2024年01月27日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 328  宮崎県高千穂町上野の上野神社の花房姫を大分県中津市山国町守実温泉の英山社に確認した 下)

新ひぼろぎ逍遥 スポット 328

 宮崎県高千穂町上野の上野神社の花房姫を大分県中津市山国町守実温泉の英山社に確認した 下)

“最後に日が落ち始める中三所神社へ”

20230105

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

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再掲)郷土の昔物語り益永嘉之梅津三男 編纂 から


昔々、筑紫平野でも非常に尊いお方とされていた父の命(ちちのみこと)が、或る朝早く起きて見ますと、彦山権現の方から、いとも尊い御光が射して来ました。何かいわれがあるにちがいないと父の命は直々に家来を仕わして彦山権現の御告げを聞くことにしました。

権現様は「私のところにしかるべき座主をつかわして、おごそかに祭るように」            と云いました。命には男の子がなかったので、建立宮守(こんりゅうみやもり)の花房尊(はなふさのみこと)を座主としてつかわし、可愛いい命の姫を花嫁として、出発することにしました。

 花房の尊と花房姫とは、それぞれ馬に乗って、はるばる筑紫の平野から、父の命、母君それから大勢の家来に見送られて、はるかに遠い彦山まで来ることになりました。

その時の姫は、父の命、母君と別れて初めて旅をするのですからどんなに、さびしかったことでしょう。やさしい尊にはげまされて、野をこえ山をこえて、一千尺もある高い高い彦山の山の中へやって来たのです。里の人々は遠い筑紫の都から,霊現あらたかな彦山権現の天台座主として尊と姫をあがめたて

まつりました。尊は、権現様に仕えて、御説教をしたり、御祭をしたりしました。姫はなにくれとなく尊の世話をしました。楽しい毎日が続きました。ところが、五、六年たつうちに、尊は御祭の酒を飲みすぎて、酔って帰って来たり、どうかすると二日も三日も、どこかえとまって、帰って来ないこともあるし、たまたま帰って来ても姫をいじめるようになりました。

 姫は辛抱しましたが、とうとう我慢が出来なくなり、或る晩、尊にお酒を飲みすぎないように、身体に気をつけるようにと手紙を書いて、こっそりと彦山の山をおりて行きました。そして豊前の国、守実の里のある郷土の家をたずねて行ったということで在ります。そこの主人は大の権現崇拝者でしたから、姫の来たことを大変よろこび、どうかして、権現様の別院建てたいと思い、幸い彦山によく似た山がありましたので、その山に御殿を建てることになりました。姫は気が進みませんでしたが、仕方なく、そこの権現座主になることになりました。里の人々はどんなに悦んだ事でしょう。姫は女ながらも、一生懸命に教え導きましたので、山を超え、谷を下って、ぞくぞくと御参りがありましたが、尊の事を思うと時折悲しくなりました。一方尊も、姫の手紙を読んで、心を入れ替え、修行に励みました。風の便りに耶馬渓にいることを知り、帰ってくるように、家来をつかわしましたが、姫はとうとう帰りませんでした。

 姫は、尊が立派な生活をしている事を聞いて、帰りたいと思いましたが、自分を頼ってくれる村人の心の素朴なに打たれて、どうしても守実の里を離れる事が出来ませんでした。そうするうちに、ふとした風邪がもとで、病気が段々に重くなりました。そして、とうとうたくさんな村人に見送られ乍ら死んで行きました。最後に今までの御礼を云い、そして私のかばねを彦山権現の見える場所に埋めて下さい。墓のそばに松を植えて、この着物を掛けて下さい。と云ったということであります。(その墓は、現在守実の西端の小高い丘の上にある烏帽子形の自然石だといわれている)(完)


《補説》 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*はなふさひめ【花房姫】1760年「龍樹山開基因縁記」に記されている悲運の姫様。彦山座主の妻であったが、夫婦の折り合いが悪く離別し、龍樹山(上守実竜地区にある山で三所神社が祀られている)に登り龍樹権現を開いた。英彦山をもりたてようとしたが、無念のうちに自害した。

