2022年12月30日

スポット300 宇佐八幡宮中宮の若宮神社から宇佐神宮の近畿大和朝廷の宇佐八幡宮への変化を探る

スポット300 宇佐八幡宮中宮の若宮神社から宇佐神宮の近畿大和朝廷の宇佐八幡宮への変化を探る

20221110

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 全く迂闊だったのですが、遡る事4年ほど前、宇佐八幡宮の中宮(これは私達がそう呼ぶものですが)の若宮八幡神社の未公開文化財の公開が行われていました。

 ところが、2211月初頭から県立博物館(宇佐市)に於いて、同様の展示が行われる事が分かり、10人ほどに呼び掛、遅ればせながらもオオササギ=仁徳天皇以下の木造の5体の神像を見せて頂く事にしました。

しかも、「大鷦鷯命(おおささぎのみこと)」(仁徳天皇)、「大葉枝皇子(おおばえのみこ)」、「小葉枝皇子(こばえのみこ)」、「隼別皇子(はやぶさわけのみこ)」、「雌姫皇女(めどりのみこ)」の5柱…とこれまえ神名さえも分からなかった若宮神社が何なのかが分かるかも知れないのです。以下はネット上に残っている4年前の文書です。

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六郷満山開山1300年記念非公開文化財特別公開宝物館特別展

六郷満山開山1300年を記念し、当神宮摂社である若宮神社に祀られる御祭神のお姿を現した木造神像(国指定重要文化財)展示の特別展を開催致します。    若宮神社

【若宮神社について】

無題.png御輿掛より上宮へ上がる参道の途中に、若宮神社が鎮座されています。
仁寿2852)年に造営創始され、「大鷦鷯命(おおささぎのみこと)」(仁徳天皇)、「大葉枝皇子(おおばえのみこ)」、「小葉枝皇子(こばえのみこ)」、「隼別皇子(はやぶさわけのみこ)」、「雌姫皇女(めどりのみこ)」の5柱が祀られます。
古来より明治に至るまで、若宮神社の本殿と拝殿の間に「炉」が設けられ、そこで「亀ト(きぼく)」という亀の甲羅を用いた占いが行われていました。

【若宮御神像について】

若宮神社の御祭神のお姿を現したとされる5躰の木像です。
平安時代のものとされ、昭和25年に国指定重要文化財となりました。

【展示場所】

宇佐神宮 宝物館第二展示室 宝物館ページはこちら

【展示期間】

平成301017日(水)〜1029日(月)まで
1023日(火)は臨時開館致します。

【拝観料】

常設展と併せての開催のため、宝物館入館料のみで拝観可能です。

お問い合わせ

宇佐神宮 〒872-0102 大分県宇佐市南宇佐2859 TEL0978-37-0001 / FAX0978-37-2748


無題.png館内もでひときわ目立つ堂です


こちらは現在のネット広告です

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正に天から降ってきたような有難い再展示であり、恐らくこれを外したら一生観る事が出来ないと考えられ、何とか見たいと考え、メンバーにも呼び掛けを行った分けです。とりあえず45名はお出でになりますが、全ての方の日程が合うわけでもないでしょう。最低でもあと数名は加わるはずで、うちのメンバーの熱意にも頭が下がります。

 では、何故これ程までに私達がこの問題に拘るかをご説明したいと思います。


何故、若宮八幡宮(若宮神社)に拘るのか


私達のような神社考古学の洗礼を受けたものと言わず、普通の九州王朝説を正しいと考える方(邪馬台国九州説論者は一般人と同じですし、Yなどの通説派に摺り寄るさもしい東遷説はどうにもなりませんが…)に於いては、どの時点で、如何にして呉の太伯の流れを汲む皇統が曲げられ若しかしたら戻ったのかに心を逸らせるはずなのです。その意味でこの仁徳天皇問題は極めて重要かつ留意するべきポイントなのです。そもそも我々百嶋由一郎の面授の者としてしては仁徳天皇が応神天皇の子などと言う大嘘は全く信用していません。そもそも応神天皇とは藤原の一派が持ち込んだどこのどなたか解かりもしない人物のはずなのです。そして、宮内庁と言わず神社庁もこのことについては十分理解しているはずなのです。

