2023年04月29日

スポット312 松田聖子姫は初代神武天皇のお妃の後裔か“九州王朝論者でも誰も知らないお話” 上〜

スポット312 松田聖子姫は初代神武天皇のお妃の後裔か“九州王朝論者でも誰も知らないお話” 上〜

20210907

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この話は、前ブログ 908 「宮原誠一の神社見聞牒」(176)からの転載 “荒木しず姫(五十鈴姫)の地は荒木の日吉神社か”の続編とお考えになって結構です。

 宮原氏の緻密なお話に続けてこれからお話するのはオチャラケた好い加減な話に受け取られるのは転載させて頂いた手前同氏に申し訳ないのですが、最後はかなり重要な内容に繋がりますので、ご辛抱の上お読み頂ければと考えています。

宮原誠一氏は“久留米市荒木町には荒木しず姫(五十鈴姫)を祀る神社はありません”とされています。

 それはそれで良いのですが、実は百嶋神社考古学の研修所がある大分県日田市の中川駅と天瀬温泉駅(JR九大線)の間に筑後川の支流玖珠川の川沿いにこの五十鈴姫を祀る神社があるのです。

 これについては以下で書いておりますので興味がおありの方はお読み下さい。以下、部分を再掲載


 ひぼろぎ逍遥

357

贈)崇神天皇のお妃五十鈴姫を祀る神社が日田市天瀬町にある

 

福岡県の久留米市から大分県日田市を抜け別府、大分方面に向かう久大線沿いに走る国道210号線の傍らに五十鈴姫神社があります。

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無題.png伊勢の五十鈴川は知られていますが、古代史に五十鈴姫が登場します。


ヒメタタライスズヒメ

ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)は、神武天皇の皇后である。

神武天皇は、東征以前の日向ですでに吾平津姫を娶り子供も二人いたが、大和征服後、在地の豪族の娘を正妃とすることで、天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた1つに統合されることになった。

『日本書紀』では「媛蹈鞴五十鈴媛命」と記す。『古事記』では「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)と記し、別名、「富登多多良伊須岐比売」(ホトタタライスキヒメ)としている。

皇后の名の中にある「タタラ」とは、たたら吹きを指したり、その時に用いられる道具を示す場合もあり、このことは、皇后の出身氏族が、製鉄と深い関係がある東部出雲(島根県松江市、安来市、奥出雲町を含む)地域であったことを物語っていると考えられている(加藤義成『古事記参究』素行会(1986年)など)

ウィキペディア20170131 19:20 によ


無論、百嶋神社考古学の洗礼を受けた者が、このような神代系譜を真に受けている訳ではないのですが、この系譜に登場する初代(1)神武天皇に第10代贈)崇神天皇を偽装したい藤原の意図が透けて見える構造となっているのです。

 その話に踏み入る前に、まず、境内を見回すと、何故か花梨の木が二本神木宜しく植えられていました。

 また、他地区からの持ち込みの可能性もあるのですが、久留米水天宮(天御中主命)、お稲荷さん、密教法具を持った僧形の像も置かれていました。

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この水天宮、稲荷が元々の祭神だった可能性もあるのですが、今のところ何とも言えません。

まず、この五十鈴姫は初代神武天皇のお妃などでは全くなく、贈)崇神のお妃と考えています。

無題.png贈)崇神の息子に豊城入(ニュウ)彦がいます。当然、豊の国にいたのです。百嶋先生は、“後に、久留米市豊城に入って住んでいた”と、話されていました。

そして、大分と久留米を繋ぐ街道筋に、その母(義理?)であり、贈)崇神のお妃を祀る神社があってもおかしくはないのです。

そして、元々あった水天宮や豊受大神(稲荷さん)を押し退けても、これまた、おかしくはないのです。

現段階では現地の神社の聴き取り作業ができていないためこれ以上の事は書けませんが、百嶋先生が作成された「荒木の静チャン+チビッ娘鮎チャン系譜」を見て頂きましょう。

少し小さい場合は縮尺を150%に上げて見て下さい。

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百嶋由一郎「八女津姫系譜」A


豊城入彦の母親とは違いますが、同じく贈)崇神のお妃である五十鈴姫(別名荒木の静チャン)は、事代主(古々代ヘブライ系)と活玉依姫(母=鴨玉依姫、父=大山咋)の間に産れているとします。

この五十鈴姫の娘国片姫も開化の側室になり、九躰皇子の四人を産んでいるようで、今のところ、この系統が後の九州王朝の正統皇統仁徳天皇など九躰皇子の五人の系統を脅かしていったのではないかと考えています。

系譜を見られれば分かる事ですが、この五十鈴姫をお妃とした贈)崇神(所謂神武僭称偽神武)はニニギの系統の古計牟須姫と贈)孝安天皇との間に産れた三沼君(三潴)の妹チビッ娘鮎チャンも妃としていますし、「景行紀」に登場する八女津姫について“いつも山中におられます”と言う猿大臣(海)=大海姫も妃としているのです。

チビッ娘鮎チャンとか荒木の静チャンとかおちゃらけた名称で馬鹿にされる方もおられるかも知れませんが、まず、郷土史、神社伝承と言ったもので、そのように呼ばれていたというものを知らないため、これ自体は、百嶋先生のおふざけかなとも考えています。ただ、後でこの事だったのかと気付かされるところが多いため、何らかの根拠がある可能性も捨て切れません。

