2025年04月24日

1069 南阿蘇村の久木野神社とは何か? ❷ 断裂、重複もありますが文の構成上お許しください。

1069 南阿蘇村の久木野神社とは何か? ❷ 断裂、重複もありますが文の構成上お許しください。

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太宰府地名研究会 古川 清久

1068 南阿蘇村の久木野神社とは何か? ➊ からの続き

高々、塩の流通を止める程度しかできないはずで、結果的には平和裏に行われたと考えられそうです。

 それも、阿蘇神社は南阿蘇では数が限られており、平川右岸にも拡がりを持っていた八咫烏の社を阿蘇による南阿蘇の支配=制圧の中的心司令部である西野宮を拠点としたものと考えられそうです。

 従って、白川左岸の久木野とは右岸も含め元々は交易のために八咫烏に象徴される岡に上がった海神族(ワダツミ)のエリアだったことになる訳で、その痕跡が久木野神社だったとまでは言えそうです。

この八咫烏は博多の櫛田神社の主神大幡主=カミムスビの神の息子であり、本拠地を対馬の海神神社と和多都美神社を本拠地に大陸、半島、更にはインドシナ…とも交易を行っていた海人族であり、宗像の市杵島姫の母神=アカルヒメ(つまりスサノウから逃れ姫島、国東に移動してきたカミムスビの子で)の弟であり、更に言えば高千穂の北の祖母山に祀られている、豊玉姫(実は「古事記」に少しだけ登場するイヅノメ…これを主神とするのが大本教、世界救世教、崇教真光、真光文明教団…)と鴨玉依姫(下賀茂神社の主神)の父神なのです。現在も遠賀川河口には豊玉姫=イズノメを祀る神社が4社あります。

 従って、蹴破り以降の現在もなお白川(中国表記では白水その象徴が白水吉見神社)は数鹿流ヶ滝(スガルガタキ)で遮断されている訳で、海神族は白川を利用し交易のために久木野まで入っていたと考えられます。

勿論、最大の交易品は天草から運ばれた塩だったはずです。

それが、実は不知火の元で昼夜続けられる塩焚きの火炎だったのです。

 さて、久留米の高良大社に奇跡的に残された「高良玉垂宮神秘書」には、海幸、山幸の名は使わないものの、後の記紀神話でも最も良く知られる一般的に海幸山幸神話の起源と思われるものが冒頭から登場します。これがそもそも記紀に取り込まれた様で、以下、概略だけお話します。

 海幸彦は草部吉見さんですが、釣針を亡った山幸彦は実は猿田彦=ニギハヤヒ=五十猛なのです。

 海幸は当然にも高森の草部に居たのですが、高千穂の三田井に拠点を持っていた高木大神の次女栲幡千千姫命をお妃にし(勿論、長女は豊秋ツ姫)、後には彦山の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊となります。

更に言えば、春日大社の表向きの祭神とも鹿島大神とも言われる様にもなり、事実上の藤原氏の祖となるのです。

 一方、山幸彦は天草、島原、山鹿…を拠点にしていましたが(「熊本県神社誌」で猿田彦を主神とする神社の分布から地図付きの資料)がネット上に公開されています。この分布図を見ると棲み分けが良く分かります。白川下流域、山鹿市周辺から天草上島、下島が主な活動領域だったようです。

 釣針(「チ」)を失い途方に暮れている山幸は塩土老翁出会います。「日本書紀」では塩土老翁(南九州では塩筒翁と呼ばれていますが)=塩筒が正しい様です。まあ、神話ですが、実は二人は共に製塩を行っていたのです。それは、製塩土器と呼ばれますが、囲炉裏で潮水を容れた素焼のコップを炙れば塩が析出します。それをこそいで魚に塗って焼き魚や里芋などを食べていたのです。

今も、阿蘇は同じことをやっていますね。それは醤油がほぼ戦前までは山まで運べなかったからです。

 だから、おでんの原型の味噌田楽を囲炉裏で炙りながら食べていたのでした。

 まあ、それはここまでの話として、久木野村が長陽まで及ぶ阿蘇と海を繋ぐ交易地であった事も見えてきました。以下、旧久木野村の久木野神社を考える事にしましょう。

 以前書いていた八坂神社+龍王社I 八坂神社+龍王社 祭神編 で代用させていただきます。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

670

“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

I 八坂神社+龍王社 祭神編

669

“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

I 八坂神社+龍王社 数理編


670 “ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている!  八坂神社+龍王社 祭神編

20210712

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当然ながら、田尻宮司の著書(縮刷版も含め)では祭神についても書かれています。

