2024年03月27日

1000 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から東に向かったのではないか ➏

1000 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から東に向かったのではないか 

   “そもそも香取神社の主神は布津主と呼ばれていますね、これも大幡主の配下「主」なのです”

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太宰府地名研究会 古川 清久

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故)百嶋由一郎氏が話していた事に山幸彦は多くの地で活動されておられましたが、直接的な本拠地を言えば、“島原市に猛島神社がありますがここだと思っている”と語っていました。

今思えば、大幡主(塩土老翁)=カミムスビ神の指揮下で製塩を行い、それを有明海沿岸どころか九州全域で交易を行っていた事をご存じだったのではないかと思います。

事実、古代日向=宮崎+鹿児島一帯でも塩筒翁と猿田彦を併せ持つ祭祀が確認でき、塩筒が製塩土器である事が分かれば、それ自体も交易品だったと考えられるのです。

焚火に向かい海水を入れた土器を突き刺せば、塩が析出するため、その塩で魚介類を食べていたのです。キッコーマンの醬油差しと同様で、海浜、海辺で重宝な再利用品だったのです。

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 では、布津主=猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒ=五十猛=彦穂々出見命…は具体的には何をしていたのでしょう。

 そこで、肥後に於ける猿田彦を主神として祀る神社を調べる事からその正体を掴みたいと思います。

 これには土地勘と神社に対する最低限の知識と真実への探求と言う執念のようなものが必要になります。

 テーマを持って調査に踏み出せば、百嶋先生の時代とは異なり、ネット上には大量の情報が転がっています。問題はそれらを整理し、現地を踏み、百嶋先生が残されたデータを丹念に調べて行けば、ある程度の推定が可能になるのです。実際、先生もそう言われていました。今は感謝しかありません。

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このデータは猿田彦に関心を寄せる方が「熊本県神社誌」を洗い(熊本県外の神社もあります)、データ・ベースを作成されたものです。

 勿論、作成時期はかなり前のため、住所表記と現地が合わず、私も多少苦労しましたが、間違いはないと思います。

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そして、中国には袁浦と言う製塩地もあったのです… これについても後にご紹介いたします。

 いずれにせよ、「新ひぼろぎ逍遥」はこの時点で、通算1000本を達成しました。いずれ、年内にも

「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」も1000本をクリアします。スポット、ビアヘロ版と併せ2500本ですね。

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2024年03月24日

999 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から東に向かったのではないか ➎

999 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から東に向かったのではないか ➎

   “キッコーマンの茂木家 「キッコーマン中興の祖 二代茂木啓三郎」 から  以下も同様…

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太宰府地名研究会 古川 清久

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百嶋金神神代系譜

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2024年03月21日

998 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から東に向かったのではないか ❹

998 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から東に向かったのではないか 

   “ここから中近世のキッコーマン醤油の始まりに踏み込みましょう”

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太宰府地名研究会 古川 清久


読者の皆さんには痺れを切らしておられる方もおられると思いますので、これからキッコーマン醤油の前身から考えて見たいと思います。二階から目薬の様な話になりますが、遠くから見れば分から事もあるのです。PP43

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飯田市郎兵衛による「川中島御用溜醤油」が武田氏に献上され、後に上花輪の高梨兵左衛門が醤油製造に乗り出し、始め味噌を造っていた茂木家も醬油製造に乗り出し、高梨、茂木によるキッコーマンの原型が生まれるのです。そして幕府の御用達になるに、野田の醤油は勃興期を迎えるのです。

 全くの余談から始めますが、碓氷峠の「碓氷」は飯田市郎兵衛の一族ではなかったかと考えています。

 それは、あまり出くわさない「ウスイ」という地名は物部氏の本拠地の一つと考えている福岡県嘉麻市の碓井、飯田が香取神社の祭神の布津主を祀る嘉麻市の馬見神社の本来の祭神である事と併せ考えるとこの碓氷峠を越えて、群馬から栃木、埼玉、千葉に展開した醤油製造の川が上総に向かっている事を感じるのです。

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高梨家1家、残り7家は茂木家と言うのも時代により異なるようで1,16とも聴きます

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長崎市の茂木町は「モギ」と呼ばれ、北風の当たらない暖かい海岸の土地ですが、茂木ビワの産地として知られています。

大幡主+猿田彦の製塩集団は天草で製造された塩を塩筒と呼ばれる素焼のコップ=カップに入れ素焼の容れ交易品としていたと考えられるのです。上天草市にも香取神社が3社、熊本県氷川町にも香取神社が2社存在し、その一つはかんどり様、かんじょみ様とも呼ばれているのです。

これも後のブログでお知らせします。

それよりも凄いのは、南島原市に口之津町があり、その隣が加津佐町(上総の国の起源?)なのです。

 そして、そこには野田と言う地名までが揃っているのです。橘湾を挟んだ西には茂木町があるのです。


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ご覧の通り、かつての上海航路用の石炭の積出港であった土の津町にも野田堤があり、この海上交通路を握っていた人々も野田と言う地名には相当の思い入れがあったはずで、ここは狼煙台のあったところでもあるのです。上総を開拓した人々はこの地から出船したのではないのでしょうか?

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茂木姓は「もてぎ」「モギ」とも呼ばれます。

茂木地名は、「茂手木」「持木」「用木」…と幾つかのバリエーションがあります。

 特に注目しているのは、熊本県和水町(旧菊水町)の江田(埼玉の稲荷山古墳との対応を云々される江田船山古墳)との関係が考えられている大字江田に隣接して用木(モテギ)が有る事です。

 それは、茂手木という言葉は、戦国期の荒杭、荒茂木、逆茂木を意味しており、砦防衛のための先端をとがらせた逆茂木だからです。もし、これを姓名とした人が居たとすると、資材を調達し、削り出しとか曲げとか民生品の加工に向かえば、樽、桶、柄杓、樋になるはずで、醤油の大樽に行き着くはずで、味噌製造、醤油製造へと進んでも決しておかしくはないだろと考えたのでした。

 特に、高梨氏は平家物語にも登場する北信濃の名族で、木曽義仲を描く7巻にも高梨が源氏方の武者として登場するなど思い当たることがあるのです。

 「平家物語」はネットでも朗読が聴けますので、流しっぱなしでブログを書いていると、高梨氏が登場し喜んでしまうこの頃です。

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後にキッコーマンを造る事になる高梨、茂木などの名族は決して滅びることなく生き延び、現代から未来へと繋がって行く事でしょう。もう少し調べてみましょう。

PP57まで

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