チビッ娘鮎チャンは子供の頃の愛称としても、百嶋先生が、五十鈴姫を何故「荒木の静チャン」と呼んでいたかについては、この間考えあぐねていましたが、最近になって、当会の百嶋研究に精通したU女史が一つのヒントを与えてくれました。

それは、「静チャンをズズー弁で言って見たら分かりますよ…」だったのです。

「シズ」は「スンズ」ですね、それが、後に、五十鈴姫の「スズ」に置き換わった可能性、若しくは、元々、久留米市荒木周辺でも「スンズ」と呼ばれていた事さえも考えても良いのかも知れません。

当然ながら、雲州、伯州、つまり、島根県、鳥取県の辺境部を中心に東北の所謂ズズー弁に相当する言語特性が確認されている事はかなり知られています。

さらに、百嶋先生の講演録にも天草の一部に、ズズー弁に近いものがあったような話もされており、普通は、荒木の「シズ」チャンが、畿内から東日本で「スズ」チャンに置き換わったと考える方が合理的ではあるのですが、九州にもかつてズーズー弁が存在した可能性を鼻から排除する気にもなりません。

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百嶋由一郎「八女津姫系譜」 @


無題.png今回は、初代神武天皇を僭称する贈)崇神天皇の一人の妃(五十鈴姫)の子=国片姫が九州王朝の高良玉垂命(開化)の妃として入り九躰皇子の四人(側室腹)を産んでいる可能性がある事を知って頂くだけにしておきます(百嶋先生は、崇神は神功皇后、開化よりかなり高齢の臣下だったと話されていました)。なお、関東にも五十鈴姫神社がかなりあるようです。

さて、ここから宮原誠一氏も取り上げられた歌手の松田聖子姫のお話にしたいのですが、残念ながら紙面が不足します。


九州には蒲地姓の方がおられますご覧のとおり「姓名分&ランキング」でも歴然としています

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どう見ても九州の氏族であり、松田聖子さんも生粋のそれも九州王朝の本拠地の一つ久留米市の名家の出自であることが分かるのです

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2023年04月28日

スポット311 長屋親王木簡問題 ❷ 

スポット311 長屋親王木簡問題 ❷ 

   20220708

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


当研究会+丁巳歴史塾は、熊本県和水町の菊水史談会と提携し、埼玉県在住(熊本県玉名市出身)の佃収先生をお呼びして延べ10時間に及ぶ和水町講演〜北九州市戸畑講演を行いました。

菊水史談会は、元々、先生が玉名市のご出身であったことから十数年前から佃先生の講演会に取り組んでこられました。菊水史談会は10数年前から佃研究に取り組んでこられ最盛時は180人規模で講演会も行われていました。正に、熊本県でも民間研究団体の最大業績と言えるでしょう。

当方も、福岡県久留米市や久留米大学などで佃 講演に取り組みましたが、菊水史談会のご努力には敬意を表しています。

巷の史談会、郷土史会が、どこかで聞いた風な通説派のインチキ話を、教育委員会関係者とか学芸員から拝聴し、ただただ平伏し、翌日には忘れてしまっているという有様である事を考えれば、古田武彦九州王朝論を遥かに抜き去っている佃 収 九州王朝論 を支えて頂いた事には、十分な賛意を表したいと思うものです。

無題.png

しかし、同会も高齢化と、若手の新規参入が堪え、何れは消失への道へと進むものと思われ、今後の佃収九州王朝論を継承は無理としても、保持し、拡散する責務を担わされた事になります。

幸いなことに、我々のグループにはまだまだ若い熱心な研究者が集まっており、生涯を掛け、一生を費やして研究を続けてこられた佃先生や百嶋先生の業績を後世に残し引き継ぐ作業を行う事が出来ればと、新たな決意をしているところです。佃 収 九州王朝論、百嶋神社考古学を軸に継承したいと思います。

多くの、史談会、郷土史会、地名研究会…が、自らの研究を放棄し、ただの親睦会に堕落しつつ、村興し、町興し、邪馬台国シンポジウム…といった、文化庁の天下りの腐臭が漂ような(全国に邪馬台国の候補地は百か所もあります…お前ら馬鹿か!)インチキ官製文化運動、果ては、世界遺産登録へと進むと、日本文化の崩壊へと突き進むとしか思えず、ただのフィクションに過ぎない、韓国、中国の歴史ファンタジーと同列以下に堕落して行くことでしょう。

我々だけはそうした底なし沼には近づかないつもりですが、何時の時代にもさもしい人間はいるもので、更に戒めるべきと思うばかりです。

ともあれ、昨年は熊本県和水町40人(529日の6時間)〜北九州市戸畑区60人(65日の4時間)での連続講演を行うことが出来、何とか述べ100人の講演会を行うことが出来ました。

