ひぼろぎ逍遥(跡宮)1061 帆足姓の一族とは何か
20240803
太宰府地名研究会 古川 清久
以前からお会い出来たら…と思っていた帆足(ホアシ、ホタルもあるようですが…)さんとお会いすることができました。
具体的にお話しするとご迷惑が掛かるかも知れませんので、ここでは一般論として書く事にします。
ただ、具体性を持った話とお考え頂く事自体は一向に差し支えありません。
去る7月、高千穂町の某神社で多くの皆さんとお会いしたのですが、八木さんという方が帆足さんとお二人で来られていたのでした。
話が退屈にならない様に、多少の脚色を加えますが、昔、職場で近藤さんと斎藤さんが午後にお出でになるとの伝言を頂いた事がありました。半分冗談のような話ですが、瞬間、新選組の襲撃か…とギャグを飛ばしたことがありました。もう三十年も前の実話です。
もう一つは、宮本さんという方から佐々木さんに伝言して電話を頂けないか…と頼まれたこともありました。
その時も、佐々木さんに用件をお伝えしたのですが、ついでに「なんか決闘の打ち合わせの話ですか…」と洒落てみたのですが、ダジャレかと大笑いにはなったのですが、私はダジャレではなく、センス・オブ・ヒューモアとかウィットのレベルだと反論も加えた事も忘れなかったのです。
それはそれでどうでも良いのですが、八木さんが帆足さんをお連れになったと言うのも、私自身にとっては非常に感心した話だったのです。それは、我々、神社研究者のハシクレとしては、お二人とも列島に侵入したイスラエル系の方としか思えなかったからです。
八木さんは恐らくイスラエル系(八木アンテナで著名)の一族で、家紋は木瓜紋(or三盛木瓜)が多い。
世界中で広く使用されている八木アンテナ(八木・宇田アンテナ)は、1926年に東北大学工学部の. 八木秀次・宇田新太郎両氏により発明・発表されました。 ウィキペディア20240803 20:45による
一方、同行された帆足さんもイスラエル系金山彦系と考えています。東北の方には馴染みが無いかもしれませんが、青森の南部氏も身延から移動したイスラエル系氏族ですね。
その意味では、東北地方では、帆足を名乗ってはいないと言う要素もあるので、同族が全て同一姓ではないと言う=姓が異なっていても同一氏族であると言う意味もあるのです。
出身地がそれぞれ遠くなればその要素は一層大きくなる可能性はあるのです。
今回は帆足姓の話ですので、八木、矢木…についてはこれまでとします。
さて、帆足姓ですが、諸般の要素からやはり金山彦系のイスラエル系氏族、ちょっと刺激が強過ぎるので、以後、ヘブライ系と言い換えますが、帆足姓と言えば幕末に活躍した日出藩(大分県杵築市ですか…)の帆足万里が頭に浮かんできます。この手の話は司馬遼太郎氏にお任せしますが、
万里(通称里吉)は安永7年(1778)に日出藩家老帆足通文の三男に生まれた。天文、物理から生物、人種、言語に及ぶ広範な科学の体系書である「窮理通」、政治や社会体制を ... 大分県HP
ここで勝手な推定をしますが、帆足とは奇妙な姓ですね、帆足は帆船でも足の速いクリッパーですかね。カティーサークはティ・クリーパーで良いのでしょうか…。しかし、ウイスキーの意味ではないはずです。

帆足の一族は古代製鉄に従事した人々であり、帆足姓が何時まで遡る事が出来るかまでは責任を持てませんが、我々、九州王朝論者にとっての製鉄と言えば、熊本県でも荒尾市から山鹿市に掛けての尚岱山一帯の古代製鉄地帯で活躍した帆足氏が頭に浮かんでくるのです。近畿大和朝廷が奈良で発生したとの通説派にとって悲劇的に整合性が取れないのが、その時代には鉄が全く出土しないし、それ以降も何処に製鉄産業が存在するのか、仮にあったとしてもその規模とは…と問い詰めたくなるのです。我々にとっては、通説派の穴掘り考古学の連中は奈良県の鉄の出土をどう考えているのかなどとは考えず、只の嘘つきだとしか思っていないのです。奥野正男先生の爪の垢でも煎じて飲め!
卑弥呼の時代、奈良県はゼロで圧倒的に福岡県と熊本県こそが鉄の産地であり、その製鉄に関係していたのが金山彦=カグツチの流れを汲む帆足の一族だったのです。
京都学派などと言われ、驕り高ぶってはいますが漫画ですね!
話を戻しますが、この山鹿市久原の薄野神社(天目一箇神を祀る)を中心とする製鉄を支えたのが帆足長秋の一族なのです。

