スポット309 祖母山を南から見ると ❷ “やはり本来山頂に祀られていたのは神武皇兄五瀬命だった”
20230117
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
979 祖母山を南から見ると ❶ は、祖母山の祖母の意味に対してそれを打立てたのが阿蘇系分流の大神一族=大神惟基〜惟栄でありそれは熊襲 猛の後裔だったのではないか、さらに言えば豊後大野を中心に流布されるウガヤフキアエズ王朝説というファンタジーまでも数代を掛け勢力拡大に務めた大神一族に依るものであろう…という仮説をたてました。対して、古祖母山、土呂久集落の側から、祖母山を巡る慇懃なる有難い指摘を頂いた事への返答を込めたものでした。
ただ、指摘を受けっぱなしの回答だけでは寂しくもあり、さらに真実を復元するために話を進めて見たいと思います。
祖母山周辺、神州 高千穂から荒城の月の竹田という九州脊梁山地の周りの神社も多少とも巡ってきた者として、祖母山と言う名は異名で、尚且つ山岳修験が付した仏教擦れしたものでもない品のある名ではある事から(そもそも山岳修験は岳、嶽を使いたがるのですが)妙に収まってもいたのでした。
大族が大いなる居住可能な大地を発見すると、まず、その一族が奉斎する祖神をそこに恵みの水を贈る高峰の頂に祀り国土の開拓を行うものです。
同様の例は佐賀、福岡の境をなす天山(テンザン)、人吉盆地の市房山…も直ぐに頭に浮かぶもので、その名を付した人々は天山(テンシャン)山脈を知った人々だったはずであり、市房山も、「呉越同舟」の呉の夫差の後裔が球磨川の迸り注ぐ八代に辿り着き、直ちにその膨大な水が何処から流れ出しているかを調べ、そこで人吉盆地を発見したはずです。
列島でも稀な周囲を山で遮られた天上楽土の東の高峰に夫差の御霊を置いて未来永劫その恩恵を受けようと「市房山」と付したと考えていました。

1,700メートルの高峰 市房山 (左) 祖母山(右)
当然にも市房の意味は、斎奉る の意「市」(厳島=市杵島)宗像の市(瀛)杵島姫の瀛夫差であったはずです(呉の一族が八代の妙見神社周辺に亡命したという話は一般的であり割愛します)。
話を戻しますが、市房山については相良という重要氏族が誇張すれば千年王国を保ったのです(鎌倉初頭〜)。それは周りから攻略し難い国であったからの恵みで、正に夫差の霊力であり恩寵だった訳です。
対して祖母山は、南に狡猾なタカミムスビ系の本拠地高千穂が有り、諸塚〜西都原という大山祗〜大国主系の絶対的配下に入る広大な古代日向の大地が広がり、最奥部の五ヶ瀬一帯にも金山彦〜スサノウ系の金属精錬集団の本拠地があり、南北朝期まで下ればカミムスビ系の熊野修験が跋扈した土地でした。
当然にも北は、阿蘇氏の分流たる大神一族の天下であり、本来の彦五瀬に象徴される金山彦系は現在、僅かに命脈を保っていると言うべきでしょう。
一方、時代は降りますが、吉野から四国脊梁山地の南麓を利用し九州と連携していた南朝方は、阿蘇氏がその一派でもあるにも拘わらず(菊池氏は阿蘇氏に偽装するも大山祗系の別流)、祖母山南麓を通路としていたのです。延岡〜日之影〜高千穂東の祖母山南麓に東からから可愛岳、木山内岳、五葉岳、烏帽子岳、真弓岳、矢筈岳、丹助岳、戸川岳、烏帽子岳、二ツ岳…と修験特有の地名がずらりと並んでおり、対して祖母山北麓には横岳、佐間ケ岳、鳥嶽、萩岳程度であって、そこは豊後大野の大神比義氏のエリアではない事から、旧勢力のエリアと考えられそうです(岳、嶽は修験の地名)。
熊野修験は当然にも祖母山南路を好んで利用し、現在人気沸騰の南阿蘇は高森町上色見の熊野座神社〜同じく色見の熊野座神社辺りに入っていたと考えています。
その意味では、大神比義の一族と熊野修験の一族との関係も見て取れるのです。時代を無視すれば(と言っても修験は古代まで遡りますが)、非常に薄い我田引水の推定を行えばそう見えるのです。
祖母山と嫗嶽(姥岳)

さて、これまで祖母山周辺の多くの勢力の鬩ぎ合いのほんの一部に触れたのですが、祖母山山頂に姥岳若しくは嫗嶽と言う呼称が整理されないまま混在している事にお気づきになった方もおられるでしょう。
この問題を整理することから始めなければなりません。まず、分かり易くするためにも簡略化されたものからご紹介しましょう。以下は現在の健男霜凝日子神社の理解です。
健男霜凝日子神社は、孝徳天皇白雉二年(650)に、現在の下宮(健男神社)に社殿を建立し、下宮と唱へ遥拝所としたと記録され(出:平成祭データ)、祖母山の頂上が上宮、健男神社を下宮、そして穴森神社の三社を総じて健男霜凝日子神社と言うと伝わる。
上宮とされる祖母山への信仰は、神話の時代にまで遡り、続日本後紀や平家物語にもその名前が記載され、社号は別名嫗岳大明神・鵜羽明神・祖母山大明神等の呼び方がある。
祖母山の名前の由来は、神武天皇の祖母にあたる豊玉姫命の事を指して、嫗(うば・祖母)嶽と言うと伝わります。
では、祖母と姥(嫗)とは同じなのでしょうか?
