2023年07月12日

945 「宮原誠一の神社見聞諜」No.209 幻の元伊勢・福岡市の檜原神社を求めて ❷

945 「宮原誠一の神社見聞諜」No.209 幻の元伊勢・福岡市の檜原神社を求めて 

“福岡市檜原の天照大神奉祭氏族”宮原誠一の神社見聞牒(209)令和4年(2022)1208からの転載

20221209

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


本稿は 944 「宮原誠一の神社見聞諜」No.209 幻の元伊勢・福岡市の檜原神社を求めて ❶ の続編です。前ブログをお読みでない方はそちらを先にお読み頂き、以下に入ってください。

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立野の天満神社は表向きであり、本質は「熊野神社」で、三体のご神体の配祀は熊野神社そのものの神様でした。
 ()事解男命(ことさかお) 金山彦(イザナミの兄)(中)熊野速玉男命(くまのはやたまのお) 大幡主
 ()熊野夫須美命(くまのふすみのみこと)別名伊弉冊尊(いざなみ)で大幡主の妃
立野の天満神社は宮地嶽の麓にあり、宮地嶽には宮地嶽神社が鎮座です。その東の宮野には開化天皇を祀る宮野神社があり、さらに東の久重には開化天皇を祀る老松神社があります。五社神社の日輪紋章は正八幡大幡主の紋章となります。物部神額、仁徳天皇の「あやめ紋」、地籍字の「猿田」からすると、仁徳天皇と猿田彦(彦火々出見命)が考えられます。拝殿の屋根には唐破風がなく流し造りで、龍の彫刻もあません。ということは、正八幡大幡主は主祭神ではありません。
立場上、仁徳天皇を主祭神に、彦火々出見命(猿田彦)、正八幡大幡主を祭神とする神社は物部神社そのものです。 
境内末社の天神社
本殿両脇に鎮座の天神社は大正15年5月、檜原一丁目藤ヶ丘から五社神社の末社として遷宮しています。

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埴安神 右側神(向かって左)        垣安神 左側神(向かって右)


天神社の祭神は埴安神()、垣安神() であり、埴安神は埴安彦(大幡主)、垣安神は埴安姫です。配祀の位置からして、向かって右の垣安神(埴安姫)が上格となります。大幡主の妹さんの埴安姫も考えられますが、それでは上格神とはなりません。埴安神を夫婦神とすれば、大幡主より上格の女神は大日孁貴(天照大神)となります。
大幡主と大日孁貴(天照大神)を夫婦神として祀る神社が、西隣の那珂川市導善の天神社(てんじんじゃ)としてあります。
さらに、福岡県に大幡主と大日孁貴を共に祀る神社が存在します。特に三社が糸島地方に鎮座です。大幡主の神は「国常立尊」あるいは「埴安命」の名で祀られています。
勿論のこと、博多の櫛田神社は大幡主(櫛田大神)と天照大神(大日孁貴)を主祭神とします。

 井田原神社(いだはらじんじゃ)福岡県糸島市志摩井田原1
 油比神社(ゆびじんじゃ)福岡県糸島市油比187
 荻浦神社(おぎのうらじんじゃ)福岡県糸島市荻浦144
 鷂天神社(はいたかてんじんしゃ)福岡県朝倉市上浦230 境内社 大神社
 櫛田神社(くしだじんじゃ)福岡市博多区上川端1-41

佐賀県神埼の櫛田神社も当初は大幡主(大若子命)と天照大神を祀ります。後に、祭神の大幡主と天照大神が消えて、素戔嗚尊()、櫛名田比売命()、足名椎手名椎尊()を祀る稲田神社(仮称)に変遷しています。


天神社 福岡県那珂川市(旧岩戸村)道善321 (No.123)祭神:大幡主と大日孁貴(天照大神)

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鷂天神社 福岡県朝倉市上上浦230 (No.103 208)
祭神:高皇産霊命(たかみむすびの) 大日霊貴命(おおひるめむち)=天照大神
由緒:元和年中(1681) 隼鷹神社(小郡市力武)より勧請
祭神の高皇産霊命は、実際は神皇産霊命=大幡主です

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境内社 大神社(埴安命=大幡主=神皇産霊神・大日霊貴尊)