◆『花房姫の墓と伝説』(山国町教育委員会案内板より)◆ 



宝暦10年(1760年)に書かれた「龍樹山開基因縁記」竜樹山と三所神社の門前(鳥居の右後に五輪塔がある)によると、第三代安寧天皇が病となり西国よりの光があるときに病が重くたくなる。占い師よりその光のもとが英彦山であると言うので、その地に宮居(きゅうきょ)を造り堂守(どうもり)をつかわし座主(ざす)とし、妻として英姫(はなふさひめ)を降(くだ)した。

しかし、座主夫婦は仲が悪く離別。英姫は伴を連れて守実に下り、伴の六房の者たちと竜樹山に登り竜樹権現社を開いた。時に英彦山をもりたてようとしたが力足らず、この地より英彦山をうらめしげに見やり太刀をふくんで自害した。と記されている。今日まで悲運の花房姫伝説として語り継がれたこの地を「花房」という。中央の板碑が英姫の墓と言われている。お伴の六房の者は皆、竜樹山で果てた。門前の五輪塔等がそれであると伝えられている。


花房姫は病を切っ掛けに自決し、花房姫を支えた随行者の墓も残っています。

龍樹山三所神社も初期は彦山に独立したものだったように思います。しかし、姫の自決によって、48大行事社も何時しか高木大神系の高木神社(それも7大大行事社の一つ)に変貌したようです。

それは、私の勝手な想像ですが、大歳神社、英山社、三所神社を巡り2023年の三社詣りに替えたのでした。

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fukuoka MAZE extra chapter ホーム>シリーズ>英彦山を歩く>第9回 という良質のサイトがあります。


第9回:英彦山の大行事#3-中津市山国町の三所神社-


神社と言うよりも文化遺産を対象にしたもののようですが、神社についてこれだけ正確に書くことができる方はそう多くはないはずで、勉強させていただきたいと思い引用させていただきます。以下。


中世の彦山は、その領域の村であることの明示として、村に鎮守神として「大行事」を置いていました。また、これら大行事のなかには特に重要だったと推察される「山麓七大行事」格と伝わる大行事もあります。

「大行事」とは、滋賀県大津市坂本にある日吉大社(山王神社)の山王21社のうちのひとつで、彦山の大行事は山王大行事を勧請したとする説などありますが、何故、大行事だったのかはよく分かっていないようです。

大行事は36ケ所(48ケ所説の方が一般的ですが、そうすると所在不明の大行事が多すぎるなど諸々の指摘をしている文献の意見に当方は従っています)あったと伝えられていますが、惣大行事の英彦山神宮産霊社と六峰大行事を除いた大行事は、明治維新で多くは高木神社と改称し現在に至っていますが、合祀されたり場所が分からなくなった大行事もありますし、別名の神社になっている大行事もあるようです。


高木大神は久留米の高良山にも拠点を置いていた時代があったようですが、ある時(これが分からないのですが)“一時頂上部を開け渡したところ追い出され戻れなくなった”と直下の高樹神社の由緒に書かれています。その後、彦山を北部九州の拠点にしているのですが、その力の源泉は、阿蘇高森の草部吉見を次女のタクハタチヂヒメの婿として迎え入れ、陸上戦に長じた戦闘集団を手にしたからで、彦山の北の田川郡は建御名方無題.pngから、南の旧朝倉郡はカミムスビ(大国主命を市杵島姫、豊玉姫を妃として入婿とした博多の櫛田神社の大幡主)から奪い取り彦山を安定化させたのです(真実の出雲の国譲り)。その草部吉見=正勝吾勝…の子が大山咋(=日吉神社=日枝山王権現=松尾大神)であり、特に徳川政権のブレーンとなった天界僧正は比叡山の関東の重鎮であった事から、江戸期に全国に日吉神社が拡散された結果この神社が流行したのでした。日吉神社、日枝神社、松尾神社。

従って、本来、彦山の行政機関となった高木神社が大行事とされ、それが比叡(日枝)山に持ち込まれたのではないかと考えています(古川)。大行事の祭神である高皇産霊命(たかみむすびのかみ)は祀られていません。と符合しますね。


