1014 続 大分県日田市の「有王社」を疑う“蟻通神社を消したのかor有王社で八咫烏を守ったのか”
20240205
太宰府地名研究会 古川 清久
先行ブログ新ひぼろぎ逍遥 1005として 日田市の「有王社」を疑う を書いています。
有王社とはほとんど耳にしないもので全国的にも聴いたことが無いものであることから、8世紀初頭まで九州王朝系の副都(これは私の仮説でしかありませんが)だったはずの日田の象徴である八咫烏=博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビ神の嗣子を祀る蟻通神社を消し、近畿大和朝廷の代官役(植民地総督)である大蔵一族=後漢霊帝の別れ阿智王の末裔が消し去ったのであろうと考えたのでした。
ここまで書くと、地元の方々には立腹される方もおありかも知れませんが、どうも大蔵の一族によって本来の祭神が入れ替えられているのではないかと思った訳です。
つまり、元の王権の象徴である八咫烏を消し去りたいと思っていたのは応神を崇める大原八幡宮の一族である大蔵一族こそが蟻通神社を消し去り有王社にすり替えたのではないかと考えたのでした。
瑠璃の星☆彡写真・イラスト・旅日記 『邪馬台国ラプソディ』 聖地巡礼 26 夜明けの有王社 様より
有王社を知った時、これは偽装❶(大蔵一族が嫌うはずの前政権の排除として八咫烏系の神の据替)、偽装❷(八咫烏隠し=本来の神=八咫烏を守るため)の二つを考えましたが、大蔵に対する憎しみの思いが強く、❶を採用したのが先行ブログ1012ブログでした。
しかし、再度確認のためご由緒を検証しようと思います。
後白河院が院政を敷いた源平期に大蔵永秀が築城の櫛崎城に置かれた神を遷座し有王宮としたとあります。
瀬織津日女が誰であるかをご存じない方が多いと思いますが、櫛稲田姫なのです。
その点、築上町の櫛崎の「櫛」とはクシナダヒメと対応しているのです。
そもそも瀬織津日女とは、藤原が創り出した祓戸神(ハライドノカミ)の一神であり、金山彦、瀬織津日女=櫛稲田姫、速佐須良姫=鴨玉依姫、速開都比盗_=豊秋津姫(ハヤアキツヒメ)を意味(忌)しているのです。
以下ウィキペディア(20240205 14:22)
祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司どる神である。祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味である。
もう一つ祓戸大神 (Haraedo no Okami)様もお読みください。
これらの神は葦原中国のあらゆる罪・穢を祓い去る神で、大祓詞にはそれぞれの神の役割が記されている。
瀬織津比売(せおりつひめ)
-- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す
速開都比売(はやあきつひめ)
-- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む
気吹戸主(いぶきどぬし)
-- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国に息吹を放つ
速佐須良比売(はやさすらひめ)
-- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失う
速開都比売を除いてこれらの神の名は記紀には見られず、記紀のどの神に対応するかについては諸説ある.、
上述の伊邪那岐の禊の際に化成した神に当てることが多い。
本居宣長は、瀬織津比売を禍津日神(やそまがつひ)に、速開都比売を伊豆能売(いづのめ)に、気吹戸主を直毘神(かむなおび)に当て、速佐須良比売は神名の類似や根の国にいるということからスセリビメ(すせりびめ)に当てている。