そこで私達の特殊な神社解析を書くことが憚られることは言うまでもありません。

 ただ、だからと言って田尻見解をそのままお知らせするのは本ブログの任務ではありませんので、当方は恥を意識しながらも百嶋神社考古学の立場から書かせて頂きます。

このため、恐れ多い気持ちを抱きですから、多少は抑制し、多少のコメントを提出させて頂くことに致します。祭神ですが、この二社の祭神は以下の通りです。

 八坂神社:スサノウ+櫛稲田姫+大国主命 

 龍王社 :豊玉姫(説明は不要かと思いますが、龍王は大幡主の子豊玉彦=ヤタガラスでありその娘が山幸彦のお妃となる豊玉姫です)

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以前から多少は気づいていた事ですが、阿蘇五嶽の南北では祭神が全く異なり、特に南阿蘇でも南阿蘇村の祭神は際立っており、阿蘇系神社が極端に少なく、大山祗系(大山祗+埴安姫=大幡主の妹の間に産まれたミズハノメも含む)と大幡主系と金山彦系(櫛稲田姫を通じてスサノウが反映されている)が圧倒している。

 極端に言えば、南阿蘇=南郷谷とは阿蘇ではない!と言うべきで、恐らく、民族的にもかなり異なっているはずです。まず、八坂神社から考えましょう。 八坂神社:スサノウ+櫛稲田姫+大国主命 

 八坂とは弥栄(イヤサカ)であり、「ヤハエ」祇園社もシオンの丘のシオンでありイスラエルのシオンを意味しているなどと言われている事は皆様も良くご存じだと思います。

 加えて、スサノウは新羅の王子様であり、ヤマタノオロチ神話でご存じの通り、秦の始皇帝と姻戚関係を結んだイスラエル系金山彦と博多の櫛田神社の大幡主の妹埴安姫をお妃にして生まれた櫛稲田姫とは、イスラエル系金山彦と白族系(南阿蘇村には白川源流が流れ熊本に降っていますね)により生まれた新たな氏族が展開している事になります。

 このことについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)281300までの20本で不十分ながらも書いておりますのでお読み頂ければ、ヤマタノオロチ退治の現場が熊本県山鹿市の大宮神社を中心に起こった事であるとお分かり頂けると思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

281

大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?

 

              〜

300

大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”


龍王社 :豊玉姫 “ピラミッドの法則”に関心をお持ちの方は数理編を検索して下さい。


669

“ピラミッドの法則”で肥後の11の神社が配置されている! 

I 八坂神社+龍王社 数理編


 無題.png一方、久木野神社(龍王社)は豊玉姫(旧祭神=豊玉彦)であることから白族系、つまり博多の櫛田神社の大幡主(造化三神のカミムスビ)系の神社であると分かります。

 そこまで見てくると、白水村は阿蘇系と思われる1社栗焼神社に加え、観光地としても有名な巨大遊水池に鎮座する白川吉見神社はあるものの、この神社も本来は大山祗の娘神大市姫=ミヅハノメこそが主神であって、それを阿蘇系が覆い被さろうとしている神社であることは一目なのです。

こう考えると、旧白水村には阿蘇系は皆無に近い事が分かるのです。

 これは、草部吉見が短期間伊勢の外宮の豊受大神をお妃とした事から、白水吉見神社(ミヅハノメは伊勢の外宮の母神)にヒコヤイミミが入り込んでいるに過ぎないのです。

勿論、その後は山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒがその任を継ぐのです。

 旧久木野村に於いてもこの傾向は変わらず、二子石日吉神社が大山咋系(父神:草部吉見、母神市杵島姫)である以外、目立った阿蘇系神社は無く、ここも金山彦+スサノウ+大山祗系の山上楽園だった事が分かるのです。

 ここまで考えてくると、南郷谷は白族(ペイツー)系が卓越した、阿蘇谷は阿蘇氏が卓越したエリアである事が見えてくるのです。

 恐らく、雲南省の昆明と(大理グループは怒江から)紅河で海南島へ更に列島へ入った白族=天御中主+大幡主系に対し、雲南省麗江から(怒江)海南島を経由し天草苓北そして列島へ入った黎(リー)族=多氏=阿蘇氏=後の藤原氏は取決めを行ない棲み分けを行なった様にさえ思えるのです。

