2024年05月30日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 331 768 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…A 

新ひぼろぎ逍遥 スポット 331

768 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…A 

20190701

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 最近神社トレッキングに加わって頂いた方に少し踏み込んだ内容で以下の小稿をお送りしたところ、“とても受け入れられない内容”とのお言葉を頂きました。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

762

出雲(旧朝倉郡)の国譲りの背景を考える


 このお伽話に近い仮説に対するものとしては、まずは順当な反応と言えるでしょう。逆にこれだけで同意されるとしたら安直との誹りは免れず、警戒しガードを固められるのは当然だろうと思うものです。

事実、この仮説を提出するに到るまで多くの事跡を確認して来た私達としても、本当にこれで良いのだろうかと半信半疑のまま古代の深層への探索を続け尚も進めているのです。

 頼りとしている道標は、ただ故)百嶋由一郎氏が語った“皆さん出雲を出雲の国と思われている”“大国主命を出雲の人だと思われている”“大幡主の領域は全て出雲で方々にあった”…という示唆であり、それだけを頼りに裏どりを続けてきたのですが、何故か一つ一つ百嶋先生が言われていた話が鮮明になって行く事から私達が如何に通説に騙されてきたかが分かって来てもいるのです。

 一方、出雲神話に対してあまりにも過大な幻想と言うかロマンと言うか過剰な感情移入をされる傾向が顕著で、あやふやな近畿大和朝廷宣伝が行われれば行われるほど、その反作用によって出雲への幻想は増大するようにさえ見えるのです。ただ、その根拠はと言えば、「古事記」と「出雲国風土記」以外にはなく、出雲に幻想を抱く人々としても藤原が書かせたものを真に受けているだけの事でしかないのです。

 ここでは、これまで裏取りをしてきた出雲〜大国主命の九州での活動の痕跡などをお知らせし、出雲神話を再考して頂きたいと思うものです。

ただ、多岐に亘るため箇条書き程度に留め、詳細については各々のブログをお読み頂くことにさせて貰います。

 前編では「大国主の国譲り」の現場は旧朝倉郡(甘木、朝倉、杷木)だったのではないか…との立場から危うい論証を試みましたが、今回はどなたもご存じのスサノウのヤマタノオロチ退治の現場から再び危うい論証を試みてみたいと思うものです。 当然にもヤマタノオロチ退治の現場は現出雲とされています。


概要[編集]

八岐大蛇は『日本書紀』での表記。『古事記』では八俣遠呂智と表記している。「高志之八俣遠呂智、年毎に来たり(古事記)」がみえ、古代日本の地方である高志(こし)から来たとされる。「ヤマタノオロチ」という名称の意味は諸説ある。本来は山神または水神であり、八岐大蛇を祀る民間信仰もある。なお本居宣長は『古事記伝』にて、八俣遠呂智は「ノ」を添えず「ヤマタオロチ」と訓むべきだとしている。

古事記[編集]

石見神楽演目:大蛇(おろち)高天原を追放された須佐之男命(スサノオノミコト)は、出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(現・奥出雲町鳥上)に降り立った。箸が流れてきた川を上ると、美しい娘を間に老夫婦が泣いていた。その夫婦は大山津見神の子の足名椎命と手名椎命であり、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)といった。

夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志から八俣遠呂智という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまう。今年も八俣遠呂智の来る時期が近付いたため、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いていた。

ウィキペディア(20190712 0711) による


 まず、「古事記」には「肥河」と書かれています。

普通に肥前肥後の河とすれば「肥河」とは菊池川であってもおかしくはないのです。

 更に言えば、仮に斐伊(ヒイ)川だけであれば、熊本県氷川町の氷川でも、福岡市南区の樋井川だってありえるのです。

 実はこのスサノオの八岐大蛇退治の現場は熊本県山鹿市だったと考えています。

 当然のこととしてトンデモ説扱いは覚悟の上ですし、ご当地お国自慢説扱いはもとより、始めから嘲笑されることは覚悟の上ですが、では、現出雲を大和朝廷に遡る古代国家のごとく描かれたとしても根拠は「古事記」(上ツ巻)の記述だけで、物証と思わされ現在見せられているものも後付けで造られた言わばお寒いテーマ・パークでしかないのです。

 ここで、既にインターネット上に公開している20本ほどのブログを再度ご紹介したいと思います。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

300

大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”

299

大宮神社と猿田彦大神 R “広島県庄原市の蘇羅比古神社にも山幸と豊玉姫が…”

298

大宮神社と猿田彦大神 Q “岡山県津山市の大美禰神社も天宇受賣命を祀る古社”

297

大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は

猿田の意味を知っていた”

296

大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?”

