新ひぼろぎ逍遥@ 1047 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 (上)坂本編
20240523
太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久
私達、百嶋神社考古学の者にとっては、“「古事記」の95パーセントは嘘です“と言われた故)百嶋由一郎の言が頭の片隅にしっかりと残っています。
一方、「日本書紀」は分量(5〜10倍)も多く、読むのも大変ですが、最近、両方とも一応は読んでます…と言われた佐賀県在住で某新聞社の子会社の役員クラスの50歳の方が参加されました。
若い方には始めから要求もできないのですが、年齢が上がるってくると自分は何者でこれからも何処へへ向かっているのだろうか…とか、うちの一族はこれまでどのように生きてきたのか…と言った事が気になってくるようです。
そういう関心も無く金銭的な損得勘定だけで生きる半島や大陸の方々とは異なり、日本人の中にはそういった記憶、痕跡、伝承、社伝、家伝…も数多く残り、残そうとしている事が良く分かります。
その中で、ほぼ、「日本書紀」だけが正しいとして、それだけで、最終的にはそれに擦り合わせて列島の歴史、遺跡の発掘調査の報告書までが準備されているのです。
現在、当会は熊本、福岡(福岡、太宰府、久留米)、佐賀、大分の4県で研究機、講演会、勉強会と合わせ現場でのフィールド・ワークも続けています。関心をお持ちの方は、ブログ「ひぼろぎ逍遥(跡宮)」外のトップ画面スケジュール表をご覧ください。また、九州内だけでも当会メンバーによるブログ(百嶋由一郎神社考古学に触発された)が十数名により20本(全国レベルでも35〜6本)が公開されています。
そうした活動を続けていると、現場では、特に九州王朝の本拠地だからなのですが、色々な情報が拾え、様々なアドバイスから、逆に現場や現地の人々が分かる事象に多々遭遇するのです。
まずは通説派の怪しげな実態を把握しておくために一例をご紹介しておきましょう。以下、一部を引用します。
新ひぼろぎ逍遥 スポット 303 佃 収 和水町講演 ❷ と、天武王権と長屋親王木簡問題 20220708
太宰府地名研究会+百嶋由一郎神社考古学研究会(文責:古川)
事務局 中島 茂 090−5289−2994 (通信不能時連絡 古川 清久 090-6298−3294)
今回、延10時間に及ぶ佃先生の講演を聴き非常に感銘を受けましたので、CD二枚組で配布を進めています。もう二十回は聴いたと思いますが、特にカー・ステレオで聴いていると雑念なく頭に吸い込まれて行きます。
MP3方式で作成しておりお送りすることもできますが、パソコン、ここ10年ぐらいのカー・ステレオ、ソニーなど数社のCDプレイヤーをお持ちの場合はお聴き頂くことができます。
今般、九州王朝論の心臓部ともいえる貴国、倭の五王政権、大彦の渡来と言った時期から物部麁鹿火王権、阿毎王権(俀国)辺りまでを最初の70分ほどで一気にお話になりました。
これについては、随時、ユーチューブにアップしたいと考えています。
次に、豊王権、上宮王権、天武王権、高市天皇…と進みますが、これについては、ネット上の日本古代史の復元というサイトから早わかり「日本通史」(概要編)新「日本の古代史」(佃説)によりPDF画像で論文をお読み頂くことをお勧めします。
元々、九州年号には幾つかの系統があり、九州王朝という単独の政権が、仮に卑弥呼以降、単独の王権が8世紀初頭まで存続していたといった理解をされている方が大半ではないかと思いますが、佃収説ではそのような単純な理解はされておらず、前述した王権が入れ替わりながら、年号に変更が加わり推移しているという仮説を提出されているのです。
南北朝争乱期に於いても、分裂期には、北朝年号、南朝年号(吉野)が各々異なった年号を使用していることと対応するのです。
このような最先端の議論に結びつくのであり、是非ともお聴きいただきたいと思います。
尚、冒頭で、天武天皇の子である高市王子の子(天武の孫)の長屋親王の木簡問題に触れておられますので、佃講演と併せネット上の「のんびりと古代史」お読み頂きたいと思います(以下)。
「長屋親王宮木簡」への雑感 2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理 20
【東野治之“『続日本紀』と木簡”】を検索してください(他にもありますが一例として紹介します)。
勝手ながら「のんびりと古代史」様から引用させて頂きます。
「長屋親王宮木簡」への雑感 2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理
【東野治之“『続日本紀』と木簡”】