確かに一分祖母が乳母になる事はあるでしょうが、本来、乳を与え世話をするのが乳母のはずです。勿論、政略結婚が横行する古代の事祖母が姥(乳母)より若い場合はありえますが。
高千穂宮崎jappanより
本来、乳母(うば・めのと)とは、母親に代わって子育てをする女性のこと。
ただ、姥とは老女の意味でも使われる。
かつて、現在のような良質の代用乳が得られない時代には母乳の出の悪さは乳児の成育に直接悪影響を及ぼし、最悪の場合はその命にも関わった。そのため、皇族・王族・貴族・武家、あるいは豊かな家の場合、母親に代わって乳を与える乳母を召し使った。
また、身分の高い女性は子育てのような雑事を自分ですべきではないという考えや、他のしっかりとした女性に任せたほうが教育上も良いとの考えから、乳離れした後、母親に代わって子育てを行う女性も乳母という。また、商家や農家などで、母親が仕事で子育てができない場合に、年若い女性や老女が雇われて子守をすることがあるが、この場合はねえややばあやなどと呼ばれることが多かった。
ウィキペディア 20230118 17:30
ここら辺からが重要な部分ですが、豊玉姫と山幸彦が出会い三年添って生まれた子つまり、天津日高日子波限建鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズ)は、豊玉姫の子育て放棄によって、妹とされる玉依姫(我々百嶋神社考古学の者には他の玉依姫、神玉依姫、活玉依姫)と区別するために鴨玉依姫とします)が、その意味では代わりの乳母として育てることになります。
その乳母が嫗嶽、姥岳と表現されている可能性もあり、事実、物部氏の力が強かった時代には、もしかしたら山頂には山幸彦=ヒコホホデミと豊玉姫が祀られ、また、鴨玉依姫さえも姥として祀られた時代があったのかも知れないと考えています。ここで誤りがないように先に引用した神武天皇の祖母にあたる豊玉姫命という酷い表現ですが、この意味は崇神を神武に見立てる偽装なのです。ただ、本物の神武の母神は神玉依姫であり千葉県の玉前神社に奉られています。勿論、上賀茂の玉依姫とも異なります。
何故かと言えば、高千穂は日向の最北端に位置しその日向とは大山祗の本拠地であったからなのです。
ご存じの通り、日向一之宮=都農神社(宮崎県都農町)の表向きの主神は大山祗の息子大国主命であり、二宮は大山祗と次女木花咲弥姫を祀る妻神社です。
この大山祗系の勢力こそが物部氏の主力であり、その中心人物こそが山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦であり、伊勢の外宮=伏見稲荷をお妃としているからです。その日子穂々出見命のお后とは大山祗の長女=神大市姫(ミズハノメ)の子である伊勢の外宮様=豊受大神=伏見稲荷様でもあるからで、如何にタカミムスビの本拠地の高千穂でもおいそれとは反駁できないのです。
あまり知られていませんが、豊後との国境添いの高千穂側にも祖母嶽神社があります

祖母嶽神社 祖母宮大明神 カーナビ検索 宮崎県西臼杵郡高千穂町大字五ヶ所1662
祭神 日子穂穂出見命 豊玉姫命 天津湯彦命 菅原道真公 大日霊女貴命
ここも山頂に近い神社であることから気にしているのですが、ここまで来ると山頂の豊玉姫と直接関係のない健男霜凝日子というある種対抗する二柱の祭神に対して、釣り針の故事によって出会い三年添ったとされる山幸彦と豊玉姫の二柱の夫婦神が祀られているのです。
ただ、天津湯彦命というあまり知られていない神が天照よりも上位に祀られているのです。