馬鹿丸出しなのは通説派のさもしい御用学者だけで、自説を通説と擦り合わせるだけの価値のない人生で死んでいけば良いだけなのです。

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002百嶋系図(極秘)003


宇佐神宮上宮(殿)の配神がいつから始まっているかについては多説あり難しい問題ではありますが、それはひとまず置くとして、現在の上宮の一の御殿:応神天皇(背後に春日神社=草部吉見)、二の御殿:宗像三女神(背後に北辰宮=妙見神…天御名中主命)、三の御殿=神功皇后(背後に住吉大神=高良玉垂命=開化天皇)に対して、中宮の若宮神社の存在が無関係であるはずはないのです。

繰り返しになりますが、通説では仁徳は応神の子とされているのです。しかし謎が解けそうなのです。


仁徳天皇 生年:生没年不詳 5世紀前半に在位したといわれる天皇(大王)父は応神天皇,母は仲姫。実名はオオサザキ。『古事記』では大雀,『日本書紀』では大鷦鷯の字を当てている。

朝日日本歴史人物事典「仁徳天皇」の解説

無論、我々は応神の子が仁徳などと言う大噓は一切認めませんが、オオササギノミコトは孝元天皇(オオヤマトネコヒコ)の子開化天皇(藤原が第9代としたワカヤマトネコヒコ)と仲哀死後の神功皇后の間に生まれた五人の長子と考えています。             002百嶋系図(極秘)003込参照

これらは、故)百嶋由一郎が高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」をベースに再構成したもので、天武朝期、阿蘇系の流れを汲む藤原が実権を握り創られた「記」「紀」とは全く相入れない異なる神代系譜となっています。

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「高良玉垂宮神秘書」は高良大社に奇跡的に残された文書であり、第1条から海幸とも山幸とは書かないものの皆さん良くご存じの「海幸山幸神話」が書かれているのです。しかも異なる部分はあるものの驚くべきことも書かれており、こちらが原型としか言いようがないのです。

当会の内部では、「古事記」はこれを剽窃していると考えているところです。

この文書を知っている人、さらに読み込んでいる人が現在どれほどおられる事でしょう。

九州王朝論者を自認する人でも県外、九州外の方となるとそら寒い思いがしてきます。

それほど本の量も少なければ、存在そのものを知らない方が大半だと思います。

二十年前には新本が高良大社の社務所にも30冊はあり、そのうち当会のメンバーなどが10冊以上は買い込んでいるはずで、今や残本は0冊となり、ネット上で出てくるものも5万円に跳ね上がっている状況では事実上の絶版、禁書状態の上に、当の高良大社本体が保身のためか普及しようとは全く考えていないようで、他も含めて通説に尾を振る様な有様では、所詮、在野にしか真面な研究者も真実の古代の探索も育つことは望めない訳で、日々真実から遠ざかりいずれは消失することになる事でしょう。

ここからは耳障りのする情けない話をお知らせしておきます。反省なくしては前進はないのです。

間が抜けたことに、九州の九州王朝論者の組織と自称していた○○古代史の会自体が今年の春辺りで、九州王朝論の団体である事を捨て去り、普通の古代史研究団体に変わる事を宣言し、事実上の古代史愛好団体と成る事を宣言してしまってまでいるのです。

ほんの十数年前までは古田史学の会さえも乗り越える本当の九州の古代史を探求する会とか言っていた連中がこの様なのですから、通説派から笑われ嘲られることを気にしない言わば恥を知らない団体に成りきっているのです。まあ、落ちるところまで落ちたと言えばその通りでしょう。正しくザマーない。

結局、おらが村興し町興し、果ては世界遺産登録などという官製歴史運動に堕落し消失したのでした。

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このような文書に関心を持って読まれる方は少ないと思いますが、まだ当会には十人以上がこれを持ち、かつ読みこなし、数人は書き下し分さえも作成しているのです。