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埴安二神(埴安神)ですが、私は今まで、勘違いをしていました。
 埴安神埴安彦・埴安姫大幡主とその妹の埴安姫と見ていました。考えてみれば、「きょうだい」揃って祀る神社はまれです。二神では夫婦か親子が主に祀られています。
大幡主とヒミコ様を夫婦で祀る神社は広く多くあります。今までの埴安神は大幡主とヒミコ様ではなかったのかと、思っています。


櫻庵幸縁のブログ(ミステリー「192」五社神社 2022-12-03)から
福井県大野市蕨生(わらびょう)の埴安神を祀る神社で見つけました埴安姫神社「垣安比賣命」
ということは…埴安姫となります。外に出されておりますが…もともとは大幡主と天照大神のご夫婦をお祀りする神社だったのでしょう

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山形県鶴岡市羽黒町に埴山姫神社(埴山姫=埴安姫)があります。
 柏原の羽黒神社の古宮は埴安神社でした。なにか関連がありそうです。


春先から福岡県久留米市北野町(西鉄甘木線沿線 大城、金島)の公共施設に於いて宮原誠一氏による神社の勉強会を始めます。詳細は決まっていませんが、平日のAグループと土日組Bグループに分け「宮原誠一の神社見聞諜」から抽出し講義を行って頂きます。二つのグループ分けていますが同一テーマを隔月で行い(つまり毎月行うわけで両方とも参加は可能です)、相互乗り入れは可能です。参加費1000円程度、時間は2〜3時間を考えています。 メンバーばかりではなく、飛び入りも含め一般も参加できる勉強会の予定です。 参加希望の方は 編集員 古川 090-6298-3254事務局 中島 090-5289-2994 まで

これについては、現在、宮原さんの都合で保留しております。

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「五社」は「御社」ではないか?
No.137「五郎」は神の御子の隠し当て字であった 20200317日」から


人名に「五郎」という名をよく見かけます。世間一般では、五男坊の意味にとられます。実は、この「五郎」の名は別の意味が隠されているのです。「五郎」は「御子 みこ」という意味で、御子の隠し当て字なのです。

 五郎(ごろう) → 御郎御子(みこ) → 皇子(みこ) (単純な流れで見た場合)
 五郎(いつお) → 伊都男(いつお) → 稜威男(いつお) 神聖な男

御子神社皇子神社(みこ) 五社神社御社(おやしろ)神社
五道神社御童神社・五郎神社皇子神社(みこ)

 
五社神社の祭神は「五社」に合わせた寄せ集めに過ぎません。五社の祭神に相互関連性はありません。
五社神社の五社大明神の五社は「御社」ではなかったのか、と思うのです。
五社神社とは後の社号ではないでしょうか。五社を御社(おやしろ)とすると、神社の意味が本質的に変わります。檜原の御社とすると、檜原神社そのものになるのです。 


(連理の枝)
参道の左に「夫婦円満」と「連理の枝」を案内する「栞」の立て看板がありました。


(しおり)
五社のやしろのこの庭に 奇しくも生を共にせる モッコク・ナノミの情深く 仲睦ましく美しき 友愛の二字のしるしとして お詣人に心添ひ 久遠のさかえを営まむ 左の二本の木(モッコク・ナノミ)は相互に根がからまり、融合して見えることから中国唐の詩人白居易の長恨歌の一節


天に在らば 願わくば「比翼の鳥」 地に在らば 願わくば「連理の枝」とならん に その意を重ね 恋人愛(縁結び) 夫婦円満の象徴の御神木として大切に見守っていきたいと思います。
                             五社神社 氏子 崇敬会一同

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当ブログ「春と岬 早く来い暖かい春」202222日 において
「火と水を飛ぶ比翼鶴」で、「比翼鶴」と「連理枝」を述べています。
 初春や     はつはるや 陽と波に飛ぶ  ひとなみにとぶ 比翼鶴     ひよくつる
 天に在()りては 願わくば 比翼(ひよく)の鳥と作()らん、地に在()りては 願わくば 連理(れんり)の枝と為()らん (白楽天) 


