2024年11月28日

新ひぼろぎ逍遥@ スポット343 宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか? ❸ “菊池氏は大山祇系=トルコ系匈奴(王照君 系南匈奴=東西分裂後の東匈奴の南北分裂による南匈奴)”

新ひぼろぎ逍遥@ スポット343

宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか?

“菊池氏は大山祇系=トルコ系匈奴(王照君 系南匈奴=東西分裂後の東匈奴の南北分裂による南匈奴)”

20240907

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


再掲載


新ひぼろぎ逍遥 723 菊池氏とは熊襲(トルコ系匈奴)であった“ようやくその尻尾を掴んだ”20190129


 たあいもない邪馬台国九州説論者は可愛いだけですが、ただただ九州王朝論系の本を齧っているだけの古代史ファン(こういった方も所詮は研究者でもなんでもないのです)も殆ど議論されていない問題に熊襲の影が横たわっています。

 まず、九州王朝論者と言われる方でさえ肥後に肥前に対しては殆ど目を注いでおらず、ましてや、さらに南の古代日向の国=鹿児島、宮崎に至っては未知の領域として放置して来たのでした。

 その中で、唯一、存在感を示されたのが熊本市にお住まいだった故)平野 雅曠(ヒラノマサヒロ氏)=孤高の九州王朝研究者であり、もう一人の優秀な研究者の佃 収氏(存命) なのですが、平野先生の著書(「火の国山門」外3著)も真面目に読まれた方はほとんどおられないと思います。

 この辺りからして、九州王朝論を検証可能な場所が目の前に転がっているにも拘わらず、現地に足を運ぼうともせず、伝承を拾おうともせず、痕跡が残る寺社を調べようともしていないのです。

 古田武彦氏も鬼籍に入られ、それを継承せんとする○○古代史の会も自前の研究者を失い、一度も古田の著作を読んだこともないような会員の割合が増大し、今や通説派の教育委員会関係者や学芸員が流す大嘘を真に受け平伏するに至っているのです。

 このあまりにも情けない自称九州王朝論者の実態を見るにつけ、改めて古田の時代にだけに九州王朝論が存在していた事に気付くのですが、さて、愚痴はこの程度にして、前に進む議論を進めます。

 この神社の重要性をメンバーの数名に教えたところ一ケ月を待たずしてこの神社を見たいとの話が持ち上がり、福岡から大分から熊本から6名の参加者が集まり、車二台で参拝する事になりました。

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この狭上稲荷神社は西米良村という宮崎県でも辺境中の辺境の地なのですが、その中心地の村所地区からも7キロ登りさらに3キロ谷底に降りるとようやく辿り着く正しく辺境の地に息づき僅かな小平地に鎮座しているのが狭上稲荷神社なのです。

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既に直接的なリポートは ひぼろぎ逍遥(跡宮)の711712で書いています。


712

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(下)

711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(上)


この神社の重要度は語り尽くせないほどですが、まずは祭神をご覧頂きましょう。

鹿児島、宮崎については明治期に祭神が入れ替えられているものがあまりにも多く、鹿児島、宮崎に関しては「神社誌」を持たない事から、以下のサイトを利用させて頂くことにします。


宮巡〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜運営:宮崎県神道青年会 による


九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川と板谷川の合流点に位置する。地内には二基の古墳があり、小川の古墳一基とともに西米良古墳として県史跡に指定されている。一基は菊池記念館の裏の山中にあり、一基は当社の南側に位置している。

旧称狭上稲荷大明神と称し、創立年月日は不詳であるが、社蔵の由緒記によれば次のごとくである。

皇御孫尊阿田之長屋にご臨座し、大山祇命の娘、姉の磐長比唐畏れ給い、妹の木花咲哉比東ワ十鈴川上川に去ってしまった。大山祇命は跡を慕いて狭上の深川に跡を垂れ給う。爰に御陵あり、しかし空国にして祭る者がなかった。世降りて当社御陵を知る人も稀になっていた。時に天正年中、山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。西世法師の夢に白髪の老翁が現れ、我は是れ大山祇命なり、我陵を以て稲荷を祭り尊敬せば汝が子孫長久なる事疑う事なし、と言われた。西世法師山谷の狐魅我を犯すとしてそのままにしていた。また夢見があったので此の神を祭り尊敬すると日数を経ずして白狐稗粟大小豆を携えて来て西世法師に与えた。その後米良佐太夫の時に新たに社を建立した。その子孫の米良半右衛門と言う者が球磨表に越したので、その後中武氏神司となりここに居住した。

この由緒によれば、創建は古く菊池氏の入所後、氏の弟米良佐太夫の再興に係り、その子孫によって代々護持されてきたものである。                     ( 児湯郡 / 西米良村 )


大山祇命 倉稲魂命 大宮姫命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先


 同社の由緒記によっても明らかですが、この神社は菊池氏によって造られている事が分かるのです。

 実はこの事が極めて重要で、これまで菊池氏が何者なのかを判別する必要から菊池系氏族の住み着いたと思えるエリアの神社をいくら調べても中々如何なる神を奉斎する氏族なのかが分からなかったのです。

 これまで菊池系の神社をかなり見てきましたが、菊池則隆、武光、武時…といった先祖神は祀られているのですが、神代に繋がる神々が全く見えないのでした。

 ところが西米良村という辺境中の辺境の地のさらに奥地に祀られた神社が大山祗系であった事が今回初めて解明できたのでした。以前気付いていたのは東米良の銀鏡神社の磐長姫程度であって、これだけでは解明ができませんでした。

