
国土交通省を国土再生省に
何のことはない、ただの"看板の挿げ替え"じゃないかと思われるかもしれませんが、私は非常に重要な意味を持っていると考えています。 とは言うものの、これほどまでに破壊され、なお、とどまるところを知らない都市の乾燥化への動きを止め、"都市の水循環をどう再生するのか"という問題を考えると、気の遠くなるような思いがします。しかし、元に戻していくしかないのです。

画像は国土交通省HP
ヒート・アイランドを解消するための特効薬や魔法といったものがある訳ではありません。
なぜならば、現在進行している事態は明瞭な物理的現象であって、それを元に戻すには物理的法則に従う以外に方法はないからです。
ただ、ただ、数十年掛けて破壊した環境を数十年かけて元に戻すだけのことなのです。
しかし、既に色々な技術も生まれている訳であり、本気で始めさえすれば効果は比較的
早く現れてくることでしょう。
もちろん、江戸落語に登場するような日本を取り戻す事はできないですが、決して不可能でもないのです。
現在、不必要極まりない公共事業が続けられています。
道路建設一つを取ってみても、既に供給過剰であり、一度拡幅した道路に歩道を付け、次に二車線化し、歩道を両方付け、立体的に、道路の上にまで道路を造っているのです(一粒で何度も美味しい)。
都会ならばいざ知らず、地方都市でもこのようなことが繰り返され、それに天下り官僚といった連中が食い付いて離れないのです。
一方、俗に箱物といわれる何々センターや何々スタジアムといったものに至っては、そもそも全く不必要であるにもかかわらず、発注権を持った薄汚い政治勢力が税金を私的にピンはねする事だけを唯一の目的として造られ続けているのです。
このことを逆に考えれば、不必要なものを造り続けられるほどにこの国はまだ豊かであったということであり(もう原発事故により不可能になったかも知れませんが)、仮に自然環境再生のために政策の舵の切り変え事業を開始すれば、無意味な事業が意味のある事業に転換できるということです。
本来、このような馬鹿げた事に国家的資源を費やす事ほど愚かなことはないのであり、これらの富が国民に等しく分配されるならば、国民の幸せも増大し、科学的、文化的水準も維持されるはずなのですが、国土の荒廃がここまできた以上、仕方がないことなのです。
しかし、今後も日本に同程度の余裕があるとすれば[実はこれは非常に危ういのですが(*)]、この問題は比較的簡単なのです。
今尚くだらない不必要な公共事業が繰り返されている理由は、土建業者、議員、官僚が自己完結的な経済網をつくりあげ、これを維持し、その中で国家の富を掠め取り続けているからに外なりません。
従って、彼らはこの経済網を維持し続けるためならば、いかなる事業も喜んでやるはずなのであって、もともとビジョンなどというものを持ち合わせていない彼らは、自分達の経済網が維持できるならば新幹線も瀬戸大橋も高速道路もいらなかったはずなのです。
このため、ヒート・アイランド現象が、彼らがやってきた延長上に生じた災禍であることが明確になり、その変更が必要である事を強制されれば(もちろん、強制させる以外、自ら悔い改めはしないでしょうが)、豊かで住みやすい環境を取り返すための自然再生型"壊す公共事業"(**)を嬉々としてやり始め、彼ら自身も人生に生きがいを感じ、生きる意味を理解するはずなのです。
もちろん必要最小限の費用でこの事業は行われるのであり、土建屋の社長にだけ旨い汁を吸わせる必要はりません(この事業で働く人間の給与を一律固定にするだけでこれは可能になります)。これは増大し続ける生活保護費と自然再生型公共事業費とが入れ替わるだけなのです。
ただし、事業のベクトルを変えさせるためには、土木官僚に自らがヒート・アイランド化の最大の原因者であり、都市整備のあり方を変えなければならないという意識、理念を植え込む必要があるのです。
閑話休題 “バイパス整備は交通渋滞をもたらす”
バイパスのバイパスそのまたバイパス…が造り続けられていますが、それに併せて交差点の数は増え続けて行きます。
「バイパス整備は交通渋滞をもたらす」は、正確に言えば、信号待ちの片寄によって長距離通過者の利便、近距離移動者の辛抱で安定を図るというものでしかありません。
純粋に原理的評価を行えばこのようにしかならないのです。