295

大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と

安心院の佐田神社 再掲”

294

大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の

経津主も猿田彦大神なのです”

293

大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“

292

大宮神社と猿田彦大神 K “全国展開された猿田彦大神“

291

大宮神社と猿田彦大神 J “古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“

290

大宮神社と猿田彦大神 I “山幸彦=猿田彦のもう一つのルーツについて”

289

大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから”

288

大宮神社と猿田彦大神 G “猿田彦がニギハヤヒで山幸彦であることについて”

287

大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の櫛田神社の主神の

大幡主の子であった”

286

大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経夫(神理教教団)と菊鹿町「吾平」の

ウガヤフキアエズ陵”

285

大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経夫(神理教教団)と猿田彦大神”

284

大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は

熊本県山鹿市で産まれた! ”

283

大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 

282

大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 

281

大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?


 特に、まずは“櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! ”から読んでいただきたいのですが、櫛稲田姫は山鹿市内の某神社周辺で生まれている痕跡があるのです。

 大宮神社は熊本県山鹿市山鹿に鎮座する神社(旧社格は県社)です。

無題.png

山鹿灯篭まつり


山鹿灯篭祭りで知られ景行天皇を主祭神とし阿蘇十二神を併せ祀る旧県社ですが、阿蘇の神は鎌倉から南北朝争乱期以降持ち込まれたものでしかないはずですし、恐らく景行天皇は明治の県社昇格を当て込んで(金が貰える)景行伝承があることから景行にしたほうが得だとばかりに祀り上げられたものと考えられるのです。

何故そう言えるかですが、山鹿は本来スサノウ祭祀であり祇園祭の町なのです。

境内に入れば直ぐに分かることですが右手に立派な祇園神社があります。

そして、隠されてはいるもののそのスサノウを婿として受け入れた足名槌(金山彦)と手名槌(埴安姫)こそがこの大宮神社の本来の祭神なのです。このことは百嶋神社考古学の観点と境内摂社の配置とを併せ考えれば自ずと答えが出てくるのです。その祭祀がかろうじて確認できるのは幸いでした。

詳しくは281284を読んでいただくとしても、この神社は熊本県でも最も重要な神社であることは明らかで、同市の千田聖母宮と併せ良くもこれだけの痕跡が残ったものだと改めて感心もしています。

無題.png 百嶋神社考古学をある程度浚ってこられた方ならばお分かりになっていると思いますが、櫛稲田姫とはイスラエル系の金山彦(秦の始皇帝=贏政と姻戚関係を結んだ…だからこそ市杵島姫も本来は瀛ツ島姫と書く)と白族=天御中主系で大幡主の妹である埴安姫との間に産まれているのです。

 金山彦は製鉄神であり当然にも鋳型を必要としますが、その鋳型を造っていたのが手名槌(たたら製陶でもたたき技法がありますが手ノ槌を使いますね…そしてその精密な粒子の細かい陶土を造るのが足名槌=一例をあげれば日田市の小鹿田焼の唐臼)、まさしくアシナヅチ、テナヅチとは製鉄神の夫婦神だったのです。

 「古事記」では肥河から箸が流れてきた事に気づいたスサノウが櫛稲田姫を囲んで悲しんでいたアシナヅチ、テナヅチ親子と遭遇する有名な話がありますが、私たちは、故)百嶋由一郎氏の言に沿ってこの当時彼らがいた場所は菊池川沿いの山鹿市だったと考えています。

