2023年05月31日

スポット320 筑豊から消された諏訪神社 D “事代主命再考” 永留久恵の「海神と天神」から

スポット320 筑豊から消された諏訪神社 D “事代主命再考” 永留久恵の「海神と天神」から

20210905

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


まだ、詳しくは聴いていないのですが、メンバーの「事代主のブログ」氏から気になる情報が流れてきました。

 それは、“恵比須の正体が分かった。対馬の和多都美神社の宮司(元の宮司?)の話として「恵比須」とはウガヤフキアエズの称号で歴代襲名されていたものだった”といった話だったのです。

 いずれ、添田〜小石原でのトレッキングで逢うので、詳しい資料は貰えるのですが、それを待たずに、故)永留久恵先生の「海神と天神」から同社の部分を読み直すと確かにこの話に繋がる内容が書かれているのです。

この部分は数十年前に読んではいるのですが、まだ、神社研究にはさらさら踏み込んでもいなかった事から、さらさら気付きもせずに読み飛ばしていたのです。

無題.png

以下同著38pをお読みください。

無題.png

永留先生の文章でもウガヤフキアエズorアズミノイソラが何故「恵比須」とされたかについては言及がありません。

無題.png 従って、ここではそういう事実が存在していた事を確認するのみで引き下がらざるを得ません。

 この事実だけをもって、事代主がウガヤフキアエズやアズミノイソラだかの別名であると決めつけるのは早計と考えるのですが、宮司が語る家伝とか社伝となると、憚られてか危険性からか書くことはできなかったから口伝として残したとも考えられ、待ち遠しい限りです。

 「わたつみのいろこのみや」というフレーズも“いろこ”は鱗(うろこ)の古形ですし、それっぽいのですが、一方の恵比寿=事代主に爪とか棘とか鱗とか尾、鰭などといったものが全くない事から直ちに結びつけるのは困難ではないかと思うものです。

 デッド・ロックにぶつかった為、少しネット検索を行うと、ウガヤフキアエズ王朝説論者の方の話にウガヤと蛭子が同一神との話が出てくるのです。以下…。


11代マガキルツルギヒコ天皇

エビス様とは、外国の神様ではなく、実はヒルコ(蛭子)のことです。

今回は、そのエビス様から直接教えを受けて、それを熱心に全国に広めた天皇のお話しです。

実は、「エビス信仰」には、深い深い教義が存在していたのであり、単なる「商売繁盛」の神様ではありませんでした。

そして、それはなぜ封印されたのでしょうか?

そもそもヒルコとは?

ヒルコは、イザナギ・イザナミの最初の子供でしたが、生まれたとき息をしていなかったため、箱舟で流されて北海道に辿り着き、ここでエビス様と呼ばれました。

⇒記紀が説くように、不惧者でも水子でもありませんでした。【攻撃1

『ウエツフミ』によると、スサノオが北海道を訪れたとき、謎の翁が釣竿を持って鯛を釣りあげ、スサノオにふるまいながら、こう告げます。

「我は、汝の兄である。北海道を造り固めるため魚釣りをしている」

そして、その鯛があまりにも美味しかったので、スサノオは「妙魚(たえな)」と叫び、これが「鯛魚(たいな)つまり鯛」の語源であると説明されています。

⇒原文はこちら

この頃、北海道は「恵美(えみ)の国」と呼ばれていました。

つまり、正式には「恵美の国の主であるヒルコ」であり、省略されて「恵美主」となったようです。

同様に「蝦夷(えみし)」の語源も、「恵美の国の氏()」なのかもしれません。

つまり、もともとは「恵美子(えみし)?

