768 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…A
20190701
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
最近神社トレッキングに加わって頂いた方に少し踏み込んだ内容で以下の小稿をお送りしたところ、“とても受け入れられない内容”とのお言葉を頂きました。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
762 | 出雲(旧朝倉郡)の国譲りの背景を考える |
このお伽話に近い仮説に対するものとしては、まずは順当な反応と言えるでしょう。逆にこれだけで同意されるとしたら安直との誹りは免れず、警戒しガードを固められるのは当然だろうと思うものです。
事実、この仮説を提出するに到るまで多くの事跡を確認して来た私達としても、本当にこれで良いのだろうかと半信半疑のまま古代の深層への探索を続け尚も進めているのです。
頼りとしている道標は、ただ故)百嶋由一郎氏が語った“皆さん出雲を出雲の国と思われている”“大国主命を出雲の人だと思われている”“大幡主の領域は全て出雲で方々にあった”…という示唆であり、それだけを頼りに裏どりを続けてきたのですが、何故か一つ一つ百嶋先生が言われていた話が鮮明になって行く事から私達が如何に通説に騙されてきたかが分かって来てもいるのです。
一方、出雲神話に対してあまりにも過大な幻想と言うかロマンと言うか過剰な感情移入をされる傾向が顕著で、あやふやな近畿大和朝廷宣伝が行われれば行われるほど、その反作用によって出雲への幻想は増大するようにさえ見えるのです。ただ、その根拠はと言えば、「古事記」と「出雲国風土記」以外にはなく、出雲に幻想を抱く人々としても藤原が書かせたものを真に受けているだけの事でしかないのです。
ここでは、これまで裏取りをしてきた出雲〜大国主命の九州での活動の痕跡などをお知らせし、出雲神話を再考して頂きたいと思うものです。
ただ、多岐に亘るため箇条書き程度に留め、詳細については各々のブログをお読み頂くことにさせて貰います。
前編では「大国主の国譲り」の現場は旧朝倉郡(甘木、朝倉、杷木)だったのではないか…との立場から危うい論証を試みましたが、今回はどなたもご存じのスサノウのヤマタノオロチ退治の現場から再び危うい論証を試みてみたいと思うものです。 当然にもヤマタノオロチ退治の現場は現出雲とされています。
概要[編集]
八岐大蛇は『日本書紀』での表記。『古事記』では八俣遠呂智と表記している。「高志之八俣遠呂智、年毎に来たり(古事記)」がみえ、古代日本の地方である高志(こし)から来たとされる。「ヤマタノオロチ」という名称の意味は諸説ある。本来は山神または水神であり、八岐大蛇を祀る民間信仰もある。なお本居宣長は『古事記伝』にて、八俣遠呂智は「ノ」を添えず「ヤマタオロチ」と訓むべきだとしている。
古事記[編集]
石見神楽演目:大蛇(おろち)高天原を追放された須佐之男命(スサノオノミコト)は、出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(現・奥出雲町鳥上)に降り立った。箸が流れてきた川を上ると、美しい娘を間に老夫婦が泣いていた。その夫婦は大山津見神の子の足名椎命と手名椎命であり、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)といった。
夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志から八俣遠呂智という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまう。今年も八俣遠呂智の来る時期が近付いたため、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いていた。
ウィキペディア(20190712 07:11) による
まず、「古事記」には「肥河」と書かれています。
普通に肥前肥後の河とすれば「肥河」とは菊池川であってもおかしくはないのです。
更に言えば、仮に斐伊(ヒイ)川だけであれば、熊本県氷川町の氷川でも、福岡市南区の樋井川だってありえるのです。
実はこのスサノオの八岐大蛇退治の現場は熊本県山鹿市だったと考えています。
当然のこととしてトンデモ説扱いは覚悟の上ですし、ご当地お国自慢説扱いはもとより、始めから嘲笑されることは覚悟の上ですが、では、現出雲を大和朝廷に遡る古代国家のごとく描かれたとしても根拠は「古事記」(上ツ巻)の記述だけで、物証と思わされ現在見せられているものも後付けで造られた言わばお寒いテーマ・パークでしかないのです。
ここで、既にインターネット上に公開している20本ほどのブログを再度ご紹介したいと思います。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
300 | 大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦” |
299 | 大宮神社と猿田彦大神 R “広島県庄原市の蘇羅比古神社にも山幸と豊玉姫が…” |
298 | 大宮神社と猿田彦大神 Q “岡山県津山市の大美禰神社も天宇受賣命を祀る古社” |
297 | 大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は 猿田の意味を知っていた” |
296 | 大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?” |
295 | 大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と 安心院の佐田神社 再掲” |
294 | 大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の 経津主も猿田彦大神なのです” |
293 | 大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“ |
292 | 大宮神社と猿田彦大神 K “全国展開された猿田彦大神“ |
291 | 大宮神社と猿田彦大神 J “古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“ |
290 | 大宮神社と猿田彦大神 I “山幸彦=猿田彦のもう一つのルーツについて” |
289 | 大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから” |
288 | 大宮神社と猿田彦大神 G “猿田彦がニギハヤヒで山幸彦であることについて” |
287 | 大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の櫛田神社の主神の 大幡主の子であった” |
286 | 大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経夫(神理教教団)と菊鹿町「吾平」の ウガヤフキアエズ陵” |
285 | 大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経夫(神理教教団)と猿田彦大神” |
284 | 大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は 熊本県山鹿市で産まれた! ” |
283 | 大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” |
282 | 大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” |
281 | 大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か? |
特に、まずは“櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! ”から読んでいただきたいのですが、櫛稲田姫は山鹿市内の某神社周辺で生まれている痕跡があるのです。
大宮神社は熊本県山鹿市山鹿に鎮座する神社(旧社格は県社)です。