「先代旧事本記」に書かれている以上、物部氏でも言わば山幸彦=日子穂々出見命の臣下とも言うべき格下の従神が祀られていること自体不思議なのですが、どうもこの神社は高千穂の神社でありながら、熊野修験にも物部氏にも配慮した配神となっているのです。
その意味で天照=大日霊女貴命が下げられているのかも知れず、少し奇妙な感じを与える神社です。
そこまで考えて来た上で、山頂付近に祀られる神々が漸く出揃った感じがします。
豊玉姫より遥かに格上(年嵩)しかも系統も全く異なる製鉄神金山彦の長子健男霜凝日子=神武皇系五瀬命こそが本来祖母山の基層にあったであろうことは、祖母山の南北特に豊後の竹田市にも痕跡を留めており、祖母山周辺の金属精錬、冶金がどれだけ古代にまで遡れるかは別として、多くの金属精錬の徒に修験の民も加わり棲み分けとも、排斥とも言えぬ緊張関係が存在していたものと思案しています。
では、百嶋由一郎が残した数枚の神代系譜から消された神代を少しでも復元して見たいと思います。
何を突飛な推定をしているのかと言ったご批判は冷静に受け止めるつもりですが、実のところ、川原一之氏の熟考されたご著書の50p余りに於いてさえ、我々百嶋由一郎の洗礼を受けた一人としては、許しがたき錯覚、思い込み、飛躍がページごとにあり、冷静に読むことはかなり難しかったのですが、自己の未熟さを抑えつつも、全てに添削を加えたいとさえ思いました。今更ながら品格を云々されるのは明らかであると思い留め、不十分かつ分かり難い駄文を書いたものだと思うばかりです。唯一の価値は問題がかなりクリアになった事でした。最後に、そこに踏み込み、将来への準備稿としたいと思います。

百嶋由一郎最終神代系譜 見づらいでしょうが全体が分からないと意味がないためこの形で表示します
できればこのページだけを印刷し、さらに141パーセントの拡大したA3タイプでご確認ください。

祖母山山頂に祀られる所謂祖母山神社、ここでは呼称を無視し=健男霜凝日子神社(姥嶽大明神本社)若しくは姥岳神社の混乱を整理するにも、まずは祭神を確定する必要があります。
普通は、祭神 健男霜凝日子神、豊玉姫命、彦五瀬命という三柱の祭神とされますが、それ自体、時代も世代も系統も全く異なり非常に違和感があります。
それは異なる集団の奉斎する神々が明治ではなく、かなり古い時代にも妥協によって合祀されたからと考えられます。ここで最終神代系譜の部分図を見ていただきます。
まず、健男霜凝彦ですが、金山彦と日向にいた大山祗の妹神大市姫の間に生まれた彦五瀬命こそが健男霜凝彦=神武皇兄五瀬命(本物の神武天皇の本物のお后であるアイラツ姫の実兄)なのです。
当然、金山彦系、大山祗系、カミムスビ系勢力が背後に控えていた。
対して豊玉姫ですが、当然にも彦五瀬命からは三世代、四世代…半世紀以上(60年)も降る人物であり、系統だって考えれば、豊玉姫は豊後側から創作された阿蘇大蛇伝説を持って阿蘇系の熊襲 猛の父神ウガヤフキアエズ+女神奈留多姫(阿蘇神社初代宮司家)から見た母神を祖母と描きその化身若しくは使いの大蛇の子が大神惟基と描いたのでした。
当然にも、格式つまり神格としては南麓の日向側から健男霜凝日子が遥かに高貴であったはずで、そこにかなり後代の平安期になって捩じ込まれたのが豊玉姫であり、この偽装と言うべきか変更をもたらしたのは大神一族、そして阿蘇氏→藤原氏+タカミムスビ系の者々だったはずなのです。逆はあり得ないはずです。
彦五瀬が祖母山山頂だか元祖母だかに祀られたのは数百年遡ったはずで、そこに於いては議論の余地はないように見えるのです。