あるいは、単純に「蛭子」が「エミシ」と読まれたのかもしれませんが、誰かが意図的に「変な当て字攻撃」を仕掛けているとしか思えません。【攻撃2

このことは最後の結論につながってきますので、よく覚えておいてください。

そして、「西の宮」に対して、「東の宮」が存在していたこともほぼ間違いありません。

それが北海道の江差地方なのです。【攻撃3

⇒「江差岳」という地名しか書かれていないのでその場所は特定できず。

無題.pngヒルコから直接教えを受けた天皇

さてさてその後、このエビス様に教化されて熱心に信仰した天皇がいました。

それが第11代ウガヤフキアエズ天皇マガキルツルギヒコでした。

この天皇は、不思議なご縁で鶴と亀に導かれて北海道に渡り、そこでエビス様に遭遇します。

つまりエビス様から招かれたのです。

このとき11代はまだ赤ん坊だったので、父とその摂政の二人が同行します。

江差の岳に、綿帽子をかぶったエビス様が登場して、こう告げます。

「我が子孫たちよ、よく来たなあ。まあここに座れ。おまえに会いたいから使いをやったのだ」 と、そばに招き、 病弱だった父の第10代には健康法を教え、 赤ん坊の第11代と摂政に対して、自分の教えを語り始めます。

⇒原文はこちら


どちらにせよ、メンバーでも先行する「宮原誠一の神社見聞諜」「事代主のブログ」のお考えが理解できれば、この事代主問題にも光が刺してくるかも知れません。

困ったときには敬愛する「玄松子」としますので、少し参考のために事代主を探ってみましょう。


事代主 『古事記』に、大国主命と神屋楯比売命との婚姻によって生れた神。『先代旧事本紀』では、大己貴神と高津姫神との婚姻によって生れた神。

出雲国譲りの際に、事代主命は、鳥遊・取魚をしに出雲国美保ヶ崎へ行っていたため、 天鳥船神によって呼びもどされ、建御雷神に問われ、 「この国は天津神のお子様に差し上げましょう」と言って、 すぐに乗ってきた船を踏み傾け、天の逆手を打って船を覆して青柴垣に変え、 その中に隠れた。

出雲国譲りの際に、大国主神に代わって国譲りの言葉を述べたため、託宣の神。

出雲国譲りの際に、大国主神に代わって国譲りの言葉を述べたため、皇室の守護神。

神功皇后の三韓征伐で、この神の神徳があった。 『出雲國造神賀詞』では宇奈提に祀り、皇孫命の近き守り神とされた。

『古語拾遺』によると、神武天皇が即位の時、天照大御神と高皇産霊尊の勅に従って、 神籬を建てて祀った八神の中に一柱。後に宮中神祇官の八神殿において御巫に齋き祀られている。

『延喜式神名帳』宮中神の条に、「御巫祭神八座」とあって、 「神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神」の神名を掲げている。

ただし一説に、この事代主神は出雲とは無関係で、純粋な言葉の神とする。

出雲国譲りの際に、釣りをしていた神として、恵比須神と同神と考えられている。

三島神社に祀られる伊豆諸島の造立神・三島大神は、事代主神であるとする説が広く信じられている。


恵比須 漁業の神。市の神。商売の神。七福神の一人。

蛭子をエビスと読むことから、恵比須神を伊邪那岐神・伊邪那美神の御子・水蛭子尊とする説がある。

また、釣竿を持った姿から、恵比須神を大国主神の御子・事代主神とする説がある。

また、龍宮へ行って海神の法力を得た山幸彦(彦火火出見尊)とする説がある。

また、海のかなたの常世国へ戻ったためか、あるいは大国主神(大黒様)と協力して国土経営を行い、ともに祀られることが多いせいか、少彦名命を恵比須とする説もある。

エビスとは、異郷から来臨して幸をもたらす客神(まれびとがみ)。

ここから、海難者の水死体や、海中から拾い上げた石、漂流物を御神体とする場合がある


蛭子 『古事記』によると、伊邪那岐神と伊邪那美神は天の御柱を建て、まず伊邪那岐神が御柱の左より、伊邪那美神が右より廻り、 先に伊邪那美神が「ああ、いい男よ」と言い、次に伊邪那岐神が「ああ、いい女よ」と言った。 言い終った後、伊邪那岐神は「女から先に言うのはよくない」と告げるがそのまま契りを結び、 このときできたのが水蛭子で、葦船に乗せて流したとある。