分かりやすくするために簡略化したモデルで説明しましょう。
十字路とその周辺の道路と言うモデルを作ってみました。
内側の交差点数は1=1*1、全体は1+8=9(交差する3本の道路の3の二乗)
対角線上に移動すると通過に要する交差点数は 5(3)
内側の交差点数4=2*2、全体は4+12=16(交差する4本の道路の4の二乗)
対角線上に移動すると通過に要する交差点数は 7(5)
内側の交差点数は9=3*3、全体は9+16=25(交差する5本の道路の5の二乗)
対角線上に移動すると通過に要する交差点数は 9(7)
道路を造れば造るほど交差点の数は等比級数的(1→4→9→16→25→36…)に増え続け、信号待ちによるロスで逆に交通障害を招いてしまうのです。
簡単に言えば、将棋盤(9枡)を碁盤に変えているのが、今の交通政策と言えるでしょう。
将棋盤 :縦横10本の線( 9枡)を持つ盤で、枡の数は81、マス目の数は100
碁 盤 :縦横19本の線(18枡)を持つ盤を19路盤と言い、交点(目)の数は361、マス目の数は324
碁盤の目のような京都が渋滞しやすい理由はこれなのですが、「渋滞するから…」とバイパスを造れば造るほど、逆に信号待ち時間(平均は30秒から一分の半分×交差点数となる)により、反って、通過に余計な時間を取ってしまうのです。
このために、苦し紛れに立体交差を増やすことになるのですが、立体交差を増やせば良いのかというと、これにも経費と交差点の激増が付き纏うのです。
しかし、実は彼らもこのことは十分に分かっていて(もちろん末端の小役人は別ですが)、天下り先を確保するためにバイパス工事を歓迎しているのです。
そして、いずれ経済的にも、交通工学的にも破産することになるのです。
かつて陸軍、今、国土交通省!!
日本を戦禍に引き擦り込んだ関東軍は、国民はもとより、まやかしとは言え形式的にも存在した帝国議会と内閣を無視ししきり、ついには国家を呑み込み、全土を破滅に巻き込んだのですが、この次は、世界でも最も美しかった国土を破壊しつくした国土交通省が、国民と国家に破産を齎すことになるでしょう。
"我々の脳裏に新たな世界が構築されることなく、現在の転換はありえない。"のです。
86.大公共事業時代(公共事業は止められない!しかし、終わる!)
・・ コンクリートは永久のものではない
この小稿は2005年9月15日付でアンビエンテ内の「有明海諫早湾干拓リポートU」に掲載したものです。
公共事業が終わる!という最大の理由は、これまでに造ってきたものが、既に、十分大きくなり過ぎており、もはや手に負えなくなってきているからなのです。
例えば、新幹線や高速道路においても、早いものは五〇年に近づくものが出始めており、かなりのコンクリートの劣化(鉄筋の腐食その他)が目に付き始めているのです。
仮に、走行中の新幹線にトンネルからコンクリート塊が大きく崩落したと考えましょう。既に想定にあるはずであり監視体制は取られているとしても、現在のような過密ダイヤ、高速運転の中で事故が防げなかった場合、そのことによる犠牲者は今回のJR西日本の事故程度では収まらないことは分かりいただけるはずです。
恐らく、その建設の背後にある多くの条件(海砂、シャブ・コン、経営体質…)から言って、後から建設された山陽新幹線の方がよほど危ないと言われているようです。
東海道新幹線の時代は、川砂で建設が進められている上に、世界一の鉄道を造るという戦後日本資本主義の気概もあり、凡そ手抜き工事などというものは考えられなかったとされています。鉄路建設技術者、鉄橋やトンネルの技術者、受注企業のモラルも非常に高かったというのです(これもどこまで信じられるのか、結局は不明なのですが)。
もしも、新幹線路の劣化がすさまじく、そのメインタナンスに多くの予算を注ぎ込まなければならない状態で、目の前に美味しい○○新幹線建設事業があったとしても、最終的な選択は現存の稼働中の線路に投資を振向けざるを得ないのは明らかであるからです。
JR西日本の事故に象徴されるように、安全を無視し、経営を優先して事故が発生することはあるでしょう。ただ、一般国民は新線建設工事中の事故は許容できたとしても、事故によって自らが犠牲になるかもしれない稼働中の既存路線における利用者の事故だけは絶対に許容しないと考えられるのです。このことが、美味しい新線よりも現存路線を優先せざるを得ないという意味なのです。
