943 北部九州の大彦(開化天皇の親族)の一族が武田氏となり九州に下向し金八先生になった…? ❶
20221207
太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久
この間で甲信越の神社調査を続けて来ました。
これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)で、信州佐久の鯉太郎 外 多くを書いてきましたのでお読み頂いた方もあると思います。
968 | 信州佐久の鯉太郎(番外) 信州最奥部の呉橋と勅使堂(門) 上田市 前山鹽田神社の切り出 |
967 | 甲信越の若宮八幡宮とは何なのか? |
961 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県 若宮八幡神社(追補) |
960 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓮ 山梨県 若宮八幡神社 |
959 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓭ 長野県富士見町 若宮八幡神社 |
958 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓬ 上田市 鹿教湯温泉の呉橋 |
957 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓫ 佐久市 近津神社 |
956 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❿ 佐久市 若宮八幡神社 |
955 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❾ 佐久市 高良社 |
954 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❽ 小諸市 御影神社 |
951 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❼ 上田市 生島足島神社 (下) |
950 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❻ 上田市 生島足島神社 (中) |
949 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❺ 上田市 生島足島神社 (上) |
948 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❹ 上田市 前山鹽田神社 |
947 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❸ 上田市 山鹿神社 |
946 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)❷ 千曲市 佐良志奈神社 |
945 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)➊ 千曲市 武水分八幡神社 |
944 | 信州佐久の鯉太郎 “千曲、上田、小諸、佐久遠征への下調べ” として (企画編)⓪ |
※ 近稿にはストックとしてまだオンエアしていないブログもあります
349 | 勝沼ワインの里の大善寺 G “ぶどう寺と宮地嶽神社には 何故「三階松の神紋」があるのか?” |
348 | 勝沼ワインの里の大善寺 F “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」 像があるのか?”(追補)A |
345 | 勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社” |
344 | 勝沼ワインの里の大善寺 E “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」 像があるのか?”(追補) |
343 | 勝沼ワインの里の大善寺 D “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」 像があるのか?”(下) |
342 | 勝沼ワインの里の大善寺 C “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」 像があるのか?”(中) |
