1018 吾平津姫という女神様がおられます この女神様の末裔が松田聖子姫と言えば信じますか
20240226
太宰府地名研究会 古川 清久
この話を3月10日に久留米で話をするつもりで現在、準備をしています。
太宰府地名研究会は福岡市の南の二日市温泉で有名な筑紫野市で月例会を常設化していますが、今回は当会の集まりとは別で、通常、大島先生の勉強会ができない時に当会のメンバー数名が話を続けています。
久留米市での話ですので、松田聖子姫の出身地である事から多少色物と言われそうな話ですが、それも良いのではないかと思い準備を行ってきました。
具体的には12月から200シートのパワー・ポイントを作成し、久留米の現地も確認し写真も撮って周辺を歩いてきましたので何とか穴は空けないで済むのではないかとほっとしているところです。
❶ アイラツヒメをご存じですか(国土交通省のPDFサイトから)
吾平津神社 日本神話では、アヒラツ姫は伝説の初代天皇で ...
吾平津神社
日本神話では、アヒラツ姫は伝説の初代天皇である神武の最初の妻です。神武(この神武はカムヤマトイワレヒコで神武僭称贈る崇神とは全くの別人です)は日本全土を征服するための旅に出て、敵対する部族を倒し、現在の奈良県にあたる国の中央部に政府を樹立することで目的を達成しますが、その旅に出る前までは 2 人は一緒に住んで、子供もいました。言い伝えでは、アヒラツ姫は夫の神武と一緒に旅に出たというのもありますが、彼女は夫の成功を祈るためにとどまったとされます。古くから油津の里の総本山である阿比良津神社には、姫君が神として祀られています。
阿比良津神社は、もともと多くの民話に出てくる海の女神・乙姫を祀った神社で、猿と雉の二人の仲間と一緒に祀られていることもあります。1868 年の明治維新後、アヒラツ姫にちなんで吾平津神社と改名されたこの神社の参道には、今も猿と雉の動物たちの像が鎮座しています。明治天皇(1852〜1912 年)の政府は、神道を国教として制度化し、在来神話や皇室の起源伝説にまつわる遺跡の崇拝と維持を奨励しました。このような背景から、油津の人々にとっては神武天皇の妻を主祭神とすることに意味がありました。
アヒラツ姫は伝説の初代天皇である神武の最初の妻です(これはOK)。
百嶋神社考古学では以下を否定します。この東征と言われるものは後に第10代と藤原から天皇扱いされた贈)崇神+四道将軍(ハツクニシラススメラミコト)の業績で開化天皇と神功皇后の指揮下で行われたものなのです。このことから崇神を本物の神武天皇とする系譜が造られたのです。何故なら、この崇神が後の藤原の事実上の祖先だからです。
神武は日本全土では、を征服するための旅に出て、敵対する部族を倒し、現在の奈良県にあたる国の中央部に政府を樹立することで目的を達成します
百嶋由一郎アイラツヒメ神代系譜(部分)
以下は当日配布する予定のレジュメです
今回、普通は色物とも言うべきお話をすることにしました。基本はパワー・ポイントでお話しますが、要点だけを纏めたペーパーも準備しました。後で、調べるためにも、また、パワー・ポイントやパソコン自体をお使いにならない方のためにも用意した物です。いずれにせよ、スマホで読まれる方には全文をブログ化してネットには公開しますので、それをお待ちになってください。今回はパワー・ポイントを先行して作成しましたので、現段階ではブログを書いておりません。初めての事ですが、逆に簡略化させてブログ化したいと思っています。
特に驚いたのは蒲池姫のその後の見当が着いたのです。
「松田聖子はアイラツ姫の末裔ではないのか」 2024年3月10日(日)太宰府地名研究会 編集員 古川 清久
松田聖子さんが久留米出身である事を知らない久留米人はまずいないでしょう。彼女の本名は蒲池法子さんで先祖は柳川藩主蒲池氏なのですが、この一族の元をたどると平安期の地方豪族〜鎌倉時代の九州の御家人にはたどり着くようで(これは恐らく松浦党系か朝倉の篠崎家辺りの話でしょう)蒲池氏(かまちし)は、鎌倉時代以来の筑後国の一族。鎌倉時代は地頭職、室町時代は大身の国人領主、戦国時代は筑後十五城の旗頭の大名分で柳川城主であった。蒲池氏は歴史的に見ると、嵯峨源氏そして嵯峨源氏渡辺党松浦氏族の「前蒲池」時代(鎌倉時代〜南北朝時代)と、藤原氏系宇都宮氏族の「後蒲池」時代(室町時代〜戦国時代)がある。そうして生き延びたのです。
❶ 宮崎県日南市の油津港に阿平津姫神社があります。本物の神武天皇の本当のお后を祀る神社です。
神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の妃であり、神武天皇が大和朝廷をおこすため東遷された時に(これは贈る崇神のやったことで、真実は神武巡行で甲府までは行っています)、同行せずこの地に残り東遷の成功を祈り成就されたことから、諸祈願成就の神として信仰されています。
天照皇大神、武甕槌命(主神の子)、倉稲魂命、天児屋根命(主神の義理の伯父)、木花咲耶姫命、
経津主命
❷ この神武巡行によって、アイラツヒメとカムヤマトイワレは不仲となり、生まれたばかりの懿徳(後の第4代天皇)を残し、阿蘇の金凝彦(実は蘇民将来伝承の巨胆=阿蘇12神とは別の最奥の神殿に祀られています)と一緒になり、健磐龍を生むのです。結果、阿蘇氏は神武の義理の兄弟のような関係となり阿蘇氏は天皇家の一族であると妙な強弁を続けているのです。そして、蘇民将来伝承の事もあったはずですが、呉太伯系と金山彦系には亀裂が走り、金山彦の孫のナガスネヒコと神武の衝突と言う百嶋神社考古学で言う神武の失政が生じるのです。
いずれにせよ武磐龍の母となったアイラツヒメは三角港に近い郡浦神社の蒲池姫として祀られるのです。
❸ では、その後のアイラ津姫の出身母体の金山彦系の人々は何処に移動したのでしょうか、吉備の中山(だからこそ「蘇民将来」伝承が「備後国風土記逸聞」に残るのです)から関東だったはずですが、そこで思いついたのが西鉄大牟田線の蒲池駅でした。この周辺を調べていると、この蒲池の一帯は蒲池城を中心に藤原純友の弟の純乗が盤踞し、純友死後も数年に亘り通商破壊(海賊行為)を行い、その後も生き延びた一族が、松浦党や宇都宮氏の支配を受け入れ(入婿を受入れ地盤を維持)女系として蒲池の領域を守っているのです。
❹ このあたりの事情は、ネット上に10年前に見出した「柳川蒲池物語」が素晴らしい内容で、関連部分をご紹介しておきます。後は、スマホでも読めると思いますのでお試しください。
それなくしては蒲池の一族は語れないほどです。
❺ 百嶋由一郎最終神代系譜で確認しましょう。以下
臨済宗妙心寺派崇久寺 福岡県柳川市東蒲池1472−1
この一帯は何故か開発が遅れており、どうも理由は、逆賊となった藤原の純友、純乗の本願地とその一族だったからではないかと考えています。道路も交差点も住宅地も水路も新しくても寸断されている印象で、酷い目に遭わされていると言う印象は消せません。
松田聖子姫が久留米の名族であり、戦国期も含め実質20万石級の豪族であった事は疑いえません。
蒲池家系の危機
蒲池家系の危機(9代目蒲池武久の討死)
建武3年・延元元年(1336)菊池氏を中核とする九州南朝方と「多々良浜で戦い」北朝方の足利尊氏は、で勝利を得て、再び京都に攻め上り摂津湊川で楠木正成を討ち取り、新田義貞を破り京都を制圧、足利幕府を開いた。この多々良浜の戦いで9代目蒲池武久は九州南朝方に属して菊池・阿蘇・星野の軍勢と共に足利尊氏の軍勢を迎え撃ったが討ち死にし、宇都宮久憲を婿に迎え跡を継ぐまで約20年間、蒲池氏は主不在のままになり、その間、武久(たけひさ)の幼少の娘が「女地頭」として家を守った。ここまでの時代の蒲池氏を【前蒲池】と呼ばれている。
その後の蒲池一族
鎮運は秀吉に三池郡のうち200町を給わり海津館に移り住む。その後、藩主立花宗茂は蒲池鎮運を弟の立花直次(高橋統増)の3千石の与力として立花藩に抱える。豊臣秀吉の朝鮮遠征に 参陣し、文禄元年(1592)に釜山で31歳で病死している。墓は高田町楠田の亭釈寺にある。
関ケ原の戦いでは、鎮運の子の蒲池吉広が立花氏与力として西軍に属して戦うが、石田三成率いる西軍(豊臣方)は敗北している。慶長5年(1600)上蒲池家は徳川家康により元和7年(1621)再び家康に実直な人柄を認められ立花宗茂が柳川城主に返り咲いた。慶応3年(1867)大政奉還至る約250年間柳川藩は13代立花鑑寛(あきとも)で藩政を終る。文亀年間の蒲池治久による築城開始され戦国時代・藩政時代を通り過ぎ明治5年(1872)柳川城災上まで370年間役目を果たし柳川城の歴史を閉じた。天景2年(939)藤原純乗が蒲池城を築城してから933年の歳月が過ぎている。
日 時: 3月17日10:00集合 10:30出発 参加費 500円 連絡090-5289−2994(中島)
集 合: 佐賀県神埼市神埼町鶴3542番地1神埼市役所 櫛田宮は国道34号線を挟んだ正面
神社トレッキング 「事代主のブログ」杉山宏治氏が案内する“佐賀県神埼市の櫛田宮を探る”
日 時 : 2024年2月18日(日)13:00〜16:30 二日市温泉講演にお集まりを…
参加費 : 500円 連絡 太宰府地名研究会 090-5289-2994(事務局中島)090-6298-3254(古川)
3月のスケジュール
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神埼市の櫛田神社は周辺の二社と併せ一つの神社と言われています…ガイド:杉山宏治
神埼市役所(集合)佐賀県神埼市神埼町鶴3542番地1神埼市櫛田
順路:❶ 神埼市役所(集合)❷ 八天神社 ❸倉岡神社 ❹ 高志神社
G 倉岡神社(櫛田三所大明神)神埼市脊振町広滝3435
I昼食:紀の国屋うどん(案)神埼市神埼町城原1617−1
J 昼食:丼べえ(案) 神埼市神埼町尾崎4169−29
3月10日(日)13:30〜 太宰府地名研究会の古川が久留米の大津勉強会でもお話します 参加費:\1000円
場 所 : 久留米シティプラザ 福岡県久留米市六ツ門町8−1 4F小ホール
講演者 : 古川 清久(太宰府地名研究会編集員) ひぼろぎ逍遥(跡宮)管理者、「有明海異変」著者
テーマ : 「松田聖子は本物の神武天皇の本物のお后の末裔ではないのか」
久留米の皆さんで松田聖子様の本名が蒲池法子である事は知らぬ人はおられないでしょう。本物の神武天皇の本物のお妃はアイラツ姫です。ところが、その後再婚の際に改名した蒲池姫を祀る神社が熊本県宇城市に在ります。郡浦神社です。蒲池の一族は藤原純友(承平天慶)の乱を経て生き延びます。今回はこの話をさせていただきます。
会場、駐車場…についてのお問い合わせは 090-5289−2994(事務局中島) 090‐6298‐3254(古川)へ
4月21日(日)佃 収 北九州市(小倉北区)丁己歴史塾+太宰府地名研究会提携特別講演
場 所:北九州市小倉北区大門1丁目6-43 北九州市立生涯学習総合センター 093-571-2735
講演テーマ:「崇神天皇」の渡来と神功皇后の「貴国」
7月(日程調整中)佃 収 北九州市(小倉北区)丁己歴史塾+太宰府地名研究会提携特別講演
場 所:北九州市小倉北区大手町11番4号 北九州市立男女共同参画センター・ムーブ 093‐583‐3939