残念ながら、多くの犠牲を伴ったこれらの事情によって新規が止まる可能性があるのです。現在、全く必要性のない長崎新幹線の建設が議論されていますが、してみると、まだ、国家に余力があるとも言えるのでしょうか。実際には国の借金は許容限度を越え、天下りし続ける官僚と土建業者と悪質政治家どもによって、とっくの昔に国民の貯蓄を食い潰しているのですが、"精算しない(できない)経済"の賜物でしょう。
かつて、米国はレーガン政権下において全国の高速道路に通行止めの区間が続出しました。橋梁やトンネルのメインタナンスに追われ、新規路線の建設はおろか、既存の路線が使えなくなってしまったのでした。背景にあったのは民主党から共和党への政権の移行に伴う予算配分の削減であり、その後のレーガン軍拡は平和な土建産業への投資を抑え、軍事産業への投資を増やしたのでした。もちろん、あまりにも建設が肥大化したことの結果であったことは言うまでもありません。どうやら、現在の日本の政権も同様の動きを始めているようですが。
日本のモータリゼーションの波はアメリカに半世紀近く遅れ、五〇年代後半に始まったのですが、アメリカで高速道路の劣化(特に橋梁やトンネル)が問題になるのが建設から五〇年近く経過した八〇年代です。日本の高速道路も建設から五〇年に近づくものが出始めており、そろそろ同じ問題が始まるのです。
参考のために「道路構造物の今後の管理・更新のあり方検討委員会」なる国交省の肝いり団体の報告を見てみましょう。これは、高速道路だけでなく一般の道路も含まれていますので、危機は全体に広がっていることが良くわかります。 ・・・ 以下。
** 自然再生型"壊す公共事業" : これについても以下を参照して下さい。
119. 公共工事か戦争か?(民需から軍需への振り子が動いた)
この小稿は2006年11月3日付でアンビエンテ内の「有明海諫早湾干拓リポートV」に掲載したものです。
いよいよ改憲論議が本格化してきましたが、環境保護派内にも護憲派の方がおられ一喜一憂されているかも知れません。私はいわゆる護憲派であった事は一度もありません。
戦後のブルジョワ憲法を金科玉条のごとく崇拝するなどありえない事で、心は至って静かです。平和憲法などと言われてはいますが、いわゆる九条問題にしても、日本という国家は裏では着実に軍事力を積み上げてきた上に、核に至ってはライシャワー証言を待つまでもなく、昔から米国の核を持ち込んで来ました。艦船に積み込んでの寄航は上陸ではない以上持込ではないと理解していたアメリカの基準を黙認し、彼らの基準で持ち込んでいないと通告していた事を分かった上で信用していたふりをしていたに過ぎなかったのです。
つまり、表向きは解釈改憲によって表面上は憲法を守っているように装っていただけの話であって、裏では憲法など守られてきた事など全くなかったというのが醒めたる識者の常識でしょう。
従って、戦争による改憲以来、守られた事などない一度もない国において"平和憲法を守れ!"と言うことは、錯覚であるか、逆に守らせてきたと思い込みたかったか、宣伝したかっただけの事でしかなく、むしろ、守られてもいないものを、守れ!と言うことによって、国民や労働者一般の護憲への幻想を繋ぎ留め、同時に奇妙な安心感と満足感を与える麻薬のようなものでしかなかったのです。
私はそのようなくだらない政治的運動や政治思想には一切の興味を持っていません。つまり、戦後民主主義を最高のものでもあるかのように擁護し、その現状を維持する事に利益を見出した護憲勢力(戦後の既成旧左翼いわゆる革新系議員や大手の堕落した組合官僚)が、その戦後民主主義を最後的にしゃぶり尽くして、全ての労働者、中小商工業者を無権利状態に陥し入れ潰してしまったのが、戦後の終焉である現在と言うべきでしょう。
ヒットラー・ナチの台頭が最も民主主義的と言われたワイマール共和国が生み出したものであったように、このおぞましいばかりの小泉ポピュリズムの登場こそ、アメリカに強要され許容された戦後民主主義の産物でしかないのです。
従って、一度も守られた事などなかった憲法を護持する事にも改変する事にも意味などありえないのです。
まず、権力は自らのブルジョワ権力を維持する必要がある時には憲法があろうがなかろうが、何時いかなる時にも人権を踏みにじり、労働者、一般国民に銃を向け、憲法など無関係に暴力を振るうはずです。
