2023年07月03日

942 緊急報告“高良大社下宮社の背後地(大祝司邸宅跡)に佐賀川上峡の淀姫の墓所があった!” ➋

942 緊急報告“高良大社下宮社の背後地(大祝司邸宅跡)に佐賀川上峡の淀姫の墓所があった!”

新ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載        20221020

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久


本稿はトレッキングで遭遇したかなり衝撃的な発見をとりあえず知らせるために作成したチラシ(実質2pに抑えるもの)緊急報告“高良大社下宮社…”(965)に補足し再編集したものとお考え下さい。

 “太宰府地名研究会は、去る1016日(日)、新らたなメンバーも増えていることから何度目かの高良大社トレッキングを行いました。これは同会メンバーの「事代主のブログ」氏の企画によるもので、上宮、高樹神社(高良山参拝階段直下)、下宮、を巡り、北野町稲数の赤司八幡宮を巡るものでした。

 ところが、過去、20年近く何度も参拝しているものの、全く気付かなかった、話にも聴いたこともなかった下宮後背地にある「加輪髪媛」の墓所というものに遭遇したのでした。

無題.png

そもそもこの一帯には旧大宮司邸、旧大祝(司)邸=鏡山家…と言った大屋敷があり、古くは多くの群集墓もあったと聴いています。

この久留米IC周辺の建設工事が行われ高速道路の供用開始されたのはほぼ50年前のことで、当時の事を知る人も徐々に消えつつあります。事実、20年前までは当会の前身が古刹の三井寺で活動を開始した当時は、この一帯での建設工事を知る人も多く、中でも付近に住むメンバーのW氏は高良大社の氏子でも重要な役割を果たしておられた方で、地域で貴重な古墳として知られる祇園山古墳が発掘された直後も現場を見ておられ、男女二体の遺骨を現認しておられました。

ところが、当時、高速道路の建設に邁進していたためですが、騒ぎを大きくするとまずいと考えたのか当局、市教委位も遺骨は一切無かったとし鎮めようとしたようです(高良大社研究の大家とされるK氏ほか:明らかに嘘を発表していたのです)。凡その裏の経緯は容易に想像できますが、発掘調査は強行され、その調査報告書は久留米大学三井学舎の図書館にも保管されています。二体の遺骨はともかく写真を含めその記録も残っています。

まあ、行政当局も上からの指示で、建設工事を急ぐことに腐心していたのでしょう。

悔しい話ですが、こうして、貴重極まりない未盗掘の祇園山古墳(方墳)は裾が切り取られ工事は進められたのでした。この古墳から高速沿いに数百メートル北にあるのが高良下宮社であり、高速道路西側の買収残地に残されたのが大祝(司)屋敷お堂だったのです(後に数10年前に再度残地内で移転された事も分かってきました)。

地域によって守られてきたからこその未盗掘古墳だったのですがあっという間に破られたのでした。

胸糞の悪くなる話は終えお堂の話に戻りますが、建設によって移転を余儀なくされた結果、買収残地の一角に運良く残ったか買収に掛ったために移転したのかは当時の地権者でなければ分からないはずです。

現在の地権者も世代が代われ、半世紀を経た今となっては当時の経緯は詳しくはご存じないようです。

既に、現在の敷地は別の方の土地になっており、この施設の元々の所有者の大祝家の一族にお尋ねするしかありません(恐らく大祝家の末流鏡山家の御頭首の一族は久留米市草野町に居られるようですので近々にもお話をお聴きしたいと思っています)。ここで、前ブログで書いたことを掲載します。

話は、「事代主のブログ」氏のトレッキング企画で、高良下宮社に入ったところから始まります。

同氏は事前に境内の石塔を見て回っていると、カワカミ姫なる名を見掛けたと言い出したのでした。

これは、報告者が下見に来た際、神殿参拝階段左手に石柱があり「加輪髪媛」の墓所の記述があったと言い出したったからでした(結果、これは誤りで、大祝邸跡地の碑文の事だった様です)、直ちに女性の新メンバー2人が境内を走り回り高速道路側の奥に鉄縄網で囲われた祠がある事を見つけたのでした。