さて、「帆足」という奇妙な姓ですが、以前から考えていた事があります。この一族が製鉄に関係すると言われている事から、思考の暴走を許して頂ければ、帆足とは船の帆ではなく、「火炎」の意味だと思うのです。
列島では「火」をHI、古くはFOと言いますね。
大陸中国ではどうでしょう。ピンインhuǒ1名詞 (〜儿)(物体の燃焼する)火,炎,火災,(ストーブ・こんろなどの)火,(灯下の)火,(たばこの)火.⇒灭火miè//huǒ ,生火 shēng//huǒ ,着火 zháo‖//huǒ ,灯火 dēnghuǒ ,野火 yěhuǒ です。
英米語は、fire。独語はFeuerFeuers。仏語は、feu。スペイン語はfuego(Tierra del Fuego南米大陸最南端のフェゴ島は有名ですね)、朝鮮語(韓)は불bulプル、ロシア語の炎プラーミア プラーミャплая. 印欧語とは系統の異なる言語では、バスク語で火は Suaと全く異なります。太平洋はどうでしょう。
語源 [編集]ウィクショナリー
ポリネシア祖語 *afi< オセアニア祖語 *api< 東部マレー・ポリネシア祖語 *api< 中東部マレー・ポリネシア祖語 *api< マレー・ポリネシア祖語 *hapuy< オーストロネシア祖語 *Sapuy名詞
[編集]ahi1.。派生語[編集]•ahiahi
タイ語、ビルマ語、チベット語トレッキング切りがないですが大体の傾向は分かりますね。
さすがにバスク語には驚きますが、F音、B音、H音、P音に繋がるのです。
それは、息を吹きかけ、火を起こし炎を高めるには息を吹き掛ける時は例外なく口を窄め吹き出すからでしょう。それが帆足の「帆」となり、これは日本語的な「足」が付加され、「炎」を火の足と見なしたからだと思うのです。
帆足家は金山彦直系と言っても良い製鉄技術を持った秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ工程師(コンチョンシ)=工学博士の意味であり、そのシンボルが製鉄に伴う火炎だったのです。
何故、そう思うかと言われれば、菊池氏の紋章は並び鷹羽と思わされていますが、それは阿蘇氏の一派の様に偽装するためであり、日足紋と呼ばれた一族の紋章を捨て、二枚鷹羽に替えているのです。

