2026年04月09日

新ひぼろぎ逍遥1124 松浦党の起源を探る ⓮ 続 阿 漕(アコギ)20101012(復刻版)

新ひぼろぎ逍遥1124 松浦党の起源を探る ⓮  阿 漕(アコギ)20101012復刻版)

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太宰府地名研究会 古川清久


  「アコウ」 クワ科の亜熱帯高木で暖かい海の海浜に生育します。愛媛県西宇和郡三崎町三崎と佐賀県の東松浦半島に位置する東松浦郡肥前町高串の“阿漕”地区が北限とされています。それほど多くはないのですが、九州の南半分の島嶼部を中心にかなりの数のアコウが海岸部に自生しています。

〇〇「義太夫」 室町後期に発生した古浄瑠璃に三味線が加わり江戸期に発展した浄瑠璃には江戸、上方あわせて数十の流派が形成されますが、元禄期の竹本義太夫と近松門左衛門らによって大流行した人形浄瑠璃の義太夫節を特に「義太夫」と呼ぶようになり、さらに関西の浄瑠璃を特に義太夫と呼ぶようになったようです。常磐津、清元、新内節もそうですが、私は義太夫と言えば、上方落語の「どうらん幸助」の影響からか、最近、特に好んで聴くようになりました。「柳の馬場押小路、虎石町の西側に主は帯屋長……(長衛門)」(「特選 米朝落語全集大二十二集」の台詞で有名な浄瑠璃の「お半 長衛門」(オハンチョウ)を思い出してしまいます。

さらなる展開


多少ともアコウと阿漕地名との間の関係について理解して頂けたかと思います。

しかし、話はここから新たな展開を見せるのです。古田史学の会代表である水野孝夫氏は、この小論から「阿漕的仮説」(会報69号)という驚くべき仮説を引き出されたのです。詳しくは同会の会報か私が主催するホーム・ページ「アンビエンテ」のリポート106107号外を読まれるとして(こちらは写真、地図、図表も見ることができます)、『万葉集』に登場する淡海は琵琶湖ではないという議論は、当時、古田武彦氏をはじめとして、万葉集の研究者の間でもかなりの広がりを見せていました。

この議論の中で、古田史学の会の“神様の神様”と言われる西村秀巳氏は『倭姫命世紀』という鎌倉期の文書から“淡海=球磨川河口説”を提案されたのです。そして、ここに注目した水野氏が、伊勢神宮もこの球磨川河口域から移されたのではないかとされたのです。

一方、『古事記』の探求を進められた九州古代史の会の庄司圭次氏は、『「倭国」とは何か』所収の“「淡海」は「古遠賀湖」か”で“淡海=古遠賀湖説”を展開されており、会としても同地が淡海であると考えられているようです。さらに、これがいわゆる新北津論争にも多少の影響を与えているのかも知れません。

ともあれ、まずは、水野代表による「阿漕的仮説」とその解題とも言うべき拙稿「姫戸」を読んで頂きたいと思います。

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長崎県南島原市口之津町早崎漁港のアコウ群落


「阿漕的仮説」さまよえる倭姫 “八代〜大築島〜天草”

(古田史学の会会報 NO69 掲載論文)


 古田史学の会代表 水野 孝夫(奈良市)


この報告は、文献に現われる「阿漕」「淡海」「倭姫」をキーワードとして、「伊勢神宮も九州から移築された」と考えたいという仮説である。

『むかし琵琶湖で鯨が捕れた』、河合隼雄・中西進・山田慶児・共著@ という本がある。学術書というわけではなく、この表題は、出版社が人目を引くために付けたのだろうが、こんな無茶なことを、これだけの学識経験者に言ってもらっては、困っちゃうのである。しかも、鯨についてなにか論証してあるわけではなくて、「(鯨は)日本の名前だと勇魚(いさな)でしょ?勇ましい魚。「勇魚捕り」なんていう枕言葉にもなって、琵琶湖を修飾するのに使われている。これは「鯨だって捕れるほど立派な琵琶湖」という表現です」。という、座談会での放言だけから採られている。

根拠の歌、万葉集02/153 原文。

鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立

この歌は別に琵琶湖の立派さを歌っているわけではない。


木村賢司氏は「夕波千鳥」という会報論文Aで、「琵琶湖に千鳥はいるかも知れないが、鯨は絶対にいない」とし、博多湾を淡海の候補とされた。

古田武彦氏はこれを受けて、やはり「淡海」は淡水の琵琶湖ではなく海であり、現在の鳥取県にあたる『和名抄』の邑美を候補とされたB

梨田鏡氏は「鯨のいない海」Cで考察を加え、やはり「淡海」は淡水の琵琶湖ではなく海であり、その候補地を「會見の海」(鳥取県美保湾)とされた。


このころに西村秀己氏は「淡海」という語句を探して『倭姫命世記』という文献(続群書類従巻三所収)に出会われたのである。『倭姫命世記』は、倭姫が天照大神(ご神体の銅鏡)の居所を求めて近畿地区をさまよい、遂に伊勢の度会宮(伊勢神宮)に落ち着かれる経過の話である。ここには「海塩相和而淡在、故淡海浦号」(塩味が淡いから淡海浦という)の語があり、西村氏も「淡海は淡水の琵琶湖ではありえない」と考えられたのであるが、地名の音あてはされていない。


