新ひぼろぎ逍遥@1040 南魚沼への神社調査(下調べの作業ノート)❿ 坂本神社を解明しましょう(C)2
20240506
太宰府地名研究会 古川 清久
南魚沼に入るのは今回が初めてとなります。その下調べによって坂本神社を2社発見しました。少し調べるとこの神社が福岡県筑後地方から移動してきたものである事が分かってきました。
このため坂本神社が九州起源であることを説明することが迫られました。
これについては、当会でも筑前筑後の神社研究のエースに登場して頂くことにしました。
太宰府地名研究会(百嶋神社考古学)でも筑前、筑後の神社研究の専門家である宮原誠一氏による坂本神社への考察を全文ご紹介することにしました。

以下をお読みください。そして 余裕がある方は外もお読みください。
No. 70 高良九体皇子と坂本命と二人の門神様 @ 初めはこちらから
No. 71 高良九体皇子と坂本命と二人の門神様 A 同じく
No.180 筑後川河北の王子宮は坂本命を祀る坂本神社@直接的に坂本命についてはこのブログを
No.181 筑後川河北の玉垂御子神社(王子宮)A その上位の玉垂皇子神社についてはこのブログ
宮原誠一の神社見聞牒(180)
平成30年(2021年)10月29日
No.180 筑後川河北の王子宮は坂本命を祀る坂本神社@
福岡県旧三井郡山川町阿志岐に高良玉垂命の御子九人を祀った高良御子神社(王子宮)があります。九人の御子は「九躰皇子」と表記されています。高良御子神社の本宮です。
高良御子神社社殿の右には坂本神社があり、坂本命と二人の門神様を祀ります。
古昔、JR九大線御井駅付近の栗林に東西両坂本神社があったという。
明治43年9月26日 郡役所の勧誘により、王子山596-1高良御子神社境内に、全末社とも移転遷座しています。
坂本神社の祭神の坂本命は九躰皇子の一人ですが、坂本神社が高良御子神社の境内に移転遷座し、坂本命が両神社に祀られたためか、高良御子神社と坂本神社が混同される神社を見受けます。
そして、坂本命は福岡市の志賀海神社の祭神、豊姫(ゆたひめ)と安曇磯良(あずみいそら)の綿津見(わたつみ)神と繋がってくるのです。
1.高良玉垂命の九人の皇子を祀る高良御子神社
福岡県旧三井郡山川町阿志岐に高良玉垂命の御子九人を祀った高良御子神社(王子宮)があります。九人の御子は「九躰皇子」と表記されています。
現在、高良大社の登り参道が御井町西口にありますが、その前は、北口の栗林をすぎて、阿志岐坂を登り、高良社へ至る古道がありました。その途中に高良御子神社があります。
高良御子神社 福岡県久留米市山川町596-1