それはともかくとして、私には奇妙な別の安心感が漂っています。それは 86.大公共事業時代(公共事業は止められない!しかし、終わる)で書いたように、一つは公共事業が生み出したものが余りにも肥大化し老朽化し始めた事の結果として、新規をやる余裕など全く無くなっているということ。一つは、政治的には事実上のクーデターとも言うべき小泉の衆議院戦の勝利によって(あくまで結果であり現象に過ぎないのですが)、田中角栄以来、国家権力を握ってきた郵政族、道路族、建設族などといった護憲的(親中国的)土建屋ケインズ主義者どもが政権中枢から排除されたこと(地方ではまだこの連中が多数派ですが)によって、平和産業としての土建業の割合が減少してくる事が予測できるからです(南北朝期〜室町期のように絶えざるゆり戻しは有り得ますが)。
もちろん、今後もくだらないというより害悪の方が大きい公共事業は続くでしょうが、軍事シフトにより軍需中心の公共事業の比重が上がることによって、その中心は徐々に高性能ミサイル生産、ロボット兵器生産、海軍力の増強といったものにシフトしていくことになるでしょう。
単純には言えませんが、アメリカでは民需の民主党と軍需の共和党とが交互に入れ替わってきました。しかし、米国民主党の凋落は顕著であり、その背後には海外との競争に負けた民需生産の落ち込みがあるのです。最早、物を造らない、造ることができないアメリカの姿を見て取れます。今や、航空機と兵器生産以外に競争力のある産業はないのです。だからこそ、大量殺戮をものともせずイラクを侵略し、ドルの裏付け、従ってアメリカ資本主義の担保とも言うべき原資=石油を確保しに行ったのです。成功しているかどうかとは関係がありませんが。
日本においては、戦前は全ての予算を軍需と戦争に流し込んでいましたが、敗戦によって民需生産以外は許されなくなります。しかし、戦後復興が終わり、民需生産で世界を席巻してあぶく銭が国庫に入り始めるや、金が無尽蔵でもあるかの如く無節操にも土木工事に巨大な無駄遣いを始めるのです(田中、竹下、金丸、橋本、野中・・・)。そして、その付け回しこそが現在の財政破綻の基礎にあるのです。こんな連中を信用して選挙で投票を続ける国民にも驚かされますが(私は一度も投票した事がありません)、凡そ自分の頭で物事を考えていないかのようです。
資本主義経済とは人間の欲望を無制限に解放しただけのものに過ぎませんが、それを前提に制度化したものが資本主義社会です。この社会は絶えざる生産と絶えざる破壊を繰り返さなければ成立しないのです。まさに戦争こそは最適であり(平時でも盾と矛の矛盾により絶えず更新が行われるのです)、土建業では不必要な道路やダムが造り続けられるのです。
私はこの軍需への振り子を動かさずに平和な民需で生産を続ける唯一の方法として"壊す公共事業"(自然再生型)を提案したのですが(「有明海異変」)、現実には建設労働者の賃金の低下によって予算は削減されたものの、事業量は元のままか、むしろ増加してしまい、今や固定したかのようです。
ただ、国家予算の取り合いの側面としては、どうやら道路族の敗北となりつつあるといったところでしょう。
軍需と民需の振り子は動き始めました。いずれ、その事が鮮明になってくるでしょう。
非武装中立論者は、外圧による深刻な危機に直面するや容易に武装中立論者に変貌する事でしょう。

日本資本主義が再び技術力を取り返し、今後も国際競争力を維持し続けるためには、不必要な道路やダムを造り続けるよりは、ロボット生産やミサイル生産の方が賢い人間を生み出すはずであり、その意味では土建屋のボンクラ息子がベンツを乗り回すよりは、努力する理系の清貧な学生が受け入れられる社会の方が望ましいと思うものです。
一方、軍需といえばアレルギー反応を示す人が出てくる事は承知していますが、それはある意味で資本主義社会の必然であって、軍需生産が嫌であれば、それを別の政体(社会体制)に換える以外には方法がないのです。
もしも、"軍需生産へのシフトを許すべきではない!"と、するのならば、それは資本主義を打倒する事を考えて頂かなければならなくなるでしょう。なぜならば、スクラップ・アンド・ビュルドを繰り返す事は、資本主義の特性であるからです。
