2024年06月30日

スポット333中津市耶馬溪町金吉の土砂崩落から6年経過するも「風化させるな!」だけで済ますお歴々

スポット333中津市耶馬溪町金吉の土砂崩落から6年経過するも「風化させるな!」だけで済ますお歴々

20240412

太宰府地名研究会 古川 清久


“「あっという間だった」6人が犠牲となった土砂崩れから6年 遺族などが慰霊碑に手を合わせる”といった記事がかなり出ていましたのでご紹介します。

無題.png

カーナビ検索 大分県中津市耶馬溪町金吉地区


 6年前、京丹後周辺の神社調査を終えて自宅に戻ってくる途中でしたか、非常に珍しい災害でしたので、直ちにこの現場に入りました。

 これについては、直ちにブログを書いてアップしています。ひぼろぎ逍遥スポット175    20180412

 中津市耶馬溪町金吉の土砂崩落はなぜ起きたのか! “雨も降っていないのに…?”

 という訳で、6年ぶりの追悼式が行われ各界のお歴々が参列されたという訳です。

以下、二つほどのつい最近のネット記事をご覧下さい。


NHK 大分 NEWS WEB

耶馬溪土砂崩れから6年 慰霊式で遺族らが追悼              0411日 1206


中津市耶馬溪町で6人が亡くなった大規模な土砂崩れから11日で6年です。

現場では慰霊式が行われ、遺族や市の関係者などが亡くなった人たちを悼みました。

2018年4月11日の未明、中津市耶馬溪町の金吉地区で突然、山の斜面が崩れ、住宅4棟が巻き込まれて6人が亡くなりました。

発生前に大雨や地震などはなく、専門家の調査委員会は主に地下水と地質の影響で地滑りが生じたと結論づけています。

発生から6年となる11日、現場に建てられた慰霊碑の前には中津市の前田良猛副市長や遺族など20人余りが訪れ、はじめに亡くなった人たちに黙とうがささげられました。

このあと前田副市長が「二度とこのような災害で犠牲者を出さないよう、市民と力を合わせて防災・減災対策に取り組んでい無題.pngく」と述べました。

土砂崩れで母親と弟を亡くした遺族の岩下一行さんは、「この6年は時がたつのが本当に早かった。自然災害は避けられないが風化だけはしてほしくない」と話していました。

また、当時、消防団員として救助活動に参加し同級生の友人を亡くした男性は「当時のことが目に焼き付いて、悲しい気持ちが大きい。自然災害はどこでも起こりうるので、いまは啓発活動を頻繁に行っています」と話していました。

中津市では4月11日を「防災を考える日」と定め、毎年この時期に市の幹部などを対象にした防災研修会を開いています。

もう一つネット記事から 無題.png をご覧下さい。


山崩れ6年 防災誓い新た 耶馬渓 遺族ら慰霊碑参拝                2024/04/12 05:00

スクラップ

 無題.png慰霊碑に献花する前田副市長

 中津市耶馬渓町金吉で6人の住民が犠牲になった山崩れから6年となった11日、現場の慰霊碑に市の関係者や遺族らが参拝し、追悼の祈りをささげた。 2018年4月11日未明、地震や大雨といった前兆もなく、この地区で山の斜面が幅約160メートル、長さ約220メートルにわたって崩れた。地下水などが影響したとみられるという。住宅3棟が土砂に埋まって6人が亡くなったほか、修復工事中にも事故で1人が亡くなった。市はこの日を「市の防災を考える日」と定めている。

慰霊碑には、市幹部ら12人が訪れて黙とう。奥塚正典市長の職務代理者を務める前田良猛副市長が献花し、「二度とこのような災害で犠牲となる方が増えることのないよう、防災、減災対策に取り組むことを誓う」と慰霊の言葉を述べた。母親と弟を亡くした岩下一行さん(55)は、家の跡地に農機具用倉庫を建てて農業を

継いでいる。参拝後、岩下さんは「七回忌の法要をして一つの区切りにはなったが、能登半島地震(の惨状)を見て、改めて犠牲になった弟たちの苦しみがしのばれる。自然災害は防げないが、予防が出来るんだったら、皆さんで力を出し合ってほしい」と話していた。


 さて、今でも覚えていますが、京丹後市で車中泊を続け、かなりの神社を見てそろそろ戻ろうかと思っていましたが、当時も数日来強風が吹き荒れていました。

 九州に戻る途中も強風が止みませんでしたが、帰路、大雨でもないのに耶馬渓で大規模な崖崩れが発生したというカー・ラジオの報道を聴き込みました。

 少し迷いましたが、手前100キロぐらいで耶馬渓町へとハンドルを切りました。当研究会の研修所がある日田市天瀬町と同地はかなりの距離はありますが山を挟んだ東西と言った位置関係になるのです。

 被害地の画像はご覧になっているでしょうが、34戸の家屋が土砂崩れによって押しつぶされ、6人が犠牲になっておられたのでした。

 当時も直ちにリポートを書き、ネットにアップしています。今回スポット332で再掲載しています。

 もうあの自然災害と言うよりも実際には必然性を持った事件であり、その行政に起因する事故から6年が経過してしまったかと思うと時の移ろいの恐ろしさ残酷さには心が揺さぶられます。

 現地に到着したのは、山陰を駆け抜け関門海峡を渡り、耶馬渓まで入るのですから二日を要し(基本的には金が掛かる高速は殆ど利用しませんので)、到着した時には夥しい数の報道機関と、陸上自衛隊、土木業者、消防団、行政機関などこの過疎地に無題.pngは人口の何十倍もの人員が集結されていたのです。