 菊池川には阿蘇山の爆発に伴い噴出した酸化鉄が蛇行し緩やかとなった川底にうずたかく堆積(50センチ近くも)しているのです。

 金山彦は中国にはほとんど存在しない火山から流れ出す河(古代湖茂賀浦は菊池川でもあった)に目をつけ、燃料と砂鉄が豊富なこの一帯で鉄を造っていたと想像しています。

 対して現出雲では風化花崗岩の隙間に含まれている砂鉄を採取するために山肌を破壊するカンナ流しを行い僅かな鉄を回収したたら製鉄を行ったのです。

 製鉄の民は条件に恵まれた阿蘇周辺から燃料と冬場の北風を求め農耕民と衝突しない僻地の山陰の山中に移動していったものと考えています(中国地方への三宝荒神の展開)。

無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 無題.png熊本市の南(熊本県上益城郡嘉島町上六嘉にも足手荒神社(甲斐神社があります。

これも荒神さんですから金山彦であることは明らかですが、同時にアシナヅチが金山彦であることを裏付けてもいます。


足手荒神 カーナビ検索 熊本県上益城郡嘉島町上六嘉2242


 まず、山鹿市の大社である大宮神社の主神は金山彦であっただろうと考えています。

そして、そこにはスサノウ系ともいわれる堂々たる祗園神社が摂社として祀られています。

美人の産地でもある山鹿の人々とは、決して外来の(山鹿ではないという意味で)景行天皇や阿蘇神社を祀っていたのではなく、古来、イスラエル系の金山彦を祀り祇園祭を行っていた人々だったのです。


283

大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 

282

大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 


当然にも大宮神社には今も金山彦が祀られていたことを感じさせる痕跡を見出せますが、それについては、以下をお読みいただくとして、ここでは神世のスーパー・スターである櫛稲田姫のご両親祀る神社があることをご紹介しましょう。

 これはご迷惑が掛かるといけませんので現在でも社名と住所は公開していませんが、大宮神社から東に3キロほどの場所に貴重この上ない重要な神社が現存しています。

無題.png

円天角地に十字剣こそ金山彦〜櫛稲田姫〜鴨玉依姫へと継承された神紋 ⇒別王 応神に奪われる…

無題.png

 面白いことに、ここには稲田小学校があります。

 この学校名は明治の旧稲田村以来の校名が継承されているのですが、櫛稲田姫(古事記)とか奇稲田姫(日本書紀)などと呼ばれた金山彦の娘でありスサノウのお妃は稲田村に住んでいたから櫛稲田姫と呼ばれていた事までが見えてくるのです。


旧稲田村 (熊本県) 稲田村立稲田小学校


稲田村(いなだむら)は、熊本県の北部、鹿本郡にかつてあったである。


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』20190715 1416 による

無題.png

右の鴨玉依姫の画像は福岡市に近い某神社に残されているものですが、金山彦の後衛が十字剣を描かれていることがお分かりいただけるでしょう。詳しくは以下をお読みください。


284

大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は

熊本県山鹿市で産まれた! ”


 さらに面白いことに、この旧稲田村の上流には吾平阿蘇神社、吾平山相良観音寺、吾平山上陵は鸕草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の墓と伝えられるものですが不思議な祭祀が存在しています。

無題.png

吾平阿蘇神社            ウガヤフキアエズ陵(参考地)


 この地区には内田相良(人吉の相良氏の親戚筋の集落)があり、安産祈願の相良観音…があります。

 当然にもアイラと呼ばれていた可能性があるのですが、金山彦夫婦がいた土地にさらにアイラがあるとすれば、金山彦とオチノ姫(大山祗の姉)との間に産まれたアイラツ姫がいた可能性も考えられるのです

 アイラツ姫は本物の神武天皇の本物のお妃になった女神様ですが、金山彦がこの一帯に居たとすれば、神代の有名な女神のお二人がおられた場所であることまでが想像ができるのです。

 蛇足ながらアイラールはトルコ語で月を意味し、大山祗を月読命ともしますが、吾平津姫とは月子でもあったのです。

無題.png

神代系譜 足尼A


百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで
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2024年05月27日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 330 767 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…@ 

