新ひぼろぎ逍遥@ 1049 坂本(阪本)、八木(矢木)姓の方について零れ話 八木編 (上)
20240525
太宰府地名研究会(編集員) 古川 清久
次に最近接触を始めた八木(ヤツキ、ヤギ…とも読みますが、今回の方はヤギさんです)様のお話をしたいと思います。表記の違う矢木さんもおられますが、同族で間違いないでしょう。
鹿児島、山口、愛媛、兵庫、京都、大阪、愛知、静岡、新潟、宮城、岩手への分布が認められます。
今まで、八木姓の方に遭遇したのはニ度しかありませんでしたが、最初はお医者様で、今回も超高学歴の技術系の博士でした。下は矢木姓の分布です。
八木姓の方は優秀な方が多いという事は他の例も含め経験的に分かっていましたが(戦時中の八木アンテナは著名です)、具体的には遭遇例が少ない事からイメージが固定できていませんでした。ここで注意を要するのは、上の紋章、丸に木瓜は、イスラエル系の金山彦=軻遇突智のもので、朝倉氏は三つ盛木瓜/九曜 (日下部氏朝倉氏族)を使う一族だと理解しています。
三盛木瓜と木瓜紋は必ずしも同族を意味しないという経験則を持っていますが、実のところ朝倉氏の本願地は福岡県の現朝倉氏であって、彼らの更なるルーツは熊本県玉名市の石貫地区から宮崎県西都市の石貫(石貫神社)に移動したトルコ系匈奴(普通の理解に従えば大山祗系と言えば理解し易いと思います)であって、意外に思われるでしょうが南北朝騒乱期に阿蘇氏と共闘した菊池氏もその一族なのです。
更に驚くのはこの「石貫」という地名は新疆ウイグルの「タシクルガン」城塞を意味しており、中国表記での「石城山」「石頭城」の日本での置き換えなのです。不思議に思われる方は「タシクルガン」を検索してご覧ください(動画も複数あります)。

匈奴は漢の武帝との戦いに消耗し、東西分裂の後に東匈奴は南北分裂を起こし、徹底抗戦派は北に移動し、傭兵として曹操に用いられる時期に南下するのです(武帝以前に呼韓邪単于に贈られた王昭君の一族=だから熊本城最下部に昭君の間が置かれたのです)。彼らは魏が滅ぶと王昭君の故地に戻り金官伽耶の金氏となり、後にウマシアシカビヒコチと天御中主命列島に入っているのです。
彼らは、本来、日足紋を使う別族だったのですが偽装の為並び鷹羽紋に換え阿蘇氏の一派の様に装うのでした。その理由は宮方(南朝)としながらも大山祗系=熊襲と理解されると、北朝方から逆賊と非難されるからであり、菊池神社でも本来の神を(大山祗、ウマシアイカビヒコヂ、ミズハノメ)祀らず、通常、祖先神とする菊池武時、武満と言った先祖神しか祀っていないのです。

「武家家伝」 但馬八木氏 但馬の戦国武将八木氏は、但馬の古族日下部氏から出た朝倉高清の次男安高(一説に孫)が、但馬国養父郡八木を領して八木氏を称したのが始まりとされる。以後、同地の豪族として成長し、南北朝期には但馬守護山名氏の配下となり国老四家のひとつと呼ばれた。見聞諸家紋をみると「横木瓜紋」が日下氏の注記をもって八木氏、太田垣氏の家紋として収録されている。 日下部氏の嫡流は朝倉氏であったようだが、承久の乱において朝倉信高は京方に味方して勢力を失い、代わって鎌倉方に味方した八木氏が勢力を拡大した。すなわち、信高の兄弟である八木新大夫安高、小佐次郎太郎、土田三郎大夫らが新補地頭や公文に任じられ、それぞれ地名を名字として但馬各地に割拠したのである。 |
現在、朝倉地名はちょっと拾うだけで全国に30ケ所近くあり、これだけでも彼らの移動を追う事ができます。
以下、再度「武家家伝」から、
八木城は平安時代末期の康平六年(1063)頃、閉井四郎頼国が源義家から但馬国を与えられ、この地に築城したのが始まりとされている。その後、鎌倉時代初頭の建久五年(1194)に朝倉高清が源頼朝から但馬国を与えられ、八木から東へ約4.7キロメートル離れた朝倉に城を築いた。やがて、閉井氏と朝倉氏が対立し、朝倉氏が閉井氏を滅ぼす。その後、朝倉高清は第二子の重清を八木城に入れ、八木氏を名乗らせた。以後、八木氏は十五代三百余年にわたって同地に勢力を振るった。 武家家伝「八木城址」による |
まあ、トルコ系匈奴とイスラエル系金山彦の一族の対立ですね。