高良御子神社(左) 坂本神社(右)
山川校区郷土研究会(平成八年)作成 由緒略記
高良御子神社(王子宮) 福岡県久留米市山川町字王子山596番地1
祭神
1.斯礼賀志命神(シレガシ) サ光天皇(仁徳天皇)
2.朝日豊盛命神(アサヒトヨサカリ) 南無マ皇天皇
3.暮日豊盛命神(クレヒトヨサカリ) クマル天皇
4.渕志命神(フチシ) 南無トクタツ天皇
5.谿上命神(タニガミ) 南無ラシ天皇
6.那男美命神(ナオミ) クツツカツ天皇
7.坂本命神(サカモト) 南無シンショウ天皇
8.安志奇命神(アシキ) 南無タクショウシン天皇
9.安楽応宝秘命神(アラオホビ)
起建
高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇19代允恭天皇の御宇(412〜453)、高良の神の御託宣(おぼしめし)により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司宗崎孝成造立す。(古宝殿)
48代称徳天皇神護景雲2年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。
当社は高良社末社の随一と称されたが、田中吉政の時、神領を半減された故、神領を離れ阿志岐村の産神となり、現在に至る。創建以来、1570有余年になる。
高良御子神社の祭神は高良玉垂命の御子にて九人の皇子があり、允恭天皇の御宇(412〜453)、阿志岐山上(古宝殿 ふるほうでん)に社を大宮司孝成によって造立されました。称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮しています。(神秘書355条)
450年前後の神社造営ですので、かなり古い神社となります。
山川校区郷土研究会(平成八年)作成の由緒略記には九人の王子の名がはっきりと記載されていますが、九人の王子の呼び名は、稲員家(いなかず)文書によるものと思われます。
この9人の御子の序列は生まれ順でなく、神功皇后と3人の妃の順に沿った序列のようです。斯礼賀志命、朝日豊盛命、暮日豊盛命の三皇子は神功皇后の子で、正真正銘の九州王朝の嫡子であり、この斯礼賀志命が正当九州王朝の仁徳天皇です。那男美命、坂本命は妃・国片姫の皇子です。周辺にたくさん天皇(皇子)が居られるが、正当天皇でなく、全て別(ワケ)王と言われています。
2.高良御子神社内の坂本神社
高良御子神社社殿の右には坂本神社があり、坂本命と二人の門神様を祀ります。
古昔、JR九大線御井駅付近の栗林に東西両坂本神社があったという。
山川校区郷土研究会説明板によれば、
「明治43年9月26日 郡役所の勧誘により、王子山596-1高良御子神社境内に、全末社とも移転遷座す。現在、王子宮境内に祭祀してある坂本神社の社殿は一つだが、正面祭壇上に素木の厨子が二つ並んでいる。それが東西坂本社のご神体である。中央に不明のご神体一柱あり。」 とあります。
「中央に不明のご神体一柱」が坂本命となります。
山川の坂本神社 福岡県久留米市山川町字王子山596番地1

坂本神社の神殿 中央・坂本本社、右・西坂本社、左・東坂本社
坂本神社の祭神は次の通りです。
坂本本社 坂本命
東坂本社 櫛岩窓命(くしいわまど) → 日吉様 → 大山咋の神(海幸彦の子)
西坂本社 豊岩窓命(とよいわまど) → 山王様 → 猿田彦大神(山幸彦)
山川校区郷土研究会の設明板には「両祭神は、太玉命の御子で「殿(みかど)」を守衛(まも)る神、即ち高良参道入口の守護神である。」と書かれています。高良神社を門神として守っておられています。
東西両祭神の門神様は、設明板でいう太玉命(豊玉彦)の御子ではありません。
高良御子神社 2011年2月5日
王子宮は九州王朝の嫡孫です。
坂本宮は九州王朝の落胤系です。坂本宮のほうに御神体が三柱おられるが、真ん中の方は坂本命、間違いなく開化天皇のお子さんです。大善寺玉垂宮に行かれると楼門の左右を護っていらっしゃる。あの地区は荒木のシズチャン(五十鈴姫)の地区、坂本さんが担当されたところで、大善寺玉垂宮は高良玉垂宮の出張所と考えられたらよろしいです。大善寺玉垂宮は開化天皇になられる前の藤大臣(とうのおとど)を祀ります。藤棚の藤はこの藤大臣に因みます。
藤原氏の「藤」も藤大臣に因み、「藤原京」に因む「藤」から採られたものではありません。「記紀」によれば、「藤原」姓は、中臣鎌足が天智天皇から賜ったとなっていますが、臣下の姓から「藤原京」という都の名前を採用するでしょうか?「藤原」姓は藤原不比等から採用された、とみています。不比等は鎌足の子ではありません。皇統です。
3.坂本命とは、一体どういう人なのか?
坂本命の父と母は開化天皇と国片姫、国片姫の父と母は崇神帝と五十鈴姫、五十鈴姫の父と母は事代主と活玉依姫、活玉依姫の父と母は大山咋神と鴨玉依姫で、坂本命は豊玉彦を祖とし、崇神帝の孫であり、開化天皇の御子となれば、その血脈は、かなりの権力を持つことができると想定されます。しかも、高良山と大善寺の中間の荒木地域を担当されている。その荒木地域は久留米の南部から広川の北部に位置します。
高良玉垂神社八人の神官の筆頭である稲員家は高良御子第二子の朝日豊盛命の子孫といわれ、草壁氏を当初名乗っておられ、しかも、坂本命を特別に祀っておられる。これは天忍穂耳命・海幸彦、崇神帝の流れを意味します。その稲員家の本貫地は筑紫中津国(北野町)の大城です。
高良玉垂宮の八人の神官
「高良玉垂宮神秘書」343条に八人の神官の名前が記載されている。
田尻、小祝、外湯、諸司代、印塚、福成、両福成、稲員の諸氏が記載されている。
八人の神官の屋敷を現在の地名で示すと
稲員 久留米市北野町大城稲数(八女郡広川町古賀)
田尻 久留米市御井町字住吉のタンジリ
小祝(安曇) 久留米市山川町本村
外湯 久留米市御井町字住吉のトノエ
諸司代 久留米市御井町打越
印塚 三瀦郡三瀦町玉満犬塚
両福成 久留米市宮ノ陣町
このうち近世、最も勢力があったのは稲員家で、神管領家を称し、八人の神官を指導した。また、当社の重器三種の神宝出納職となっている。第二子朝日豊盛命の子孫が高良山を居所として累代続き(稲員家もその子孫)、稲員家はその前は草壁氏を名乗っている。
稲員家は第二子朝日豊盛命の子孫としながらも、坂本命を特別に祀っておられる。
朝日豊盛命の子孫とすると、母系は神功皇后であり、スサノオ系となります。
坂本命の子孫とすると、母系は豊玉彦、崇神帝の流れとなります。
坂本命は大幡主・豊玉彦を祖とされる海神系なので、やはり、稲員家は坂本命がご先祖でしょう。
百嶋神代系譜・天忍穂耳命・崇神帝・五十鈴姫 神代系図2