 比翼の鳥
 地上ではそれぞれに歩くが、空を飛ぶ時は翼を並べて飛ぶ鳥、
 後の人は仲のいい夫婦を「比翼の鳥」と言った。
 連理の枝
 並んで生えている二本の木で、上の枝が繋がっている状態。同じ趣旨の案内を読み、感慨深いものがありました。この記事は元伊勢・檜原神社(五社神社)のために書かされたものかと。
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幻の元伊勢・福岡市の檜原神社とは
幻の元伊勢・檜原神社とは、福岡市南区檜原一丁目藤ヶ丘(大字檜原字天神)にあった神社ではないでしょうか。
福岡市の元伊勢・檜原神社は、奈良県桜井市大字三輪の檜原神社(ひばら神社) に遷宮していますので、時期は不明ですが、その藤ヶ丘の跡に二つの社の小さな天神社を創建されたのでは、と思うのです。その天神社は大幡主と大日孁貴(=天照大神)を夫婦で祀ります。

 比翼鶴 檜原の丘に 連理の枝
どこまで、ご縁は御縁を呼ぶのでしょう。ご縁の共鳴です。
いい神社探訪でした。良い御縁でした。良い御縁はいつまでも永遠に続きますように。

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944 「宮原誠一の神社見聞諜」No.209 幻の元伊勢・福岡市の檜原神社を求めて ❶ をお読みでない方はそちらを先にお読みください。

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2023年07月09日

944 「宮原誠一の神社見聞諜」No.209 幻の元伊勢・福岡市の檜原神社を求めて ❶

944 「宮原誠一の神社見聞諜」No.209 幻の元伊勢・福岡市の檜原神社を求めて 

“福岡市檜原の天照大神奉祭氏族”宮原誠一の神社見聞牒(209)令和4年(2022)1208からの転載

20221209

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


前ブログ「No.207 福岡市檜原の天照大神奉祭氏族」20221121日 にて、福岡市南区柏原(かしわら)の丘に「亀甲に大字」紋を社紋とする羽黒神社があり、神武天皇(大伯太子)が居られたと云わり、その北隣の檜原(ひばる)に天照大神(卑弥呼) が居られたと云わります。
後に、神武天皇と卑弥呼は共に糸島の曽根に移られます。
伊勢神宮の前身の奈良県桜井市の檜原神社は福岡市南区の檜原(ひばる)の地名と同じです。
さらに時代は降り、卑弥呼と大幡主は、椎根津彦によって神霊東遷が行なわれます。
卑弥呼(天照大神)は奈良県桜井市の檜原神社に、大幡主は大和神社(おおやまと神社・奈良県天理市新泉町星山)に倭大國魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)として、一時鎮座され、最終地は、卑弥呼(天照大神)は伊勢神宮内宮に、大幡主は伊勢神宮外宮に鎮座されます。


檜原神社(ひばらじんじゃ) 奈良県桜井市大字三輪1422 (No.123)
祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)
この地は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立て、お祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であります。大御神のご遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、檜原神社として、引き続きお祀りし、「元伊勢(もといせ)」と今に伝えられています。「三輪明神・大神神社」から

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左は豊鍬入姫宮
檜原を「ひばら」と称されていますが、「ひばる」が本当の読み方です。檜原は九州福岡市南部の檜原からの地名の移動と神霊の東遷となります。

卑弥呼(天照大神)が居られたと云わる福岡市檜原地区に、卑弥呼の痕跡、関連神社等が見当たらなかったのです。
神霊東遷によって痕跡はなくなった、と思っていましたが、ようやく、現在の桧原一丁目、二丁目がその候補で、そこの旧檜原村に氏子の大神(おおがみ)さん等がお住まいであることがわかりました。
福岡市南区桧原二丁目24-20(大字檜原字猿田)の五社神社の由緒から、檜原一丁目藤ヶ丘(大字檜原字天神)に天神社(てん神社)があり、この天神社の祭神が垣安神と埴安神であり、埴安神は埴安彦(大幡主)、垣安神は埴安姫(大日孁貴=天照大神)であることが理解できました。卑弥呼(天照大神)の痕跡を求めて、檜原の五社神社と天神社の探索です。その報告となります。

