2023年07月21日

948 2023年新春三社詣りトレッキング ”福岡市南区油山直下 柏原 桧原の神武、天照居住地を探る”

948 2023年新春三社詣りトレッキング 福岡市南区油山直下 柏原 桧原の神武、天照居住地を探る

20230211

太宰府地名研究会 古川 清久


 太宰府地名研究会は2023129日福岡市南区の油山直下で三社と巨石ポイント夫婦石への春三社詣りトレッキングを行いました。そのコース案内資料をご覧頂きます。

配布資料は別で大量です。先行ブログの944945もその一部です。

20231月下旬に列島を襲った猛烈な寒波は南の九州北部にもそれなりの寒気を送り込み、どれほどの参加があるかは心許なかったのですが、蓋を開けてみると最近のトレッキングよりも幾分か多い25人近い人が参加されていました。本来、もっと早く集合しておくべき私達の方が多少遅れ気味に到着したのですが、既に油山の裾野の羽黒神社の駐車場には早くも10台近い車が集まっていました。

 熊本には呼び掛けていませんでしたが、どうやら、直接電話で参加を呼びかけ予定していた以上の参加があり武漢肺炎騒動によって参加を控えておられた方が多少は復帰されたりしておられるようでした。


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2023129日(日)2023年新春三社詣り 10:00

福岡市に神武天照が住んでいた現地を探るトレッキング

集合場所:福岡市南区柏原羽黒神社(福岡県福岡市南区柏原372)参道駐車場

午前1000〜(雨天は2月翌週に延期)羽黒神社、五社神社、埴安神社を巡ります。昼食:寒い時期ですので昼食はジョイフル桧原店を予定!百嶋由一郎は、“神武は柏原に天照は桧原に住んでいた”と言われていました。奈良(実はテーマ・パーク)の樫原と檜原のルーツはこの地なのです。宮原氏参加予定…


通説では天照から数世代降って神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)とのでたらめな系譜が流通していますが、それは神武僭称贈る崇神(ハツクニシラススメラミコト)を初代天皇にしたいという後の藤原氏の意向が働いているのであって、神武がウガヤフキアエズの子などと言うインチキ神話が創られたのです。

故)百嶋由一郎は生前“神武天皇は福岡市南区柏原に、天照大神は同じく南区桧原に住んでおられました”と言われていました。今回はこれを樋井川が古代博多湾に注ぐ現場で確認するトレッキングです。

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集合場所:福岡市南区柏原羽黒神社福岡県福岡市南区柏原372参道駐車場


神社を挟んで付近にはスーパー・マーケットマルキョウ柏原店 福岡市南区柏原6丁目191もあり

午前1000〜 (雨天は2月翌週に延期)昼食:寒い時期ですので昼食はジョイフル桧原店で!


  オープン参加(一般の方も気楽にご参加ください)資料代500円 基本は各自車の用意を…


コース:羽黒神社→埴安神社→五社神社→夫婦岩(上の画像は夫婦岩から)


 
  

 羽黒神社 福岡市南区柏原372       ジョイフル桧原店 桧原5丁目1030

 埴安神社 福岡市南区柏原4丁目204   キッチン サカトキ   桧原5丁目2413

 五社神社福岡市南区桧原2丁目2420   志のぶ刻の森   桧原6丁目 11

➃ 夫婦岩  福岡市南区桧原8551      昼食候補地 090-1971-7292 090-566-1988



 羽黒神社 祭神 大巳貴命左脇殿 天神社(菅原道真公) 右脇殿 綾部神社

大己貴命は、日本書紀では「己」だが、境内案内には「巳」だった。     旧無各社

境内社の天神社祭神は、境内案内には菅原道真となっているが、福岡縣神社誌では埴安神。福岡では埴安神を祀る地禄神社や十六天神社等があり。            敬愛する玄松子様による

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カムヤマトイワレヒコは消されていますね!それが無格社とされた理由ですね。➀ 