4.坂本命を祀る坂本神社
九躰皇子(くたいおうじ)の第七子に坂本命(さかもとのみこと)がおられます。
九躰皇子の坂本命を主祭神とする神社が、福岡県内に四社あります。
1.春日の坂本神社 福岡県太刀洗町春日(平田)753
2.金島の坂本神社 福岡県久留米市北野町金島(鏡)82
3.広川の高良坂本神社 福岡県八女郡広川町新代(古賀)1987
4.山川の坂本神社 福岡県久留米市山川町字王子山596番地1
(1) 春日の坂本神社 福岡県太刀洗町春日(平田)753

春日の平田支部の坂本神社は平田氏族神社であり、由緒によれば、祭神は武内宿祢の第7番目の子の奴能伊呂姫命(ぬのいろひめ)となっています。坂本命は皇子で、奴能伊呂姫は姫君で、明らかに異なります。
広川の高良坂本神社の祭神は、武内宿禰の七男の子の若子宿祢(わくごのすくね)ですが、九躰皇子の第七子に合わせて武内宿禰の子の名前を持って来たのでしょう。九躰皇子の坂本命の第七子は「七男」という意味ではありません。
春日平田支部、広川の二社の本来の祭神は、九躰皇子の第七子・坂本命です。
春日平田支部の坂本神社は物部氏関係の神社、広川の高良坂本神社は高良の神官・稲員氏(いなかず)が北野町稲数から移転後に創立した神社です。武内宿禰の入る余地はありません。明治政府を憚っての祭神変更の処置でしょう。
高良九躰皇子 「古事記」の武内宿禰の子
1 斯礼賀志命 長男・波多八代宿禰
2 朝日豊盛命 次男・許勢小柄宿禰
3 暮日豊盛命 三男・蘇賀石河宿禰
4 渕志命 四男・平群都久宿禰
5 谿上命 五男・木角宿禰
6 那男美命 長女・久米能摩伊刀比売
7 坂本命 次女・怒能伊呂比売
8 安志奇命 六男・葛城長江曽都毘古
9 安楽応宝秘命 七男・若子宿禰

春日平田支部の坂本神社の社紋(木瓜紋)
(2) 金島の坂本神社 福岡県久留米市北野町金島(鏡)82

福岡県北野町大城に稲数区があります。 広川町郷土史研究会の稲員家文書によると、稲員氏は高良大明神の神裔を称し、延暦21年(802)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。
その稲数村の東隣に鏡村があり、坂本神社が鎮座し、坂本命を祀ります。
第60代醍醐天皇の御代、延長年中(923-930)創建、稲員氏と何らかの関係があったことは伺い知れます。現在の鏡村の坂本神社は社殿社地が一ヶ所ですが、江戸時代までは、南北坂本神社があり、明治の合祀令により一社に統一されました。
鏡村の坂本神社の古宮