後で分かった事をもう少し加えて言えば、件の7坪四方の鉄柵で囲われた祠(Googleの地図ではお堂と記述)下宮社の境内地ではなく境内地背後に隣接する旧大祝(司)邸跡地にであったのでした。

我々古参メンバーも、これまでも境内地には何度となく踏み入っていますが、草叢に覆われた向こう側にまでは目が向かず、参加者一同が等しく驚いたのでした。むしろ境内地の外には踏入らないのです。

後で、ネットを確認すると少しずつ分かってきました。ともあれ「事代主のブログ」氏の慧眼と探求心を賛美したいと思います。

冒頭に掲載したGoogle(グーグルの検索能力は遥かに先を行っています)の地図で確認して下さい。

マイクロソフトではなく、Googleで高良下宮社を検索し下の地図を出し拡大すれば、直ぐにお堂が出ますので、それに5枚の画像が付けられています。私邸ですので許可を得て入られる様にお願いします。

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其の1枚の中に「加輪髪媛」の墓所と記述されたものがあるため我々は俄かに心が騒ぎ出したのでした。

この間、河上 猛は日本武尊によって誅殺されたのではなく、許され、一族は脊振山系を越え、福岡市早良区に落ち延び、その一族だか分流だかが阿蘇大蛇伝説の大神一族になっているのだという事がだんだんと分かってきていることから、逆に河上 猛とその妹である淀姫に呼び出されているのではないかとさえ思うのです。

これとは別にこのお堂については数件ですが先行してブログを発信する方がおられるようです。

一例をご紹介しますが、「山歩き 古墳巡り」では以下のように書かれています(一部転載)。


良宮宿禰神室加輪髪媛高貴古墳嬪七坪四方形傳永代爲之家運息斎又爲後世史歴矣


高良宮宿禰の妻神加輪髪媛の古墳七坪四方形を永遠に家運息斎、後世に歴史を伝える、という意味か?


無題.pngこの漢文は元々あったものを新しい石塔に書き写したものなのでしょうか、一からの書下ろしかも知れませんが、多少、筋の通らない文章となっています。

まあ、事情を知らずに判断するのは憚られるべき事ですが、問題は加輪髪媛です。

我々は神社研究、それも特殊な百嶋由一郎神社考古学の者ですから、その偏見に基づき言わせて頂ければ、文中の加輪髪媛とは佐賀川上峡の淀姫神社の淀姫(豊ユタ姫、河上猛の妹)以外考えようがありません。

特に淀姫が安曇磯羅の妃となっていると百嶋由一郎から聴いているものとしては、もしも最後の大祝(司)の一族の屋敷神のような形で祀られていたとすれば、十分にありうる話で、百嶋由一郎の話の裏取りにはなるのです。

まず、7坪ですが、3.30578×7=約25u(5m画)で、フェンスは少し内側で造られているようです。また、「加輪髪媛高貴古墳嬪の嬪についてですが、普通は皇后・妃・夫人に次ぐ地位、天皇の正妻を皇后、内親王を妃、それ以外を夫人 嬪とした様で、側室の意味では多少格を落とし過ぎという印象を持ちます。

無題.png

高良下宮社は高良玉垂命を主神にスサノウと孝元天皇を祀る神社(看板は情けない事に考えるになり考えていない)です。父神の第8代孝元天皇の子が高良玉垂命(開化天皇)と書かれているのです。これも凄い話ですね。皆さん、孝元天皇を祀る神社をどこかにご存じですか?

さて、下宮社の話に踏み入る前に高良大社とは何かを考えておきましょう。

そもそも高良大社は日本最古の歴史を持つ宇佐神宮に遡る事数百年の神宮だったのです。

「高良玉垂宮神秘書」104p 281)によれば、

無題.png

一、高良、九州ノコソウヒョウタルカ、天平勝宝元年(丑己)ノ年、宇佐八幡ノ御社造立アリテヨリ、高良、御マヽコタルニヨリ、九州ソウヒウノ御ツカサヲ ユツリ玉フ也


と、あり、九州=(直轄領域の意)を宇佐に奪われるのは749)で、それまでは列島倭国の九州(大陸の用語を引くもので皇帝の直轄領域の意)の宗廟だったのです。後段でその一部をご覧頂きます。

高速が造られたのは50年以上前の話で、その当時の事をご存じの方は90代を超すでしょう。

では、大祝(司)邸に居られた方は誰なのでしょうか?

