2024年07月30日

スポット337蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 C 宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社の更に深部へ

スポット337蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 C 宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社の更に深部へ

20240527

太宰府地名研究会 古川 清久


 このところ宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社を何度も訪れ考え続けていますが、また、新たな問題を意識するようになりました。

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 跡宮370 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 B 分離先行トレッキング において、何故、大山祗が、また、妙見社(アメノミナカヌシ)、冠八面大明神(クラオカミ)、権現神社(大幡主+クマノフスミ=イザナミ+ヤタガラス)という狗奴国系=匈奴系と大幡主(白族)系の神々が境内摂社として神殿には入れられていないのか?若しくは神殿から排除されているのかを考えていました。

 明治政府の廃仏毀釈と修験道廃止令によって修験道は姿を消しました(息の根を止められました)。

 まず幕藩体制を下から支えていた寺院勢力への優遇が消されるとともに、直後に起こった神仏分離への動きは神仏混合の神々を純化する事を口実に、パルチザン戦争さえも引き起こしかねない山岳修験の勢力も注意深く除去されたのですが、この大山祗の排除が朝敵の熊襲の除去、そして熊野系の排除が神仏分離による除去と考えれば、この現象も明治維新を契機に高々百数十年前に起こった事なのかも知れません。

 由緒に依れば、まず、神殿にはスサノウ、大国主、イザナミ、そして、奇稲田姫、五瀬命…(蘇民将来 巨旦将来は阿蘇系というか耳族=黎族=多氏ですのでここでは無視できます)と、金山彦系の瀛氏が残されている事に気付きます。

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無題.pngさらに、この一帯には天狗の影も付き纏います。そもそも天狗には外来民族の気配が付き纏いますが、祇園神社にもその影が宿しています。


秋祭りにも「ヤンボシ踊り」や「山伏問答」などの山伏伝承があり、地名も「ヤンボシ」、「ヤンボシ塚」や山伏の象徴とされる天狗を祀った冠岳、奥儀(巻物)をご神体とする天狗神社など、山伏を彷彿とさせるところが随所に見られます。

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そして、この五ヶ瀬町一帯にも鉱山があったことが想像できるのです。


•三ヶ所鉱山(さんがしょ)

【廻淵】…銅・亜鉛・黄鉄鉱(明治時代中期〜1953年閉山)日窒鉱業(株)-西臼杵郡五ヶ瀬町

•荒谷鉱山…マンガン(1940年代〜閉山)-西臼杵郡五ヶ瀬町

•大祇鉱山…マンガン(1940年代〜閉山)-西臼杵郡五ヶ瀬町

日本の鉱山一覧


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/26 15:12 UTC )

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そこまで考えてくると、また新たなイメージが湧いて来ました。それは、祇園神社の傍に丁子(チョウジ)という集落があることに以前から気付ききになっていたのでしたが、多少ともその意味が分かってきたのでした。

 まず、「丁子」が何かをご存じない方が多いと思うので説明しておきましょう。


クローブ(英語: Clove)は、フトモモ科の植物チョウジノキ(Syzygium aromaticumsyn. Eugenia aromatica)の開花前の花蕾を乾燥させた香辛料の名。

原産地はインドネシアのモルッカ群島。日本では漢名に従って丁子、丁字(ちょうじ)、丁香(ちょうこう)とも呼ばれる。

クローブの花蕾は釘に似た形をしているため、中国では「釘」と同義の「丁」の字を使って「丁香」、「丁子」の名があてられ、フランス語では釘を意味する Clou と呼ばれ、英語の Clove もこれを語源とする。