先生のご年齢を考えると、今後も年に一度と言わずお話をお聴きしたいと思っているのですが、何としても、武漢肺炎ウイルスによる3年間のブランクは悲しいばかりです。

我々は、むしろ、これまで以上に、福岡(北九州、久留米)、熊本、大分、佐賀での小規模集会、分散集会、トレッキングを継続していたことから、勢力を維持し、むしろ拡大をさえ見ていますが、熱心な若手参集者を得ており、今後もこの傾向は継続するものと考えています。

しかし、国家的規模での思考停止状態に追い込んだ行政の無策には怒りを禁じえないばかりで、そればかりか、数十兆(6070)もの金を外国資本に毟り取られているそうですから(ワクチン6億回分)子供にまで無理やり摂取させようとするのでしょう。ウクライナ支援+復興支援で10兆円…これも一部の官僚どもだけにキックバックが送られているはずなのです。日本は事実上、全世界の破産国家のATMの役割をさせられている事になっているのです。話が逸れましたが、実験的に 佃 収 講演の音声ドキュメントをオンエアしたいと考え、本ブログとYouTube音声とを結合させたメディアを実行したいと思います。

新「日本の古代史」(佃説)

はじめに

これまで書いてきた論文を年代順に並べて『新「日本の古代史」(上)(中)(下)』として出版した。
しかし、各論文は独立して書いている。そのため「歴史の流れ」を読み取るのは難しいという声があった。
今年(20204)、二日間(夜まで延長有り)の講演をすることになった。講演資料はほぼ完成した。ところが新型コロナ・ウィルスのために中止(延期)になった。そこで講演資料を基に「日本通史」を書くことにした。講演にも使えるように考慮しながら「歴史の流れ」を理解してもらうことに重点を置き「通史」を書いた。
私の「古代史」は従来の「日本史」とはまったく異なる。それを明確にするために「(佃説)」を挿入した。
新しい「日本の古代史」を「通史」として理解していただければ幸いである。
(概要篇)ではあるが、次の二点については詳細に記述した。
一つは、「倭人(天氏)」の渡来(天孫降臨)である。
「倭人」(天氏)」の渡来により、「日本人」が誕生する。「現代日本人」のDNAの8割は「倭人」(天氏)」のDNAである(本文)。
「倭人」(天氏)」は「日本語」をもたらした。「日本」の始まりである。
そのため「倭人(天氏)」の「誕生」から「渡来ルート」、「渡来地」について詳述した。
もう一つは、「邪馬壹国」問題である。「邪馬壹国」関連の本は毎年出版されている。「邪馬壹国」問題は未解決になっている。国民の関心も高い。
そのため「邪馬壹国」について、その争点、問題点等をほぼ網羅するように「邪馬壹国の誕生」、「邪馬壹国への行程」、「邪馬壹国と伊都国の争い」、「邪馬壹国と狗奴国の争い」、「邪馬壹国の終焉」等について詳述した。未解決問題は無いと考えている。
図表は各章の最後に掲載している。
本文に「××号」とあるのは巻末の【参考文献】を参照されたし。2020年 7



202265日(日)13001700 60人規模で佃 収 講演を北九州市(戸畑区)でも行います

会場   福岡県北九州市戸畑区汐井町16 ウェルとばた 8F JR鹿児島本線 戸畑駅 隣

講演者 『古代文化を考える』(同人誌)主宰 佃 収 (著書多数) 参加費1000

テーマ 熊本は「貴国から高市天皇」でした北九州では、「日本人の起源」〜「倭の五王」まで

テキストとして「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)1200円当日:40部限定販売


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佃 収氏の講演会を長年に亘って実施されてこられた事だけでも敬服に値しますが、菊水史談会の功績は何と言っても「納音(ナッチン)九州年号対応表」(和水町の旧庄屋の住居に保管されていた古文書の一部)の確保でした。これは長年に亘って佃 収先生の著書を隈なく読み込んで来られた前垣事務局長でなければ発見できなかった功績であり、あれほどの実例のある「九州年号」を認めない教育委員会や学芸員(通説が嫌がる九州王朝実在の証拠だからです)が如何に無視しようとも歴史的業績は消え去る事は無いでしょう。「九州年号」には「二中歴」を始めとして「海東諸国紀」「如是院年代記」「本朝皇代記」「和漢春秋暦」「興福寺年代記」「王代年代記」…など実際には20以上の実用例があり、明らかに近畿大和政権以前に実在し使用されていた言わば九州王朝を現在に伝える物証なのです。

ただ、この幾つかに分かれた年号群は大半は対応するも、初年号が幾つかのもので「継体」「善記」と異なるとか、使用期間が違うと言った点があり、初歩的な議論では磐井の乱で九州王朝を滅ぼしたはずの継体(福井県から出てきたなどと言われる)の名が付された「継体」が何故九州年号と言えるのかと言った話まで出ていたのでした。

そこでお考え頂きたいのですが、この「九州年号」に幾つかの系統があり、それが九州王朝の分裂と関係が無題.pngあるのではないかと指摘されたのが佃 収先生でした。皆さんも後醍醐天皇と南北朝騒乱期の事は良くご存じの事と思います。近畿大和朝廷の延長上の内戦時においても従来の年号は使用されており、南北朝期の60年間は互いに別々の年号を創っていたのです。後に南朝の後亀山天皇は、統合を受諾し三種の神器が後小松天皇の御所に移され南北朝分裂が終わり、この時南朝の年号が廃止しされ北朝の年号「明徳」が存続したのでした。これについて古代史の復元シリーズ 5》「倭の五王と磐井の乱」を読まれるべきですが、新著の早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)第2二部第1章物部麁鹿火政権(佃説)以下第2章阿毎王権(俀国)、第3章豊王権、第4章上宮王権、第5章天武王権、第6高市天皇…をお読みください。実に素晴らしいクレバーな解析です。