341 | 勝沼ワインの里の大善寺 B “ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」 像があるのか?”(上) |
213 | 勝沼ワインの里の大善寺 A “大善寺の全国的傾向” |
212 | 勝沼ワインの里の大善寺 @ “山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の 神宮寺” |
勿論、三度四度(実際にはもっと多いのですが)と行ってきた甲信越への神社探訪の延長上に今夏の信州佐久の鯉太郎シリーズもある訳で、ぶどう寺から始まった調査の果てに武田信玄の一族も真田幸村の一族も北部九州から避退した人々だったのではないかとの思いが一層強まったのでした。
武田信玄のルーツは常陸のひたちなか市の武田であると言った半ば定説の如き説が跋扈している事も承知してはいるのですが、武田氏のルーツは新羅三郎と言うのも良く知られた話である事から、九州を経由せずに真っすぐ常陸の太平洋岸に入ったとするのも奇妙であり、それ以前の経由地や起源を掘り下げるべきと思うもののです。
ともあれ、ここでは武田氏のルーツを考える上で興味深い話がありますので、逆方向から探ってみようと思います。
勿論、これが武田信玄に繋がったからと言って、武田氏のルーツを探る助けにはならない事は十分に承知してはいますが、エピソード的に面白い話だけに取り上げてみようと思います。
これが神社専門サイトのひぼろぎ逍遥(跡宮)ではなく新ひぼろぎ逍遥に書いた理由です。
この話をする前にもう少しその伏線を話しておきたいと思います。
何度となく入って来た甲信越ですが、高速を使わずに1000キロを車中泊で走り抜け一週間〜半月と調査旅行をするのはさすがにハードで体力と精神を消耗します。
しかし、それが完遂できるのは富士山が正面に見える友人の別荘が山中湖湖畔にあるからで、そこでの快適な環境が用意されているからこそ継続できるのです。
実は、その別荘のオーナーが大学の親友で、武田という姓なのです。
それだけならば偶然と思うのですが、彼の一族は元々熊本県南関町に住む一族で、元々は鎌倉期なのでしょうか肥後と筑後の国境の要害の地で(「平家物語」にも登場する重要な関の地なのです)大津山神社の付近に纏まって住んでいたと言うのです。
つまり、関東武士団の武蔵七党の横山党の一派だったとも言うのです。
もしそうであれば、鎌倉政権が重要拠点を制圧するために送り込んだ先遣隊の後裔の可能性があるのです。その観点をキープしたうえで、南小国の武田一族を考えて見ましょう。武田鉄矢氏と絡むのです。

赤丸が南関町、青丸が南小国町を示していますが、阿蘇氏への備えと国境警備のための下向ですね
南関町の武田一族は調査が遅れているので、先に南小国町の方から話をしてみます。
これは「三枚下し」だったか運転中に海援隊の武田鉄矢氏の話を聴いたことがきっかけでした。
武田鉄矢氏は福岡教育大在籍中に海援隊を結成しているのですが、学生時代の大半をバンド活動に費やし、とうとうテレビの人気番組だった金八先生にまでなった事はご存じの通りです。
この武田という姓は元々お母さんの武田イクさんの姓で、この武田姓は南小国町中原に集中しているのです。
ラジオで聴いた話ですから不正確ですが、北里柴三郎で知られる小国町に隣接する集落(南小国町)で、イクさんはそこの大地主の娘だったそうです。
ただ、イクさんの祖父が亡くなられ、父が相場か保証なのかで家勢を失い、田畑を失ったため福岡に移り住むことになったと言うのです。
武田鉄矢氏は、元々はニ三十町歩の大地主の家系で武田信玄に繋がる甲州武田氏の一族の長の家系だったらしいのです。
簡略化した話で言えばそういったもので、これについては既にかなり詳しいブログを書かれている方がおられますので(三例出しておきます)関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。以下。
武田鉄矢のファミリーヒストリー
武田鉄矢の父親と母親の故郷は同じ熊本県阿蘇郡南小国町の
ファミリーヒストリー武田鉄矢〜武田家の栄光と没落……など

場所は小国町から阿蘇大観峰に向かう国道212号線から一山西に越えた中原地区から更に入り込んだ樋の口という隠里風の小集落で、実際、現地に入ると公民館(集落コミュニティ・センター)の直ぐ傍には武田の四つ割り菱紋の打たれた蔵が目に入るなど、まずは、武田一族を派遣した鎌倉政権の屯田集落と言った雰囲気なのです。
もしも、この樋の口集落で拾った武田の一族が甲州から入ってきていると言う伝承が正しいとすれば、少なくとも時の鎌倉政権が元寇に備え、北条家の重臣を南小国の万願寺に送り込み、藤原氏のルーツともいえる阿蘇氏に睨みを効かせ乍ら、多くの武士団を送込んでいた可能性は十分にあるのです。