海外でもそうだと思いますが、日本では戦国時代(実際にはそれよりもはるか以前の古代まで遡るかも知れません。そもそも公共工事は戦争による奴隷=俘囚の強制労働が起源なのですから)の一般雑兵は平時においては城普請をさせられていたわけで、その後、安定期の江戸時代になると、この中枢の技術者の一部は黒鍬組と呼ばれる用水路や溜池工事の土木技術者になるのです。このように、権力は戦時には戦闘をしているのであり、平時には城普請や土木工事をしていたのです。そういえば、エジプトのピラミッドもシリヤだかとの戦争の後の公共事業として賃金を払って造らせたという説がありましたね。このように、戦争と公共工事とは双子の兄弟なのであり、今後もそうであることでしょう。
従って、"戦争反対!"を叫んだ戦前の反戦運動家(地下共産党、その他の社会主義政党、大本教、一応、現在のような堕落(?)が表面化する前の牧口常三郎や戸田城聖らの創価学会までは書いておきますか、それ以外の日蓮宗系統は率先して侵略の尖兵になり、浄土教系から曹洞禅、臨済禅を問わず残りは全て翼賛化され、後で鈴木大拙のように"宗教者は本当は戦争に反対だったのだ"などととぼけた事を言ったのです)と現在の環境保護団体(国交省や農水省などに利用され既に囲い込まれてしまったNPO法人などはもちろん別ですが)は同じ社会的性格や意味を持っている事が分かってくるのです。つまり権力を巡る問題なのです。
ただし、今後、軍事シフトが一層強まってくると、"国土と国民の命とどちらが大切か"という問題もさることながら、反対運動の社会的性格や位置付けも変わってくるでしょう。もちろん、豊な国土を守るという運動それ自体は今後とも不偏的意味を持ち続けるものと思います。
しかし、最後的には、"あなたは国家と戦ってもあるべき国家を守りますか?それともこの崩れ行く愚かでくだらない国家を捨てますか?"という選択を迫られるのです。私はそのどちらとも異なる"逃散"に魅力を感じています。この不公正で希望が持てない国家を自ら捨てるのではなく居たたまれなくなって国家から追い立てられるのでしょう。
日本よ一刻時も早く滅び去れ!滅びなくして再生なし!
64.第21回水郷水都全国会議, 第8回有明海・不知火海フォーラムin 久留米・柳川 資料集挿入論文「私が書く大会宣言」から
環境保護運動の限界とこれからの課題(壊す公共事業の提案)
筑後川水問題研究会会員(当時) 古川 清久
環境破壊のはじまり
この小稿は2005年4月16日付でアンビエンテ内の「有明海諫早湾干拓リポートU」に掲載したものです。
これまで、全国の環境保護団体や多くの反対運動は悪化する環境に危機感を抱きながら横暴な企業や破壊的な公共事業に対する勝ち目のない闘いを続けてきました。
古くは明治の田中正造による足尾銅山の鉱毒との闘い、下筌ダム建設反対運動、四日市ぜんそく、琵琶湖の汚染、そして水俣病訴訟……など多くの闘いの前史が存在します。始めは生活様式の変化による水環境の悪化や、野放しにされた企業が排出する汚濁物質が、直接、大気や河川や海などを汚すものが多かったのですが、これがいつの頃からか変りはじめます。新幹線騒音問題、美しい谷を沈め続ける多くのダム建設、ゴルフ場、スキー場などの大規模リゾート開発、ブナの森を破壊する林道建設、中海干拓、長良川河口堰問題、反対運動がなければ美しい珊瑚礁を破壊した石垣島白保の空港建設、徳島吉野川の第十堰建設、川辺川ダム建設、ギロチンの諫早湾干拓事業……など、民間企業によるものから国など行政がらみの問題が圧倒的に多くなり、中心が公共事業による環境破壊に移ってきています。
これは、最終段階でのいわゆる産業廃棄物が依然として大きな問題であることには変りがないのですが、工業排水や煤煙といった生産段階で生み出される汚染が産業の空洞化もあり、ある程度収まった印象を与えているからでしょう。
まず、環境保護運動とは読んだ字面のとおり、良くて環境が守られる程度のある意味で保守的な運動です。しかし、それすらもほとんど達成できていないのが現実なのです。民間企業の場合はゴルフ場開発のように経済的に成り立たなくなれば収束するのですが、国家丸抱えの公共事業の場合は経済原則を無視して行われるために際限もなく続けられているのです。公共事業がいまだに止まる勢いにないのは、行政そのものが自らを全く制御できていないことに原因を求めるべきでしょう。