南北朝動乱期に於いて絶えず宮方として阿蘇氏と共に闘い続けたのは菊池氏でしたが、この氏族が何者であるかは大きな謎でした。

 特に、阿蘇氏の異い鷹羽と同様に並び鷹羽(西郷系は一枚鷹羽)を紋章としてしている事から、阿蘇氏の分流などと間違った解釈をしていた時期もありましたが、どう考えても阿蘇氏とは異なる氏族である事への思いは強く、彼らが祀る神々を何としても着きとめたいと考えて付けてきました。

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ようやくここに至って分かって来たのですが、彼らが宮方として南朝に組して闘う時に自らが熊襲=朝敵である事を隠す必要があったからこそ自らが奉斎する神々を隠してきたことが分かったのでした。


天正年間とは言え生粋の菊池氏が山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。”が密かに持ち込んだ事実であり、まさに自らの氏族しか入り込まない安全な場所に於いて奉斎していたという事実は菊池氏が本来祀っていた祖神が大山祗系であったことが見えて来たのでした。ここで、百嶋由一郎最終神代系譜(一部)をご覧頂きましょう。

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鹿児島県だけで登場する大宮姫伝承の大宮姫(天智天皇のお妃との話も登場する)でこの女神様の存在だけは不明ですが、銀鏡神社の磐長姫も含めて考えれば、狭上神社に祀られている神々は大山祗系のそれなのであり、菊池氏とは大山祗系のトルコ系匈奴だった事が改めて浮き彫りになったのでした。


 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

712

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(下)

711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)

稲荷神社が今も西米良村の最深部で息続ける(上)

623

続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu

622

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (下)

621

タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu (上)

   

ビアヘロ075 トルコ系匈奴が持ち込んだ地名について 


 ひぼろぎ逍遥

719

人吉盆地 あさぎり町久鹿の天子神社の「クシカ」とは

トルコ系匈奴の地名ではないのか? A

718

人吉盆地 あさぎり町久鹿の天子神社の「クシカ」とは

トルコ系匈奴の地名ではないのか? @


 今回の狭上稲荷神社の発見は極めて重要で、菊池氏の逃城として予め用意されていた東西米良、寒川などに奉斎されている神々を再度丹念に見ていく必要もあるのですが、狭上稲荷神社、児原稲荷神社から児湯郡から西都市に掛けての多くの稲荷神社の解析を行って行けば、西都市を本拠地とした大山祗系氏族の奉斎する神々が何かが浮かび上がって来るのではないかと考えています。

事実、西都市から宮崎市に掛けては異常なほどの稲荷神社の分布が認められます。

今後、我々の作業もこのエリアの稲荷神社の調査を行うことになるでしょう。

 もしかしたら、菊池氏の逃げ込み城、逃げ込み集落と言うよりも、元々菊池氏とは宮崎県西都市から都城市辺りから進出した氏族だったのかも知れません。

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そして、この一帯こそトルコ系匈奴の本拠地だった可能性が高いのです。

 その理由は、このトルコ系匈奴の一派が進出して来たのは少なくとも天孫降臨の前だった事は間違いがなく、天孫ニニギがコノハナノサクヤと出会い、大山祗から磐長姫とともに妃として送られ、妹のコノハナノサクヤだけが残されたという許しがたいふざけた話が残されているのです。

 勿論、百嶋神社考古学ではイワナガヒメ=アカルヒメとコノハナノサクヤヒメ=前玉姫とは姉妹の関係ではないのです。それには神代系譜を詳しく読み解いてもらう事になりますが、恐らく半島の新羅領域の金海伽耶の金 越智の一族が大陸の江南から進出した稲作漁撈の民であった倭人の領域を避け、稲作不適地であり空白地に近かった古代日向に進出した民族だったのです。

 そうすると、多分紀元百年程度の時期に半島から進出した民族だったと考えられそうです。

 その意味では、呉の太白の後裔氏族が列島に移動したのは呉の滅亡(前五世紀=473年)後でしょうからその時期に倭人が列島に移動し、その後も、越も楚も滅び、越人、楚人も入っているでしょう。

恐らく紀元前には雲南省から避退した黎族(阿蘇氏)、白族(天御中主命)が海南島を経由し肥後に入っているようです。

 既に、そこには朝鮮半島の伽耶を基盤にした高木大神系氏族が展開していたのですが、入婿として受け入れられたようです。

 このように多くの民族の進出によって列島の民族が形成されていったのですが、日本の歴史でもかなり重要な菊池氏に象徴される氏族が朝敵ともされた熊襲であり、だからこそ宮崎県都濃町に日向一の宮の都濃神社が鎮座し大国主命が主祭神とされていたのです。

大山祗系氏族をトルコ系匈奴と申し上げると違和感をお持ちの方は多いと思います。この疑問には、ひぼろぎ逍遥(跡宮)ビアヘロ075 トルコ系匈奴が持ち込んだ地名について を再掲載したいと思います。

 これまで何度も申し上げてきた事ですが、故)百嶋由一郎氏は大山祗系の人々とは半島の金海金氏であり、金首露王とアユタヤ王国王女(高木大神の同族)から送り込まれた許黄玉との間に産れた金越智氏と白山姫(白族)との間に産れているとお考えだったようです。

 さて、今回はこのトルコ系民族が持ち込んだのではないかと考えている地名の話をします。

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百嶋由一郎015金印神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残された音声CD、手書きデータ、神代系譜を必要とされる方は09062983254まで


始めにお断りしておきますが、これはトルコ語そのものといったものではないものの、この民族が定着した所に付されやすい地名と言った程度のものでしかありません。

吾平(アイラ)のようにハッキリしたトルコ語の音の置換えを意味してはいないものの、地域の祭祀と地名が対応することから、この地区は彼らが住み着いたものではないかと言った程度の話です。

「吾平」は神武僭称偽神武こと崇神(ハツクニシラス…)ではなく、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の本物のお妃となったアイラツヒメ「アイラ」がトルコ語のアイラール(月)と対応する明らかなトルコ語であることは、依然、お話しました。関心をお持ちなら以下をお読み下さい。