 当方は、同地区の人間ではありませんが、地元に住む者ではありますので、無用な見物人扱いはされなかったからか幸いにも規制ポイントを通過することができたのです。

この衝撃的な災害現場を目撃し直ちにこの事件の本質を伝えなければならないと写真を撮り始めたのでした。

 “報道機関は一杯集まっているではないか、邪魔をするな”とお考えの方もおられるかも知れませんが、既存の報道機関は、地元の末端行政から県農林部、林業者と気脈を通じています。増してや農水省の林野庁に対する無批判な友好関係の維持による連携を忘れませんので確信に迫る本質的な報道はさらさら期待することなどはできない事は容易に想像できます。

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ご覧の通り夜間でも作業を行える救出のための基地が出現していたのです


さて、引用した報道記事で最も重要な部分は以下なのです。


2018年4月11日の未明、中津市耶馬溪町の金吉地区で突然、山の斜面が崩れ、住宅4棟が巻き込まれて6人が亡くなりました。

発生前に大雨や地震などはなく、専門家の調査委員会は主に地下水と地質の影響で地滑りが生じたと結論づけています。


2018年4月11日未明、地震や大雨といった前兆もなく、この地区で山の斜面が幅約160メートル、長さ約220メートルにわたって崩れた。地下水などが影響したみられるという。 漫画ですね!


報道内容から、御用学者と林野庁か県防災課なのか農水部林業課なのか分かりませんが、彼らは決して急傾斜地に針葉樹を積極的に植えさせたと言うとんでも無い危険性と問題性を認めたくないないようです。この事に対する慎重な責任回避の意思が働いている事が容易に推察できます。

 戦後復興の中での木材不足(全国の主要大、中都市が焼夷弾によって燃やし尽くされたのですから当然です…当時も確か兼松興商が突破口を開いたフィリッピンからの木材輸入と国有林地の開放と言った問題が議論されていたのです)の緊急性から開始された拡大造林政策はもうご存じでない方が大半となっていますが、新規に人工林の開発を行っても伐期を考えれば最低でも35年〜40年を要するのですから普通に考えれば全く間に合わない上に、仮にぎりぎり1990⃣〜1995年に伐採、出荷、供給が開始されたとしても、経済情勢は一変していたのでした。ただただ林野庁の利権を拡大し維持したいとする思惑を満たす以外の目的は無いのでした。

 事実、阪神淡路大震災が起こったのが1995117日でしたが果たして拡大造林の結果が功を奏したでしょうか。この時期に木造建築による伝統的な和風住宅による再建が行われたのでしょうか。

実はこの頃から日本の住宅建築の画期が始まったと言われているのです。それは、ミサワ、セキスイ…と言った工業化された米松(実際にはカナダ産)によるプレハブ建築が激増し、伝統的な和風住宅が減り始め、所謂大工さんの仕事が消え始めたのでした。その理由は、プレハブ住宅メーカー周辺からの宣伝はあるはずですが、薄いタイル瓦を乗せ荷重を減らしたプレハブ住宅の残存率が高かったという情報が駆け巡った事が拍車を掛けたと言われています。

まだ、豪雪地帯や寒冷地では伝統的な石州瓦(表面にガラス質を造り水の凍結により瓦の耐久性を上げる)に拘る重厚な和風建築が日本海側を中心に脊梁山脈の西側山岳地帯に多数残っているのです。

ただ、これも付随的なエピソードに過ぎず、現在の大半の都市住民は、最早、鉄とコンクリートとガラスにプラスティック+僅かな国産材で造られたマンションに住んでおり、最早、都市近郊では一部の富裕層だけが贅沢な伝統的建築の和風住宅に住んでいるのです。

従って、低所得の下層民はマッチ箱ハウスにしか住めず、大量に増殖した杉、檜、北海道などの松と言った人工林の国内向け消費は消失しているのです。

従って、伝統的な二級建築士の信頼できる大工さんは消し去られ(この方針は2000年には当時は建設省ですが内部で決定され囁かれていたのです)、小●竹●改革(2002年)による所得の半減によって結局は小型のマッチ箱ハウスにしか住めなくなっていたのでした。

終戦まで傾斜が緩やかで川筏による搬送が可能な一部の杣山(藩政以来の城普請、寺社建築向けの伝統的建築がこの時期まで続いていたのでした)以外では生産されず、その様な地域でも9割以上は豊かな広葉樹の森が広がっていたのです。

従って水も動植物も豊かで河川にも多くの水棲昆虫から大量の淡水魚などが溢れていたのでした。これも旧建設省や農林省による道路建設に伴う排水路が併設され山の水を一気に押し流す雨樋型コンクリート速攻が土砂を下流に押し流す構造がほぼ完成してしまっているのです。

しかも、戦後期も燃料は基本的に薪や木炭で、石炭の普及と米国の石油メジャーによる石炭から石油へのエネルギー転換要請をいとも容易く受け入れたイエスマン吉田 茂(何でもイエスイエスと言い実際には交渉などできなかったと言われていた事から米国には便利で長期政権が持続するのです)の時代まで相当数の広葉樹の森は炭焼き山として残っていたのでした。

従って山林の崩落事故も今回の山体崩壊と言った(少し大げさな表現ですが)根を張り岩にしがみつく広葉樹の森は部分的な崩落はあっても、凡そ多くの犠牲を生じる崩落など存在しなかったのでした。