『日本書紀』に一書では、淡路洲の次に蛭児が生まれたとも、 日の神、月の神に続いて蛭児が生まれ、三年たっても足が立たなかったので 天の磐櫲樟船に乗せて放流したともある。

名前から、手も足もない蛭のような形をした不具の児か、手や足はあっても骨なしの児と思われる。

『古事記』では、蛭子神の次に「淡島を生みたまいき、是も子の例に入らず」とあり、 淡島の淡は水泡のことで蛭子神にひっかけたものとも考えられる。

一説には、蛭子は、初子・長子という説がある。

また大日孁貴(おほひるめのむち:天照大神)に対しての日子、彦(ヒコ)だとする説がある。 太陽神を船に乗せて流すという神話は、多くの民族にもあるらしい。

また、ヒル神(蛹・蛾をヒル・ヒルルなどと呼ぶので、生れかわり形を変えて人間に利益をもたらす蚕をヒル神・ヒラ神として一種の神格を与えている)信仰の片鱗だとする説がある。

葦船に入れて流され、摂津国・西宮に流れ着いた蛭子神を養い奉じた西宮の土民が夷三郎殿と号したことから、 夷三郎大明神、夷神(恵比須)と崇められ、漁業の神・市場の神・商業神として信仰された。


では、百嶋由一郎神社考古学の者の立場から確認できる範囲で最終神代系譜を見ておきましょう。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット

スポット319 筑豊から消された諏訪神社 C “事代主命再考”大国主命の長子という振れ込みについて

スポット319 筑豊から消された諏訪神社 C “事代主命再考”大国主命の長子という振れ込みについて

20210904

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


事代主命の素性はあまり知られてはいません。僅かながら百嶋由一郎氏の神代系譜(前ブログで公開していますが)にその片鱗を確認出来るものがありますので確認しておこうと思います。

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勿論、事代主神社として検索していますのでこれくらいの数でない事は確かであり、境内までの道を数百人が走り歳男を選ぶと言う有名な兵庫県の西ノ宮恵比須神社も事代主を祀る神社であることは言うまでもありません これもグーグルでは拾っていません


念のために恵比須神社でも福岡県の分布を見ておきたいと思います

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古古代ヘブライ系ですので、一応、東北も見ておきましょうこの一帯の主な恵比須神社の分布

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904 筑豊から消された諏訪神社 B  “事代主命再考”「事代主のブログ」氏と伴に に於いて、恵比須 様は古々古代ヘブライ系の民族であり、商売人であったという話をしました。

今日だからこそ多くの小売店、大型小売店が幅を効かすようになっていますが、古代、神代は元より江戸期まで都市部を除いて小売店などは少なく、祭りの縁日などに神社の参道での販売、購買が一般的で、そこでの売り上げと言うものは非常に大きく、神社もキックバックも得られ共存共栄の関係にあったのでした。

従って、この恵比須の一族は土地に根差した経済ではなく、ましてや国土開発などと言う物からは遠く離れた集団だったのです。

従って、商売の権益さえ保障(補償)され金儲けさえ認められれば、国がどうなろうが関係ない集団だったのです(まるで竹○平○の様な○国奴ですが…それは古くから列島にもいたのでした)。

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当然にも、美保ケ崎周辺にも恵比須神社は大きな分布を示しています。

 今回は、分布を確認するため図表だけになりましたが、では、何故、商売人としか思えない神代、古代以来の商人が鯛を脇に抱え込み釣竿を持ったスタイルで祀られ、しかも、大国主と並ぶ恵比須、大黒像が複合体としてセットで普及したのでしょうか?

