2024年05月27日

新ひぼろぎ逍遥 スポット 330 767 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…@ 

新ひぼろぎ逍遥 スポット 330

767 出雲神話の舞台は九州との仮説を信じられない方に対してどうしたら関心をもって頂けるかと…@ 

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 最近神社トレッキングに加わって頂いた方に少し踏み込んだ内容で以下の小稿をお送りしたところ、“とても受け入れられない内容”とのお言葉を頂きました。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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出雲(旧朝倉郡)の国譲りの背景を考える


 このお伽話に近い仮説に対するものとしては、まずは順当な反応と言えるでしょう。逆にこれだけで同意されるとしたら安直との誹りは免れず、警戒しガードを固められるのは当然だろうと思うものです。

事実、この仮説を提出するに到るまで多くの事跡を確認して来た私達としても、本当にこれで良いのだろうかと半信半疑のまま古代の深層への探索を続け尚も進めているのです。

 頼りとしている道標は、ただ故)百嶋由一郎氏が語った“皆さん出雲を出雲の国と思われている”“大国主命を出雲の人だと思われている”“大幡主の領域は全て出雲で方々にあった”…という示唆であり、それだけを頼りに裏どりを続けてきたのですが、何故か一つ一つ百嶋先生が言われていた話が鮮明になって行く事から私達が如何に通説に騙されてきたかが分かって来てもいるのです。

 一方、出雲神話に対してあまりにも過大な幻想と言うかロマンと言うか過剰な感情移入をされる傾向が顕著で、あやふやな近畿大和朝廷宣伝が行われれば行われるほど、その反作用によって出雲への幻想は増大するようにさえ見えるのです。ただ、その根拠はと言えば、「古事記」と「出雲国風土記」以外にはなく、出雲に幻想を抱く人々としても藤原が書かせたものを真に受けているだけの事でしかないのです。

 ここでは、これまで裏取りをしてきた出雲〜大国主命の九州での活動の痕跡などをお知らせし、出雲神話を再考して頂きたいと思うものです。ただ、多岐に亘るため箇条書き程度に留め、詳細については各々のブログをお読み頂くことにさせて貰います。


無題.png@  九州には出雲系神社が異常に多い(事代主)

まず、事代主=恵比須=古々代ヘブライ系(実は大国主の長男でも何でもない)が大量に分布しているのは北部九州です。この事は、皆さんの身近にあるので直ぐに理解できるでしょう。目立つのは久留米〜日田への街道筋、福岡から北九州(1000基はあるでしょう)、佐賀市などの周辺。


A  九州には出雲系神社が異常に多い(建御名方)

“建御名方は球磨川以南を基盤にしていました…“これは故)百嶋由一郎氏が語った事ですが、これについては鹿児島県にかなりの数で分布している南方神社の分布で説明できるでしょう。諏訪は一部。

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鹿児島県の南方神社(上)宮崎県の南方神社(下)

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無題.pngその上に、北部九州にはお諏訪さんと呼ばれる諏訪神社(建御名方は諏訪に閉じ込められたとされてますね)が大量に分布しているのです。仮に追放されたからだとしても、この分布は出雲などは凌駕しているはずです。実に九州はお諏訪さんが非常に多いのです。

多過ぎますので地図は省略しますが、直ぐ頭に浮かぶのは長崎供日(くんち)と諏訪大社ですね。


@  では肝心の大国主命を祀る神社ですが、隠されているとしてもかなり大きな神社が数社拾えます。

最も象徴的なのが福岡県筑前町の大己貴神社です。しかし、福岡県ばかりではなく何故か鹿児島県の吹上浜(日置市吹上町)にも堂々たる大汝牟遅神社があるのです。

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筑前町(旧夜須町) 大己貴神社  カーナビ検索福岡県朝倉郡筑前町弥永6973(上左)

薩摩の吹上浜    大汝牟遅神社 カーナ検索 鹿児島県日置市吹上町中原2263(上右)


ひぼろぎ逍遥

スポット060 薩摩の吹上浜に立派なオオナムチ神社がある事をご存じですか?を参考にして下さい。

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C実は熊本市にもオオナムチ神社があります。現在は寂れていますが、非常に大きな境内地を持つ神社があるのです。詳細は以下を。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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熊本市に大国主を主神として祀る神社がある “川東大巳貴神社”



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川東神社 カーナビ検索 熊本市北区和泉町川東(現地は非常に分かり難いので在住者にお尋ねを)


D  ここにあげた外にも多くの痕跡はあるのですが、全ては紹介できないのでこれぐらいにして、特に知っ

て頂きたい神社が宮崎県都農町にあります。言うまでもなく日向一の宮都濃神社です。

 あまり知られてはいないのですが、古代日向とは鹿児島県+宮崎県であり、その一の宮は霧島神宮や宮崎神宮などではさらさらなくこの都濃神社なのです。

 しかも、その主祭神が何故か大国主命なのです。出雲の神様の代表である大国主命が九州出身であるという仮説を無視されるのは当然ですが、では、何故日向の片田舎の大社に祀られているかをご説明頂きたいと思ってやみません。

 ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 A “都農神社をご存知ですか?”