■三所神社の概要 所在地:大分県中津市山国町守実竜 区分:山麓七大行事

祭神:天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冊尊(いざなみのみこと) 付記:社殿背後の山中に上宮・古上宮を有し、大小の洞窟群や石仏群などがある。


三所神社の祭神は英彦山三岳に祀られている神と同一であり、英彦山でも本地垂迹における呼び方ではこの三神を称して「英彦山三所権現」と言います。ここでは大行事の祭神である高皇産霊命(たかみむすびのかみ)は祀られていません。…

…三所神社は、正平年間(13461370)に彦山座主浄有の娘・英姫が来山し、社坊などを修営したのち「竜樹山権現」と号したとされますが、これより以前は「北山権現」と称していたようで、彦山の主神を祀る彦山北岳が北山と呼ばれた時代があることから、末寺であったことも考えられ、創建は南北朝(13361392)よりもかなり古いと思われます。

1599(慶長4)、当時の彦山座主の娘で座主代だった昌千代は小倉の毛利家から婚姻を求められます。これは彦山を支配下に置きたいがための強談だったので彦山側は断固拒否し、昌千代は毛利の手を避けるために一時耶馬溪町にある雲八幡神社に従僧とともに仮寓していたとされます。滞在期間は定かではないのですが、その間の毎年の恒例の神事を日田と守実の間にある場所で行ったと伝わっており、その場所こそ三所神社ではないかとされています。

中世には「竜樹山権現」と称していましたが、近世では「竜権現」と呼ばれていました。明治維新で神仏分離令が発せられてから現在の三所神社となりました。


非常に参考になります。雲八幡と併せ第二次のトレッキングを行いたいと思います。

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2024年01月21日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 327  宮崎県高千穂町上野の上野神社の花房姫を大分県中津市山国町守実温泉の英山社に確認した 中)

新ひぼろぎ逍遥 スポット 327

 宮崎県高千穂町上野の上野神社の花房姫を大分県中津市山国町守実温泉の英山社に確認した 中)

“最後に日が落ち始める中三所神社へ”

20230105

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 大歳祖神社の境内地に車を止めて直ぐに分かるかと思うと、中々見つからなかったため、地元の子育て中のお母さんにお尋ねするとおじいさんを呼びに行かれご案内頂く事になりました。

 実は目と鼻の先にあったのですが、短時間ですがお話を頂きありがとうございました。

 漱石も通ったであろう日田往還の街道筋から直接梯子を掛けたような急坂の参拝道と言うより石段があり神社を見せていただきました。この参道は崖を登ると言った感じですのでくれぐれもご注意を!

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ともあれ、こうして上野神社以来、5年越しの謎だった花房比売が僅かな細い線で結ばれたのでした。

 「竜樹山開基因縁記」の記事によれば第三代安寧天皇の時代に彦山から狙われているという意識を安寧自体が持っていたという認識があったと書き留められているのです。

 まあ、百嶋神社考古学では仁徳天皇の時代に九州から浪花高津宮に東遷したと考えていますが、安寧の時代の中心は九州に在りますので、彦山から安寧を狙うとしたら東からの光になるはずで、ここでは書き換えがされていると思います。

そもそも安寧が誰かについては当会の主だった方々の中でも論争があったのですが、私は、安寧はカミムスビ神こと博多の櫛田神社の主神の大幡主だろうと考えてきました。

百嶋神社考古学でも安寧天皇が誰であるかをはっきりと明示した物はないのですが、安寧の子が山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ…とのメモがあるのです。

百嶋神社考古学では第2代が阿蘇のカナコリヒコ(金凝彦)第3代天皇がカミムスビ神ですから全く系統の異なる神々を連ねて神代系譜を造っているのです。まあここまでにしますが九州の神々なのです。

 これは百嶋系譜極秘003に残された小さなメモなのですが、これによれば大幡主=カミムスビ神=塩土老翁と分かるのです。すると塩土老翁が大幡主であるとは面受の弟子の数名は口頭で聴いていますので、花房姫もその時代の人であることの見当は付くのです。阿蘇ご一家系譜のメモの一部をご覧ください。

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英山社には舞殿らしきものまであり、かつては定期的な舞の奉納も行われていたようです。