試しに、スペースを入れ、高良玉垂宮神秘書 書き下し とでも検索されたらいかがでしょう。

この様な驚天動地の話が落ちているにも拘わらず、高良山研究の第一人者とか泰斗などと言われた方さえも結局は通説とのバランスを取り尾を振った様で、何の継承もされていないと言うのが実情なのです。

最早、当会メンバー以外に真面目に取り組んでいる人はいないようで、十数年前から警鐘を鳴らし続けていたのですが、九州王朝論者の大崩壊も始まっており既に終息へと向かいつつあるのです。

ただ、当会メンバーにあっては僅かでも若手の研究者が徐々に増え始めており、何とか継承できるのではないかと思っている所です。

最低でも宇佐八幡宮内の若宮神社ぐらいは位置づけしたいものだと思うばかりで、この五柱の神々が誰であるのかを推定を試みたいと思います。尚、「宮原誠一の神社見聞諜」では数本のブログで九躰皇子問題を取り上げておられ、最先端に立たれています。

そこで考えるべきは、元々仁徳天皇=オオササギノミコトを祀る福岡県久留米市山川町の高良御子神社でした。この参道こそが高良大社への元々の参道だったのです。

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高良御子神社(王子宮) カーナビ検索 福岡県久留米市山川町5961

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宇佐八幡宮境外摂社 鷹居八幡神社(応神が居たとされる抜殻の神社)大分県宇佐市上田字1435

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この鷹居八幡の初期の応神が隼別皇子(ハヤブサワケノミコ)として宇佐八幡の若宮八幡神社に持ち込まれたのではないと考えるのです。推定ですが、弱々しいオオササギに対して鷹、隼のニュワンスです。 

鷹居八幡神社とは初期の応神が滞在した神社とされ、鷹が居たの意味と解すれば、宇佐八幡宮中宮の若宮神社の隼別け王と奇妙に対応するのです。今後とも検討すべきですが、これまで宇佐八幡宮の若宮八幡神社の五柱の神は仁徳天皇=シレカシ=オオササギ以下の五人の皇子ではないかと考えてきました。加えれば、それが現在の宇佐八幡宮一社三殿三神の言わば勅使門でしかない八幡宮の原型であると考えていたのですが、どうやら、この若宮神社の中で既に入れ替えが行われ、応神(鷹居=隼別)が潜り込まされていたように見えるのです。そして仲哀の連れ子で種違いの姉である雌姫皇女(メドリノミコ)が世話役として持ち込まれていた様に思えるのです。こうして始まったのが宇佐八幡宮であり、当然にもこれをやらかしたのは辛島であり、藤原の一派である阿蘇系の大賀比義(これも大神惟基の後裔)だったのです。

百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで

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ひぼろぎ逍遥 スポット299(後) 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 

ひぼろぎ逍遥 スポット299(後) 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 

山梨県 若宮八幡神社(追補)

20221005

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


349 勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には何故「三階松の神紋」があるのか?”20170117

甲州勝沼のぶどう寺こと大善寺に三階松の神紋が使われているという事実に直面し、ここ一、二年考えあぐねていたのですが、ようやく雲間から一筋の光が刺してきたような思いがしています。

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百嶋由一郎氏の残された手書き資料に、次の一葉がありました。

そして、なんとそこには武田氏は大彦(アヘ氏)の流れとのメモが残されていたのでした。

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「日本書紀」(崇神紀)十年条には、大彦命(オオビコ)、武渟川別命(タケヌナカワワケ)、吉備津彦命(キビツヒコ)、丹波道主命(タンバミチヌシ)を各地方に派遣したという所謂「四道将軍」についての記述があります。

 ただ、この通称「金神系譜」では、通常、武内宿祢の父とされる屋主忍男武雄心命と山下影姫との間に産れたとされる武内宿祢が、孝元天皇と山下影姫との間に産れているとされることに気付かれた方がおられると思います。