では、その意味とは、この地は急流渦巻く危険な地であるからそれを治めるべく祓戸神を置いたと考えるか、元々、この地には蟻通神が祀られていたところだから浄化(仏教系の表現ではありますが)するという意味合いで祓戸神を祀った…と言う意味合いがあり、どちらかによって当方が考えた蟻通神社改変説が成立するかどうかが影響を受けるのです。
以前、宮崎県西都市の速川神社(西都市大字南方183-2)にもこの祓戸神を見たことがありますが、ここも急流の地なのです。
勿論、こういったものは確定した通説などと言ったものではないのですが、浅ましいまでも既に地域で確立しネット上でも右から左まで同じ論調、結論に異議を唱えるのは袋叩きになりそうです。
ただ、私の目からはあまりにも違和感が伴うため、大人げないとは思われそうですが、そういう事を押し通すのが神社の本質を探る者の使命なのです。
上の地図を見れば分かる通り、同社がこの大蛇行地それもかなりの落差のある急流である事は想像が着くでしょう。
これは夜明ダムが稼働する昭和28年以降かなり急激に流速が落ちている事を考えれば、筏流しを行ってきた船頭さんとは言わない中のりさんとしておきますが、最も緊張する危険な場所であった事はご理解いただけるのではないでしょうか。
そして、先行するブログをお読み頂いた方には、既に、この九州山地を駈け降る最も緊張する容易に息の抜けない命懸けの場所だったはずなのです。
私が最も違和感を抱いた理由は、その様な場所、それも筑紫、豊という緊張する国境に、何故、瀬織津姫(藤原が祓戸神別名として金山彦と博多の櫛田神社の大幡主の妹の埴安姫の間に生まれた櫛稲田姫)を祀る神社を置く必要性も必然性もない訳で、これも大原八幡宮が龍王ことヤタガラスを消そうとばかりに祀ったのではないかと考えたのでした。
まず、有王という呼称は中国風の香りがするもので、類型として白王(白川伯王)、阿智王など僅かしか浮かんできません。
それは、この有王社を祀ったのは応神を呼び込んだ近畿大和朝廷の総督とも言うべき大原らしいからなのです。
前置きが長くなりましたが、この一般的には聴いたこともない有王神社をなんとか乏しい知識で考えて見たいと思います。
それではご覧いただきましょう。私も一度入っていますが、画像が無いため、しばらくはネットから拾えるもので代行し、後で入れ替えたいと思います。
ただ、パワースポットとか大騒ぎし商売に繋げようとするさもしい方々のものとか、神社や行政の宣伝合戦の浅ましい派生サイトはできるだけ避けて穏やかで落ち着いた健全さを感じさせるものから使わせていただきます。以下、田舎暮らしdeほっ!様から…
瑠璃の星☆彡写真・イラスト・旅日記 『邪馬台国ラプソディ』 聖地巡礼 26 夜明けの有王社 様より
これで大体の概要はお分かり頂いたと思います。
まず、私が違和感を抱いたのは神殿の千木が男神を示している事でした。その一事だけで、これが瀬織津姫ではないのではないかと思ったのでした。
さらに言えば、参拝殿の上に置かれた龍の彫刻の板盤はどう見ても日田、津江、彦山から流れてくる筑後川を龍に見立てたものであり、日田の中心部に玉川町があるように、遠い古代に豊玉彦(海幸、山幸の神話に登場する龍王)=ヤタガラス(博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの子)を祀ったものであろうという気がしたのでした。
由緒 人皇八十代高倉天皇の御代、大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永2年(1705)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す。 御祭神 瀬織津日女命
そして、なんらかの動機で瀬織津日女命に替えられたのではないかとの思いが湧いてきたのでした。
既に、大原八幡宮に応神を持ち込んだのが大蔵一族であり、彼らが大和朝廷の先兵=占領軍として多くの神々を塗り替え、摩り替え、歴史を変えて来た事は想像に難くなく、その延長上に日田の隅々まで占領政策が静かに広がってきたはずなのです。では、元々この地には誰が祀られていたのでしょうか?