非常に強い香気を持っているので、百里香という別名もある。

ウィキペディア20170315 0908 による

丁子紋
モルッカ原産の薬味や漢方薬の原材料、
日本には中国から伝来、その香と高貴性が尊ばれた。

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インドネシアモルッカ群島原産のフトモモ科の植物でクローブのこと、ユーカリやグアバと同種の植物である。クローブの花蕾は釘に似た形をしているため、中国では「釘」と同義の「丁」の字を使って「丁香」「丁子」の名があてられた。
 非常に強い香気を持っているので百里香という別名があり、インドや中国では紀元前から殺菌・消毒剤に使われていた。また薬味や生薬の原材料でもあり、漢方薬では花蕾を公丁香と称し、果実を母丁香と称して医療に用いた。日本にもかなり古くから無題.png伝来していたようで、 正倉院の宝物のなかにも当時輸入され
た丁子がある。中世の貴族は花蕾を干して香料にし、薬としても役立てていたようだ。また、丁子は高貴薬で香料であったことから、七宝のひとつにも数えられている。
 図案化され紋章となったのは花蕾の公丁香であった。丁子が家紋に用いられるようになった理由は明確ではないが、貴重な輸入品であったこと、七宝に数えられていたこと、むかし行灯の燈芯が丁子形になると福徳入来の前兆として喜ばれたことなどから、紋章としても人気が出ていったようだ。丁子はときに丁字と書くこともあり、「十字の間違いかな?」とか「沈丁花のこと?」と勘違いするひともある。また、紋章の図柄を見て「大根の一種?」と間違うひともある。

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 この丁子紋については、これまでにも古代史関係、神社調査の中で何度か出くわしてきました。

 そして、この家紋を使う人々には地域の有力氏族が多い事にも気付いていました。

 ただ、国際貿易とか外洋航路といった事との繋がりが凡そ認められない脊梁山地の麓の地域にどうして丁子紋をシンボルとする人々の痕跡があるのかはいまだ不明です。

 ここから先はただの引き延ばした仮説のそのまた仮説のような話でしかないのですが、瀛氏の金山彦と白族の大幡主の妹神にあたる埴安姫との間に産れたスサノウのお妃の櫛稲田姫(クシナダヒメ)から考えて見ましょう(この祇園神社では「奇稲田神」と…)。

「名字と家紋」氏も “紋章の図柄を見て「大根の一種?」と間違うひともある。”と書かれている様に、もしかしたら「違い剣」紋の使用を禁じられた氏族が抱き丁子を使用しているのではないかと言う考えです。

まず、博多の櫛田神社と佐賀県神埼市の櫛田神社を同一のものとして考える事は全くの誤りになります。

博多の櫛田神社とは櫛稲田姫の母神である埴安姫=大幡主系の妹の系統つまり大幡主系氏族を祀る神社であり、神埼市の櫛田神社とは櫛稲田姫の父神である金山彦の系統を祀る神社になるのです。

 もうお分かりでしょう。神埼の櫛田神社の神紋とは金山彦の神紋の一つのはずなのです。

 この問題についてはいずれ詳しく取り上げる事にしますのでここまでとしておきます。

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櫛田宮 カーナビ検索 佐賀県神埼市神埼町神埼419番地1 (神埼市庁舎隣)


実は先年亡くなった高倉 健も丸に抱き丁子紋の家らしいのですが、丁子紋とは本家以外は禁止された氏族の使う紋であり、丁子という地名に至っては、それを強要された人々の住む土地だったのかも知れません。

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思えば、平家の全盛期、神埼の荘は平氏の最大の貿易拠点だったのです。

ここでモルッカ原産の「丁子」が入手できなかったとは凡そ考えられないのですが、それで繋がりが発見できるかは今後の課題です。


神埼は平安後期には「神埼荘」と呼ばれる皇室領だった。忠盛は鳥羽上皇の信任が厚く、神埼荘の管理に当たっていた。神埼は日宋貿易の拠点で、忠盛は宋からの貿易品を大宰府に納めず、神埼荘で横取りしていたという話もある◆清盛は忠盛の死後、大宰府の大弐(だいに)官となって宋との交易を独占する。平治の乱の年には、肥前でも反乱が起き、鎮圧した清盛には杵島郡の大功田(たいこうでん)が与えられた。

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祇園神社の入口に置かれた由緒


 これまであまり気にしていなかった同社由緒でしたが、ここに来て再度考え直す事にしてみました。

 縁起自体に欽明が出てくることからして相当に古い神社である事は間違いないのですが、「冠八面大明神(闇龗神)正五位下の神階奉授の古い神社である」との記述から見て、この闇龗神が何故神殿に祀られていないのかは非常に奇妙です。