 これについてはまだ目途が付いていませんが、「メンバーの事代主のブログ」氏から新たな情報が入りました。その内容は百嶋神社考古学から外れ、グループとしては容易に受け入れがたいものではあるのですが、さらに掘り下げる価値ある物になるのかも知れません。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット

2023年05月30日

スポット318 筑豊から消された諏訪神社 B “事代主命再考” 「事代主のブログ」氏と伴に

スポット318 筑豊から消された諏訪神社 B “事代主命再考” 「事代主のブログ」氏と伴に

20210831

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


事代主と言えば、島根県松江市美保関町美保関608が著名であり全国三千社と言われる恵比須神社の総本山が出雲の美保関にあります。美保神社です。この外に事代主神社、恵比須神社、西宮社…があります。

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故)百嶋由一郎氏も博多から北九州だけでも1000基近い恵比須さんが祀られているだろう…と言われていました。九州では直接鳥居、社殿を構えた恵比須系神社は少なく、大半は商売繁盛のシンボルとしての石像神が大半の様で、立派な社殿を持った神社は飯塚市の高宮八幡宮の境内社、国東半島、朝倉市甘木などで散見される程度です。

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まず、三穂津姫良くが分からないのですが、高御産巣日神の御子。『日本書紀』によると、出雲国譲りの後、高御産巣日神が大物主神に、 もし国神を妻とするならば、あなたが心を許していないと思う。 だから私の娘の三穂津姫をあなたの妻とし、八十万神をひきつれて、皇孫のために護り祀れと云った。”

敬愛する「玄松子」氏より

 高木大神から事代主への強烈な懐柔工作が行なわれているようなのですが、元々、事代主は土地を基盤としているのではなく、神社を中心に商を行なう通商民、商工業者集団であって、土地、国土には経済基盤を置いていない集団だったのです。

これで、事代主が高木大神系に寝返っている事が良く分かるのです。

 そもそも、三穂津比売自体がむしろスサノウとの関係が想定されるものであり、高木大神の子ましてや天津神系などというのは大嘘に思えるのです。

美保神社はウィキペディア氏が言われる様に単独祭祀が正しかったのでしょう。


美保神社 『出雲国風土記』には、大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものと見られる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210815 10:07


さらに神屋楯比売命も厄介なのですが、国幣中社に列せられ戦後も別表神社なのですから無視する事はできないのです。


神屋楯比売命 『古事記』に登場する女神で、大国主神の妻の一柱。名前だけの記述で、親神や神格などは一切不明。

ただし『先代旧事本紀』では高津姫という名で宗像の辺津宮に坐す神としているので、この伝承によれば多岐都比売命と同一神ということになる。また『日本書紀』には登場しない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210815 10:52


大国主命が市杵島姫と豊玉姫を妃にしていることは重々承知しており、それ以上に、往古、宗像大社は大国主命と少彦名命を祀る神社であった事も探査の重要ポイントとして各メンバーが苦闘されているのですが、神屋楯比売命までが大国主命の妃だったとは今までの認識を書き換えられそうです。これは一応は保留しますが、多岐都比売命となるとただ事ではなくなりそうです。それは、この女神こそが下賀茂神社の主神である鴨玉依姫に当るからです。

 さて、同社HPによれば、事代主命は神屋楯比売命こと鴨玉依姫と大国主命の子であるとされているのです。

 これも高木大神系の主張はいつも誇張が多く偽装が多いと言う印象を持ちますのでそのまま受け入れることはできないのです。

無題.png

依然として事代主の素性は不明です
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百嶋由一郎008イヨ神代系譜(部分)


どうも事代主という人物についてはハッキリした情報が少なく、これ以上の解析ができないのですが、易々と国譲りを受け入れてしまうなどやはり商売人という印象を拭えません。

 これも百嶋由一郎氏から聞いた話ですが、百嶋説では事代主は古古代ヘブライ系の人物で、元々、非常に古い時代(同氏の説で無題.pngは起源2000年前〜)に列島に入っている種族だった。 彼らは神農様を祭り、縁日などで物品を販売する権利を持つ集団だった。俗に的屋と言われるもので、固定した店舗での販売が多数派になるまで、縁日での販売による収益というものは非常に大きなものだったのです。そして、昔は良くこのテントの奥などに神農さまを祀っていたと言われていたのですが、最近はそれも減っているようです。この集団は「男はつらいよ」フーテンの寅にも散見されるものですが、古代から近代までかなりの影響力を持っていたのです。