これまではトルコ系匈奴の話でしたが、ここから漸く八木姓の話に戻ります。
八木姓は恐らくイスラエル系で良いと考えていますが、この流れは時代的に3系統を考えるべきです。一つは岩手の一戸〜九戸までの戸来集落=古々代ヘブライの集、次に始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦系。最後に秦の消滅に伴い半島から豊前に流れ込んだ始皇帝の一族とその臣民(この中には万里の長城の建設に送られる事を嫌った秦の民も…)、そこから京都に移動した太秦の勢力、また、高千穂の三田井に入っていたタカミムスビ系の人々もイスラエル系であり、高句麗からの渡来人 高麗王若光の一族もイスラエル系と言えるでしょうが八木姓とは繋がりそうになく除外します。
恐らく、八木姓に関係があるのは、古々代ヘブライ(事代主系)や秦の始皇帝の亡命氏族ではなく 紀元前247年 - 紀元前210年の僅かな期間に列島に進入した(中国は火山国ではないため)製鉄神の一族=金山彦、金山媛(妹)=イザナミの一族であり、神武天皇までの九州王朝成立以前の時代を支えたイスラエル系の人々だと考えています。
この金山彦の一族は秦の始皇帝と姻戚関係を結び、後に始皇帝の一族も敗残し列島に避退している事から、追い越して列島に入った事になります。
秦の始皇帝は嬴政(エイセイ=インチョン)でしたね、この名に近い名を使うのが宗像三女神の市杵島姫です。彼女も瀛を使います。瀛ツ島姫です。
ひぼろぎ逍遥 230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”
159 秦の始皇帝と市杵島姫 を参照ください。
同(跡宮) 106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)” 054 秦の始皇帝と市杵島姫
「臝」(エイ)は秦の始皇帝の姓であり、始皇帝は臝政(エイセイ=インチョン)と呼ばれていました。対して、「瀛」(イン)は、始皇帝の一族と姻戚関係を結び先行して列島に移動したヘブライ(イスラエル)系氏族を意味し、具体的には博多の櫛田神社の大幡主の一族、スサノウのお妃の櫛稲田姫の父親に当たる金山彦、飯塚市鹿毛馬の厳島神社の一族などの事なのです。
彼らは秦が滅びる前に渡海し列島に入っていることから、さんずい偏を加え臝+水=「瀛」を姓としたのです。「東瀛」と言う言葉もありますが、これも大陸から見た東の夷どころか、東の秦王朝の一族そのものも意味しているのです。
始皇帝の一族も政治的な変化によりその一族は列島に避退してきているようです。列島では、瀛(イン)氏、忌部(インベ)、卜部、陰陽師、そして役(エン)=役小角の一族がそれに当たるのです。
宗像大社の市杵島姫も本来の表記は「瀛津嶋比売」ですね。これについては以下も書いています。

文句なく瀛津嶋比賣命=市杵島姫命ですね(朝倉市佐田町の高木神社の境内摂社)
再掲載
178朝倉市佐田の山奥深く瀛津嶋(イツクシマ)比賣命を発見した!”安倍貞任後裔の秘密集落の高木神社“
2015130 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
推定継体天皇陵長田大塚古墳(朝倉市)説の検証作業を進める中、安倍宗任の後裔一族の墓を発見し、更には死んだはずの貞任の末子の後裔の一族までもが朝倉市内に居られる事を知り、その現地確認作業を進めているのですが、そうした中、七年ぶりに朝倉市佐田の高木神社を訪れることになりました。予定では二週間後のつもりでしたが、今日が祭礼日と聞き、急遽訪問した訳です。ただ、神事の形跡は見られるものの、既に直会(ナオライ)に入っているようで、ただ一人、静かな社殿を見せて頂くことになりました。この地は“安倍貞任の末子を、血を絶ゆさぬように“…と宗任に託され逃れた一族の定着した隠棲地と聞き及んでいます。それを伝えるかのように、今も一族の名の刻まれた石柱が静かに立っています。こちらの安倍一族は、木和田、地下両地区に十戸ほどおられ、アベでも「安陪」の字を使っておられます。
高木神社参拝殿(朝倉市佐田)
■表記 * 紀 … 金山彦神、記 … 金山毘古神 * 紀 … 金山媛神、記 … 金山毘売神、金山姫
■概要 ◎イザナギ・イザナミ神による神生みの段で、火の神であるカグツチ神を生み女陰を焼かれ苦しんでいる時の嘔吐物から化生した神。◎「金山」は「鉱山」のことと解するのが一般的。嘔吐物が鉱石の原石と似ているから、あるいは金属を溶かした状態と似ているからなどとも言われています。したがって鉱山従事者、製鉄従事者たちから信仰された神。これとは別に出生を火山の噴火の表象と捉え、嘔吐が溶岩流を表しているとの解釈も。その溶岩流にはもちろん鉱物が含まれているということに。◎金山彦神と金山媛神は兄妹ですが、夫婦神であるとも。また中国地方で多く祀られる金屋子神社と同神とされたり、或いは御子とされることも。 *神名* 金山彦神・金山媛神 (改定) 以下も…