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天神社は、大正15年5月に五社神社の境内末社として藤ヶ丘から遷宮しています。
その天神社があったと見られる檜原一丁目藤ヶ丘は、1960年代の住宅地開発により削り取られていました。戦後間もない頃は、藤ヶ丘が残っていることが航空写真から確認できます。
航空写真から、藤ヶ丘は旧檜原村の北方向の近くにあり、廻りは畑となっています。

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現在の桧原一・二丁目空撮地図

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桧原一・二丁目空撮地図(1945-1950) 


春先から福岡県久留米市北野町(西鉄甘木線沿線 大城、金島)の公共施設に於いて宮原誠一氏による神社の勉強会を始めます。詳細は決まっていませんが、平日のAグループと土日組Bグループに分け「宮原誠一の神社見聞諜」から抽出し講義を行って頂きます。二つのグループ分けていますが同一テーマを隔月で行い(つまり毎月行うわけで両方とも参加は可能です)、相互乗り入れは可能です。参加費1000円程度、時間は2〜3時間を考えています。 メンバーばかりではなく、飛び入りも含め一般も参加できる勉強会の予定です。 参加希望の方は 編集員 古川 090-6298-3254事務局 中島 090-5289-2994 まで

これについては現在保留しております。具体化した場合はお知らせします。

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桧原一・二丁目空撮地図(1961-1969) 藤ヶ丘は削り取られています


五社神社 福岡市南区桧原二丁目24-20(大字檜原字猿田)

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「五社大明神」しめ縄は五本綯い?しめ子は変わっています、金箔が巻いてあります

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比較的新しい六角台に六角灯籠、大幡主を感じます

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無題.png社神社 福岡市南区桧原二丁目24-20(大字檜原字猿田)
祭神 住吉神 春日神 志賀神 香椎神 宝満神
由緒
創建は定かではないが、古来、五社大明神社と呼ばれていたのを、明治5年11月3日大政官布告に従って村社に治定されてからは五社神社と呼ばれるようになった
氏子区域及戸数 旧檜原村 58
 
天神社(末社)
埴安神 右側神(向かって左) 垣安神 左側神(向かって右)
由緒
大正15年5月大字檜原字天神(檜原一丁目藤ヶ丘)より現在の地所に御遷宮された由

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仁徳天皇と菖蒲の花
体調を崩し寝込まれた仁徳天皇の夢枕に味耜高彦根神(アヂスキタカヒコネ神=ウガヤフキアエズ命)が立ち「枕元に菖蒲の花を祀ると治る」とお告げがあり、そのようにされたところ病気が平癒したという故事に因む

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日輪の釘かくし


五社神社の本当の祭神は?
由緒に見られる五社神社の祭神
住吉神、春日神、志賀神、香椎神、宝満神
五社神社の祭神は「五社」に合わせた寄せ集めに過ぎません。五社の祭神に相互関連性はありません。
本殿の屋根の外削ぎ千木に鰹木五本で男神を祀ります。
物部神額、仁徳天皇の「あやめ紋」、地籍字の「猿田」、社殿の釘かくしに打たれた日輪紋章、拝殿のしめ縄の形式、これらは物部神社を象徴します。
近くの柏原の羽黒神社の境内社(向かって右)の綾部神社には仁徳天皇を祀ります。
天照大神(卑弥呼)、神武天皇(大伯太子)を祀る羽黒神社ですから、五社神社に仁徳天皇が祀られても自然です。

羽黒神社 福岡市南区柏原372

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本殿の左脇殿に天神社(埴安命=大幡主)右脇殿に綾部神社(仁徳天皇 開化天皇 大幡主)日輪紋章は朝倉市立野の天満神社の本殿にも打ってあります。 
立野の天満神社 福岡県朝倉市宮野747 (朝倉郡宮野村大字宮野字立野裏)

945 「宮原誠一の神社見聞諜」No.209 幻の元伊勢・福岡市の檜原神社を求めて  に続く…

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2023年07月06日

943 北部九州の大彦(開化天皇の親族)の一族が武田氏となり九州に下向し金八先生になった…? ❶

943 北部九州の大彦(開化天皇の親族)の一族が武田氏となり九州に下向し金八先生になった…? 