以下は奈良県橿原市のテーマ・パーク橿原の神武天陵です。


神武天皇陵(じんむてんのうりょう) 「橿原探訪ナビ」より

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畝傍山(うねびやま)の北東の麓、橿原神宮に北接する神武天皇陵は、円丘で周囲は約100m、高さ5.5mの広い植え込みがあり、幅約16mの周濠をめぐらせています。
日本書紀、古事記によると、初代天皇とされる神武天皇(在位:前660年〜前585年)は日向(宮崎)地方から、瀬戸内海を東に進んで難波(大阪)に上陸しましたが、生駒の豪族に阻まれたため、南下して熊野に回りました。そこで出会った3本足の「八咫烏」(やたがらす)というカラスに導かれて、吉野の険しい山を越えて大和に入り、周辺の勢力も従えて、大和地方を平定しました。そして、紀元前660年の11日(新暦211日)に橿原宮で即位し、初代の天皇になりました。


要は、福岡市南区の柏原から移動しているのです。遺骨を移しているかは発掘させない以上分かりません。


➁ 埴安神社 祭神 埴安大神 埴安大神は 天照大神のご兄弟で土神様などと言われるとか。誤まり

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 五社神社 祭神 住吉神・春日神・志賀神・神功皇后・玉依姫命 この住吉は底筒男=開化ですね


宮原誠一氏は五社神社という社名は、御所の置き換え文字であって、御所のニュワンスが残されていると言われました。すると、事務局の中島氏が、従来の持論ですが、神社を巡っていると、造幣局が使う五の文字が使われる例に遭遇する…という話を始め、この五社神社でも使われていると言ったのでした。

これについては以前も八女市の神社で遭遇しましたが、もっと多くの例を拾い論証しなければなりませんね。神額の文字もこれが使われています。

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無題.png以下は奈良県桜井市の檜原神社(主神:天照大神)です。殷の鳥居(通称三鳥居)とも呼ばれますが、桜井市の大神神社の公式サイトからご覧いただきます。


この地は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立て、お祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であります。

大御神のご遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、檜原神社として、引き続きお祀りし、「元伊勢(もといせ)」と今に伝えられています。

境内には、昭和61年11月5日、豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎されました。万葉集等に「三輪の檜原」と数多く詠まれ、山の辺の道の歌枕ともなり、西につづく檜原台地は、大和国中を一望する絶好の地であります。

豊鍬入姫命も神武僭称贈る)崇神の息子の一族ですね。

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➃ 夫婦岩 探訪予定の巨石探訪 現地の夜景
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今回は最も寒い時期でもあり、移動距離も短いため3社+巨石を巡りますが、各自防寒対策をしっかりお願いします。可能ならば御杖代として宮原誠一氏に御出でいただきます。尚、オープン参加ですので、参加希望の方は090-52892994(事務局中島)or09062983254(古川)まで。参加費資料代500


無題.png今回は無理を押して宮原誠一氏にご案内いただきました。普段遭えない宮原氏に初めて会われた方も多く皆さん感激しておられました。

この巨石は神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)も天照=卑弥呼もご存じだった可能性があります。

九州では極寒に近い凍てつく寒さの中よく集まっていただき有難く思っております。

改めて、ご参加頂いた方々、それを快く送り出していただいた周辺の方々にも感謝申し上げたいと思います。

今回、熊本からはお誘いしませんでしたが、天照、神武の実在を実感されたようです。

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002百嶋系図(極秘)003

「宮原誠一の神社見聞諜」近稿 207 「福岡市檜原の天照大神奉祭氏族」をお読みください!