古田武彦が鬼籍に入り、続く多くの研究者も続き九州王朝論を正しいと考える研究者は、佃 収氏と僅かな方しか残っておらず、何れ、九州王朝って何のことだと言われる時代が目前に来ています。

かつては九州王朝を意識した研究会もあったのですが、研究者を失い村興し町興し果ては世界遺産登録に浮かれ、通説派の教育委員会関係者や学芸員のご高説を賜り賛意を表する状況では早晩九州王朝研究も消失するでしょう。

中には自称九州王朝論の研究者と称すも、行政の芸人に成り下がる方々も出るようではさぞかし古田武彦も草葉の陰から嘆いているでしょう。佃収先生は九州王朝論の主流派である古田史学などから独立し自らの研究を続けて来られました。それだけでも敬服に値しますが、九州のフィールド・ワークを徹底して続けて来られました。現在そうした研究者を見ません。かつては「法隆寺は移築された」を書かれた米田良三氏も居たのですが氏も鬼籍に…。

現在、当会は熊本、福岡(福岡、太宰府、久留米)、佐賀、大分の4県で研究機、講演会、勉強会と合わせ現場でのフィールド・ワークも続けています。関心をお持ちの方は、ブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」外のトップ画面スケジュール表をご覧ください。また、九州内だけでも当会メンバーによるブログ(百嶋由一郎神社考古学に触発された)が十数名により20本(全国レベルでも356本)が公開されています。


太宰府地名研究会+百嶋由一郎神社考古学研究会(文責:古川)

事務局 中島 茂 09052892994 (通信不能時連絡 古川 清久  090-62983294


今回、延10時間に及ぶ佃先生の講演を聴き非常に感銘を受けましたので、CD二枚組で配布を進めています。もう二十回は聴いたと思いますが、特にカー・ステレオで聴いていると雑念がなく頭に吸い込まれて行きます。

MP3方式で作成しておりお送りすることもできますが、パソコン、ここ10年ぐらいのカー・ステレオ、ソニーなど数社のCDプレイヤーをお持ちの場合はお聴き頂くことができます。

今般、九州王朝論の心臓部ともいえる貴国、倭の五王政権、大彦の渡来と言った時期から物部麁鹿火王権、阿毎王権(俀国)辺りまでを最初の70分ほどで一気にお話になりました。

これについては、随時、ユーチューブにアップしたいと考えています。

次に、豊王権、上宮王権、天武王権、高市天皇…と進みますが、これについては、ネット上の日本古代史の復元というサイトから早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)によりPDF画像で論文をお読み頂くことをお勧めします。

九州年号には幾つかの系統があり、九州王朝という単独の政権が、仮に卑弥呼以降、単独の王権が8世紀初頭まで存続していたといった理解をされている方が大半ではないかと思いますが、佃収説では、そのような単純な理解はされておらず、前述した王権が入れ替わりながら、年号に変更が加わり推移しているという仮説を提出されているのです。

南北朝争乱期に於いても、分裂期には、北朝年号、南朝年号(吉野)が各々異なった年号を使用していることと対応するのです。

このような最先端の議論に結びつくのであり、是非ともお聴きいただきたいと思います。

尚、冒頭で、天武天皇の子である高市王子の子(天武の孫)の長屋親王の木簡問題に触れておられますので、佃講演と併せ「のんびりと古代史」お読み頂きたいと思います(以下)。

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「長屋親王宮木簡」への雑感  2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理 20

【東野治之『続日本紀』と木簡を検索してください(他にもありますが一例として紹介します)。

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勝手ながら「のんびりと古代史」様から引用させて頂きます。

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「長屋親王宮木簡」への雑感  2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理

無題.png東野治之『続日本紀』と木簡

 新日本古典文学大系月報3(1989年3月、第12巻:続日本紀一付録)の冒頭に東野治之氏の『続日本紀』と木簡と題された小論が掲載されている。この中で東野氏は、「(日本古代史の研究には)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。正史の記述は、ある年代を隔て、公的な制約のもとに書かれているからである。」とした後で、長屋王家木簡出土についての見解を記している。

「長屋王は高市皇子の子で、祖父は天武天皇、文武天皇や元正天皇とはいとこ同士で、やはりいとこで草壁皇太子の娘、吉備内親王を娶っている。その長屋王が、神亀六年(719)二月、謀反を計っているとして自殺させられる事件が起こった。事件の背後には、王が皇位継承者となることを恐れた藤原氏側の謀略があったとされている。それが事実であったことは、『続日本紀』天平十年七月条の記事からも明らかである。しかし長屋王が全く悲運の人であったのかどうか、今回の木簡は、そのような見方に再検討を迫るものといえる。」 

