941 緊急報告“高良大社下宮社の背後地(大祝司邸宅跡)に佐賀川上峡の淀姫の墓所があった!” ❶
新ひぼろぎ逍遥 ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載 20221017
太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久
太宰府地名研究会は、去る10月16日(日)、新らたなメンバーも増えていることから何度目かの高良大社トレッキングを行いました。これは同会メンバーの「事代主のブログ」氏の企画によるもので、上宮、高樹神社(高良山参拝階段直下)、下宮、を巡り、北野町稲数の赤司八幡宮を巡るものでした。
ところが、過去、20年近く何度も参拝しているものの、全く気付かなかった、話にも聴いたことのなかった下宮後背地の「加輪髪媛」の墓所に遭遇したのです。 高良大社下宮 カーナビ検索 福岡県久留米市御井町387
詳しく言えば、下宮社の境内地ではなく、境内地背後に隣接する旧大祝司邸跡地に7坪四方の鉄柵で囲われた祠が在ることが分かったのでした。これは、報告者が下見に来た際、神殿参拝階段左手に石柱があり「加輪髪媛」の墓所の記述があったと言ったからですが、直ちに女性の新メンバー二人が境内奥に鉄縄網で囲われた祠がある事を見つけたのでした。境内地には何度となく踏み入っていますが、草叢に覆われた向こう側にまでは目が向かず、参加者一同が等しく驚いたのでした。では、ネットで位置を確認しましょう。Googleで高良下宮社を検索し下の地図を出し拡大すれば、お堂が出ますので、それに5枚の画像が出ます。

これについては先達者がおられます。一例「山歩き 古墳巡り」で以下書かれています(一部転載)。
良宮宿禰神室加輪髪媛高貴古墳嬪七坪四方形傳永代爲之家運息斎又爲後世史歴矣
高良宮宿禰の妻神加輪髪媛の古墳七坪四方形を永遠に家運息斎、後世に歴史を伝える、という意味か?
とされています。問題は加輪髪媛です。我々は神社研究、それも特殊な百嶋由一郎神社考古学の者で、その偏見からは、加輪髪媛とは佐賀川上峡の淀姫神社の淀姫(豊ユタ姫、河上猛の妹)以外ありません。まず、7坪ですが、3.30578×7=約25u(5m画)で、フェンスは少し内側で造られているようです。また、加輪髪媛高貴古墳嬪の嬪ですが、普通は皇后・妃・夫人に次ぐ地位、天皇の正妻を皇后、内親王を妃、それ以外を夫人 嬪とした様で、側室の意味では落とし過ぎではないかと考えています。
では、何故、河上の淀姫と言えるかです。百嶋神社考古学では淀姫は日本武尊に誅殺された河上猛の妹とします。これについては、blog「ひぼろぎ逍遥」551‐554「淀姫」➀〜➃から始まり、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に10数本のブログを公開し、パワー・ポイントも3本作成しネット上にオンエアしています。
941 | 死を免れた栄えある川上 猛の後裔氏族は今も早良に住み、 その一族は大神一族となっている ⓬ |
936 | ヤマトタケルの熊襲退治時代の勉強会を熊本県西原村でも行います ⓫ |
934 | ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような 土地だったのか?下 ❿ |
933 | ヤマトタケルの熊襲退治時代の佐賀県東部とはどのような 土地だったのか?上 ❾ |
932 | 早良の諏訪神社を「福岡県神社誌」から見ると ❽ |
931 | 河上猛がヤマトタケルに許された旧脊振村広滝とは ❼ |
928 | 続)大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❻ |
927 | 大神一族とは河上 猛の後裔だったのではないか? ❺ |
926 | 「早良区に移動したその後の 河上 猛」小規模講演会向けに 用意したレジュメ ❹ |
925 | 福岡市早良区の諏訪神社の由緒略記を寄贈された方々の ご出身地を知りたい ❸ |
924 | 福岡市早良区に移住した河上 猛(熊襲 猛)の一族が 住み着いた現地を確認した ❷ |
923 | ヤマトオグナに誅伐された栄えある河上 猛は許され 今もその一族は福岡市早良区に住んでいる ❶ |
以下は故)百嶋由一郎が最後に残した最終神代系譜の一部ですが、河上 猛の妹が淀姫で高良大社に居たと考えられるウガヤフキアエズの子安曇磯羅のお妃であり、逆にこの系譜の信憑性を知るのです。

