998 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から東に向かったのではないか ❹
“ここから中近世のキッコーマン醤油の始まりに踏み込みましょう”
20231108
太宰府地名研究会 古川 清久
読者の皆さんには痺れを切らしておられる方もおられると思いますので、これからキッコーマン醤油の前身から考えて見たいと思います。二階から目薬の様な話になりますが、遠くから見れば分から事もあるのです。PP43〜




飯田市郎兵衛による「川中島御用溜醤油」が武田氏に献上され、後に上花輪の高梨兵左衛門が醤油製造に乗り出し、始め味噌を造っていた茂木家も醬油製造に乗り出し、高梨、茂木によるキッコーマンの原型が生まれるのです。そして幕府の御用達になるに、野田の醤油は勃興期を迎えるのです。
全くの余談から始めますが、碓氷峠の「碓氷」は飯田市郎兵衛の一族ではなかったかと考えています。
それは、あまり出くわさない「ウスイ」という地名は物部氏の本拠地の一つと考えている福岡県嘉麻市の碓井、飯田が香取神社の祭神の布津主を祀る嘉麻市の馬見神社の本来の祭神である事と併せ考えるとこの碓氷峠を越えて、群馬から栃木、埼玉、千葉に展開した醤油製造の川が上総に向かっている事を感じるのです。

高梨家1家、残り7家は茂木家と言うのも時代により異なるようで1,1,6とも聴きます

長崎市の茂木町は「モギ」と呼ばれ、北風の当たらない暖かい海岸の土地ですが、茂木ビワの産地として知られています。
大幡主+猿田彦の製塩集団は天草で製造された塩を塩筒と呼ばれる素焼のコップ=カップに入れ素焼の容れ交易品としていたと考えられるのです。上天草市にも香取神社が3社、熊本県氷川町にも香取神社が2社存在し、その一つはかんどり様、かんじょみ様とも呼ばれているのです。
これも後のブログでお知らせします。
それよりも凄いのは、南島原市に口之津町があり、その隣が加津佐町(上総の国の起源?)なのです。
そして、そこには野田と言う地名までが揃っているのです。橘湾を挟んだ西には茂木町があるのです。

ご覧の通り、かつての上海航路用の石炭の積出港であった土の津町にも野田堤があり、この海上交通路を握っていた人々も野田と言う地名には相当の思い入れがあったはずで、ここは狼煙台のあったところでもあるのです。上総を開拓した人々はこの地から出船したのではないのでしょうか?

茂木姓は「もてぎ」「モギ」とも呼ばれます。
茂木地名は、「茂手木」「持木」「用木」…と幾つかのバリエーションがあります。
特に注目しているのは、熊本県和水町(旧菊水町)の江田(埼玉の稲荷山古墳との対応を云々される江田船山古墳)との関係が考えられている大字江田に隣接して用木(モテギ)が有る事です。
それは、茂手木という言葉は、戦国期の荒杭、荒茂木、逆茂木を意味しており、砦防衛のための先端をとがらせた逆茂木だからです。もし、これを姓名とした人が居たとすると、資材を調達し、削り出しとか曲げとか民生品の加工に向かえば、樽、桶、柄杓、樋になるはずで、醤油の大樽に行き着くはずで、味噌製造、醤油製造へと進んでも決しておかしくはないだろと考えたのでした。
特に、高梨氏は平家物語にも登場する北信濃の名族で、木曽義仲を描く7巻にも高梨が源氏方の武者として登場するなど思い当たることがあるのです。
「平家物語」はネットでも朗読が聴けますので、流しっぱなしでブログを書いていると、高梨氏が登場し喜んでしまうこの頃です。


後にキッコーマンを造る事になる高梨、茂木などの名族は決して滅びることなく生き延び、現代から未来へと繋がって行く事でしょう。もう少し調べてみましょう。
PP57まで