それは、南北朝期に阿蘇氏と連携し宮方として闘うのですが、大山祗系の朝敵熊襲と言われる事を避け、阿蘇氏=藤原の一派の様に装った言わば偽装工作だったのです。
もうお分かりかと思います。太陽の火炎は足と認識されていたのです。
これで帆足の意味が分かるかと思うのです。
遥かに後の話ですが「古事記」は「日下(日の下と書いて)」クサカと読み、「帯(オビ)」と書いてタラシと読むと奇妙な事を書いています。一時的に別称とした可能性があるのですがまだ良くは分かりません。
仲哀天皇は開化天皇(久留米高良大社の高良玉垂命)后であり天皇となった可能性もある神功皇后も息長帯姫ですがこちらは足を充てず帯を使っています。それは藤原さえもが天皇扱い
百嶋最終神代系譜(部分) とせざるを得ない業績(三韓征伐)からかと。
百嶋神社考古学の精華とも言うべき最終神代系譜を見れば、帆足の「足」が金山彦系の一族に認められると思います。
帆足長秋
遠祖は豊後の帆足氏という[4]。姓は清原[5]真人。字は徳甫[5]。少時の字は式部で、のち豊後守、天明2年に下総守と改めた[6]。また、名は初め政秀、安永10年前後より惟香と改めたが阿蘇氏に同名がいたため長秋とした[6]。号には抱月、徇精、錦渓主人などがあり、屋号は考槃洞または抱月館[6]。
神職を勤める傍ら日本の古典を志して国学の大家・本居宣長の門人となり、熊本藩に宣長の学問を伝えて郷里における国学の礎を築いた[1]。伊勢松坂の宣長宅を生涯に4度訪れて遊学[1]、学んだ書の多くを書き写して郷里に持ち帰り、特に才媛で知られた娘の助力を得て完成させた『古事記伝』(本居宣長著)全44巻の写本は著名にして熊本県の文化財に指定されている[1]。写本を自らの楽しみとし、生涯に手写ししたその総数は一千巻余りと称する[7]。著書には『勧学譚』6巻、『脱譚』3巻、『詩集』1巻、『盈嚢集』1巻などがある[7]。
来歴 天延元年(973年)、豊後に流された少納言清原正高は玖珠郡長野で過ごしたのち赦免されて京都に戻ったが、その長男である正道は玖珠に留まって助道をもうけ、この助道が玖珠(現玖珠町)の古後・帆足の二領地を貰い受けて長野氏を名乗る[5]。これが帆足氏の祖となり、のち子孫繁栄して豊後の名族となった[6]。正道の末裔に是雄、その9代孫に政常がおり、政常の子政行は政行摂津と称して一男一女を授かった[6]。この男子が帆足長秋である[6]。言い伝えによれば、先祖が肥後国に移ってから帆足長秋まで25代を数えるという[6]。生家は祖父政常の代より肥後国山鹿郡三玉村久原(現・熊本県山鹿市久原)に鎮座する天目一神社(あめのまひとつじんじゃ、薄野一ツ目神社とも)および三玉村霊仙(りょうぜん)の二宮神社両社神職をつとめた[4][8]。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/25 02:05 UTC 版 20240804 09:45
昨日も玖珠町の長野を通過しましたが、大山祗系の森家も、清原の一族も、イスラエル系の一族も濃い御伽噺の様な土地です。帆足の一族は、福岡、大分に多く、太宰府近辺、大分市内、玖珠町、九重町に分布しています。

写真は印象深い玖珠のテーブル・マウンテン
志々岐阿蘇神社(「熊本県神社誌」によれば志士岐神社)カーナビ検索 熊本県山鹿市志々岐1730
以前から気にしていたのが、山鹿市の志々岐の志々岐阿蘇神社の山門右手に置かれた帆足家一族の石塔です。
杵築の帆足萬里はつとに著名ですが、「足」が付いているのでと失礼な事を書きました。この志々岐の「岐」も平戸先端の志々伎神社、同様、北部九州の関連同社は全て「伎」を使うのですが、敢えて岐阜の「岐」を使っているのは東関東の東北三社(鹿島=海幸彦 草部吉見、香取=山幸彦 ニギハヤヒ、伊岐須=ナガスネヒコ)伊岐須神社も同様で「岐」(クナト)を使うのです。このことは金山彦系のスサノウの子ナガスネヒコを祀る神社と通底しているのです。
この神社にも参道右手には帆足一族の大きな石塔が置かれており、「熊本県神社誌」発行時点の宮司は帆足氏(帆足貴水)なのです。
この岐阜の「岐」を使うのがこのナガスネヒコの末裔の一族なのです。
同社には、直接、祭神としてナガスネヒコを思わせる物は無いのですが、八坂神社はとりあえずスサノウ+櫛稲田姫を祀る神社のはずで、若しかしたら、金山彦と併せナガスネヒコも祀られている可能性があるかも知れません。以下は、同社正面に流れる菊池川ですが、「岐」クナトがここにも確認できます。

北部九州では、飯塚市伊岐須の高宮八幡宮も元は金山彦〜スサノウ〜ナガスネヒコを祀る神社であったと考えています。それは「岐」はクナト=河川邂逅部(合流部)の意味で、ナガスネヒコはクナトの神と呼ばれるのです。同地には東関東東北三社の鹿島(海幸彦=草部吉見)、香取(山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦)、伊岐須(ナガスネヒコ)の伊岐須地名があり、古くは(1700年前)ナガスネヒコを祀る神社だったと考えています。
当然ながら、山鹿も帆足家の本拠地だった肥後最大の商業都市だった所で、県社となった、大宮神社も本来は景行や阿蘇十二神を祀る神社ではないはずなのです。黄色の円がクナト=伊岐須です。
それは明治期に県社昇格を狙い、ナガスネヒコを隠しただけの事で、本来、山鹿は祇園祭を行う神社で金山彦を祀る神社なのです(今も形式的には行われていますが)。山鹿の人々は外来神を崇めさせられているのです。
岐阜の「岐」は「岐路」や「分岐点」のように使われ、「分かれる、ふたまたになっている」という意味を持ちます。そして「阜」は、「小高い丘、豊かな」などの意味があります。

それが、いつの間にか景行(実は玉名は疋野神社の日置氏=藤原が第6代とした贈)孝安天皇の息子)という半阿蘇系の神が祀られているのです。
私は佐賀県の出身ですが、唐津市にも伊岐須神社(唐津市伊岐佐ダム直下伊岐佐地区)があります。
ただ、ここでは伊岐須は伊岐佐に変っています。三光神社です。

八坂神社がある事もナガスネヒコの父スサノウを祀る人々が住んでいた事が良く分かります。
山鹿の某神社(表向き公表していませんが)来民に在る八幡宮ですが、櫛稲田姫の父、母神を祀っています。そして、その上にはアイラツヒメが生まれたと考える吾平があります。相良観音です。
アイラツヒメこそ本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)の本物のお后の金山彦の娘で櫛稲田姫の姉に当たります。そしてこの谷の中ほどの茂賀の浦が最初に陸化した場所に明治の旧稲田村があり、稲田小学校があったのです。現在は特別支援学校になりましたが、旧稲田小学校の名は大きな石塔に深く彫り込んであります。
つまり、コメが採れた稲田村に居たから櫛稲田姫と名付けられたのです。そもそもスサノウが箸が流れて来たので人が住んでいるとして遡ると、アシナヅチ(金山彦)、テナヅチ(埴安姫)がクシナダヒメを囲み泣いていたと言う現場は菊池川つまり肥の川であり、出雲神話の舞台は肥後だったのです。
福岡県では当研究会の本拠地の太宰府市が最多で、その次が前述した飯塚市です。帆足家の分布と対応します。研究会の研修所が在る、大分県では大分市、玖珠町、九重町が一番多く、熊本県については調べていませんが、山鹿、人吉が多いはずです。
球磨川流域では、相良家が本拠地を置いた相良村があり(山鹿市の吾平の内田相良もそうですが)、球磨川流域はイスラエル系の人々が大量に住んでいます。
熊本県でも球磨川流域と山鹿市は美人の産地として知られていますが、それはイスラエル系の人々が大量に住み着いていたからです。
当然にも、神武天皇のお后アイラツヒメ(宮崎の日南市油津吾平津姫神社)は元より、スサノウの妃となった櫛稲田姫が山鹿市出身なのですから当然です。
勿論、通説とは異なりますが、出雲神話は古事記にしかなく、出雲は古代航路を支配した博多の櫛田神社の主神大幡主=カミムスビ神の植民寄港地だった場所で、言わば後の近畿大和朝廷が創り出したテーマ・パークでしかないのです。勿論、大国主は出雲系の人物ではなく大山祗の息子で(大きな袋は引っ越し荷物です)、大山祗が大幡主に送り込んだ入婿なのです。お后は宗像三女神の市杵島姫と豊玉姫で宗像大社とは、本来、大国主を奉る神社なのです。恐らく今も密かに祀っているはずです。それは後の藤原氏=草部吉見の意向で隠されているのです。
志々岐阿蘇神社は本居宣長の門下生で久原一目神社社家帆足長秋の一族が創った神社(だからこそ帆足家の石塔があるのです)で、金山彦系の神社らしく八坂神社があり、隠された大国主の巨大な神額が残され大国主も祀られています。志々岐阿蘇神社は大宮神社以上に重要かもしれません。それは、帆足家が金山彦直系の鍛冶集団の神” 天目一箇神 ”を祀る薄野一ツ目神社こそが尚岱山周辺で製鉄を行った集団で、それを盗んだのが(勿論ナガスネヒコの叛乱以降の事ですが)景行の親父の疋野神社で阿蘇氏の代理人=手先として日本最大の古代製鉄を奪ったのです。
全国の日置、比企、引野、比企野、羽曳野…こそ金山彦系が敵とすべき人々なのです。これについても鳥子神社との関係で製鉄神が山鹿から大分の姫島、国東に移動したという長文を書いています。

古事記で足は帯と置き換えられたのは帆足の金山彦隠しなのです。

前々から金山彦系帆足一族には関心が有りついつい余計な事を書きました。失礼しました。

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