新ひぼろぎ逍遥@1042 南魚沼への神社調査(下調べの作業ノート)⓮坂本神社を解明しましょう(D)2
20240506
太宰府地名研究会 古川 清久
南魚沼に入るのは今回が初めてとなります。その下調べによって坂本神社を2社発見しました。少し調べるとこの神社が福岡県筑後地方から移動してきたものである事が分かってきました。
このため坂本神社が九州起源であることを説明することが迫られました。
これについては、当会でも筑前筑後の神社研究のエースに登場して頂くことにしました。
太宰府地名研究会(百嶋神社考古学)でも筑前、筑後の神社研究の専門家である宮原誠一氏による坂本神社への考察を全文ご紹介することにしました。

以下をお読みください。そして余裕がある方は外もお読みください。
No.70 高良九体皇子と坂本命と二人の門神様 @ 初めはこちらから No.71高良九体皇子と坂本命と二人の門神様 A 同じく No.180 筑後川河北の王子宮は坂本命を祀る坂本神社@直接的に坂本命についてはこのブログを No.181 筑後川河北の玉垂御子神社(王子宮)A その上位の玉垂皇子神社についてはこのブログ |
宮原誠一の神社見聞牒(181)
平成30年(2021年)11月08日
No.181 筑後川河北の玉垂御子神社(王子宮)A
■小郡市大板井の玉垂御子神社
小郡市の文化会館の西に鎮座です。神社から東約3Km の上岩田(井上)に玉垂命を祀る老松神社があります。比較的近くに親神様の玉垂命を祀る神社があるのは、朝倉市下浦の王子神社と同じ環境です。
大板井の玉垂御子神社の社殿形式も朝倉市下浦の王子神社と同じです。社頭に六角灯籠があり、門神社が楼門近くにあり、拝殿前にも六角灯籠があり、社紋も木瓜紋です。これらの形式は坂本神社に似ています。
玉垂御子神社 福岡県小郡市大板井169


楼門の由緒書です。
小郡市大板井の玉垂御子神社は「九躰皇子」を祀る王子宮です。
創立不詳、大板井と小板井の氏神様です。
本殿、幣殿は昭和23年7月に消失、同年8月に再建。昭和40年に鉄筋コンクリに改築。
境内社として、拝殿から見て楼門の左に若宮神社、右にスサノヲ神社です。

楼門の両側に門神社の形式です。向きが対面でなく本殿を向いています。
由緒では左が若宮社、右がスサノヲ社となっています。
祭神の第一王子が若宮なので、若宮社は摂社の位置にあるべきです。本来は門神社なのでしょう。


社殿の形式は、朝倉市下浦の王子神社と同じ形式で、坂本神社様式です。
氏子さんは、廣田、立石、黒田、川口さん等多様です。
村神社としては、氏子さんから見て、祭神の九柱の「九躰皇子」は、氏神様としては祭神が多すぎると思えます。神社形式からして坂本神社様式なので、主祭神は坂本命だったのかも知れません。祭神としては、坂本命は表に出すことができず、「九躰皇子」の名を形式的に出された、と想像するのです。
■木瓜紋は彦火々出見尊の神紋
高良大社の神紋は、案内パンフレットには下記のように書いてあります。

主祭神の玉垂命(開花天皇)の神紋は門光紋です。中央には木瓜紋(もっこうもん)ですが、門光紋(花菱紋)でないと木瓜紋は奉斎氏族の紋か彦火々出見尊の神紋となります。木瓜紋は主祭神玉垂命(開花天皇)の紋章ではありません。

