1067 熊襲 猛誅殺で知られるヤマトタケル=後の日本武尊を祀る白鳥神社の疑わしさ
20240812
太宰府地名研究会 古川 清久
この話に入る前にひぼろぎ逍遥(跡宮版)の10年前のブログをお読み頂きたいと思います。20160601
ひぼろぎ逍遥(跡宮)267王太子宮をご存知ですか?@“広島県尾道市、福山市の知られざる古社群”
です
話は2016年5月22日まで遡ります。
この日、豊の国古代史研究会主催の神社トレッキングで筑豊の7社を巡ったのですが、その第3ポイントの田川市猪国の白鳥神社が気になり、前々日に再度「福岡県神社誌」を確認しました。

すると、この白鳥神社(祭神:大足彦忍代別天皇、日本武尊、稲目姫命)がそのような社名になったのは、高々明治4年の話であり、それ以前は鎮守大明神と呼ばれ、祭神自体もそのままには受け入れられないと言う驚愕の事実に直面したのでした。 正確に言えば、元禄五壬申年三月までは「王太子宮」という馴染みのない社号の神社だったものを「本社の社號を王太子宮と稱せしを…」「小笠原忠雄豊前小倉の城主に補せられて國内巡視の節御社参、社號を鎭守大明神と改稱せしめられ、正徳二壬寅…」「明治四年に至りて更に社號を白鳥神社と改稱せり、」(上巻173p)とあったのでした。 勿論、神社の祭神入れ替えは良くある話であり、神社研究者にとってはこの程度の事に驚いていたら何もできないどころか、それを前提に神社を調べているのがまずは常識なのです。 |
慌ててネット検索を繰り返すと、広島県の尾道市から福山市に掛けての海岸部にこの社名を持つ神社が数社ある事に気付き、とりあえずは落ち着きを取り戻したのでした。
以下も文章は続きますが、重要なのは青枠内であって、以下も掲載はしますが、本来の祭神を祀る王太子宮に関する話になりますので、ここで一旦は話を切る事にしました。
つまり、元々は神武巡行伝承(筑豊から広島、岡山に顕著)に関わる神社であって本物の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)を祀る巡行時の行宮の一つだったのです。
故)百嶋由一郎が言っていたのは、新羅征伐など大きな業績を残した神功皇后+高良玉垂命の指揮下で行われた四道将軍など東国への版図の拡大も実際には開化天皇の令下で年嵩の崇神の息子や開化天皇の腹違いの兄大彦(恐らく日本海側を北上した安部一族)が行ったのが神武東征だったのです。
その功績を後の藤原は神武巡行より大きなものだとして、初代神武の功績も藤原の祖である崇神(神武僭称贈るハツクニシラススメラミコト崇神)のものとして、初代神武も実は崇神のつまり藤原の祖による業績として描こうとしたのでした。つまり、美々津から出たなどとされた神武東征も高良玉垂命の指揮下で行われた崇神によるもので、本物の神武天皇の巡行伝承を消し去り、明治の神社の国家神道化の流れの中で県社、郷社、村社に肖るためには、行宮程度では俸給が貰えない事から、祭神を初代神武天皇から勇ましい日本武尊に入れ替える事を以て、肖ろうとした事が一目だったのでした。
そして、田川郡内には白鳥神社がかなり在るのです。確かこの他にもあったと思います。