 東野氏は論点をずらして長屋王が悲運の人であったことを見直さなくてはならないと木簡の意義を主張している。しかし、この木簡に「長屋親王」と記されていたからといって、東野氏が言うように、「長屋王が全く悲運の人であったのかどうか」とは全く無関係である。「親王」と呼ばれていようがいまいが、後に濡れ衣であることが判明する謀反の罪で自殺を強要され家族とともに自害したと記される「長屋親王」が悲運の人であることに変わりはない。

 長屋王の出自や経歴を紹介した後で主題である木簡の話題に移る。「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡についての説明では、「律令制下では、天皇の子であるか孫であるかは明確に区別があった。ところがこの木簡では、長屋王が親王と呼ばれている。すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と述べている。

 「(公的な制約のもとに書かれている)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。」と客観的な立ち位置に自ら立っていると宣言しておきながら、「長屋親王宮鮑大贄十編」を前にして、『続日本紀』の記述に合わせて、長屋王が親王と呼ばれていたのは「すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と論点を巧妙にずらしているのである。 

【一次史料>二次史料が前提】

 このように解釈すればどのような発見があっても既成概念に合わせるように論を組み立てることは可能であろう。研究者が前提としなければならないのは、史実を追究するならば、後世の人が何らかの意図を以て作成した『続日本紀』よりも何の意図もなしに1300年近く地中に眠っていて偶然発掘された木簡の記述をまず信用しなければならない。『続日本紀』は正史とはいえども、政権の意図を反映するために編纂された二次史料であるが、「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡は長屋王を後世の人に長屋親王であると思わせるなどの意図とは全く関係なく捨てられていた一次史料なのである。一次史料に記された内容を史実として歴史を組み立て直すことが必要とされるのではないだろうか。

 東野氏のように新史料を真正面から受け止めずに論点をずらして解釈すれば、これまでの学会の通説を守ることはできても学問が追求しなければならない真実へ近づくことは永遠にできそうもない。当代一流といわれる研究者の30年以上前の論文を俎上にあげて批判したが、最近になっても学会で「高市天皇論」が議論されたということを聞かないので依然として前掲の東野論文の主張が主流となっているのではと危惧している。勇気をもって自説を展開する若手研究者の出現を期待したい。


これを御用学者と言わずして誰をそう言いいましょうか…こんなものは学者、研究者ではない!(古川)

第一級の一次資料を無視し、自説を優先するのですから酷いですね。彼は、自らの著書で親王は普通の皇子とか王ではない、皇位継承権があるから親王なのだ…と書いているのです。

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2023年04月27日

スポット310 長屋親王木簡問題 ❶

スポット310 長屋親王木簡問題 ❶

   20220708

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


当研究会+丁巳歴史塾は、熊本県和水町の菊水史談会と提携し、埼玉県在住(熊本県玉名市出身)の佃収先生をお呼びして延べ10時間に及ぶ和水町講演〜北九州市戸畑講演を行いました。

菊水史談会は、元々、先生が玉名市のご出身であったことから十数年前から佃先生の講演会に取り組んでこられました。菊水史談会は10数年前から佃研究に取り組んでこられ最盛時は180人規模で講演会も行われていました。正に、熊本県でも民間研究団体の最大業績と言えるでしょう。

当方も、福岡県久留米市や久留米大学などで佃 講演に取り組みましたが、菊水史談会のご努力には敬意を表しています。

巷の史談会、郷土史会が、どこかで聞いた風な通説派のインチキ話を、教育委員会関係者とか学芸員から拝聴し、ただただ平伏し、翌日には忘れてしまっているという有様である事を考えれば、古田武彦九州王朝論を遥かに抜き去っている佃 収 九州王朝論 を支えて頂いた事には、十分な賛意を表したいと思うものです。

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しかし、同会も高齢化と、若手の新規参入が堪え、何れは消失への道へと進むものと思われ、今後の佃収九州王朝論を継承は無理としても、保持し、拡散する責務を担わされた事になります。

幸いなことに、我々のグループにはまだまだ若い熱心な研究者が集まっており、生涯を掛け、一生を費やして研究を続けてこられた佃先生や百嶋先生の業績を後世に残し引き継ぐ作業を行う事が出来ればと、新たな決意をしているところです。

多くの、史談会、郷土史会、地名研究会…が、自らの研究を放棄し、ただの親睦会に堕落しつつ、村興し、町興し、邪馬台国シンポジウム…といった、文化庁の天下りの腐臭が漂ようような(全国に邪馬台国の候補地は百か所もあります…お前ら馬鹿か!)インチキ文化運動、果ては、世界遺産登録へと進むと、日本文化の崩壊へと突き進むとしか思えず、ただのフィクションに過ぎない、韓国、中国の歴史ファンタジーと同列以下に堕落して行くことでしょう。

我々だけはそうした底なし沼には近づかないつもりですが、何時の時代にもさもしい人間はいるもので、更に戒めるべきと思うばかりです。

ともあれ、今回、熊本県和水町40人(529日の6時間)〜北九州市戸畑区60人(65日の4時間)での連続講演を行うことが出来、何とか述べ100人の講演会を行うことが出来ました。

