です。
最低でも宇佐八幡宮内の若宮神社ぐらいは位置づけしたいものだと思うばかりで、この五柱の神々が誰であるのかを推定を試みたいと思います。尚、「宮原誠一の神社見聞諜」では数本のブログで九躰皇子問題を取り上げておられ、最先端に立たれています。
そこで考えるべきは、元々仁徳天皇=オオササギノミコトを祀る福岡県久留米市山川町の高良御子神社でした。この参道こそが高良大社への元々の参道だったのです。
高良御子神社(王子宮) カーナビ検索 福岡県久留米市山川町596−1
宇佐八幡宮境外摂社 鷹居八幡神社(応神が居たとされる抜殻の神社)大分県宇佐市上田字1435
この鷹居八幡の初期の応神が隼別皇子(ハヤブサワケノミコ)として宇佐八幡の若宮八幡神社に持ち込まれたのではないと考えるのです。推定ですが、弱々しいオオササギに対して鷹、隼のニュワンスです。
鷹居八幡神社とは初期の応神が滞在した神社とされ、鷹が居たの意味と解すれば、宇佐八幡宮中宮の若宮神社の隼別け王と奇妙に対応するのです。今後とも検討すべきですが、これまで宇佐八幡宮の若宮八幡神社の五柱の神は仁徳天皇=シレカシ=オオササギ以下の五人の皇子ではないかと考えてきました。加えれば、それが現在の宇佐八幡宮一社三殿三神の言わば勅使門でしかない八幡宮の原型であると考えていたのですが、どうやら、この若宮神社の中で既に入れ替えが行われ、応神(鷹居=隼別)が潜り込まされていたように見えるのです。そして仲哀の連れ子で種違いの姉である雌姫皇女(メドリノミコ)が世話役として持ち込まれていた様に思えるのです。こうして始まったのが宇佐八幡宮であり、当然にもこれをやらかしたのは辛島であり、藤原の一派である阿蘇系の大賀比義(これも大神惟基の後裔)だったのです。
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