今回取り上げた、田川市猪国の白鳥神社の場合は幸いにも「福岡県神社誌」によって判別が利いたことから分かりましたが、残りの数社も筑豊なら疑わざるを得ないのでした。つまり、反対した町議を日本刀で殺してまで、セメントの材料を得るために神の山とされた香春岳を削るというとんでもない事をやらかす土地柄だけに、正に白鳥神社はそのままでは全く信用できないと思った訳です。
と、いう事は、谷川健一が好きな白鳥伝説ですが、真面目な神社研究者には慎重になって頂きたいと思うばかりです。
今回、日本武尊による熊襲 猛こと川上 猛誅伐の話を取り上げ、川上 猛の出生地、生誕地、故郷…を探る、50人規模のトレッキング8.18、8.25を控えているだけに、改めて取り上げたものです。
自らの肖りの為に祭神を入れ替るなどという浅ましい事は、氏子や歴史に対する反逆に等しい事であって、本来の氏子による自らの鎮守様への信頼を失わせ、ひいては神社からの離脱を一層進める事になる事とでしょう。まあ、戦後80年の神社への尊崇の念が消失しつつあると言うより、最終段階に入り始めた様ですので(また、大神社が神社庁から離脱し単立神社になりますね…)。
全国の神社を束ねる宗教法人・神社本庁(東京)から離脱手続きを進めていた鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)の吉田茂穂宮司(82)が20日、記者会見し、「内部から本庁の正常化を目指すことを断念せざるを得ない」などと述べ、本庁執行部に対する不満が離脱の理由だと明らかにした。2024/06/20
読売新聞オンラインによる
以下は、偽神武こと崇神天皇が行った事と塗り替え、本物の神武天皇による巡行伝承を消し去ろうとすることに対して書いたリポートになりますので、関心をお持ちの方はお読みください。
もし宜しければ今も神武巡行伝承を色濃く残す 山梨県甲府市の天津司神社 天津市舞を探って下さい。
ひぼろぎ逍遥 天津司舞 とダブル検索を…。
おりしも、数日後(25〜26日)には広島県福山市で行われる予定の第74期将棋名人戦羽生VS佐藤天大盤解説会に参加するつもりでしたので、これに合わせてこの王太子宮の調査をすることにしたのです。
23日夜には九州から関門トンネルで本州に渡り、一路国道2号線を東に向かい、24日の朝からは山口県岩国市、広島県廿日市市周辺の神社を数社見て回り、25日は朝から事前に当たりを付けていた王太子神社、王太子宮の候補地を探り始めていたのでした。
ネット上で「王太子」「尾道市」でダブル検索すると、ある程度の情報が拾えます。
以下は一例ですが、今回は非常に助かりました。
広島県尾道市〜福山市
@ 地図帖をひらいた人が10人いれば、10人とも「この場所は福山市」と思い、よく見れば「尾道市」となっているところ。 ... 山道から見る富士山のような山、この山には「王太子神社」があり地図にも道が記載されているので
A 潮崎神社 祭神神武天皇で、神武天皇御東征時ここに御船を着かせられ艫綱を大柳木に繋がれしかば後に柳津と名づく。帝はここより御上陸し給ひ宏壮なる宮居を御影山上に構へ舟楫を修め兵食を整え給ふこと三年に及ぶ
B 王太子社 平田に在り神武天皇を祀る・潮崎神社を神事を同じくする
C 王太子神社 高島中央部の山を高山といい、その中腹にある神社。神武天皇・忍穂耳命を祭る。天皇の駐蹕を伝える。
D 皇森神社 王太子宮ともいい吉備高島宮址と伝える。……
「神武天皇東遷経路 吉備国」「高島宮〜広島県下の神武天皇関連伝承」(古代史の復元)「神武天皇を祭る神社は廣島と岡山に多い」他より
まず、百嶋神社考古学では、宮崎の美々津辺りからだろうとあくまで推定された「神武東征」は、藤原により第10代と勝手に格上げされた贈)崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)によるもので、本物の初代神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)のものではないとします。
一方、神武巡行伝承は、九州西岸、北九州、そしてこの広島県下の海岸部、岡山県岡山市東区西大寺の安仁神社などに、おぼろげながらも残されています。
これらは、ネット上にも多少は情報があり、先行ブログ「神武北九州伝承」(古代史の復元)などで一部を確認できます。
調査は始めたばかりです。学会、通説、神社庁…などは無視し嘲笑することでしょうが、そのような利権に関与される方々の御高説には一切関心はありません。
有明海、不知火海、天草に、何故、御所浦島があるのか?樋之島があるのか?何故、筑豊の川崎町に神武天皇が一家を呼び寄せた…という話があるのか?研究、調査の必要性は十分過ぎるほどあるのです。
いずれにせよ、今回はこの話になります。
調査はこれからも続きますが、結論から言えば、今回、高良玉垂命の臣下でしかなかった成り上がりの偽神武(崇神)ではなく、この本物の初代神武天皇に関係する神武巡行に関わる三つの神社を確認する事が出来たのでした。
高山の王太子神社
「古代史の復元」氏が書かれていた高山の王太子神社が最初の探訪地でした。同氏はこのように書かれていました。
高島中央部の山を高山といい、その中腹にある神社。神武天皇・忍穂耳命を祭る。天皇の駐蹕を伝える。
高山は直ぐに分かりましたが、だからといってどのような社がありどこが参道かは皆目見当が付きません。 しかし、当て途のない調査でも道は自ずと開けるものです。
まず、どこなのか見当が付かない方が多いのではないかと思います。普通は尾道市の東隣の福山市としか思えない場所に飛び地として存在しているのがこの高山の一帯なのです。
古代には、その大半は明らかに島だったことが想像できる所です。
その高山の南には百島がありますが、故)「百嶋由一郎氏は瀬戸内海から名前を買ってきた…」と言われていました。
先生は、戦後の農地解放まで、「長者番付百傑に親族3者が入っていた…」と言われていた名家ですから、明治維新前後の政治的激変に備え、一族の出自を含め防衛的に名前を変えておられた模様なのです。
従って瀬戸内海には百島はここしかないため、百嶋神社考古学のルーツはここに端を発していたとも言えそうなのです。
それはともかく、高山の下には高尾という集落があります。どうやらここに王太子神社もありそうなのですが、さらに進むと満越集落の綺麗な砂浜が広がり厳島神社が鎮座していました。
ここで、ついでとばかりに神社を見せて頂いていると、年金生活に入られたばかりの地元の親切な方に声を掛けられました。
「王太子神社を見に来たんですが…」と申し上げると、「ああ、王太子さんですね…」とたちどころに重要な情報が転げ落ちてきたとの事でした。