直ぐに頭に過り浮かび上がってきたものは蟻通神社でした。多分これに間違いはないでしょう。
この祭神は中将(「平家物語」「源氏物語」にも中将は出てきますが、中国と外交関係を結んだ者はこの称号が与えられるのです)とされ、八咫烏はその最初の一人なのです(中将姫とは別の概念)。
和歌山県や大阪府にかなりの数の「蟻通神社」「蟻通明神」があります。
「私のたなべ」田辺市観光協会 様より
蟻通しの由来
むかしのことです。ここ紀州田辺に外国の使者がやってきました。
その使者は『今から出す問題を解いてみよ もし解けなければ日本国を属国にしてしまう』といいました。そして、持ってきた法螺貝を出して、その貝に一本の糸を通すことを命じました。
日本の神がみは、この難問にたいへん頭を痛めました。その時、ひとりの若い神様が前に進み出て『私が法螺貝にその糸をその糸を通してみせましょう」といって貝の口からどんどん蜜を流し込みました。
蜜は、貝の中の複雑な穴を通り抜けて貝尻の穴へと流れ出しました。そして、この若い神様は蟻を一匹捕らえて糸で結び貝の穴から追い込みました。蟻は甘い蜜を追って、複雑な貝の穴を苦もなく通り抜けました。蟻の体には糸が結ばれていますから法螺貝には完全に糸が通ったのです。
これを見た外国の使者は『日の本の国はやはり神国である』と恐れその知恵に感服して逃げ帰りました。
日本の神がみは、たいそう喜んで『我国にこれほどの賢い神があるのを知らなかった』といって、その若い神様の知恵をほめました。そして、蟻によって貝に糸を通したことにより蟻通しの神と申し上げるようになりました。今では知恵の神とあがめられています。
ここで私の方からもコメントを加えさせて頂きます。蟻通神社の話は民衆に受けたらしくある時期流行し伝承も祭神も多くの変化を見せています。ただ、中将とは中国に派遣された外交官級の優秀な人が送られる称号で、本来は博多の櫛田神社の大幡主(カミムスビ)の子の豊玉彦(八咫烏)の事であったと百嶋神社考古学では理解しています。まず、阿波から熊野は忌部の国であり、この忌部こそ宗像三女神の一族=白族であり、阿波から泉佐野と言う同社の分布もそれと対応しています。
そして、玉の曲がった穴に蟻を使って糸を通すという故事から蟻通神社の名が生まれ、加えて、紀州でも大蛇行の狭い急流の流れで木材の前後が選別されると言う事から、正しくこの加々鶴から夜明の渓谷で川流しの安全と筑紫から豊の国境の平安を願って置かれたのがそもそもこの中国風の有王神社の基層に存在した蟻王神社だったのではないでしょうか?
それが何故有王社に変わったのかは最後にお話ししましょう。
すさまじきもの 〜歌枕★探訪〜神社(大阪府泉佐野市)
蟻通神社はもともと熊野古道沿いにあったものを、第二次大戦中に飛行場建設のために現在の地に移転された。このため、以前熊野古道を歩いた時、足を延ばして訪問してみようかどうか迷ったが、遠回りになるので結局断念したことがある。このたび車で泉南方面の故地巡りに出かけ、念願の訪問を果たした。この蟻通神社、こんな泉南の片田舎にありながら、なにかと由緒満載で、紀貫之、清少納言らのエピソードもあり、そして能の舞台にもなっている。
知る人ぞ知る、古典ゆかりの地である。まずは、紀貫之関連
蟻通神社の前を通る時は馬から降りなければならなかったが、紀貫之は馬から降りずに通ってしまったため、蟻通明神の怒りを買って、俄かに一天かき曇り、馬が動かなくなった。これに対し紀貫之が和歌を詠じて蟻通明神をなだめた、という話。…中略…
蟻通神社 カーナビ検索 大阪府泉佐野市長滝814
創建は、社伝によると なんと紀元93年!! 第9代開化(かいか)天皇の時代にできたのだそう!