 さらに凄いのは「曽男神(素戔嗚尊)並びに冠八面大明神(闇龗神)正五位下の神階奉授の古い神社である」としている事です。

 まず、「曽男」の意味ですが、普通に考えれば熊襲の男という事になりそうです。

 勿論、スサノウはイザナギとイザナミの間に産れた新羅の王子様なのですが、そもそも、「多婆那国」とは熊本県玉名市ではないかとして、半島の学者も調査に入って来ていると聴いています。

 とすると、スサノウも「曽男」との表現は理解できるかも知れません。

もう一つの可能性は、蘇我、曽我、曾我…とは、金山彦(イスラエル)系の人々が住む地名との話を聴いており、「曽男」とはその意味なのかもしれません。

何故ならば、スサノウの母神であるイザナミは金山彦の妹神でもあるからです。


多婆那国とはいずこに

「多婆那国」とは、「三國史記」卷第一 新羅本紀第一 脱解尼師今の段に出てくる「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里」にある国名で、倭國はどこにあったかは分からないとは言え、日本の学者は元より朝鮮半島の学者も現在の「日本国」と解しているようである。日本()人が新羅の王とは娘婿(新羅第二代王南解次次雄の長女の夫という)とは言え穏やかならざることだが、当時の新羅は韓人と倭人が入り乱れていたようであり、韓人の勢力が強いときは韓人が王となり、倭人が優勢になると倭人が王となっていたようである。したがって、王家も三家(朴・昔・金)あったと言う。そのうち昔(ソク)氏が日系の王家で八名が王位に就いた。昔(ソク)姓は朝鮮半島でも珍しい姓のようだが、「三国遺事」によると箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたことから鵲の字を略して「昔」を姓としたと言う。

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今回は思いっきり引っ張った話になりましたので、甘い仮説としてあまり真面目に考えないで下さい。

 ただ、このような思考の冒険の延長上に深層に辿り着ける場合もあるのです。


 あまり公開していない百嶋神代系譜から半島との古代を考え下さい。

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研究のために、百嶋由一郎音声データ、手書きデータ、神代系譜を必要とされる方は、随時090062983254まで直接ご連絡ください。

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2024年07月28日

スポット336 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 B 分離先行トレッキング

スポット336 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 B 分離先行トレッキング

20240527

太宰府地名研究会 古川 清久


 20173月、熊本のメンバー340人を対象に、宮崎県五ヶ瀬町鞍岡をエリアに4社を巡る神社トレッキングを企画しました。

 無題.pngただ、熊本地震の影響でこの一帯に入るルートにも障害が出ており、かなりの距離もあり、また、年度末でもあり、多くのメンバーが一度に集まる事はなかなかできませんでした。このため、当日参加できない方達を対象に何回かに分け現地を廻る小規模なトレッキングを行う事にしました。

 朝から素晴らしいばかりの青空が広がり、反って本番の20日が雨でなければという思いがつのります。

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調整のための分割開催ですが、下調べの意味もあり、未踏の天津神社への下見と言った意味もあります。

 由緒から見る限り、まず、本殿に祀られているのはスサノウ、オオナムチ、イザナミの三神であると考えられます。

 まず、注目して頂きたいのはイザナミが祀られてはいるもののイザナギがいないことです。

 百嶋神社考古学ではイザナミとイザナギはスサノウを産んだ後に別れており、ここではそれが反映された祭神になっている(熊野もそうですが、だから黄泉の国からイザナギは鬼女に追われ死んだことにしてあるのです)のです。

 百嶋神社考古学ではイザナミは瀛氏の金山彦の妹であり、五瀬命(イツセノミコト)の母なのです。

 そもそも祇園神社が鎮座する鞍岡は五ヶ瀬町にありますね。単なる偶然だと思われますか?