高良大社の賽銭箱の木瓜紋

中央は主祭神玉垂命の神輿で屋根には「木瓜紋」が打ってあり、鳳凰が乗っています。左は住吉大神の神輿で屋根には「五七桐紋」が打ってあります。
右は八幡大神の神輿で屋根には「右三巴紋」が打ってありますが、扉には「流れ右三巴紋」であり、旗には「左三巴紋」となっていて統一されていません。
高良大社の神紋の一つに木瓜紋がありますが、木瓜紋は彦火々出見尊の神紋です。木瓜紋、剣花菱紋は九州王朝を支えた方々の紋章です。また、高良大社の賽銭箱に木瓜紋が打たれています。社殿の到る所に打ってある紋章は「流れ左三巴紋」です。「流れ三巴紋」は豊玉彦の紋章です。「右三巴紋」は正八幡大幡主の紋章です。
「右三巴紋」であれ、「左三巴紋」であれ、八幡大神の紋章です。
高良大社の八幡大神は正八幡大幡主か「流れ三巴紋」の豊玉彦となります。
八幡大神の神輿の扉には「流れ右三巴紋」、社殿の到る所には「流れ左三巴紋」の紋章です。
これからすると、八幡大神は豊玉彦と想定します。江戸時代の高良大社がある御井郡、隣の竹野郡の地は大幡主豊玉彦ご一統の地です。そして、久米物部の地でもあります。
久米→来目(くめ・くるめ)→久留米 と久留米は久米物部をぼかす表現です。
高良御子神社(王子宮)、坂本神社の社紋が木瓜紋です。
木瓜紋は彦火々出見尊の神紋です。
王子宮、坂本神社の社紋の木瓜紋は高良大社の中心の神紋の木瓜紋から採られた、と想定しています。
主祭神の紋章は玉垂命(開花天皇)の門光紋となるべきですが、彦火々出見尊の神紋である木瓜紋となっています。彦火々出見尊は物部の太祖です。別名、天津久米命(あまつくめのみこと)です。開花天皇の母系は物部です、物部から見た開花天皇の名前は物部保連(やすつら)と申します。これに因み歴代の高良大社の座主の名前は「保」か「連」の一字が採られます。
高良大社の主祭神の紋章が「木瓜紋」となっているのは、物部の神社であることを表しているものと想定しています。また、そうすることにより、祭神・開花天皇とその紋章を隠せるのです。決して、高良大社の主祭神が木瓜紋からして彦火々出見尊ということではありません。

花菱紋(門光紋)
伊勢神宮の神紋は「花菱紋」といいます。「花菱紋」の正式名称は「門光紋」といいます。
福岡市の名島神社(福岡市東区名島一丁目26-1)にも門光紋が見られます。
神社由緒によれば、当初、豊玉彦を祭神としたが、市杵島姫が追祀され名島弁財天社となります。明治には名島弁財天社は分離され、宗像三女神を祀る名島神社となっています。佐賀県の脊振神社と同じ流れです。脊振神社も当初は、豊玉彦を祀ります。その後、市杵島姫を中心とする宗像三女神を祀ります。本殿の千木が男千木であり、これらの神社は豊玉彦と市杵島姫を祀ります。
名島神社は名前からして「那の志麻」の神社でしょう。
「那の志麻」が「名島」になったと想定しています。この名島に奴国の離宮(砦)があったと伝える。「志麻」は大幡主(国常立神)が絡む名称です。
後に、開化天皇の新羅遠征の折、名島は兵站地として、香椎は大本営として機能します。
香椎宮も仲哀天皇を祀る前は豊玉彦と市杵島姫を祀ります。現在の香椎宮は仲哀天皇神功皇后によって豊玉彦が完全に消されていますが、残された祭祀線がその存在を物語っています。
※那国王大幡主(国常立神)関連の名称に、ナカ(那珂) クマ(玖麻) シマ(志麻) シキ(磯城・志岐)があります。関連現代名称として、中川、中原、中野、中島、中田、長田、永松、大隈、乙隈、隅田(くまだ)、敷島、司島等があります。
※桐の紋
五七桐紋は鵜草葺不合命(住吉大神)の紋でしたが、引退後、開化天皇にお譲りになられた。男は五七桐紋、女は五三桐紋で、神武天皇の後継者・五瀬命は九七桐紋であったといわれる。
高良玉垂宮神秘書 309条
住吉の御紋に桐のとうを使われることは、鵜戸の岩屋で鵜草葺不合命を生みになられる時、御産屋に桐の葉を敷かれたことによる。産屋の傍の板も桐の木である。その桐の木、桐の葉を採った所を桐嶋と名付けたり。これにより、異国征伐の時も桐のとうを御紋として攻められる。住吉と申すは日子波限建(ヒコナギサタケ)鵜草葺不合命の御ことなり。
ワカヤマトネコヒコ(別名、開化天皇となる前のお名前)は太宰府四王寺山で三種の神器を渡され、正式の天皇、開化天皇となられたのです。そのあと開化天皇は高良山に移られて、神武天皇を除いて、最初の人皇の天皇と成られたのが開化天皇です。四王寺山に於いて、開化天皇に三種の神器をお渡し(返上)されたのが、ウガヤフキアエズノミコトです。このミコトのお母さんである豊玉姫(三保の天女)の格式が非常に高いです。
大幡主→豊玉彦→彦火々出見命・豊玉姫→鵜草葺不合命→安曇磯良→開化天皇・豊姫 と続きます。

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