わたしが大好きな、日本一の古墳の仁徳(にんとく)さんが第16代天皇その7代前の時代というと
弥生時代中期 弥生時代・・・!この頃に稲作りが始まったので五穀豊穣と国土開発を祈る目的で
国造りの神である大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀ったのが始まりとされています しかし「蟻通」の名前が広まったのは平安時代のことこんな故事があります
***
歌人である紀貫之(きのつらゆき)が旅の途中、馬に乗ってこの神社を通りがかったとき日が暮れ、大雨が降りだし、馬が倒れましたそこへ老人が現れて「蟻通明神の境内を下馬しないで通った罰じゃ!」と。
そんなん知らんやん!!などとは言わず、貫之さんは歌を詠みました 「かきくもり あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば 思ふべしやは」この歌に老人は「ホッホー!」と感心し「実はワシが蟻通明神でしたー★」と明かして消えていきそして馬は元気になって貫之さんは旅を続けることができましたとさ
蟻通神社、アリ通し、天武天皇 様から
さて、その頃中国の皇帝は、わが国を攻略しようという野望に燃えていた。しかし、実際に軍隊を派遣するには、なにか口実がなければならない。そこで皇帝は、帝を陥れる巧みな方策を考えついた。
まず、使者をわが国に派遣すると、一本の材木を帝に献上させた。材木は表面を美しく削ってあり、長さは二尺(約六〇a)ほどである。「帝におうかがい申しあげます。このたび献上いたしましたこの材木の、いずれが本で、いずれが末でありましょうか」難題を吹きかけて、これに答えなければ、厳しく難詰する魂胆である。しかし帝は使者の質問に対してうまい解答が思い浮かばない。そこですっかり途方に暮れてしまった。朝廷に出仕して、このありさまを一部始終見守っていた中将は、帰宅ののち、両親にこのことを話した。「お父さん、お母さん、今日、朝廷ではこのようなことがありました。中国の皇帝の問いには、はたしてうまい答えが見つかるのでしょうか」「それはおまえ、簡単なことじや。早瀬に材木を投げ入れてみればよい。最初は材木も、水の中でくるくる舞うているであろうが、そのうちどちらかの端が先になって流れてゆくじやろう。そちらのほうが木の末にあたるのじゃ」翌日、朝廷に出仕した中将は、なにげない顔をして、帝に申しあげた。
「私に名案がございます。ひとつ試してみましょう」そして人々を引き連れて流れの早い川の瀬に行き、材木を投げ入れると、先になったほうに印をつけて、使者に手渡した。するとやはり、そちらのほうが木の末であった。
続いて中国側は、全長が二尺ほどもある二匹の蛇を献上してきた。姿形は二匹ともそっくり同じである。「謹んでおうかがい申しあげます。この二匹の蛇の、いずれがオスで、いずれがメスでありましょうか」今度の問いも難問である。内裏の中で即座に答えられる者は、ただの一人もいない。そこで中将は帰宅ののち、ふたたび両親にこのことを話した。「他愛もない。二匹の蛇を並べて、尾っぽのほうに細い枝を近づけてみるのじゃ。尾っぽを動かしたほうがメスの蛇じゃよ」中将の両親はこともなげに答えた。
翌日、中将が帝の前で両親の教えたとおりにやってみると、はたして一匹だけが尾っぽを動かした。そこでそのように使者に告げ知らせると、これも正解であった。
それからしばらくすると、中国の皇帝は三度日の使者を派遣してきた。今回の献上品は、一個の玉である。一見しただけではなんの変哲もないただの玉のようであったが、細かく観察してみると、玉のちょうど反対側の表面に、二個の小さな穴がそれぞれ口を開けている。そしてそれが七曲がりに曲がりくねった小さな空洞によって、玉の内部でつながっているのであった。使者は仰々しく口上を述へ立てた。「この玉の穴に糸を通していただきとうございます。もっともわが国では、だれもが簡単にやってのける小細工ではございますが」今度という今度は帝も困り果ててしまった。「どんな手先の器用な人物でも、こればかりはできかねまする」朝廷に出仕する貴族・公卿たちから、はては下々の者に至るまで、みんな口をそろえてそのように答えた。そこで中将は、もしやと思い、今回も両親にたずねてみることにした。「造作もない。一匹の蟻に細い糸を結びつけ、一方の穴から中にもぐり込ませればよい。その時、もう片方の穴のまわりに蜜をまぶすことを忘れなければ、蟻は蜜の香りに誘われて、空洞を通って向こう側に行くはずじゃ」中将は参内すると、両親の教えてくれたことを、そのまま帝に進言した。さっそく朝廷ではそのとおりにやってみたが、はたして蟻は一方の穴から他方の穴へとくぐり抜け、糸は玉を貫通した。そこで帝は、糸の通った玉を使者に返還した。