的屋とは、縁日や盛り場などの人通りの多いところで露店や興行を営む業者のこと。 香具師、三寸とも呼ばれる。また、職業神として元々は中華文明圏より伝わり、神道の神となった「神農の神」「神農黄帝」を祀ることから、神農とも呼ばれる。


神農(しんのう)、炎帝神農(えんていしんのう)は、古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人。人々に医療と農耕の術を教えたという。神農大帝と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。薬王大帝(やくおうたいてい)、五穀仙帝(ごこくせんてい)とも。

無題.png神農は医療と農耕の知識を古代の人々に広めた存在であると伝承されており、その名は最古の本草書『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)の書名にも冠され残されている。

伝説によると神農は、木材をつかって農具をつくり、土地を耕作して五穀の種をまき、農耕をすることを人々に伝えた。また、薬となる植物の効用を知らせたとされる。そのために薬草と毒草を見極めようと神農はまず赤い鞭(赭鞭)で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した。神農の体は頭部と四肢を除き玲瓏透明で、内臓が外からはっきりと見えたという。もし毒があれば内臓が黒くなるので、そこから毒が影響を与える部位を見極めたという。その後、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まってしまい、最終的には罌子(ケシ)を服用したとき亡くなったという。四川省に伝わる民間伝承では「断腸草」という草を嘗めたのが最後で、腸がちぎれて死んだともされる。

神農は初代炎帝ともされる。初代炎帝は、古代中国の王で、姓は姜。120歳まで生き、長沙に葬られたといわれている。もしくは陳に置いていた都を魯に移し、140年間在位したとも伝えられている。『帝王世紀』には五弦の琴を発明し、また伏羲の作った八卦を2段に重ね、さらに研究して8x8の六十四の卦を作ったとある。神農の末裔たち炎帝神農氏は黄帝との衝突ののち合併・融合した。この子孫が後の漢族とみなされている。西晋代に至ると西周以前に漢水流域に居住していた農耕部族の歴山氏と同一視されるようになった。

伝説では炎帝と黄帝は異母兄弟であり、『国語』には、炎帝は少典氏が娶った有蟜氏の子で、共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を、姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗ったとある。また『帝王世紀』には、神農は、母が華陽に遊覧の際、龍の首が現れ、感応して妊娠し姜水で産まれ、体は人間だが頭は牛の姿であった。火の徳(木の次は火であること、南方に在位すること、夏を治めること)を持っていたので炎帝とも呼ぶ。とある。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210824 16:07


祭り、縁日とくれば、今は、焼きそば、綿菓子、烏賊焼き…が相場ですが、江戸期までは、作物の種、農薬、普通の薬、農耕用の鎌、鍬、鋤…などが中心で、まさに移動ホーム・センターの様な役割も持っていたのです。これがエベス様が商売繁盛の神様とされ、国譲りに抵抗した建御名方と異なり土地を奪われる事に執着しない理由だったのかも知れません。実は、9月にメンバーのS氏「事代主」のブログ管理者と出雲の美保ケ関の美保神社に行く予定を立てています。

 神社研究の専門家だけに一緒に行けるのはこの上ない機会であり、いつも行うトレッキングは下調べをしたうえでガイドを行なっているのですが、二人だけで機動的な調査を行なえることは有難い限りです。

 今回書いているものは下調べに近く、30年以上前に一度参拝しただけの神社ですので、実質は初見のようなもので、何か発見できればと思っています。勿論、私のテーマは、前述の以下の内容です。


神屋楯比売命 『古事記』に登場する女神で、大国主神の妻の一柱。名前だけの記述で、親神や神格などは一切不明。ただし『先代旧事本紀』では高津姫という名で宗像の辺津宮に坐す神としているので、この伝承によれば多岐都比売命と同一神ということになる。


 大国主命は鴨玉依姫を妃にしていないという理解をしていましたので、それで良いかを確認する事がテーマになりそうです。

 ただ、国譲りにいともたやすく了解していることから、国譲りの現場は福岡県の旧朝倉郡と考えてはいますが、何らかの糸口でも掴めないかと思うものです。

無題.png

スポット318 筑豊から消された諏訪神社 B “事代主命再考” 「事代主のブログ」氏と伴に

20210831

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


事代主と言えば、島根県松江市美保関町美保関608が著名であり全国三千社と言われる恵比須神社の総本山が出雲の美保関にあります。美保神社です。この外に事代主神社、恵比須神社、西宮社…があります。