お名前は差し障りがあるため控えますが、仮にUさんと申し上げておきます。
付近の中堅造船所を退職された方で、この一帯の事についても、また、神社についても良くご存じの方で、どうやら、最適の方に最高のタイミングで遭遇したのでした。

尾道市満越の厳島神社とガイドを引き受けて頂いたU氏
さっそく付近の神社と併せご案内頂くことになりました。

王太子神社への参道と神額(三つの下がりは九州を感じさせます)
「あらまほしきは先達なり」の謂いのとおり、息切れしながらも同社の参拝殿、神殿に到達できました。

社殿周辺には特別にこの神社を特定させるようなアイコン、神紋、縁起、摂社はなく、手がかりを得られずに戻ることになりました。
このような場合は、数多くの同類の神社を見て、そのファクターの多さで類推する以外方法はありません。いつかこの神社を見たことが役に立つ時が訪れる事を確信し下山する事にしました。
社殿は昭和三年に整備されたようです。それ以前のこの神社の在り様を詳しくご存じの方は最早おられない事でしょう。最低でも昭和三年に十歳以上でなければ分からないからです。
昭和三年は昭和天皇の御大典の年です。それ以上の事は分かりません。
即位の礼(そくいのれい)は、天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされる。諸外国における戴冠式にあたる。即位式(そくいしき)の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。
ウィキペディア(2016060218:00)による
「王太子」という言葉自体が地位を継ぐ男子を意味していますが、この王太子神社、王太子宮なる神社は尾道、福山から岡山に掛けて、また四国にもあるようで、神武東征とは異なる神武巡行伝承と重なるさらに古い時代の伝承を引いている事だけは確実なようです。
これらを分かる範囲で全体を把握できればいくらかでも本質に迫ることが可能に成るかも知れません。
10年近く前に神武巡行伝承を探る、筑豊、広島、岡山への神社調査を行っていました。この時、ブログは4本でしたが、岡山でも同じぐらい書いたと思います。また、筑豊でも川崎町でも神武東征伝説を追っていますが、そのうちご紹介しても良いでしょう。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
270 | 王太子宮をご存知ですか? C “広島県尾道市浦崎の住吉神社” |
269 | 王太子宮をご存知ですか? B “広島県福山市藁江の王太子神社” |
268 | 王太子宮をご存知ですか? A “広島県福山市内海町の皇森神社” |
267 | 王太子宮をご存知ですか? @ “広島県尾道市福山市の知られざる古社群” |
以下は、268 王太子宮をご存知ですか? A “広島県福山市内海町の皇森神社” |

百嶋由一郎最終神代系譜を含め90シート近い神代系譜のスキャニング・データDVD、手書きデータ
スキャニング・データDVD、40時間近い講演録音声CDを必要とされる方は090-6298-3254(古川)へ