「日本の国にも賢者はいるものだ」中国の皇帝は感嘆し、それからは難題を吹きかけてくることもなくなった。一方、帝の喜びようはたいへんなものであった。彼は中将を呼び寄せると、親しく声をかけた。「このたびのそちの働きはみごとであった。望みのものを申すがよい。官職も、恩賞も、思いのままに取らせよう」「恐れながら、私は官職も恩賞もほしくはございません。ただ年老いた両親とともに都に住むことを、お許しいただきとうございます」「それはたやすいこと。そちの好きにするがよい」帝は快く、中将の願いを聞き入れた。この知らせを開いて、国中の人はたいへん喜んだ。
その後、この中将は神として祀られるに至つた。これが今に残る蟻通明神のはじまりであるとされている。
ここまで読まれた方はご苦労様でした。改めて謝意をお伝えします。
蟻通神社に有王社が覆いかぶさったと言う古川仮説に幾らかでも賛同して頂ければ幸いです。
そもそも瀬織津姫とは祓戸神として藤原が創り出したものであり、実は九州王朝の初期を支えた金山彦の娘である櫛稲田姫の事なのです。
当然にも、近畿大和朝廷として権力を握った藤原(旧阿蘇氏=多氏、宇治氏…)にとってはあまり有り難くない忌むべき神なのです。
その本拠地の一つである豊の国の支配者が豊玉彦=八咫烏=豊国主であり、中心部に玉川町がある事からも分かるのです。
当然にも、現在日田を支配している大原の一族=大蔵氏…は近畿大和朝廷の植民地総督として入府している訳で、この八咫烏の都であった日田からその出口である夜明に八咫烏を祀る蟻通神社が存在することを疎ましく思い続けたはずなのです。
そして、「鬼と仏の国東半島めぐり」瀬織津姫神 有王社:瀬織津日女祭祀 によれば、平安末期にお鬼洲浜紋章を使う大蔵一族(恐らく後漢の靈帝の一族の別れで阿智王の一族の可能性を考えています)が持ち込んだことが分かります。
有王社の由緒は案内板にあるように
「人皇八十代高倉天皇(平安時代末期1168〜1183在位)の御代、大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永二年(280年前)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す」とのことです。以前、宮司様に他の伝承がないか確かめましたら、「他に伝えられているものはない」とのことでした。
異称で祭られる場合が多い、瀬織津姫神ですが、この案内板をみるとなぜかほっとします。神を示しており、賽銭箱の上に龍王が置かれている事、筑後川を海人族が龍と見なしていた事、櫛稲田姫が王と呼ばれたことなど全くない事から乱暴な結論を出しました。ご批判は甘受致します。
ご祭神の瀬織津日女神は罪・穢れを大海原の持ち出で給う神との記載があり、大祓いの神としての認識で一柱で祭られています。境内神社に菅原神社と水天宮があります。
ここまで見て来て、縦切り千木が男神を示しており、賽銭箱の上に龍王が置かれている事、筑後川を海人族が龍と見なしていた事、櫛稲田姫が王と呼ばれたことなど全くない事から乱暴な結論を出しました。ご批判は甘受致します。
後漢の中平4年(188年)10月に12代霊帝は「皇帝直属の常備軍」の創設を構想したと言われています。八咫烏=豊国主=豊玉彦は百嶋最終神代系譜ではAD132の生まれですので時代は符合します。
そして、大蔵氏は霊帝の一族の阿智王の後裔の可能性があるのです。
私には、八咫烏に凹まされたのが気に入らなかったのではないかと思うのですが、結果、蟻通明神は有王宮に変わったのではないかと考えます。これを詳しく説明すると、更に別のブログが必要です。