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金毘羅さまでしょうか 正勝吾勝の子が大山咋=山王日吉ですから一応は金毘羅に繋がります



かつて、漱石が通過したころまでは湯治場のある街道町であり、さぞかし繁盛していた事でしょう。

この神社の石段も石工に頼み、数人から10人掛りで一日一段づつこさえていったはずです。

現在の方が、遥かに貧しい時代になっていることに気づいて欲しいものです。

今やここ十年で神社が半減するとも、五分の一にまで減るとも言われているのです。

 売国奴、小泉、竹中に唆され、グローバル化を推し進めた結果、日本は神社総崩れを直前にしているのです。

 鎖国とは外国貿易の徳川政権による外国貿易の独占と一部の密貿易を行った数藩だけが法外な儲けを手にするものでしたが、問題は外国による干渉が存在しない、自由な内国経済を持っていた事の方が重要で、内国経済を維持するために全ての必要なものを国内だけで生産し消費する循環させる経済が成立しており、非常に豊かな国だったのでした。

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行きは良い良い帰りは怖い…

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2024年01月15日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 326  宮崎県高千穂町上野の上野神社の花房姫を大分県中津市山国町守実温泉の英山社に確認した 上)

新ひぼろぎ逍遥 スポット 326

 宮崎県高千穂町上野の上野神社の花房姫を大分県中津市山国町守実温泉の英山社に確認した 上)

“最後に日が落ち始める中三所神社へ”

20230105

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 注)本ブログは スポット303304 再掲載)ビアヘロ147 高千穂町神野の上野神社由緒書の花房姫を再び考える”❷ 全国の神社が荒れていく中、売りに出された社殿+神社地を買い取り再建する作業が始まった(中)20221227 の続編になります。これをお読みになってない方には意味が分からないと思いますので、お読みでない方は、303304からお読み下さい。

 2023年元旦は宮崎県高千穂町上野の ひのみこ社に 参拝しましたが、その夜のうちに本研修所に戻り、翌2日の昼から、懸案だった守実温泉の花房姫の確認に向かいました。

 日田まで20キロ弱、日田から10キロ程で守実に入りますのでのんびりでも1時間足らずで着きますので、ちょっとしたハイキングの感覚です。

 しかも、正月早々、雲一つない青空の下、百数十年前まで日田往還の旧街道の散策ができるとばかり、前日から泊まり込んでいたメンバーの男性(Y氏)と探訪に入ったのでした。

 守実温泉は奥耶馬渓の名湯と言ったイメージを持っていましたが、ここ数十年で、どこにでもある村興し町興しで風情も何もない特徴のない温泉センターになってしまったのが残念ですが、ともあれ花房姫を祀る英山社を始めました。

 直ぐに分かる大歳祖神社の境内に車を止め、付近で聴き込みをしたのですが、初めは外におられる方もいないため、大歳祖神社を参拝させて頂きました。

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大歳神社と言っても祭神が誰なのかの見当が付かない方もおられるでしょうから、まずは、そこからお話を致しましょう。

 肥後に行くと年神社、大歳神社と言うものがかなりあります。また、阿蘇神社の健磐龍命を主神とする所謂、阿蘇系神社に対して年祢神社系と言われる神社も同等数分布しています。

 この多くが大歳神=南阿蘇高森町の草部吉見神社の主神であり、後に藤原氏の祖となるヒコヤイミミ=鹿島大神、武甕槌…歳ドンとも呼ばれる有名な戦神(軍神)なのです。

 一方、我が百嶋神社考古学では、彦山の正勝吾勝々速日天之忍穂耳命と言う名で登場する神として考えており、彦山の事実上の支配者であった高木大神=高皇産霊尊の次女の栲幡千千姫命を妃として事実上の入婿として天下を左右するほどの神になった人物(神)なのです。

 ただ、大歳祖(ミオヤ)神社となっている以上、本来はその祖神が主神と考えるべきなのです。

 この時、この草部吉見の父神がこの神社の主神なのだと考えればスサノウの姉の神俣姫、分かりやすく言えば伊弉諾、伊弉冉の長女(母神)と阿蘇神社の最奥部の神殿に鎮座している神沼河耳(とんでもないことに後の藤原が贈る第2代綏靖天皇にしてしまった)になるのですが、この地の風土が彦山系の方々と言うより中津、豊前との繋がりが強い人々であろうと考えると、この大歳神の御祖としての二柱ではないように思えるのです。