最後の大祝(司)一族は鏡山家でしたが…、ただ、政治的な変化が起これば絶えず大祝職も替わってきた訳で、有名な稲数or稲員(イナカズ)、神代(クマシロ)家などは九州王朝直系として我々も心を馳せた記憶があります。ただ、最後は鏡山家が良く知られており、高速道路の敷地となる時代の当主は久留米市草野町に移られたとまでは聴いています。では、この祠の主とは誰なのでしょうか。我々は、加輪髪媛を佐賀川上峡に居た淀姫と考えています。

では、何故、河上の淀姫と言えるかです。百嶋神社考古学では淀姫は日本武尊に誅殺された河上猛の妹とします。これについては、blog「ひぼろぎ逍遥」551554「淀姫」➀〜➃から始まり、ひぼろぎ逍遥(跡宮)10数本のブログを公開し、パワー・ポイントも3本作成しネット上にオンエアしています。

941

死を免れた栄えある川上 猛の後裔氏族は今も早良に住み、

その一族は大神一族となっている

936

ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫

934

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?下 ❿

933

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?上 ❾

932

早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

931

河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

928

続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

927

大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

926

「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに

用意したレジュメ ❹ 

925

福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々の

ご出身地を知りたい ❸ 

924

福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が

住み着いた現地を確認した ❷

923

ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され

今もその一族は福岡市早良区に住んでいる ❶

以下は故)百嶋由一郎が最後に残した最終神代系譜の一部ですが、河上 猛の妹が淀姫で高良大社に居たと考えられるウガヤフキアエズの子安曇磯羅のお妃であり、逆にこの系譜の信憑性を確認するのです。

高良大社の権威をご存じでない方も多いと思いますので、「高良玉垂宮神秘書」の一部を少し見る事にしましょう。これについては、当会のメンバーによる書き下し分が公開されており、全文は読むことが出来ますし、ここでは驚かれるような話の一端をご紹介しておきます。

「高良玉垂宮神秘書」には高良玉垂命=開化天皇と仲哀死後の神功皇后とは夫婦となられ、仁徳天皇以下5人の子が産まれており、仲哀の遺児でしょうが連子と共に9人の皇子が九躰皇子と呼ばれるものです。当然、九州外の高良社に祀られる高良玉垂命が武内宿祢だなどと言われる話は大嘘である事も、両者が書き分けられている事で分かると思います。

今回重要なのは鏡山家に纏わる部分で、佐賀県佐賀市川上峡の淀姫神社の主神淀姫(豊姫=ユタヒメ)こそが、この墓碑と言うか石塔に書かれる加輪髪媛であり、16pに書かれるこの時の大祝が鏡山家であり、この高速道路建設により残った大祝司一族のお堂の元々の所有者が鏡山である事、そしてその末裔の御子孫の一族が今も久留米市草野町にお住いのようで、この敷地と守られてきた大祝一族としての鏡山家が玄孫大臣+豊姫(ユタヒメが本来の呼称で九州西岸は沖縄の三母音の影響が残るため後に近畿大和朝廷の時代にユタをヨト、ヨドと読み替えたと考えられるのです。一般的に、肥後、筑後ではオオゴトをウウゴトと発音する事と対応するのです…松の仲間になるのですか…針葉樹の「栂」を九州で「ツガ」と呼び近畿で「トガ」と呼ぶことと対応しているのです)。ともあれ淀姫、表筒男、鏡山家が繋がったのです。玄孫大臣アツカリ玉フナリ、・・トハリニマカセ、大祝、本名字鏡山トハ申也、大祝ハ職ニツイテノ名也、ヒスヘシ ヒスヘシ… 外、河上大明神、日往子尊、玄孫大臣物部大連、鏡山家…などお読みください。日往子の後裔が鏡山家に繋がっているのではないかと思います。

