2024年03月29日

スポット 302 佃 収 和水町講演 ➊ と、天武王権と長屋親王木簡問題

スポット 302 佃 収 和水町講演 ➊ と、天武王権と長屋親王木簡問題

   20220708

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


当研究会+丁巳歴史塾は、熊本県和水町の菊水史談会と提携し、埼玉県在住(熊本県玉名市出身)の佃収先生をお呼びして延べ10時間に及ぶ和水町講演〜北九州市戸畑講演を行いました。

菊水史談会は、元々、先生が玉名市のご出身であったことから十数年前から佃先生の講演会に取り組んでこられました。菊水史談会は10数年前から佃研究に取り組んでこられ最盛時は180人規模で講演会も行われていました。正に、熊本県でも民間研究団体の最大業績と言えるでしょう。

当方も、福岡県久留米市や久留米大学などで佃 講演に取り組みましたが、菊水史談会のご努力には敬意を表しています。

巷の史談会、郷土史会が、どこかで聞いた風な通説派のインチキ話を、教育委員会関係者とか学芸員から拝聴し、ただただ平伏し、翌日には忘れてしまっているという有様である事を考えれば、古田武彦九州王朝論を遥かに抜き去っている佃 収 九州王朝論 を支えて頂いた事には、十分な賛意を表したいと思うものです。

無題.png

しかし、同会も高齢化と、若手の新規参入が堪え、何れは消失への道へと進むものと思われ、今後の佃収九州王朝論を継承は無理としても、保持し、拡散する責務を担わされた事になります。

幸いなことに、我々のグループにはまだまだ若い熱心な研究者が集まっており、生涯を掛け、一生を費やして研究を続けてこられた佃先生や百嶋先生の業績を後世に残し引き継ぐ作業を行う事が出来ればと、新たな決意をしているところです。

多くの、史談会、郷土史会、地名研究会…が、自らの研究を放棄し、ただの親睦会に堕落しつつ、村興し、町興し、邪馬台国シンポジウム…といった、文化庁の天下りの腐臭が漂ようような(全国に邪馬台国の候補地は百か所もあります…お前ら馬鹿か!)インチキ文化運動、果ては、世界遺産登録へと進むと、日本文化の崩壊へと突き進むとしか思えず、ただのフィクションに過ぎない、韓国、中国の歴史ファンタジーと同列以下に堕落して行くことでしょう。

我々だけはそうした底なし沼には近づかないつもりですが、何時の時代にもさもしい人間はいるもので、更に戒めるべきと思うばかりです。

ともあれ、今回、熊本県和水町40人(529日の6時間)〜北九州市戸畑区60人(65日の4時間)での連続講演を行うことが出来、何とか述べ100人の講演会を行うことが出来ました。

先生のご年齢を考えると、今後も年に一度と言わずお話をお聴きしたいと思っているのですが、何としても、武漢肺炎ウイルスによる3年間のブランクは悲しいばかりです。

我々は、むしろ、これまで以上に、福岡(北九州、久留米)、熊本、大分、佐賀での小規模集会、分散集会、トレッキングを継続していたことから、勢力を維持し、むしろ拡大をさえ見ていますが、熱心な若手参集者を得ており、今後もこの傾向は継続するものと考えています。

しかし、国家的規模での思考停止状態に追い込んだ行政の無策には怒りを禁じえないばかりで、そればかりか、数十兆(6070)もの金を外国資本に毟り取られているそうですから(ワクチン6億回分)子供にまで無理やり摂取させようとするのでしょう。ウクライナ支援+復興支援で10兆円…これも一部の官僚どもだけにキックバックが送られているはずなのです。日本は事実上、全世界の破産国家のATMの役割をさせられている事になっているのです。話が逸れましたが、実験的に 佃 収 講演の音声ドキュメントをオンエアしたいと考え、本ブログとYouTube音声とを結合させたメディアを実行したいと思います。

熊本神代史研究会トレッキング(太宰府地名研究会)202267月のスケジュール

梅雨明け710日に大分県竹田市〜豊後大野市の3社に掛けてトレッキングを行います。何故、この神社を選んだかと言えば、この間取り上げてきたヤマト・オグナの熊襲退治の一方の主人公である河上 猛が、この祖母山北麓の穴森神社と健雄霜凝日子神社に関連する阿蘇大蛇伝説を創った大神一族ではなかったのか…という仮説と繋がってきたのです。それこそが百嶋由一郎が残した示唆が導いてくれたのでした。

河上猛は阿蘇大神氏なのです。

22710日(日)10時に熊本県高森町スーパーASUKA:熊本県高森町大字高森1978-2集合(弁当持参)。

テーマ:祖母山の祖母とはなにか? 一体誰の祖母なのか? では祖母の孫とは誰なのか?