では、豪雨もなかったのに何故これほどの34戸もの民家を押し潰し6人もの犠牲を出す崩落はなぜ起こったのでしょうか。

京丹後から戻る途中の車中でもブルーツースでプロの林業家でその筋の方には良く知られた平野虎丸氏と原因について話をしていました。以下は敬愛する同志平野虎丸氏の最新のブログ記事です。

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植えない森で地下水を取り戻す 日本一野鳥を助けた男のブログ


2024041222:12                森林環境税はサギ林野庁はいらない


日本政府による森林環境税 6月から徴収始まる 年間一人千円


平野虎丸です。ご訪問ありがとうございます。

いよいよ日本政府による「森林環境税」の徴収が始まるそうです。

熊本日日新聞の「税のはなし」によりますと、

払う人は、国内に住所がある個人。子供や市県民税非課税の人は原則免除。

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いつから納めるのか。24年度6月ころから住民税と一緒に。税の使用目的は、地方の森林整備など。

税についての記事内容は以上ですが、森林整備というのは、林野庁が行なっている林業を目的とした植林のことですが、林業関係に使われるというもので、日本の森を守るというものではありません。植えない森も無関係です。

林業は営利目的で行われているものであり、日本の森を破壊するだけであるのに、国民みんなで助成金を出すなど納得できないものです。森林に名を借りた詐欺的な税金です。


密猟者・家庭・小鳥店・野鳥鳴き合わせ会等、30万人から600万羽放鳥させた男平野虎丸のブログ

現在、山野草販売禁止を目指して活動中

国立公園、国定公園での森林整備を禁止。沢周辺、急斜面での森林整備(林業)を控えることで、日本の生物多様性が守られ、土砂災害を90%減災できます。

国土破壊を続ける国営林業廃止を訴えています。

      「土砂災害から命だけは守れます。ご相談ください。090-2082-6618へ。」


まず、同じころ京丹後でも大風が吹き続けていました。実際に耶馬溪町の現地でも同じように大風が吹き続けていたかどうかを確認する事から始めました。

 うちの研究会メンバーには九州でもトップ・クラスの気象予報官が居られました。もうその時点では退官されていたようですが、現在は筑前、筑後の神社のエキスパートとして質の高いブログを書き続けておられます。同氏にこの話をすると開口一番「崩落前の二日ほど強い西風が吹いていましたからね…」と言われたのを覚えています。

皆さん、追悼セレモニーが大々的に行われたようですが、この風の問題には迂闊にも気付いていないのか全く考えてもいなかったのか、敢えて分かっていても意図的に語ろうとしていなかったのか…惚けた事に専門家の頭には風の影響は何も考える必要性がないかのように一言の片鱗さえも採れないのです。

御用学者や林野庁、県の林務関係者は豪雨が伴わなければ崩落しないので自らに責任は一切ないとでも考えているのでしょうか?殆ど知識も想像力も一切なく天下り先の確保しか考えていないのでしょうか。

そもそも、耶馬渓の様な景勝地を薄汚い杉を植える(指導宜しく民有林には奨励する)だけでも恥知らずとしか言いようがありませんが、多くの人命が失われるとなると、耶馬渓の様な急傾斜地しかないような場所に根を張らない針葉樹を植えさせるというでたらめな事を平然と行ってきた林野庁、県林務部の知的レベルについては語る価値も無く、一体、何のために生きてきたのかだけを問い正したいのです。

国民の為にも国土の為にも国民経済の為にも何ら寄与せず、ひたすら国土を破壊し土壌を流出させ生物の生息域を失わせ犠牲だけを齎しているだけの売国奴でしかないのです。国破れて山河無し…

そもそも、風もあまり吹かない安定した小雨平原、北半球でも冷帯=シベリアに広がる針葉樹林帯には膨大な量のエゾマツ・トドマツなどのタイガと呼ばれる巨大森林が広がっているのです。

それを気候風土の全く異なるアジア・モンスーンの地に無制限に植えさせた連中は死に値するのです。

皆さんも可能ならばネット記事を隅々まで目を通してみて下さい。確かに豪雨を伴わない風だけの人工林の崩落被害はそれほどの事例は聴きません。ただ、比較的樹齢が低い場合は幹が破裂し折れるものが続出することがあります。ただ、この場合はせっかく手を入れたものの金にならない草臥れ儲けで済みますが、これはまだ良い方なのです。樹齢が上り倒木が連続するとボウリングのピンのストライクになる訳で、現地同様の被害が発生するのです。勿論、強風と豪雨が重なると被害は一挙に拡大するのです。

平野虎丸氏と堀田宣之(医師で川の再生を問う著書を出された)と私(「有明海異変」を二十年に刊行)の海川山を繋ぐ三人で宮崎県田野町に訪れています。ここでは管理された国有林の伐期を過ぎた高樹齢の百万本(凄い規模ですね…照れ隠しからか林野庁は隠そうとしていますが)の林地が大崩壊を起こしています。ただ、この時も豪雨も伴っていますので規模は大きいものの耶馬渓の事例とは一致しません。


ひぼろぎ逍遥402 

林野庁が引き起こした巨大山林崩落現場を十年ぶりに尋ねてみた“宮崎市田野町鰐塚山”


もしも興味があれば参考に検索してお読み下さい。

風台風とか強風が連続すると根を張らない人工林は樹齢が上れば上がるほど危険になるのです。


平成288月に、台風7号、11号、9号が相次いで北海道に上陸し、台風10号が暴風域を伴ったまま本道に接近するなど、大雨による河川の氾濫や強風などに見舞われ、林道の損壊や風倒木被害など、大きな被害を受けました。