ひぼろぎ逍遥(跡宮)971972「宮原誠一の神社見聞諜」No.207 福岡市檜原の天照大神奉祭氏族 の転載 ❶〜❷ も公開予定ですので、3ケ月後にはアップします。

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2023年07月18日

947 碓氷峠の向こう側の神々を探る (下)

947 碓氷峠の向こう側の神々を探る (下)

20220211

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この間、信濃〜甲斐の神社を視る事によって長野県、山梨県がどのような国だったのかを探ってきました。

手掛かりになったのは韮崎市の武田八幡宮の神殿内の脇殿の若宮八幡宮でした。ただ、この話は以前にもしましたので詳しくは後に回します。

この若宮神社は、甲信越で言えば凡そ新潟県に20数社、長野県に30数社、山梨県に20数社を数えます。

そして甲信越を降り静岡県にも50社、愛知県にも30社近くが拾えます。この事は、甲信越が若宮八幡神社の集中する一帯であることを教えてくれました。

 そこで気になってきたのは碓氷峠の向こう側、つまり、北関東の群馬県でした。

そして長野県の軽井沢を越え上州に入ると全く異なる世界があることが分かってきたのでした。

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詳しくはGoogleの検索画面から 群馬県 神社 とスペースを入れてダブル検索すると右に地図が出てきますので丹念に見て頂くと、八幡神社はあるものの、若宮八幡神社は一社も存在しないことが分かってきたのです。この縮尺では視難いでしょうが、グーグルの地図をご覧ください。

 この事は、武田信玄の一族のご先祖も新潟県の上越市(旧直江津)辺りから山を越え入ったはずで、柏崎刈羽や新潟から入ったのではないだろうと推定できるようになってきました。まず、土地勘を得なければなりません。

 山梨県韮崎市の武田八幡神宮の神殿脇に大切に祀られていた若宮八幡宮を見た時に正直驚いたのですが、武田信玄のご先祖は孝元天皇の子=久留米市の高良大社に祀られる高良玉垂命=第9代開化天皇(飽く迄も藤原が勝手に第9代に数えただけの事ですが)と神功皇后との間に生まれた長子仁徳(シレカシノミコト=藤原はオオササギとしていますが)こそが若宮であり、武田信玄の先祖新羅三以前、若宮の腹違いの兄弟(大彦)から端を発した四道将軍の一人大彦こそが武田氏のルーツだったと考えるのです。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県 若宮八幡神社(追補) 

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信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 山梨県 若宮八幡神社


そこで2023年の3月には碓氷峠を越えたいと思っていますが、ここを越えると、一帯どのような神々と遭遇できるのかを探るのが本ブログの目的になります。

と言ううちに雪解けは近まり、あとひと月になってきました。

勿論、233月以降に,再再再再度再度、信濃から北関東に入るための準備稿になります。

 今のところ、群馬県の西部を中心に南から北へ移動し、碓氷峠〜軽井沢に貫けるコースを考えています。

 ざっとした計画ですが、実行するまでには加えるものもあるでしょうが、全部を見ることは不可能ですので、全体の傾向を把握するための事前作業と言ったところです。

 昔は下調べをあまりやらなかったのですが、遠来の地でもあり、残り少ない人生、効率性を考えると、二度とは踏めぬかもしれない為、最低でも調べておくべきなのです。

  

無題.png@  下仁田町  山際稲荷神社      甘楽郡下仁田町下仁田701

A   々    若宮八幡宮       下仁田町馬山

B  富岡市   宇藝神社        富岡市神成1178

C   々    一之宮貫前神社     富岡市一ノ宮1535

D  甘楽町   今宮神社        甘楽郡甘楽町小幡9957(社務所)

E   々    白倉神社        甘楽郡甘楽町白倉1536-1  

F  前橋市   赤城神社        前橋市富士見町赤城山42

G   々    三宮神社(上野國三宮)  北群馬郡吉岡町大久保1

H  高崎市   榛名神社 (上野國六宮)  群馬県高崎市榛名山町849

I  安中市   碓氷神社        安中市松井田町五料2131

J   々    咲前神社        安中市鷺宮3308


 群馬県西部と言った好い加減な設定をしますが、稲荷の数が非常に多く、信州の延長上に若宮八幡神社もありますが、春日神社など阿蘇系神社が無いに等しく、敗残の故かも知れませんが、物部一色、諏方系も金山彦系も多い強面の神社ばかりと言った印象を受けます。

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さて、群馬県と言えば…、もとい。上州と言えば、頭に浮かぶのは上州新田郡三日月村の木枯し紋次郎様以外ありません。

 富岡市の西には仁田町があり、これは笹沢佐保氏の想定とは異なるのでしょうが、自分だけの思い込みのイメージではこの地こそ新田郡三日月村なのです。

この想定三日月村に入った人々のご先祖様は、新潟県の柏崎刈羽辺りから南魚沼市経由で上州に進出した(若しくは避退した)九州の物部氏の末裔のはずなのです。

やはり、碓氷峠は甲信越と関東を分ける大きな壁なのです。糸魚川から南下すれば、白馬を越えて松本に入ります。

 上越からだと善光寺を経て、上田、小諸、佐久に入ります。柏崎刈羽から入れば、上州の富岡辺りに入るのです。

 それほど碓氷峠は人々を遮る大きな壁だったのです。

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 ここまでは前ブログの導入部の再掲載です


 今宮神社 群馬県高崎町箕里郷町柏木沢108


実のところ、上州は物部系の人々が定着した逃亡地ではないかと常々考えてきました。

 物部と言えば「前代旧事本記」の物部25部族 筆頭 ニギハヤヒこそ山幸彦であり、ヒコホホデミなのです。

そして、驚くことに猿田彦でもあるのですが、それは(これまでのブログ2500本から検索して頂くとして)良いとして、現地は群馬県下仁田であり、多分、新多(田)物部の地と考えても良いのです。

予定を変更しこちらを見せていただきます。

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京都石清水八幡宮分社


❼ 白倉神社 甘楽町大字白倉15361


宮はここから南方の天狗山の山中にあり、この社は里宮であるらしい。例祭などもこの里宮で行われる。この地の豪族である小幡羊太夫宗勝が鉱物の神である金山彦命を祭神として祀ったのが社の起源と伝える。宗勝は伝説上の人物で実在したとは考え難いし、神社創建の年が和銅元年(708年)で和同開珎が初めて鋳造された年に当たるのも後世の付会だと思う。

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❽ 赤城神社        前橋市富士見町赤城山42 

当然、祭神は赤城大明=ウマシアシカビヒコヂと天御中主命のはずですが…豊城入彦(こいつは神武僭称贈る崇神の息子でしかないのです)などと誤りが積み重ね続けられている。まあ、藤原の乗っ取りですね。


関東平野北西縁に立つ赤城山を神体山として祀る神社である。山頂にあるカルデラ湖の大沼・小沼や、火口丘の地蔵岳、そして赤城山そのものに対する山岳信仰に由来する。

全国には関東地方を中心にして約300社の赤城神社があるといわれ、その中でも特に山腹の三夜沢赤城神社または山頂の大洞赤城神社が総本宮とされる。


延長5年(927)成立の『延喜式神名帳』には、名神大社として「上野国勢多郡赤城神社」と記載があり、以下の3社が論社とされている。

         赤城神社(三夜沢赤城神社)群馬県前橋市三夜沢町位置 - 県社

         赤城神社(大洞赤城神社)(群馬県前橋市富士見町赤城山位置 - 郷社

         二宮赤城神社(群馬県前橋市二之宮町位置 - 旧郷社。

3社の経緯や比定を巡る議論については、下記歴史節や各社項目を参照。

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無題.png本来の祭神が磐筒男、筒女神とするならば金山彦とカミムスビ神の娘埴安姫=関東風に書けば磐裂神、根裂神(イワサク、ネサクの神)で良いと思います。

 関東は武蔵大国魂神社の威光が大きいため敬意を表し筆頭に掲げられていますが、大国主命と金山彦ご夫婦さらに経津主神と最強硬派の神々がこの神社の特徴です。しかし、頭は国定忠治にしか気が向かいません。

 江戸時代に於いてたちどころに60人近い戦闘集団を組織できる人物と言うだけで、頭が下がります。

 役人どもはどうせろくな人間ではないはずで大した人物だったはずです。

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❾ 三宮神社(上野國三宮)  北群馬郡吉岡町大久保1


  祭神:祭神は次の3柱 彦火火出見命 豊玉姫命 少彦名命

三宮神社は、群馬県北群馬郡吉岡町大久保にある神社。式内社(名神大社)で、上野国三宮

以下は敬愛する玄松子様に依る


無題.png式内社 上野國群馬郡 伊加保神社 名神大


 御祭神 彦火火出見尊 豊玉姫命 少彦名命

群馬県吉岡町にある。境内地を、関越自動車道が通ったため。関越自動車道の西そばに鎮座。

吉岡町役場の南東1Kmほどの位置。道路そばに参道入口があり、木々の参道を北上して境内。

一段高い境内は、綺麗に整備され、赤い社殿が美しい。

天平勝宝2年(750)の勧請と伝えられ、伊香保神社の里宮で、上野国三宮と思われる神社。

一説には、伊香保神社の古社地であるという。よって上野国神名帳群馬東郡の正五位上小伊賀保明神

(一宮本では伊賀保別大明神)は古伊賀保明神である当社のこととする説もある。

当社の南西4Kmには総社も存在し、国府に近く、周囲に古墳群もある。

『神道集』には、「女体ハ里へ下給テ三宮渋河保二御座ス、本地ハ十一面也」とあり、当社には、室町時代の作と伝えられる、一木彫りの十一面観音が安置されている。

境内には神楽殿もあるが、どの社殿も赤と黒で彩色されていて、落ち着いた色調。境内も明るい雰囲気だった。


三宮神社由来記

吉岡村大字大久保字宮の地に鎮座する三宮神社は天平 勝宝二年創祀の伝承をもつ古名社で彦火々出見命豊玉姫命少彦名命の三柱の神を奉斉している当社を三宮と 称する所以は三柱の神を祭るためでなく上野国三之宮 であったことによる九条家本延喜式神名帳には上野国 三之宮は伊賀保大明神とあり当社はその里宮の中心で あったと考えられる柳古代当地方の人々は榛名山を伊 賀保山と称しその山頂を祖霊降臨の聖地と崇め麓に遥 拝所をつくり里宮とした上野国神名帳には伊賀保神が 五社記載されてありその中心の宮を正一位三宮伊賀保 大明神と記している当地三宮神社が伊賀保神を祭る中 心地であったため三宮の呼称が伝えられたのである近 くに大古墳群の存在はそれを裏付ける当社を伊賀保神 とする由縁はその祭神にもよるが本殿に安置される 十一面観音像のあることがこれを証する南北朝時代の 延文年中編と推定される神道集所収の上野国三宮伊賀 保大明神の由来には伊賀保神は男体女体の二神あり男 体は伊賀保の湯を守護する薬師如来で女体は里に下り 十一面観音となるとある当社は古来十一面観音像を御 神体として奉安してきたのである慶應四年神仏分離令 が発せられると全国各地で神社内の仏教関係遺品が破 却された当地の先人は古来三宮神社の御神体として奉 安してきた十一面観音像を秘仏として密かに遺し今日 に伝えたのである昭和六十年秋の関越高速自動車道開 通に伴い当社境内地の一部も道路編入の止むなきにい たりこの機会に氏子一同相計り社殿および境内の整備 につとめ由緒ある当社の由来を後世に伝えんとし石碑 に刻んだ次第である −境内石碑より


❾ 榛名神社 (上野國六宮)  群馬県高崎市榛名山町849 都合によりパスします!


❿ 咲前神社        群馬県安中市鷺宮3308 群馬県富岡市一ノ宮1535

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御祭神

健経津主命(たけふつぬしのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)     武蔵大国魂神社に敬意を表しているという意味ですね
保食命(うけもちのみこと)


ここで健経津主命と保食命が祀られているという意味は、ご夫婦だからです。

 経津主と名を変えられていますが、それは元のお妃である豊玉姫に対する礼儀であり、山幸彦=ヒコホホデミを使用していないという意味ですね。それだけ分かれば問題はありません。

 県下に今宮が十数社ある事も分かりますし、稲荷が多い理由も、全ては物部の国だからなのです。

 そして、上州の奥さん達が強い(かかあ天下とからっ風)と言う意味も、養蚕で稼いでくれる奥様の存在によって、経済が回っていたという事実がありますが、元々、伊勢の外宮様、つまり豊受大神=保食命に山幸彦=猿田彦が頭が上がらない関係である事から来ているのです。

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⓫ 碓氷神社        安中市松井田町五料2131 こちらも参拝しますが事前調査は致しません

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2023年07月15日

946 碓氷峠の向こう側の神々を探る (上)

946 碓氷峠の向こう側の神々を探る (上)

20220210

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この間、信濃〜甲斐の神社を視る事によって長野県、山梨県がどのような国だったのかを探ってきました。

手掛かりになったのは韮崎市の武田八幡宮の神殿内の脇殿の若宮八幡宮でした。ただ、この話は以前にもしましたので詳しくは後に回します。

この若宮神社は、甲信越で言えば凡そ新潟県に20数社、長野県に30数社、山梨県に20数社を数えます。

そして甲信越を降り静岡県にも50社、愛知県にも30社近くが拾えます。この事は、甲信越が若宮八幡神社の集中する一帯であることを教えてくれました。

 そこで気になってきたのは碓氷峠の向こう側、つまり、北関東の群馬県でした。

そして長野県の軽井沢を越え上州に入ると全く異なる世界があることが分かってきたのでした。

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詳しくはGoogleの検索画面から 群馬県 神社 とスペースを入れてダブル検索すると右に地図が出てきますので丹念に見て頂くと、八幡神社はあるものの、若宮八幡神社は一社も存在しないことが分かってきたのです。この縮尺では視難いでしょうが、グーグルの地図をご覧ください。

 この事は、武田信玄の一族のご先祖も新潟県の上越市(旧直江津)辺りから山を越え入ったはずで、柏崎刈羽や新潟から入ったのではないだろうと推定できるようになってきました。まず、土地勘を得なければなりません。

 山梨県韮崎市の武田八幡神宮の神殿脇に大切に祀られていた若宮八幡宮を見た時に正直驚いたのですが、武田信玄のご先祖は孝元天皇の子=久留米市の高良大社に祀られる高良玉垂命=第9代開化天皇(飽く迄も藤原が勝手に第9代に数えただけの事ですが)と神功皇后との間に生まれた長子仁徳(シレカシノミコト=藤原はオオササギとしていますが)こそが若宮であり、武田信玄の先祖新羅三以前、若宮の腹違いの兄弟から端を発した四道将軍の一人大彦こそが武田氏のルーツだったと考えるのです。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

961

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県 若宮八幡神社(追補) 

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信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編) 山梨県 若宮八幡神社


そこで2023年の3月には碓氷峠を越えたいと思っていますが、ここを越えるとどのような神々と遭遇できるのかを探るのが本ブログの目的になります。と言ううちに雪解けは近まり、あとひと月になってきました。

勿論、233月以降に、再再再…度、信濃から北関東に入るための準備稿になります。

 今のところ、群馬県の西部を中心に南から北へ移動し、碓氷峠〜軽井沢に貫けるコースを考えています。

 まずはざっとした計画です。実行するま でには加えるものもあるでしょうが、全部を見ることは不可能ですので、全体の傾向を把握するための事前作業と言ったところです。

 昔は下調べをあまりやらなかったのですが、遠来の地でもあり、残り少ない人生、効率性を考えると、二度とは踏めぬかもしれない為、最低でも調べておくべきなのです。

  

➀ 下仁田町  山際稲荷神社      甘楽郡下仁田町下仁田701

➁ 々     若宮八幡宮       下仁田町馬山

➂ 富岡市   宇藝神社        富岡市神成1178

➃ 々    一之宮貫前神社     富岡市一ノ宮1535

D  甘楽町   今宮神社        甘楽郡甘楽町小幡9957(社務所)

E   々    白倉神社        甘楽郡甘楽町白倉1536-1  

F  前橋市   赤城神社        前橋市富士見町赤城山42

G   々    三宮神社(上野國三宮)  北群馬郡吉岡町大久保1

H  高崎市   榛名神社 (上野國六宮)  群馬県高崎市榛名山町849

I  安中市   碓氷神社        安中市松井田町五料2131

J   々    咲前神社        安中市鷺宮3308


 群馬県西部と言った好い加減な設定をしますが、稲荷の数が非常に多く、信州の延長上に若宮八幡神社もありますが、春日神社など阿蘇系神社が無いに等しく、敗残の故かも知れませんが、物部一色、諏方系も金山彦系も多い強面の神社ばかりと言った印象を受けます。

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無題.pngさて、群馬県と言えば…、もとい。上州県と言えば、頭に浮かぶのは上州新田郡三日月村の木枯し紋次郎様以外ありません。

 富岡市の西には仁田町があり、これは笹沢佐保氏の想定とは異なりますが、自分だけの思い込みのイメージではこの地こそ新田郡三日月村なのです。

この想定三日月村に入った人々のご先祖様は、新潟県の柏崎刈羽辺りから南魚沼市経由で上州に進出した(若しくは避退した)九州の物部氏の末裔のはずなのです。

やはり、碓氷峠は甲信越と関東を分ける大きな壁なのです。

糸魚川から南下すれば、白馬を越えて松本に入ります。

 上越からだと善光寺を経て、上田、小諸、佐久に入ります。

 柏崎刈羽から入れば、上州の富岡辺りに入るのです。

 それほど碓氷峠は人々を遮る大きな壁だったのです。

 このことが後でも鮮明になってきます。

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➊ 山際稲荷神社(下仁田町) 群馬県甘楽郡下仁田町下仁田701


実のところ、上州は物部系の人々が定着した逃亡地ではないかと常々考えてきました。

 物部と言えば「前代旧事本記」の物部25部族 筆頭 ニギハヤヒこそ山幸彦であり、ヒコホホデミなのです。

そして、驚くことに猿田彦でもあるのですがそれは良いとして、現地は群馬県下仁田であり、多分、新多(田)物部の地と考えても良いのです。

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百嶋雄一郎 最終神代系譜(部分)


❷ 若宮八幡神社       群馬県甘楽郡下仁田町馬山 


 質素と言うか粗末な社殿ですが、今まで良く残って頂きました。


祭神:応神天皇 仁徳天皇 とありますが、当然、仁徳天皇単独が正しいはずです

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❸ 宇神社 群馬県富岡市神成1178 社伝によると、天武天皇白鳳7年4月8日の創建


祭神:倉稻魂神 建御名方神 速玉之男命 伊邪那美命 大山津見神 事解之男命 大日孁尊


宇藝神社とあるため、多分、伊勢の外宮様だろうと分かりました。当然ながら、山際稲荷神社(下仁田町)の祭神と同じ豊受大神=伏見稲荷となります。豊受の「受」を宇芸と表記しているだけです。


“また、当社の神宝に船があり、貫前の船ライン(荒船・貫前・小船)上に、当社の古社地があることから、舟を表す「槽(おけ)」との説もある。…

…赤い鳥居には、「宇藝神社」「赤城大明神」の扁額があり、境内社に赤城神社がある。

上記のように、古社地である「ウガジンサマ」から、赤城神社境内に遷座した。

              “敬愛する玄松子様より


一之宮貫前神社     富岡市一ノ宮1535(三大くだりの宮)

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三大くだりの宮という表現には多少の違和感があります。

くだりの宮という表現は良いのですが、宮崎の鵜戸神宮についてはそもそも海食洞内に造られていることからくだって行くのは当たり前で、そのようなものを三束に扱うことに疑問があるだけです。

むしろ、肥後の草部吉見神社(海幸彦=ヒコヤイミミ)を祀る に対して、上州の貫前神社(山幸彦=ニギハヤヒ)を祀る 二大くだりの宮という表現の方がしっくりくるのですがこれは私のわがままな主観でしかありません。

