1019 佐賀県神埼市の櫛田神社と福岡県福岡市の櫛田神社とは全く性格が異なる神社なのです
20240226
太宰府地名研究会 古川 清久
このテーマは神社に関心をお持ちの方であっても、福岡県〜佐賀県に住まれる方以外にはほとんど興味を持たれる方はおられないと思います。ただ、3月には「事代主のブログ」氏のガイドで佐賀県の櫛田神社関連神社4社を巡るトレッキングを行いますので少し重要な話をしておきます。以下はそのチラシの一部です。実際には3月は雨で中止(延期となり)5月26日(日)に変更になりました。
2024年3月17(日)(太宰府地名研究会)3月〜スケジュール
事代主のブログ氏が案内する佐賀県神埼市の櫛田神社三社廻り
佐賀県神埼市役所に集合(雨天中止)
日 時: 3月17日10:00集合 10:30出発 参加費 500円 連絡090-5289−2994(中島)
集 合: 佐賀県神埼市神埼町鶴3542番地1神埼市役所 櫛田宮は国道34号線を挟んだ正面
神社トレッキング 「事代主のブログ」杉山宏治が案内します“佐賀県神埼市の櫛田宮を探る”
日 時 : 2024年2月18日(日)13:00〜16:30 二日市温泉講演にお集まりを…
参加費 : 500円 連絡 太宰府地名研究会 090-5289-2994(事務局中島)090-6298-3254(古川)
3月のスケジュール
※ 神埼市の櫛田神社は周辺の二社と併せ一つの神社と言われています…ガイド:杉山宏治
神埼市役所(集合)佐賀県神埼市神埼町鶴3542番地1 国道を挟んだ所にあるのが櫛田宮です
順路:❶ 神埼市役所(集合)❷ 八天神社 ❸倉岡神社 ❹ 高志神社 ❺ 櫛田宮
@土師山八天神社 神埼市神埼町城原3672
A 倉岡神社(櫛田三所大明神)神埼市脊振町広滝3435
B 櫛田宮 神埼市神埼町神埼419−1
C 昼食:紀の国屋うどん(案)神埼市神埼町城原1617−1
D 昼食:丼べえ(案) 神埼市神埼町尾崎4169−29
E 高志神社(櫛田三所大明神)神埼市千代田町下板1229
松田聖子姫は私が本物の神武天皇の本当のお后の末裔ではないかという小規模講演を3月10日(日)13:30〜 久留米のシティプラザ4F で行います。前ブログでもご紹介しています。
今回は二つのテーマで取り組みますので、関心をお持ちのある方はご自由にご参加ください。
ある意味で、会の強化と参加者の拡大のための取り組みです。
まず、博多にお住いの方でさえ佐賀県の神埼市に櫛田神社が存在している事をご存じでない方がかなりおられるのではないかと思いますので、場所を確認しておきましょう。
194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?
173 博多の櫛田神社の祭神とは何か?
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
770 熊本の二人の女性と博多の櫛田神社を二時間掛けて観察した 以下一部を切り出します
まず、櫛田神社とは二つあることはご存じでしょうか?神社に明るい方は十分にご存じでしょうが、博多の櫛田神社とは別に佐賀県の神崎市役所の隣に櫛田宮があるのです。ただ、百嶋神社考古学の立場から言わせてもらえば、この二つの神社は非常に強い関係性を持つものの、実は全く性格の異なる神社なのです。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
勿論、櫛田神社の「櫛田」の意味は櫛稲田姫の櫛稲田、櫛田を意味しているはずです。ただ、結論を急げば、クシナダヒメはイスラエル系の金山彦と白族(紀元前に雲南省昆明から海南島を経由し肥後から筑紫に進出した民族+越族)である博多の櫛田神社の大幡主の妹の埴安姫との間に産まれた神話の世界でも最も知られたプリンセスです。良くご存じの通り八岐大蛇退治によってスサノウのお妃となったクシナダヒメもナガスネヒコの乱が原因だったのでしょうか、埴安姫の息子である豊玉彦=ヤタガラスの傘下に入ったのでした(婚姻関係)。このように博多の櫛田神社は大幡主と埴安姫〜ヤタガラスとスサノウを祀る神社であるのに対して、神崎の櫛田宮とは金山彦〜櫛稲田姫〜(もしかしたらナガスネヒコの妹=オキツヨソタラシ系)…を祀る神社なのです。このように性格が異なる神社なので、神埼の櫛田神社とダブル・イメージで解釈されないように…お願い致します。要は上の神代系譜の赤枠と青枠の違いなのです。ここでは現在の櫛田神社の元宮である野芥櫛田神社外、市内にある櫛田神社数社については触れません。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
では、現在の博多の櫛田神社の祭神を考えることにしましょう。
櫛田神社は、博多の氏神・総鎮守として地元の人々がお参りをする神社でした。御祭神は、大幡主命(オオハタヌシノミコト)、天照皇大神(アマテラススメオオミカミ)、素戔鳴尊(スサノオノコミコト:ここにはナガスネヒコも反映されてはいるはずです)の三神とされています。しかし、個人的にはこのアマテラスについてかなりの疑いを持っています。また、社伝では平安時代に松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まったとされていますが、これも疑わしく、熊野からの出戻りが正しいのです。一旦熊野に進出し博多に戻った…のであり、百嶋翁の云いに沿えば、出戻り新山こそがこの神社の本質であるようです。さて、天照皇大神が本当に祀られているのかと言えば、今は確かにそうかも知れません。
櫛田を櫛稲田姫の櫛田とすると櫛稲田姫の母方の神社が博多の櫛田で父方の神社が神埼なのです
ただ、神紋との齟齬を感じられるのです。つまり桜紋がおかしいのです。三盛り木瓜三五桐が大幡主の五枚木瓜がスサノウのは良いとして、桜紋がアマテラスとは如何にもおかしいと言うより、むしろお粗末なのです。本来、この神紋は大山祗〜木花咲也姫の一族が使うものなのです。
宮崎県都農町都萬神社-(宮崎県児湯郡都農町川北13294番地)=日向國一之宮は大山祗の息子で実質大幡主=白族への入婿となった大国主命を宮崎県西都原市の都萬神社(宮崎県西都市妻1)=日向國二之宮は木花開耶姫命を石貫神社(宮崎県西都市大字三宅4615-ロ)は大山祗命(トルコ系南匈奴)を祀る神社なのです。彼等こそ熊襲本体であり、桜咲くシルクロードからやってきた事を語っているのです。前掲の百嶋由一郎最終神代系譜(部分)の黄枠に象徴(表現)されるイスラエル系+白族(天御中主命)系+トルコ系匈奴の三民族のスクラムこそが本来この櫛田神社の本質であり、三盛り木瓜紋もこの三民族のスクラムを表していると考えられるのです。従って天照ではなく大山祗を祀る神社のはずです。蛇足になりますが、本来、木花咲也姫は桜姫と呼ばれていたのですが、呉音と漢音の交代によってか?後に桜(サクラ)がサクダ、サクジャと呼ばれようやくサクヤで納まったのではないかと考えています。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)