2024年03月31日

スポット 303 佃 収 和水町講演 ❷ と、天武王権と長屋親王木簡問題

スポット 303 佃 収 和水町講演 ❷ と、天武王権と長屋親王木簡問題

   20220708

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


当研究会+丁巳歴史塾は、熊本県和水町の菊水史談会と提携し、埼玉県在住(熊本県玉名市出身)の佃収先生をお呼びして延べ10時間に及ぶ和水町講演〜北九州市戸畑講演を行いました。

菊水史談会は、元々、先生が玉名市のご出身であったことから十数年前から佃先生の講演会に取り組んでこられました。菊水史談会は10数年前から佃研究に取り組んでこられ最盛時は180人規模で講演会も行われていました。正に、熊本県でも民間研究団体の最大業績と言えるでしょう。

当方も、福岡県久留米市や久留米大学などで佃 講演に取り組みましたが、菊水史談会のご努力には敬意を表しています。

巷の史談会、郷土史会が、どこかで聞いた風な通説派のインチキ話を、教育委員会関係者とか学芸員から拝聴し、ただただ平伏し、翌日には忘れてしまっているという有様である事を考えれば、古田武彦九州王朝論を遥かに抜き去っている佃 収 九州王朝論 を支えて頂いた事には、十分な賛意を表したいと思うものです。

無題.png

しかし、同会も高齢化と、若手の新規参入が堪え、何れは消失への道へと進むものと思われ、今後の佃収九州王朝論を継承は無理としても、保持し、拡散する責務を担わされた事になります。

幸いなことに、我々のグループにはまだまだ若い熱心な研究者が集まっており、生涯を掛け、一生を費やして研究を続けてこられた佃先生や百嶋先生の業績を後世に残し引き継ぐ作業を行う事が出来ればと、新たな決意をしているところです。

多くの、史談会、郷土史会、地名研究会…が、自らの研究を放棄し、ただの親睦会に堕落しつつ、村興し、町興し、邪馬台国シンポジウム…といった、文化庁の天下りの腐臭が漂ようような(全国に邪馬台国の候補地は百か所もあります…お前ら馬鹿か!)インチキ文化運動、果ては、世界遺産登録へと進むと、日本文化の崩壊へと突き進むとしか思えず、ただのフィクションに過ぎない、韓国、中国の歴史ファンタジーと同列以下に堕落して行くことでしょう。

我々だけはそうした底なし沼には近づかないつもりですが、何時の時代にもさもしい人間はいるもので、更に戒めるべきと思うばかりです。

ともあれ、今回、熊本県和水町40人(529日の6時間)〜北九州市戸畑区60人(65日の4時間)での連続講演を行うことが出来、何とか述べ100人の講演会を行うことが出来ました。

先生のご年齢を考えると、今後も年に一度と言わずお話をお聴きしたいと思っているのですが、何としても、武漢肺炎ウイルスによる3年間のブランクは悲しいばかりです。

我々は、むしろ、これまで以上に、福岡(北九州、久留米)、熊本、大分、佐賀での小規模集会、分散集会、トレッキングを継続していたことから、勢力を維持し、むしろ拡大をさえ見ていますが、熱心な若手参集者を得ており、今後もこの傾向は継続するものと考えています。

しかし、国家的規模での思考停止状態に追い込んだ行政の無策には怒りを禁じえないばかりで、そればかりか、数十兆(6070)もの金を外国資本に毟り取られているそうですから(ワクチン6億回分)子供にまで無理やり摂取させようとするのでしょう。ウクライナ支援+復興支援で10兆円…これも一部の官僚どもだけにキックバックが送られているはずなのです。日本は事実上、全世界の破産国家のATMの役割をさせられている事になっているのです。話が逸れましたが、実験的に 佃 収 講演の音声ドキュメントをオンエアしたいと考え、本ブログとYouTube音声とを結合させたメディアを実行したいと思います。


新「日本の古代史」(佃説)

はじめに

これまで書いてきた論文を年代順に並べて『新「日本の古代史」(上)(中)(下)』として出版した。
しかし、各論文は独立して書いている。そのため「歴史の流れ」を読み取るのは難しいという声があった。
今年(20204)、二日間(夜まで延長有り)の講演をすることになった。講演資料はほぼ完成した。ところが新型コロナ・ウィルスのために中止(延期)になった。そこで講演資料を基に「日本通史」を書くことにした。講演にも使えるように考慮しながら「歴史の流れ」を理解してもらうことに重点を置き「通史」を書いた。
私の「古代史」は従来の「日本史」とはまったく異なる。それを明確にするために「(佃説)」を挿入した。
新しい「日本の古代史」を「通史」として理解していただければ幸いである。
(概要篇)ではあるが、次の二点については詳細に記述した。
一つは、「倭人(天氏)」の渡来(天孫降臨)である。
「倭人」(天氏)」の渡来により、「日本人」が誕生する。「現代日本人」のDNAの8割は「倭人」(天氏)」のDNAである(本文)。
「倭人」(天氏)」は「日本語」をもたらした。「日本」の始まりである。
そのため「倭人(天氏)」の「誕生」から「渡来ルート」、「渡来地」について詳述した。
もう一つは、「邪馬壹国」問題である。「邪馬壹国」関連の本は毎年出版されている。「邪馬壹国」問題は未解決になっている。国民の関心も高い。
そのため「邪馬壹国」について、その争点、問題点等をほぼ網羅するように「邪馬壹国の誕生」、「邪馬壹国への行程」、「邪馬壹国と伊都国の争い」、「邪馬壹国と狗奴国の争い」、「邪馬壹国の終焉」等について詳述した。未解決問題は無いと考えている。
図表は各章の最後に掲載している。
本文に「××号」とあるのは巻末の【参考文献】を参照されたし。2020年 7