先生のご年齢を考えると、今後も年に一度と言わずお話をお聴きしたいと思っているのですが、何としても、武漢肺炎ウイルスによる3年間のブランクは悲しいばかりです。

我々は、むしろ、これまで以上に、福岡(北九州、久留米)、熊本、大分、佐賀での小規模集会、分散集会、トレッキングを継続していたことから、勢力を維持し、むしろ拡大をさえ見ていますが、熱心な若手参集者を得ており、今後もこの傾向は継続するものと考えています。

しかし、国家的規模での思考停止状態に追い込んだ行政の無策には怒りを禁じえないばかりで、そればかりか、数十兆(6070)もの金を外国資本に毟り取られているそうですから(ワクチン6億回分)子供にまで無理やり摂取させようとするのでしょう。ウクライナ支援+復興支援で10兆円…これも一部の官僚どもだけにキックバックが送られているはずなのです。日本は事実上、全世界の破産国家のATMの役割をさせられている事になっているのです。話が逸れましたが、実験的に 佃 収 講演の音声ドキュメントをオンエアしたいと考え、本ブログとYouTube音声とを結合させたメディアを実行したいと思います。


熊本神代史研究会トレッキング(太宰府地名研究会)202267月のスケジュール


 

梅雨明け710日に大分県竹田市〜豊後大野市の3社に掛けてトレッキングを行います。何故、この神社を選んだかと言えば、この間取り上げてきたヤマト・オグナの熊襲退治の一方の主人公である河上 猛が、この祖母山北麓の穴森神社と健雄霜凝日子神社に関連する阿蘇大蛇伝説を創った大神一族ではなかったのか…という仮説と繋がってきたのです。それこそが百嶋由一郎が残した示唆が導いてくれたのでした。

河上猛は阿蘇大神氏なのです。

22710日(日)10時に熊本県高森町スーパーASUKA:熊本県高森町大字高森1978-2集合(弁当持参)。

テーマ:祖母山の祖母とはなにか? 一体誰の祖母なのか? では祖母の孫とは誰なのか?

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 穴森神社 カーナビ検索 大分県竹田市神原1432番地 祭神:穴森大明神 嫗嶽大明神とも…延喜式内社 豊後國直入郡 健男霜凝日子神社とも…   ※ お賽銭は各自でご準備下さい(オープン参加)。

➋ 健男霜凝日子(タケオシモゴリヒコ)神社神幸所(里宮) カーナビ検索竹田市神原2447

➌ 宇田姫神社 カーナビ検索 豊後大野市清川町三玉1493 御祭神   華ノ本姫

➍ 岡 城址 カーナビ検索大分県竹田市竹田2889                  お杖代09062983254(古川)

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今回、佃収先生の熊本(和水町)講演が急遽決まりました。このため、準備不足ながら8日間に2度もの講演会を行うことになりました。日々追われる皆様にはご迷惑をお掛けしますが、逆に言えば最良かつ念願の講演者のお二人をお迎えすることになります。時間に余裕がなく宣伝できませんが最大の取り組みを行います。

皆さん宗像市に何故 かのこの里、かのこゆり と二つもの施設(道の駅)があるかお分かりになりますか?

無題.pngこの花は市杵島姫が愛した花との伝承があるのですが、彼女が幼少期を過ごしたと思われる飯塚市鹿毛馬の厳島神社の鎮座地が田島(宗像の辺津宮)でその隣接する大字が佐與(サヨ)なのです。ここに住んでいたから別名が作用姫(兵庫の佐用町佐用津姫神社)になっているのですが、これが古代中国語ではユリを意味していたようなのです。赤間、東郷は市杵島姫の実在を思わせます。そしてこの花は鹿児島県いちき串木野市(市杵島姫が地名に反映していますね)、薩摩川内市の沖に浮ぶ甑島が列島でも最大の群生地なのです。百嶋神社考古学では阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミと市杵島姫とは夫婦で、先生からも神武巡行に随行し甲府から戻り、薩摩の阿多の村主(スグリ)になっていると聴いています。これが甲府の天津司神社の舞として残り、徳島の二つの天都賀佐比古神社として痕跡をとどめているのです。してみると甑島に鹿島町があったことも分かってきます。の鹿島も草部吉見=ヒコヤイミミ(藤原氏の祖神)なのです。彼女も共に。

ここで、ネット上の無題.pngから佃先生の簡略化された通史の目次を紹介します。

目 次

第1部 倭人の誕生から「倭の五王」まで ( )内はページ

第1章 人類の誕生と移動(3)

DNAと遺伝子(3)

ホモ・サピエンスの誕生(4)

出アフリカ(Y染色体遺伝子による)(4)

第2章 倭人の誕生(佃説)(7)

北方モンゴロイドの移動(約18000年前)(7)

満州人・朝鮮人・日本人の祖先(7)

第3章 倭人(天氏)の移動(9)

呉の倭人(9)

呉越の戦いと東表の倭人(10)

山東省の倭人(天氏)(11)

第4章 倭人(天氏)と箕子朝鮮(佃説)(13)

箕子朝鮮(13)

倭人(天氏)の移動(14)

第5章 倭人「卑弥氏」(佃説)(18)

倭人(卑弥氏)とは(18)

「倭人(卑弥氏)」の移動(19)

第6章 中国東北地方の古代史(周〜戦国時代)(22)