北海道水産林務部›林務局森林整備課›風倒木被害のリスクを軽減する森林づくり

19939月宮崎県は台風13号の襲来で大きな被害を受け、東郷町、南郷村では相当の風倒木. 災害が発生した。                               公益財団法人砂防学会


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どうやら豪雨災害ばかりではなく大風が吹いても崩落してくるような状況を造り出した戦後の拡大造林政策(林野行政)には新たな悩みがでてきたようです。雨が無くても天から人工林が降ってくるのです。

普通の雨を史上存在しなかったような超豪雨災害の様に宣伝し、自らの責任を天災でごまかし逃げ回ってはいるのですが、そのうち財政が破綻すれば、周囲を伐採し自ら人工林に火を着け処分せざるを得なくなる事もありうるのです(経済的にはこちらの方が搬出もせず仮置きの必要もなく遥かに効率的なのです)。末端の小役人共は調教されていますので人工林の植林を良い事と信じ込んでいますが、悪行を承知のうえでやらせている中央の林野庁官僚どもは今後も言い逃れて退職金を懐に逃げおおせる事でしょう。

凡そ林野行政など学問でも産業にも値しないのです。その証左が再植林し数世代後の悲劇の準備をしている事です。彼らは国家や国民や国土のためにも増してや国民経済のためにも働いていないのです。

念のために気象庁のアメダス・データで41011日風を確認しておきます。

耶馬渓にも観測ポイントではあるのですが、風は出ていないため日田市を取りました。平野部ですので風はそれほどではない様に見えますが、耶馬渓のような谷地では風向により風が凝集され突風なる事は言うまでもありません。役に立たないどころか危険極まりない傾斜地の人工林に火を掛けろ!

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問題は民有林ならば、造林者とその直下に住んでいた住民の関係です。自分が植えた人工林の崩落によって被害を受けるのならば自らが愚かだっただけで済みますが、他人の植えた人工林地の崩落によって家族を失った方は損害賠償を請求し、危険極まりない人工林を勧めた行政官庁に対しては訴訟を起こすべきなのです。この他人の人工林の崩落による災害が今後も続出することは間違いありません。

利権構造しか関心がない林野行政により犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈りします

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2024年06月28日

新ひぼろぎ逍遥 @ 332 大災害の6年後 スポット175の再掲載 スポット175 中津市耶馬溪町金吉の土砂崩落はなぜ起きたのか! “雨も降っていないのに…?”

新ひぼろぎ逍遥 @ 332 大災害の6年後 スポット175の再掲載

スポット175 中津市耶馬溪町金吉の土砂崩落はなぜ起きたのか! “雨も降っていないのに…?”

20180412

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回、江州伊吹山一帯から京丹後、丹後〜丹波に掛けて十(車中)泊十一日の神社、古墳調査に入り戻ってくる途上において豊前の耶馬溪で晴天下の大崩落災害の情報が飛び込んできました。

 私達の地名研究会の研修所がある大分県日田市天瀬町の隣町のようなところが耶馬溪町です。

 本来は遠回りでも宇佐経由で戻るつもりだったのですが、何故か山国川を右に入り耶馬溪町に向かう事になっていました。もしかしたらこのリポートを書いてくれと呼ばれた様な気がしないでもありません。

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金吉地区 カーナビ検索 大分県中津市耶馬溪町金吉(地番不詳)20180412午前の現地


 まだ、発生したばかりで情報が不足していますが、ネット・ニュースから幾つか拾ってみましょう。


11日午前3時50分ごろ、大分県中津市耶馬渓町金吉(かなよし)で「裏山が大規模に崩落し、家が土砂に埋まっている」と市消防本部に通報があった。県警や市などによると、山の斜面が幅約200メートルにわたって崩落。民家4棟が土砂にのまれ、3世帯の住民6人と連絡が取れなくなった。県は災害警戒本部を設置し、自衛隊に災害派遣を要請。自衛隊員や警察、消防など約600人態勢で救助活動を進めた。県警は午後1時すぎ、6人のうち会社員岩下義則さん(45)を現場から発見し、死亡を確認したと発表した。

 県警によると、義則さんの死因は圧死。残る5人の女性の安否は分かっていない。山崩れに巻き込まれた4棟のうち、1世帯4人は逃げ出すなどして無事だった。ほかにけが人や不明者の情報はないという。

 県によると、山崩れの規模は奥行き200メートル、幅200メートル、高さ約100メートル。近くを流れる金吉川に大量の土砂が達しているが、流れをせき止める状況ではないという。

 市は11日午前8時、被害拡大の恐れがあるとして、現場近くの同町金吉梶ケ原地区の8世帯19人に避難勧告を出した。住民らが近くの公民館に避難している。

 現場は、市中心部から南西約25キロにある山間部。金吉川を挟んで両側に山が迫り、川沿いに民家が点在している。県は昨年3月、土砂災害の危険があるとして、一帯を土砂災害防止法に基づく「土砂災害特別警戒区域」に指定していた。

 気象庁によると、中津市耶馬渓町では6日に4・5ミリ、7日に1・5ミリの雨が降ったが、8日以降は計測可能な0・5ミリ以上の降雨は観測されていない。

 消防庁を通じた大分県の要請を受けて11日、福岡県はパワーショベルを含む緊急消防援助隊24人を福岡市から現地に派遣した。熊本県や北九州市も救助隊を送った。

 大分県は12日から、金吉川沿いで土砂災害が発生する恐れのある危険箇所67地点について、目視による緊急点検を実施する。

2018/04/12付 西日本新聞朝刊=

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さてここから本題に入ります。

 この間、朝倉〜日田に掛けての豪雨災害について書いてきました。これもその延長上の話になります。


スポット112 朝倉〜日田が犠牲になった九州北部豪雨災害は行政が引き起こした!