新日本古典文学大系月報3(1989年3月、第12巻:続日本紀一付録)の冒頭に東野治之氏の“『続日本紀』と木簡”と題された小論が掲載されている。この中で東野氏は、「(日本古代史の研究には)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。正史の記述は、ある年代を隔て、公的な制約のもとに書かれているからである。」とした後で、長屋王家木簡出土についての見解を記している。
「長屋王は高市皇子の子で、祖父は天武天皇、文武天皇や元正天皇とはいとこ同士で、やはりいとこで草壁皇太子の娘、吉備内親王を娶っている。その長屋王が、神亀六年(719)二月、謀反を計っているとして自殺させられる事件が起こった。事件の背後には、王が皇位継承者となることを恐れた藤原氏側の謀略があったとされている。それが事実であったことは、『続日本紀』天平十年七月条の記事からも明らかである。しかし長屋王が全く“悲運の人”であったのかどうか、今回の木簡は、そのような見方に再検討を迫るものといえる。」
東野氏は論点をずらして長屋王が悲運の人であったことを見直さなくてはならないと木簡の意義を主張している。しかし、この木簡に「長屋親王」と記されていたからといって、東野氏が言うように、「長屋王が全く“悲運の人”であったのかどうか」とは全く無関係である。「親王」と呼ばれていようがいまいが、後に濡れ衣であることが判明する謀反の罪で自殺を強要され家族とともに自害したと記される「長屋親王」が悲運の人であることに変わりはない。
長屋王の出自や経歴を紹介した後で主題である木簡の話題に移る。「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡についての説明では、「律令制下では、天皇の子であるか孫であるかは明確に区別があった。ところがこの木簡では、長屋王が“親王”と呼ばれている。すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と述べている。
「(公的な制約のもとに書かれている)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。」と客観的な立ち位置に自ら立っていると宣言しておきながら、「長屋親王宮鮑大贄十編」を前にして、『続日本紀』の記述に合わせて、長屋王が親王と呼ばれていたのは「すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と論点を巧妙にずらしているのである。
【一次史料>二次史料が前提】
このように解釈すればどのような発見があっても既成概念に合わせるように論を組み立てることは可能であろう。研究者が前提としなければならないのは、史実を追究するならば、後世の人が何らかの意図を以て作成した『続日本紀』よりも何の意図もなしに1300年近く地中に眠っていて偶然発掘された木簡の記述をまず信用しなければならない。『続日本紀』は正史とはいえども、政権の意図を反映するために編纂された二次史料であるが、「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡は長屋王を後世の人に長屋親王であると思わせるなどの意図とは全く関係なく捨てられていた一次史料なのである。一次史料に記された内容を史実として歴史を組み立て直すことが必要とされるのではないだろうか。
東野氏のように新史料を真正面から受け止めずに論点をずらして解釈すれば、これまでの学会の通説を守ることはできても学問が追求しなければならない真実へ近づくことは永遠にできそうもない。当代一流といわれる研究者の30年以上前の論文を俎上にあげて批判したが、最近になっても学会で「高市天皇論」が議論されたということを聞かないので依然として前掲の東野論文の主張が主流となっているのではと危惧している。勇気をもって自説を展開する若手研究者の出現を期待したい。
これを御用学者と言わずして誰をそう言いいましょうか…こんなものは学者、研究者ではない!(古川)
第一級の一次資料を無視し、自説を優先するのですから酷いですね。彼は、自らの著書で親王は普通の皇子とか王ではない、皇位継承権があるから親王なのだ…と書いているのです。
勿論、佃先生も講演では長屋王木簡問題について名指しはされておらず、一切、東野治之の名は出しておられないのです。
しかし、ネット時代が到来すると、その人物やその研究グループがどの大学の系統のものかは直ぐに分かってしまうのです。
“親王と王とは全く異なり皇位継承権がある親王とは特別な存在であると自らの著書には書いておきながら、いざ長屋親王と言う木簡が何本も出てくると、長屋王は親王ではないとした自説と異なる第一級の金石文的な発掘資料が出て来ても、長屋王は親王ではないと否定しているのです。
この長屋親王の木簡問題は一例でしかなく、通説派の学者共はこういった連中でしかないのです。
このため、真実は自らの手で調べなければならないのであって、在野の民間研究者が如何に貴重であり有難いものであるかが分かるのです。