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故)百嶋由一郎氏も博多から北九州だけでも1000基近い恵比須さんが祀られているだろう…と言われていました。九州では直接鳥居、社殿を構えた恵比須系神社は少なく、大半は商売繁盛のシンボルとしての石像神が大半の様で、立派な社殿を持った神社は飯塚市の高宮八幡宮の境内社、国東半島、朝倉市甘木などで散見される程度です。

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まず、三穂津姫良くが分からないのですが、高御産巣日神の御子。『日本書紀』によると、出雲国譲りの後、高御産巣日神が大物主神に、 もし国神を妻とするならば、あなたが心を許していないと思う。 だから私の娘の三穂津姫をあなたの妻とし、八十万神をひきつれて、皇孫のために護り祀れと云った。”

敬愛する「玄松子」氏より

 高木大神から事代主への強烈な懐柔工作が行なわれているようなのですが、元々、事代主は土地を基盤としているのではなく、神社を中心に商を行なう通商民、商工業者集団であって、土地、国土には経済基盤を置いていない集団だったのです。

これで、事代主が高木大神系に寝返っている事が良く分かるのです。

 そもそも、三穂津比売自体がむしろスサノウとの関係が想定されるものであり、高木大神の子ましてや天津神系などというのは大嘘に思えるのです。

美保神社はウィキペディア氏が言われる様に単独祭祀が正しかったのでしょう。


美保神社 『出雲国風土記』には、大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものと見られる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210815 10:07


さらに神屋楯比売命も厄介なのですが、国幣中社に列せられ戦後も別表神社なのですから無視する事はできないのです。


神屋楯比売命 『古事記』に登場する女神で、大国主神の妻の一柱。名前だけの記述で、親神や神格などは一切不明。

ただし『先代旧事本紀』では高津姫という名で宗像の辺津宮に坐す神としているので、この伝承によれば多岐都比売命と同一神ということになる。また『日本書紀』には登場しない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210815 10:52


大国主命が市杵島姫と豊玉姫を妃にしていることは重々承知しており、それ以上に、往古、宗像大社は大国主命と少彦名命を祀る神社であった事も探査の重要ポイントとして各メンバーが苦闘されているのですが、神屋楯比売命までが大国主命の妃だったとは今までの認識を書き換えられそうです。これは一応は保留しますが、多岐都比売命となるとただ事ではなくなりそうです。それは、この女神こそが下賀茂神社の主神である鴨玉依姫に当るからです。

 さて、同社HPによれば、事代主命は神屋楯比売命こと鴨玉依姫と大国主命の子であるとされているのです。

 これも高木大神系の主張はいつも誇張が多く偽装が多いと言う印象を持ちますのでそのまま受け入れることはできないのです。

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依然として事代主の素性は不明です
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百嶋由一郎008イヨ神代系譜(部分)


どうも事代主という人物についてはハッキリした情報が少なく、これ以上の解析ができないのですが、易々と国譲りを受け入れてしまうなどやはり商売人という印象を拭えません。

 これも百嶋由一郎氏から聞いた話ですが、百嶋説では事代主は古古代ヘブライ系の人物で、元々、非常に古い時代(同氏の説で無題.pngは起源2000年前〜)に列島に入っている種族だった。 彼らは神農様を祭り、縁日などで物品を販売する権利を持つ集団だった。俗に的屋と言われるもので、固定した店舗での販売が多数派になるまで、縁日での販売による収益というものは非常に大きなものだったのです。そして、昔は良くこのテントの奥などに神農さまを祀っていたと言われていたのですが、最近はそれも減っているようです。この集団は「男はつらいよ」フーテンの寅にも散見されるものですが、古代から近代までかなりの影響力を持っていたのです。