スポット115 山に木がある方が安全だと思い込んでいる人に対して! 本当に豪雨が原因なのか?

スポット116 災害復旧に意味があるのか!

スポット117 ヒート・アイランドを引き起こした無能な国土交通省 “熱 禍”

スポット122 大量の土壌流出と木材流出は今後も継続する“平野虎丸ブログのご紹介を兼ねて”

スポット123 筑後川の南から北の被災地を眺める 悲しい棄民国家の現実 “ここでも「災害地名」が意味を持っていた「道目木」「梅ケ谷」”

スポット125 朝倉から日田にかけての山々の行く末について

スポット128 林野庁が引き起こした九州北部豪雨災害によってとうとうJR日田彦山線までもが廃線に!

スポット141 林野庁の照れ隠し “朝倉針葉樹林崩落の問題隠しとしての残木伐採”


 何故だろうとお考えかも知れませんが、今回の青天の霹靂ならぬ星空の土砂崩落災害もこの針葉樹の人工林が原因なのです。トップの崩落現場写真の左右をご覧ください。危険極まりない人工林が急傾斜地に乗っかっているのです。しかし、もっと傾斜が急な山頂部に近い所の広葉樹はそのまま残り、人工林を中心に全体が落ちている事は一目瞭然にお分かり頂けるのではないでしょうか?

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崩落したものが針葉樹の人工林であることは剝き出しとなったマッチ棒状の樹木からも見て取れますね


雨も降っていないのに何故こんな災害が起こったのか?と、行政は元より御用学者もマスコミもほとんど理由が分からず気が付いておられないようです。

原因は、小泉竹中改革とかいう国民所得の半減政策によって在来工法による住宅需要が消失し、鉄とコンクリートとガラスとプラスティックに僅かな外材で造られるマンションによって需要が消えてしまったことから、全く売れずに放置された杉、桧の類が、樹齢が上がり重量を増す一方で急傾斜地に放置され崩落する順番待ちになっている事なのです。

針葉樹の人工林は腐葉土を生み出さない事から全く生物を育みません。このため人工林地は栄養を失い続け下草も生えず、同時に土壌を流出させて表土を失い続けているのです。結果、土被りが少ない上に根を張らない針葉樹が重量を増しながら崩落への条件を増大させ続けているのです。

そうした中、私は災害発生の数日前には京丹後辺りにいたのですが、災害発生の前日まで強い西風が二〜三日間ほど吹きまくっていたのです。

直ぐに林業家で「森大学」のブロガーでもある平野虎丸氏に連絡を取りました。虎丸氏は開口一番、「昨日ブログに書きました」とのことでした。当方も雨でなければ風だろうと考えていましたが、予想が同方向で一致していたのでした。ひぼろぎ逍遥にもリンクを張っていますのでお読み頂きたいと思います。以下引用。

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2018041115:57                   カテゴリ九州山地の惨状防災


大分県中津耶馬渓 山崩れで4棟被害 5名不明 一人死亡

平野虎丸です。ご訪問ありがとうございます。

きょう、テレビニュースで大分県耶馬溪の土砂崩れを知り、ネットで写真を見てみましたが、案の定、成長したスギ山が崩落していました。

雨も降らないのに、なぜ?という声も聞かれます。

専門家と言われる人々は、地盤や地質、地下水のせいにしているようですが、私は、「今回は風」が原因だと思います。

大分県や熊本県では台風や強風による風倒木を経験しています。

挿し木スギは根が横に張り浅い為、大雨ばかりでなく、強風でも倒れやすくなっています。

浅い植木鉢に植えられた背丈の高い木ではよくあることです。

今回、西日本新聞の記事によれば、64歳の女性が、「竜巻のような突風で木が揺れていた。恐ろしかった」と言っています。

このような状況は今後、日本全国でどこでも起こり得ます。

原因は、

1、植林した場所が悪い。今回は30度の急傾斜地であり、土砂災害警戒区域であった。

2、根の浅い挿し木であり木が成長していた。

3、地質が悪い。

4、そこに突風が吹いた。

今後の土砂崩れ対策

1、急斜面にある人家の裏山の成長したスギは早めに伐採する。

2、今後、急斜面や沢沿いには植林しない。

3、素人が指導するお役所林業を廃止する。

土砂崩れがご心配な方は、ぜひ、私にご相談ください。

現場を見て土砂崩れ診断を行います。

電話は090-2082-6618です。

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崩落地横の左右 今後も大風程度で崩落する可能性有 この人工林が6人もの人命を奪った


冒頭の写真をご覧頂ければお分かりのとおり、崩れたのは針葉樹であり、多少とも歯止めになろうとした僅かに残された広葉樹ですが、皆伐して植林しているのですから崩れるための順番待ちになっているようなものなのです。

そもそも、このような脆い急傾斜地に杉を植えるのが間違いで、崩して下さいと主張しているようなものなのです。農水省も林野庁も県林業課から役場の林業係も森林組合も危険と分かって放置しているとしか言いようがありません(馬鹿の4乗〜5乗)。

覆われている広葉樹と表土が破壊されれば崩れてくるのは当たり前の事なのです。

そのうち、全国でこのような崩落が始まれば、危険な人工林を処理しようと言う話も出て来ることでしょう。しかし、それまでには今後とも多くの人命が失われ奪われることになるでしょう。特に耶馬渓は危険な場所なのです。