202265日(日)13001700 60人規模で佃 収 講演を北九州市(戸畑区)でも行います

会場   福岡県北九州市戸畑区汐井町16 ウェルとばた 8F JR鹿児島本線 戸畑駅 隣

講演者 『古代文化を考える』(同人誌)主宰 佃 収 (著書多数) 参加費1000

テーマ 熊本は「貴国から高市天皇」でした北九州では、「日本人の起源」〜「倭の五王」まで

テキストとして「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)1200円当日:40部限定販売


無題.png

佃 収氏の講演会を長年に亘って実施されてこられた事だけでも敬服に値しますが、菊水史談会の功績は何と言っても「納音(ナッチン)九州年号対応表」(和水町の旧庄屋の住居に保管されていた古文書の一部)の確保でした。これは長年に亘って佃 収先生の著書を隈なく読み込んで来られた前垣事務局長でなければ発見できなかった功績であり、あれほどの実例のある「九州年号」を認めない教育委員会や学芸員(通説が嫌がる九州王朝実在の証拠だからです)が如何に無視しようとも歴史的業績は消え去る事は無いでしょう。「九州年号」には「二中歴」を始めとして「海東諸国紀」「如是院年代記」「本朝皇代記」「和漢春秋暦」「興福寺年代記」「王代年代記」…など実際には20以上の実用例があり、明らかに近畿大和政権以前に実在し使用されていた言わば九州王朝を現在に伝える物証なのです。

ただ、この幾つかに分かれた年号群は大半は対応するも、初年号が幾つかのもので「継体」「善記」と異なるとか、使用期間が違うと言った点があり、初歩的な議論では磐井の乱で九州王朝を滅ぼしたはずの継体(福井県から出てきたなどと言われる)の名が付された「継体」が何故九州年号と言えるのかと言った話まで出ていたのでした。

そこでお考え頂きたいのですが、この「九州年号」に幾つかの系統があり、それが九州王朝の分裂と関係があるのではないかと指摘されたのが佃 収先生でした。皆さんも後醍醐天皇と南北朝騒乱期の事は良くご存じの無題.png事と思います。近畿大和朝廷の延長上の内戦時においても従来の年号は使用されており、南北朝期の60年間は互いに別々の年号を創っていたのです。後に南朝の後亀山天皇は、統合を受諾し三種の神器が後小松天皇の御所に移され南北朝分裂が終わり、この時南朝の年号が廃止しされ北朝の年号「明徳」が存続したのでした。これについて古代史の復元シリーズ 5》「倭の五王と磐井の乱」を読まれるべきですが、新著の早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)第2二部第1章物部麁鹿火政権(佃説)以下第2章阿毎王権(俀国)、第3章豊王権、第4章上宮王権、第5章天武王権、第6高市天皇…をお読みください。実に素晴らしいクレバーな解析です。

古田武彦が鬼籍に入り、続く多くの研究者も続き九州王朝論を正しいと考える研究者は、佃 収氏と僅かな方しか残っておらず、何れ、九州王朝って何のことだと言われる時代が目前に来ています。

かつては九州王朝を意識した研究会もあったのですが、研究者を失い村興し町興し果ては世界遺産登録に浮かれ、通説派の教育委員会関係者や学芸員のご高説を賜り賛意を表する状況では早晩九州王朝研究も消失するでしょう。

中には自称九州王朝論の研究者と称すも、行政の芸人に成り下がる方々も出るようではさぞかし古田武彦も草葉の陰から嘆いているでしょう。佃収先生は九州王朝論の主流派である古田史学などから独立し自らの研究を続けて来られました。それだけでも敬服に値しますが、九州のフィールド・ワークを徹底して続けて来られました。現在そうした研究者を見ません。かつては「法隆寺は移築された」を書かれた米田良三氏も居たのですが氏も鬼籍に…。

現在、当会は熊本、福岡(福岡、太宰府、久留米)、佐賀、大分の4県で研究機、講演会、勉強会と合わせ現場でのフィールド・ワークも続けています。関心をお持ちの方は、ブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」外のトップ画面スケジュール表をご覧ください。また、九州内だけでも当会メンバーによるブログ(百嶋由一郎神社考古学に触発された)が十数名により20本(全国レベルでも356本)が公開されています。


太宰府地名研究会+百嶋由一郎神社考古学研究会(文責:古川)

事務局 中島 茂 09052892994 (通信不能時連絡 古川 清久  090-62983294


今回、延10時間に及ぶ佃先生の講演を聴き非常に感銘を受けましたので、CD二枚組で配布を進めています。もう二十回は聴いたと思いますが、特にカー・ステレオで聴いていると雑念がなく頭に吸い込まれて行きます。

MP3方式で作成しておりお送りすることもできますが、パソコン、ここ10年ぐらいのカー・ステレオ、ソニーなど数社のCDプレイヤーをお持ちの場合はお聴き頂くことができます。

今般、九州王朝論の心臓部ともいえる貴国、倭の五王政権、大彦の渡来と言った時期から物部麁鹿火王権、阿毎王権(俀国)辺りまでを最初の70分ほどで一気にお話になりました。

これについては、随時、ユーチューブにアップしたいと考えています。

次に、豊王権、上宮王権、天武王権、高市天皇…と進みますが、これについては、ネット上の日本古代史の復元というサイトから早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)によりPDF画像で論文をお読み頂くことをお勧めします。

九州年号には幾つかの系統があり、九州王朝という単独の政権が、仮に卑弥呼以降、単独の王権が8世紀初頭まで存続していたといった理解をされている方が大半ではないかと思いますが、佃収説では、そのような単純な理解はされておらず、前述した王権が入れ替わりながら、年号に変更が加わり推移しているという仮説を提出されているのです。

南北朝争乱期に於いても、分裂期には、北朝年号、南朝年号(吉野)が各々異なった年号を使用していることと対応するのです。

このような最先端の議論に結びつくのであり、是非ともお聴きいただきたいと思います。

尚、冒頭で、天武天皇の子である高市王子の子(天武の孫)の長屋親王の木簡問題に触れておられますので、佃講演と併せ「のんびりと古代史」お読み頂きたいと思います(以下)。

