新ひぼろぎ逍遥 スポット 328
宮崎県高千穂町上野の上野神社の花房姫を大分県中津市山国町守実温泉の英山社に確認した 下)
“最後に日が落ち始める中三所神社へ”
20230105
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
再掲)郷土の昔物語り益永嘉之梅津三男 編纂 から
昔々、筑紫平野でも非常に尊いお方とされていた父の命(ちちのみこと)が、或る朝早く起きて見ますと、彦山権現の方から、いとも尊い御光が射して来ました。何かいわれがあるにちがいないと父の命は直々に家来を仕わして彦山権現の御告げを聞くことにしました。
権現様は「私のところにしかるべき座主をつかわして、おごそかに祭るように」 と云いました。命には男の子がなかったので、建立宮守(こんりゅうみやもり)の花房尊(はなふさのみこと)を座主としてつかわし、可愛いい命の姫を花嫁として、出発することにしました。
花房の尊と花房姫とは、それぞれ馬に乗って、はるばる筑紫の平野から、父の命、母君それから大勢の家来に見送られて、はるかに遠い彦山まで来ることになりました。
その時の姫は、父の命、母君と別れて初めて旅をするのですからどんなに、さびしかったことでしょう。やさしい尊にはげまされて、野をこえ山をこえて、一千尺もある高い高い彦山の山の中へやって来たのです。里の人々は遠い筑紫の都から,霊現あらたかな彦山権現の天台座主として尊と姫をあがめたて
まつりました。尊は、権現様に仕えて、御説教をしたり、御祭をしたりしました。姫はなにくれとなく尊の世話をしました。楽しい毎日が続きました。ところが、五、六年たつうちに、尊は御祭の酒を飲みすぎて、酔って帰って来たり、どうかすると二日も三日も、どこかえとまって、帰って来ないこともあるし、たまたま帰って来ても姫をいじめるようになりました。
姫は辛抱しましたが、とうとう我慢が出来なくなり、或る晩、尊にお酒を飲みすぎないように、身体に気をつけるようにと手紙を書いて、こっそりと彦山の山をおりて行きました。そして豊前の国、守実の里のある郷土の家をたずねて行ったということで在ります。そこの主人は大の権現崇拝者でしたから、姫の来たことを大変よろこび、どうかして、権現様の別院建てたいと思い、幸い彦山によく似た山がありましたので、その山に御殿を建てることになりました。姫は気が進みませんでしたが、仕方なく、そこの権現座主になることになりました。里の人々はどんなに悦んだ事でしょう。姫は女ながらも、一生懸命に教え導きましたので、山を超え、谷を下って、ぞくぞくと御参りがありましたが、尊の事を思うと時折悲しくなりました。一方尊も、姫の手紙を読んで、心を入れ替え、修行に励みました。風の便りに耶馬渓にいることを知り、帰ってくるように、家来をつかわしましたが、姫はとうとう帰りませんでした。
姫は、尊が立派な生活をしている事を聞いて、帰りたいと思いましたが、自分を頼ってくれる村人の心の素朴なに打たれて、どうしても守実の里を離れる事が出来ませんでした。そうするうちに、ふとした風邪がもとで、病気が段々に重くなりました。そして、とうとうたくさんな村人に見送られ乍ら死んで行きました。最後に今までの御礼を云い、そして私のかばねを彦山権現の見える場所に埋めて下さい。墓のそばに松を植えて、この着物を掛けて下さい。と云ったということであります。(その墓は、現在守実の西端の小高い丘の上にある烏帽子形の自然石だといわれている)(完)
《補説》 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
*はなふさひめ【花房姫】1760年「龍樹山開基因縁記」に記されている悲運の姫様。彦山座主の妻であったが、夫婦の折り合いが悪く離別し、龍樹山(上守実竜地区にある山で三所神社が祀られている)に登り龍樹権現を開いた。英彦山をもりたてようとしたが、無念のうちに自害した。
◆『花房姫の墓と伝説』(山国町教育委員会案内板より)◆
宝暦10年(1760年)に書かれた「龍樹山開基因縁記」竜樹山と三所神社の門前(鳥居の右後に五輪塔がある)によると、第三代安寧天皇が病となり西国よりの光があるときに病が重くたくなる。占い師よりその光のもとが英彦山であると言うので、その地に宮居(きゅうきょ)を造り堂守(どうもり)をつかわし座主(ざす)とし、妻として英姫(はなふさひめ)を降(くだ)した。
しかし、座主夫婦は仲が悪く離別。英姫は伴を連れて守実に下り、伴の六房の者たちと竜樹山に登り竜樹権現社を開いた。時に英彦山をもりたてようとしたが力足らず、この地より英彦山をうらめしげに見やり太刀をふくんで自害した。と記されている。今日まで悲運の花房姫伝説として語り継がれたこの地を「花房」という。中央の板碑が英姫の墓と言われている。お伴の六房の者は皆、竜樹山で果てた。門前の五輪塔等がそれであると伝えられている。