それはともかく、今度は地名から説明して見ましょう。

まず、この谷の奥にはすっぽんの里としても知られた伊福温泉があります。

確か、十年も前に地名研究会の泊まり込みトレッキングで訪れた事がありましたが、当然にもテーマは製鉄でした。

無題.png「伊福」自体が近江の「伊吹山」と同様の製鉄に絡むもので(谷川健一「白鳥伝説」)、今回崩落した地名が「金吉」地区なのです。それにここには「梶ケ原」という小字かしこ名(?)もあるのです。まだ、聴き取りもできていませんが、「金吉」はたたら製鉄で金儲けをした事を記念したものでしょうし、「梶ケ原」の「梶」は鍛冶屋の「鍛冶」の置換えであるはずなのです。

事実、福岡県うきは市には「伊福」姓の元鍛冶屋さんの一族もたくさんお住まいになっておられます。 
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さて、当会のメンバーには現役の気象予報官がおられます。

この話をすると「崩落前の二日ほど強い西風が吹いていましたからね…」と言われていました。

無題.png

どうやら豪雨災害ばかりではなく大風が吹いても崩落してくるような状況を造り出した戦後の拡大造林政策(林野行政)には新たな悩みがでてきたようです。

普通の雨を史上存在しなかったような超豪雨災害の様に宣伝し、自らの責任を天災でごまかし逃げ回ってはいるのですが、そのうち財政が破綻すれば、周囲を伐採し自ら人工林に火を着け処分せざるを得なくなる事もありうるのです(経済的にはこちらの方が搬出もせず仮置きの必要もなく遥かに効率的なのです)。末端の小役人共は調教されていますので人工林の植林を良い事と信じ込んでいますが、悪行を承知のうえでやらせている中央の林野庁官僚どもは今後も言い逃れて退職金を懐に逃げおおせる事でしょう。

凡そ林野行政など学問でも産業でもないのです。その証左が再植林し数世代後の悲劇の準備をしている事です。彼らは国家のためにも国民のためにも国土のためにも国民経済のためにも働いていないのです。

念のために気象庁のアメダス・データで41011日風を確認しておきます。

耶馬渓も観測ポイントではあるのですが、風は出ていないため日田市を取りました。平野部ですので風はそれほどではない様に見えますが、耶馬渓のような谷地では風向により凝集される事は言うまでもありません。

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利権構造しか関心がない林野行政により犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈りします

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2024年06月27日

新ひぼろぎ逍遥 1020 熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か?

新ひぼろぎ逍遥 1020 熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か?

20240226

太宰府地名研究会 古川 清久


 23年中にメンバーになっていただいたT氏と共に熊本県玉名市の再、再、再度の神社調査をおこなっていましたが、久しぶりに懸案でもあった大浜町の外嶋宮を訪れました。

 地元に精通されたT氏のこと外嶋宮正面に置かれた長文の社伝を彫り込んだ石碑に関する資料がないものかと相談すると数日で資料を送ってこられました。

 本来は、故)百嶋由一郎氏が語られていた“二人の住吉様”に関する記録を留めておこうと作業にかかったのですが、その頂いた資料に、この地区に集中的に居住されている蜑父(タンプ)姓=実際には蜑の上に草冠と言う表記の一族が現在も多数居られると言う記事がありました。

 これが面白いものだったので、暫らく碑文を棚上げにしてこの蜑父(タンプ)姓について書きたくなりました。

 何とも驚く姓ですが、纏まって住んでおられるという事はそれなりの事情があったはずで、それだけで非常にロマンチックな話なのです。

 いつも利用している姓名分布&ランキングには出てきませんでした。しかし以下には正確に出ていました。岱明町は「景行紀」の帰路上陸した「腹赤」でもありますので益々興味が湧きました。

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𦿸父(たんぷ)さんの由来と分布

タンプ 【𦿸父】レベル1 ごく少数  日本姓氏語源辞典

推定では約60人。熊本県。職業。𦿸は「海士」を意味する。熊本県玉名市岱明町野口に江戸時代にあった。同地、熊本県玉名市大浜町では漁業に従事していたと伝える。      2019 8 31日 更新


 以下はその情報に出くわした記事です。

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実に回答されている方も𦿸父さんです

 私がこの姓に関心を持った理由は、この場所が大陸からの有力な玄関口の一つ(博多、伊万里、佐世保、玉名、八代、薩摩川内…)で、特に玉名=菊池川河口は多くの民族、氏族が入って来た事を思わせる伝承もあり、第一に百嶋由一郎は、トルコ系匈奴(熊襲)、土舎(トゥチャ、ツウチャ)族が入っていると語っていたからでした。タンプ姓と聴いて、非常にレアな姓であることは一目ですが、私が思ったのは周王朝の古公亶父(ココウタンポ、プ)でした。古代史に関心をお持ちの方は、「倭人は呉の太伯の末…」といったフレーズを一度は聴かれ、いや、何度となく聴かれた事がある方もおられるでしょう。

 特に、大分県を除く九州西岸部は沖縄の三母音の影響を受けたからか(逆かもしれませんが)、O音をU音で代行する傾向が顕著なため一例ですが(「大事」オオゴト→「大事」ウウゴツ)となるため、「タンポ」は「タンプ」となる傾向があるのです。これが的を得てると思うかはご判断にお任せします。