無題.png

「長屋親王宮木簡」への雑感  2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理 20

【東野治之『続日本紀』と木簡を検索してください(他にもありますが一例として紹介します)。

無題.png

無題.png勝手ながら「のんびりと古代史」様から引用させて頂きます。

無題.png


「長屋親王宮木簡」への雑感  2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理


【東野治之『続日本紀』と木簡無題.png

 新日本古典文学大系月報3(1989年3月、第12巻:続日本紀一付録)の冒頭に東野治之氏の『続日本紀』と木簡と題された小論が掲載されている。この中で東野氏は、「(日本古代史の研究には)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。正史の記述は、ある年代を隔て、公的な制約のもとに書かれているからである。」とした後で、長屋王家木簡出土についての見解を記している。

「長屋王は高市皇子の子で、祖父は天武天皇、文武天皇や元正天皇とはいとこ同士で、やはりいとこで草壁皇太子の娘、吉備内親王を娶っている。その長屋王が、神亀六年(719)二月、謀反を計っているとして自殺させられる事件が起こった。事件の背後には、王が皇位継承者となることを恐れた藤原氏側の謀略があったとされている。それが事実であったことは、『続日本紀』天平十年七月条の記事からも明らかである。しかし長屋王が全く悲運の人であったのかどうか、今回の木簡は、そのような見方に再検討を迫るものといえる。」 

 東野氏は論点をずらして長屋王が悲運の人であったことを見直さなくてはならないと木簡の意義を主張している。しかし、この木簡に「長屋親王」と記されていたからといって、東野氏が言うように、「長屋王が全く悲運の人であったのかどうか」とは全く無関係である。「親王」と呼ばれていようがいまいが、後に濡れ衣であることが判明する謀反の罪で自殺を強要され家族とともに自害したと記される「長屋親王」が悲運の人であることに変わりはない。

 長屋王の出自や経歴を紹介した後で主題である木簡の話題に移る。「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡についての説明では、「律令制下では、天皇の子であるか孫であるかは明確に区別があった。ところがこの木簡では、長屋王が親王と呼ばれている。すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と述べている。

 「(公的な制約のもとに書かれている)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。」と客観的な立ち位置に自ら立っていると宣言しておきながら、「長屋親王宮鮑大贄十編」を前にして、『続日本紀』の記述に合わせて、長屋王が親王と呼ばれていたのは「すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と論点を巧妙にずらしているのである。 

【一次史料>二次史料が前提】

 このように解釈すればどのような発見があっても既成概念に合わせるように論を組み立てることは可能であろう。研究者が前提としなければならないのは、史実を追究するならば、後世の人が何らかの意図を以て作成した『続日本紀』よりも何の意図もなしに1300年近く地中に眠っていて偶然発掘された木簡の記述をまず信用しなければならない。『続日本紀』は正史とはいえども、政権の意図を反映するために編纂された二次史料であるが、「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡は長屋王を後世の人に長屋親王であると思わせるなどの意図とは全く関係なく捨てられていた一次史料なのである。一次史料に記された内容を史実として歴史を組み立て直すことが必要とされるのではないだろうか。

 東野氏のように新史料を真正面から受け止めずに論点をずらして解釈すれば、これまでの学会の通説を守ることはできても学問が追求しなければならない真実へ近づくことは永遠にできそうもない。当代一流といわれる研究者の30年以上前の論文を俎上にあげて批判したが、最近になっても学会で「高市天皇論」が議論されたということを聞かないので依然として前掲の東野論文の主張が主流となっているのではと危惧している。勇気をもって自説を展開する若手研究者の出現を期待したい。

これを御用学者と言わずして誰をそう言いいましょうか…こんなものは学者、研究者ではない!(古川)

第一級の一次資料を無視し、自説を優先するのですから酷いですね。彼は、自らの著書で親王は普通の皇子とか王ではない、皇位継承権があるから親王なのだ…と書いているのです。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 22:32| Comment(0) | スポット

2024年03月29日

スポット 302 佃 収 和水町講演 ➊ と、天武王権と長屋親王木簡問題

スポット 302 佃 収 和水町講演 ➊ と、天武王権と長屋親王木簡問題

   20220708

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


当研究会+丁巳歴史塾は、熊本県和水町の菊水史談会と提携し、埼玉県在住(熊本県玉名市出身)の佃収先生をお呼びして延べ10時間に及ぶ和水町講演〜北九州市戸畑講演を行いました。

菊水史談会は、元々、先生が玉名市のご出身であったことから十数年前から佃先生の講演会に取り組んでこられました。菊水史談会は10数年前から佃研究に取り組んでこられ最盛時は180人規模で講演会も行われていました。正に、熊本県でも民間研究団体の最大業績と言えるでしょう。

当方も、福岡県久留米市や久留米大学などで佃 講演に取り組みましたが、菊水史談会のご努力には敬意を表しています。

巷の史談会、郷土史会が、どこかで聞いた風な通説派のインチキ話を、教育委員会関係者とか学芸員から拝聴し、ただただ平伏し、翌日には忘れてしまっているという有様である事を考えれば、古田武彦九州王朝論を遥かに抜き去っている佃 収 九州王朝論 を支えて頂いた事には、十分な賛意を表したいと思うものです。

無題.png

しかし、同会も高齢化と、若手の新規参入が堪え、何れは消失への道へと進むものと思われ、今後の佃収九州王朝論を継承は無理としても、保持し、拡散する責務を担わされた事になります。

幸いなことに、我々のグループにはまだまだ若い熱心な研究者が集まっており、生涯を掛け、一生を費やして研究を続けてこられた佃先生や百嶋先生の業績を後世に残し引き継ぐ作業を行う事が出来ればと、新たな決意をしているところです。

多くの、史談会、郷土史会、地名研究会…が、自らの研究を放棄し、ただの親睦会に堕落しつつ、村興し、町興し、邪馬台国シンポジウム…といった、文化庁の天下りの腐臭が漂ようような(全国に邪馬台国の候補地は百か所もあります…お前ら馬鹿か!)インチキ文化運動、果ては、世界遺産登録へと進むと、日本文化の崩壊へと突き進むとしか思えず、ただのフィクションに過ぎない、韓国、中国の歴史ファンタジーと同列以下に堕落して行くことでしょう。