百嶋由一郎が残した神代系譜DVDスキャニングデータ、講演録音声CDを必要な方は09062983254まで

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では、何故、河上の淀姫と言えるかです。百嶋神社考古学では淀姫は日本武尊に誅殺された河上猛の妹とします。これについては、blog「ひぼろぎ逍遥」551554「淀姫」➀〜➃から始まり、ひぼろぎ逍遥(跡宮)10数本のブログを公開し、パワー・ポイントも3本作成しネット上にオンエアしています。

941

死を免れた栄えある川上 猛の後裔氏族は今も早良に住み、

その一族は大神一族となっている

936

ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫

934

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?下 ❿

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ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような土地だったのか?上 ❾

932

早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

931

河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

928

続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

927

大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

926

「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに

用意したレジュメ ❹ 

925

福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々の

ご出身地を知りたい ❸ 

924

福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が

住み着いた現地を確認した ❷

923

ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され

今もその一族は福岡市早良区に住んでいる ❶

以下は故)百嶋由一郎が最後に残した最終神代系譜の一部ですが、河上 猛の妹が淀姫で高良大社に居たと考えられるウガヤフキアエズの子安曇磯羅のお妃であり、逆にこの系譜の信憑性を知るのです。

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従って、高良大社に居たと考えられるウガヤの子 安曇磯羅=表筒男命の妃となったからこそ、高良下宮社の背後地の大祝司の一族の屋敷神として残されていたとも考えられるのです。大祝司家は過去権勢に変化があるごとに変わってきました。ただ、この高速道路の敷地として取られた(潰された)土地を引き継いだ一族が川上の淀姫に縁のある人だったのではと思うばかりです。これについては探査を続けます。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記

2023年07月01日

941 緊急報告“高良大社下宮社の背後地(大祝司邸宅跡)に佐賀川上峡の淀姫の墓所があった!” ❶

941 緊急報告“高良大社下宮社の背後地(大祝司邸宅跡)に佐賀川上峡の淀姫の墓所があった!”

新ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載        20221017

 太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久

無題.png 太宰府地名研究会は、去る1016日(日)、新らたなメンバーも増えていることから何度目かの高良大社トレッキングを行いました。これは同会メンバーの「事代主のブログ」氏の企画によるもので、上宮、高樹神社(高良山参拝階段直下)、下宮、を巡り、北野町稲数の赤司八幡宮を巡るものでした。

 ところが、過去、20年近く何度も参拝しているものの、全く気付かなかった、話にも聴いたことのなかった下宮後背地の「加輪髪媛」の墓所に遭遇したのです。  高良大社下宮 カーナビ検索 福岡県久留米市御井町387

詳しく言えば、下宮社の境内地ではなく、境内地背後に隣接する旧大祝司邸跡地に7坪四方の鉄柵で囲われた祠が在ることが分かったのでした。これは、報告者が下見に来た際、神殿参拝階段左手に石柱があり「加輪髪媛」の墓所の記述があったと言ったからですが、直ちに女性の新メンバー二人が境内奥に鉄縄網で囲われた祠がある事を見つけたのでした。境内地には何度となく踏み入っていますが、草叢に覆われた向こう側にまでは目が向かず、参加者一同が等しく驚いたのでした。では、ネットで位置を確認しましょう。Googleで高良下宮社を検索し下の地図を出し拡大すれば、お堂が出ますので、それに5枚の画像が出ます。

無題.png

これについては先達者がおられます。一例「山歩き 古墳巡り」で以下書かれています(一部転載)。

良宮宿禰神室加輪髪媛高貴古墳嬪七坪四方形傳永代爲之家運息斎又爲後世史歴矣

高良宮宿禰の妻神加輪髪媛の古墳七坪四方形を永遠に家運息斎、後世に歴史を伝える、という意味か?