 一つ問題があるのは阿蘇谷の金山彦系で、火振り神事で知られる霜宮周辺も金山彦系の民が住み着いていた土地の様に見えます。

 ここも豊かな遊水地で農耕に適した沃土ですが、高千穂と同様の鬼八(喜八)伝承が在り、これもイスラエル系金山彦系の民の土地だった様に思えるのです。

多くの民が混住した事は十分に考えられるのですが、恐らく、阿蘇系が入る前に金山彦系(秦の始皇帝と姻戚関係を結ぶ)は入っていた様に思えるのです。

 恐らくそのイスラエル系の民の中に、出エジプト以来の民がおり、ピラミッドを造る技術を持った人々もが存在していたのだと思うのです。

そして、その彼らこそが天球を観側し、爆発を続ける阿蘇高岳を封じ込めるべく、11の神社群を整備し文字通りの天井楽園を造ろうとしたのではないかと思うのです。

つまり、田尻宮司の御先祖様達の中にピラミッドを造った技術者のグループが在り、その大号令のもと阿蘇系の民をも巻き込み、高岳中央河口丘を封じ込め、メソポタミア神聖直角三角形とエジプト神聖直角三角形の中にいわば結界を張り阿蘇五嶽を封じ込め、文字通りの天井楽園を造ろうとした様に見えるのです。不十分ながらここに田尻想定の概略をブログにしました。 以下省略 

ただ、田尻氏は原田(原田正純も)、秋月、笠…など後漢の霊帝の別れ阿智王の一族と考えています。

久木野神社に参拝されたらお分かりになりますが、神殿に向かう参拝殿の上部にはその象徴である龍神様の神額が置かれ、南阿蘇の入口である久木野に八咫烏が祀られているのです(神社誌は娘の豊玉姫)。

一方、後にカミムスビの一族に引き離され、その後朱塗り矢の話で知られる大山咋(阿蘇北宮国造神社の主神)と猛恋愛によって結ばれる事になるのです。

 言うまでも無く祭神の豊玉姫(山幸彦と出会ってウガヤフキアエズ=アジスキタカヒコネを産んだ龍王の娘)は子育てを放棄し、代わりに送り込まれた乳母の鴨玉依姫がそのウガヤの子を孕み安曇磯羅を産むのですが、さすがにこれはまずい事から後にカミムスビの一族に引き離され、その後朱塗り矢の話で知られる大山咋(阿蘇北宮国造神社主神=阿蘇風に言えば速甕玉)と猛恋愛により結ばれる事になるのです。

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猿田彦(山幸彦)ニギハヤヒが塩土老翁(カミムスビ=博多の櫛田神社の大幡主)の指揮下で製塩を行っていた事を理解するには、ひぼろぎ逍遥の初期のブログなどをお読みください。

 猿田彦は後の藤原=阿蘇氏=多氏から貶められ獣辺が加えられ、袁世凱の袁田彦(塩田彦)とも呼ばれたのですが(三国志の袁術、袁尚円賞も知られていますが、サルタはソルト、ザルツですね)扱いされたのです。それも草部吉見(海幸彦)と山幸彦の確執の結果だと思われます。


 新ひぼろぎ逍遥の前身、旧ひぼろぎ逍遥アメブロ版

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! 

D 水俣市塩浜運動公園の塩釜神社

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! 

C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡

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塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! 

B 天草市志柿の中之塩屋大明神


今回、西野宮背後地に久木野神社が在る事によって漸く久木野が海と山を繋ぐ阿蘇谷、南郷谷の交易地であった事が分かったのでした。

 ここから高森町さらには外輪山を越えて高千穂への交易路が存在したのではないかと考えています。

なお、熊本県に於ける猿田彦命祭祀神社分布マップが研究者によって公開されています。ボールド太字で検索して下さい。

 また、ご紹介したブログを読まれれば分かりますが、江戸期の製塩についてたばこ専売公社の資料に昭和8年辺りまでの藩別製塩石高が公開されています。一位が肥前(天草)で、以下、遠江(浜名湖)、赤穂で、421の比率で、全国生産の3割を超えるのです。

 詳しく知りたい方は上記三本外のブログをお読みください。

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白地の部分は干拓地=古代は海だったと思って下さい(宇土半島も島だったのです)。

猿田彦神社に象徴される山幸彦の分布を見ると、芦北〜天草 上島、下島 菊池川流域つまり山鹿市、白川流域でも西外輪山外延部に集中しています。当然にも白円は製塩地です。


塩の制度の歴史 | 塩あれこれ | 塩百科 | 公益財団法人塩事業 ...

出典:農商務統計表 第17次(農商務省編:慶応書房刊)塩業整備報告第2巻 (日本専売公社 1966年刊)

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ここでも、御神体は二体でした。もはや、猿田彦大神一神とされている「熊本県神社誌」に疑いを向けるのは致し方ないように思います。ただ、祭神が猿田彦一神とされた理由は分かりません。

これについても詳細はネット上からお読みください。

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posted by 新ひぼろぎ逍遥 at 00:00| Comment(0) | 日記
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