新ひぼろぎ逍遥 スポット 330

767 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…@ 

20190701

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 最近神社トレッキングに加わって頂いた方に少し踏み込んだ内容で以下の小稿をお送りしたところ、“とても受け入れられない内容”とのお言葉を頂きました。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

762

出雲(旧朝倉郡)の国譲りの背景を考える


 このお伽話に近い仮説に対するものとしては、まずは順当な反応と言えるでしょう。逆にこれだけで同意されるとしたら安直との誹りは免れず、警戒しガードを固められるのは当然だろうと思うものです。

事実、この仮説を提出するに到るまで多くの事跡を確認して来た私達としても、本当にこれで良いのだろうかと半信半疑のまま古代の深層への探索を続け尚も進めているのです。

 頼りとしている道標は、ただ故)百嶋由一郎氏が語った“皆さん出雲を出雲の国と思われている”“大国主命を出雲の人だと思われている”“大幡主の領域は全て出雲で方々にあった”…という示唆であり、それだけを頼りに裏どりを続けてきたのですが、何故か一つ一つ百嶋先生が言われていた話が鮮明になって行く事から私達が如何に通説に騙されてきたかが分かって来てもいるのです。

 一方、出雲神話に対してあまりにも過大な幻想と言うかロマンと言うか過剰な感情移入をされる傾向が顕著で、あやふやな近畿大和朝廷宣伝が行われれば行われるほど、その反作用によって出雲への幻想は増大するようにさえ見えるのです。ただ、その根拠はと言えば、「古事記」と「出雲国風土記」以外にはなく、出雲に幻想を抱く人々としても藤原が書かせたものを真に受けているだけの事でしかないのです。

 ここでは、これまで裏取りをしてきた出雲〜大国主命の九州での活動の痕跡などをお知らせし、出雲神話を再考して頂きたいと思うものです。ただ、多岐に亘るため箇条書き程度に留め、詳細については各々のブログをお読み頂くことにさせて貰います。


無題.png@  九州には出雲系神社が異常に多い(事代主)

まず、事代主=恵比須=古々代ヘブライ系(実は大国主の長男でも何でもない)が大量に分布しているのは北部九州です。この事は、皆さんの身近にあるので直ぐに理解できるでしょう。目立つのは久留米〜日田への街道筋、福岡から北九州(1000基はあるでしょう)、佐賀市などの周辺。


A  九州には出雲系神社が異常に多い(建御名方)

“建御名方は球磨川以南を基盤にしていました…“これは故)百嶋由一郎氏が語った事ですが、これについては鹿児島県にかなりの数で分布している南方神社の分布で説明できるでしょう。諏訪は一部。

無題.png

鹿児島県の南方神社(上)宮崎県の南方神社(下)

無題.png

無題.pngその上に、北部九州にはお諏訪さんと呼ばれる諏訪神社(建御名方は諏訪に閉じ込められたとされてますね)が大量に分布しているのです。仮に追放されたからだとしても、この分布は出雲などは凌駕しているはずです。実に九州はお諏訪さんが非常に多いのです。

多過ぎますので地図は省略しますが、直ぐ頭に浮かぶのは長崎供日(くんち)と諏訪大社ですね。


@  では肝心の大国主命を祀る神社ですが、隠されているとしてもかなり大きな神社が数社拾えます。

最も象徴的なのが福岡県筑前町の大己貴神社です。しかし、福岡県ばかりではなく何故か鹿児島県の吹上浜(日置市吹上町)にも堂々たる大汝牟遅神社があるのです。

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筑前町(旧夜須町) 大己貴神社  カーナビ検索福岡県朝倉郡筑前町弥永6973(上左)

薩摩の吹上浜    大汝牟遅神社 カーナ検索 鹿児島県日置市吹上町中原2263(上右)


ひぼろぎ逍遥

スポット060 薩摩の吹上浜に立派なオオナムチ神社がある事をご存じですか?を参考にして下さい。

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C実は熊本市にもオオナムチ神社があります。現在は寂れていますが、非常に大きな境内地を持つ神社があるのです。詳細は以下を。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

448

熊本市に大国主を主神として祀る神社がある “川東大巳貴神社”