山鹿灯篭まつり
山鹿灯篭祭りで知られ景行天皇を主祭神とし阿蘇十二神を併せ祀る旧県社ですが、阿蘇の神は鎌倉から南北朝争乱期以降持ち込まれたものでしかないはずですし、恐らく景行天皇は明治の県社昇格を当て込んで(金が貰える)景行伝承があることから景行にしたほうが得だとばかりに祀り上げられたものと考えられるのです。
何故そう言えるかですが、山鹿は本来スサノウ祭祀であり祇園祭の町なのです。
境内に入れば直ぐに分かることですが右手に立派な祇園神社があります。
そして、隠されてはいるもののそのスサノウを婿として受け入れた足名槌(金山彦)と手名槌(埴安姫)こそがこの大宮神社の本来の祭神なのです。このことは百嶋神社考古学の観点と境内摂社の配置とを併せ考えれば自ずと答えが出てくるのです。その祭祀がかろうじて確認できるのは幸いでした。
詳しくは281〜284を読んでいただくとしても、この神社は熊本県でも最も重要な神社であることは明らかで、同市の千田聖母宮と併せ良くもこれだけの痕跡が残ったものだと改めて感心もしています。
百嶋神社考古学をある程度浚ってこられた方ならばお分かりになっていると思いますが、櫛稲田姫とはイスラエル系の金山彦(秦の始皇帝=贏政と姻戚関係を結んだ…だからこそ市杵島姫も本来は瀛ツ島姫と書く)と白族=天御中主系で大幡主の妹である埴安姫との間に産まれているのです。
金山彦は製鉄神であり当然にも鋳型を必要としますが、その鋳型を造っていたのが手名槌(たたら製陶でもたたき技法がありますが手ノ槌を使いますね…そしてその精密な粒子の細かい陶土を造るのが足名槌=一例をあげれば日田市の小鹿田焼の唐臼)、まさしくアシナヅチ、テナヅチとは製鉄神の夫婦神だったのです。
「古事記」では肥河から箸が流れてきた事に気づいたスサノウが櫛稲田姫を囲んで悲しんでいたアシナヅチ、テナヅチ親子と遭遇する有名な話がありますが、私たちは、故)百嶋由一郎氏の言に沿ってこの当時彼らがいた場所は菊池川沿いの山鹿市だったと考えています。
菊池川には阿蘇山の爆発に伴い噴出した酸化鉄が蛇行し緩やかとなった川底にうずたかく堆積(50センチ近くも)しているのです。
金山彦は中国にはほとんど存在しない火山から流れ出す河(古代湖茂賀浦は菊池川でもあった)に目をつけ、燃料と砂鉄が豊富なこの一帯で鉄を造っていたと想像しています。
対して現出雲では風化花崗岩の隙間に含まれている砂鉄を採取するために山肌を破壊するカンナ流しを行い僅かな鉄を回収したたら製鉄を行ったのです。
製鉄の民は条件に恵まれた阿蘇周辺から燃料と冬場の北風を求め農耕民と衝突しない僻地の山陰の山中に移動していったものと考えています(中国地方への三宝荒神の展開)。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
熊本市の南(熊本県上益城郡嘉島町上六嘉)にも足手荒神社(甲斐神社)があります。
これも荒神さんですから金山彦であることは明らかですが、同時にアシナヅチが金山彦であることを裏付けてもいます。
足手荒神 カーナビ検索 熊本県上益城郡嘉島町上六嘉2242
まず、山鹿市の大社である大宮神社の主神は金山彦であっただろうと考えています。
そして、そこにはスサノウ系ともいわれる堂々たる祗園神社が摂社として祀られています。
美人の産地でもある山鹿の人々とは、決して外来の(山鹿ではないという意味で)景行天皇や阿蘇神社を祀っていたのではなく、古来、イスラエル系の金山彦を祀り祇園祭を行っていた人々だったのです。
283 | 大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” |
282 | 大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” |
当然にも大宮神社には今も金山彦が祀られていたことを感じさせる痕跡を見出せますが、それについては、以下をお読みいただくとして、ここでは神世のスーパー・スターである櫛稲田姫のご両親祀る神社があることをご紹介しましょう。
これはご迷惑が掛かるといけませんので現在でも社名と住所は公開していませんが、大宮神社から東に3キロほどの場所に貴重この上ない重要な神社が現存しています。