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都農神社 カーナビ検索宮崎県児湯郡都農町大字川北13294  0983-25-3256


御祭神 おおなむちのみこと 大 己 貴 命( 別名 : 大国主命 )

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E無題.png  若き大国主命は福岡県春日市周辺にいた

では、大国主はどこにおられたのでしょうか?これについては、既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 024 「大国主は九州で生まれた“オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社”」で書いていますのでお読み頂きたいと思います。


ひぼろぎ逍遥

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大国主は九州で生まれた “オオナビコ(大国主命=オオナムチの

幼名)を祀る春日市の伯玄社”


伯玄社 カーナビ検索福岡県春日市伯玄町2丁目24 春日市商工会敷地内  092-581-1407


 無題.png面白いのは、この直ぐ近くに有名な須久岡本遺跡があることです。

故)百嶋先生は“少彦名命をスクナヒコナと読むから分からない、スクの彦の命と読めば良く分かる”と言われていました。「そこなオナゴ名は何と申す…」のそこなの「な」はそこのオナゴという時の所有の意味を持たせる所有の格助詞のノ=ナであることは明らかで、須久に住んでいる彦であって、若き大巳彦=大国主命と少彦名命とが幼馴染だった事が目に浮かんでくるのです。


須玖岡本遺跡は、福岡県春日市岡本にある遺跡群。 福岡平野に突き出している春日丘陵上の北側半分に位置する、周辺の南北2キロメートル、東西 1キロメートルの範囲の弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群を統括して須玖岡本遺跡と呼ぶ。

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F  これに加え、福岡県筑前町弥永(春日市須久岡本の付近にも「弥永」地名があるのですが…これも不思議な対応です)の日隅宮=田神社(天神社)の論証が加わるのですから、大国主命の国譲りの現場とは甘木〜朝倉〜杷木の一帯であった可能性を考えざるを得ないのです。

 これについては、高木大神が持ちかけた国譲りの代替えの社を造ると約束した日隅(ヒスミ)宮の存在が極めて貴重です(現地はウヅの宮と呼んでいます。この点でも逆に信憑性を感じます)。

古代の国譲りの現場と考えられる甘木〜朝倉〜杷木の一帯が眼前に臨める筑前町東端の小丘にこの神社があったとすると、現存する大巳貴神社はこの日隈宮の再興された姿ではないかと考えてしまうのです。

詳細については以下をお読み頂きたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

スポット050 筑前町に「日隅宮」を発見した! 

スポット 041 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! @

スポット 042 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! A

ひぼろぎ逍遥(跡宮)

ビアヘロ023 筑前町に「日隅宮」を発見した! 


無題.pngG  一方、宗像大社の本当の祭神は大国主命との説も飛び交っていますが、宗像の隣町遠賀川左岸の岡垣町手野にも大国主神社が鎮座しています。


H  一方、鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)の起源は朝倉郡に集中する田神社であり、博多の櫛田神社の大幡主がその正体であることをお伝えしています。

「田神社」として幟を揚げた田神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社(杷木町を加えれば60社)近くが拾えたのでした(「福岡県神社誌」)。 

今後ともこの田神社を軸に調査を続けますが、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われていました。

今回の朝倉郡内の40社近い無格社の田神社を発見した事によって、その実体がある程度掴めた事になるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。

朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。

このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。

ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。

しかし、フィールドはさらに凄いことを教えてくれます。

今回、中島 茂氏の案内により、筑前町(旧夜須町)の大己貴神社に近い弥永にある田神社(天神社)を発見した事は実に画期的な事であり、同社が、大国主命が贈られた日隅宮の痕跡である可能性はますます高くなってきたようです。

現在、日隅宮は福岡県筑前町(旧夜須町)の弥永に田神社(天神社)とも呼ばれ鎮座しています。

この境内に日隅宮も置かれ、実際には日隅(ウズ)宮とも呼ばれているのですから、甘木、朝倉、杷木の一帯を明け渡した大国主系の人々が、明け渡した故地を偲ぶかのように東を向いて鎮座しているのです。

「奈良」という地名もご確認ください。

この地名についても故)百嶋由一郎氏は、奈良に持ち出されていると言われていました。

奈良と言う古代に於いても重要な地名がこの地から持ち出されているのです。

思えばこの山手の夜須高原一帯(夜須川も流れ降る=天の安川ですね)には大山祗神社が数多く拾えますし、平野部は田神社(タノカンサー)が朝倉郡内に60数社拾えますし、一社を除き無格社に落とされているのです(「福岡県神社誌」)。

この地こそが高木大神から明け渡す事を要求された出雲の地なのです。

「古事記」や「出雲神話」を持ち上げ、通説にどれだけ通じているかをひけらかすような権威主義的な方から、通説から離脱したものの学会通説に尾を振るようなさもしい人々まで出てくる始末なのです。

百嶋神社考古学の者の目から見れば、殆ど漫画の世界であり、現場を知らず、見ようともせず「記」「紀」を丸呑みする方々は今もなお後を絶ちません。情けない限りです。

勿論、島根の現出雲も古代から博多を拠点とした大幡主系の倭人が入っている土地でした。

対馬海流に乗り数日を持って到達する出雲は古くより九州の人々によって開発された国だったのです。

このため、国を譲った結果移動した先が現出雲だったのであり、国譲りの現場を九州とすると近畿大和朝廷としては九州が本拠地だった事が隠せなかったからだと思うのです。

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筑前町弥永の田神社現縁起(上)と再掲載同社旧縁起(下)

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神代系譜 足尼A


百嶋由一郎氏の講演録CD神代系譜、手書きスキャニングDVD等を必要とされる方は09062983254まで
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