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川東神社 カーナビ検索 熊本市北区和泉町川東(現地は非常に分かり難いので在住者にお尋ねを)


D  ここにあげた外にも多くの痕跡はあるのですが、全ては紹介できないのでこれぐらいにして、特に知っ

て頂きたい神社が宮崎県都農町にあります。言うまでもなく日向一の宮都濃神社です。

 あまり知られてはいないのですが、古代日向とは鹿児島県+宮崎県であり、その一の宮は霧島神宮や宮崎神宮などではさらさらなくこの都濃神社なのです。

 しかも、その主祭神が何故か大国主命なのです。出雲の神様の代表である大国主命が九州出身であるという仮説を無視されるのは当然ですが、では、何故日向の片田舎の大社に祀られているかをご説明頂きたいと思ってやみません。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

176

天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 A “都農神社をご存知ですか?”


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都農神社 カーナビ検索宮崎県児湯郡都農町大字川北13294  0983-25-3256


御祭神 おおなむちのみこと 大 己 貴 命( 別名 : 大国主命 )

無題.png

E無題.png  若き大国主命は福岡県春日市周辺にいた

では、大国主はどこにおられたのでしょうか?これについては、既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 024 「大国主は九州で生まれた“オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社”」で書いていますのでお読み頂きたいと思います。


ひぼろぎ逍遥

24

大国主は九州で生まれた “オオナビコ(大国主命=オオナムチの

幼名)を祀る春日市の伯玄社”


伯玄社 カーナビ検索福岡県春日市伯玄町2丁目24 春日市商工会敷地内  092-581-1407


 無題.png面白いのは、この直ぐ近くに有名な須久岡本遺跡があることです。

故)百嶋先生は“少彦名命をスクナヒコナと読むから分からない、スクの彦の命と読めば良く分かる”と言われていました。「そこなオナゴ名は何と申す…」のそこなの「な」はそこのオナゴという時の所有の意味を持たせる所有の格助詞のノ=ナであることは明らかで、須久に住んでいる彦であって、若き大巳彦=大国主命と少彦名命とが幼馴染だった事が目に浮かんでくるのです。


須玖岡本遺跡は、福岡県春日市岡本にある遺跡群。 福岡平野に突き出している春日丘陵上の北側半分に位置する、周辺の南北2キロメートル、東西 1キロメートルの範囲の弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群を統括して須玖岡本遺跡と呼ぶ。

無題.png

F  これに加え、福岡県筑前町弥永(春日市須久岡本の付近にも「弥永」地名があるのですが…これも不思議な対応です)の日隅宮=田神社(天神社)の論証が加わるのですから、大国主命の国譲りの現場とは甘木〜朝倉〜杷木の一帯であった可能性を考えざるを得ないのです。

 これについては、高木大神が持ちかけた国譲りの代替えの社を造ると約束した日隅(ヒスミ)宮の存在が極めて貴重です(現地はウヅの宮と呼んでいます。この点でも逆に信憑性を感じます)。

古代の国譲りの現場と考えられる甘木〜朝倉〜杷木の一帯が眼前に臨める筑前町東端の小丘にこの神社があったとすると、現存する大巳貴神社はこの日隈宮の再興された姿ではないかと考えてしまうのです。

詳細については以下をお読み頂きたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

スポット050 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

スポット 041 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 


無題.pngG  一方、宗像大社の本当の祭神は大国主命との説も飛び交っていますが、宗像の隣町遠賀川左岸の岡垣町手野にも大国主神社が鎮座しています。


H  一方、鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)の起源は朝倉郡に集中する田神社であり、博多の櫛田神社の大幡主がその正体であることをお伝えしています。

「田神社」として幟を揚げた田神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社(杷木町を加えれば60社)近くが拾えたのでした(「福岡県神社誌」)。 

今後ともこの田神社を軸に調査を続けますが、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われていました。

今回の朝倉郡内の40社近い無格社の田神社を発見した事によって、その実体がある程度掴めた事になるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。

朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。

このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。

ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。

しかし、フィールドはさらに凄いことを教えてくれます。

今回、中島 茂氏の案内により、筑前町(旧夜須町)の大己貴神社に近い弥永にある田神社(天神社)を発見した事は実に画期的な事であり、同社が、大国主命が贈られた日隅宮の痕跡である可能性はますます高くなってきたようです。