円天角地に十字剣こそ金山彦〜櫛稲田姫〜鴨玉依姫へと継承された神紋 ⇒別王 応神に奪われる…

面白いことに、ここには稲田小学校があります。
この学校名は明治の旧稲田村以来の校名が継承されているのですが、櫛稲田姫(古事記)とか奇稲田姫(日本書紀)などと呼ばれた金山彦の娘でありスサノウのお妃は稲田村に住んでいたから櫛稲田姫と呼ばれていた事までが見えてくるのです。
旧稲田村 (熊本県) 稲田村立稲田小学校
稲田村(いなだむら)は、熊本県の北部、鹿本郡にかつてあった村である。
- 1889年4月1日 - 町村制が施行。山鹿郡庄村、石淵村、高橋村、下高橋村、津袋村、小島村が合併して発足。
- 1896年 - 山鹿郡と山本郡が合併して鹿本郡となる。
- 1955年4月1日 - 来民町、中富村と合併し鹿本町となる。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20190715 14:16 による

右の鴨玉依姫の画像は福岡市に近い某神社に残されているものですが、金山彦の後衛が十字剣を描かれていることがお分かりいただけるでしょう。詳しくは以下をお読みください。
284 | 大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は 熊本県山鹿市で産まれた! ” |
さらに面白いことに、この旧稲田村の上流には吾平阿蘇神社、吾平山相良観音寺、吾平山上陵は鸕草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の墓と伝えられるものですが不思議な祭祀が存在しています。

吾平阿蘇神社 ウガヤフキアエズ陵(参考地)
この地区には内田相良(人吉の相良氏の親戚筋の集落)があり、安産祈願の相良観音…があります。
当然にもアイラと呼ばれていた可能性があるのですが、金山彦夫婦がいた土地にさらにアイラがあるとすれば、金山彦とオチノ姫(大山祗の姉)との間に産まれたアイラツ姫がいた可能性も考えられるのです。
アイラツ姫は本物の神武天皇の本物のお妃になった女神様ですが、金山彦がこの一帯に居たとすれば、神代の有名な女神のお二人がおられた場所であることまでが想像ができるのです。
蛇足ながらアイラールはトルコ語で月を意味し、大山祗を月読命ともしますが、吾平津姫とは月子でもあったのです。

神代系譜 足尼A
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