初期の環境保護運動は、民間企業が生産活動によって直接、空や海や川などを汚したことに対して生産の制限や操業の中止を訴えその補償を企業や行政に求めるものでした。これを第一期とすると、次に現れるのは官民の別なく大規模に国土を破戒する大規模リゾート開発、ダム建設、干拓事業を止める運動でした。もちろん、この多くが達成されていないことは明らかですが、ここまでが第二期と言えるかもしれません。

次ぎは何か
ここで、諫早湾干拓事業を考えてみましょう。イサカンは現在、工事が完全に止まっています。もちろん、これは一時的で瞬間的な勝利に過ぎず、国になびく高裁レベルではたちどころに覆されるのかもしれません。しかし、これほどの大規模公共事業でさえ止まる段階に到達したのです。この瞬間的な高みに立って環境保護運動の将来を展望する時、必然的に"止めた後にどうするのか"という問題に突き当たります。
これが「止める時代は終わった」と私達が言っている意味なのです。もちろん、"まともな補償を受け取ることも、止めることもままならない中でなにをバカな"と言われるかもしれません。しかし、この問題が解決できなければ依然として未来はやって来ないのです。逆に、ここさえ突破できれば、新たな破壊を食い止め、失われた自然を取り返すことも夢ではなくなるかもしれないのです。

一方、いまなお、破壊は続いているのですが、既に産業活動によって悪化した環境や公共事業など行政によって破壊されたままにされている環境が放置されています。
それが次ぎのテーマ"壊す公共事業"を必要とする理由なのです。
イサカンのように"役に立たないどころか全く害悪しかもたらさなかった無駄な公共事業に対して、先細りになる資源をまたも投入するのか"という怒りは十分に理解できますし、それは正当な議論でしょう。では、イサカンの大堤防や土砂が堆積を続けるダムや砂防ダム、せっかく止めた干拓事業の中海干拓堤防、直線化され押し流すことしか考えていない愚かな三面張り水路や河川をそのままにしておくのでしょうか。
逆の言い方をすれば、この破壊された環境をそのままにしておいてもらっては困るのです。盗人に追銭のようですが、やはり、選択肢はこれしかないのです。ただし、これまでのような甘い汁を吸わせる必要は一切ありません。国土の復元と新たな自然の再生に必要最小限の投資で、半世紀をかけて元に戻す作業を始めなければならないのです。これが、私たちが考えている第三期の環境保護運動です。
もしも、この"壊す公共事業"に乗り出すことができれば、造ることが目的となっている公共事業の方向を変えさせることが可能になるのです。なぜならば、彼らはダムや道路が本当に必要だから造っているのではなく、工事そのものが欲しくて公共事業を続けようとしているからです。このため"壊す公共事業"が始められれば、無駄な新規を抑制することができるうえに、リストラで街頭に放り出された大量の失業者の雇用を生み出し、就業の機会を奪われ人生のスタートラインに立てなかったフリーターとかニートとか呼ばれる事実上の失業者に新たな職業訓練を行うことができるのです。
さらに、大量の雇用を創出することは新たな景気循環を造りだし、経済に活力を与えることができることにもなるのです。従来型の公共事業を続けていても投資の大半が一部の利権集団と一握りの土建業者の懐だけを潤し隠匿され続けるだけで、次ぎの投資には全く振向けられないのです。これに対して、低所得者の就業を拡大できれば、彼らには貯蓄の余裕がないために、獲得した所得は全て消費に回すことになり新たな景気循環を創り出すのです。
このような、経済の再循環という副産物の付いた環境の再生、復元への道を阻んでいるものこそ、事業の正当性にあくまで固執する官僚機構なのです。
造林地の広葉樹転換、薄汚いテトラ・ポッドの撤去、押し流すことしか考えていない愚かな三面張り水路の地下浸透型親水水路への転換、需給バランスを欠き限度を越えて建設された大量のゴルフ場の復林、アスファルトで固められた駐車場の浸透型への転換、ダムの撤去、水循環を破壊した下水道を抑制し合併処理浄化槽に転換する……など、まず、これらの破壊された環境が放置されたままでは豊かな環境を取り戻すことなど全くできないのです。既に破壊されたところでは復元のための作業を直ぐにでも開始しなければならないのです。当然ながら彼らに責任を取らせるために、計画段階から住民が参加して公共事業という形で必要最小限の経費で再生事業を始めさせようではありませんか。