ひぼろぎ逍遥 スポット321 『雑録七幸神社史』(1) 小島宗光 掲載稿の掲載 ❶
20260125
太宰府地名研究会 古川 清久
昨年3月に解散した「松浦党研究連合会」を母体に伊万里を中心に結成された 古代のルーツを知る会の中枢メンバーである小島宗光住職の文書を月一本ペースで掲載して行くことに致しました。
「松浦党研究連合会」と言っても余りご存じない方が多いと思いますので簡単に説明申し上げます。
「松浦党研究連合会」は全国にある郷土史会、史談会…と言ったものになるのですが、この手の会は、普通は集まりやすい纏まった地域に根差しており、市郡域を越え益してや県境を越える研究会には成らないのでした。
その中で、佐賀県伊万里市を軸に唐津市、更には、県境を西に越え、長崎県の松浦市、平戸市、佐世保市にまで広がる通常の行政単位を越えた広域の民間研究団体が存在していたのでした。結成は、昭和52年ですからもう少しで半世紀にまでなる大きな郷土史会が存在していたのでした。
その会も後継者を失い、昨年の3月で解散を決め、中心となっていた伊万里市のメンバーによる独立した再建が開始されたのでした。
その際、私にも参加しろと言う要望があったのですが、中近世など門外漢のためかなりの躊躇いはあったものの参加にすることになったものです。
それは、私自身が三ツ星を家紋に持つ橘一族である上に、幕末まで有明海側で小規模な廻船業を行っていた家系であった事から松浦党の一派だったであろうとの認識を持っていたからでした。
もう一つは、当会の北部九州全域をカバーできる調査体制を創るためにも、佐賀県から長崎県をカバーする必要もあるからでした。 既に、福岡県久留米市、筑紫野市、北九州市、熊本県西原村、大分県も不定期で会合を持っている事から、私達が考えている九州王朝探求への条件が整うからでした。勿論、松浦党は壱岐、対馬、五島から余り知られてはいませんが、有明海、不知火海…にも広がりも見えるのです。その意味では、不得意な中近世にも踏み込む良い機会を与えて頂いたと思っています。

『雑録七幸神社史』⑴
はじめに
伊万里市内に古代天文台址があったと知る人は少ないのです。
かく言う私も「ホシミ」という地名には長く興味をもってきました。韓国慶州視察の折に新羅時代の善徳女王(在位六三二〜六四七)が築いた瞻星台(チョムソンデ)が星を観察する宗教施設であったと知りました。日本書紀によれば天武天皇(〜六八六)が占星台を設置する条をのべるにより、古代天文観測の不可欠を追って垣間見たのです。
日本では神社と天文台の関わりが密接であったことから@、国内調査を試みました。「ホシミ」と「テンモン」はその代表的な地名であり、詳細を一覧するには至っていませんが見てとれる場所はあります。神社と天文台の関わりは(後の章で)述べますが「西海道第一番札所七幸神社」の事例をもって佐賀県伊万里市山代町楠久の跡形は認知できます。

烏ン枕誌面に投稿するきっかけとなったのは平成29年11月26日に行われた『楠久・津歴史ふれあい館オープン記念シンポジューム(フォーラム)』」にさかのぼります。このときシロウオ部会・グランドゴルフ部会・ホシミ部会の三部門を置き、町の活性化と会館活動の具現化を諮ることが住民会議で採択されたその日の議決でした。その後の議論は音沙汰なしのままシロウオ部会とパークゴルフ部会は楠久津行政区が所管することになりホシミ部会は取り残されたまま放擲されたことを耳にしました。
フォーラムの場では私は説明を求められなが(ママ)既に宙に消え失せて、何処かで抹殺させた犯人がいるのです。私の無力感と悲憤はやがて消えるとしても、貴重な遺産を無下に放棄された慚愧は堪えられず、有形無形の遺跡、史跡や文化財が滅亡してきた過程と同種であり、ここに導き出された結論はいかがなものかと承服できません。せめて採用できなかったという経緯と説明はあって然るべきです。
古代天文台址の検証をありていのまま議論して、すがたを消した史跡の存在を一層あきらかにし、せめて、区民の賛同と反証を厳格に捉えて叱正と修正を得たいのです。碩学の諸賢もまちづくりの同胞も忌憚のない意見をお寄せくださり誌上で明らかに致しましょう。
既決された意見だったのであれば筋や必要性が提出者の私には届いていません。不要性であることが答えであるならば根拠を持たない棒にも箸にもかからない愚にもつかない、意見とも中傷ともつかない行為ではなく明瞭な御意見を求めます。喧嘩を売るなら理屈はいりませんが区民や地域にとって根拠が不明瞭であっては公開議論さえ成立しません。
論文堤上の齟齬を避けるため、私なりに意見の所在を整理して異合があれば正します。
歴史的な立証を必要とするのであれば、史実を証明する傍証すなわち代理証明に委ねます。物理的な証拠が現存しないかぎり、偽証罪に問われないためにも真実を掘り下げて述べる必要があります。
七幸神社の「存在」