再掲載


ひぼろぎ逍遥 スポット055 吾平津姫をご存知ですか? “アイラツヒメとはトルコの月姫だった”


同様に元百嶋神社考古学グループの関東・ビューロー・メンバーの「宮古の縁側日記」でも本格的に取り上げておられます。無題.png

アイラと言う意味2016-08-01 12:41:04 テーマ:自然  前ブログでアイラツ姫について書いたのですが、他に気が付いた事があったので少しまとめておきます。

aylar- 名詞, トルコ語 | sprawk - ウェブ、あなたの道を翻訳 

https://www.sprawk.com/ja/term/トルコ語/aylar

aylar [Noun] 1. , つき (日本語) - one of the twelve divisions of the calendar year; 用語 "aylar"トルコ語翻訳、定義、例と一般的な関連語を持っています。

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そうです、トルコ国旗に描かれる通り、アイラツヒメとはアイラールaylar)姫(月子ちゃん)の事だったのです。

ニニギの墓とされる吾平山陵も良くよく考えれば奇妙な事に思えてくるのです。

ニニギの妃は神武の妃のアイラツヒメではなくコノハナノサクヤなのですから…。

 アイラール問題は一先ずおくとして、星は何かと調べるとユリディズ 「Yıldızでした。

地球:デュニャ 「Dünya月:アユ 「Ay 星:ユリディズ 「Yıldız 木:アアチュ 「Ağaç」(Tree)、タフタ 「Tahta」(Wood) 海:デニズ 「Deniz」 雪:エレクティリック 「Elektrik」 風:ルズガル 「Rüzgar

火:アテシ 「Ateş」 水:ス 「Su

「トルコ語で地球、月、星、木、海、雪、風、火」 から

星は何かと調べるとユリディズ Yıldızが気になりますが、まさか融月王のユーヅーではないでしょうね…。水:ス 「Su」もそのまま気になります。中国の淮水、弱水…といった川名は彼らによるものでしょう。

馬は…まあ、思考の暴走に陥るのでこの辺りでとめますが、神社のフィールド・ワークを続けていると、地名と大山祗、大国主系の領域にある種の対応に気付く様になってきます。

はっきり分かるのが、三日月であり、外にも石垣、柿ノ木、牟礼、群、諸…といったものがあるのですが、一度には片づけられませんので、少しずつ試みて見ようと考えています。

ちなみにトルコ語の三日月は Hilal ay (ayはアイラールですね)であり、馬は atだそうです。

では、第一回目として、気になっている三日月地名を拾うことにしましょう。

下調べのための作業用のノートをそのまま公開するのも申し訳ないのですが、所詮、専門家でもない素人の作業とお笑いください。

しかし、三日月は現在のトルコの国旗にも採用されており、彼らにとっても最もシンボリックなものである事は確実です。

このように列島のどこかには必ず痕跡を留めているはずなのです。そして不思議な事に、日本は日の丸として太陽を、彼らは月と星を描いているのです。どちらにせよ、神武天皇のお妃の名がトルコ語だったのですから、外来語として色々な形で取り込まれているはずなのです。

 最低でも、鹿児島県の姶良も人吉の相良もアイラール起源かも知れないのです。        以上

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2024年11月27日

新ひぼろぎ逍遥@ スポット342 宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか? ❷

新ひぼろぎ逍遥@ スポット342

宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか?

20240907

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


熊襲=トルコ系匈奴については、これらの系譜から読み取って下さい。これまで何度も申し上げてきた事ですが、故)百嶋由一郎氏は大山祗系の人々とは半島の金海金氏であり、金首露王とアユタヤ王国王女(高木大神の同族)から送り込まれた許黄玉との間に産れた金越智氏と白山姫(白族)との間に産れているとお考えだったようです。

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百嶋由一郎015金印神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで


以下、補足と言うより蛇足に近いですが、興味がおありならお読みください


再掲載


新ひぼろぎ逍遥 700 白浪五人男も天御中主系の人々ではないのか 20181016


 「白浪五人男も天御中主系の人々ではないのか」と、言っても、元々、創られた架空の話であってこのようなことを考える事には何の意味もない、言わば只の遊びですから気楽に考えて頂きたいと思います。

 一般的に「白浪物」と言えば石川五右衛門とか鼠小僧次郎吉…といった盗人物なのですが、最も人気があるのが、白浪五人男の二幕目第三場「稲瀬川勢揃いの場」での「志らなみ」の傘をもっての揃い踏みになるでしょう。

 この五人衆を見ていると、設定が江戸〜上方が東海地方だったとしても、どうも白族(天御中主〜大幡主〜ヤタガラス)の匂いがしたため、少し探ってみようと思ったのです。

最低でもこの出し物を考えた人々の中にはこの白族の血が継承されているような気がしたからでした。

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ペリーの来航から日も浅い嘉永末年の江戸は、屋台骨が揺らぎ始めた幕府のもと、雄藩の藩士や郷士が日夜気ぜわしく道を行き交う、騒然とした世相にあった。政情の先行きが不透明ななか、人斬り浪人が横行するようになると江戸の治安も乱れはじめ、庶民の不安は募るばかりだった。

そんななか、講釈師・二代目松林伯圓がつとめる盗賊を主人公にした講談が人気を集めるようになる。これに目をつけた二代目河竹新七(のちの黙阿弥)は、盟友・四代目市川小團次のためにこれらの講談を次々に脚色して歌舞伎化した。これが白浪物の興りである。