権力に奉仕する学問の浅ましさ、さもしさ…については見苦しくもあり、吐き気もさえ催してしまいます。
このため熱を帯び、本題からついつい離れてしまいましたが、それは、日々遭遇する色々な知見が如何に大切であるかを言いたかっただけで長々と失礼しました。
これから、多少下世話な話をすることになりますが、暫らくご辛抱下さい。
この間、越後の南魚沼郡への神社調査のための事前資料を17本近く書いてきましたので、その間知り得た話を崩してお話してみたいと思うものです。始めは坂本神社からです。

以下、新ひぼろぎ逍遥1035より南魚沼への神社調査(下調べの作業ノート)❼ 坂本神社は九州起源か? の一部を引用させて頂きます。
そもそも、南魚沼〜魚沼に掛けて下調べを行うにつけ、九州に馴染みのある地名、神社、祭神が多い事には気づいていました。
坂本神社と言うある種一般的な印象を与える社名については普通名詞的な意味がありますので、直ぐに飛びつくことはしませんでしたが、調べるとこれも九州起源だと確信するに至りました。
人皇第8代孝元天皇の皇子「彦太忍信命」と妻「紀白絲姫命」が勅により、越後の地に下られ、彦太忍信命は荘厳にして秀麗な姿の山を大沼山、(八海山)と名付け、高千穂の峰の天孫降臨の古事を思い、山頂に「天津彦彦火瓊瓊杵尊」と妻「木花開耶姫命」を合祀して祭神とされました。彦太忍信命の御神骸は山頂に、紀白絲姫命の御神骸は御室(山頂より約半里下がれる路傍)に納められ、2霊をもって魚沼大明神として奉られています。
この4柱の神を八海山の祭神とされています。彦太忍信命と紀白絲姫命の子は魚沼宿禰と称し、次の3世から5世までは「坂本」を名乗りましたが、皇紀587年人皇第11代垂仁天皇の御代に「上村」と称するともに氏神を祀る坂本神社を建立したと伝えられています。現社殿は本殿は昭和2年、拝殿は昭和8年に建立されました。
八海山には空海も修行に入ったと言われ、護摩修行を終え下山した空海が彫ったと伝承される「聖徳太子像」は今も坂本神社に安置されています。
平安時代に編纂された『延喜式神名帳』にも記載されております。(式内社)
坂本神社を擁する八海山大倉口は、最盛期には県内はもとより東京・神奈川・埼玉などの関東圏や遠くは愛知県などの県外も含めて年間3万人を超す信者が白装束に身を固め、心願成就、特に健康長寿を求めて山頂へ分け入ったとされています。 八海山坂本神社 御由緒より
“人皇第8代孝元天皇の皇子「彦太忍信命」と妻「紀白絲姫命」が勅により、越後の地に下られ、彦太忍信命は荘厳にして秀麗な姿の山を大沼山、(八海山)と名付け”ですが、それが何だと言われそうなので注釈を加えておきましょう。
第8代孝元天皇とは、我々九州王朝論者にとって、最盛期の高良玉垂命(第9代開化天皇)の御父神であり、その息子の開化天皇の指揮下で、四道将軍が発動され、開化の腹違いの兄弟である大彦(阿部氏)が日本海側に北上し、最終的に崇神(九州王朝の立場からは正統皇統の天皇ではない贈る後付け天皇=藤原氏による自称の天皇=阿蘇系の先祖を高貴なものとして描く)の息子の四道将軍の一人と出会い合流した場所が福島県の会津だったから「会津」と呼ばれたという話に仕立てられているのです。

「日本書紀」では、崇神の子同士が会津で出会ったから「会津」という…四道将軍は崇神(実質的な藤原の祖=上賀茂神社)の息子二人とされていますが、どう見ても坂本の皇子=彦太忍信命が会津まで足を延ばしているようですね。まず、ここで彦太忍信命=を百嶋神代系譜で確認して頂きましょう。

百嶋由一郎 001百嶋最終神代系譜(部分)
彦国瀛ツと別名で書かれているため分かり難いのですが、神武天皇(神武僭称贈る崇神ではなく本物のカムヤマトイワレヒコ=初代神武)と衝突した長髄彦(ナガスネヒコ)です。オキツヨソ足姫は妹であり、2000年を基準とした1850歳と1848歳で分かります。
問題は、この系譜には長髄彦の子は書かれていないのです。ただ、別の系譜を見ると、彦国瀛ツの子である彦太忍信命が出てくるのです。ナガスネヒコでは天皇家に歯向かった事になるのでそうしたのです。
天之狭霧神=彦太忍信が以下の数枚の神代系譜に描かれているのです。
しかも、お妃は葛城高千那姫とあり、これが紀白絲姫命なのでしょう。普通は丹後半島の付け根に祀られている葛城高顙媛と間違いそうですが…。
葛城高千那姫『古事記』にのみ登場し、葛城之高千那毘売と表記されている。同書によると、意富那毘の妹である葛城之高千那毘売は孝元天皇の皇子である比古布都押之信命の妻となり、味師内宿禰(ウマシウチノスクネ 古川)を生んだとされる。 ウィキペディア202400522 18:33による
会津への進出ルートは魚沼〜金山経由です南魚沼〜南会津に入るルートもあったのではないでしょうか

新ひぼろぎ逍遥@ 1048 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 (下)坂本編 に続く