20231103
太宰府地名研究会 古川 清久
前ブログをお読みになれば かんどり さんを探る事に意味がある事はお分かり頂けたかと思います。
大牟田に かんどり さん を探す事への賛同を頂けるかと思いますが、11月2日(木)天気も上々とのことから、朝9時には日田の山奥の研修所を出発し山越のルートで福岡県大牟田市に向かいました。
ざっと、100キロはありますが、むしろ現地までピッタリ100キロといった所でした。

もう20年も前の話しになりますが、役所に在職中にも拘わらず、有明海フォーラムという民間の環境保護団体の中枢部に席を得て、同フォーラムの20年ほどの活動期間の後半部は、W氏と私とで抵抗運動の司令塔の一部を形成していたのでした。現在、有明海ではノリ以外の海産物が消失し、その海苔も徐々に五月雨的な生産縮小に向かっています。結局、諫早湾干拓事業という干拓行政でも技官と海洋土木の失業対策事業でしかなく、省益だけを優先させた農水省は漁民の生計と海の富を完全に破壊したのでした。これが日本の行政の実態だったのです。こいつらは国家の為にも国土の為にも国民の為にも国民経済の為にも国民文化の為にも働いてはいないのです。…と言った話をしても気分が悪くなるだけですのでここまでとしますが、「有明海異変」を書いて二年後ぐらいでしたか、鹿児島大学の生物学のS教授から耳寄りな話を聴き込みました。
それは、大牟田市と熊本県荒尾市との県境に近い諏訪川の河口への小規模な排水路or用水路といったものがあったのでした。そして、そこには小規模ながら河口堰があり、潮水を全く入れずに農業用水を確保していたのでした。当時はと言っても高々20年程度でしたが、住宅も今よりは少なく水田もあったようで農業用水が必要と言われれば水門は潮が退いた時にある程度落とす程度で、満ち潮時に潮を入れる事はしなかったのでした。
従って、元々、潮が満ちてくれば海水が入り、大雨が降ればその上に雨水が乗るような汽水域が上げ下げする栄養豊かな環境で、ハゼやカニやエビやカキなどが生息するものだったのが、河口堰が締め切りになり(農業用水だけを確保する)ものになったため死のどぶ川になっていたのでした。ところが住宅地が建て込むと、その住民の意向が反映されると農地の減少に発言権が低下し、フル・オープンの状況に変わってきたのでした。すると干潟は再生したと言うものだったのです。それを見に行ったのが20年前で、その時に、その旧建設省の用語でいえば「河口堰」、旧農林省の用語でいえば干拓樋門を見てそこにも かんどり 様が置かれていたのでした。
そこで、今回の「亀甲萬醤油は有明海から東に向かった」という話に色を添えたいと思い往復200キロの草臥れ儲けをやる羽目になってしまったのでした。

この諏訪川邂逅部の対岸に汐屋町があることから多少のイメージがわいてきます。有明海北岸は潟地が多いため塩の生産ではないと思いますが、海水を煮詰めるだけか、塩の搬送拠点の様なものがあったとすれば、対岸の船溜まりに梶取(かんどり)様が置かれていた可能性を云々する事には価値があると思うのです。
この かんどり 様を意識したのは、直接的には熊本県氷川町の二つの香取神社の一社にかんどり かんじょみ 様 と呼む(ぶ)と書かれていた事だったのですが、先行して今から20年も前に遭遇していた事を再認識したのでした。
かんどり様=香取神社説についてはキッコーマン醤油の関連HPでも書かれていますが、今回は別の所からご紹介しておきます。
2014年10月22日 12時57分04秒 | 地名の由来(こじつけ)
南行徳に市川市香取という地名があります、欠真間・香取・湊新田・湊の総鎮守である香取神社があるところです。江戸時代は欠真間村の小字でしたが、1889(明治22)年南行徳村発足とともに正式な名になりました。(行徳・南行徳では湊・新井など旧村の単位をと呼び習わしていました。)
香取は「かんどり」と読みます。だいぶ前に市川テレビの歴史番組で解説の綿貫喜郎先生が「梶取」も「かんどり」と読むので、行徳湊の船頭が多く住んでたので「舵取り」→「梶取」→「香取」になったとおっしゃっていました。この梶取説は本家香取神宮の地名の由来にも推定されているもので、目新しいものではありません。ではなんで「香取=かんどり」になったのでしょうか?生まれも育ちも行徳、行徳弁を自由自在に操れる方ならわかると思います。「香取」を「かとり」と発音するのが苦手なのです。口をかなりとがらせないと「かとり」と発音できません。「か」と「と」の間に「ん」を入れて「かんどり」になるとスムーズに発音ができます。ようは常日頃の会話の中で自然に「香取=かんどり」に変化したのが地名の由来です。地元の人は「香取神社」のことを「かんどりさま」と呼びます。
テレビのインタビューなどを見てると、若い人でもお年寄りでも「ら抜き言葉」で話しているのがほとんどですが、字幕にはきちんと「ら」が入っています。正式な日本語では「ら」をぬいては絶対いけないらしいのですが、日本全国の方言では「ら抜き言葉」がかなり多いようです。
小難しいことは抜きにして、「ら抜き言葉」にも市民権を与えていいのではないでしょうか。
「葛南雑記 行徳・南行徳・浦安散歩雑記「南行徳・浦安・行徳・江戸川区」その他の地区仕事で行った所」 から
行徳、南行徳 は江戸川の最河口の地で江戸期はこの地で生産された塩で野田の醤油が作られていたのです。その上流には、篠崎、帝釈天があり、「男はつらいよ」の堤防の風景が浮かぶかと思います。
では、この大牟田市諏訪川界隈にある普通の小さな河口堰(恐らく元は農林省所管)をご覧下さい。

元々は、諏訪川を挟んで対岸に汐屋町があるように、製塩関連の人々が住み、この対岸の一帯にも船溜まりがあって、その関係から船玉様や梶取様が祀られていたのではないかと思いますが、20年前はそこまでの想像力も知恵も無く、「有明海異変」を書き、有明海フォーラムで多少とも国家権力に歯向かっていたと言う情けない思い出を呼び起こしてしまいました。
既にかつて豊饒の海と呼ばれ、座った半径1メートル範囲だけで争う事も無くバケツ一杯のアサリが採れた有明海は死の海に変わってしまいました。
それもこれも直接的には現農水省の腐敗した官僚と天下り先の海洋土木業者と薄汚い末端行政とその手下の議員共の悪行(彼らにとっては小さな出来事)だったのです。
もう古本になりましたが、残部が幾つかありますので、不知火書房に連絡されれば(092−781-6962)
入手は可能と思います。
良くある、官僚共が悪さをしたと言う話をあげつらっている本ではない事だけは保証します。