我々だけはそうした底なし沼には近づかないつもりですが、何時の時代にもさもしい人間はいるもので、更に戒めるべきと思うばかりです。

ともあれ、今回、熊本県和水町40人(529日の6時間)〜北九州市戸畑区60人(65日の4時間)での連続講演を行うことが出来、何とか述べ100人の講演会を行うことが出来ました。

先生のご年齢を考えると、今後も年に一度と言わずお話をお聴きしたいと思っているのですが、何としても、武漢肺炎ウイルスによる3年間のブランクは悲しいばかりです。

我々は、むしろ、これまで以上に、福岡(北九州、久留米)、熊本、大分、佐賀での小規模集会、分散集会、トレッキングを継続していたことから、勢力を維持し、むしろ拡大をさえ見ていますが、熱心な若手参集者を得ており、今後もこの傾向は継続するものと考えています。

しかし、国家的規模での思考停止状態に追い込んだ行政の無策には怒りを禁じえないばかりで、そればかりか、数十兆(6070)もの金を外国資本に毟り取られているそうですから(ワクチン6億回分)子供にまで無理やり摂取させようとするのでしょう。ウクライナ支援+復興支援で10兆円…これも一部の官僚どもだけにキックバックが送られているはずなのです。日本は事実上、全世界の破産国家のATMの役割をさせられている事になっているのです。話が逸れましたが、実験的に 佃 収 講演の音声ドキュメントをオンエアしたいと考え、本ブログとYouTube音声とを結合させたメディアを実行したいと思います。

熊本神代史研究会トレッキング(太宰府地名研究会)202267月のスケジュール

梅雨明け710日に大分県竹田市〜豊後大野市の3社に掛けてトレッキングを行います。何故、この神社を選んだかと言えば、この間取り上げてきたヤマト・オグナの熊襲退治の一方の主人公である河上 猛が、この祖母山北麓の穴森神社と健雄霜凝日子神社に関連する阿蘇大蛇伝説を創った大神一族ではなかったのか…という仮説と繋がってきたのです。それこそが百嶋由一郎が残した示唆が導いてくれたのでした。

河上猛は阿蘇大神氏なのです。

22710日(日)10時に熊本県高森町スーパーASUKA:熊本県高森町大字高森1978-2集合(弁当持参)。

テーマ:祖母山の祖母とはなにか? 一体誰の祖母なのか? では祖母の孫とは誰なのか?

無題.png

今回、佃収先生の熊本(和水町)講演が急遽決まりました。このため、準備不足ながら8日間に2度もの講演会を行うことになりました。日々追われる皆様にはご迷惑をお掛けしますが、逆に言えば最良かつ念願の講演者のお二人をお迎えすることになります。時間に余裕がなく宣伝できませんが最大の取り組みを行います。

皆さん宗像市に何故 かのこの里、かのこゆり と二つもの施設(道の駅)があるかお分かりになりますか?

無題.pngこの花は市杵島姫が愛した花との伝承があるのですが、彼女が幼少期を過ごしたと思われる飯塚市鹿毛馬の厳島神社の鎮座地が田島(宗像の辺津宮)でその隣接する大字が佐與(サヨ)なのです。ここに住んでいたから別名が作用姫(兵庫の佐用町佐用津姫神社)になっているのですが、これが古代中国語ではユリを意味していたようなのです。赤間、東郷は市杵島姫の実在を思わせます。そしてこの花は鹿児島県いちき串木野市(市杵島姫が地名に反映していますね)、薩摩川内市の沖に浮ぶ甑島が列島でも最大の群生地なのです。百嶋神社考古学では阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミと市杵島姫とは夫婦で、先生からも神武巡行に随行し甲府から戻り、薩摩の阿多の村主(スグリ)になっていると聴いています。これが甲府の天津司神社の舞として残り、徳島の二つの天都賀佐比古神社として痕跡をとどめているのです。してみると甑島に鹿島町があったことも分かってきます。の鹿島も草部吉見=ヒコヤイミミ(藤原氏の祖神)なのです。彼女も共に。

ここで、ネット上の無題.pngから佃先生の簡略化された通史の目次を紹介します。

目 次

第1部 倭人の誕生から「倭の五王」まで ( )内はページ

第1章 人類の誕生と移動(3)

DNAと遺伝子(3)

ホモ・サピエンスの誕生(4)無題.png

出アフリカ(Y染色体遺伝子による)(4)

第2章 倭人の誕生(佃説)(7)

北方モンゴロイドの移動(約18000年前)(7)

満州人・朝鮮人・日本人の祖先(7)

第3章 倭人(天氏)の移動(9)

呉の倭人(9)

呉越の戦いと東表の倭人(10)

山東省の倭人(天氏)(11)

第4章 倭人(天氏)と箕子朝鮮(佃説)(13)

箕子朝鮮(13)

倭人(天氏)の移動(14)

第5章 倭人「卑弥氏」(佃説)(18)

倭人(卑弥氏)とは(18)

「倭人(卑弥氏)」の移動(19)

第6章 中国東北地方の古代史(周〜戦国時代)(22)

燕と箕子朝鮮の戦い(22)

古代中国王朝の領域(23)

「燕の長城」と「万里の長城」(23)

箕子朝鮮と大凌河(25)

「倭人(天氏)」と「箕子朝鮮」の関係(26)

第7章 中国東北時代の古代史(前漢時代)(31)

前漢時代の中国東北地方(31)

漢と衛氏朝鮮(32)

第8章 「倭人(天氏)」と高天原(佃説)(38)

天氏と卑弥氏の出会い(38)

天氏による「高天原」の建国(39)

高天原の時代(41)

第9章 『古事記』『日本書紀』の「天孫降臨」(44)

