1011 日田市の水天宮、日隈神社、隈八坂神社…から応神送り込み以前の日田を考える
20240124
太宰府地名研究会 古川 清久
このところ大分県日田市の神社について書き続けていますが、今回は日田市中心地の町中の神社について主要な神社を取り上げ、応神が崇められる以前の本来の日田市の姿を描く必要があると思うものです。
古代と言う時、我々の言う古代とは神代にも直結するもので、阿蘇氏後裔=藤原によって九州が制圧される以前のつまり近畿大和朝廷侵入以前の九州倭国の実質的な副都であり、ただの別(ワケ)王でしかない応神が堂々と天皇扱いされ持ち込まれる以前の日田を描く必要があると思わざるを得ないのです。
我々、百嶋神社考古学の者の目から見れば、景行とか応神と言った実在性はあるものの、周王朝の血流を継承する−呉国の王統を汲む流れを正当皇統天皇と考える者からは認めがたい別王が持ち込まれる以前の神社と思われるものが日田の市街地の中心部には数多く確認できます。
まずは、これらを救い出し古代から神代を復元したいと考えているところです。
ただ、これは百嶋由一郎氏が残した百枚近い神代系譜とその背景を知らない方には何故それが重要と言えるかを説明することは難しく、少なくとも九州全域に於ける神社調査を全く行っておられない方にご説明するのは困難を要します。
それでもそれをやらなければ前に進めないとなれば少しでも試みる義務と必要があると思うのです。
応神天皇侵入以前の日田の支配的神社群

一度に表示することは不可能ですのでご迷惑かも知れませんが暫らくご辛抱下さい。
まず、日田の温泉街がある中心部に隈地名があり、日隈、月隈、星隈が揃い、海自の新型イージス艦三隈の三隈(戦中の二等巡洋艦に三隈も)までがあります。
蛇足を加えれば花月も終戦間際の秋月型駆逐艦の艦名まであるのです。
勿論、列島に於ける隈地名のルーツは熊本市千葉城町の熊本と言う地名なのですが、本来は隈本だったのです。この話は良く知られておりかなり手垢の着いた話ですので部分的にしか信用していないのですが、一応は認めざるを得ません。これで良いかは未だに保留しています。確か福岡市早良区には逆に熊本というため池地名もあったようです。
慶長12年(1607年)、この地を治めていた加藤清正は新たに城を築き始めるが、このとき「隈本」という従来の地名を「熊本」に改めたとされる。 その理由は、「こざとへんに畏(おそれる、かしこまる)」と書く「隈」の文字は、武将の居城の名称として相応しくないと考えたためで、代わりに勇壮な「熊」の字をあてたと伝わっている。 熊本県のHP
何れにせよ、ここだけでも三隈、隈、日隈…という地名があり、有名な雑餉隈、田隈、干隈…を始め大量の隈地名がある福岡市と同様に、この豊後の西の端の日田市も筑前、筑後と同一の文化圏だった事は明らかなのです。つまり東から侵入してきた宇佐、応神の土地などではなかったはずです。もう一つは、藤原が権力を握って以降、植民地総督の如く登場した大蔵一族と大原八幡宮が鎮座する地名が田島である事は、元々は三女神で知られる宗像大社の一族の影響下(天武時代)にもあった事を示しています。

宗像大社は佐賀県唐津市の旧呼子の目の前の壁島に鎮座する田島神社、兵庫県の但馬地方…などこの神社の主神の一族の展開地にはこの地名が付されるのです。
その面からも応神の侵入以前に鎮座していた神々が宗像にも祀られている神々であったことも見えてくるのです。 では、その神々とは如何なる神々だったのでしょう。豊玉彦、豊国彦もおられます。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
宗像三女神の市杵島姫はスサノウとアカル姫(豊玉彦の姉)の子
豊玉姫 は豊玉彦とタカミムスビの長女の豊秋ツ姫の子
鴨玉依姫は豊玉彦と櫛稲田姫(スサノウと別れた後)の子
お分かりでしょうか。これらの事から日田市田島という地名による推定によって日田市が豊玉彦=豊国主=八咫烏の都市であった可能性を推定できると思います。そして中心部でも一番の繁華街には玉川町があり玉川交差点が存在しているのです。