安政年間から新七は実に次から次へと白浪物を書き連ね、それを小團次が次から次へと演出して舞台で主役をつとめたので、前者は「白浪作者」、後者は「白浪役者」と呼ばれるようになった。小團次にいたっては「白浪役者」がさらに転じて「泥棒小團次」とまで呼ばれるようになり、この人聞きの悪いあだ名にはさすがの小團次も閉口したという。


ただ、何故「白波」「白浪」が盗賊に通じるのかが分からないのです。

まさか、白族が倭人や倭寇の海賊行為に繋がるとの意識が働いているのではないかとも思わないではないのですが。以下で少し謎が解けました。


「白浪」の由来

「白浪」の名称は、かつて中国で「盗賊」を意味した「白波賊」(はくはぞく)という語に由来する。後漢末に黄巾の乱を起こした盗賊・張角の残党が、のちに河西(現在の山西省)の白波谷(はくはこく)に立てこもったことから白波賊と呼ばれるようになったが、後になるとこれが盗賊を意味する語として定着した。日本では近世にこの「白波」が訓読みされて「しらなみ」となり、さらにこれに当て字した「白浪」が義賊を表す語として定着した。

ウィッキペディア(20181016 1403による


日本 駄右衛門 にっぽん だえもん    変名 玉島逸当(たましま いっとう) 玉」も八咫烏

問われて名乗るも おこがましいが産まれは遠州 浜松在十四の年から 親に放れ身の生業(なりわい)も 白浪の沖を越えたる 夜働き盗みはすれど 非道はせず人に情けを 掛川から金谷をかけて 宿々(しゅくじゅく)で義賊と噂 高札に廻る配符の 盥越し(たらいごし)危ねぇその身の 境界(きょうがい)も最早(もはや)四十に 人間の定めは僅か 五十年六十余州に 隠れのねぇ賊徒の首領 日本駄右衛門


掛川から金谷の金谷とは 三重県伊賀市川西金谷のことですし、伊賀氏は伊賀伊予守(大山祇を暗示)


 弁天小僧 菊之助 べんてんこぞう きくのすけ

さて其の次は 江の島の岩本院の 児(ちご)上がり平生(ふだん)着慣れし 振袖から髷(まげ)も島田に 由比ヶ浜打ち込む浪に しっぽりと女に化けた 美人局(つつもたせ)油断のならぬ 小娘も小袋坂(こぶくろざか)に 身の破れ悪い浮名も 竜の口土の牢へも 二度三度だんだん越える 鳥居数八幡様の 氏子(うじこ)にて鎌倉無宿と 肩書も島に育って 其の名さえ弁天小僧 菊之助(菊池の「菊」ですね)


以下、 無題.png無題.pngより


 かつて江の島には、岩屋本宮、上之宮(中津宮)、下之宮(辺津宮)の三宮があって、それぞれ、岩本坊、上之坊、下之坊という別当寺があった(いずれも古義真言宗)。

 現在の旅館岩本楼は、岩屋本宮の別当「岩本坊」。岩本坊は、一山の総別当だったといわれ、「江島寺」とも呼ばれていたという。

 中世には間宮氏が経営し、岩本楼には、鎌倉公方足利成氏から間宮氏に送られた感謝状をはじめ、小田原北条氏からの書状が残されている。

 江戸時代には京都仁和寺の末寺となり、江戸幕府からは、1649年(慶安2年)、江の島全山の山林竹木等諸役免除の朱印状が与えられ、1706年(宝永3年)には、片瀬村に社領15石の朱印地が与えられた。また、江戸時代には、院号の使用が許され「岩本院」と称していたという。(仁和も八咫烏系)


忠信 利平 ただのぶ りへい

続いて次に 控えしは月の武蔵の 江戸育ち幼児(がき)の頃から 手癖が悪く抜参りから ぐれ出して旅を稼ぎに 西国を廻って首尾も 吉野山まぶな仕事も 大峰に足をとめたる 奈良の京碁打(ごうち)と云って 寺々や豪家へ入り込み 盗んだる金が御嶽の 罪科(つみとが)は蹴抜(けぬけ)の塔の 二重三重(ふたえみえ)重なる悪事に 高飛びなし後を隠せし 判官の御名前騙り(おなめぇがたり)の 忠信利平


赤星 十三郎 あかぼし じゅうざぶろう

又その次に 連なるは以前は武家の 中小姓(ちゅうごしょう)故主(こしゅう)のために 切取り(きりどり)も鈍き刃(やいば)の 腰越や砥上ヶ原(とがみがわら)に 身の錆を磨ぎ直しても 抜き兼ねる盗み心の 深翠(ふかみどり)柳の都 谷七郷(やつしちごう)花水橋の 切取りから今牛若(いまうしわか)と 名も高く忍ぶ姿も 人の目に月影ヶ谷(つきかげがやつ)神輿ヶ嶽(みこしがたけ)今日ぞ命の 明け方に消ゆる間近き 星月夜其の名も 赤星十三郎

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現在も熊本県山鹿市の中心部に「十三部」(実は久留米市にも)があり偶然ですが赤星歯科まで…


砥上ヶ原は藤沢の地名です。また、谷を「やつ」と呼ぶのは、東日本であり(一部薩摩にも)、月影ヶ谷(つきかげがやつ)神輿ヶ嶽 も鎌倉の地名ではあるのです。

ただ、勝手ながら「赤星」姓の集積と「十三」地名が重なるのは山鹿市になるのです。


南郷 力丸 なんごう りきまる 漁師崩れの早瀬主水家若党 四十八(よそはち)

さてどんじりに 控えしは潮風荒き 小ゆるぎの磯馴(そなれ)の松の 曲りなり人となったる 浜育ち仁義の道も 白川の夜船へ乗り込む 船盗人(ふなぬすびと)波にきらめく 稲妻の白刃に脅す 人殺し背負(しょ)って立たれぬ 罪科(つみとが)はその身に重き 虎ヶ石(とらがいし)悪事千里と いうからはどうで終い(しまい)は 木の空と覚悟はかねて 鴫立沢(しぎたつさわ)しかし哀れは 身に知らぬ念仏嫌ぇな 南郷力丸