従って、高良大社に居たと考えられるウガヤの子 安曇磯羅=表筒男命の妃となったからこそ、高良下宮社の背後地の大祝司の一族の屋敷神として残されていたとも考えられるのです。大祝司家は過去権勢に変化があるごとに変わってきました。ただ、この高速道路の敷地として取られた(潰された)土地を引き継いだ一族が川上の淀姫に縁のある人だったのではと思うばかりです。これについては探査を続けます。
現在、太宰府地名研究会は小倉、熊本、久留米、太宰府にサテライトを持ち、6月5日には戸畑区に於いて九州王朝研究で最先端を走る佃収先生(埼玉県)をお呼びし60人の集会を行いました。これは、熊本県和水町の菊水史談会の最後の講演会(40名参加:6時間)と提携し行ったものですが、雨の中和水町と併せ延べ100人の集会を行えました。当会には自著を持ち、ブログ、ユーチューブ・チャンネルを持つ
20人近い多くの民間研究者が居られます。今後のスケジュールは、ひぼろぎ逍遥トップ画面(3系統)を確認され、トレッキングも随時行っていますので、関心をお持ちの方は090-5289−2994(事務局)中島or090‐6298‐3254(古川)までご連絡ください。古田武彦を失い九州王朝論は分解過程に入りました。古田三部作も知らぬ古代史ファンの時代に入っています。今回別配布の11月スケジュール表(11月20日sun)には前述の佃収研究を引き継ぐ別府市在住の安部裕治氏「辰国残影」(600p)著者の小倉講演が予定されています。こちらも自由にご参加できます(参加費1000円)。なお、百嶋由一郎氏は久留米大学の公開講座でも一度講演されています。もう6〜7年前の事でした。新たな活動が始まったのでした。
6/5(sun) 丁己歴史塾+太宰府地名研究会主催 佃 収 北九州市講演 へのお誘い
2022年6月5日(日)13:00〜17:00 60人規模で佃 収 講演を北九州市(戸畑区)でも行います
会場 福岡県北九州市戸畑区汐井町1−6 ウェルとばた 8F JR鹿児島本線 戸畑駅 隣
講演者 『古代文化を考える』(同人誌)主宰 佃 収 (著書多数) 参加費1000円
テーマ 熊本は「貴国から高市天皇」でした北九州では、「日本人の起源」〜「倭の五王」まで
テキストとして「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)1200円当日:40部限定販売

佃 収氏の講演会を長年に亘って実施されてこられた事だけでも敬服に値しますが、菊水史談会の功績は何と言っても「納音(ナッチン)九州年号対応表」(和水町の旧庄屋の住居に保管されていた古文書の一部)の確保でした。これは長年に亘って佃 収先生の著書を隈なく読み込んで来られた前垣事務局長でなければ発見できなかった功績であり、あれほどの実例のある「九州年号」を認めない教育委員会や学芸員(通説が嫌がる九州王朝実在の証拠だからです)が如何に無視しようとも歴史的業績は消え去る事は無いでしょう。「九州年号」には「二中歴」を始めとして「海東諸国紀」「如是院年代記」「本朝皇代記」「和漢春秋暦」「興福寺年代記」「王代年代記」…など実際には20以上の実用例があり、明らかに近畿大和政権以前に実在し使用されていた言わば九州王朝を現在に伝える物証なのです。ただ、この幾つかに分かれた年号群は大半は対応するも、初年号が幾つかのもので「継体」「善記」と異なるとか、使用期間が違うと言った点があり、初歩的な議論では磐井の乱で九州王朝を滅ぼしたはずの継体(福井県から出てきたなどと言われる)の名が付された「継体」が何故九州年号と言えるのかと言った話まで出ていたのでした。そこでお考え頂きたいのですが、この「九州年号」に幾つかの系統があり、それが九州王朝の分裂と関係があるのではないかと指摘されたのが佃 収先生でした。皆さんも後醍醐天皇と南北朝騒乱期の事は良くご存じの事と思います。近畿大和朝廷の延長上の内戦時においても従来の年号は使用されており、南北朝期の60年間は互いに別々の年号を創っていたのです。後に南朝の後亀山天皇は、統合を受諾し三種の神器が後小松天皇の御所に移され南北朝分裂が終わり、この時南朝の年号が廃止しされ北朝の年号「明徳」が存続したのでした。これについて古代史の復元シリーズ 5》「倭の五王と磐井の乱」を読まれるべきですが、新著の早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)第2二部第1章物部麁鹿火政権(佃説)以下第2章阿毎王権(俀国)、第3章豊王権、第4章上宮王権、第5章天武王権、第6高市天皇…をお読みください。実に素晴らしいクレバーな解析です。
古田武彦が鬼籍に入り、続く多くの研究者も続き九州王朝論を正しいと考える研究者は、佃 収氏と僅かな方しか残っておらず、何れ、九州王朝って何のことだと言われる時代が目前に来ています。かつては九州王朝を意識した研究会もあったのですが、研究者を失い村興し町興し果ては世界遺産登録に浮かれ、通説派の教育委員会関係者や学芸員のご高説を賜り賛意を表する状況では早晩九州王朝研究も消失するでしょう。
中には自称九州王朝論の研究者と称すも、行政の芸人に成り下がる方々も出るようではさぞかし古田武彦も草葉の陰から嘆いているでしょう。佃収先生は九州王朝論の主流派である古田史学などから独立し自らの研究を続けて来られました。それだけでも敬服に値しますが、九州のフィールド・ワークを徹底して続けて来られました。現在そうした研究者を見ません。かつては「法隆寺は移築された」を書かれた米田良三氏も居たのですが…氏も鬼籍に…。現在、当会は熊本、福岡(福岡、太宰府、久留米)、佐賀、大分の4県で研究機、講演会、勉強会と合わせ現場でのフィールド・ワークも続けています。関心をお持ちの方は、ブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」外のトップ画面スケジュール表をご覧ください。また、九州内だけでも当会メンバーによるブログ(百嶋由一郎神社考古学に触発された)が十数名により20本(全国レベルでも35〜6本)が公開されています。村興し町興し果ては世界遺産登録…と通説に奉仕する郷土史会、教育委員会があまりにも目に余ります。
所詮官製研究とはそんなものでしかなくそのさもしい流れから独立する事が真実古代史への第一歩です。
太宰府地名研究会+百嶋由一郎神社考古学研究会(文責:古川)
事務局 中島 茂 090−5289−2994 (通信不能時連絡 古川 清久 090-6298−3294)