少なくとも金山彦系が今尚強い痕跡を残しているのが豊後では竹田市から日向の高千穂は河内そして、眼前に四恩山を望む上野(カミノ)から竹田に抜ける回廊、土呂久鉱山から尾平越えの急峻な地溝、日之影の見立渓谷から杉ケ越えを抜け宇目(佐伯市)に降る辺りにあったのが木浦鉱山でしたか…、何れにせよ、山間地に於いては僅かであっても、金属の価値は凄まじく大きく、それが金山彦系の力の源泉だったのでした。これまで多くの時間を費やし神社を巡ってきた神社フリークの目から見れば、日向は西都市を中心に全域が大山祗系です。一方、名貫川渓谷を中心に高千穂、延岡一帯も金山彦系のエリアですが、豊後の木浦鉱山など豊後側の山岳地帯も五ヶ瀬〜高千穂の上野も金山彦系の地だったはずです。

対して、大峡谷によって遮られているとは言え、肥後でも高千穂に隣接する草部吉見の本拠地が阿蘇外輪山の外に在り、川上 猛の分派か本流かは尚分からないとした大神一族が豊後の最奥部ともいうべき豊後大野市一帯に盤踞しているのです。そして彼らを川上 猛の後裔氏族と考えていることは何度となく申し上げてきました。自らの出自が阿蘇宮司家初代と思われる奈留多姫とウガヤフキアエズとから出ている事からウガヤフキアエズを経由し豊玉姫を祖母と認識しているのです。
つまり新興勢力へと成長した大神一族と阿蘇系でも草部吉見系氏族が祖母山に豊玉姫を祀り、本来の神も残したのです。
このように神々峰の南北の谷の地域的偏重、民族的差異、時間軸で見るべき重層性、それに加わる現状の過疎化、高齢化、神社への尊崇の念の消失という危機的な問題が重なり誰も何も知らずに神社庁と通説派が垂れ流す大嘘だけが生き残ると言う愚かな文化伝統継承の断絶が目前に迫っているのです。
必要なところは書いたとは思いますが、祖母山の山上の神々に纏わる混乱の背後にあるものは、神代から古代に於ける支配的勢力の入れ替わりがあるようです。
その背後には、新興勢力である阿蘇系でも当方に進出した草部吉見系+恐らく熊襲 猛の敗残に端を発した大神一族がその流れの延長にウガヤフキアエズを介在し、ウガヤを父神(親父)、豊玉姫を祖母に描く神話の捏造、変造を持って提携し、敗残した金山彦系、大山祗系に対抗する構造が生じたのだろうと考えています。
蒸返しますがこのブログを書く切っ掛けとなったものは川原一之の「浄土むら土呂久」でした。
加えてこの話を取り上げておられる「まーりんエッセンス振動数を上げる」という良質の鋭いブログも併せ、個人的にはかなり引っ掛かるところがありますので、いずれ余裕があれば、逐一、反論、異論、疑問を書きたいのですが、それをやりだすと切りの無い不毛な連鎖になりかねず、読者にもご迷惑をおかけすることになるでしょう。
そこは感情を抑え何れ余裕があれば自分の考えを表したいと思います。
話は変わるも特に土呂久を描き歴史の中に位置づける事は重要で、水俣病の原田正純教授と医師として現地で丹念な報告書を作成された堀田宣之医師の特に「慢性砒素中毒研究」➋ 土呂久鉱毒病の臨床的研究、➌ 土呂久鉱毒病の予後−6年後の追跡調査報告− にも書かれている慶長の銀山から始まり昭和37の閉山までの鉱毒被害に遡る古代、神代の金属精錬(銀、銅、鉛、亜鉛錫、アンチモン、亜砒酸、ダンビュライト)も含め現地の神々を再度位置付け直し、何度目かの土呂久に入らざるを得ないでしょう。旧土呂久鉱山は慶長年間に銀山として開発されたが,鉱物の種類が豊富で,徳川時代には幕府直轄鉱山として殷盛を極めた.(19p)
文中でも取り上げた神代系譜などを必要とされる方は09062983254までご連絡ください