2024年06月27日

新ひぼろぎ逍遥 1020 熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か?

新ひぼろぎ逍遥 1020 熊本県玉名市大浜町の蜑父(タンプ)姓とは何か?

20240226

太宰府地名研究会 古川 清久


 23年中にメンバーになっていただいたT氏と共に熊本県玉名市の再、再、再度の神社調査をおこなっていましたが、久しぶりに懸案でもあった大浜町の外嶋宮を訪れました。

 地元に精通されたT氏のこと外嶋宮正面に置かれた長文の社伝を彫り込んだ石碑に関する資料がないものかと相談すると数日で資料を送ってこられました。

 本来は、故)百嶋由一郎氏が語られていた“二人の住吉様”に関する記録を留めておこうと作業にかかったのですが、その頂いた資料に、この地区に集中的に居住されている蜑父(タンプ)姓=実際には蜑の上に草冠と言う表記の一族が現在も多数居られると言う記事がありました。

 これが面白いものだったので、暫らく碑文を棚上げにしてこの蜑父(タンプ)姓について書きたくなりました。

 何とも驚く姓ですが、纏まって住んでおられるという事はそれなりの事情があったはずで、それだけで非常にロマンチックな話なのです。

 いつも利用している姓名分布&ランキングには出てきませんでした。しかし以下には正確に出ていました。岱明町は「景行紀」の帰路上陸した「腹赤」でもありますので益々興味が湧きました。

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𦿸父(たんぷ)さんの由来と分布

タンプ 【𦿸父】レベル1 ごく少数  日本姓氏語源辞典

推定では約60人。熊本県。職業。𦿸は「海士」を意味する。熊本県玉名市岱明町野口に江戸時代にあった。同地、熊本県玉名市大浜町では漁業に従事していたと伝える。      2019 8 31日 更新


 以下はその情報に出くわした記事です。

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実に回答されている方も𦿸父さんです

 私がこの姓に関心を持った理由は、この場所が大陸からの有力な玄関口の一つ(博多、伊万里、佐世保、玉名、八代、薩摩川内…)で、特に玉名=菊池川河口は多くの民族、氏族が入って来た事を思わせる伝承もあり、第一に百嶋由一郎は、トルコ系匈奴(熊襲)、土舎(トゥチャ、ツウチャ)族が入っていると語っていたからでした。タンプ姓と聴いて、非常にレアな姓であることは一目ですが、私が思ったのは周王朝の古公亶父(ココウタンポ、プ)でした。古代史に関心をお持ちの方は、「倭人は呉の太伯の末…」といったフレーズを一度は聴かれ、いや、何度となく聴かれた事がある方もおられるでしょう。

 特に、大分県を除く九州西岸部は沖縄の三母音の影響を受けたからか(逆かもしれませんが)、O音をU音で代行する傾向が顕著なため一例ですが(「大事」オオゴト→「大事」ウウゴツ)となるため、「タンポ」は「タンプ」となる傾向があるのです。これが的を得てると思うかはご判断にお任せします。

 ただ、この地から10キロも遡上すれば、有名な江田船山古墳があり、更に遡れば金山彦の本拠地と考えている山鹿市の大宮神社、更に、南北朝騒乱期に南朝方として戦い続けた菊池氏(彼らは紋章から阿蘇氏の一派のように理解されていますが、とんでもない誤りで、彼らこそトルコ系匈奴=東西分裂後の南匈奴:王 昭君の一族(秀頼も)で元は日足紋を使う大山祗系の一族=熊襲なのです。だからこそ南朝方として戦うために熊襲である事を隠し阿蘇氏の様に偽装したのです)の本拠地である菊池市があるのです。

 加藤清正は秀頼を迎え家康と一戦を構えるつもりで熊本城を造り地下深くに昭君の間を置いたのです。

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古公亶父君主

古公亶父は、周初代武王の曾祖父。周の先王の一人。公叔祖類の子。姓は姫。先祖の后稷・公劉の業を納め、国人から慕われた。古公とも呼ばれる。『詩経』では太王。『史記』によれば、武王が殷を討つ前に太王と追尊した。それ以前は太公と呼ばれ、孫の文王が呂尚の事を「太公が望んだ人だ」として「太公望」と呼んだ逸話は有名である。両親: 公叔祖類 子女: 季歴、 太伯・虞仲 Zhongyong of Wu

孫: (カクシュク)、 虢仲 祖父: 亜圉 (黒字)フリガナ、強調は古川

                 ウィキペディア 20240228 11:25

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菊池川河口は左岸の大干拓地(横島干拓)の築造のため河道が振られ西に動いていますが、元々は菊池川が運ぶ堆積物による低い島状地であったと思われ、漁労民、運送業者、商人が住み着いていたはずです