燕と箕子朝鮮の戦い(22)

古代中国王朝の領域(23)

「燕の長城」と「万里の長城」(23)

箕子朝鮮と大凌河(25)

「倭人(天氏)」と「箕子朝鮮」の関係(26)

第7章 中国東北時代の古代史(前漢時代)(31)

前漢時代の中国東北地方(31)

漢と衛氏朝鮮(32)

第8章 「倭人(天氏)」と高天原(佃説)(38)

天氏と卑弥氏の出会い(38)

天氏による「高天原」の建国(39)

高天原の時代(41)

第9章 『古事記』『日本書紀』の「天孫降臨」(44)

『日本書紀』の「天孫降臨」(44)

『古事記』の「天孫降臨」(45)

『古事記』『日本書紀』の「天孫降臨」の問題点(47)

10章 「倭人(天氏)」の移住(佃説)(48)

高天原の危機(48)

高天原からの移住の決意(49)

筑紫へ移住(天孫降臨)(49)

11章 「倭人(天氏)の渡来」の[検証](52)

吉武高木遺跡(52)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(須玖遺跡)(54)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(吉野ヶ里遺跡)(56)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(考古学から)(57)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(人類学より)(61)

12章 伊都国と神都(佃説)(67)

伊都国の樹立(67)

伊都国の発展(68)

13章 「卑弥氏」の渡来(第1回目)(佃説)(70)

「倭城」からの逃亡(第1回目)(70)

「倭人(卑弥氏)」は朝鮮半島へ(71)

朝鮮半島の「倭国」(71)

弥生時代後期と委奴国の樹立(72)

「委奴国」と金印(74)

不彌国(75)

伊都国王権(76)

14章 「後漢時代」の倭(佃説)(78)

公孫氏と「倭」(78)

15章 「卑弥氏」の渡来(第2回目)(佃説)(80)

「倭人国」と「倭国」(80)

伊都国王権と倭国の戦い(第1回)(81)

「倭国(邪馬壹国)」の位置(佃説)(82)

「邪馬壹国」と「狗奴国」(87)

北部九州「倭国」の樹立(88)

公孫氏の滅亡と「景初二年」問題(89)

16章 倭国と伊都国、狗奴国の戦い(佃説)(94)

倭国と狗奴国の戦い(1回目)(94)

伊都国王権と倭国の戦い(95)

「倭国」と「狗奴国」の戦い(2回目)(96)

17章 神武東征(逃亡)(佃説)(98)

伊都国と倭国の戦い(98)

神武東征のルート(99)

18章 崇神天皇(佃説)(105)

崇神天皇の渡来(105)

19章 貴国の樹立(佃説)(111)

熊襲征伐(111)

20章 「倭の五王」の倭国(佃説)(116)

倭国の樹立(116)

「倭の五王」による全国支配(116)

「倭の五王」による全国支配の検証(117)

「倭の五王」と年号(119)

21章 「第1部」のおわりに(122)

「大彦」の子孫(122)

「天氏」と「卑弥氏」の渡来ルートとDNA(122)

「現代日本人」の形成(123)

第2部 「磐井の乱」から「高市天皇」まで(127)

1章 物部麁鹿火王権(佃説)(129)

「磐井の乱」(129)

「磐井の乱」の年代(130)

稲荷山古墳(131)

「辛亥年=471年」説(定説)の根拠(134)

「定説」の検討(135)

「辛亥年」=「531年」(佃説)(136)

「礫槨」の年代(137)

物部氏と物部麁鹿火(139)

物部麁鹿火王権とは(佃説)(140)

物部麁鹿火王権の本拠地(佃説)(141)

仏教伝来(佃説)(142)

第2章 阿毎王権(俀国)(佃説)(146)

新王権(146)

新王権の本拠地(147)

新王権=「俀国」(佃説)(148)

阿毎王権と百済救援(151)

阿毎王権と元興寺(152)

阿毎王権と蘇我氏(佃説)(153)

阿毎王権と日羅事件(佃説)(154)

第3章 豊王権(佃説)(158)

用明天皇(158)

「欽明天皇」への疑問(159)

用明天皇の本拠地(160)

用明天皇の殺害(163)

用明天皇の系譜(164)

推古天皇(165)

豊王権と磯長(167)

第4章 上宮王権(佃説)(170)

上宮法皇(170)

上宮王権(171)

上宮王家(174)

上宮王権の本拠地(176)

舒明天皇(177)

第5章 天武王権(佃説)(181)

「天武王権」の樹立(181)

天武天皇と「天武天皇の父」(183)

天武王権の本拠地(184)

『日本書紀』の記す百済救援(185)

天武天皇と「百済救援」(187)

朝倉宮(189)

天武天皇と「白村江の戦い」(192)

天武天皇による西日本の支配(193)

「壬申の乱」(193)

第6章 高市天皇(佃説)(199)

高市天皇とは(199)

「高市天皇紀」(200)

藤原京の造営(200)

第3部 「王権乱立」の時代(佃説)(203)

第1章 豊王権の樹立(佃説)(205)

豊王権の独立(205)

阿毎王権と豊王権の独立問題(1)(206)

阿毎王権と豊王権の独立問題(2)(206)

第2章 上宮王権と豊王権(佃説)(208)

