1017 豊後の夜明ダム正面に行徳家本家がある “有王社の基層に蟻通神社があったと考えたならば“
20240217
太宰府地名研究会 古川 清久
豊後の夜明ダム正面に行徳家の本家がある。
と言っても、少しは百嶋由一郎の受け売りだけではなく、百嶋神社考古学の延長上に先生も話していなかった発展形の探索上に獲得したものもあるのです。
つまり新しい探求への切っ掛けやヒントを得る事もあるのです。
従って、この話はこれまで書いてきたブログをある程度読んでおられる方であっても意味が分からないマニアックな話になりますので、パスされても一向に構いません。
ただ、将来の探求者に記録を残しておこうと書き留めるもので、“何だこれは、もう読まないぞ”と思われる方が出てくることも覚悟の上で、更なる思考の冒険に入ろうと思うものです。
行徳家は久留米藩の御典医(奥御医師=オコウイシ)を経て、現在まで代々続く医者の旧家ですが、現在はお住まいをうきは市辺りに移しておられるそうです。
地図右側の写真は有王社参道の一の鳥居ですが、行徳家が願主とされており寄進されたものと思います。
この間、有王社についてこの基層には蟻通神社(重複しますのでこれについては先行ブログを見て下さい)が存在したのではなかったかという仮説を提出してきました。
今も確信が深まっていますが、中国の皇帝から難題を出された中将=推定八咫烏がそれを解き国難を回避した蟻通しの神の現場にぴったりの場所のため行徳家とは豊玉彦=豊国主=豊日別=鴨建角身=天太玉=八意思兼…の末裔(後裔)の一族ではないかと考えているところです。
「姓名分布&ランキング」(24年中に閉鎖予定)で大まかな分布を確認すると以下になります。
行徳家の一族は室町末期から江戸期以降に成立したと考えています。
神社から寺院を軸とする社会制度に変えたのは徳川家とそのブレーンの一人だった天海僧正でしたが、行徳と言う仏教系の姓から考えて江戸期を考えさせます。勿論、それ以前の室町末期から戦国期までは遡るのかも知れません。
ともあれ、その行徳家の中心地は北部九州であり、少ないですが大分県日田市にも一件あるのです。
私の推測では製塩業を基礎に後には医業に転出し久留米(有馬)藩に勤められたと思いますが、その他の多くの科目の医業に従事しておられたと思います。
かく言う私も中学時代に佐賀県の行徳家と関係があると考えている蒲池姓の耳鼻科で蓄膿症の手術を受けています(入院は二ヶ月)。この行徳家については保存館に多くの資料が残されています。
ただ、それ以前の記録は残されてはいないようです。
さて、この仏教系の言葉を姓とした行徳一族とは何者なのでしょうか?
乱暴な推測ですが江戸の行徳製塩地と深い関係を持っていたのは亀甲萬醤油の一族だったはずです。
と、言うよりも製塩業者の方がより支配的な人々であって、その製塩地を支配した人々にある程度の見当が着くのです。
それは、明治の初期に於いても塩の最大生産地は肥前(当時、天草は肥後ではなかった)が最も多く、二番目が遠江(浜名湖)、その次が播州(赤穂)だったのです。
これについては、たばこ専売公社の記録がネット上に公開されています。
明治の8〜9年までは記録が残っており、肥前が最大でその半分が徳川家の本拠地の遠江、さらにそのまた半分が播州(つまり、4:2:1)となっているのです。この三つで全国の4割近くだったのです。
私の推定は江戸川河口の行徳製塩地に象徴される製塩業であり、後に国策で翼賛化され戦後の塩専売公社になるまでは民業として続いてきたと考えています。詳しくは以下をご覧下さい。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
310 | 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神 から猿田彦=ZALT彦説 |
309 | 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! D 水俣市塩浜 運動公園の塩釜神社 |
308 | 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町 塩屋大明神正面の塩田跡 |
307 | 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! B 天草市志柿の 中之塩屋大明神 |
306 | 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! A 上天草市阿村の 塩釜神社 |
305 | 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! @ 宮崎の野島神社から |
308 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡 20160919
本渡瀬戸ループ橋を渡って北に向かうと30分を要せず五和町御領に入ります。
古くは繁盛したと思われる街並みを通り抜け探し回りますが、一向にそれらしき神社に出くわしませんでしたが、再度、カーナビに御領5587を入力し直しようやくたどり着いた小丘に塩谷神社ならぬ塩屋大明神が鎮座していました。
塩谷神社(塩屋大明神)カーナビ検索 天草市旧五和町御領5587 祭神 猿田彦
今回の調査探訪では、有名な神社でも豪華な社殿の大社でもないただの無格社級の神社ばかりを探査してきました。しかし、猿田彦を正面に立てた神社群の中に、その父親である大幡主(実は第3代安寧天皇)が封印されており、その正体が塩土老翁であり製塩の支配者、交易者=大船団の支配者だった姿が見えてきたのでした。その仮説の検証のための探訪でしたが、これほどはっきりとした半ば証拠のようなものに遭遇できるとは考えていませんでした。
この手の無格社クラスの小社、祠に関してはほとんどまともな取り扱いがされておらず、社名さえも判読できないものが殆どと考えていたからです。
この神社の正面には以下の由来がはっきりと書かれていたのです。
恐らく、何らかの伝承が残されていたものでしょう。この塩田地帯が古代まで遡るものであっただろうことは疑い得ないように思います。
ここでも、御神体は二体でした。
もはや、猿田彦大神一神とされている「熊本県神社誌」に疑いを向けるのは致し方ないように思います。
ただ、祭神が猿田彦一神とされた理由は分かりません。相当古い時代から猿田彦だけが許されたものの、大幡主は許されなかった、しかし、地元では祀られていた。
つまり、海幸彦との関係が濃厚な阿蘇氏による大幡主隠しと山幸彦の猿田彦との貶めが考えられるのですが、あくまでも仮説でしかありません。
藤原氏、そして阿蘇氏もともに阿蘇高森の草部吉見神社の主神=ヒコヤイミミの流れを持っているのです。この辺りの事情については既に伝承を探る時期を越えていると言う気がしますが、再度訪問し聴き取りを行ってみたいと考えています。
その後何度かメンバーを現地に案内しましたがあるトレッキング時、事務局長の中島氏が、右側の御祭神は塩釜(神社)ですねと言いだしたのでした。確かに右の屋根の上には包丁風の石が彫り上げられていたのです。
塩釜神社が大幡主=カミムスビ神=塩土老翁であることは我々の内部では常識ですが、猿田彦=ニギハヤヒ=山幸彦を配下に塩と言う古代の最重要交易品を持って山の上まで運んでいたのでした。
次の写真はこの塩屋大明神正面に広がる水田を写したものです。
江戸時代の塩田はもっと海に近い所にあるのですが、古代の水田はこちらだったと思います。
塩屋大明神正面の風景
それは、大明神の小字がこの水田に潮を入れ、吐き出す水門の管理できる場所に置かれている様に見えるからです。ただ、現地のフィールド・ワーク、ヒヤリングが完全ではないため、ここまでで留めておきたいと思います。
次の目的地である津奈木、水俣に大返しする事になりましたが、帰る途中に、別路を通ると、近くに江戸期からの塩田地跡との教育委員会の看板を見つけました。
もとい教育委員会ではなく御領まちづくり振興会によるものです
その後の神社トレッキングにおいて、熊本県氷川町に鹿島神社1社、香取神社2社を発見し、併せて上天草市に香取神社3社を発見すると、利根川周辺の鹿島、香取、伊岐須の関東の東北三社も九州から移動したのではないかと考えるようになったのでした。
そして「その後亀甲萬醤油を造る事になる人々も有明海沿岸から移動したのではないか」というブログ、パワー・ポイントを作成するに至ったのでした。
ひぼろぎ逍遥
370 | キッコーマン醤油と博多の櫛田神社の大幡主 |
思えば、370号以来温めてきた構想でしたが、漸く日の目を見た思いがしています。
新ひぼろぎ逍遥
1002 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ❽ |
1001 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ➐ |
1000 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ➏ |
999 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ➎ |
998 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ❹ |
997 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ➌ |
996 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ➋ |
995 | 後にキッコーマン醤油を造る事になる人々は太古有明海から 東に向かったのではないか ➊ |
パワー・ポイントを必要とされる方は 090 6298 3254 までご連絡ください。
そのような広域の視点によって俯瞰すると、この有明海沿岸の製塩業者こそ神産巣日神(カミムスビ)神(博多の櫛田神社の大幡主)とその配下として動いた山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦による$箱の製塩事業が大幡主の子の八咫烏に継承され、江戸期には成立していた行徳製塩の延長上に亀甲萬醤油が成立したのでしょう。
行徳塩田 行徳塩田(ぎょうとくえんでん)は、江戸から近代を通じて下総国(千葉県)行徳(現在の市川市行徳地区及び浦安市)とその周辺地域に作られた塩田。関東地方で最も盛んに製塩が行なわれ、行徳塩田で作られた塩は行徳の塩と呼ばれた。
概要 行徳での製塩の創始は戦国時代に、後北条氏に年貢として納められていたといわれるが、もとは上総国五井で行なわれた塩焼きを本行徳村、欠真間村、湊村の3力村の者が習得し、塩焼きをはじめたと伝えられており、歴史的には、五井の製塩の方が古い。
1590年(天正18年)、行徳の旧領主高城胤則(千葉氏重臣)が北条方に組した廉で所領が没収されると、江戸城に新しく入った徳川家康の所領に組み込まれた。当時は戦国の遺風が残り、家康も江戸城における籠城の際に塩を確保するために自領内での塩の安定供給に尽力しており、行徳を御手浜としてこの地の塩業を保護した。明和年間に行徳側が作成した『塩浜由緒書』によれば、鷹狩で東金御殿に出かける途中、行徳の塩浜をみて「軍用第一、領地一番の重宝」と述べたと伝えられている。行徳は東金に向かう街道のルート(行徳街道)として定められ、後には江戸から成田山新勝寺への参詣ルートとなり、沿道はその宿場町として栄えた。更に徳川家光の1632年には関東代官によって現在の日本橋小網町までの水路(小名木川の原型)設置が許可されて江戸と常総・利根川方面との水運の中心地となった。家康から家光までの3代の将軍は積極的に塩田開発のため資金貸付け(拝借金)を行ない、同地域の年貢は「3公7民」に抑制された替わりに塩による納税を奨励した。そのことは行徳の塩浜の面積が元禄検地の際には191町7反余・15か村、1810年代(文化末期)には136町4反余・16か村と、近世前期の方が面積は多かったことからもうかがえる。1702年(元禄15年)に実施された検地は後世「行徳検地」と呼ばれたもので、これまで江戸幕府の支配下にありながら、長年の社会通念に従って塩田=無主地として扱われてきた行徳塩田はこれによって公式に幕府領の一部としてみなされるようになり、堤防の普請などの保護を受けやすくなった反面、1筆ごとの面積が固定化され、瀬戸内海沿岸のような生産規模の拡大が困難になった。行徳では田畑の村高(石高表示)とは別に塩田の反別高(永高表示)が把握され、これに基づいて塩浜役永(塩年貢)が賦課されること[1]になり、1/4を塩納で、3/4は金納で納めることが定められたのもこの検地による。なお、延宝・元禄期には台風などの災害による塩田の復旧については、塩問屋などの江戸の有力商人からの借金によって賄ってきたが、1709年(宝永6年)以後幕末に至るまで、幕府による塩田や堤防の普請が行われるようになる。… ウィキペディア 20240219 10:25による
三井不動産 このまちアーカイブス より
今回は、限られた情報から有王社というここにあるべき必要性の無い神社を取り払い、ここにこそあるべき中将=蟻通の神=八咫烏を祀っていたはずの蟻通神社を蘇らせる乱暴な作業を行ってみました。
この様なことは本来行うべきではありませんが、一方的に隠された神の痕跡=参拝殿正面の龍王の彫刻があったのでした。
申し訳程度に天御中主命は祀られているようですが、八咫烏の父神=カミムスビの叔母さんになります。
姓名の分布からは「行徳」家は久留米を中心とした一族で、非常に限られた姓なのです。
この限られた痕跡だけを手掛かりに今後も探索を続けます。
情報をお持ちの方がおられればご連絡いただきたいと思います。
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