スポット320 筑豊から消された諏訪神社 D “事代主命再考” 永留久恵の「海神と天神」から
20210905
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
まだ、詳しくは聴いていないのですが、メンバーの「事代主のブログ」氏から気になる情報が流れてきました。
それは、“恵比須の正体が分かった。対馬の和多都美神社の宮司(元の宮司?)の話として「恵比須」とはウガヤフキアエズの称号で歴代襲名されていたものだった”といった話だったのです。
いずれ、添田〜小石原でのトレッキングで逢うので、詳しい資料は貰えるのですが、それを待たずに、故)永留久恵先生の「海神と天神」から同社の部分を読み直すと確かにこの話に繋がる内容が書かれているのです。
この部分は数十年前に読んではいるのですが、まだ、神社研究にはさらさら踏み込んでもいなかった事から、さらさら気付きもせずに読み飛ばしていたのです。

以下同著38pをお読みください。

永留先生の文章でもウガヤフキアエズorアズミノイソラが何故「恵比須」とされたかについては言及がありません。
従って、ここではそういう事実が存在していた事を確認するのみで引き下がらざるを得ません。
この事実だけをもって、事代主がウガヤフキアエズやアズミノイソラだかの別名であると決めつけるのは早計と考えるのですが、宮司が語る家伝とか社伝となると、憚られてか危険性からか書くことはできなかったから口伝として残したとも考えられ、待ち遠しい限りです。
「わたつみのいろこのみや」というフレーズも“いろこ”は鱗(うろこ)の古形ですし、それっぽいのですが、一方の恵比寿=事代主に爪とか棘とか鱗とか尾、鰭などといったものが全くない事から直ちに結びつけるのは困難ではないかと思うものです。
デッド・ロックにぶつかった為、少しネット検索を行うと、ウガヤフキアエズ王朝説論者の方の話にウガヤと蛭子が同一神との話が出てくるのです。以下…。
第11代マガキルツルギヒコ天皇
エビス様とは、外国の神様ではなく、実はヒルコ(蛭子)のことです。
今回は、そのエビス様から直接教えを受けて、それを熱心に全国に広めた天皇のお話しです。
実は、「エビス信仰」には、深い深い教義が存在していたのであり、単なる「商売繁盛」の神様ではありませんでした。
そして、それはなぜ封印されたのでしょうか?
そもそもヒルコとは?
ヒルコは、イザナギ・イザナミの最初の子供でしたが、生まれたとき息をしていなかったため、箱舟で流されて北海道に辿り着き、ここでエビス様と呼ばれました。
⇒記紀が説くように、不惧者でも水子でもありませんでした。【攻撃1】
『ウエツフミ』によると、スサノオが北海道を訪れたとき、謎の翁が釣竿を持って鯛を釣りあげ、スサノオにふるまいながら、こう告げます。
「我は、汝の兄である。北海道を造り固めるため魚釣りをしている」
そして、その鯛があまりにも美味しかったので、スサノオは「妙魚(たえな)」と叫び、これが「鯛魚(たいな)つまり鯛」の語源であると説明されています。
⇒原文はこちら
この頃、北海道は「恵美(えみ)の国」と呼ばれていました。
つまり、正式には「恵美の国の主であるヒルコ」であり、省略されて「恵美主」となったようです。
同様に「蝦夷(えみし)」の語源も、「恵美の国の氏(子)」なのかもしれません。
つまり、もともとは「恵美子(えみし)」?