『日本書紀』の「天孫降臨」(44)

『古事記』の「天孫降臨」(45)

『古事記』『日本書紀』の「天孫降臨」の問題点(47)

10章 「倭人(天氏)」の移住(佃説)(48)

高天原の危機(48)

高天原からの移住の決意(49)

筑紫へ移住(天孫降臨)(49)

11章 「倭人(天氏)の渡来」の[検証](52)

吉武高木遺跡(52)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(須玖遺跡)(54)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(吉野ヶ里遺跡)(56)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(考古学から)(57)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(人類学より)(61)

12章 伊都国と神都(佃説)(67)

伊都国の樹立(67)

伊都国の発展(68)

13章 「卑弥氏」の渡来(第1回目)(佃説)(70)

「倭城」からの逃亡(第1回目)(70)

「倭人(卑弥氏)」は朝鮮半島へ(71)

朝鮮半島の「倭国」(71)

弥生時代後期と委奴国の樹立(72)

「委奴国」と金印(74)

不彌国(75)

伊都国王権(76)

14章 「後漢時代」の倭(佃説)(78)

公孫氏と「倭」(78)

15章 「卑弥氏」の渡来(第2回目)(佃説)(80)

「倭人国」と「倭国」(80)

伊都国王権と倭国の戦い(第1回)(81)

「倭国(邪馬壹国)」の位置(佃説)(82)

「邪馬壹国」と「狗奴国」(87)

北部九州「倭国」の樹立(88)

公孫氏の滅亡と「景初二年」問題(89)

16章 倭国と伊都国、狗奴国の戦い(佃説)(94)

倭国と狗奴国の戦い(1回目)(94)

伊都国王権と倭国の戦い(95)

「倭国」と「狗奴国」の戦い(2回目)(96)

17章 神武東征(逃亡)(佃説)(98)

伊都国と倭国の戦い(98)

神武東征のルート(99)

18章 崇神天皇(佃説)(105)


崇神天皇の渡来(105)

19章 貴国の樹立(佃説)(111)

熊襲征伐(111)

20章 「倭の五王」の倭国(佃説)(116)

倭国の樹立(116)

「倭の五王」による全国支配(116)

「倭の五王」による全国支配の検証(117)

「倭の五王」と年号(119)

21章 「第1部」のおわりに(122)

「大彦」の子孫(122)

「天氏」と「卑弥氏」の渡来ルートとDNA(122)

「現代日本人」の形成(123)

第2部 「磐井の乱」から「高市天皇」まで(127)

1章 物部麁鹿火王権(佃説)(129)

「磐井の乱」(129)

「磐井の乱」の年代(130)

稲荷山古墳(131)

「辛亥年=471年」説(定説)の根拠(134)

「定説」の検討(135)

「辛亥年」=「531年」(佃説)(136)

「礫槨」の年代(137)

物部氏と物部麁鹿火(139)

物部麁鹿火王権とは(佃説)(140)

物部麁鹿火王権の本拠地(佃説)(141)

仏教伝来(佃説)(142)

第2章 阿毎王権(俀国)(佃説)(146)

新王権(146)

新王権の本拠地(147)

新王権=「俀国」(佃説)(148)

阿毎王権と百済救援(151)

阿毎王権と元興寺(152)

阿毎王権と蘇我氏(佃説)(153)

阿毎王権と日羅事件(佃説)(154)

第3章 豊王権(佃説)(158)

用明天皇(158)

「欽明天皇」への疑問(159)

用明天皇の本拠地(160)

用明天皇の殺害(163)

用明天皇の系譜(164)

推古天皇(165)

豊王権と磯長(167)

第4章 上宮王権(佃説)(170)

上宮法皇(170)

上宮王権(171)

上宮王家(174)

上宮王権の本拠地(176)

舒明天皇(177)

第5章 天武王権(佃説)(181)

「天武王権」の樹立(181)

天武天皇と「天武天皇の父」(183)

天武王権の本拠地(184)

『日本書紀』の記す百済救援(185)

天武天皇と「百済救援」(187)

朝倉宮(189)

天武天皇と「白村江の戦い」(192)

天武天皇による西日本の支配(193)

「壬申の乱」(193)

第6章 高市天皇(佃説)(199)

高市天皇とは(199)

「高市天皇紀」(200)

藤原京の造営(200)

第3部 「王権乱立」の時代(佃説)(203)

第1章 豊王権の樹立(佃説)(205)

豊王権の独立(205)

阿毎王権と豊王権の独立問題(1)(206)

阿毎王権と豊王権の独立問題(2)(206)

第2章 上宮王権と豊王権(佃説)(208)

上宮王権と蘇我氏(208)

上宮王権の独立(209)

上宮王権と阿毎王権(210)

豊王権の再興(211)

第3章 阿毎王権から天武王権へ(佃説)(212)

「天武王権」の樹立(212)

第4章 上宮王権内の争乱(佃説)(214)

上宮王権と蘇我氏(214)

「豊王権」の逃亡(215)

「豊王権」の滅亡(216)

第5章 天武王権と上宮王権(佃説)(218)

天武王権は上宮王権を滅ぼす(218)

上宮王権の逃亡(218)

「上宮王権」の滅亡時期(219)

「壬申の乱」の深層(221)


第4部 「古代史」の改竄(223)

第1章 天武天皇による「古代史の捏造」(佃説)(225)

「万世一系」の系譜(225)

第2章 『日本紀』『日本書紀』『続日本紀』の成立(佃説)(227)

『日本紀』の成立(227)

『日本書紀』の成立(228)

『日本書紀』と『続日本紀』の成立時期(228)

第3章 『日本紀』を『日本書紀』に改竄(佃説)(230)

『日本紀』改竄の理由(230)

『日本紀』改竄の方法(1)(230)

『日本紀』改竄の方法(2)(231)

『日本紀』改竄の方法(3)(232)

講演では冒頭で長屋親王木簡について話しています。名指しはされていませんがネット上にはこの問題に対して多くの情報がアップされており、東野氏の事であろうと推定できます。恥ずかしいですね。