        20221207

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


この間で甲信越の神社調査を続けて来ました。

 これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)で、信州佐久の鯉太郎 外 多くを書いてきましたのでお読み頂いた方もあると思います。


968

信州佐久の鯉太郎(番外) 信州最奥部の呉橋と勅使堂(門) 

上田市 前山鹽田神社の切り出

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甲信越の若宮八幡宮とは何なのか?

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信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 

続 山梨県 若宮八幡神社(追補) 

960

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)

 山梨県 若宮八幡神社

959

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓭ 

長野県富士見町 若宮八幡神社 

958

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓬ 

上田市 鹿教湯温泉の呉橋 

957

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓫ 

佐久市 近津神社

956

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❿ 

佐久市 若宮八幡神社 

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信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❾ 

佐久市 高良社 

954

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)

小諸市 御影神社

951

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❼ 

上田市 生島足島神社 (下)

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信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)

上田市 生島足島神社 (中)

949

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❺ 

上田市 生島足島神社 (上)

948

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❹ 

上田市 前山鹽田神社

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信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❸ 

上田市 山鹿神社

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信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)

千曲市 佐良志奈神社

945

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)

千曲市 武水分八幡神社

944

信州佐久の鯉太郎 “千曲、上田、小諸、佐久遠征への下調べ”

として (企画編)⓪

  近稿にはストックとしてまだオンエアしていないブログもあります

349

勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には

何故「三階松の神紋」があるのか?”

348

勝沼ワインの里の大善寺 F “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」

像があるのか?”(追補)A

345

勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

344

勝沼ワインの里の大善寺 E “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」

像があるのか?”(追補)

343

勝沼ワインの里の大善寺 D “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」

像があるのか?”(下)

342

勝沼ワインの里の大善寺 C “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」

像があるのか?”(中)

341

勝沼ワインの里の大善寺 B “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」

像があるのか?”(上)

213

勝沼ワインの里の大善寺 A “大善寺の全国的傾向”

212

勝沼ワインの里の大善寺 @ “山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の

神宮寺”


 勿論、三度四度(実際にはもっと多いのですが)と行ってきた甲信越への神社探訪の延長上に今夏の信州佐久の鯉太郎シリーズもある訳で、ぶどう寺から始まった調査の果てに武田信玄の一族も真田幸村の一族も北部九州から避退した人々だったのではないかとの思いが一層強まったのでした。

 武田信玄のルーツは常陸のひたちなか市の武田であると言った半ば定説の如き説が跋扈している事も承知してはいるのですが、武田氏のルーツは新羅三郎と言うのも良く知られた話である事から、九州を経由せずに真っすぐ常陸の太平洋岸に入ったとするのも奇妙であり、それ以前の経由地や起源を掘り下げるべきと思うもののです。

ともあれ、ここでは武田氏のルーツを考える上で興味深い話がありますので、逆方向から探ってみようと思います。

 勿論、これが武田信玄に繋がったからと言って、武田氏のルーツを探る助けにはならない事は十分に承知してはいますが、エピソード的に面白い話だけに取り上げてみようと思います。

 これが神社専門サイトのひぼろぎ逍遥(跡宮)ではなく新ひぼろぎ逍遥に書いた理由です。

 この話をする前にもう少しその伏線を話しておきたいと思います。

 何度となく入って来た甲信越ですが、高速を使わずに1000キロを車中泊で走り抜け一週間〜半月と調査旅行をするのはさすがにハードで体力と精神を消耗します。

 しかし、それが完遂できるのは富士山が正面に見える友人の別荘が山中湖湖畔にあるからで、そこでの快適な環境が用意されているからこそ継続できるのです。

 実は、その別荘のオーナーが大学の親友で、武田という姓なのです。

 それだけならば偶然と思うのですが、彼の一族は元々熊本県南関町に住む一族で、元々は鎌倉期なのでしょうか肥後と筑後の国境の要害の地で(「平家物語」にも登場する重要な関の地なのです)大津山神社の付近に纏まって住んでいたと言うのです。

 つまり、関東武士団の武蔵七党の横山党の一派だったとも言うのです。

 もしそうであれば、鎌倉政権が重要拠点を制圧するために送り込んだ先遣隊の後裔の可能性があるのです。その観点をキープしたうえで、南小国の武田一族を考えて見ましょう。武田鉄矢氏と絡むのです。