隈八坂神社 カーナビ検索 大分県日田市隈2丁目8−30 祭神 素盞之男命他1柱(チャント書け)
豆田町に鎮座する八阪神社と竹田地区にある竹田若八幡宮(若宮神社)との3社で国の重要無形民俗文化財である日田祇園の曳山行事を行っている。 ウィキペディア 20240125 07:20
もともとは日隈城の鎮守として日隈山にあった社が、廃城に伴って田島村に移され、さらに宝永3年(1706年)に現在地に遷座したとされる。現在の社殿は昭和12年(1937年)に建立されたものである。明治6年(1873年)に村社に列した。
によればコメントに菅公とありました。
日田市隈の雰囲気のある寺町通りに鎮座しています。
1702年にこの地に建てられ、素盞嗚命(すさのうのみこと)と菅原道真公を祭っています。
道真公は学問の神様であり、学力向上に御利益があり、若い人の参拝も多いようです
菅公は何処でも祀られている様に思われていますが、道真公は金山彦系の本家(母方)=所謂 伴の女 と、博多の櫛田神社の大幡主(造化三神のカミムスビ)の息子豊玉彦=八咫烏の直系の本家同志の婚姻関係の成立によって生まれた方なのです。
しかも伴の女とはナガスネヒコの妹のオキツヨソ足姫系の流れを汲んでおり金山彦(金山彦の一族は秦の始皇帝とも姻戚関係を結んでおり何れもイスラエル系の人なのです)系の直系なのです。
このため八坂=ヤーヴェ、ヤファエ、イヤサカ…と呼称は何であれ、八坂神社とはそのような神社であり、金山彦はクシナダヒメの父=アシナヅチ、母は櫛田神社の大幡主の妹(埴安姫)=テナヅチであり、博多の櫛田神社にも天照+スサノウ+大幡主の三神が祀られているのです。
ここでも豊玉彦=豊国主=八咫烏の姉アカルヒメの夫であったスサノウが祀られている神社(つまり日田市は八咫烏の首都だった)と言えるのです。そして、元々はイスラエル系祇園祭の都市だったのです。
祭神 《主》後醍醐天皇 楠中将 天児屋根命 武雷神 比女神 経津主神
楠正成は河内の人で、先祖は橘諸兄公になります(両者とも八咫烏の末裔です)。
誰だったですか○○天皇?大いにこれを悼み給い、正三位左近衛中将を贈っています。
八咫烏が中将(蟻通しの神)という中国の称号であった事を知っていたからこそこの称号を送っているのです。ここでも日田市が八咫烏の首都だった事が分かるのです。以下は臣下級の神が祀られています。天児屋根命は阿蘇高森の草部吉見(後の藤原の祖)、武雷神(これも市杵島姫と草部吉見との子の大山咋でありその子が神武僭称贈る崇神天皇に仕立てられ雷神とされているのかも知れませんが)タケイカヅチ=後に春日大神とされる鹿島大神=武甕槌大神をそう書いたか不明ですね、比女神はそれが分からないと書けないので保留しましょう。
最後に経津主神ですが、草部吉見=海幸彦との関係上 山幸彦=ニギハヤヒ=五十猛=ヒコホホデミとなります。この神社の祭神は少しばらついていますね。次に川を渡り水天宮を見ましょう。
水の都(漢学を気取り漢音で「水郷」をスイキョウと呼ぶようですが、これも一種の早稲田、慶応の気取りの様なものでしょう)、むしろ、日田の基層には呉越〜中国南朝文化が存在していたはずなのです。
それを見ず、表層を取り上げれば司馬史観に繋がるのです。それは良いとして、水の都の日田らしく水天宮が町中に5〜6社拾えます。
ここでは一社だけ取り上げますが、一般的に水の神様には3系統があります。
一番多いのは弁才天様扱いされている市杵島姫で、スサノウとアカルヒメ(姫島のヒメコソ)の間に生まれた池の中の島に祀るのが一般的なスタイルです。この母神アカルヒメも八咫烏=豊玉彦の姉なのです。次に意外と名前だけ知られているのがミズハノメこと弥都波能売神(古事記)、罔象女神(日本書紀)ですが、素姓はあまり知られていません。大山祗と埴安姫(博多の櫛田神社の大幡主=カミムスビの妹)の間に生まれた大山祗系の跡継ぎで、息子の大国主は博多の櫛田宮への入婿となっているのです。