 祭神に奇稲田姫神=櫛稲田姫が書かれているのも、金山彦が大幡主の妹である埴安姫との間に産んだ姫神だからなのです。

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無題.pngそして、蘇民将来、巨胆将来の巨胆将来こそが阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている第二代綏靖天皇とされた神沼河耳命なのです(赤枠)。

 結局、神殿に祀られている祭神を見ると、祇園神社がイスラエル系=瀛氏の金山彦を中心にスサノウ系、金山彦系で固められた神社である事が分かるのです。

 では、何故か神殿から出された?若しくは境内摂社として神殿外に置かれた祭神を考える事にしましょう。

 まず権現神社から考えますが、誤植があります。

 それは最後尾の熊野天須美神です。

 これは、通常、熊野夫須美命などと表記される大幡主系=熊野系の主神のお一人、瀛氏の金山彦の妹であり、イザナミからクマノフスミと名を改められた五瀬命(イツセノミコト)の母神(熊野那智大社)であり、大幡主(熊野速玉大社)のお妃神なのです。

 良く分からないのが権現神社の筆頭に掲げられた家都御子神です。

 このような表記に出くわしたことがないため、分からないながらも一応の提案をしておきます。

 イザナミ改めクマノフスミ(熊野那智大社)と大幡主(熊野速玉大社)の御子神とすればヤタガラス=豊玉彦で良いはずで、×イチ夫婦の御家の御子神との表現は、熊野権現、熊野修験の影響がこの地まで及んでいた事をまざまざと見せつけられた思いがします。

 そう言えば、五ヶ瀬町に南朝方から出された木地師などへの綸旨が残されている事とも符合する事に思い至ります。


木地屋について
 木地屋とは、轤轤でお盆やお椀などをつくりながら全国を渡り歩いた木地屋職人の人たちである。木地屋には山の八合目以上の木は全国どこでも切ってよいとされる朝廷からの天下御免の免許状が与えられていた。
 文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王(八四四ー八九七年)は二十九歳の時、都をのがれて近江の国小椋郷に移り、貞観十四年(八七二年)に出家して素覚法親王と名乗った。親王は読経中に法華教の経典の丸い軸から轤轤を思いつき、その技術を付近の住民に教えたという。
 こうした由緒に基づいて木地師は小椋郷をふるさととし、惟喬親王を轤轤の神様と仰いだ。祖神の氏子に対し朝廷は木地師の特権を認めた綸旨(りんじ)、免許状、鑑札、印鑑、往来手形などのいわゆる木地屋文書を与え身分を保証した。木地師はこの文書を携えて全国各地に散り、独自に生産活動を行うようになった。
 氏子には二派あり、一方を筒井公文所、もう一方を高松御所として、氏子狩と呼ぶ制度によって全国的な組織に統一されていく。

 氏子狩は小椋郷から奉加帳を持って諸国に散在する木地師を訪ね、祖神への奉加金を徴収し、人別改めを行った。
 木地師研究家の杉本壽氏の資料によると、正保四年(一六四七年)から明治二十六年(一八九三年)まで、奉加帳に登録された木地師の延べ人員は筒井公文所約五万人、高松御所約一万人といわれる。
 当地では、明治三年(一七六六年)鞍岡山、木地屋九軒とあり十三名分の奉加金が登録されている。しかし江戸末期からはその消息を絶った。代わって明治初年、三ケ所地区に小椋家が移住してきた。小椋家には木地屋文書があり、家宝とされている。木地屋文書は、江戸時代まで先例通り許可したが、明治時代になり土地の所有権制度が確立されてからはその慣例は無効となった。木地師は特権が認められなくなると、山から山へ渡り歩くことをやめて、農耕を兼ねるようになり、定住してきた。
 五ケ瀬町史(昭和五十六年発行)によると、小椋家の木地屋古文書には次のようなものがある。承平五年(九三八年)左大丞(太政官の左弁官局長官)の名で出された免許状で『器質の統領として、日本国中の諸国の山に立ち入ることを免許する』という書状。
 承久二年(一二二〇年)惟喬(これたか)親王を祭る筒井神社にあてた大蔵政卿雅仲、民部卿頼貞、藤原定勝、連署の惟喬親王由緒書。
 元亀三年(一五七二年)『諸国の轤轤師(ろくろし)杓子、塗物師、引き物師の一族は末代其の職を許し諸役を免除させる』という書状。天正十一年(一五八三年)には豊臣秀吉から『日本国中の轤轤師の商売は、先祖からのしきたり通り異議なく差し許す』という許可丈が筒井公文所あて出されている。
 九州において、一国の頭領が所持する木地師の由諸書や免許状を保存しているのは小椋家だけではないかといわれる。