的屋とは、縁日や盛り場などの人通りの多いところで露店や興行を営む業者のこと。 香具師、三寸とも呼ばれる。また、職業神として元々は中華文明圏より伝わり、神道の神となった「神農の神」「神農黄帝」を祀ることから、神農とも呼ばれる。


神農(しんのう)、炎帝神農(えんていしんのう)は、古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人。人々に医療と農耕の術を教えたという。神農大帝と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。薬王大帝(やくおうたいてい)、五穀仙帝(ごこくせんてい)とも。

無題.png神農は医療と農耕の知識を古代の人々に広めた存在であると伝承されており、その名は最古の本草書『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)の書名にも冠され残されている。

伝説によると神農は、木材をつかって農具をつくり、土地を耕作して五穀の種をまき、農耕をすることを人々に伝えた。また、薬となる植物の効用を知らせたとされる。そのために薬草と毒草を見極めようと神農はまず赤い鞭(赭鞭)で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した。神農の体は頭部と四肢を除き玲瓏透明で、内臓が外からはっきりと見えたという。もし毒があれば内臓が黒くなるので、そこから毒が影響を与える部位を見極めたという。その後、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まってしまい、最終的には罌子(ケシ)を服用したとき亡くなったという。四川省に伝わる民間伝承では「断腸草」という草を嘗めたのが最後で、腸がちぎれて死んだともされる。

神農は初代炎帝ともされる。初代炎帝は、古代中国の王で、姓は姜。120歳まで生き、長沙に葬られたといわれている。もしくは陳に置いていた都を魯に移し、140年間在位したとも伝えられている。『帝王世紀』には五弦の琴を発明し、また伏羲の作った八卦を2段に重ね、さらに研究して8x8の六十四の卦を作ったとある。神農の末裔たち炎帝神農氏は黄帝との衝突ののち合併・融合した。この子孫が後の漢族とみなされている。西晋代に至ると西周以前に漢水流域に居住していた農耕部族の歴山氏と同一視されるようになった。

伝説では炎帝と黄帝は異母兄弟であり、『国語』には、炎帝は少典氏が娶った有蟜氏の子で、共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を、姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗ったとある。また『帝王世紀』には、神農は、母が華陽に遊覧の際、龍の首が現れ、感応して妊娠し姜水で産まれ、体は人間だが頭は牛の姿であった。火の徳(木の次は火であること、南方に在位すること、夏を治めること)を持っていたので炎帝とも呼ぶ。とある。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20210824 16:07


祭り、縁日とくれば、今は、焼きそば、綿菓子、烏賊焼き…が相場ですが、江戸期までは、作物の種、農薬、普通の薬、農耕用の鎌、鍬、鋤…などが中心で、まさに移動ホーム・センターの様な役割も持っていたのです。これがエベス様が商売繁盛の神様とされ、国譲りに抵抗した建御名方と異なり土地を奪われる事に執着しない理由だったのかも知れません。実は、9月にメンバーのS氏「事代主」のブログ管理者と出雲の美保ケ関の美保神社に行く予定を立てています。

 神社研究の専門家だけに一緒に行けるのはこの上ない機会であり、いつも行うトレッキングは下調べをしたうえでガイドを行なっているのですが、二人だけで機動的な調査を行なえることは有難い限りです。

 今回書いているものは下調べに近く、30年以上前に一度参拝しただけの神社ですので、実質は初見のようなもので、何か発見できればと思っています。勿論、私のテーマは、前述の以下の内容です。


神屋楯比売命 『古事記』に登場する女神で、大国主神の妻の一柱。名前だけの記述で、親神や神格などは一切不明。ただし『先代旧事本紀』では高津姫という名で宗像の辺津宮に坐す神としているので、この伝承によれば多岐都比売命と同一神ということになる。


 大国主命は鴨玉依姫を妃にしていないという理解をしていましたので、それで良いかを確認する事がテーマになりそうです。

 ただ、国譲りにいともたやすく了解していることから、国譲りの現場は福岡県の旧朝倉郡と考えてはいますが、何らかの糸口でも掴めないかと思うものです。

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