 とすると、彦山を諫め恨んで自害した姫神を、花房姫を睨みつける意味で建てられた神社にも思えるのです。つまり、大歳の御祖つまり義理の祖神に当たる彦山の事実上の支配者である高木大神そのものが祀られているのではないかと考えるのです。

伝承とは言え、花房姫の非業の死を考えると、高木大神、草部吉見が最も正しいように思えるのです。

 これは資料が出てこないため、県立図書館まで足を延ばし明治の神名帳を見るべきですが、本来の話からはそれますので推定だけにしておきしょう。

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最初申し上げた問題が境内社を見ることによって少し理解できるように思います。

 大歳祖神社の祖の意味が彦山側のものか、花房姫側のものかが反映されているようです。

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百嶋由一郎最終神代系譜


 百嶋由一郎が残した最終神代系譜によれば、草部吉見(海幸彦)は多くの女神と政略結婚を行っています。注目すべきは、豊受大神=伊勢の外宮とは辛国息長大姫大目命の夫は始め草部吉見ですがそれは短期で終わり、後はずっとニギハヤヒ=ヒコホホデミ=猿田彦であるわけで、この神社でも猿田彦が祀られています。

もう一つは、私が花房姫と考えているオキツヨソ足姫(ナガスネヒコの妹)が排斥されている事こそ彦山=高木大神の意向が反映されている様に見えているからです。

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 突然話が変わりますが、境内には夏目漱石が120年以上前にここを通過していた事が伝えられています。正月(それも年初)に通過し足袋に草鞋で雪中旅を決行したと書かれています。たまたま私達も雪の残る守実を見た訳です。

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さて、紙面にまだ余裕がありますので、守実地区でかなり嬉しいイベントが行われていました。

 実際、英山社の参拝は直ぐに終わり、守実地区の新春早々の楽しい集まりをお知らせしたいと思います。

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この地区は標高もかなり高く寒い地区からなのでしょうか、何と雪祭りやらスケート・リンクやら、豊前神楽講演までが行われていたのです。

 新春早々関係者の皆様には頭が下がる思いですが、実に奥耶馬渓の一角のここだけには人々の明るさと豊かさが有り、正月の賑わいを見た思いがしました。

 こちらは、寒村の寂しい神社探訪を予想していたのですが、都会から里帰りをした本来は集落を支えるべき次世代がそのまた次の世代をいっぱい連れて多くの子供たちが走り回っていたのでした。

 その写真をご紹介したいと思います。

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最後は餅撒きまで行われ、二人で7袋をゲットしさっそく雑煮にさせていただきました。


百嶋由一郎氏が残した神代系譜DVD、講演録音声CD,手描きデータ・スキャニングDVDを必要とされる方は09062983254まで、ご連絡下さい。


 私達はある種スケート、スキーが流行し普及した時代に幼少期を通過した世代でした。

私も小学校の低学年時代から佐賀市や佐世保市のスポーツ・センターにしょっちゅう行き、結構、滑っていたのですが、何でも民営化すれば良いとの下らない施策の下で、経済的にペイしなければ何でもカットするという風潮が蔓延し、九州でもスケートができるところが非常に少なくなってしまいました。

たまにあってもスケートではなくローラースケート場であることも多く、実際には中々成立しなくなっている理由は、国民の所得の低下(売国奴小泉、竹中…岸田)とそれによる少子化そのものに原因があるのです。

 ただ、守実温泉の一角に出現したスケート・リンクの出現は、クリスマスから正月だけかも知れませんが、地域を守り支えるべき次世代を失った寒村でも、故郷に帰省する次世代の次世代である孫子の燥ぎ声が飛び交う喧騒を心より喜び楽しんでいたのでした。

 こんな小さな寒村でも立派なスケート・リンクが維持できているのですからものはやりようなのです。

 実際には英山社の参拝を済ませていましたが、ブログとしては次に花房姫の神社に向かいます。

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