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一先ず縁起の境内社の部分はお分かり頂けたと思います。

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大幡主ご一家が権現神社であり、古我武礼神社がクラオカミ(スサノウの姉)で、妙見神社が天御中主=大幡主の叔母さんにあたります。


最後になりますが、縁起に書かれていない生目神社が大山祗の左に鎮座している事にお気付きでしょう。

 これが宮崎市に鎮座している生目神社なのですが、百嶋神社考古学では、阿蘇高森の草部吉見神社の彦八井耳と高木大神(タカミムスビ)の娘であるタクハタチヂヒメの三世の孫が藤原により格上げされた後の贈)垂仁天皇(その実体は宇佐ツ彦)であり、宮崎にあることから明治期持ち込まれたものと思います。

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祇園神社の摂社に置かれた冠大明神古我武禮神社は回収され別社となった冠大明神古我武禮神社


祇園神社はスサノオを祀る神社でありそれはそれで良いのですが、スサノウのお妃のお一人であるクラオカミ=ミズナノメ=神大市姫=丹生津姫が鞍岡に祀られているのであれば、この冠大明神こそがこの一帯の本来の主神ではなかったのか?と考えるのですが…思考の暴走は限りなく続きます。

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2024年07月26日

スポット335 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 A 鳥瞰

スポット335 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 A 鳥瞰

20240527

太宰府地名研究会 古川 清久


先に、「ひぼろぎ逍遥」 extra038 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 として、本来、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)に掲載すべきものを先行掲載しましたが、オンエア後になって、場所を分かって頂くための位置図を添付していなかった事に気付きました。

 今回は、蘇民将来 巨旦将来の本当の現場であると考えられる一帯の地図を改めて鳥瞰(俯瞰)する事にしました。

 一般的には「備後国風土記」逸文との関係からその現場は備後(福山)辺りであろうといった理解が普及しています。

当然、その一帯についてもフィールド・ワークを何回もおこなったのですが、どうもそうとは言えないようなのです。そこで、「ああ、ここにも蘇民将来 巨旦将来伝承が良く残っているなあ…」と思ったのが、この宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社だったのです。

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祇園山の麓の祇園神社の縁起に見る「蘇民将来、巨胆将来」


無題.png民将来

蘇民将来(そみんしょうらい、非略体: 蘇民將來、蘓民將耒、 – 将耒、など)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。

説話

古くは鎌倉時代中期の卜部兼方『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』の疫隈国社(えのくまのくにつやしろ。現広島県福山市素盞嗚神社に比定される)の縁起にみえるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。

すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうのかみ、むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来〈こたんしょうらい〉と表記され、金神のこととされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。

蘇民将来の起源

武塔神や蘇民将来がどのような神仏を起源としたものであるかは今もって判然としていない。

武塔神については、密教でいう「武答天神王」によるという説と、尚武の神という意味で「タケタフカミ(武勝神)」という説が掲げられるが、ほかに朝鮮系の神とする説もあり、川村湊は『牛頭天王と蘇民将来伝説』のなかで武塔神と妻女頗梨采女(はりさいじょ)の関係と朝鮮土俗宗教である巫堂(ムーダン)とバリ公主神話の関係について関連があるではないかとの説を述べている。

蘇民将来についても、何に由来した神かは不明であるものの、災厄避けの神としての信仰は平安時代にまでさかのぼり、各地でスサノオとのつながりで伝承され、信仰対象となってきた。

ウィキペディア20170211 0938による

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宮崎県五ヶ瀬町祇園山山麓 鞍岡の祇園神社


 では、百嶋神代系譜(蘇民将来、巨胆将来)を御覧いただきましょう。

 これによると、まず、敵役の巨胆将来ですが、金凝彦(カナコリヒコ)とします。現在の阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている神沼河耳(実は藤原によって第2代贈)綏靖天皇と格上げされた阿蘇神社の隠された主神)なのですが、再建途上にある阿蘇神社に行かれて禰宜にでも「金凝彦様は祀られておられますか?」と尋ねられれば、今でも直ぐに、「神殿の最奥部に祀られております」とお答え頂けるでしょう。