 この部分が、百嶋神社考古学の真骨頂とも言うべき最深部の最も複雑かつ難解な部分であり、この解説には別稿が必要とされることからここでは触れません。

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再掲 超細密金神系譜(部分)


十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮~祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以命遣北陸武渟川別遣東海吉備津遣西道丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。壬子、、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰…

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九州王朝論者でも私達の様な過激な論者の内部では、この四道将軍も九州王朝が直接九州から(もしくは九州王朝の植民領域から)派遣したものと考えています。

百嶋由一郎氏は、藤原によって第十代とされた贈)崇神も、実は九州王朝の正統皇統第九代開化天皇=高良玉垂命のはるかに年長の臣下でしかなかったとされていました。

勿論、それを天皇に格上したのは藤原がその流れから出ている事、その勢力を傘下として取り込むためのものであったからであり、当然、四道将軍も九州から直接派遣された可能性が高いと考えているのです。

さて、大彦は第9代開化天皇(高良玉垂命)と同様、第8代孝元天皇の子であり、いわば年かさで腹違いの兄弟になるのです。

 さらに言えば、福津市の宮地嶽神社の数代前までの歴代の宮司家は阿部家であり、それは近畿大和朝廷成立後の奥州安倍氏の滅亡後に送り込まれた安部の宗任、貞任(実は貞任の末子が許された宗任の一族として九州に戻ってきている)の一族が九州北岸の海人族の頭目として崇められ宮地嶽神社の宮司家として復帰していたと考えられるのです。

 恐らく宮地嶽神社のお膝元の津屋崎を起点に、九州王朝の植民国家として丹波、吉備、北陸、東海(舞鶴、敦賀から東海へ)と進出した一派に大彦(珍彦=ウヅヒコ)に同行し北陸から甲斐にまで進出した人々がいた可能性を考えているのです。

 後に贈)崇神の息子である豊城入(ニュウ)彦も埼玉など北関東(上毛野君や下毛野君は豊城入彦の後裔)に進出している形跡があるのですが、これも九州王朝の臣下として崇神の一族が展開したと考えています。

 まぼろしの九州王朝宮廷舞を継承するとする宮地嶽神社と、武田氏との濃厚な関係を見せるぶどう寺大善寺とが等しく三階松の神紋を掲げているという事実を考える時、両者を繋ぐものは、この九州王朝が派遣した四道将軍の大彦の北陸から甲州への展開としか思えないのです。

 そこまで考えてくると、冒頭に掲げた国宝薬師堂の最頂部に掲げられた神紋の意味も多少異なった意味合いを持っている事が見えて来ました。

 門光(唐花)を守るかのようにあしらわれた三階松は、武田氏を支える三枝氏を意味しており、傍系とは言え、武田氏も九州王朝の一族であり、その臣下の実働部隊として三枝氏のスクラムを意味している事が分かるのです。

では、武田氏の家紋を考えて見ましょう。言うまでもなく武田氏の家紋は四割菱とされています。

一般的に戦国武将の家紋は、戦闘用の旗指物として増産する必要と遠方からも判別できる必要性があることから簡素化される傾向がありますが、実は四割菱ばかりではなく、花菱(門光)も使用しているのです。

無題.png割菱        花菱


 武田氏の家紋は有名な「割菱」すなわち「武田菱」である。武田氏の専用なので、武田菱の名が起こった。しかし、このほかに「花菱」も用いた。多くは、裏紋または控え紋として花菱を用いたが、女性などはやさしさを表わすために花菱を多用した。しかし、この花菱も菱形を花の文様に転化させたもので、根本は変わらない。すなわち、武田氏はいずれにしても「菱」紋で代表される。
 紋のいわれはさまざまに言いなされているが、かなり古くから用いられたことは間違いない。菱それ自身は、正倉院の御物の裂にもあるが、武田氏がこれを紋として用いたとおぼしき証拠が残っている。それは、塩山市にある菅田神社の「楯無の鎧」にこの紋が付けられている。この鎧は平安時代に作とみられるが、これに割菱も花菱もともに付いている。これが家紋とは断定できないが、武田家の重宝に付けられていることは重要な意味がある。この時代から、菱文様は武田氏と密着していたことは窺われる。
 これについて『見聞諸家紋』には、武田氏の紋に対して