花房姫は病を切っ掛けに自決し、花房姫を支えた随行者の墓も残っています。
龍樹山三所神社も初期は彦山に独立したものだったように思います。しかし、姫の自決によって、48大行事社も何時しか高木大神系の高木神社(それも7大大行事社の一つ)に変貌したようです。
それは、私の勝手な想像ですが、大歳神社、英山社、三所神社を巡り2023年の三社詣りに替えたのでした。
fukuoka MAZE extra chapter ホーム>シリーズ>英彦山を歩く>第9回 という良質のサイトがあります。
第9回:英彦山の大行事#3-中津市山国町の三所神社-
神社と言うよりも文化遺産を対象にしたもののようですが、神社についてこれだけ正確に書くことができる方はそう多くはないはずで、勉強させていただきたいと思い引用させていただきます。以下。
中世の彦山は、その領域の村であることの明示として、村に鎮守神として「大行事」を置いていました。また、これら大行事のなかには特に重要だったと推察される「山麓七大行事」格と伝わる大行事もあります。
「大行事」とは、滋賀県大津市坂本にある日吉大社(山王神社)の山王21社のうちのひとつで、彦山の大行事は山王大行事を勧請したとする説などありますが、何故、大行事だったのかはよく分かっていないようです。
大行事は36ケ所(48ケ所説の方が一般的ですが、そうすると所在不明の大行事が多すぎるなど諸々の指摘をしている文献の意見に当方は従っています)あったと伝えられていますが、惣大行事の英彦山神宮産霊社と六峰大行事を除いた大行事は、明治維新で多くは高木神社と改称し現在に至っていますが、合祀されたり場所が分からなくなった大行事もありますし、別名の神社になっている大行事もあるようです。
高木大神は久留米の高良山にも拠点を置いていた時代があったようですが、ある時(これが分からないのですが)“一時頂上部を開け渡したところ追い出され戻れなくなった”と直下の高樹神社の由緒に書かれています。その後、彦山を北部九州の拠点にしているのですが、その力の源泉は、阿蘇高森の草部吉見を次女のタクハタチヂヒメの婿として迎え入れ、陸上戦に長じた戦闘集団を手にしたからで、彦山の北の田川郡は建御名方から、南の旧朝倉郡はカミムスビ(大国主命を市杵島姫、豊玉姫を妃として入婿とした博多の櫛田神社の大幡主)から奪い取り彦山を安定化させたのです(真実の出雲の国譲り)。その草部吉見=正勝吾勝…の子が大山咋(=日吉神社=日枝山王権現=松尾大神)であり、特に徳川政権のブレーンとなった天界僧正は比叡山の関東の重鎮であった事から、江戸期に全国に日吉神社が拡散された結果この神社が流行したのでした。日吉神社、日枝神社、松尾神社。
従って、本来、彦山の行政機関となった高木神社が大行事とされ、それが比叡(日枝)山に持ち込まれたのではないかと考えています(古川)。大行事の祭神である高皇産霊命(たかみむすびのかみ)は祀られていません。と符合しますね。
■三所神社の概要 所在地:大分県中津市山国町守実竜 区分:山麓七大行事
祭神:天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冊尊(いざなみのみこと) 付記:社殿背後の山中に上宮・古上宮を有し、大小の洞窟群や石仏群などがある。
三所神社の祭神は英彦山三岳に祀られている神と同一であり、英彦山でも本地垂迹における呼び方ではこの三神を称して「英彦山三所権現」と言います。ここでは大行事の祭神である高皇産霊命(たかみむすびのかみ)は祀られていません。…
…三所神社は、正平年間(1346〜1370)に彦山座主浄有の娘・英姫が来山し、社坊などを修営したのち「竜樹山権現」と号したとされますが、これより以前は「北山権現」と称していたようで、彦山の主神を祀る彦山北岳が北山と呼ばれた時代があることから、末寺であったことも考えられ、創建は南北朝(1336〜1392)よりもかなり古いと思われます。
1599年(慶長4)、当時の彦山座主の娘で座主代だった昌千代は小倉の毛利家から婚姻を求められます。これは彦山を支配下に置きたいがための強談だったので彦山側は断固拒否し、昌千代は毛利の手を避けるために一時耶馬溪町にある雲八幡神社に従僧とともに仮寓していたとされます。滞在期間は定かではないのですが、その間の毎年の恒例の神事を日田と守実の間にある場所で行ったと伝わっており、その場所こそ三所神社ではないかとされています。
中世には「竜樹山権現」と称していましたが、近世では「竜権現」と呼ばれていました。明治維新で神仏分離令が発せられてから現在の三所神社となりました。
非常に参考になります。雲八幡と併せ第二次のトレッキングを行いたいと思います。