勿論、大国主は引っ越ししていただけで(因幡の白うさぎと出会う時の袋は引っ越し荷物なのです)、元々は日向の人で大山祗の息子なのです。古事記だけに書かれていますが殆ど漫画ですね。
比較的少ないのが水天宮で、久留米の水天宮、東京水天宮などが知られています。
ただ、北辰=妙見宮も白山姫であり、その意味では東北の白山信仰までを加えるとかなりの数であり、この事が理解されていないのです。

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
天御中主命は実際に福岡市の西隣の那珂川市に居所=社があり、朝鮮半島の金官伽耶にいたウマシアシカビヒコチと行き来をして那珂川の天御中主神社に住んでいたのではと考えています。
それは、明治以来、そのような神社は無いとされており、戦後も欠史8代論の増長によってそのような神社は一社もないと存在しないと神道系の学者が主張し、そういった説が流通していた時、きちんと存在していたのです。まずはその神社をご紹介しておきます。
そもそも御中主とは何だと言う方もおられますが、別名である北辰、妙見とは北極星の事であり、天の中心の神としたのです。北辰は安心院と宇佐宮の三殿内にも置かれ三女神の庇護者になっています。
凡そ思い上がった名のようですが、日隈、月隈、星隈が揃う日田には最適なものかも知れません。
分からないのはウマシアシカビヒコヂでしょう。
古事記にもちょこっとだけ登場しますが、天地初発に誕生した造化三神に続き、国が 稚 わか く浮いている脂のように 海月 クラゲ なすただよえる時に成りました神としてこの神が登場するのです。
これについて故)百嶋由一郎は、半島でも金官伽耶に移動していた大山祗の父の越智族(トルコ系匈奴でも東西分裂で西に移動した月氏に対し、傭兵として残った東匈奴の再分裂南北分裂の結果、中国に恭順した王昭君の一族南匈奴が半島出身の昭君の出身地の半島に移動し最終的には日向=熊本=宮崎=鹿児島に定着し熊襲となっている)と言われていました。
ただ、源実朝以来、蒙古襲来の関係から半島人を敵視する事から隠され、現在では出雲大社のマロウドの間(客人間)とか富士山の浅間神社の一部にしか確認できません。私もこれまで小規模なものを含め5〜6社しか見ていません。
何れにせよ、水天宮とはそのようなもので、白川伯王(白川神道=明治まで天皇家の宮廷祭事を行っていた)の一族の姉がこの方であり、白川伯王の孫が八咫烏になるのです。
日田の中心部界の神社について詳しく書くつもりでしたが、段々と嫌になってきました。それは天領と言う恵まれた条件を持っていた藩政時代の大都市にも拘わらず神社の粗末さが非常に目に着くからです。
一般的に天領は、外様藩が高額の年貢を必死で納め続ける中、五公五民は大袈裟ではありますが、非常に低い年貢で潤っていたはずです。
勿論、街中に多くの社が存在している事から神々や先祖神に尊崇の念を持っておられた事は十分に伝わるのですが、近畿大和朝廷成立後〜白村江の敗戦(これを戦ったのも畿内政権ではないはずですが)、応神侵入以前の神々と思われる社が非常に粗末である事に悲しさを禁じ得ないのです。
今回、このシリーズでは地域が多少離れていたため取り上げませんでしたが、以前、ブログとして書いているものに、玉川交差点の南側に鎮座する重要な玉垂宮があります。
これは久留米の高良大社の高良玉垂命を祀るものです。加えて市街地周辺に4〜5社存在している若宮社、若八幡…と一部全く八幡神でもないものを八幡神としていますが、これなどが、応神持ち込み以前の神々であり、驚かれるでしょうが仁徳=オオササギ=久留米ではシレカシノミコトとされています。
個別に見て行けば、これ以外にも重要な神社はあるのですが、余りにも粗末で、大原の大社との乖離があまりにも大きく、これ以上書く気が失せてしまったのでした。
もう一つは行政が関与したと思われる地域の神社などを紹介するサイトが8割方祭神不詳としてしまっている事にも呆れてしまうのです。背景に在るのは宇佐神宮の権威だけが異常に高く、大分県神社誌さえも作っていない傲慢さにも呆れてしまうのです。いちいち神社庁に明治の神明帖を取には行けませんので。