現在、日隅宮は福岡県筑前町(旧夜須町)の弥永に田神社(天神社)とも呼ばれ鎮座しています。

この境内に日隅宮も置かれ、実際には日隅(ウズ)宮とも呼ばれているのですから、甘木、朝倉、杷木の一帯を明け渡した大国主系の人々が、明け渡した故地を偲ぶかのように東を向いて鎮座しているのです。

「奈良」という地名もご確認ください。

この地名についても故)百嶋由一郎氏は、奈良に持ち出されていると言われていました。

奈良と言う古代に於いても重要な地名がこの地から持ち出されているのです。

思えばこの山手の夜須高原一帯(夜須川も流れ降る=天の安川ですね)には大山祗神社が数多く拾えますし、平野部は田神社(タノカンサー)が朝倉郡内に60数社拾えますし、一社を除き無格社に落とされているのです(「福岡県神社誌」)。

この地こそが高木大神から明け渡す事を要求された出雲の地なのです。

「古事記」や「出雲神話」を持ち上げ、通説にどれだけ通じているかをひけらかすような権威主義的な方から、通説から離脱したものの学会通説に尾を振るようなさもしい人々まで出てくる始末なのです。

百嶋神社考古学の者の目から見れば、殆ど漫画の世界であり、現場を知らず、見ようともせず「記」「紀」を丸呑みする方々は今もなお後を絶ちません。情けない限りです。

勿論、島根の現出雲も古代から博多を拠点とした大幡主系の倭人が入っている土地でした。

対馬海流に乗り数日を持って到達する出雲は古くより九州の人々によって開発された国だったのです。

このため、国を譲った結果移動した先が現出雲だったのであり、国譲りの現場を九州とすると近畿大和朝廷としては九州が本拠地だった事が隠せなかったからだと思うのです。

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筑前町弥永の田神社現縁起(上)と再掲載同社旧縁起(下)

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神代系譜 足尼A


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2024年05月24日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 329 766 草部吉見から大国主命傘下に移行した市杵島姫

新ひぼろぎ逍遥 スポット 329

766 草部吉見から大国主命傘下に移行した市杵島姫

20190627

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


これまで市杵島姫は草部吉見のお妃である事を何度も書いてきましたが、同時に大国主命(従って宗像大社の本当の祭神も大国主命なのです)のお妃であることも書いてきました。

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数字は2000年を基準とした生年であり、大山咋は1838歳、下照姫は1823歳ですので大国主が後になる

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政略結婚としても、では、何故このような変化が起こったのでしょうか?

 その背景を探るとしても、暗中模索になるのですが、一つだけ思いつくものがあります。

 それは、糸島半島の白木神社や登志神社の祭礼などに残る「馮河黎来」(ヒョウカリーライ)という掛け声です。

 これについては何度か書いていますので繰り返しませんが(関心をお持ちの方は以下をお読み頂きたいと思います)、この問題の背後には、海幸彦系(草部吉見)−高木大神 と 山幸系(ニギハヤヒ=猿田彦=ヒコホホデミ)−大山祗+大幡主〜ヤタガラス との対立関係があり、草部吉見系から大国主系へと民心が動いたのではなかったかと考えています。


ひぼろぎ逍遥

637

ヒョウカリイライ(馮河黎来)改訂版


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

ビアヘロ066 ヒョウカリイライ(馮河黎来)補足


 しかし、興ツ姫と大山咋(二人とも古代に於いては成人に近い青年ですが)を連れて…という百嶋想定は凄いと思っています。

 いずれにせよ、北部九州を巡って、高木大神(彦山+糸島半島)VS 大山祗+大幡主〜ヤタガラス、海幸彦 VS 山幸彦 の対立構造が見えてきます。

 その後は、宗像大社が大国主命が隠し、筑豊から物部氏=ニギハヤヒ系が排除され、藤原氏(草部吉見後裔)…といった情勢の変化が認められることから、この政略結婚もその影響を反映しているのではないかと考えているところです。

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