無題.png勝手ながら「のんびりと古代史」様から引用させて頂きます。

無題.png



「長屋親王宮木簡」への雑感  2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理

【東野治之『続日本紀』と木簡無題.png

 新日本古典文学大系月報3(1989年3月、第12巻:続日本紀一付録)の冒頭に東野治之氏の『続日本紀』と木簡と題された小論が掲載されている。この中で東野氏は、「(日本古代史の研究には)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。正史の記述は、ある年代を隔て、公的な制約のもとに書かれているからである。」とした後で、長屋王家木簡出土についての見解を記している。

「長屋王は高市皇子の子で、祖父は天武天皇、文武天皇や元正天皇とはいとこ同士で、やはりいとこで草壁皇太子の娘、吉備内親王を娶っている。その長屋王が、神亀六年(719)二月、謀反を計っているとして自殺させられる事件が起こった。事件の背後には、王が皇位継承者となることを恐れた藤原氏側の謀略があったとされている。それが事実であったことは、『続日本紀』天平十年七月条の記事からも明らかである。しかし長屋王が全く悲運の人であったのかどうか、今回の木簡は、そのような見方に再検討を迫るものといえる。」 

 東野氏は論点をずらして長屋王が悲運の人であったことを見直さなくてはならないと木簡の意義を主張している。しかし、この木簡に「長屋親王」と記されていたからといって、東野氏が言うように、「長屋王が全く悲運の人であったのかどうか」とは全く無関係である。「親王」と呼ばれていようがいまいが、後に濡れ衣であることが判明する謀反の罪で自殺を強要され家族とともに自害したと記される「長屋親王」が悲運の人であることに変わりはない。

 長屋王の出自や経歴を紹介した後で主題である木簡の話題に移る。「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡についての説明では、「律令制下では、天皇の子であるか孫であるかは明確に区別があった。ところがこの木簡では、長屋王が親王と呼ばれている。すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と述べている。

 「(公的な制約のもとに書かれている)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。」と客観的な立ち位置に自ら立っていると宣言しておきながら、「長屋親王宮鮑大贄十編」を前にして、『続日本紀』の記述に合わせて、長屋王が親王と呼ばれていたのは「すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と論点を巧妙にずらしているのである。 

【一次史料>二次史料が前提】

 このように解釈すればどのような発見があっても既成概念に合わせるように論を組み立てることは可能であろう。研究者が前提としなければならないのは、史実を追究するならば、後世の人が何らかの意図を以て作成した『続日本紀』よりも何の意図もなしに1300年近く地中に眠っていて偶然発掘された木簡の記述をまず信用しなければならない。『続日本紀』は正史とはいえども、政権の意図を反映するために編纂された二次史料であるが、「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡は長屋王を後世の人に長屋親王であると思わせるなどの意図とは全く関係なく捨てられていた一次史料なのである。一次史料に記された内容を史実として歴史を組み立て直すことが必要とされるのではないだろうか。

 東野氏のように新史料を真正面から受け止めずに論点をずらして解釈すれば、これまでの学会の通説を守ることはできても学問が追求しなければならない真実へ近づくことは永遠にできそうもない。当代一流といわれる研究者の30年以上前の論文を俎上にあげて批判したが、最近になっても学会で「高市天皇論」が議論されたということを聞かないので依然として前掲の東野論文の主張が主流となっているのではと危惧している。勇気をもって自説を展開する若手研究者の出現を期待したい。

これを御用学者と言わずして誰をそう言いいましょうか…こんなものは学者、研究者ではない!(古川)

第一級の一次資料を無視し、自説を優先するのですから酷いですね。彼は、自らの著書で親王は普通の皇子とか王ではない、皇位継承権があるから親王なのだ…と書いているのです。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット

2024年03月28日

スポット 301 死を免れた栄えある川上 猛の後裔氏族は今も早良に住み、その一族は大神一族となっている ⓬

スポット 301

 死を免れた栄えある川上 猛の後裔氏族は今も早良に住み、その一族は大神一族となっている 

   20220706

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この川上 猛に関する探究は、昨年の12月から始まり尚も継続していますが、そのあまりに大きな展開にたじろぎながら漂流を続けている状況にあります。

無題.png

以下は4月に西原村で行った小規模勉強会に用に作成したものを元に小倉向けに編集した配布資料です。このように武漢肺炎ウイルス騒動下での生き残りのために若松や久留米でも続けてきた資料です。


熊本神代史研究会2022(西阿蘇分散勉強会)

415日(金)1230〜 於:熊本県西原村萌えの里手前の伊藤研修所(仮称)

テーマ:「ヤマトオグナの熊襲退治により許された河上 猛は福岡市早良区に落ち延びた〜」


@  熊襲退治の現場は佐賀市(旧大和町)長崎自動車道佐賀大和IC 川上峡温泉付近

A  河上 猛は神埼市(旧脊振村広瀧)で誅殺を免れその中枢一族は福岡市早良区の某所に移動している

B  その場所と名前が判明した

C  仮説)この一族が大分県豊後大野の緒方三郎惟栄、阿蘇大蛇伝説の大神惟基になるのではないのか

D  祖母山の意味とはそして、ウガヤフキアエズ王朝説とは

E  琵琶湖北岸の伊吹山と姉川と妹川…そして脊振村の川下にも姉川がある



今年の23月から少し異常な事が起こっています。そもそも年末年始辺りから百嶋神社考古学の神代系譜などを希望する方が目立って増えており、3月半ばの一週間だけで4050代の男女4人からトレッキングに参加したい、百嶋神社考古学の資料を欲しいとの要望があったのです。加えて80代の僧籍の方からもと…、ここ3年妙なウイルスに邪魔されながらも活動を継続してきたからか、時代の閉塞感が反映されたものか、不安感が自らが何者であるかを知りたい…といった現れなのか、良くは分かりません。

今回の河上 猛と日本武尊の話は単に福岡、佐賀だけにとどまらず、新たな展開を見せてきました。先走った話になりますが、ここでは簡単な予測というか現状を仮説として提出しておきたいと思います。

@  ヤマトオグナ(後の日本武尊)の熊襲猛退治の話はつとに有名ですが、お伽噺のように扱われ何処の話か全く分からなくされています。しかし、これについても現場に踏み込めば、佐賀市(旧大和町)長崎自動車道佐賀大和IC 川上峡温泉付近であったとの伝承や痕跡があり、旧大和町史、熊本市在住の故)平野雅廣氏の数著による指摘や付近の寺の記録までがあるのです。

ただ、今回はこの話を飛ばし誅殺を免れ早良に落ち延びた河上 猛とその一族の話を行います。

A  河上 猛の一族とは久留米の高良山に盤踞したウガヤフキアエズと阿蘇初代宮司家の奈留多姫の間に生れた相当に重要な氏族でした(百嶋由一郎最終神代系譜)惟人は阿蘇宮司家初代です。これを誅殺したとされるヤマトオグナも近畿大和朝廷から派遣された皇子?などというのは大嘘で、熊襲内の傍流の一派でした。(国立国会図書館所蔵「松野連系図」参照)百嶋由一郎の神代系譜と松野連系図とを併せ考えると、肥後の一帯に居た別派が九州王朝の一流を撃った内ゲバに等しいものでだからこそ誅殺(テロ)隊程度の存在で決着が着いたのでした。(黄色枠と緑枠の対立)

無題.png

B   これを誅殺したとされるヤマトオグナも近畿大和朝廷から派遣された景行の皇子などというのは大嘘で、熊襲内の傍流の一派でした。(国立国会図書館所蔵「松野連系図」参照)百嶋由一郎の神代系譜と松野連系図とを併せ考えると、肥後の一帯に居た別派が九州王朝の一流を撃った内ゲバに等しいもので、だからこそ誅殺(テロ)武隊程度の存在で決着が着いたのでした。(黄色枠と緑枠の対立)

C 恐らく背景にあるのは海幸彦系と山幸彦系の対立構造であり、河上 猛の父はウガヤフキアエズ(山   

幸彦と豊玉姫の間に生まれた)、母は奈留多姫(海幸彦=草部吉見とその弟健磐龍の両派の本流を汲

む雨宮姫の娘)を草部吉見と、神武に敵対し敗残したナガスネヒコの妹=オキツヨソ足姫の孫に当たるのがヤマトオグナ(出身地は肥後の山門)後のヤマトタケルなのです。百嶋由一郎系譜参照 

D   河上 猛はそれほどの一族であったが故に容易には誅殺できなかったのかも知れません。何故ならば、ヤマトオグナの一族とは逆族ナガスネヒコの血を汲む一族だったからです。松野連系図参照

E   八坂刀売を祀る福岡市早良区原の諏訪神社の周りには6つの●神姓の家が在り、そのうちの1軒はかつては宮司家でもあったのです。とすると、百嶋由一郎が言い残した河上 猛の一族とは●神姓の一族以外には考えようがありません。もしかしたら家伝さえも残っているのではないでしょうか?

●神姓は福岡県、佐賀県に分布が集中しており、大分県では緒方、尾方と変え、恐らく岡もバリエーションの一つなのでしょう。その意味では、遠賀地名の残る遠賀川河口の岡垣、水巻にイズノメを祀る伊豆神社が4社集中しており、そのイズノメが実は豊玉姫である事をお話(丁巳歴史塾と遭遇した3年前でしたか)しています。

  当然、祖母山山頂に祀られる豊玉姫、ウガヤフキアエズの乳母=姥(後に夫婦となり別れさせられる「高良玉垂宮神秘書」)が姥岳神社として祀られていることは、ウガヤフキアエズの母と乳母(姥)と妃が祀られていることになり、河上 猛にとっては正しく母神、叔母、乳母、妃がセットで祀られていることになるのです。

無題.png
無題.png

F恐らく背景にあるのは海幸彦系と山幸彦系の対立構造であり、河上 猛の父はウガヤフキアエズ(山幸彦と豊玉姫の間に生まれた)、母は奈留多姫(海幸彦=草部吉見とその弟健磐龍の両派の本流を汲む雨宮姫の娘)を草部吉見と神武に敵対し敗残したナガスネヒコの妹=オキツヨソ足姫の孫に当たるのがヤマトオグナ(出身地は肥後の山門)後のヤマトタケルなのです。

百嶋由一郎系譜参照

G   河上 猛はそれほどの一族であったが故に容易には誅殺できなかったのかもしれません。何故 

ならば、ヤマトオグナの一族とは逆族ナガスネヒコの血を汲む一族だったからです。松野連系図 参

八坂刀売を祀る福岡市早良区原の諏訪神社の周りには6つの●神姓の家が在り、そのうちの一軒はかては宮司家でもあったのです。とすると、百嶋由一郎が言い残した河上 猛の一族とは●神姓の一族以外には考えようがありません。もしかしたら家伝さえも残っているのではないでしょうか?

無題.png

故)百嶋由一郎は、“河上 猛の一族は旧脊振村(現神埼市)の中心部広滝で許され福岡市早良区原に移り住んでおられます。名前も、場所も分かっているが、可哀そうで言えない…”と言い残して亡くなられました。1800年も前の話にも関わらず、今も纏まって住んでおられますとは聴きましたが、正直言って6軒もの方がおられたとは思いもよりませんでした。

無題.png

H  そうだとすると、次に頭を過ったのは阿蘇大蛇伝説の大神一族とは河上 猛の一族だったのではないかという驚くような想定でした。この現場、豊後竹田の穴森神社と豊後大野の宇田姫神社に纏わる祖母山の大蛇伝説から「平家物語」にもその名を遺す大神惟基(阿蘇の重要な家系は「惟」を通字とします)、義経を呼び込み頼朝とも決戦を準備したその後の大神(緒方)惟栄の一族で、宇佐神宮に八幡神を持ち込んだ大神比義の一族もこの河上 猛の一族だったと思うのです。