あるいは、単純に「蛭子」が「エミシ」と読まれたのかもしれませんが、誰かが意図的に「変な当て字攻撃」を仕掛けているとしか思えません。【攻撃2】
このことは最後の結論につながってきますので、よく覚えておいてください。
そして、「西の宮」に対して、「東の宮」が存在していたこともほぼ間違いありません。
それが北海道の江差地方なのです。【攻撃3】
⇒「江差岳」という地名しか書かれていないのでその場所は特定できず。
ヒルコから直接教えを受けた天皇
さてさてその後、このエビス様に教化されて熱心に信仰した天皇がいました。
それが第11代ウガヤフキアエズ天皇マガキルツルギヒコでした。
この天皇は、不思議なご縁で鶴と亀に導かれて北海道に渡り、そこでエビス様に遭遇します。
つまりエビス様から招かれたのです。
このとき11代はまだ赤ん坊だったので、父とその摂政の二人が同行します。
江差の岳に、綿帽子をかぶったエビス様が登場して、こう告げます。
「我が子孫たちよ、よく来たなあ。まあここに座れ。おまえに会いたいから使いをやったのだ」 と、そばに招き、 病弱だった父の第10代には健康法を教え、 赤ん坊の第11代と摂政に対して、自分の教えを語り始めます。
⇒原文はこちら
どちらにせよ、メンバーでも先行する「宮原誠一の神社見聞諜」氏と「事代主のブログ」氏のお考えが理解できれば、この事代主問題にも光が刺してくるかも知れません。
困ったときには敬愛する「玄松子」としますので、少し参考のために事代主を探ってみましょう。
事代主 『古事記』に、大国主命と神屋楯比売命との婚姻によって生れた神。『先代旧事本紀』では、大己貴神と高津姫神との婚姻によって生れた神。
出雲国譲りの際に、事代主命は、鳥遊・取魚をしに出雲国美保ヶ崎へ行っていたため、 天鳥船神によって呼びもどされ、建御雷神に問われ、 「この国は天津神のお子様に差し上げましょう」と言って、 すぐに乗ってきた船を踏み傾け、天の逆手を打って船を覆して青柴垣に変え、 その中に隠れた。
出雲国譲りの際に、大国主神に代わって国譲りの言葉を述べたため、託宣の神。
出雲国譲りの際に、大国主神に代わって国譲りの言葉を述べたため、皇室の守護神。
神功皇后の三韓征伐で、この神の神徳があった。 『出雲國造神賀詞』では宇奈提に祀り、皇孫命の近き守り神とされた。
『古語拾遺』によると、神武天皇が即位の時、天照大御神と高皇産霊尊の勅に従って、 神籬を建てて祀った八神の中に一柱。後に宮中神祇官の八神殿において御巫に齋き祀られている。
『延喜式神名帳』宮中神の条に、「御巫祭神八座」とあって、 「神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神」の神名を掲げている。
ただし一説に、この事代主神は出雲とは無関係で、純粋な言葉の神とする。
出雲国譲りの際に、釣りをしていた神として、恵比須神と同神と考えられている。
三島神社に祀られる伊豆諸島の造立神・三島大神は、事代主神であるとする説が広く信じられている。
恵比須 漁業の神。市の神。商売の神。七福神の一人。
蛭子をエビスと読むことから、恵比須神を伊邪那岐神・伊邪那美神の御子・水蛭子尊とする説がある。
また、釣竿を持った姿から、恵比須神を大国主神の御子・事代主神とする説がある。
また、龍宮へ行って海神の法力を得た山幸彦(彦火火出見尊)とする説がある。
また、海のかなたの常世国へ戻ったためか、あるいは大国主神(大黒様)と協力して国土経営を行い、ともに祀られることが多いせいか、少彦名命を恵比須とする説もある。
エビスとは、異郷から来臨して幸をもたらす客神(まれびとがみ)。
ここから、海難者の水死体や、海中から拾い上げた石、漂流物を御神体とする場合がある
蛭子 『古事記』によると、伊邪那岐神と伊邪那美神は天の御柱を建て、まず伊邪那岐神が御柱の左より、伊邪那美神が右より廻り、 先に伊邪那美神が「ああ、いい男よ」と言い、次に伊邪那岐神が「ああ、いい女よ」と言った。 言い終った後、伊邪那岐神は「女から先に言うのはよくない」と告げるがそのまま契りを結び、 このときできたのが水蛭子で、葦船に乗せて流したとある。
『日本書紀』に一書では、淡路洲の次に蛭児が生まれたとも、 日の神、月の神に続いて蛭児が生まれ、三年たっても足が立たなかったので 天の磐櫲樟船に乗せて放流したともある。
名前から、手も足もない蛭のような形をした不具の児か、手や足はあっても骨なしの児と思われる。
『古事記』では、蛭子神の次に「淡島を生みたまいき、是も子の例に入らず」とあり、 淡島の淡は水泡のことで蛭子神にひっかけたものとも考えられる。
一説には、蛭子は、初子・長子という説がある。
また大日孁貴(おほひるめのむち:天照大神)に対しての日子、彦(ヒコ)だとする説がある。 太陽神を船に乗せて流すという神話は、多くの民族にもあるらしい。
また、ヒル神(蛹・蛾をヒル・ヒルルなどと呼ぶので、生れかわり形を変えて人間に利益をもたらす蚕をヒル神・ヒラ神として一種の神格を与えている)信仰の片鱗だとする説がある。
葦船に入れて流され、摂津国・西宮に流れ着いた蛭子神を養い奉じた西宮の土民が夷三郎殿と号したことから、 夷三郎大明神、夷神(恵比須)と崇められ、漁業の神・市場の神・商業神として信仰された。
では、百嶋由一郎神社考古学の者の立場から確認できる範囲で最終神代系譜を見ておきましょう。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)