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赤丸が南関町、青丸が南小国町を示していますが、阿蘇氏への備えと国境警備のための下向ですね


南関町の武田一族は調査が遅れているので、先に南小国町の方から話をしてみます。

これは「三枚下し」だったか運転中に海援隊の武田鉄矢氏の話を聴いたことがきっかけでした。

武田鉄矢氏は福岡教育大在籍中に海援隊を結成しているのですが、学生時代の大半をバンド活動に費やし、とうとうテレビの人気番組だった金八先生にまでなった事はご存じの通りです。

 この武田という姓は元々お母さんの武田イクさんの姓で、この武田姓は南小国町中原に集中しているのです。

 ラジオで聴いた話ですから不正確ですが、北里柴三郎で知られる小国町に隣接する集落(南小国町)で、イクさんはそこの大地主の娘だったそうです。

 ただ、イクさんの祖父が亡くなられ、父が相場か保証なのかで家勢を失い、田畑を失ったため福岡に移り住むことになったと言うのです。

 武田鉄矢氏は、元々はニ三十町歩の大地主の家系で武田信玄に繋がる甲州武田氏の一族の長の家系だったらしいのです。

簡略化した話で言えばそういったもので、これについては既にかなり詳しいブログを書かれている方がおられますので(三例出しておきます)関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。以下。



武田鉄矢のファミリーヒストリー 

武田鉄矢の父親と母親の故郷は同じ熊本県阿蘇郡南小国町の

ファミリーヒストリー武田鉄矢〜武田家の栄光と没落……など


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場所は小国町から阿蘇大観峰に向かう国道212号線から一山西に越えた中原地区から更に入り込んだ樋の口という隠里風の小集落で、実際、現地に入ると公民館(集落コミュニティ・センター)の直ぐ傍には武田の四つ割り菱紋の打たれた蔵が目に入るなど、まずは、武田一族を派遣した鎌倉政権の屯田集落と言った雰囲気なのです。

 もしも、この樋の口集落で拾った武田の一族が甲州から入ってきていると言う伝承が正しいとすれば、少なくとも時の鎌倉政権が元寇に備え、北条家の重臣を南小国の万願寺に送り込み、藤原氏のルーツともいえる阿蘇氏に睨みを効かせ乍ら、多くの武士団を送込んでいた可能性は十分にあるのです。

 この中原に隣接する小国町下城も鎌倉御家人が送り込まれているという話を聴いており、九州のど真ん中の高原地帯に拠点を置き、筑前、筑後、豊後の敵対勢力を撃退する最重要拠点だったことはまず間違いないところでしょう。

 事実、日田市から旧大山町を経て小国、南小国へと進行する場合、考えられるルートは、松原ダムの上流の下筌ダムから東に入るルートはあるも、杖立温泉から小国に進出する以外は考えられず、杖立温泉やその手前の松原ダム建設以前の松原から小国町への少なくとも200メートルはある大峡谷を進軍せざるを得ず、下城、中原から下に向けて撃たれる矢襖を抜け小国の大地に辿り着ける兵がどれほどいるかは容易に想像が着くのであり、正しくアウトレンジ戦法の恰好の餌食に成る事は想像に難くないのです。

杖立、津江の名の通りの大峡谷の要害は、防衛都市として選ばれた九州の経営拠点として準備されたものだったのです。


「満願寺と阿蘇流北条氏〜元寇や鎌倉滅亡にも関与した阿蘇の北条一族」 から

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熊本県南小国町にある満願寺(まんがんじ)の小国郷は鎌倉時代、執権・北条家の所領でした。