上宮王権と蘇我氏(208)

上宮王権の独立(209)

上宮王権と阿毎王権(210)

豊王権の再興(211)

第3章 阿毎王権から天武王権へ(佃説)(212)

「天武王権」の樹立(212)

第4章 上宮王権内の争乱(佃説)(214)

上宮王権と蘇我氏(214)

「豊王権」の逃亡(215)

「豊王権」の滅亡(216)

第5章 天武王権と上宮王権(佃説)(218)

天武王権は上宮王権を滅ぼす(218)

上宮王権の逃亡(218)

「上宮王権」の滅亡時期(219)

「壬申の乱」の深層(221)


第4部 「古代史」の改竄(223)

第1章 天武天皇による「古代史の捏造」(佃説)(225)

「万世一系」の系譜(225)

第2章 『日本紀』『日本書紀』『続日本紀』の成立(佃説)(227)

『日本紀』の成立(227)

『日本書紀』の成立(228)

『日本書紀』と『続日本紀』の成立時期(228)

第3章 『日本紀』を『日本書紀』に改竄(佃説)(230)

『日本紀』改竄の理由(230)

『日本紀』改竄の方法(1)(230)

『日本紀』改竄の方法(2)(231)

『日本紀』改竄の方法(3)(232)

講演では冒頭で長屋親王木簡について話しています。名指しはされていませんがネット上にはこの問題に対して多くの情報がアップされており、東野氏の事であろうと推定できます。恥ずかしいですね。


無題.png勝手ながら「のんびりと古代史」様から引用させて頂きます。

無題.png


「長屋親王宮木簡」への雑感  2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理

無題.png東野治之『続日本紀』と木簡

 新日本古典文学大系月報3(1989年3月、第12巻:続日本紀一付録)の冒頭に東野治之氏の『続日本紀』と木簡と題された小論が掲載されている。この中で東野氏は、「(日本古代史の研究には)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。正史の記述は、ある年代を隔て、公的な制約のもとに書かれているからである。」とした後で、長屋王家木簡出土についての見解を記している。

「長屋王は高市皇子の子で、祖父は天武天皇、文武天皇や元正天皇とはいとこ同士で、やはりいとこで草壁皇太子の娘、吉備内親王を娶っている。その長屋王が、神亀六年(719)二月、謀反を計っているとして自殺させられる事件が起こった。事件の背後には、王が皇位継承者となることを恐れた藤原氏側の謀略があったとされている。それが事実であったことは、『続日本紀』天平十年七月条の記事からも明らかである。しかし長屋王が全く悲運の人であったのかどうか、今回の木簡は、そのような見方に再検討を迫るものといえる。」 

 東野氏は論点をずらして長屋王が悲運の人であったことを見直さなくてはならないと木簡の意義を主張している。しかし、この木簡に「長屋親王」と記されていたからといって、東野氏が言うように、「長屋王が全く悲運の人であったのかどうか」とは全く無関係である。「親王」と呼ばれていようがいまいが、後に濡れ衣であることが判明する謀反の罪で自殺を強要され家族とともに自害したと記される「長屋親王」が悲運の人であることに変わりはない。

 長屋王の出自や経歴を紹介した後で主題である木簡の話題に移る。「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡についての説明では、「律令制下では、天皇の子であるか孫であるかは明確に区別があった。ところがこの木簡では、長屋王が親王と呼ばれている。すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と述べている。

 「(公的な制約のもとに書かれている)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。」と客観的な立ち位置に自ら立っていると宣言しておきながら、「長屋親王宮鮑大贄十編」を前にして、『続日本紀』の記述に合わせて、長屋王が親王と呼ばれていたのは「すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と論点を巧妙にずらしているのである。 

【一次史料>二次史料が前提】

 このように解釈すればどのような発見があっても既成概念に合わせるように論を組み立てることは可能であろう。研究者が前提としなければならないのは、史実を追究するならば、後世の人が何らかの意図を以て作成した『続日本紀』よりも何の意図もなしに1300年近く地中に眠っていて偶然発掘された木簡の記述をまず信用しなければならない。『続日本紀』は正史とはいえども、政権の意図を反映するために編纂された二次史料であるが、「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡は長屋王を後世の人に長屋親王であると思わせるなどの意図とは全く関係なく捨てられていた一次史料なのである。一次史料に記された内容を史実として歴史を組み立て直すことが必要とされるのではないだろうか。

 東野氏のように新史料を真正面から受け止めずに論点をずらして解釈すれば、これまでの学会の通説を守ることはできても学問が追求しなければならない真実へ近づくことは永遠にできそうもない。当代一流といわれる研究者の30年以上前の論文を俎上にあげて批判したが、最近になっても学会で「高市天皇論」が議論されたということを聞かないので依然として前掲の東野論文の主張が主流となっているのではと危惧している。勇気をもって自説を展開する若手研究者の出現を期待したい。


これを御用学者と言わずして誰をそう言いいましょうか…こんなものは学者、研究者ではない!(古川)

第一級の一次資料を無視し、自説を優先するのですから酷いですね。彼は、自らの著書で親王は普通の皇子とか王ではない、皇位継承権があるから親王なのだ…と書いているのです。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット