1016 蟻通神社をご存じでない方のために
20240212
太宰府地名研究会 古川 清久
九州の方で蟻王通神社をご存じの方は皆無と思います。
私の承知する範囲では九州には無いはずで、紀州から大阪の泉佐野には数社があるようです。
ここでは泉佐野の蟻通神社から「蟻通の神」の概略を確認しましょう
蟻通神社にゆかりのお話
中島裕司 筆 「紀 貫之」「貫之集」新潮日本古典集成より
紀の国に下りて、帰り上りし道にて、にはかに馬の死ぬべくわづらふところに、道行く人々立ちどまりていふ、 「これはここにいますがる神のしたまふならん。年ごろ社もなくしるしも見えねど、うたてある神なり。さきざきかかるには祈りをなん申す」といふに、御幣もなければ、なにわざもせで、手洗ひて、「神おはしげもなしや。そもそも何の神とか聞こえん」ととへば、「蟻通しの神」といふを聞きて、よみて奉りける、馬のここちやみにけり
平安時代の歌人紀貫之は、紀州からの帰途、馬上のまま蟻通神社の前を通り過ぎようとします。するとたちまち辺りは曇り雨が降り、乗っていた馬が、病に倒れます。そこへ通りかかった里人(宮守)の進言に従い、傍らの渕で手を清め、その神名を尋ねたところ「ありとほしの神」と言ったのを聞いて歌を詠んで献上します。その歌の功徳で神霊を慰め、霊験があらわれたため、馬の病が回復し、再び京へと旅立ちます。実は里人(宮守)は、蟻通明神の神霊だったという伝承です。このお話は、枕草子「社は」の段に記載されています。
貫之が奉能した和歌。「貫之集」より
意味:かきくもり闇の様な大空に 星があるなどと思うはずがあろうか。
「ありとほしをば」には、「有と星」と「蟻(有)通」を掛けています。一面に曇って見分けもつかない大空に星のあるのも分からないように、ここに蟻通明神のお社があると思い付くでしょうか。こんな無体な仕打ちを蟻通の神がなさろうとは思えない、の意を表します。 神仏を感応させて効験のあった歌として『袋草子』等にも記載されています。
枕草子 225段 「社は」 角川書店枕冊子全注釈より
社は、布留の社。龍田の社。はなふちの社。みくりの社。杉の御社、しるしあらむとをかし。ことのよしの明神、いとたのもし。「さのみ聞きけむ」ともいはれたまへと思ふぞ、いとをかしき。
蟻通の明神、やませたまへとて歌詠みて奉りけむに、やめたまひけむ、いとをかし。この「蟻通」と名づけたる心は、まことにやあらむ、むかしおはしましける帝の、ただ若き人をのみおぼしめして、四十になりぬるをば、うしなはせたまひければ、人の国の遠きに行き隠れなどして、さらに都のうちにさる者なかりけるに、中将なりける人の、いみじき時の人にて、心などもかしこかりけるが、七十近き親二人を持ちたりけるが、四十をだに制あるに、ましていとおそろしと怖ぢさわぐを、いみじう孝ある人にて、「遠きところにはさらに住ませじ、一日に一度見ではえあるまじ」とて、みそかに夜夜地を掘りて屋をつくりて、それに籠め据ゑて、行きつつ見る。おほやけにも人にも、失せ隠れたるよしを知らせて。などてか家に入りゐたらむ人をば知らでもおはせかし。うたてありける世にこそ。親は上達部などにやありけむ、中将など子にて持たりけむは。いと心かしこく、よろづのこと知りたりければ、この中将若けれど、才あり、いたりかしこくて、時の人におぼすなりけり。
唐土(もろこし)の帝、この国の帝をいかではかりてこの国打ち取らむとて、つねにこころみ、あらがひをして送りたまひけるに、つやつやとまろにうつくしく削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末いづかたぞ」と問ひたてまつりたるに、すべて知るべきやうなければ、帝おぼしめしわづらひたるに、いとほしくて、親のもとに行きて、「かうかうのことなむある」といへば、「ただ早からむ川に立ちながら投げ入れて見むに、かへりて流れむかたを末としるしてつかはせ」と教ふ。まゐりて、わが知り顔にして、「こころみはべらむ」とて、人人具して投げ入れたるに、先にして行くにしるしをつけてつかはしたれば、まことにさなりけり。
五尺ばかりなる蛇の、ただおなじやうなるを、「いづれか男女」とてたてまつりたり。また、さらにえ知らず。例の、中将行きて問へば、「二つ並べて、尾のかたに細きすばえをさし寄せむに、尾はたらかさむを女と知れ」といひければ、やがて、それは、内裏のうちにてさしければ、まことに一つは動かず、一つは動かしけるに、またしるしつけてつかはしけり。
ほどひさしうて、七曲にたたなはりたる、中はとほりて左右に口あきたるがちひさきをたてまつりて、「これに綱とほしてたまはらむ。この国にみなしはべることなり」とてたてまつりたるに、いみじからむものの上手不用ならむ。そこらの上達部よりはじめて、ありとある人いふに、また行きて「かくなむ」といへば、「大きなる蟻を二つ捕へて、腰にほそき糸をつけて、またそれがいますこし太きをつけて、あなたの口に蜜を塗りて見よ」といひければ、さ申して蟻を入れたりけるに、蜜の香を嗅ぎて、まことにいととう穴のあなたの口に出でにけり。 さて、その糸のつらぬかれたるをつかはしける後になむ、「日本はかしこかりけり」とて、後後さることもせざりけり。
この中将をいみじき人におぼしめして、「なにごとをして、いかなる位をかたまはるべき」と仰せられければ、 「さらに官・位もたまはらじ。ただ老いたる父母のかく失せてはべるをたづねて、都に住ますることをゆるさせたまへ」と申しければ、「いみじうやすきこと」とてゆるされにければ、よろづの親生きてよろこぶこといみじかりけり。中将は、大臣になさせたまひてなむありける。
さて、その人の神になりたるにやあらむ、この明神のもとへ詣でたりける人に、夜あらはれてのたまひける。
とのたまひけると、人の語りし。
紀貫之の故事伝承のお話の後、神社に「蟻通(ありとおし)」と名をつけた由来のお話が続きます。 昔、唐土(もろこし)の国が日本を属国とするため提示した三つの難題に対して主人公の中将が老いた父の助言に従い帝に進言し、問題が解決されます。この三つ目の難題の答となった蟻に糸を結んで七曲りの玉に緒を通したという説話が「蟻通神社」の縁起、社名伝説となりました。智恵のある中将の父によって日本は難を逃れることができました。帝は、褒美を下賜しようとしますが、中将は、老いた両親を助けて欲しいと答えます。 当時、老人は都払いにするという決まりがあったからで、これを聞いた帝は感心して、この習わしを改め、世の人々に親孝行を奨励したといわれています。 後に、この孝養の深い中将と智恵のある両親は、蟻通明神として祀られました。
歌の意味は、「七曲がりに曲がりくねっている玉の緒を貫いて蟻を通した蟻通明神とも人は知らないでいるのだろうか」
中島裕司 筆 「蟻通明神の縁起」○ 日本に出された三つの難題と答
一、削った木の元(根)と末(先端)の見分け方?
答・・・川に投げ、方向変えて先に流れる方が木の末(先端)である。
二、蛇の雌雄の見分け方?
答・・・尾の方に細い棒を指し寄せ、しっぽを動かす方が雌である。
三、うねうねと中が折曲がっている玉に糸を通す方法
答・・・蟻の腰に細い糸を結んで、玉の出口になる方に蜜を塗ると蟻は、蜜の香を嗅ぎつけて、出口に出てくる。
神社舞殿にて、独鼓「蟻通」奉納
・ 作者 世阿弥
・ 場所 和泉国 蟻通神社
・ 能柄 四番目物
・ 人物 ワキ 紀貫之
・ 典拠 貫之集
・ 人物 ワキツレ 従者
・ 時 平安時代(四月)
・ 人物 シテ 宮守
能『蟻通』小学館日本古典文学全集より抜粋
和歌の心を道として、和歌の心を道として、玉津島に参らん。 これは紀貫之にて候。われ和歌の道に交はるといへども、いまだ玉津島に参らず候ふほどに、 ただいま思ひ立ち紀の路の旅にと心ざし候。 夢に寝て、現に出づる旅枕、夜の関度の明暮に、都の空の月影を、さこそと思ひやる方も、雲居は跡に隔り、暮れわたる空に聞ゆるは、里近げなる鐘の声、・・・・・・以下省略
<能『蟻通』のストーリー>