そして、1274年、文永の役の際に鎮西奉行となっていた北条時定が、国土安泰を祈願して建立したと伝わります。

満願寺の庭園は、庭内の心字の池の中心部に「都忘れずのつつじ」が植えられているなど、室町時代の趣があり、九州最古の庭園と言われています。

この満願寺には執権・北条時宗の姿として代表される肖像画「絹本著色伝北条時定像」があり、その価値から国の重要文化財に指定されています。

ただし、実際には北条時定の嫡子・北条定宗の像とも考えられています。

…中略…

そして、北条時定の兄である北条経時は、鎌倉幕府の第4代執権に、次兄の北条時頼は第5代執権となっています。

北条時定は、執権にこそなれませんでしたが、準じる家柄であることから鎌倉では将軍の側近を務めました。

また、北条時政以来、代々継承されてきた肥前・阿蘇社の所領を継いで、阿蘇時定と称します。

そして兄・北条時頼が死去すると、弘長4年(1264年)の百カ日仏事に際して、肥前・満願寺を開創したのです。

元寇となると、1281年に肥前守護となり、8月頃に鎮西として下向したとされます。

そして、北条為時(阿蘇為時)とも一時名乗りますが、1287129日には鎮西奉行となり、蒙古対策を担当しました。

北条時定には、北条時家、北条随時と言う子がいたようですが、まだ幼少だった模様で、1289年、養子である北条定宗に家督と肥前守護職を譲ります。

そして隠居すると、12901015日に博多にて死去しました。

このように、北条時定(阿蘇時定)は、鎮西に下向した阿蘇流北条氏(あそりゅうほうじょうし)の祖とされ、九州に土着しました。…

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大分の由布院温泉、熊本の黒川温泉で知られるのも阿蘇郡南小国町で、その西の外れの奥まった隠里風の小集落には今も156軒の農家があり、戦前までは20軒の文字通り武田姓ばかりの集落だったそうです。

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集落を見下ろす一段と高い場所にあった武田イクさんの生家の跡地は現在農地に戻っています。

無題.pngこの集落の全てが鎌倉以降下向した武田一族の領地となったようで、確かに武田鉄矢氏は武田信玄と流れを同じくする新羅三郎の血を引く一族だったことになりそうです。

しかし、二割ほど少なくなったとは言え、九州中心部の一角に、武田信玄と同族の集団が集落を形成し、一時期は阿蘇氏をも制圧し、元寇を迎え撃ち、何時しか定着し、静かな山村で生を繋いだことは非常に興味深い話です。

始めは薄い期待を抱いてはいたものの、海援隊の武田鉄矢が南小国と縁があるとの話に驚きましたが、歴史とはさらに越えた話が身近なところに転がっているものです。

実際、集落に辿り着いた途端に甲州菱、武田菱に出迎えられ、かなり詳しい話を地元の知己からお聴きし、平然と武田信玄と同族の末裔との話が平然と理路整然と聴かされると北条氏の揮下により進駐した武士団の中近世の駐屯地を発見したことに感動を覚えたのです。

鉄矢氏は三枚下しの番組では、武田氏と同族の後裔といった話は一切されませんでしたが、一時期、列島を制圧する勢いをも持った甲斐源氏、甲州武田氏の九州への下向(実は帰参)を確認できたのでした。


イクさんの生家跡地


ここでは前記の三本のブログではなくNHKファミリーヒストリーからご紹介しておきます。

20141121日放送 22:00 - 22:50 NHK総合

ファミリーヒストリー 武田鉄矢〜武田家の栄光と没落 見つかった母の肉声〜

 オープニング

武田鉄矢は65歳になった今もステージに立ち続けていた。有名にした出世作は「3B組金八先生」。近年では、太平記などで歴史上の人物を重厚な演技で熱演した。鉄矢は、日本を代表する演技派俳優として確固たる地位を築いている。山梨・甲斐市のコンサートなどで、鉄矢はトークタイムでかけがえのない母を話題にした。哲也を育てた母・武田イクには、波乱の幼少期があったという。武田鉄矢は、母は相当なお姫様だったが、一家が離散して博多に引き取られたらしいと話した。鉄矢はその真相を最後まで母に尋ねることが出来なかったと語った。番組で家族の歴史を取材したところ、熊本阿蘇の豪農が浮かび上がった。その武田家に不幸が襲いかかる。鉄矢の母・イクは、家族を守るために運命に立ち向かう。取材の結果を伝える日、鉄矢さんは初めて自らのルーツと向き合う。