とされています。問題は加輪髪媛です。我々は神社研究、それも特殊な百嶋由一郎神社考古学の者で、その偏見からは、加輪髪媛とは佐賀川上峡の淀姫神社の淀姫(豊ユタ姫、河上猛の妹)以外ありません。まず、7坪ですが、3.30578×7=約25u(5m画)で、フェンスは少し内側で造られているようです。また、加輪髪媛高貴古墳嬪のですが、普通は皇后・妃・夫人に次ぐ地位、天皇の正妻を皇后、内親王を妃、それ以外を夫人 嬪とした様で、側室の意味では落とし過ぎではないかと考えています。

では、何故、河上の淀姫と言えるかです。百嶋神社考古学では淀姫は日本武尊に誅殺された河上猛の妹とします。これについては、blog「ひぼろぎ逍遥」551554「淀姫」➀〜➃から始まり、ひぼろぎ逍遥(跡宮)10数本のブログを公開し、パワー・ポイントも3本作成しネット上にオンエアしています。

941

死を免れた栄えある川上 猛の後裔氏族は今も早良に住み、

その一族は大神一族となっている

936

ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫

934

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような

土地だったのか?下 ❿

933

ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような

土地だったのか?上 ❾

932

早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽

931

河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ 

928

続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ 

927

大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ 

926

「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに

用意したレジュメ ❹ 

925

福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々の

ご出身地を知りたい ❸ 

924

福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が

住み着いた現地を確認した ❷

923

ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され

今もその一族は福岡市早良区に住んでいる ❶

以下は故)百嶋由一郎が最後に残した最終神代系譜の一部ですが、河上 猛の妹が淀姫で高良大社に居たと考えられるウガヤフキアエズの子安曇磯羅のお妃であり、逆にこの系譜の信憑性を知るのです。

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従って、高良大社に居たと考えられるウガヤの子 安曇磯羅=表筒男命の妃となったからこそ、高良下宮社の背後地の大祝司の一族の屋敷神として残されていたとも考えられるのです。大祝司家は過去権勢に変化があるごとに変わってきました。ただ、この高速道路の敷地として取られた(潰された)土地を引き継いだ一族が川上の淀姫に縁のある人だったのではと思うばかりです。これについては探査を続けます。

現在、太宰府地名研究会は小倉、熊本、久留米、太宰府にサテライトを持ち、65日には戸畑区に於いて九州王朝研究で最先端を走る佃収先生(埼玉県)をお呼びし60人の集会を行いました。これは、熊本県和水町の菊水史談会の最後の講演会(40名参加:6時間)と提携し行ったものですが、雨の中和水町と併せ延べ100人の集会を行えました。当会には自著を持ち、ブログ、ユーチューブ・チャンネルを持つ

20人近い多くの民間研究者が居られます。今後のスケジュールは、ひぼろぎ逍遥トップ画面(3系統)を確認され、トレッキングも随時行っていますので、関心をお持ちの方は090-52892994(事務局)中島or09062983254(古川)までご連絡ください。古田武彦を失い九州王朝論は分解過程に入りました。古田三部作も知らぬ古代史ファンの時代に入っています。今回別配布の11月スケジュール表(1120sun)には前述の佃収研究を引き継ぐ別府市在住の安部裕治氏「辰国残影」(600p著者の小倉講演が予定されています。こちらも自由にご参加できます(参加費1000円)。なお、百嶋由一郎氏は久留米大学の公開講座でも一度講演されています。もう67年前の事でした。新たな活動が始まったのでした。