この中原に隣接する小国町下城も鎌倉御家人が送り込まれているという話を聴いており、九州のど真ん中の高原地帯に拠点を置き、筑前、筑後、豊後の敵対勢力を撃退する最重要拠点だったことはまず間違いないところでしょう。
事実、日田市から旧大山町を経て小国、南小国へと進行する場合、考えられるルートは、松原ダムの上流の下筌ダムから東に入るルートはあるも、杖立温泉から小国に進出する以外は考えられず、杖立温泉やその手前の松原ダム建設以前の松原から小国町への少なくとも200メートルはある大峡谷を進軍せざるを得ず、下城、中原から下に向けて撃たれる矢襖を抜け小国の大地に辿り着ける兵がどれほどいるかは容易に想像が着くのであり、正しくアウトレンジ戦法の恰好の餌食に成る事は想像に難くないのです。
杖立、津江の名の通りの大峡谷の要害は、防衛都市として選ばれた九州の経営拠点として準備されたものだったのです。
「満願寺と阿蘇流北条氏〜元寇や鎌倉滅亡にも関与した阿蘇の北条一族」 から

熊本県南小国町にある満願寺(まんがんじ)の小国郷は鎌倉時代、執権・北条家の所領でした。
そして、1274年、文永の役の際に鎮西奉行となっていた北条時定が、国土安泰を祈願して建立したと伝わります。
満願寺の庭園は、庭内の心字の池の中心部に「都忘れずのつつじ」が植えられているなど、室町時代の趣があり、九州最古の庭園と言われています。
この満願寺には執権・北条時宗の姿として代表される肖像画「絹本著色伝北条時定像」があり、その価値から国の重要文化財に指定されています。
ただし、実際には北条時定の嫡子・北条定宗の像とも考えられています。
…中略…
そして、北条時定の兄である北条経時は、鎌倉幕府の第4代執権に、次兄の北条時頼は第5代執権となっています。
北条時定は、執権にこそなれませんでしたが、準じる家柄であることから鎌倉では将軍の側近を務めました。
また、北条時政以来、代々継承されてきた肥前・阿蘇社の所領を継いで、阿蘇時定と称します。
そして兄・北条時頼が死去すると、弘長4年(1264年)の百カ日仏事に際して、肥前・満願寺を開創したのです。
元寇となると、1281年に肥前守護となり、8月頃に鎮西として下向したとされます。
そして、北条為時(阿蘇為時)とも一時名乗りますが、1287年1月29日には鎮西奉行となり、蒙古対策を担当しました。
北条時定には、北条時家、北条随時と言う子がいたようですが、まだ幼少だった模様で、1289年、養子である北条定宗に家督と肥前守護職を譲ります。
そして隠居すると、1290年10月15日に博多にて死去しました。
このように、北条時定(阿蘇時定)は、鎮西に下向した阿蘇流北条氏(あそりゅうほうじょうし)の祖とされ、九州に土着しました。…

大分の由布院温泉、熊本の黒川温泉で知られるのも阿蘇郡南小国町で、その西の外れの奥まった隠里風の小集落には今も15〜6軒の農家があり、戦前までは20軒の文字通り武田姓ばかりの集落だったそうです。

集落を見下ろす一段と高い場所にあった武田イクさんの生家の跡地は現在農地に戻っています。
この集落の全てが鎌倉以降下向した武田一族の領地となったようで、確かに武田鉄矢氏は武田信玄と流れを同じくする新羅三郎の血を引く一族だったことになりそうです。
しかし、二割ほど少なくなったとは言え、九州中心部の一角に、武田信玄と同族の集団が集落を形成し、一時期は阿蘇氏をも制圧し、元寇を迎え撃ち、何時しか定着し、静かな山村で生を繋いだことは非常に興味深い話です。
始めは薄い期待を抱いてはいたものの、海援隊の武田鉄矢が南小国と縁があるとの話に驚きましたが、歴史とはさらに越えた話が身近なところに転がっているものです。
実際、集落に辿り着いた途端に甲州菱、武田菱に出迎えられ、かなり詳しい話を地元の知己からお聴きし、平然と武田信玄と同族の末裔との話が平然と理路整然と聴かされると北条氏の揮下により進駐した武士団の中近世の駐屯地を発見したことに感動を覚えたのです。
鉄矢氏は三枚下しの番組では、武田氏と同族の後裔といった話は一切されませんでしたが、一時期、列島を制圧する勢いをも持った甲斐源氏、甲州武田氏の九州への下向(実は帰参)を確認できたのでした。
イクさんの生家跡地
ここでは前記の三本のブログではなくNHKファミリーヒストリーからご紹介しておきます。
2014年11月21日放送 22:00 - 22:50 NHK総合
ファミリーヒストリー 武田鉄矢〜武田家の栄光と没落 見つかった母の肉声〜
オープニング
武田鉄矢は65歳になった今もステージに立ち続けていた。有名にした出世作は「3年B組金八先生」。近年では、太平記などで歴史上の人物を重厚な演技で熱演した。鉄矢は、日本を代表する演技派俳優として確固たる地位を築いている。山梨・甲斐市のコンサートなどで、鉄矢はトークタイムでかけがえのない母を話題にした。哲也を育てた母・武田イクには、波乱の幼少期があったという。武田鉄矢は、母は相当なお姫様だったが、一家が離散して博多に引き取られたらしいと話した。鉄矢はその真相を最後まで母に尋ねることが出来なかったと語った。番組で家族の歴史を取材したところ、熊本阿蘇の豪農が浮かび上がった。その武田家に不幸が襲いかかる。鉄矢の母・イクは、家族を守るために運命に立ち向かう。取材の結果を伝える日、鉄矢さんは初めて自らのルーツと向き合う。
武田鉄矢〜武田家の栄光と没落 見つかった母の肉声〜
福岡・博多区麦野。タバコ屋を営む鉄矢の実家から取材は始まった。鉄矢の姉、長女・ミヤさん、三女のスミヨさんが出迎える。今回の取材見つかったイクさんの新たな形見は、講演テープの数々。イクさんは晩年近隣のPTAなどに招かれ、自らの人生経験を語っていた。そのテープでは、故郷に付いて語られている。熊本県阿蘇郡南小国村中原で生まれたと語るテープが放送される。
熊本阿蘇の豪農 武田家 激動の歳月
武田家母方のルーツは熊本県阿蘇郡に遡る。熊本・南小国町中原樋ノ口がイクのふるさと。住人の多くは、武田信玄や武田家の末裔と考えられている。鉄矢の曽祖父・武田喜十郎は、先祖代々樋ノ口で農業・林業を営む大地主。村民からも絶大な信頼を得ていた。武田喜十郎の頭痛の種は、喜十郎の長男、武田計早蔵(鉄矢の祖父)。武田計早蔵が熱中していたのは先物相場。儲かりそうな話を聞きつけては、父に金の無心をしていた。鉄矢の母、長女・イク、次女・キワと長男・豊ら3人の子どもたちも武田計早蔵に振り回されていた。鉄矢の叔母に当たる次女の穴井キワさんは、父親の強烈なキャラクターを今も鮮明に覚えている。
穴井キワさんは、「これが計早蔵おやじ」と写真を見せてくれた。メガネについて、伊達メガネだと明かし、昔にしてはしゃれとったと話し笑った。子どもたちにも贅沢をさせるのが大好きだった計早蔵。しかし家族は、稼業に興味を示さない姿に不安をいだいていたという。毎回実家から計早蔵が持ち出す金額は、200万円を下らなかったという。イクはその頃の様子を講演のテープで語っていた。しかし、昭和2年、武田喜十郎が死去。最大の後ろ盾を失った計早蔵の商売は、昭和金融恐慌によって、時代の荒波に飲み込まれようとしていた。九州だけで60の銀行が破綻に追い込まれた。複数の高利貸に手を出しており、行き詰まる計早蔵の実家に借金取りが押し寄せた。
そして計早蔵の妻、ヒロは、離婚を決意した。慰謝料は受け取らない代わりに、子供は引き取らない。ヒロの実家は、武田家をはるかに凌ぐ、阿蘇の名家だった。計早蔵に3人の子どもたちを育てることはもはや不可能だった。そこで口減らしのために、長女のイクが里子に出されることになった。イクわずか8歳は、他の兄弟達のために、博多の親戚宅にもらわれていった。更に悲劇が続く。昭和4年、長男・豊が食中毒が原因で急死。武田家の不動産の登記簿謄本の一部には、計早蔵が借金返済のため、所有権を次々に他人に移転させているのがわかる。穴井キワさんは父・計早蔵がたまに帰ってきた時のことを「あさってかえるけんね、といって出て行った、それが最後、それっきり会っていない」と話す。武田計早蔵はこの時を最後に家族の前から姿を消した。武田家は離散した。計早蔵の消息は今も一切わかっていない。
以下も続きますが、お読みになりたい方はご自分で検索してお読み下さい。全文掲載は申し訳ありませ
んので。悪しからず。
最期に
武田信玄が第9代天皇開化(高良玉垂命)の腹違いの兄弟の一族“大彦”が新羅三郎のルーツと考えています。この点については百嶋由一郎氏の手書き資料にも記述があります。

ひぼろぎ逍遥
961 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓯ 続 山梨県 若宮八幡神社(追補) |
960 | 信州佐久の鯉太郎 信州最奥部の神社を探る (実踏編)⓮ 山梨県 若宮八幡神社 |
上の二本で武田信玄の晩年の居城でもあった韮崎城に近い武田八幡宮を取り上げています。そこで、九州から東方に侵攻した四道将軍の一派に大彦があったとすれば、武田の一族も元は九州起源となります。
とすれば、大彦の一族は元々本体を九州に持っていたはずですから、土地勘があり、手駒も容易に調達できる集団を送込んでいるはずで、結果的には武田氏のルーツは九州であり、半島から進出した氏族であると考えるのです。その意味では武田氏のルーツを考える上での手掛かりの一つとは言えるのです。