 実はこの神沼河耳の腹違いの兄弟が阿蘇高森の草部吉見神であり建磐龍命なのです。ただ、草部吉見の娘である阿蘇ツ姫を建磐龍命がお妃としている事から、同時に義理の親子とも言えるのです。

もう一人の主役である蘇民将来については、百嶋先生からもはっきりここに居たとの話を聴いてはいません。あくまで推定ですが、当然にも彦八井、神八井を祀る、草部吉見神社周辺高森町草部周辺の人であると考えています。理由は薄弱ながら簡単です。

草部吉見神社の縁起による祭神は以下の通りであり神八井命は外されているのですが、夏の大祭の時だけに見る事ができる草部吉見神社の神代系譜には神八井がきちんと書かれているのです。


一の宮 日子八井命    二の宮 比東芬q命   三の宮 天彦命    四の宮 天比当ス

五の宮 阿蘇都彦命   六の宮 阿蘇都比当ス  七の宮 新彦命    八の宮 彌比当ス

 九の宮 速瓶玉命     十の宮 若彦命     十一の宮 新比当ス  十二の宮 彦御子命

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そして、伝承には幾つかのバリエーションがあるのですが、スサノウは龍宮にお妃を貰いに行く途中一夜の宿を乞うたという話になっているのです。そのお妃こそアカルヒメであり、博多の櫛田神社の大幡主=塩土翁=神皇産霊の娘(系譜参照)であることも見えてくるのです。

 恐らく、この「蘇民将来、巨胆将来」伝承を継承しているスサノウ系氏族のいた土地こそこのスサノウの姉クラオカミを祀る五ヶ瀬町鞍岡であろうとまで考えざるを得ないのです。

 まず、最低でもスサノウはこの鞍岡の地を経由し滞在したと思います。

 単純には言えませんが、クラオカミこと神俣姫は鞍岡に居たからクラオカミと呼ばれていた可能性があり、しかも、伝承では後にスサノウから滅ぼされることになる巨胆将来のお妃ともなっている事を考え合わせれば、阿蘇からそう遠くないところでなければならないはずなのです。

してみると、鞍岡は十分に現実味があり符合する場所に居た事になるのです。

 さらに言えば、百嶋神代系譜では、巨胆将来=神沼河耳のお妃が神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)のお妃であったアイラツヒメを継承した(神武天皇とは別れている)事を考えれば、そのアイラツヒメの実の兄であった五瀬命(有名な神武皇兄イツセノミコト)もこの五ヶ瀬の地にいたからイツセノミコトと呼ばれている可能性を考えざるを得ないのです。

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すると、この本物の神武天皇、神沼河耳、アイラツヒメ(神武と別れた後に蒲鴨池姫としているのですがこの事を阿蘇宮司家は知っているはずですが否定されています)もこの一帯にいたのです。

 いずれにせよ、阿蘇一の宮と南阿蘇の高森とは直線で15キロ程度、さらに、五ヶ瀬町、鞍岡も高森から直線で15キロ程度である事を思えば、全ての関係者は阿蘇高森を中心とする半径20キロ程度の所に居た可能性があるのです。

 どのように考えても、阿蘇高森町草部を中心とするエリアでこの蘇民将来、巨胆将来伝承が生じたのであり、その後のスサノウ系氏族の移動に伴い全国にこの伝承が広がったと考えられるのです。

 しかし、この背後にはスサノウ系(新羅系と言うよりペルシャ系)氏族と、雲南省麗江から進出避退してきた黎族(阿蘇氏、多氏、宇治氏、耳族…)の間に生じた民族衝突が反映されているものと思うのです。

 皆さん、同時にこの話が現在の「茅輪神事」「茅輪潜り」に繋がっている事もお考えください。

 最後に、巨胆将来と推定される阿蘇の神沼河耳がスサノウ側からは意地悪をしたような扱いにはなってはいますが、神代(実は古代)には民族と民族の衝突が起こっているのであり、どちらが悪いと言う事はないのです。耳族も漢族と最後まで闘い大陸から避退したのであり彼等への共感も否定できないのです。

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