/(sun) 丁己歴史塾+太宰府地名研究会主催 佃 収 北九州市講演 へのお誘い

202265日(日)13001700 60人規模で佃 収 講演を北九州市(戸畑区)でも行います

会場    福岡県北九州市戸畑区汐井町16 ウェルとばた 8F JR鹿児島本線 戸畑駅 隣

講演者 『古代文化を考える』(同人誌)主宰 佃 収 (著書多数) 参加費1000

テーマ 熊本は「貴国から高市天皇」でした北九州では、「日本人の起源」〜「倭の五王」まで

テキストとして「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)1200円当日:40部限定販売


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佃 収氏の講演会を長年に亘って実施されてこられた事だけでも敬服に値しますが、菊水史談会の功績は何と言っても「納音(ナッチン)九州年号対応表」(和水町の旧庄屋の住居に保管さ無題.pngれていた古文書の一部)の確保でした。これは長年に亘って佃 収先生の著書を隈なく読み込んで来られた前垣事務局長でなければ発見できなかった功績であり、あれほどの実例のある「九州年号」を認めない教育委員会や学芸員(通説が嫌がる九州王朝実在の証拠だからです)が如何に無視しようとも歴史的業績は消え去る事は無いでしょう。「九州年号」には「二中歴」を始めとして「海東諸国紀」「如是院年代記」「本朝皇代記」「和漢春秋暦」「興福寺年代記」「王代年代記」…など実際には20以上の実用例があり、明らかに近畿大和政権以前に実在し使用されていた言わば九州王朝を現在に伝える物証なのです。ただ、この幾つかに分かれた年号群は大半は対応するも、初年号が幾つかのもので「継体」「善記」と異なるとか、使用期間が違うと言った点があり、初歩的な議論では磐井の乱で九州王朝を滅ぼしたはずの継体(福井県から出てきたなどと言われる)の名が付された「継体」が何故九州年号と言えるのかと言った話まで出ていたのでした。そこでお考え頂きたいのですが、この「九州年号」に幾つかの系統があり、それが九州王朝の分裂と関係があるのではないかと指摘されたのが佃 収先生でした。皆さんも後醍醐天皇と南北朝騒乱期の事は良くご存じの事と思います。近畿大和朝廷の延長上の内戦時においても従来の年号は使用されており、南北朝期の60年間は互いに別々の年号を創っていたのです。後に南朝の後亀山天皇は、統合を受諾し三種の神器が後小松天皇の御所に移され南北朝分裂が終わり、この時南朝の年号が廃止しされ北朝の年号「明徳」が存続したのでした。これについて古代史の復元シリーズ 5》「倭の五王と磐井の乱」読まれるべきですが、新著の早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)第2二部第1章物部麁鹿火政権(佃説)以下第2章阿毎王権(俀国)、第3章豊王権、第4章上宮王権、第5章天武王権、第6高市天皇…をお読みください。実に素晴らしいクレバーな解析です。

古田武彦が鬼籍に入り、続く多くの研究者も続き九州王朝論を正しいと考える研究者は、佃 収氏と僅かな方しか残っておらず、何れ、九州王朝って何のことだと言われる時代が目前に来ています。かつては九州王朝を意識した研究会もあったのですが、研究者を失い村興し町興し果ては世界遺産登録に浮かれ、通説派の教育委員会関係者や学芸員のご高説を賜り賛意を表する状況では早晩九州王朝研究も消失するでしょう。

中には自称九州王朝論の研究者と称すも、行政の芸人に成り下がる方々も出るようではさぞかし古田武彦も草葉の陰から嘆いているでしょう。佃収先生は九州王朝論の主流派である古田史学などから独立し自らの研究を続けて来られました。それだけでも敬服に値しますが、九州のフィールド・ワークを徹底して続けて来られました。現在そうした研究者を見ません。かつては「法隆寺は移築された」を書かれた米田良三氏も居たのですが氏も鬼籍に…。現在、当会は熊本、福岡(福岡、太宰府、久留米)、佐賀、大分の4県で研究機、講演会、勉強会と合わせ現場でのフィールド・ワークも続けています。関心をお持ちの方は、ブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」外のトップ画面スケジュール表をご覧ください。また、九州内だけでも当会メンバーによるブログ(百嶋由一郎神社考古学に触発された)が十数名により20本(全国レベルでも356本)が公開されています。村興し町興し果ては世界遺産登録…と通説に奉仕する郷土史会、教育委員会があまりにも目に余ります。

所詮官製研究とはそんなものでしかなくそのさもしい流れから独立する事が真実古代史への第一歩です。

太宰府地名研究会+百嶋由一郎神社考古学研究会(文責:古川)

事務局 中島 茂 09052892994 (通信不能時連絡 古川 清久  090-62983294

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