武田鉄矢〜武田家の栄光と没落 見つかった母の肉声〜

福岡・博多区麦野。タバコ屋を営む鉄矢の実家から取材は始まった。鉄矢の姉、長女・ミヤさん、三女のスミヨさんが出迎える。今回の取材見つかったイクさんの新たな形見は、講演テープの数々。イクさんは晩年近隣のPTAなどに招かれ、自らの人生経験を語っていた。そのテープでは、故郷に付いて語られている。熊本県阿蘇郡南小国村中原で生まれたと語るテープが放送される。

 熊本阿蘇の豪農 武田家 激動の歳月

武田家母方のルーツは熊本県阿蘇郡に遡る。熊本・南小国町中原樋ノ口がイクのふるさと。住人の多くは、武田信玄や武田家の末裔と考えられている。鉄矢の曽祖父・武田喜十郎は、先祖代々樋ノ口で農業・林業を営む大地主。村民からも絶大な信頼を得ていた。武田喜十郎の頭痛の種は、喜十郎の長男、武田計早蔵(鉄矢の祖父)。武田計早蔵が熱中していたのは先物相場。儲かりそうな話を聞きつけては、父に金の無心をしていた。鉄矢の母、長女・イク、次女・キワと長男・豊ら3人の子どもたちも武田計早蔵に振り回されていた。鉄矢の叔母に当たる次女の穴井キワさんは、父親の強烈なキャラクターを今も鮮明に覚えている。

穴井キワさんは、「これが計早蔵おやじ」と写真を見せてくれた。メガネについて、伊達メガネだと明かし、昔にしてはしゃれとったと話し笑った。子どもたちにも贅沢をさせるのが大好きだった計早蔵。しかし家族は、稼業に興味を示さない姿に不安をいだいていたという。毎回実家から計早蔵が持ち出す金額は、200万円を下らなかったという。イクはその頃の様子を講演のテープで語っていた。しかし、昭和2年、武田喜十郎が死去。最大の後ろ盾を失った計早蔵の商売は、昭和金融恐慌によって、時代の荒波に飲み込まれようとしていた。九州だけで60の銀行が破綻に追い込まれた。複数の高利貸に手を出しており、行き詰まる計早蔵の実家に借金取りが押し寄せた。


そして計早蔵の妻、ヒロは、離婚を決意した。慰謝料は受け取らない代わりに、子供は引き取らない。ヒロの実家は、武田家をはるかに凌ぐ、阿蘇の名家だった。計早蔵に3人の子どもたちを育てることはもはや不可能だった。そこで口減らしのために、長女のイクが里子に出されることになった。イクわずか8歳は、他の兄弟達のために、博多の親戚宅にもらわれていった。更に悲劇が続く。昭和4年、長男・豊が食中毒が原因で急死。武田家の不動産の登記簿謄本の一部には、計早蔵が借金返済のため、所有権を次々に他人に移転させているのがわかる。穴井キワさんは父・計早蔵がたまに帰ってきた時のことを「あさってかえるけんね、といって出て行った、それが最後、それっきり会っていない」と話す。武田計早蔵はこの時を最後に家族の前から姿を消した。武田家は離散した。計早蔵の消息は今も一切わかっていない。


 以下も続きますが、お読みになりたい方はご自分で検索してお読み下さい。全文掲載は申し訳ありませ

んので。悪しからず。


最期に


武田信玄が第9代天皇開化(高良玉垂命)の腹違いの兄弟の一族“大彦”が新羅三郎のルーツと考えています。この点については百嶋由一郎氏の手書き資料にも記述があります。

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ひぼろぎ逍遥

961

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 

続 山梨県 若宮八幡神社(追補) 

960

信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)

山梨県 若宮八幡神社


 上の二本で武田信玄の晩年の居城でもあった韮崎城に近い武田八幡宮を取り上げています。そこで、九州から東方に侵攻した四道将軍の一派に大彦があったとすれば、武田の一族も元は九州起源となります。

 とすれば、大彦の一族は元々本体を九州に持っていたはずですから、土地勘があり、手駒も容易に調達できる集団を送込んでいるはずで、結果的には武田氏のルーツは九州であり、半島から進出した氏族であると考えるのです。その意味では武田氏のルーツを考える上での手掛かりの一つとは言えるのです。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記