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頼義男新羅三郎義光の末孫也。従四位下。伊予守鎮守府将軍。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奥州安倍頼時攻。是時詣住吉社。新平復夷賊。干時有神託。賜旗一流。鎧一領。昔神功皇后征三韓用也。神功皇后鎧脇楯者。住吉之御子香良大明神之鎧袖也。此裙之紋。割菱也。三韓皈国後。鎮座於摂津国住吉。以奉納干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼義賜之。可謂希代也。頼義三男新羅三郎義光雖為季子。依父鐘愛伝之。即旗楯無是也。旗者白地無紋。鎧有松皮菱。故義光末裔当家為紋。 と記されている。
 すなわち「この鎧は住吉神社の神託で、武田氏が拝領した、それに菱文様が付いているのだから、これは家紋とみてよい」というものである。…

 特に「多くは、裏紋または控え紋として花菱を用いたが、女性などはやさしさを表わすために花菱を多用した。」と書かれている部分には関心を持っています。

俗に女流家紋とか裏紋と言われるものですが、もしも、百嶋由一郎氏が残したメモの通り、孝元天皇の皇別氏族としての大彦が武田氏の祖とすれば、この一族が近畿大和朝廷などの後裔ではないはずで、何故なら学会通説は欠史8代として近畿一帯には何らの痕跡もないことから(そんなものある訳がないのです。何故なら、七世紀以前の近畿大和は、主要な古代史の舞台では全くないからです)崇神以前は全て架空のものとしたのですから。

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門光が九州王朝の正統皇統を示すものであることを知っている方にしか分かっていただけないのですが、故)百嶋由一郎氏からは、通常、久留米の高良大社表掲げられている左三つ巴の住吉の神紋と木瓜(モッコウ)紋は、臣下の神紋で本来の九州王朝正統皇統の神紋ではなく“本物の神紋は内部に隠されています…”と聞かされていました。

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ただ、四割菱は承知していましたが、当時は(と言うより近年まで)、武田氏の神紋が門光とは理解しておらず、その分対応が遅れたのでした。

してみると、ひぼろぎ逍遥(跡宮)345 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

で書いた、甲州市勝沼から直ぐの山梨市に八幡神社にかなり大きな高良神社と若宮神社が摂社として置かれている事も、第8代孝元天皇の大彦の一族が甲斐に進出している事を考えればすんなりと理解できるのでした。

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最後に、百嶋メモに書かれていた敢國(アヘクニ)神社を敬愛する「玄松子」氏のサイトからご覧頂くことにしましょう。

 敢國(アヘクニ)神社の敢(アヘ)が九州王朝、孝元天皇の大彦の後裔の阿部氏の(アベ、アヘ)に通底している事がお分かり頂けたのではないでしょうか?


敢國神社 三重県伊賀市一之宮877

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御祭神 大彦命 少彦名命 金山媛命 配祀 九所社 六所社


「敢國」と書いて、「あへくに」と読む。阿拝郡に居住した、阿閉氏が祀ったと考えられ、祭神は、その祖神・大彦命孝元天皇の皇子・大彦命は、阿部臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の祖。阿閉臣は、大彦命の子・大稲輿命の子孫。当社の北1Kmには、大彦命の墓と言われる御墓山古墳がある。境内社の祭神は、以下の通り。