鴫立沢(しぎたつさわ)も大磯の地名ですね。この程度の薄い材料でここまでやることに意味はないのですが、まず、弁天小僧吉之助に宗像三女神の影を見出したのが切っ掛けでした。

 勿論、弁天様=弁財天様は江戸期に流行したインドの水の神様ですが、それは神社への信仰の強化を企図したもので、その実体は白族の一派である宗像の市杵島姫に通じるのです。

 市杵島姫も天御中主や罔象女と共に水分神(ミクマリ)の水の神様ですよね。

 そう考えて、キャッチ・コピーに登場する江の島の岩本院を洗うと、京都仁和寺の末寺ですから石清水八幡系であり、宗像大社の岩屋本宮、上之宮(中津宮)、下之宮(辺津宮)の三宮でしたので、まずは、ピッタリと言った訳で、ここでは大幡主系と五人衆の一角がかなり鮮明に繋がったのでした。

 そもそも岩本姓も橘一族と繋がるもので、男山八幡宮48坊にも岩本坊があるのです。

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日本 駄右衛門 もその変名に玉島逸当があり、「玉」が入るのも、豊玉彦、鴨玉依姫…に通じますね。

赤星 十三郎 もどう考えても、九州の橘一族を感じてしまうのです。何故かと言われれば、赤星姓が集中する菊池市の奥には橘一族の直系の橘 諸兄を主神とする天地元水神社までがあるからなのです。

いずれにしても橘一族(白族後裔)の流れを汲む人物が「白浪五人男」の創作に何らかの形で関与しているのではないかと考えていましたが、やはりそうでした。

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青砥稿花紅彩画 石川五右衛門、鼠小僧と並ぶ日本屈指の盗賊「白浪五人男」の活躍を描く。

明治の名優五代目尾上菊五郎の出世芸となった作品。17歳の時から生涯6度演じており、最後の舞台も弁天小僧だった。菊五郎の自伝によれば芝居の関係者の直助と言う男が三代目歌川豊国画の錦絵を見せに来たら、自分自身が弁天小僧の扮装で抜き身の刀を床に突き刺して酒を飲む絵柄だったので早速河竹新七に脚色を依頼したとある。

別の説ではある日新七が両国橋で女物の着物を着た美青年を見かけてみてふと思いつき、そのことを豊国に話すと豊国はそれを錦絵にしてさらに新七がそれをもとに劇化したという。劇の宣伝文である「語り」には「豐國漫畫姿其儘歌舞伎仕組義賊傳」(大意:豊国の下絵に描かれた姿をそのまま歌舞伎に仕立て上げた義賊伝である)とあり、いずれにせよ豊国の作品からヒントを得て作られたことは間違いない。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 お分かりでしょうか?豊国なる人物こそ豊玉彦=豊国主=八咫烏の別名、秦氏なり大幡主に関わる人物だったようなのです。以上 さて、ここから本題に入ります。

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2024年11月24日

新ひぼろぎ逍遥@ スポット341 宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか? ❶

新ひぼろぎ逍遥@ スポット341

宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社には、何故、「磐長姫」が祀られるのか?

20240907

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


銀鏡神社と書いて、「シロミ」と読める方はそれほど多くはおられないでしょう。

 この神社がある場所は、宮崎県西都市でも最奥部の僻陬の地になります。近年(と言っても1962年ですから60年以上前になります)、俗に東米良と呼ばれるかなりの部分が西都市に入ったからでした。

結果、西米良村だけが残り、東米良の多くが西都市と木城町に入り、米良東部が消えたのでした。


西米良村 15世紀初頭、菊池氏の末裔とされる米良氏が米良に移住。米良山14か村[5]の領主として当地を支配。江戸時代中期の承応年間(1652 - 1655年)以降、現在の西米良村小川にあった小川城(米良氏屋敷)を居城とした。米良氏は明治維新後に菊池氏に改姓した。

米良山は元和年間(1615-1624年)に人吉藩の属地とされ、廃藩置県(1871年)の際には人吉県(後に八代県、球磨郡の一部の扱い)となり、1872年に美々津県(宮崎県の前身)児湯郡に移管された。こうした歴史的経緯から米良地方は宮崎県(日向国)の他地域よりも熊本県(肥後国)球磨地方との結びつきが強い。これは現在も飲酒嗜好にも表れており、西米良村では球磨焼酎(25度の米焼酎、宮崎県内は20度の芋焼酎が主流)、特に高橋酒造の「白岳」が愛飲されている[6]

ウィキペディア(20240907 14:21)による

それでは、銀鏡神社について考えていく事にしましょう。ただ、後には分かって頂けるとは思うのですが(?)、西都市に住む人々と、米良の菊池一族(総じて菊池市に住む人々も含めて)、つまり、永らく同地で自らの素性を隠し続けてきた人々とは(理解して頂けるかは別にして)同族と考えているのです。

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これくらいでは分からないと思いますが、凄まじいほどの山奥の小集落に銀鏡神社が鎮座するのです


 もう25年も前になりますか民俗学にかぶれていた頃でしたが、柳田國男が入った米良地区に対し、師匠の対象地を避け自らのフィールドとして宮本常一が入った椎葉村の栂尾に通い始めたのでした。

以後20年以上に亘り、椎葉の栂尾神楽に通った事を思い出します(現在、栂尾の33番神楽は、その舞台である栂尾神社への道路崩壊とその復旧の遅れによって5年近く休止が続いているのです…)。