 ただ、この地から10キロも遡上すれば、有名な江田船山古墳があり、更に遡れば金山彦の本拠地と考えている山鹿市の大宮神社、更に、南北朝騒乱期に南朝方として戦い続けた菊池氏(彼らは紋章から阿蘇氏の一派のように理解されていますが、とんでもない誤りで、彼らこそトルコ系匈奴=東西分裂後の南匈奴:王 昭君の一族(秀頼も)で元は日足紋を使う大山祗系の一族=熊襲なのです。だからこそ南朝方として戦うために熊襲である事を隠し阿蘇氏の様に偽装したのです)の本拠地である菊池市があるのです。

 加藤清正は秀頼を迎え家康と一戦を構えるつもりで熊本城を造り地下深くに昭君の間を置いたのです。

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古公亶父君主

古公亶父は、周初代武王の曾祖父。周の先王の一人。公叔祖類の子。姓は姫。先祖の后稷・公劉の業を納め、国人から慕われた。古公とも呼ばれる。『詩経』では太王。『史記』によれば、武王が殷を討つ前に太王と追尊した。それ以前は太公と呼ばれ、孫の文王が呂尚の事を「太公が望んだ人だ」として「太公望」と呼んだ逸話は有名である。両親: 公叔祖類 子女: 季歴、 太伯・虞仲 Zhongyong of Wu

孫: (カクシュク)、 虢仲 祖父: 亜圉 (黒字)フリガナ、強調は古川

                 ウィキペディア 20240228 11:25

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菊池川河口は左岸の大干拓地(横島干拓)の築造のため河道が振られ西に動いていますが、元々は菊池川が運ぶ堆積物による低い島状地であったと思われ、漁労民、運送業者、商人が住み着いていたはずです


干拓地であったため太刀洗陸軍航空隊の教育隊の分駐隊も置かれたていたようで、外嶋宮だけに目を向けていた事に改めて反省することしきりでした無題.png

の部分が二線堤防であるため、藩政時代の港はこのライン辺りに在ったはずです

 これより南は明治以降の国造干拓のはずで、タンプさんが居住されているのはこの一帯だと思います


 明治期の姓の創出期にタンプ姓を纏めて採用したとも思えないため、突飛と思うのは私も同様ですが、もしも想定が正しいとすると、呉の(三国志の呉ではなく呉越同舟の呉)滅亡=夫差14年(紀元前482年)には呉国から船で列島に避退しているとすると、2,500年前にその乗員としての王族を安全に送り届け周王朝の血脈を継承させた功績で周王朝(周の滅亡によって後には呉に継承される)の始祖である古公亶父の「亶父」(タンプ)を賜ったのではないかと考えたのでした。

そもそも呉国は周の太伯と虞仲と言う王位継承権を持つ長男次男が、妾腹の三男の子が優秀で聡明だったため兄を差し置いて、王位を譲ろうとしたことから南の越の領域に逃れ、血統が高貴の為に越の民の一部に担がれ呉国の王族となった…と言われる話があり、これが倭人の素性とされたのでした。

この辺りについては、非常に正確、詳細な検討をされておられる民間研究者のコメントをご紹介し、勝手ながら引用させて頂きたいと思っています。以下。


鴨着く島

南九州の風土と歴史、伝承を中心に書きつづっていこうと思います。 季節ごとの風景や祭りを画像でお届けしますのでどうぞお楽しみに。

「倭人の起源=春秋戦国時代の呉」説は正しいか?(1) | トップページ | 「大浜電信局」跡(南大隅町大浜) ≫

「倭人の起源=春秋戦国時代の呉」説は正しいか?(2)

 前回の(1)では「倭人が呉の末裔であると解釈できる中国史料は何か?」という質問に対して、それは『魏略』である―と出典を明らかにした。

 そこには確かに<…その旧語を聞くに、自ら太白の後という。>とあり、これは<彼ら中国に使者としてやって来る倭人から、その昔話を聞くと、自分たちはあの太白の後裔である、と言っている>という意味である。一見すると倭人は呉を建国した太白の末裔と言っているのだから、「倭人は間違いなく呉の太白の後裔だ。つまり日本人の先祖である倭人の出自は呉である。」という結論を導き出せそうに思える。

 しかし使者として出かけた倭人は決して「呉の太白の後」とは言っていない。つまり「呉の」という修辞はないことに気付かなくてはならない。もし「倭人は呉の後裔である」と言いたいのであれば、「われわれは呉を建国し、かつ、代々後継者を出していた太白の弟の虞仲の後である」と言わなくてはならないのである。

 これならば話の筋が通り、文句なく「倭人は呉の後裔」と言う意味が確定する。ところが「太白の後」という表現だけでは直ちに倭人が呉の後裔であるとは言えない。

 では、太白と倭人との関係はどのようなものか?