地域のほとんどが記憶から失われた七幸神社を、なぜ私は再興する意志をかためるに至ったかを概述しなければなりません。その「存在」は地域の皆さんに全く無かったのではなく常套したものが世代と時代の変遷をともなって必要の優先度を失ったものと判断し経緯を要約して論点をまとめます。
昭和二十九年に私が現住地に住むようになってから六十四年間、七幸神社の名は度々耳にしましたがすでに過去の沙汰です。名残を示す外観は皆無でごく一部の社地が残り、地主の川久保友助、深江智彦、山口晴興の三名が所有者として名を連ねながらも故人となられました。現在は楠久区が管理して壱之寺が借用しています。
旧境内地は人手にわたり、地籍は畑や山林となって蝮の巣となっています。明治の初頭まで九州一円では有名を馳せた七幸神社を知る人は不在、由緒だけが健在です。
在来のホシミの神様は皇大神宮さんの祭りとして中古賀地区の皆さんがうけつがれていますが、七幸神社の名を語られることはありません。このように民間伝承の分野では死滅状態と言えるでしょう。
戸籍ともいうべき由緒の事跡はどうような仕組みによって斯様な経過を招いたのでしょうか。
維新政府による神仏分離令が発布されて廃社に至ったのは明治四年一月四日のことです。神仏混交の修法をまじえて地域住民はもとより国内および国外ともユニバーサルな性格を発揮してきた七幸神社にはとどめの一撃でした。天文台を司る七幸神社は暦の発行と時報を伝える役権が県令に移行します。長崎出島との出入りになくてはならない相棒であった鍋島水軍とともにお払い箱となったのです。楠久六箇村(楠久村・福川内村・城村・峰村・大久保村・日尾村)と村社の存在が解体され、愈々上知令を持って傷を深め広げます。A
上知令(じょうちれい、あげちれい)は、一八四〇年代から一八七〇年代にかけて、江戸幕府や明治政府が出した土地没収の命令です。
由緒寺社の領地は治外法権下にありました。現代の法人法による公益保全の原則がそうであるように宗教法人の免税措置は既成の事実でした。
ところが、領主の権力が消滅した時勢だから法的根拠も失われたのだと穿った苛斂誅求な解釈をもって、ときの明治政府は窮乏する財政の穴埋めを急ぐために没収することを強行したのでした。この破廉恥な政治行為は長いこと不問に伏され戦後長時間をかけて明かされます。教科書にも載せない、社会通念からも排除するという作為は百数十年を掛けて抹消されたのです。
その一方では疑うような偏重主権がまかり通りました。
明治四年 (一八七一年)もしくは明治六年とされますが、伊勢神宮の大麻を全国700万戸に有料で強制配布を実施するBなど一連の神道優遇制度は富国強兵政策に利用される結果となります。
国教化政策による神社神道を皇室神道の下に再編成して軍国主義・国家主義とを連結しました。天皇を現人神(アラヒトガミ)とし、天皇制支配の思想的支柱としました。第二次大戦後、神道指令によって解体されましたが国民の宣撫特権が委ねられたこのときから度々の事変(戦争)は開始されたとみるべきです。C
明治維新の激流に乗って門出した神社神道とすべての権利を剥奪された七幸神社の行く末は歴然の帰結が待っていました。楠久・津まちづくり活動の三つの意見をなさしめている根幹には今も脈々と流れる思想にあぶりだされた七幸神社の「存在」だと解釈するのは身勝手でしょうか。
国体神道偏重主義と廃仏毀釈運動により、やがてその反動思潮は檀家制度の寺院や集落神社への絶大な変容をもたらしました。明治二十三年(一八九〇)には一九万三二四二社あった神社数は現在八万一五〇八社となりました。特に合祀による減少は目を覆うばかりで、神官の需要は絶望的となりつつあります。D斯様に通例の不況神社のあり方では神社を再興し運営することも容易ではありません。
しかし、神仏の教理教学をこえた神仏混交の協調体制や天文知識による自然観測は、青少年が求めている新しい課題環境の中にあります。
「青少年に対する教育は学校が中心となっており、地域の青少年教育においては、その期待される役割を十分に果たしていない状況にある。」と、E平成20年4月に渡海紀三朗文科大臣が舵を切っていらい自然学習活動は一途に広がっています。