大石社 不詳一座・須佐之男命・金山比古命・大日孁貴命・大山祇命 神明社 天照大御神

子授け神 祭神不詳 若宮八幡宮 仁徳天皇 楠社 楠正成・藤堂元甫結社 高皇産霊尊・手間天神

市杵島姫社 市杵島姫命 六所社 伊弉諾尊・伊弉册尊・日神・月神・蛭児・素盞嗚尊

九所社 祭神不詳 南宮山山上 境外社・浅間社 木華開耶姫命     敬愛する「玄松子」氏による

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こうして、ぶどう寺の三階松紋(孝霊、孝玄、開化)、花菱=門光(「高良玉垂宮神秘書」では門光)=唐花紋が武田信玄の建てた韮山の武田八幡宮の神殿脇殿に打たれていた唐花紋に端を発した武田信玄九州王朝後裔説は何とか解決が着きました。結局、五年前のぶどう寺探査の中間報告の延長上に武田信玄の一族が位置していた事が分かったのでした。つまり、開化天皇と神功皇后との長子仁徳(九州王朝のシンボル)を義理の兄弟である大彦=新羅三郎の一族(大彦は新羅から入っています)が奉斎したのでした。


百嶋由一郎が残した神代系譜、講演録音声CD、手書きデータスキャニングDVDを必要な方は09062983254まで

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:05| Comment(0) | 日記

ひぼろぎ逍遥 スポット299(前) 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 

ひぼろぎ逍遥 スポット299(前) 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 

山梨県 若宮八幡神社(追補)

20221005

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は ひぼろぎ逍遥(跡宮)960 の補足のためのものです。お読みでない方はそちらを優先して下さい。一般的にはトンデモ話としか言えない武田家九州起源説を再度展開し、よって武田の一族が如何なるものであったのかを多少とも浮かび上がらせたいと思います。

その意味では晩年の信玄公が建てた武田八幡宮を考えるのは価値ある事になります。

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もし読者で余力のある方がおられたら五年ほど前に入り書いた以下のぶどう寺リポートと併せて読んで頂ければ、今回取り上げる武田氏のご先祖がどこからやってきたかがより鮮明に浮かび上がってくることでしょう。私自身も、もう、半ば忘れかけていますが、かつてこのぶどう寺問題に取り組み、凡その見当を着けていました。武田勝頼の一族はこのぶどう寺(大善寺)の奥で自決します。その意味でも武田氏とぶどう寺とはただならぬ関係があったと思われます。

さて、九州王朝論者の方でも九州在住者でれば、久留米市の大善寺玉垂宮をご存じのはずです。

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しかしこの地に、つまり大善寺玉垂宮の傍に大善寺(旧玉垂宮神宮寺)〒830-0073 福岡県久留米市大善寺町宮本791−1−2 までもが存在していることまで知っている方は皆無だと思います。

これについてはかなり複雑ですが、そもそも白鳳元年(672)、三池長者師直が玉垂宮の古跡に法相宗の僧「安泰和尚」が勧請し、左に八幡菩薩、右に住吉大明神、中央に高良玉垂大菩薩を安置し、その側に精舎を開基して「御廟院高法寺」と号したのが始まりである。 延暦年中(782-805)に天台宗となる。” 御船山等学院 大善寺だいぜんじ 天台宗とされているのです。電話: 0942-26-3600

一方、宇佐八幡宮の呉橋が掛かる寄藻川を2300ⅿ上流に遡ると、ここにも白龍山大善寺(大分県宇佐市南宇佐2801)曹洞宗が存在するのです。

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この大善寺と言う名そのものが何やら大きな謎が関係しているように見えると思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

125

宇佐神宮とは何か? S “宇佐神宮の勅使井と百体神社”

124

宇佐神宮とは何か? R “宇佐神宮の隣の国東に

鎮座する八幡神社の境内社について”

123

宇佐神宮とは何か? Q “宇佐神宮の(仮称)中宮に

鎮座する若宮神社とは何か?”

122

宇佐神宮とは何か? P “宇佐神宮の上宮に鎮座する

三摂社を実見した?”

120

宇佐神宮とは何か? O “勅使来訪により呉橋が一般公開された”

106

白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社

(安芸の宮島のルーツ)”

105

宇佐神宮とは何か? N “そろそろ本殿の探査に

踏み込みましょう”

104

宇佐神宮とは何か? M “到津屋敷をご存じですか?”

103

宇佐神宮とは何か? L “御許山の別名=馬城峰(マキボン)とは

「三国史記」の目支国のマキ”

102

宇佐神宮とは何か? K “境外摂社鷹居社とは何か?”