 太白については『史記』「周本紀」「呉太白世家」に登場する。どちらも内容は同じで、父の古公が三人兄弟の末子である「季歴」とその子の「昌」こそが周王朝を継いでいくのにふさわしい、と考えたため、自分ら兄たちは周を離れ、南方の長江流域に出奔し、そこで新たな王家(呉)を樹立した―ということになっている。

 そして同じく「呉太白世家」によれば、長子の太白には子がなく、子の生まれた弟の虞仲が呉王家を世襲して行くのであるから、「太白の後」と言ったからといって「呉の末裔」とは言えないのである。

 太白には子がいなかったのであるから「太白の後」はあり得ない話である。では、「太白の後」と言ったその真意は何であろうか?これには三つのことが想定できる。

 (1).最も分かり易いのが、太白はたしかに呉王家の後継となる嫡子は生まなかったが、別腹の庶子がいてその子が太白家を繋いで行き、後世になってその太白家の中から倭人と混血した家系が分岐したというような場合。

 (2).一番目と前半は全く同じだが、倭人の使者の中には「呉の太白の後」を標榜する呉からの渡来民を出自に持ち、そのような人物が選ばれて使者に立った者がいたかもしれず、その使者が「実は私の祖先は呉から倭国へ渡ったのです」などと話したというような場合。

 (3).(1)(2)はどちらも太白には子孫がいてそれが倭人とつながっている、という考え方だが太白に本当に子孫がいない場合、「太白の後」はあり得ないが、「呉と倭は起源が同じである」ということを表現した可能性。

 (1)と(2)の可能性もあるが、その場合でも「太白の子孫が倭人となった」もしくは「太白の子孫が倭(国)を開いた」とまでは言えない。そのことを示す古史書が存在する。それは前漢の史家・王充(オウジュウ=AD27年〜97年)が著した『論衡』(ロンコウ)という史書の次の箇所である。

 第八  儒僧篇 周の時、天下泰平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は暢草(チョウソウ)を貢ず。

 第十三  超奇篇 暢草は倭人より献じられる。

 第十八  異虚篇 周の時、天下太平にして、倭人来りて暢を貢ず。

 第五十八 恢国篇 成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず。

 第八、十三、十八、五十八とも倭人に関して「暢(暢草)」つまり霊草(神に捧げる酒に入れたという草)を貢ぎに来る人々である、という認識は同じである。さらに、それがいつの時代だったのかを特定しているのが第五十八の恢国篇の記述で、その時期を成王の時代としている。

 成王とは周王朝の2代目で、中国政府の「夏殷周年表プロジェクト」によって確定された在位は紀元前1042年から1021年の22年間である。したがって紀元前1040年頃、すでに倭人という存在が知られており、時代的には太白が周王朝の創始を弟の季歴に譲って次兄の虞仲とともに南方に奔り、呉を建国した頃でもある。

もし倭人が「太白の後」(太白の末裔)であるならば、成王に暢草を貢献した際、「祖父の代に南方に逃れて呉を建国した太白の後裔である倭人」というような書き方がされてしかるべきところである。倭人は倭人として独立して描かれている以上、太白と倭人との間に血統的なつながりを見出すことはできない。

『論衡』の上の記事では、「太白の後裔の倭人」という書き方はないうえ、第八と第五十八では呉よりさらに南方の越と並んで倭人だけが登場しており、呉人は出てこない。すなわち成王の時代には越人と倭人はいても、呉人はいなかった節がある。つまり時系列的には「倭人のほうが呉人よりも古い」とさえ言える可能性が出てくるのである。

その点について、太白・虞仲・季歴兄弟の父親を俎(ショソ まな板)=古川注 上に載せてみると興味深いことが分かる。父はその名を「古公亶父」(ココウタンプ)というが、古公は「いにしえの」という意味であり、「亶父」は「亶州出身の・亶州を宰領する」男王と解釈される。亶州を私は日本列島(中でも九州島)と比定するので、「古公亶父」とは日本列島の中でも九州島出身の王を指しているのではないかと考えられるのである。

 以上により、「(呉を建国した)太白の後」とある『翰苑』巻30の記事から「倭人の起源は呉にある」と導き出すのは不可能であると断定できる。

 むしろ最後のほうで触れたように、周王朝発足当時(紀元前1040年頃)の呉の領域には実は倭人が居住していた可能性が見えてきた。2代目の成王の時に暢草を貢献した倭人がどこにいた倭人かはその暢草の種類が特定できれば原産地も特定でき、倭人の居住地も特定できよう。

 今のところその特定はできていないが、少なくとも紀元前1000年代には呉とは別に「倭人」と呼ばれる種族が居り、周王朝の祭祀の一部を支えていたことだけは確かである。

 ※ 以上の史料については、以下のホームページで参照できる。

    鴨着く島おおすみ:http://kamodoku.dee.cc/index.html

               この中の「中国史料に見る倭人」の項


無題.pngここまで書いて、以前、読んだ本の中に、「タンプ」という言葉があった事を思い出しました。

それは、大分市在住の安部貞隆さんという「安部」一族(宗任)の本家の直系の研究者で、自費出版ながら2015年に「豊後安倍氏の伝承」という500pの大著を出された方で、それ以来お付き合いをさせて頂いています。

その安部さんが次著として出されていた“陸奥安部氏累代の古文書が語る”「前九年合戦史」(2018)に「『陸奥話記』の終わりに、京に送られた貞任の首が民衆に晒される前に、担夫たんぷ(荷物を担ぐ人夫)が貞任の乱れた髪を梳きたいと嘆願した場面が描かれています」というフレーズがありました。(同著14p

現在では通常使用しませんが、かつては普通に使っていたものだったと思い直しています。


たんぷ【担夫】 〘名〙荷物をかついで運搬する人夫。 特に奈良・平安時代では綱丁(ごうちょう)に率いられて、庸・調などの貢物を都に運ぶ運脚(うんきゃく)をいう。          Google

無題.png担夫(たんぷ)とは?意味・読み方・使い方 - goo辞書

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担夫(たんぷ)とは。意味や使い方、類語をわかりやすく解説。荷物をになう人夫。〈色葉字類抄〉蜑父(タンプ)、周王朝の「亶父」(タンプ)、担夫たんぷ がどのような関係にあったのかが興味深いですね。今後の課題です。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記