干拓地であったため太刀洗陸軍航空隊の教育隊の分駐隊も置かれたていたようで、外嶋宮だけに目を向けていた事に改めて反省することしきりでした無題.png

の部分が二線堤防であるため、藩政時代の港はこのライン辺りに在ったはずです

 これより南は明治以降の国造干拓のはずで、タンプさんが居住されているのはこの一帯だと思います


 明治期の姓の創出期にタンプ姓を纏めて採用したとも思えないため、突飛と思うのは私も同様ですが、もしも想定が正しいとすると、呉の(三国志の呉ではなく呉越同舟の呉)滅亡=夫差14年(紀元前482年)には呉国から船で列島に避退しているとすると、2,500年前にその乗員としての王族を安全に送り届け周王朝の血脈を継承させた功績で周王朝(周の滅亡によって後には呉に継承される)の始祖である古公亶父の「亶父」(タンプ)を賜ったのではないかと考えたのでした。

そもそも呉国は周の太伯と虞仲と言う王位継承権を持つ長男次男が、妾腹の三男の子が優秀で聡明だったため兄を差し置いて、王位を譲ろうとしたことから南の越の領域に逃れ、血統が高貴の為に越の民の一部に担がれ呉国の王族となった…と言われる話があり、これが倭人の素性とされたのでした。

この辺りについては、非常に正確、詳細な検討をされておられる民間研究者のコメントをご紹介し、勝手ながら引用させて頂きたいと思っています。以下。


鴨着く島

南九州の風土と歴史、伝承を中心に書きつづっていこうと思います。 季節ごとの風景や祭りを画像でお届けしますのでどうぞお楽しみに。

「倭人の起源=春秋戦国時代の呉」説は正しいか?(1) | トップページ | 「大浜電信局」跡(南大隅町大浜) ≫

「倭人の起源=春秋戦国時代の呉」説は正しいか?(2)

 前回の(1)では「倭人が呉の末裔であると解釈できる中国史料は何か?」という質問に対して、それは『魏略』である―と出典を明らかにした。

 そこには確かに<…その旧語を聞くに、自ら太白の後という。>とあり、これは<彼ら中国に使者としてやって来る倭人から、その昔話を聞くと、自分たちはあの太白の後裔である、と言っている>という意味である。一見すると倭人は呉を建国した太白の末裔と言っているのだから、「倭人は間違いなく呉の太白の後裔だ。つまり日本人の先祖である倭人の出自は呉である。」という結論を導き出せそうに思える。

 しかし使者として出かけた倭人は決して「呉の太白の後」とは言っていない。つまり「呉の」という修辞はないことに気付かなくてはならない。もし「倭人は呉の後裔である」と言いたいのであれば、「われわれは呉を建国し、かつ、代々後継者を出していた太白の弟の虞仲の後である」と言わなくてはならないのである。

 これならば話の筋が通り、文句なく「倭人は呉の後裔」と言う意味が確定する。ところが「太白の後」という表現だけでは直ちに倭人が呉の後裔であるとは言えない。

 では、太白と倭人との関係はどのようなものか?

 太白については『史記』「周本紀」「呉太白世家」に登場する。どちらも内容は同じで、父の古公が三人兄弟の末子である「季歴」とその子の「昌」こそが周王朝を継いでいくのにふさわしい、と考えたため、自分ら兄たちは周を離れ、南方の長江流域に出奔し、そこで新たな王家(呉)を樹立した―ということになっている。

 そして同じく「呉太白世家」によれば、長子の太白には子がなく、子の生まれた弟の虞仲が呉王家を世襲して行くのであるから、「太白の後」と言ったからといって「呉の末裔」とは言えないのである。

 太白には子がいなかったのであるから「太白の後」はあり得ない話である。では、「太白の後」と言ったその真意は何であろうか?これには三つのことが想定できる。

 (1).最も分かり易いのが、太白はたしかに呉王家の後継となる嫡子は生まなかったが、別腹の庶子がいてその子が太白家を繋いで行き、後世になってその太白家の中から倭人と混血した家系が分岐したというような場合。

 (2).一番目と前半は全く同じだが、倭人の使者の中には「呉の太白の後」を標榜する呉からの渡来民を出自に持ち、そのような人物が選ばれて使者に立った者がいたかもしれず、その使者が「実は私の祖先は呉から倭国へ渡ったのです」などと話したというような場合。

 (3).(1)(2)はどちらも太白には子孫がいてそれが倭人とつながっている、という考え方だが太白に本当に子孫がいない場合、「太白の後」はあり得ないが、「呉と倭は起源が同じである」ということを表現した可能性。

 (1)と(2)の可能性もあるが、その場合でも「太白の子孫が倭人となった」もしくは「太白の子孫が倭(国)を開いた」とまでは言えない。そのことを示す古史書が存在する。それは前漢の史家・王充(オウジュウ=AD27年〜97年)が著した『論衡』(ロンコウ)という史書の次の箇所である。

 第八  儒僧篇 周の時、天下泰平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は暢草(チョウソウ)を貢ず。

 第十三  超奇篇 暢草は倭人より献じられる。

 第十八  異虚篇 周の時、天下太平にして、倭人来りて暢を貢ず。

 第五十八 恢国篇 成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず。

 第八、十三、十八、五十八とも倭人に関して「暢(暢草)」つまり霊草(神に捧げる酒に入れたという草)を貢ぎに来る人々である、という認識は同じである。さらに、それがいつの時代だったのかを特定しているのが第五十八の恢国篇の記述で、その時期を成王の時代としている。

 成王とは周王朝の2代目で、中国政府の「夏殷周年表プロジェクト」によって確定された在位は紀元前1042年から1021年の22年間である。したがって紀元前1040年頃、すでに倭人という存在が知られており、時代的には太白が周王朝の創始を弟の季歴に譲って次兄の虞仲とともに南方に奔り、呉を建国した頃でもある。

もし倭人が「太白の後」(太白の末裔)であるならば、成王に暢草を貢献した際、「祖父の代に南方に逃れて呉を建国した太白の後裔である倭人」というような書き方がされてしかるべきところである。倭人は倭人として独立して描かれている以上、太白と倭人との間に血統的なつながりを見出すことはできない。

『論衡』の上の記事では、「太白の後裔の倭人」という書き方はないうえ、第八と第五十八では呉よりさらに南方の越と並んで倭人だけが登場しており、呉人は出てこない。すなわち成王の時代には越人と倭人はいても、呉人はいなかった節がある。つまり時系列的には「倭人のほうが呉人よりも古い」とさえ言える可能性が出てくるのである。

その点について、太白・虞仲・季歴兄弟の父親を俎(ショソ まな板)=古川注 上に載せてみると興味深いことが分かる。父はその名を「古公亶父」(ココウタンプ)というが、古公は「いにしえの」という意味であり、「亶父」は「亶州出身の・亶州を宰領する」男王と解釈される。亶州を私は日本列島(中でも九州島)と比定するので、「古公亶父」とは日本列島の中でも九州島出身の王を指しているのではないかと考えられるのである。

 以上により、「(呉を建国した)太白の後」とある『翰苑』巻30の記事から「倭人の起源は呉にある」と導き出すのは不可能であると断定できる。

 むしろ最後のほうで触れたように、周王朝発足当時(紀元前1040年頃)の呉の領域には実は倭人が居住していた可能性が見えてきた。2代目の成王の時に暢草を貢献した倭人がどこにいた倭人かはその暢草の種類が特定できれば原産地も特定でき、倭人の居住地も特定できよう。

 今のところその特定はできていないが、少なくとも紀元前1000年代には呉とは別に「倭人」と呼ばれる種族が居り、周王朝の祭祀の一部を支えていたことだけは確かである。

 ※ 以上の史料については、以下のホームページで参照できる。

    鴨着く島おおすみ:http://kamodoku.dee.cc/index.html

               この中の「中国史料に見る倭人」の項


無題.pngここまで書いて、以前、読んだ本の中に、「タンプ」という言葉があった事を思い出しました。

それは、大分市在住の安部貞隆さんという「安部」一族(宗任)の本家の直系の研究者で、自費出版ながら2015年に「豊後安倍氏の伝承」という500pの大著を出された方で、それ以来お付き合いをさせて頂いています。

その安部さんが次著として出されていた“陸奥安部氏累代の古文書が語る”「前九年合戦史」(2018)に「『陸奥話記』の終わりに、京に送られた貞任の首が民衆に晒される前に、担夫たんぷ(荷物を担ぐ人夫)が貞任の乱れた髪を梳きたいと嘆願した場面が描かれています」というフレーズがありました。(同著14p

現在では通常使用しませんが、かつては普通に使っていたものだったと思い直しています。


たんぷ【担夫】 〘名〙荷物をかついで運搬する人夫。 特に奈良・平安時代では綱丁(ごうちょう)に率いられて、庸・調などの貢物を都に運ぶ運脚(うんきゃく)をいう。          Google

無題.png担夫(たんぷ)とは?意味・読み方・使い方 - goo辞書

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https://dictionary.goo.ne.jp › 国語辞書品詞名詞


担夫(たんぷ)とは。意味や使い方、類語をわかりやすく解説。荷物をになう人夫。〈色葉字類抄〉蜑父(タンプ)、周王朝の「亶父」(タンプ)、担夫たんぷ がどのような関係にあったのかが興味深いですね。今後の課題です。

posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記
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