坂本神社の古宮の前には正八幡大幡主の六角灯籠です。
社紋は金色の十五菊紋です。元は十六菊紋でしたが、天皇家を憚って十五弁にしたという。
古宮の石祠には「坂本宮」と刻まれています。
正八幡大幡主の六角灯籠は
小郡市大板井の玉垂御子神社(王子宮)、朝倉市下浦の王子神社(王子宮)
にもあります。
(3) 広川の高良坂本神社 福岡県八女郡広川町新代(古賀)1987

広川町郷土史研究会の稲員家文書によると、稲員氏は高良大明神の神裔を称し、延暦21年(802)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在の北野町稲数)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。
正応3年(1290)鎌倉幕府の下知により、稲員良参(よしなが)が上妻郡古賀村(現在の広川町新代)に移り館を構え田戸70町を領している。
正応5年(1292)稲員良参は、坂本命を祭り坂本宮(現在の高良坂本神社、広川町古賀区)創立。稲員家は朝日豊盛命の流れといわれていますが、坂本命を祀っています。
坂本命の活躍の地が久留米市南部付近(荒木)であったことを考えると、鎌倉幕府による移転命の地は稲員家が求めたものかもしれません。稲員家の流れは坂本命が先祖ではなかったのか、ということになります。
古賀村に坂本神社を創立する以前、すでに高良大明神が祀られていたという。鏡村の坂本神社も稲員家が係わったのではないかと推察するのですが。
さらに、天正16年(1588)から寶暦2年(1753)の165年間、稲員家は大庄屋を勤めている。
由緒によると、主祭神は若子宿禰(わくごすくね)となっていて、武内宿禰の七男となっています。春日平田の坂本神社と同様に、九躰皇子の第七子に合わせて武内宿禰の七男の名前(若子宿禰)を持って来たのでしょう。九躰皇子の坂本命の第七子は「七男」という意味ではありません。
広川の高良坂本神社は坂本命が主祭神です。

広川の高良坂本神社社紋(木瓜紋)
木瓜紋は彦火火出見尊の神紋です。坂本命は彦火火出見尊の流れとなります。
また、高良大社の社紋の一つに木瓜紋がありますが、木瓜紋、唐花菱紋は九州王朝を支えた方々の紋です。坂本神社の社紋である木瓜紋が何に因むものか今の所わかりません。
山川町阿志岐の高良御子神社(王子宮)の社紋が木瓜紋となっています。
(4) 山川の坂本神社 福岡県久留米市山川町字王子山596番地1