無題.png

I  話はこれだけに留まりません。通説では神功皇后の出身地は琵琶湖北岸の米原辺りなどされていますが、佐賀県佐賀市(旧三瀬村杠)には野波神社があり、神功皇后が主神として祀られており、その直ぐ近くには父の息長宿祢、母の葛城高顙媛をだけを祀る下の宮があるのです。詳しくは「ひぼろぎ逍遥」+□+野波神社で、ダブル検索を試みてください。当然、伝承もあり息長宿祢は現北山ダムの底に野波神社が存在し、そこから二度の移転が行われ現在の地に鎮座しているのです。神埼市(旧)脊振村には母の葛城氏の一族が、佐賀市(旧)三瀬村には父の息長氏の一族が居たのです。


無題.png

Jそこでお考え下さい、日本武尊は琵琶湖北岸の伊吹山に向かいますね、実は佐賀県神埼市の旧脊振村にも伊福(これが伊吹山になった?)という集落があります。旧脊振村の中心部の広滝には広滝神社があり、由緒には河上 猛と日本武尊についてのだけの伝承が書かれているのです。さらに川を下れば、ヤマトオグナが拠点としたとの話がある白角折(オシトリ)神社までがあるのです。どうも神埼市側から少人数の舞台が佐賀市(旧大和町)側に侵攻しているのです。さらに日本武尊の東国進出地の一つ琵琶湖の北岸に名高い伊吹山がありますが、その裾野に姉川があり織田、徳川が浅井、朝倉を攻めた戦国期の激戦の舞台があるのです(姉川の合戦)。面白い事にこの神埼市にも姉川という地名があります。JR長崎本線の神埼駅と佐賀駅の間に伊屋駅があります。その傍が姉川地区なのです。実は、滋賀県の姉川の上流には支流として妹川(草野川)もあります。恐らく神埼にも妹川があったと思いますが、ほ場整備や国土調査が行われると地名が消えてしまいます。現在、明治期の全国小字調べに当たっていますが、確実なのは、福岡県久留米市の東隣のうきは市には浮羽町妹川地区があります。この地では製鉄が行われていました。そうです。妹川とは鋳物師(イモジ)の川だったのです。

無題.png

佐賀県神埼姉川 と 福岡県うきは市妹川 


K  そして、恐らく風を求めて神埼市の妹川は浮羽に移動したのです。それを思わせるものがあります。それは、佐賀市にも、うきは市、久留米市に巨勢川が流れているのです。そもそも、神埼市には的と書きイクワと呼ばれる大字があります。このイクワが、生葉となりうきは、浮羽に変っているのです。

L  では、琵琶湖の北の伊吹山の麓に流れる姉川と妹川をご覧いただきましょう。この高野川が別名妹川ですが、長浜市の中心部、姉川の下流で北流し姉川と別れるのです。この高野川が別名妹川ですが、長浜市の中心部、姉川の下流で北流し姉川と別れるのです。

無題.png

無題.png左は福岡県うきは市の大字妹川ですが、右手に見える合所ダムの底には東多々良、北多々良、西多々良、同じく東妹川、北妹川、西妹川という小字もあったと聞き及んでいます。製鉄は冬場の農閑期に行いますが、南から風が来ないため、南多々良と言った地名はなかったのです。恐らく佐賀県側から、風を得やすいこの地に移動したのではないかと考えています。そして伊福地名もあるのです。こうして神埼の妹川、一旦うきは市に移ったのです。

無題.png

神埼市と言えば吉野ケ里遺跡に隣接する佐賀市の東隣の市ですがそこに姉川地区があるのです 


ひぼろぎ逍遥スポット131 全国の九州王朝論者に告ぐ! 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた! 

無題.png

伊吹山が歴史上での初見は古事記ですが、伊吹山の呼称には「膽吹山」、「伊服岐能山」、「夷服岳」、「伊布貴」、「伊福貴」、「五十葺」、「異吹」、「意布貴」、「伊夫岐」、「伊服岐山」など実に沢山あります。                  日本武尊 (ヤマトタケルノミコト) の伝説」より


まさか、ヤマトタケルが退治に出かけた伊吹山の荒ぶる神とかも背振の下の伊福の話ではないでしょうね。まだまだびっくりする話が続きますが、ここで止めます。と、このような話に展開して行くのです。

➊ 滋賀県の伊福地名が本物の日本武尊が遠征し持ち出された地名なのか? ➋ 九州で活動した日本武尊=ヤマトタケル伝承を刷り込んだテーマ・パークとして偽造された地名なのか?この場合はヤマトタケルは九州島でしか活動していない…可能性もあるのです。

無題.png➌ 九州で活動したヤマトタケルが遠征し、その後裔氏族が本願地の地名を持ち出したものか? 直ぐには謎が解けません。村興し、町興し、果ては世界遺産登録へと奉仕するインチキ学者、インチキ学芸員、インチキ郷土史家…ならいざ知らず、古代史を本気で掘り起こし、真実の列島史を追求せんとする人々の出現を期待しつつ尚も活動を続けます。

最後に華ノ本(華御本、宇田姫)というのは宇田姫神社に祀られる大神惟基を生んだ女性の名前ですが、これと濃厚な関係を思わせるのが博多の櫛田神社の花本大神の石碑です。博多の祇園祭と言えば山笠と併せ知らぬ人のない大祭です。その左裏手にひっそりと、しかし、大きな石塔(石柱)が建てられています。そして、そこには「花本大神」と大書されているのです。これに関しては、等しく判を押したかのように「松尾芭蕉」の神号であるとの話で皆さん納得されています。ネット検索をして頂ければ230本例外なくそのように解釈されているのです。少しは自分で考えて書け!その上ご丁寧にも「大神」と書かれていますね。百嶋由一郎先生だけは、「そこにはごまかしがありますね…」といったコメントを残されているのです。恐らく、全てをご理解だったのだと思います。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット