
打ち水"という小さな"捨て水
夏の盛りに"打ち水大作戦"と銘打った"焼け石に捨て水"のイベントが行われています。
善意で行っておられる方を揶揄し文字通り"水を差す"ことは本意ではありませんが、これを国家機関(環境省、国土交通省、内閣府・・・)が本腰を入れてやりはじめるとなると、どう考えても政策の投げ出しと同時に無策の露呈としか言い様がありません。
これは一例です

このキャンペーンをやっているのが、大都市の地表から雨水までを奪い、ヒート・アイランド現象の原因者であり張本人であり続けている国土交通省の分枝である下水道部下水道企画課というのですから、「免罪符」としてならばいざ知らず、物理法則への基礎的な知識が無いのか、自分達がやっていることの意味がそもそも分かっていないのか?…としか思えないのです。

主催:打ち水大作戦本部事務局:
ましてや、「地球温暖化に冷房をやめて打ち水で対抗しよう!」などと、マスコミまでが巻き込まれて騒ぎ始めるや、まずは科学性のなさを嘆かざるを得なくなってきます。
既に、「CO2温暖化論」が全くのデマであったことが、クライムメート・ゲート事件により全世界的に明白になっていますが、恥を知らないのか?まだ、信じ込んでいるのか?このキャンペーンは継続されています。
それはともかくとして、二〇一三年夏、高知県江川崎41℃、山梨県甲府40.7℃、山梨県勝沼40.5℃…(私の住む佐賀県でも、過去、佐賀市で三九.六度という記録があったと思いますが)、いまさら"打ち水大作戦"をやったところで、温度が下がるのは一分足らずの瞬間に過ぎず、二度下がったと誇らしげな環境省の小役人も、その場凌ぎのパフォーマンスが終わって快適な部屋に戻れば、冷房の温度を閉庁まで二度以上は下げたくなった事でしょう。

もはや大半の水を一気に海に流し去り、あまつさえ、雨水の一部までも下水道で地下に流し込むことによって地表から水を奪っておきながら、温度上昇は「地球温暖化のためではないか?」などととぼけた話をしているのです。
この取り返しがつかないほどに破壊された都市の水循環と、その背景にある科学性の喪失にはそら恐ろしささえ感じるものです。
"打ち水大作戦"については、まずは大笑いというところですが、実は笑っていられるほど事態は楽観できないのです。
そもそも、これほどまでに都市の表面温度が上昇した事の背景には都市の乾燥化があるのです。
そしてその保水力を失わせ都市の砂漠化を促進したものこそ、道路を舗装し尽くし、末端水路から大型河川に至るまで、また、河川管理道路から歩道に至るまで、三面張側溝やコンクリート、アスファル
トで覆ってきた国土交通省であったのです。
しかも、あれほどまでに不必要なダムを乱発したにもかかわらず、都市洪水を押さえ込むことさえもできずに、環境省からその外郭団体が"打ち水大作戦"とやらでお茶を濁すに至るや、また、挙句の果てに、"下水再生水を「打ち水」用水として市民に無料で提供する"というのですから、もはや、応仁の乱期、京の町で飢餓によって多くの民がバタバタと倒れていた時に、"能"だ"和歌"だと呆けていた足利将軍家のごとき優雅さと感じ入るばかりです。
こうしている間にも、大都市の片隅では、エアコンも使えずに熱中症で多くの民が倒れているのです。
私には、打ち水は環境省から国土交通省の官僚どもの顔にこそひっ掛けるべきであり、貴重な水の打ち捨ては断じてやめるべき(焼石に水)、打ち水に大量の予算を消費するぐらいなら、コンクリートを引っ剥がせ!打ち水よりは張り水を!もっと本質的な対策を取れ!としか言いようがないのです。
地球温暖化とヒート・アイランド
さて、"CO2地球温暖化説は原子力産業から流された悪質なデマだ!"といった話は、「温暖化は憂うべきことだろうか」“CO2地球温暖化脅威説の虚構”(不知火書房)を世に問われた近藤邦明氏にまかせるとして、今回は"打ち水"からヒート・アイランドに関する話をしたいと思います。
ただ、その前に、現実に存在している温暖化傾向とヒート・アイランド現象とを分離し整理する必要があるでしょう。
もちろん、計量的な意味で、市民が感じている現実の気温の上昇の中からこれらの要素を分離する事は不可能でしょう。
これから書く事は、あくまでも経験に基づく推論でしかありませんが、最近の都市の気温上昇は尋常ではありません。
実際、私達が子供の頃これほどまでに暑さが辛いと思った事はありませんでした。
以前にも書いたことですが、小学校時代の夏の課題、"「夏の友」"とかいったものの日記を読むと、「今日は二九.五度すごく暑かった!」などと書いています。
まず、七、八月を通して三〇度を越える日は二週間を越えなかったように思いますし、ほぼ、毎日夕立が降り、夜も二五度以下にはなったために、本当に寝苦しい日は十日を越える事はめったになかったという記憶(印象)を持っています。
もちろん地方差や住宅環境の違いから一概に言えるはずもありませんが、五十歳代の方までにはある程度同意していただけるのではないでしょうか。
それが、最近のこのあり様です。確かに全体としての温暖化は事実でしょう(これはここ数年気象庁も認めるように低下しています)。ただ、主として都市部において夏の耐えがたい暑さになすすべもなく絶望し、大半の人々が"地球が温暖化しているのだから仕方がない"と考えて納得していることの相当の部分が実際にはヒート・アイランド現象によるものと考えています。
地球温暖化現象とヒート・アイランド現象とは一切関係がありません。
これは人間(主として行政)が人為的に自然に手を加えて(都市環境も歪な自然と考えればですが)水循環を変更したことから局所的に発生した温度上昇でしかなく、地球全体の平均気温、平均温度の上昇とは全く関係がないのです。
少なくとも、都市をこれほどまでにコンクリートで塗り固めさせず、これほどまでに水路を直線化させなかったならば、まだ、現在よりは地上の水分は保たれ夕立も消失せず、夏の暑さに耐えられずに倒れる人々は出なかったことでしょう。
ヒステリックなまでの"CO2地球温暖化説"の蔓延の背景には、地球温暖化とは全く関係のない、行政を先頭とし民間も含めた都市のコンクリート化、乾燥化と、一般住宅地におけるコンクリート化を放置した無策、さらには、草毟りをしたくない、溝浚えをしたくない、枝打ちをしたくない、また、それをできなくさせている都市住民から余裕を奪った現代資本主義社会の構造によって底上げされた"ヒート・アイランド現象"が背後に存在していることを見逃してはならないのです。
同時に、都市住民の生活に信じ難いまでの夏の暑さを持ち込んだ行政自らの無策を放置し"打ち水大作戦"や"地球温暖化論"でごまかす事を絶対に許すべきではないのです。
ヒート・アイランド現象の物理的基礎
@ 地下への捨て水
まず、大都市の乾燥化の原因の一つが下水道、上水道の完備、上下水を地下に持ち込んだ事にあると考えられます。
耐えられないまでのヒート・アイランド化が、ここ数十年前から発生している事を考えれば、上水道の整備までを敵視する必要はないうえに、いまさら御茶ノ水以来(将軍のお茶用に利用された湧水を江戸城に供給)の上水にまで引き戻す事は不可能ですから、一般的には上水を切り離して議論すべきかもしれません。
ただ、事実はそうだという認識だけは持っておくべきでしょう。
現在、下水道には雨水混入の合流方式と、雨水と汚水を別々の管路で流す分流方式がありますが、東京、大阪などの大都市ではほぼ百パーセントの普及率になっています。
しかし、これを単純に文明都市と考える人々は物事の一面しか見ていないことにしかならないのです。
最低でも生活雑排水を下水道に流し込んだ上に、唯一の雨水までも下水道に流し込み、水循環、温
度循環を徹底的に破壊するようなことをやっていては都市のヒート・アイランド化をくい止めることなど始めからできないのです。

閑話休題 “土木を目指した人間”
そもそも、都市のヒート・アイランド化などは自分たちとは無関係であり、それをくい止めることが国土交通省の任務とは考えていない(それは、打ち水大作戦を真顔でやっていることに認識がないことが証明しており、もし、そうでなければ、恥ずかしくて、人気取りだけのお祭り騒ぎなどやれないからで、彼らの通性からして、多分、ひた隠しにしていたはずなのです)こともあるのですが、自分たちがヒート・アイランド化の最大原因者=加害者になっているという理解がないことが最大の問題なのです。
「元々、土木をやる人間は成績が悪く、物理や化学が分からない連中だった」と、私の親密な東大卒の友人が言っていましたが、「よほどの馬鹿か、嘘つきだけが国土交通省で出世できるのだ!」と言ったのもその友人でした。
やはり、昔、陸軍、今、国土交通省、ですかね?
A 都市河川の雨樋化
大都市の日常を賄う生活水の大半が上水道で持ち込まれ、再び下水道で地下から地下へと運び去られていることに対して、もう一つの水循環の要素としての雨水について、都市河川の問題として考えてみましょう。
大都市の場合は合併処理浄化槽の設置が困難な場所が多いために、ある程度の下水道化は仕方がないとしても、設置が可能な場合はできる限り処理排水を河川に還流させ(どこから来た水か分からないものを還元とか還流と表現するのは多少疑問があるかも知れませんが)、河川に滞留する表層水の絶対量を確保するべきなのですが、それ以前に、降った雨の大半をいち早く流し、海に捨て去る事しか考えていない現在の都市河川の整備のあり方にこそ最大の問題があるのです。

深さ2メートルを越える典型的な都市型河川。大人でも落ちたら這い上がれない
最低でもカラカラの放水路はやめるべきであり、ましてや地下の巨大放水路に至っては愚かとしか言いようがないのですが、現実はますます逆の方向に向かっているとしか思えません。
これには、付随して地下水の大規模な消失という話もありますが、本題には、ほぼ、関係がありませんのでこれ以上はふれない事にしましょう。
結局、大手ゼネコンが直ぐに税金を回収できるような形にしか事業の方向が向けられず、一般河川の表層水の滞留性(こんなものはある程度の低い堰や穴開き堰を造るだけでも直ぐに実現できるのです)を失わせ、河川周辺からも河畔林から土までも失わせ、見せ掛けの箱庭公園やセメントやモルタルで固めた親水河川公園で誤魔化しているのですから、その国土に対する敵対性は明らかです。
少なくとも、大都市の大型河川から末端の小排水路に至るまで、いち早く流し切ることしか考えていない河川整備=河川行政そのものをどうにかしなければ、都市の乾燥化は止まるはずがないのです。
多少、エピソード的ではありますが、その底流には、明治以来、江戸期の伝統的な河川技術を捨て去り、一挙にヨーロッパの河川工学、土木技術に移行したこと、また、特に戦後の河川行政がいち早く表層水を流し出すという河川管理方式を主流とする紀州流の治水方式の延長上に、遊水地、逸流堤防、蛇行河川を取り入れ、複合的河川管理を目指した関東流治水術が捨て去られた事にも原因があると言われているのです。
B 都市整備のありかた
本来、大都市といえども水草がそよぎ魚の泳ぐ川が理想であることに変わりはありません。
しかし、全ての川にそれを求めることはもはや不可能でしょう。
もちろん今でも、地上に見せ掛けだけの伝統的河川を復活させる事はできますし、事実、部分的には行われてはいるのですが、それはあくまでも一部でしかなく、所詮は限定された金魚鉢に過ぎないのです。
ただ、これも、ヒート・アイランドに関しては有効ですから、それ自体を批判しても、ことこの問題に関しては、意味はありません。
仮に生物の存在しないプールであったとしても、温度を下げる事には役に立つのですから、"打ち水大作戦"なる"棄て水"を行うよりは、プール自体を長期間の打ち水効果を持たせる"張り水"(張り水大作戦を!)にするべきなのです。
ただ、縦割り行政は無関心と縄張り意識の制度化ですから、それを全く許さず、掃除や事故の責任回避の要請から、雨水で浅く水を張る事さえやろうとはしていないのです。
直接的な管理者は、「藻が付く」とか、「ボウフラが湧いて蚊が発生すると自治会から苦情が来る…」とでも言う事でしょう。
プールや、整備されつつある洪水調節用の遊水地に仮設の嵩上げ排水口を整備し、雨水で十センチ程度の深さで水を張るだけでも、それなりの効果が望めるのです。
こんなものは"打ち水大作戦2006〜"の宣伝経費の万分の一の費用も掛けないで可能になるヒート・アイランド対策なのです。
しかし、真面目な努力もせずに、新調した浴衣を着こんで、"打ち水"なるただの"捨て水"パフォーマンスで済ませるのですから、頭がおかしいとしか言いようがありません。
さらに付け加えれば、全てのビルの屋上緑化、壁面緑化と雨水による"屋上張り水"だけでも直ぐに都市の温度を恒常的に下げる事ができるはずですから、段階的に進めれば、十年と待たずして大きな効果が出てくるはずなのですが、全く手を打とうとはしていないのです。
結局、政治屋や官僚どもは、事業や行政施策を打つ事によって自らの支配力、影響力を拡大し、そこから利益(ピンハネ)が引き出せる場合にしか動こうとはしないのです。
恐らく大手ゼネコンを始めとして、自らの息の掛かった大手企業がそれを新たなビジネス・チャンスとして働きかけるまでは、決して自ら手を下そうとはしないことでしょう。
このため、屋上緑化、壁面緑化について既に技術を確立しているベンチャー企業や独立系の小企業には全くチャンスは与えられないのです。それが、我が国の行政実態なのです。
閑話休題 “後付けの賄賂としての再就職”
ここ十〜二十年ほどで、各級の公務員の服務規律が異常なほどに厳格化されました。
このことによって、昔は普通に横行していた官官接待、業者との会食行為、歳暮の付け届け、転勤、転職祝金…は消え、非常に厳密な行政が確立されたかのように見えます。
しかし、往々にして厳しい取り扱いがされる場合は、陰で遥かに後ろめたい大規模な不正が行われているからであって、こっそりと大きな悪事を働くためには、末端の職員の規律が強化され、清潔であるように見せかけているからと考えるのが正しいでしょう。
土木行政の現場では、時折、見せしめと一般向けの宣伝として、目だって素行の悪い小役人だけが摘発されることがあるのですが、通常、土木行政の現場では直接的な金銭の授受と言ったあからさまな贈収賄はめったに行なわれはしません。
そんな方法を取らないで済むように、安全で実質的な不正が行なわれているのです。
事業で形成された施工業者と監督する立場に在る技術系職員との間に形成された親密な関係=良く言えば「信頼関係」は、当然にも退職するまで引継がれ、先行して天下りした上司の斡旋によって、法外な給与で安定した関連企業に再就職できるからです。
一般の労働者が退職後に十万円前後の低賃金で死ぬまで働かざるを得ない中で、役に立つ何のスキルもない元課長クラスが、三十万円前後の給与で再雇用されているのです。
実は、これこそが跡付けの賄賂であり、これにあやかるために、さもしい連中が、本来監督すべき企業の不正に眼をつぶり続け便宜をはかり続けているのです。
このようなことを防ぐために、公務員には一般と比べて多少優遇された年金制度が維持され、立派に監督することが求められていたのですが、最早、この意味は完全に忘れ去られたと言っても過言はないでしょう。
これが、市、県レベルの話とすれば、大手ゼネコンと繋がる国クラスの高級官僚がどのようなものかは、直接は見聞きしていないため、風評と想像の域を出ませんが、大方の見当は自ずと付こうと言うものです。
C 拡大するアスファルト舗装に手を打て!
いまや、郊外型チェーン・ストアから、大型店を中心とするパワー・センターに至るまで、店舗や施設の面積に数倍する駐車場が広がっています。
これ自体はモータライゼイションがもたらした都市化による砂漠化に過ぎないのですが、それにしても打つ手は十分にあるのです。
最低でも、新規出店に際して駐車場の全部から一部(駐車スペースだけでも意味があるはずです)をレンガと土で整備させるとか、全体に透水性舗装を義務付けるとか(通常は重車両が入らないのですから強度は問題にならないのです)、これは、同時に都市型洪水に役立つはずですから直ちにやるべきであり、建築確認申請時に舗装の規制をすべきなのです(これは個人住宅、マンションについても同様です)。

それとも出店規制ができる立場にある旧通商産業省には温暖化もヒート・アイランドも一切関係がなく官庁が異なるために放置されているのでしょうか(建築確認申請は国土交通省所管なのですが?)。
同様に、今からでも一般企業の駐車場からラーメン屋の駐車場、マンション、行政官庁、公民館に至るまで、既存の駐車場の駐車部分だけでも切り出し、レンガや自然石と草(こんなものは土さえ残せば直ぐに生える)で駐車場を整備するだけでも、それなりの効果はあり、来店者、来場者も徐々に増えてくるはずなのです。
もはや、道路面積と駐車場面積比率はロス・アンジェルスなみに拡大しつつあるのですが、アスファルト舗装は砂漠以下の保水力しかない事にそろそろ気付き、本気で対策を考えるべきでしょう。
ただ、これも恐らく不可能かもしれません。結局は、民間主導で、“駐車場に木製ブロックや透水性舗装を施して木陰も増やしたら、涼しいからと来店客が増えたので、多少経費を掛けても環境を整備した方が得だ!”と、ならない限り実現的には不可能でしょう。
実際には、草むしりの経費、労力、時間を削減するために、逆に舗装化が進んでしまう傾向にあるのです。

宮崎県名貫川渓谷
D 個人でできるヒート・アイランド対策
この問題を書く事にどれほどの意味があるのか多少の疑問もあるのですが、一人の個人的努力によっては、すぐさま全体のヒート・アイランド化が抑えられるべくもなく、この手の努力はある意味でボランティア的な趣味の領域、悪く言えばファッションや個人的「免罪符」の領域になるのかも知れません。
これも透水性舗装
これには、不必要なコンクリート舗装部分を必要最小限度に落とす。
住居の側溝に隙間を造り浸透性にする。
同じく三面張りではなく底面に小石を詰め込んだものにする。
庭の隅に小さなバンカー程度の浸透型の窪みを造る。
屋根に降った雨水を貯留する掛け流しの水槽を造り、土日だけでも庭に掛け流す。
気取ったヨーロッパ風ガーデニングなど直ぐに止めて成長の早い木を植える。・・・・・・といった事があるのですが、草毟りや落ち葉掻きから溝浚いまでも嫌がる風潮が蔓延する限り、悪化するばかりとしか考えられません。
E 公園、街路の整備のあり方について
鎮守の森とは異なり、公園は実質的な余剰地ですから、ある意味で放置し本来の植生に戻しできるならば復林させること。
どうしても公園にしたいのであれば、土建屋と天下りの連中だけが金儲けできるようなヨーロッパ型の乾燥した公園ではなく、在来の森や林に近いものにすべきと考えるのですが、公園行政においてさえ、行政が管理しやすいように表面から土を奪い尽くし、コンクリートで固めてしまいかねない勢いなのですから嘆かわしい限りです。
そもそも、日本には公園はありませんでした。
日本最初の公園がどこであったかまでは関心が無いのですが、後楽園(岡山県)、兼六園(福井県)、偕楽園(茨城県)といったものは、あくまでも池田家、水戸家、前田家といった藩主の私的な庭に過ぎず、寺社の庭園から天皇家や公家のそれに至るまでパブリック・ガーデンではないのです。

この奇妙なものが日本社会に持ち込まれたのも、明治の欧化政策によるものでしかなく(公園という言葉さえも明治以前には存在しないはずであり、ただの明治期の急造された造語=テクニカル・タームでしかないでしょう)、民衆は絶えず田畑や山林を這いずり回らなければならなかったのであって、むしろ、自然と接することを疎ましくさえ思っていたのです。
このため日本に持ち込まれた公園はヨーロッパ起源のものでしかなく、噴水を配した幾何学的な設計で芝生や樹木まで規則的に刈り込むなど、およそ、日本の伝統的な庭園とは全く異なったものなのです。
従ってこの延長にある公園が、もはや日本の風土に合ったものではないことは明らかであり、いまだに現在の公園のあり方には違和感を抱き続けています。
結果として、扁平なヨーロッパ庭園のイメージで、土の部分がどんどん減らされ、保水力を失った庭園が造られ続けているのです。
最近では落ち葉さえも嫌われ、ネットで木全体を覆い、枯れ葉も集めてゴミ袋に入れて持ち出されてしまうのですから、水循環はおろか、栄養、ひいては物質循環までもが失われていくのです。
このような愚かな事を続ければ、水は元より、最終的にはミネラルまでも失い公園の木はいずれ育たなくなることでしょう。
少なくとも「落ち葉だけでも公園の土に戻せ!」と言いたいのですが、行政は何も気にしていないようです。
「落ち葉ぐらいで何を大げさな…」と言われるかもしれませんが、なぜ、このような事を問題にするかと言うと、大都会でも限られた土が残る公園に於いても、落ち葉が土に戻り、腐葉土が豊かになり、昆虫から野鳥や犬猫までもやってくるようなところほど栄養が豊かになり(糞尿や屍骸も含め)草木が繁茂し保水力を維持するからです。
そもそも、落ち葉まで産廃用の袋に入れて出すようになったのは、産廃業者の利権構造に行政から各級議員(いわゆる町会議員=チョッカイ議員)や、末端の自治会長までが巻き込まれているからなのです。
環境!環境!と声高に叫ぶ環境おばさんも、いたく犬の糞拾いに熱心で、それを批判すると馬鹿げたバッシングを受けるのですが、こんな連中は環境など全く分かっていないのです。
間違っても"犬の散歩で糞公害だ"などと訳もわからずに大騒ぎしてはならないのです。
袋と小型のスコップを手に散歩する愛犬家ほど哀れなものはないものです。
F 環上の雲
「都市の廃熱自体はヒート・アイランド化の原因ではない」などとまでは言うつもりはありません。
ただ、太陽から受け取る熱に対して人間が消費する熱の絶対量はそれほど大きい訳ではなく(日本のエネルギー消費量は国土のすべての平地が太陽光から受け取るエネルギーの4%程度/『地球環境・読本』)、大都市が多少は割増になっているとしても過大に評価する事には慎重でなければなりません。
しかし、そうは言っても人間の感情というものはそれほど客観的なものではない以上、一応は考えておく必要があるでしょう。
エアコンの室外機の取り付け方向で隣と争いになるのが人間なのですから、この要素は無視できないのですが、論理的に言えば、本来、この怒りは国土交通省にこそ向けられるべきなのです。
「環七、環八などの低速で走る高速道路上には環状の雲が掛かっていることがある」という話を聞いたことがあります。
文字通り、環状(環上)の雲なのですが、普通は"高速道路で渋滞を続ける大型トラックなどから排出された熱によって上昇気流が発生し、それに併せて地上の水分などが持ち上げられ、上空で冷やされて雲になっているのだ"と説明されるのでしょう。
しかし、良く考えれば、もはや国土交通省が引き起こした乾燥化によって、地表には水分がなくなり、排気ガスの中に含まれている水蒸気が上昇して雲になっているのであって、国土交通省の馬鹿官僚どもによって地下に流し込まれた雨水は、既に都会の上に掛かる雲には寄与していないのではないかと思うほどです。
"都会の人間が秩父の天然水を飲み、汗を掻き、その水分とサウジアラビアの地下から運ばれてきた石油に含まれる水素成分が燃えて水になり、雲になっているのではないか(まさに物質循環の決定的破壊ですね)?"などと妄想を重ねているのですが、これは確たる根拠のある話でありませんのでそのつもりで読んでください。
ちなみに、炭や石炭を燃やしても、主要には二酸化炭素しか出ませんが、石油や天然ガスなどは炭化水素であり、燃やせば二酸化炭素ばかりではなく水が発生するのです。