紀貫之とその従者は、玉津島明神参詣の旅に出ます。その途中、急に日が暮れ大雨が降り、馬が病に倒れ伏します。貫之が途方にくれていると傘をさし松明を持った宮守が現れます。 ここは、蟻通明神で、下馬せずに通ろうとしたために神の怒りに触れ、咎められたに違いないと語り、和歌を詠んで神の心を慰めるようにと勧めます。貫之が歌を詠むと馬が元気になって立ち上がります。宮守は、貫之に促されて神楽を舞ううち、明神が宮守に憑いて貫之が和歌に寄せる志に感じて姿を見せた後、鳥居の笠木に隠れ、姿を消しました。 夜が明けると貫之は、再び紀の国へと旅立って行きました。
・この能の中で、貫之が詠んだ和歌。貫之集記載の歌と、上句が違っています。
意味:雨雲の一面にたちこめている夜中のことなので、まさか空に星が出ていようとは思いません。この暗闇で、まさかここに蟻通明神のお社があろうとは気がつきませんでした。
以下は百嶋由一郎の手書きメモの一つで、下は拡大コピーです。
九州に存在しない神社だけにご存じの方は少ないと思いますが、まさか日田市に蟻通神社の可能性と言うよりも、そのルーツかも知れない神社が在るとは思いもしませんでした。
関心がおありなら、これまでの数本のブログをお読み頂きたいのです。
日田市は間違いなく八咫烏支配下の九州王朝の副都に近いものだったはずなのです。
応神を持ち込んだ近畿大和朝廷の更に古層に存在する神こそ蟻通の神なのです=豊玉彦、豊国主=賀茂健角身命=神足霊鳥 八咫烏
千葉県も八咫烏の一族が展開した一帯ですが ネット上には以下の文書も出ています
蟻通明神
昔,ある帝(みかど)が若い世代だけを大切にし,人が40歳になると殺したの で,人々は都の外に逃げた。某中将(ぼうちゅうじょう)には70歳近い両親がい た。家の中に穴を掘って隠し部屋を作り,ひそかに世話を続けた。 まもなく中国の帝王がこの国をうばおうと,難題をしかけてきた。2尺くらい の木の両端を同じように削って「どちらが元か末か,印(しるし)をつけて送れ」 というのだ。みんながどうしたものかと,いくら考えてもよい考えが浮かばない のを見て,中将は隠し部屋の親にたずねた。親は知恵をさずけた。「流れの速い 川に直角に投げこむと,末の方を先にして流れる」と。中将は帝の前で試みたう えで,中国の帝王に送った。 すると,こんどはくねくねと曲がった孔(あな)がある七曲がりの小玉を送って きて,「中の孔(あな)に糸を通せ」という。出口の孔は二つに分かれている。こ んども隠し部屋の親にたずねると,「二匹の蟻の腰に糸を結(むす)び,出口の二 つの孔に蜂蜜(はちみつ)を塗ればいい」と,難題を解いてみせた。 それ以後,中国は難題をしかけてこなくなった。帝は年寄りたちを大事にあつ かうようになり,中将はたいそう偉(えら)い大臣まで昇進した。のちに中将の両 親は蟻通明神となった。 これは清少納言の『枕草子』の「社(やしろ)は蟻通の明神」の段にある物語だ が,この話のルーツは『アラビアンナイト』にもあるし,さらにさかのぼれば, アラム語で書いた前五世紀のパピルス文書や『旧約聖書・トビト記』にまでたどれ るという。 どんなに時代が変わろうとも,老人の豊富な知識と知恵は一国をも救う力があ るのだから,尊(とうと)びその知恵に耳を傾(かたむ)けなさいということを教え ているのだろう。 昨日17日は,『敬老の日』。
ただこの文章は木の元と末を誤っておられるような気がします。木の上側、梢のほうを「末」、下側、根本のほうが「元」
和歌山のこの神社も古い伝承を保持されているようですが、結果は天武天皇の話とされその時代の事として継承されているようです。
それならば乱暴な要求をしたのは唐の高宗でも良いのですが、実際は中将の資格を与えられた八咫烏の話であって、更に5〜600年近く前の時代の事なのです。
この中将とは列島から朝貢に訪れた大使級の外交官に与えられていた中国の古代官位らしく、故)百嶋由一郎は八咫烏を意味していると言う趣旨で話しておりました。
社伝は政治情勢の変化によって変わりますので、九州から移動した天武天皇(佃収説)の話に変えられたのではないかと考えています。
もう一つの注意点は、八咫烏は一時期阿波から熊野に移動し後に再び博多に戻っていると百嶋は申しておりました。それを出戻り新山と言い、玄洋社=八幡製鉄=頭山 満もその流れと言っておりました。