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今回、佃収先生の熊本(和水町)講演が急遽決まりました。このため、準備不足ながら8日間に2度もの講演会を行うことになりました。日々追われる皆様にはご迷惑をお掛けしますが、逆に言えば最良かつ念願の講演者のお二人をお迎えすることになります。時間に余裕がなく宣伝できませんが最大の取り組みを行います。

皆さん宗像市に何故 かのこの里、かのこゆり と二つもの施設(道の駅)があるかお分かりになりますか?

無題.pngこの花は市杵島姫が愛した花との伝承があるのですが、彼女が幼少期を過ごしたと思われる飯塚市鹿毛馬の厳島神社の鎮座地が田島(宗像の辺津宮)でその隣接する大字が佐與(サヨ)なのです。ここに住んでいたから別名が作用姫(兵庫の佐用町佐用津姫神社)になっているのですが、これが古代中国語ではユリを意味していたようなのです。赤間、東郷は市杵島姫の実在を思わせます。そしてこの花は鹿児島県いちき串木野市(市杵島姫が地名に反映していますね)、薩摩川内市の沖に浮ぶ甑島が列島でも最大の群生地なのです。百嶋神社考古学では阿蘇高森の草部吉見=ヒコヤイミミと市杵島姫とは夫婦で、先生からも神武巡行に随行し甲府から戻り、薩摩の阿多の村主(スグリ)になっていると聴いています。これが甲府の天津司神社の舞として残り、徳島の二つの天都賀佐比古神社として痕跡をとどめているのです。してみると甑島に鹿島町があったことも分かってきます。の鹿島も草部吉見=ヒコヤイミミ(藤原氏の祖神)なのです。彼女も共に。

ここで、ネット上の無題.pngから佃先生の簡略化された通史の目次を紹介します。

目 次

第1部 倭人の誕生から「倭の五王」まで ( )内はページ

第1章 人類の誕生と移動(3)

DNAと遺伝子(3)

ホモ・サピエンスの誕生(4)無題.png

出アフリカ(Y染色体遺伝子による)(4)

第2章 倭人の誕生(佃説)(7)

北方モンゴロイドの移動(約18000年前)(7)

満州人・朝鮮人・日本人の祖先(7)

第3章 倭人(天氏)の移動(9)

呉の倭人(9)

呉越の戦いと東表の倭人(10)

山東省の倭人(天氏)(11)

第4章 倭人(天氏)と箕子朝鮮(佃説)(13)

箕子朝鮮(13)

倭人(天氏)の移動(14)

第5章 倭人「卑弥氏」(佃説)(18)

倭人(卑弥氏)とは(18)

「倭人(卑弥氏)」の移動(19)

第6章 中国東北地方の古代史(周〜戦国時代)(22)

燕と箕子朝鮮の戦い(22)

古代中国王朝の領域(23)

「燕の長城」と「万里の長城」(23)

箕子朝鮮と大凌河(25)

「倭人(天氏)」と「箕子朝鮮」の関係(26)

第7章 中国東北時代の古代史(前漢時代)(31)

前漢時代の中国東北地方(31)

漢と衛氏朝鮮(32)

第8章 「倭人(天氏)」と高天原(佃説)(38)

天氏と卑弥氏の出会い(38)

天氏による「高天原」の建国(39)

高天原の時代(41)

第9章 『古事記』『日本書紀』の「天孫降臨」(44)

『日本書紀』の「天孫降臨」(44)

『古事記』の「天孫降臨」(45)

『古事記』『日本書紀』の「天孫降臨」の問題点(47)

10章 「倭人(天氏)」の移住(佃説)(48)

高天原の危機(48)

高天原からの移住の決意(49)

筑紫へ移住(天孫降臨)(49)

11章 「倭人(天氏)の渡来」の[検証](52)

吉武高木遺跡(52)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(須玖遺跡)(54)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(吉野ヶ里遺跡)(56)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(考古学から)(57)

「倭人(天氏)の渡来」の検証(人類学より)(61)

12章 伊都国と神都(佃説)(67)

伊都国の樹立(67)

伊都国の発展(68)

13章 「卑弥氏」の渡来(第1回目)(佃説)(70)

「倭城」からの逃亡(第1回目)(70)

「倭人(卑弥氏)」は朝鮮半島へ(71)

朝鮮半島の「倭国」(71)

弥生時代後期と委奴国の樹立(72)