101

宇佐神宮とは何か? J “安心院の妻垣神社は自称神武こと

崇神天皇を供応したか?”

100

宇佐神宮とは何か? I “安心院の三女神社は筑紫の君が祀った?”

99

宇佐神宮とは何か? H “安心院の三女神社は二女神社だったのか?

98

宇佐神宮とは何か? G “神宮の故地か?今も上宮内二摂社が

院内町に鎮座する”

97

宇佐神宮とは何か? F “宇佐神宮の向こう側”

96

宇佐神宮とは何か? E “御許山の大元神社とは何か?”

95

宇佐神宮とは何か? D “宇佐神宮の境内摂社「大尾神社」をご存じですか?”

94

宇佐神宮とは何か? C “宇佐神宮宝物館の神輿は誰のものだったのか?”

93

宇佐神宮とは何か? B “宇佐神宮の神宮寺としての大善寺”

92

宇佐神宮とは何か? A “和気清麻呂は勅使道ではなく舟で上陸した”

91

宇佐神宮とは何か? @ “呉橋から北へと延びる勅使道”


それどころか、それ以上は踏み込まないでいたのですが、今回、武田八幡宮を見せて頂き、武田氏のご先祖様は戦国期から1000年以上前に九州から入っていたという確信を持つに至ったのでした。

今回はこの信じ難い驚愕の仮説を提出する事にします。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

 

349

勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽

神社には何故「三階松の神紋」があるのか?”

 

348

勝沼ワインの里の大善寺 F “ぶどう寺にはなぜ

「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)A

 

347

年毛神社と神代製塩池について “宗像、津屋崎境界領域の謎の古社”

 

346

蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜

 

345

勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

 

344

勝沼ワインの里の大善寺 E “ぶどう寺にはなぜ

「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)

 

343

勝沼ワインの里の大善寺 D “ぶどう寺にはなぜ

「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(下)

 

342

勝沼ワインの里の大善寺 C “ぶどう寺にはなぜ

「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(中)

 

341

勝沼ワインの里の大善寺 B “ぶどう寺にはなぜ

「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(上)

213

勝沼ワインの里の大善寺 A “大善寺の全国的傾向”

 

212

勝沼ワインの里の大善寺 @ “山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の神宮寺”

 
     

 では山梨県のぶどう寺をご覧下さい。

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無題.png天下統一を競った武田信玄亡き後、勝頼は織田徳川の連合軍の近代装備と物量の前に敗退し、天正十年(158233日、郡内の岩殿城で再興を図ろうと韮崎の新府城を出発し、大善寺で戦勝を祈願して一夜を明かしました。

しかし、武田家再興がかなわないと見た家臣の大半は夜半に離散し、また、岩殿城主小山田信茂の裏切りに合い、勝頼主従は天目山を目指しましたが、織田徳川の連合軍に行く手を阻まれ、ついに311日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来五百年続いた甲斐源氏も滅亡しました。

その一部始終を目撃した理慶尼が記した「理慶尼記」は「武田滅亡記」ともいわれ、尼の住んでいたこの大善寺に保管されています。

勝頼の家臣たちは、勝頼を最後まで裏切ることなく守り、戦死しましたが、その子供たちは後に徳川家康に重用され、江戸時代には各地の城主に任命されました。勝頼の「宿」となった薬師堂にはその子供たちから寄進された文殊菩薩、毘沙門天が安置されています。 同寺院HP「武田勝頼と大善寺」より

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ここで5年前に書いたぶどう寺の話に繋ぎます。この時点では武田氏が神武僭称贈る崇神の時代に開化天皇の指揮下で送り込まれた四道将軍の一方面軍の大彦(開化天皇の腹違いの兄弟)の一族こそが武田氏に繋がっており、その九州王朝の象徴である(開化=高良玉垂命と神功皇后の長子)仁徳=シレカシノミコト(藤原はオオササギノミコトとしますが)を奉斎する大彦の一族こそが後の武田氏である事が分かってきたのです。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:05| Comment(0) | スポット