ただ、草部吉見神社に何十回となく参拝した者としては、貫前神社に詣ることができることは細やかな喜びであり、その対比と併せ今後の思考の冒険にまで繋がればと思っています。  以下同社HPより。


創立は社伝によると鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓礒部氏が氏神である経津主神(ふつぬしのかみ)をお祀りし、次いで鷺宮の南方、現在の社地に社を定めたのが安閑天皇の元年(西暦531年)とされてます。

天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい:天皇の命により神社に幣帛を奉ること)があり、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたといえます。

醍醐天皇の時代に編纂の始まった『延喜式』のなかの『神名帳』にも記載され、上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。明治時代に定められた社格は国幣中社であり、群馬県内では最高位でした。戦後社格制度が廃止されると「一之宮貫前神社」として神社本庁の包括となりました。

無題.png建国の祖神 物部氏の氏神

刀剣の神 武道の神


経津主神は『日本書紀』などの国譲りの場面で神名がみえ、葦原中国(あしはらのなかつくに:日本の異称)平定に功績があったとされています。

『日本書紀』のみに登場し『古事記』には登場しない神で、香取神宮(千葉県香取市)・春日大社(奈良県奈良市)・鹽竈神社(宮城県塩釜市)に祀られています。

また、布都御魂(フツノミタマ)を祀る石上神宮(奈良県天理市)は物部氏の奉斎する神社であり、なおかつ武器庫であったとされていることから、日本神話のなかで争ったという諏訪の神・建御名方神への抑えの武器庫として、当地の物部姓を賜った石ノ上部(イソノカミベ・礒部氏・磯部氏)によって貫前神社が創建せられたとも考えられます。

「刀剣の神。霊剣フツノミタマの神格化したものという説がある。藤原氏の祖神の一つ。葦原中国平定のため、タケミカヅチを従えて天降りするなど、事蹟はタケミカヅチと重なる部分が多いが、『出雲風土記』『出雲国造神賀詞』では天降りするのはフツヌシのみであるところから、武人物部氏の祭神であったフツヌシが、中臣氏の台頭によりその神格を次第にタケミカヅチに奪われたものと思われる。」『神道辞典』


無題.png 祭神にはもう一体があり姫大神とされています。これが単にお妃とか娘と言うならそれで理解しますが、それで良いかは現地を待ちたいと思います。


養蚕と機織りの神 生産の守護神

姫大神は正確な神名も祀られた由緒も伝わっておりませんが、一説には綾女庄(あやめのしょう:当地の古い呼称)に住んでいた渡来の高麗人(こまびと)が養蚕や機織りを伝え、その人々が奉賛していた古い神であるとも云われています。


山幸彦には豊玉姫、伊勢の豊受大神…とお妃はありますので、それを伏せているのかも知れません。敬愛する玄松子様によれば以下の通りです。大日孁尊とすると、山幸と対応しにくいのですが、藤原のゴリ押しを受け入れた可能性もあるでしょう。


御祭神 経津主神 比賣大神

『神道集』天竺の女神(抜鉾大明神)

『一宮巡詣記』稚日女尊 相殿 経津主命

『明治十年神社明細帳』経津主神 配祀 大日孁尊


❺ 今宮神社        甘楽郡甘楽町小幡9957(社務所)


 ご覧の通り、群馬県とは今宮神社の国だと解ります。

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これだけの今宮、今宮八幡宮、今宮天満宮…がありながら、応神天皇だか菅公だかアメノコヤネだか別の神が祀られています。

これら一切が元は山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒを祀る神社だったはずです。

特に福岡県の筑豊地方では「伊野」…など多くの「イ」の付された地名に対応しニギハヤヒを祀る祭祀があるのです。それらが物部ニギハヤヒ祭祀であることから、この地も同じ系統の神が祀られていたはずなのです。それらも含めて痕跡を辿りたいと思うものです。

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十社足らずの若宮が拾えますが、個々に見ると仁徳が祀られているとは言い難く名前だけがあるのです

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記