「委奴国」と金印(74)

不彌国(75)

伊都国王権(76)

14章 「後漢時代」の倭(佃説)(78)

公孫氏と「倭」(78)

15章 「卑弥氏」の渡来(第2回目)(佃説)(80)

「倭人国」と「倭国」(80)

伊都国王権と倭国の戦い(第1回)(81)

「倭国(邪馬壹国)」の位置(佃説)(82)

「邪馬壹国」と「狗奴国」(87)

北部九州「倭国」の樹立(88)

公孫氏の滅亡と「景初二年」問題(89)

16章 倭国と伊都国、狗奴国の戦い(佃説)(94)

倭国と狗奴国の戦い(1回目)(94)

伊都国王権と倭国の戦い(95)

「倭国」と「狗奴国」の戦い(2回目)(96)

17章 神武東征(逃亡)(佃説)(98)

伊都国と倭国の戦い(98)

神武東征のルート(99)

18章 崇神天皇(佃説)(105)


崇神天皇の渡来(105)

19章 貴国の樹立(佃説)(111)

熊襲征伐(111)

20章 「倭の五王」の倭国(佃説)(116)

倭国の樹立(116)

「倭の五王」による全国支配(116)

「倭の五王」による全国支配の検証(117)

「倭の五王」と年号(119)

21章 「第1部」のおわりに(122)

「大彦」の子孫(122)

「天氏」と「卑弥氏」の渡来ルートとDNA(122)

「現代日本人」の形成(123)

第2部 「磐井の乱」から「高市天皇」まで(127)

1章 物部麁鹿火王権(佃説)(129)

「磐井の乱」(129)

「磐井の乱」の年代(130)

稲荷山古墳(131)

「辛亥年=471年」説(定説)の根拠(134)

「定説」の検討(135)

「辛亥年」=「531年」(佃説)(136)

「礫槨」の年代(137)

物部氏と物部麁鹿火(139)

物部麁鹿火王権とは(佃説)(140)

物部麁鹿火王権の本拠地(佃説)(141)

仏教伝来(佃説)(142)

第2章 阿毎王権(俀国)(佃説)(146)

新王権(146)

新王権の本拠地(147)

新王権=「俀国」(佃説)(148)

阿毎王権と百済救援(151)

阿毎王権と元興寺(152)

阿毎王権と蘇我氏(佃説)(153)

阿毎王権と日羅事件(佃説)(154)

第3章 豊王権(佃説)(158)

用明天皇(158)

「欽明天皇」への疑問(159)

用明天皇の本拠地(160)

用明天皇の殺害(163)

用明天皇の系譜(164)

推古天皇(165)

豊王権と磯長(167)

第4章 上宮王権(佃説)(170)

上宮法皇(170)

上宮王権(171)

上宮王家(174)

上宮王権の本拠地(176)

舒明天皇(177)

第5章 天武王権(佃説)(181)

「天武王権」の樹立(181)

天武天皇と「天武天皇の父」(183)

天武王権の本拠地(184)

『日本書紀』の記す百済救援(185)

天武天皇と「百済救援」(187)

朝倉宮(189)

天武天皇と「白村江の戦い」(192)

天武天皇による西日本の支配(193)

「壬申の乱」(193)

第6章 高市天皇(佃説)(199)

高市天皇とは(199)

「高市天皇紀」(200)

藤原京の造営(200)

第3部 「王権乱立」の時代(佃説)(203)

第1章 豊王権の樹立(佃説)(205)

豊王権の独立(205)

阿毎王権と豊王権の独立問題(1)(206)

阿毎王権と豊王権の独立問題(2)(206)

第2章 上宮王権と豊王権(佃説)(208)

上宮王権と蘇我氏(208)

上宮王権の独立(209)

上宮王権と阿毎王権(210)

豊王権の再興(211)

第3章 阿毎王権から天武王権へ(佃説)(212)

「天武王権」の樹立(212)

第4章 上宮王権内の争乱(佃説)(214)

上宮王権と蘇我氏(214)

「豊王権」の逃亡(215)

「豊王権」の滅亡(216)

第5章 天武王権と上宮王権(佃説)(218)

天武王権は上宮王権を滅ぼす(218)

上宮王権の逃亡(218)

「上宮王権」の滅亡時期(219)

「壬申の乱」の深層(221)


第4部 「古代史」の改竄(223)

第1章 天武天皇による「古代史の捏造」(佃説)(225)

「万世一系」の系譜(225)

第2章 『日本紀』『日本書紀』『続日本紀』の成立(佃説)(227)