とは言え、昔、銀鏡神楽も一度は見ておこうと、翌朝まで夜通し付き合いましたが、私にはどうしても阿蘇系(青井阿蘇神社系)の33番神楽の方が魅力的で素晴らしく思え、今もその気持ちは変りません。

 ただ、ここから話を東米良の銀鏡神社に話を戻します。かなり、まだろっこしい話をしましたが、栂尾神楽への思い入れからどうしてもこの事には触れておかざるを得なかったのでした。

さて、ここからお手数ですが、5年前に書いたバック・ナンバーをお読み頂きたいと思います。


再掲載

ビアヘロ108 菊池一族は阿蘇系とは異なる民族だった! 201900910

ここ一年で ひぼろぎ逍遥+ひぼろぎ逍遥(跡宮)に以下の34本をアップしています。


ひぼろぎ逍遥

723

菊池氏とは熊襲(トルコ系匈奴)であった 

“ようやくその尻尾を掴んだ”


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

712

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が

今も西米良村の最深部で息続ける(下)

711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が

今も西米良村の最深部で息続ける(上)


ビアヘロ105 菊池一族とは大山祗系民族だった!“内倉武久氏らと宮崎熊本県境の狭上稲荷神社に…”  


 このため、本稿もビアヘロ版105の続編とお考え頂いて構いません。

 日本人は単一民族であり、奈良県辺りにあった卑弥呼の邪馬台国から大和朝廷へと発展し遍く列島に広がって行ったなどと惚けた宣伝に載せられる方ならばいざ知らず、南島は元より江南から山東半島の淮河から、また、半島から渡って来た多くの民族によって列島民族が形成されてきたという至って常識的で、かつ、ありうる話から言えば、玄関口に近い肥後は黒潮の対馬分流が流れ込む土地でもあり、初来の訪問者が住み着いた土地であるはずなのです。従って、後に、半島〜大陸に侵入を繰り返した蛮族も含め、列島への避退、進出が繰り返され、多くの民族、氏族が、古来、入り続けてきたはずなのです。

無題.pngここ十年ほど、南北朝争乱期を中心に跋扈した菊池氏とは阿蘇氏と別の氏族というより、全く別の民族ではないかと考えてきました。一つの疑念の切っ掛けは、菊池市の中心領域に「赤星」という地名が存在する事でした。赤星と言えば直ぐに頭に浮かぶのが「先代旧事本紀」ですが、同時に頭を過るのが歌舞伎の「白浪五人男」の赤星十三郎でもありました。 

多分、出雲(阿国)から発生した歌舞伎のこと出雲が物部の本拠地の一つであった事が分かれば、新たな関係性が見えてくるでしょう。面白い事に隣の山鹿市中心部には十三部(ジュウザブ)とも読める地名まであるのです。多分、赤星十三郎の名の採用に関係しているのでしょう。

後段でも触れますが、多くの人が古代出雲王国の主などと誤解 

している大国主命とは、大山祗の子であり(百嶋由一郎最終神代系譜)、出雲も海人族と大山祇系氏族の本拠地だったからなのです。 

話は跳びますが、島根県大田市にニギハヤヒの裔のウマシマジを主神とする物部神社が在る事を思い起こして下さい。さらに加えれば、久留米市の中心部にも十三部があるのです。これについても古いブログで書いていますが、散漫になりますので、ここでは触れません。推定ですが、大陸の漢帝国(十三都督府と)関連するのです。

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繰り返しになりますが、赤星と言えば直ちに「天津赤星」が頭に浮かびます。この物部氏の中核勢力たるニギハヤヒに直結する集団が赤星(後の筑紫弦田物部か…)であり、その地名が存在すること自体菊池氏が阿蘇氏とは全く異なる民族ではないかと考えざるを得なかったのです。


天津赤星 …なお,〈明の明星〉〈すばる()〉〈北斗七星〉〈宵の明星〉はそれぞれの項目を参照されたい。天津赤星(あまつあかぼし)《旧事紀》の天神本紀にある。饒速日(にぎはやひ)尊に従って天降り供奉したとあり,尾張国神名帳に赤星大明神というのがこれらしい。…    「コトバンク」による


本来これだけでも気付くべきでしたが次に疑問を持ったのが家紋でした。

菊池氏と言えば皆さんご存じの並び鷹羽が良く知られています。これでは菊池氏が阿蘇氏の兄弟分にしか見えませんね。しかし、元々は日足紋を使っている事は分かっています(普通は鎌倉期の第8代菊池能隆辺りからとされますが)。それ自体がある種の偽装である事にようやく思い至ったのでした。

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ここで、宮方として義を全うした南北朝の忠臣氏族菊池氏…といった先入観を取り除き、菊池氏が阿蘇氏とは全く異なる民族であり、物部氏ですらあったと考えたら一挙に謎が解けてくるのです。

 既に、13世紀後半から鎌倉幕府執権体制の崩壊から始まりますが、直接的には室町期の13361392年までの60年ほどの内乱期が南北朝時代とされます。ここでも九州の宮方(阿蘇氏、菊池氏、五条家、黒木氏…)が屈服する事によって全国が平定される事になるのです。この時、南朝方として戦う宮方連合軍内に於いて、多くの氏族が参画してくる中にあって、正統皇統を主張する宮方にとって武家=武士(モノノフ)=物部(モノノベ)に直結する菊池氏が宮方勢力と理解されない事を嫌い(朝敵の熊襲が宮方に入るとは何事だ!と言われる事を避けたのではないか?)、よって、阿蘇氏の神紋である鷹羽紋を使い、阿蘇氏の一派の様に装ったと考えると何とか謎が解けるのです。鎌倉初期までは日足紋を使っているようですが、徐々に物部隠しが始まっていたように見えるのです。では、菊池氏が阿蘇氏とは全く別の一族で物部氏と言えるのでしょうか?この菊池氏の出自を探るために時間を費やしました。しかし、何とかその糸口が得られたのです。


菊池氏とは大山祗の後裔氏族だった


 さて、熊本県人吉盆地の奥の奥、宮崎県の西の国境に西米良村があり、その中心地からさらに10キロ入る辺境の地に狭上(サエ)稲荷という神社があります。

この神社が如何に価値あるものであるかは言い尽くしようがありません。これまで三度参拝し、見えて来た認識を進め、更に、一般にも広くお知らせしようと思うものです。

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この狭上稲荷神社は西米良村という宮崎県でも辺境中の辺境の地にあるのですが、村の中心部の村所地区からも7キロ登りさらに3キロ谷底へ降りるとようやく辿り着くという正しく大変な場所の僅かな小平地に鎮座している稲荷神社です。しかも同社の傍には伝大山祗の墓とする古墳までがあるのです。この古墳には石棺もあるらしいのですが、後述の「石櫃」地名と関係があるのではないかと考えています。

 実は、同社への道は川沿いに上がる直行ルートが本来の参道の様で、川沿いに今も上がっては来られようですが車で入る事が出来る道がないため、現状では延々10キロの山道を迂回し入るしかないのです。


九州山地中央部の山間地、一ツ瀬川と板谷川の合流点に位置する。地内には二基の古墳があり、小川の古墳一基とともに西米良古墳として県史跡に指定されている。一基は菊池記念館の裏の山中にあり、一基は当社の南側に位置している。

旧称狭上稲荷大明神と称し、創立年月日は不詳であるが、社蔵の由緒記によれば次のごとくである。

皇御孫尊阿田之長屋にご臨座し、大山祇命の娘、姉の磐長比唐畏れ給い、妹の木花咲哉比東ワ十鈴川上川に去ってしまった。大山祇命は跡を慕いて狭上の深川に跡を垂れ給う。爰に御陵あり、しかし空国にして祭る者がなかった。世降りて当社御陵を知る人も稀になっていた。時に天正年中、山中堂栄、煮田之尾勝房・山佐礼左近・西世法師の四人兄弟狭上の東西南北に柴の庵を結んで露命を繋いでいた。西世法師の夢に白髪の老翁が現れ、我は是れ大山祇命なり、我陵を以て稲荷を祭り尊敬せば汝が子孫長久なる事疑う事なし、と言われた。西世法師山谷の狐魅我を犯すとしてそのままにしていた。また夢見があったので此の神を祭り尊敬すると日数を経ずして白狐稗粟大小豆を携えて来て西世法師に与えた。その後米良佐太夫の時に新たに社を建立した。その子孫の米良半右衛門と言う者が球磨表に越したので、その後中武氏神司となりここに居住した。この由緒によれば、創建は古く菊池氏の入所後、氏の弟米良佐太夫の再興に係り、その子孫によって代々護持されてきたものである。

宮巡 〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜 運営:宮崎県神道青年会

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第二度目は熊本の女性メンバーなど6名で入りましたが、今回、当会の新メンバーであり人吉盆地の一角でblog「ひろっぷ」を書き続けておられるM女史に、芦北町の郷土史グループ「野坂の浦」メンバーの吉田先生、さらに大阪から来られた内倉武久先生の3人をお連れしました(M女史は都合で参加できませんでしたが)。石櫃は、まず石棺ですね。

 四人の思いは各々あったでしょうが、少なくとも私が最も関心を持っていたのは南北朝期に宮方として闘い続け敗れ去った菊池氏が何者であるかをさらに多くの観察通者の目で掴むことにありました。

 九州の中近世史を考える上でも菊池氏は無視できませんが、実は九州の古代史を考える上でも決して無視できない存在でもあるのです。簡単に言えば岩手県が顕著なのですが、東北地方に菊地、菊池姓を名乗る方が大量におられる事は良く知られています。中近世期に同氏の目立った移動が確認できないため、恐らく八世紀以前の九州王朝の時代に何らかの理由で展開しているのではないかとも考えて来ました。

南朝方菊池氏…云々だけで凝り固まっておられる方は別として、我々九州王朝論者にとって、この菊池氏が何者であるかについてはこれまで闇に包まれてきました。普通はその氏族が奉斎する神社の祭神や家紋を見れば凡その見当が着くのですが、菊池氏については、それが効かなかったのです。

 例えば神社ですが、いくら多くの菊池系神社を踏もうが祭神は菊池武光、武時、始祖の則隆…ぐらいで一向に祭神が見えてこないのです。唯一、33番神楽でも知られ菊池氏の逃げ城と言われた現宮崎県西都市 東米良の銀鏡(シロミ)神社だけに磐長(イワナガ)姫(通説で大山祗からニニギにコノハナノサクヤと共に送られるも返されたと言う酷い話に仕立てられた)が祀られ僅かにその痕跡を感じていましたが、ようやくその意味が見えて来たのです。先に狭上稲荷神社の祭神を再度確認しましょう。


銀鏡(シロミ)神社 カーナビ検索 宮崎県西都市大字銀鏡492

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地元の〜神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト〜運営:宮崎県神道青年会 によれば 大山祇命 倉稲魂命 大宮姫命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先 となりますし、同社の由緒に依れば、大山祇命 蒼稲魂命(恐らく倉稲魂命) 大己貴命 大己貴命 菊池武光公及びその祖先となり、鹿児島県だけに分布する大宮姫伝承の大宮姫命は含まれてはいません。

 確認したい方は以下をお読み下さい。いずれにせよ菊池一族が奉斎する神々の見当がある程度は着くのです。これに加え、銀鏡神社の磐長姫を考えれば菊池氏が何者かの見当が大凡着くのではないでしょうか。