写真は現在とおなじものです
世界は近代化がすすむにしたがって生物対応性社会が求められ、寺社の森は格好の聖地として解放されるべき理想的な舞台です。寺院と神社間に敵対視する理由や怨恨は全く存在しません。もともと二千数百年におよぶ日本の神さま仏さまは政権の利害に基づく神仏分離令に至るまで、すこぶるなかのよい親交を続けました。既成化されていない七幸神社は、これまでの神社にはない計り知れない可能性を具有しています。ほんの少し正気で判断すれば誰にでも納得できる事情です。
七幸神社の再興を躊躇していた平成のはじめに、御神体らしき尊像がとどけられました。解放後七幸神社周辺の地主であった山口康彦家によって屋敷の整理中に発見、真贋のほどはさておき異常なほどに古い異国製の石像の発見でした。その尊像が埋められた場所は現在の七幸神社(KUSUKU)の丘です。この時から一気に勢みがついて走り出しました。数十年の歳月を重ねて平成二十八年四月十日に修祓が勤められ、再興がかなって仮被屋が葺かれ現在の姿形となりました。
『宮記』を主体とした論題の「七幸神社の背景を探る」とともに、当初の願望に述べた通りに反論者のご意見を含めて応需します。ご了承のうえご協力をおねがいます。
注
@「忘れられた天文台」 東海林郁三 近代文芸社
A 本光寺文書
B 神宮教院規則「第五条大麻ヲ全国ニ頒布スル事」
C 「近代の集落神社と国家統制」森岡清美著 吉川弘文館
D 『神道入門』井上順孝著 平凡社新書
E 文科省中央教育審議会20文科第124号

七幸神社に参拝されたい方は、佐賀県伊万里市山代町楠久524−1
直接的には佐賀県伊万里市山代町楠久524−11壱之寺茶房(090-3606⁻7117)をお訪ね下さい

多少紙面が遺りましたので、「松浦党研究連合会」から生まれた新たな研究会の話を再開します。
敗戦後であるにもかかわらず、ある種の解放的な時期を迎えると多くの民間研究団体が自然発生的にその背景には、会が一定の大きさに成ってくると、当初は独立した民間の自主的な研究会だったものも、成長してくると県教委、国立大学、県文化課…と言ったものに頼る傾向があり、其れに応えるかの様に、中央情勢については私達にお任せ頂いて、地域については限定して余計な浅酌を避け事実だけを回収して下さい…と言った通説派の学者にとって都合の良い方向に捻じ曲げられる場合がある事を数多く聴いいているのです。これ以降は本題から逸れますので紙数が余れば後段に掲載します。
そして、結論は、記紀に集約し紛れさせられることになり、仮に熱心に真実を探ろうとする人々が在ったとしても、結局は旧態依然たる通説まがいの話に纏められ、後身の研究者が離れ若手の補充が失われると言う全国で見られる郷土史会、史談会、地名研究会…の解散、消失に繋がっている様に見えるのです。
こうして、最後は村興し町興し果ては世界遺産登録と言った言わば官製文化運動に絡めとられ、お粗末にも熱心な研究者であっても、最後は行政の芸人に成り下がり成りきると言った事にもなって行くのです。


にお読み頂き有難いと思っています。
















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