『日本紀』の成立(227)

『日本書紀』の成立(228)

『日本書紀』と『続日本紀』の成立時期(228)

第3章 『日本紀』を『日本書紀』に改竄(佃説)(230)

『日本紀』改竄の理由(230)

『日本紀』改竄の方法(1)(230)

『日本紀』改竄の方法(2)(231)

『日本紀』改竄の方法(3)(232)

講演では冒頭で長屋親王木簡について話しています。名指しはされていませんがネット上にはこの問題に対して多くの情報がアップされており、東野氏の事であろうと推定できます。恥ずかしいですね。


無題.png勝手ながら「のんびりと古代史」様から引用させて頂きます。

無題.png



「長屋親王宮木簡」への雑感  2020-07-11 11:55:11 テーマ:天皇制の論理

【東野治之『続日本紀』と木簡無題.png

 新日本古典文学大系月報3(1989年3月、第12巻:続日本紀一付録)の冒頭に東野治之氏の『続日本紀』と木簡と題された小論が掲載されている。この中で東野氏は、「(日本古代史の研究には)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。正史の記述は、ある年代を隔て、公的な制約のもとに書かれているからである。」とした後で、長屋王家木簡出土についての見解を記している。

「長屋王は高市皇子の子で、祖父は天武天皇、文武天皇や元正天皇とはいとこ同士で、やはりいとこで草壁皇太子の娘、吉備内親王を娶っている。その長屋王が、神亀六年(719)二月、謀反を計っているとして自殺させられる事件が起こった。事件の背後には、王が皇位継承者となることを恐れた藤原氏側の謀略があったとされている。それが事実であったことは、『続日本紀』天平十年七月条の記事からも明らかである。しかし長屋王が全く悲運の人であったのかどうか、今回の木簡は、そのような見方に再検討を迫るものといえる。」 

 東野氏は論点をずらして長屋王が悲運の人であったことを見直さなくてはならないと木簡の意義を主張している。しかし、この木簡に「長屋親王」と記されていたからといって、東野氏が言うように、「長屋王が全く悲運の人であったのかどうか」とは全く無関係である。「親王」と呼ばれていようがいまいが、後に濡れ衣であることが判明する謀反の罪で自殺を強要され家族とともに自害したと記される「長屋親王」が悲運の人であることに変わりはない。

 長屋王の出自や経歴を紹介した後で主題である木簡の話題に移る。「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡についての説明では、「律令制下では、天皇の子であるか孫であるかは明確に区別があった。ところがこの木簡では、長屋王が親王と呼ばれている。すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と述べている。

 「(公的な制約のもとに書かれている)『続日本紀』とは異なる視点から史実を見る必要もある。」と客観的な立ち位置に自ら立っていると宣言しておきながら、「長屋親王宮鮑大贄十編」を前にして、『続日本紀』の記述に合わせて、長屋王が親王と呼ばれていたのは「すでに王を親王(皇子)と同格にみなす風潮があったことを、この荷札は示しているのである。」と論点を巧妙にずらしているのである。 

【一次史料>二次史料が前提】

 このように解釈すればどのような発見があっても既成概念に合わせるように論を組み立てることは可能であろう。研究者が前提としなければならないのは、史実を追究するならば、後世の人が何らかの意図を以て作成した『続日本紀』よりも何の意図もなしに1300年近く地中に眠っていて偶然発掘された木簡の記述をまず信用しなければならない。『続日本紀』は正史とはいえども、政権の意図を反映するために編纂された二次史料であるが、「長屋親王宮鮑大贄十編」木簡は長屋王を後世の人に長屋親王であると思わせるなどの意図とは全く関係なく捨てられていた一次史料なのである。一次史料に記された内容を史実として歴史を組み立て直すことが必要とされるのではないだろうか。

 東野氏のように新史料を真正面から受け止めずに論点をずらして解釈すれば、これまでの学会の通説を守ることはできても学問が追求しなければならない真実へ近づくことは永遠にできそうもない。当代一流といわれる研究者の30年以上前の論文を俎上にあげて批判したが、最近になっても学会で「高市天皇論」が議論されたということを聞かないので依然として前掲の東野論文の主張が主流となっているのではと危惧している。勇気をもって自説を展開する若手研究者の出現を期待したい。

これを御用学者と言わずして誰をそう言いいましょうか…こんなものは学者、研究者ではない!(古川)

第一級の一次資料を無視し、自説を優先するのですから酷いですね。彼は、自らの著書で親王は普通の皇子とか王ではない、皇位継承権があるから親王なのだ…と書いているのです。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | スポット
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