左の高良御子神社(王子宮)の鬼瓦の社紋が木瓜紋となっています。
坂本神社には社紋がついていません。
5.豊姫(ゆたひめ)
鵜草葺不合命と奈留多姫(なるたひめ)の間の姫君で豊姫、「ゆたひめ」と申します。
熊襲タケル、後の河上タケルの妹で、安曇磯良の妃となられ、後に佐賀県大和の川上神社(與止日女神社)の河上大明神となられるのです。
高良玉垂宮神秘書 第1条
(前略) 嫡男日神の垂迹 表筒男尊(安曇磯良)は、(神功)皇后の御妹豊姫と夫妻なり。その御子は、大祝 日往子尊と申すなり。この底筒男尊(開化天皇)、表筒男尊の二人は、皇后と共に皇宮におわします。三男月神の垂迹 底筒男尊、皇宮に住まわれる間、位を設け、大政大臣物部保連(やすつら)と申し給う。藤大臣は、干珠満珠を借り給う時の仮の名なり。
嫡男日神の垂迹 表筒男尊の大臣公をいかがすべきと仰せられれば、皇后やがてのたまう。添も天照大神の「ひまご」にておわします間柄、玄孫大臣物部大連(おおつら)と申し奉るべしとおおせけり。玄孫大臣と書いては、ひまご大臣と読めり。
(中略)
仁徳天皇時、神功皇后、崩御され、高良明神、豊姫、玄孫大臣安曇磯良、その子、大祝日往子尊、武内大臣は皇宮をともに出られる。武内大臣は、因幡国へ・・・
豊姫(ゆたひめ)と玄孫大臣は、肥前国川上に留まりて、豊姫は河上大明神となりたまう。高良大明神、甥の大祝日往子尊は九月十三日に高良の山に遷幸あり。
神功皇后が存命の時、皇宮にて三種神祇の取り扱いを協議された。玉璽は、高良大明神が預かり給い、宝剣は、神功皇后が持たれ、内侍は、玄孫大臣が預かり給うなり。
大祝は本名字「鏡山」と申すなり。大祝は職についての名なり。
高良玉垂宮神秘書 第6条
安曇磯良は、筑前国にては志賀、日立国にては鹿島大明神、大和国にては春日大明神と申すなり。
高良玉垂宮神秘書 第7条
皇后の御妹に二人おわします。一人は宝満大菩薩、一人は河上大明神になりたまう。これ豊姫(ゆたひめ)のことなり。
高良玉垂宮神秘書 第14条
仁徳天皇、今は平野大明神と表わし給う。
高良玉垂宮神秘書 第183-187条
五姓仕人:丹波氏、安曇氏、前田氏、草部氏、草賀部氏
豊姫(ゆたひめ)の兄である川上タケルは、熊襲の統領となって反旗を起こしましたが、ヤマトタケルに佐賀県背振の広滝(廣瀧神社)で成敗降服して、命は助けられます。その逆賊の妹豊姫は忠臣となって、15歳年上の義兄の安曇磯良と一緒になって天皇家を助けました。
佐賀県川上に與止日女神社があり、豊姫は河上大明神として鎮座されています。
また、福岡県糸島の志摩半島西の二見ヶ浦にある夫婦岩は安曇磯良と豊姫を祀るものであり、この糸島の夫婦岩は紀伊半島伊勢の二見ヶ浦の夫婦岩のモデルとなっています。(多くの人は誤解されているが、この夫婦岩は伊弉諾命・伊弉冉命を祀るものではありません)
高良玉垂宮神秘書 第142、237条
高良大菩薩(開化天皇)は神功皇后崩御のあと、住み慣れた大宰府の皇居を出で、甥にあたる日往子尊を連れて、宝満川を小船で下り、やがて筑後においでになり、まず久留米市大善寺に着岸。ここで御船を新造して大舟で漕ぎだし、大川市酒見に上陸。風浪の宮九九社大権現を祀り、さらに有明海に出て、こんどは大牟田市黒崎に上陸。ここからまっすぐ北に陸行して山門郡瀬高イチコウラ、八女郡人形原を経て高良山に登り、八葉の石畳を築いて地主神たる高樹神を退け、ついに、この高良山に鎮座になった。ときに仁徳天皇の御宇9月13日のことであったという。
高良大菩薩(開化天皇)は日往子尊を甥とよんでいます。日往子尊は安曇磯良と豊姫の子ですが、開化天皇は甥の日往子尊を自分の子のように扱っています。
どのような関係にあれば、この家族関係が構成されるのであろうか。
開化天皇(高良玉垂命)は豊姫からして約25歳の年下である。親子程の違いがあります。
豊姫は高良玉垂命の乳母あり、高良玉垂命の若き日の配偶者となられています。安曇磯良・豊姫は義兄姉となられています。
豊姫は高良の神の配偶神である
高良の神は朝鮮半島へ出征して凱旋して帰って来た(高良山雑考・古賀寿)
そして、豊姫は神功皇后の義姉となり、(鴨)玉依姫は義叔母になる。また、日往子尊は高良玉垂命の甥になる。それで、高良玉垂命、神功皇后、安曇磯良・豊姫、その子・日往子は家族同然に皇宮に住んでおられました。
高良玉垂宮神秘書で、「(鴨)玉依姫、豊姫が神功皇后の妹」とあるのは、立場上の問題であり、神功皇后は皇后として女性で最高の地位にあり、二人の姫君は立場上、臣下・妹となるのです。
このように、豊姫(ゆたひめ)は、開化天皇(高良玉垂命)の配偶者であり、神功皇后の妹として重要な地位に就つかれています。
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