 同社由緒の全文は以下で確認できます。


711

亡命した菊池氏によって持ち込まれた狭上(サエ)稲荷神社が

今も西米良村の最深部で息続ける(上)


では、我が百嶋由一郎最終神代系譜で確認して見ましょう。

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稲荷様とは伊勢の外宮の豊受大神こと辛国息長大姫大目姫(大山祗の長女神大市姫の娘)です。

これらから読み解けば、狭上稲荷の祭神(当然にも稲荷を含む)の全てが大山祗のファミリーであり、菊池氏が奉斎する神々がウマシアシカビヒコチ(トルコ系匈奴=王昭君系親漢派の南匈奴の後裔)と天御中主命(白族)の後裔であることが分かるのです。

 では、銀鏡神社の主神の磐長姫(通説でコノハナノサクヤの姉とされる)の方はどうなのでしょうか?

 その前に磐長姫が誰かが分かっておられない方が多いと思います。

 これについては、当方のバック・ナンバー ひぼろぎ逍遥(跡宮)020 細石神社とは何か?などを読んで頂くしかないのですが、分かり易いのは ひぼろぎ逍遥 487 安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト @ かも知れません。


487

安産の里無津呂の神々 子安神社 ジネコ神社協賛プロジェクト @


 一応の説明を致しますが、率直に言えばかなり分かり難いと思います。このため、先に分かり易い方の簡略化した説明をしておきます。

@  コノハナノサクヤは確かに高木大神の息子であるニニギのお妃になります(その子が糸島半島の桜谷神社の古計牟須姫命)。しかし、百嶋翁の話によると数年で別れ、豊玉彦=ヤタガラスの傘下に入り事実上のお妃のお一人となります。このため保身の意味もあり八咫烏の一族を祀ったとも…。

A  とすると、ヤタガラスの姉がアカルヒメ=磐長姫ですから、コノハナノサクヤにとってアカルヒメとは義理の姉にはなるのです。

 これががコノハナノサクヤの姉とされる仕組みなのです。しかし東米良の銀鏡神社の祭神が磐長姫とされた理由は不明です。もしかしたら天御中主命の勢力(白族)の支援を期待しての事だったのかも知れません。これでも菊池氏が大山祗系の氏族である事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

前述の如く通説では木花之佐久夜毘売は、ホデリ(ホアカリ?)、ホスセリ、ホオリの三柱の子を産むとしますが、百嶋神社考古学ではそれを認めません。また、磐長姫と木花之佐久夜毘売とが実の姉妹である事も認めません。また、無関係でもないと言うより、むしろ関係性の強い従妹のようなもなのです。

B  南北朝期に阿蘇氏と連携し戦い続けた菊池氏でしたが、彼らが自らの素性、つまり熊襲であった事を隠す必要が有り阿蘇氏と同様の鷹羽紋に変更し阿蘇氏一派つまり熊襲ではないと偽装した可能性が浮かび上がってきました。つまり朝敵と言われないための配慮だったのです。今後も探索します。(現時点での補足:磐長姫とはカミムスビの娘で八咫烏の妹のアカル姫であり、大幡主=カミムスビの娘なのです。ただ、アカル姫はスサノウの妃ともなっていることから、姻戚関係の結果、義理の姉妹とまでは言えるのです

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まず、百嶋神社考古学で、イザナミはイザナギと別れた(神話では黄泉の国で喧嘩別れした事になっていますが)後、博多の櫛田神社の大幡主のお妃となり、豊玉彦=豊国主=ヤタガラスとアカルヒメを産みます(これには多くの傍証がありますが、ここでは省略します)。熊野は、本来、イザナギは祀らない。

敢て、分かり難い方の解説を行なえば、磐長姫は博多の櫛田神社の大幡主(白族)を父神として金山彦(瀛氏)の妹神であるクマノフスミ(イザナミの後の神名)を母神として生まれたアカルヒメ(スサノウのお妃で姫島に戻ってきた)とします。

一方、コノハナノサクヤヒメ大山祇(越智族)を父神として、博多の櫛田神社の大幡主の妹である埴安姫母神として産れた大国主命の妹とします。このため妙な表現になりますが、父神も母神も異なるものの、アカルヒメの父神とコノハナノサクヤヒメの母神が兄妹であることから、腹違いで種違いの従姉妹といった関係にはなるのです。これらは勿論伏せられてはいますが、百嶋先生がこの事実を把握された事により、問題が鮮明になってくるのです。通説はこれを姉妹としていますが、アカルヒメこと磐長姫が醜かったから返されたとする神話には、阿蘇氏の後裔としての藤原の作為が感じられ、金山彦系を貶める意図があるように思えるのです。

 ただ、磐長姫の名誉のために申しあげておきますが、イワナガヒメ=アカルヒメは新羅の王子様であったスサノウから逃げて国東半島正面の姫島に上陸したとされているのであって、スサノウが但馬の出石に追いかけてきたほどの女神であったとすれば、到底醜かったなどとは思えないのです。

以下、百嶋由一郎最終神代系譜と極秘系譜(部分)

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本稿も無論再掲載ですが、現在行っている、高森町内での神社トレッキングなどで新たに接触し始めた神社研究グループが、それこそ辺境中の辺境の宮崎県西都市に鎮座する東米良の銀鏡(シロミ)へのトレッキングとその調査報告を行っておられることから、菊池氏の逃げ城とも言われる銀鏡神社に、何故、岩長姫が祀られているのかを巡る議論に一石を放り込み、波紋を増幅させたいと考えたからでした。

この中で、菊池氏は阿蘇氏の一派でも臣下でもなく、全く異なる起源を持つ集団であることを描き、南北朝争乱期の九州に於いても、神代、古代を引き擦っている事を描こうとするものです。

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