倭姫について簡単に見ておこう。倭姫という人物は垂仁紀では皇后・日葉酢媛命から生まれた第四子である。崇神紀三年「都を磯城に遷す、これを瑞垣宮という」。同六年「是より先に天照大神・倭大国魂、二柱の神を天皇の大殿のうちに並び祭る。然して其の神の勢いを畏れて共に住みたまふに安からず。故に天照大神を以て豊鋤入姫命に託して倭の笠縫邑に祭る。(中略)亦、日本大国魂神を以てはヌナキ入姫命に託して祭らしむ」。天照大神は宮中から出され、豊鋤入姫命に託して倭の笠縫邑に祭られたのだが、垂仁二十五年「天照大神を豊鋤入姫命から離し、倭姫命に託す」ことになり、倭姫命は大神の鎮座地を求めて兔田、近江国、美濃をめぐり伊勢国に着き、神の教えによりここに宮を建てて落ち着く。『古事記』にはこの放浪譚はなく、倭姫命はいきなり伊勢神宮の斎宮として紹介される。古田史学の立場で考えるならば倭姫は「チクシの姫」のはずである。


『倭姫命世記』は伊勢神宮および籠神社に伝わる神道書で、天地開闢から伊勢神宮の神寶の由来、これが伊勢神宮に収まった経過を追っているので、全文一万字程度の短いものであるが、大部分は倭姫命の放浪譚である。

その内容は『日本書紀』よりは格段に詳しいので、笠縫邑を出発してから、どこそこに何年間おられ、次はどこ・・・と伊勢到着までを追跡できる。この行程表や地図を掲載した本が多く出版されており、これを追跡する古代史ファンもあり、ここが伝承地とする神社等もある。当然ながら「書紀の知識をもとに」読まれていて、近江国を通るのだから琵琶湖畔にも伝承地が多い。しかし理解困難な宮名もある。伊勢の斎宮歴史博物館の学芸員の方のホーム・ページによると「この『倭姫命世記』を信じる人が多くて困るが、この本は鎌倉時代以降の神道書であって、歴史書としては扱えない」と言われている。


続群書類従では、全文漢字なので読みにくいが、籠神社の宮司だった海部穀定(あまべよしさだ)氏の著書D、岩波・日本思想大系19Eには読み下し文がある。これによると、倭姫命は天照大神の宮地を、伊勢の度会の五十鈴河上に定め終わったあと、更に船に乗り「御膳御贄処」(ご神饌を奉納する地)を求めて船旅をされる。この航海への出発地点に、先の「淡海浦」がある。「其レヨリ西ノ海中ニ、七個ノ嶋アリ、其レヨリ南、塩淡ク甘カリキ」とある。つまり「淡海浦の西には嶋が七個あり、南も海で、塩の甘い所がある」のだ。西村氏はこう考えられた「現在の伊勢神宮のある三重県の五十鈴川河口はほぼ北東を向いており、西も南も海でないし、西に七つの島などない。このような地形の候補地としては熊本県八代の球磨川河口がふさわしい」。但し氏はこの仮説を未発表である。


会報六八に「船越」を書かれた古川清久氏のホーム・ページには「阿漕」という論文もある。これが興味深い。氏は釣行のときに出会う、南西諸島・九州西南岸・四国南岸・和歌山県に育つ「アコウまたはアコギ(赤生木)」という亜熱帯性植物に興味をもたれ、「アコウまたはアコギという地名はこの植物が生えるところではないか」と提唱されたのである。   この樹木は樹齢数百年のものも珍しくなく、海岸近くにしか生えない。「あこぎ」とはどういう意味だろうか、小さい辞書には「限りなくむさぼる様子、貪欲、例:あこぎなやりかた」というように記載されている。「阿漕」という謡曲がある。この謡曲は、伊勢神宮に神饌を奉納する地であり、三重県津市に現存する地「阿漕が浦」で繰り返しむさぼって密漁し、捕えられて処刑され、地獄に堕ちた漁師の幽霊が、仏教による回向を求める話である。ちょっと余談をはさむと、謡曲のなかに「憲清と聞こえしその歌人の忍び妻、阿漕阿漕と言ひけんも責め一人に度重なるぞ悲しき」とある。古川氏によると、俗名を佐藤憲清といい北面の武士だった西行法師が、恋していた絶世の美女・堀川局に「またの逢瀬は」と問うたところ、「阿漕であろう」といわれ、「あこぎ」の意味がわからず、それを恥じて出家したという話があって、落語ネタになっているそうだ。「阿漕」の最初の意味は「たびかさなること」であって、堀川局は「繰り返し会っていると、他人に知られてしまいますよ」と言ったのである。広辞苑はこの意味を第一に挙げている。


とにかく、古川氏は「アコギ樹の北限よりも北に」なぜ「阿漕が浦」の地名があるのかを疑われたのである。わたしはここにヒラメキを感じた。「本来の阿漕が浦はアコギが生えていたのではないか、球磨川河口付近ならば、アコギ樹が生えているだろう」。古川氏に御意見を聞くと、「嶋七個」は天草上下島のような大きな島ではないとして、球磨川河口沖約5kmにある大築島などの小島を挙げ、詳細な地図を送ってくださった。

この大築島など六島は現在廃棄物処理用地として埋め立て計画が進んでおり(あと暫くで島の数がわからなくなるところだった)、古川氏は調査のため現地を踏んでおられ、現地には八代史談会に友人も居られる。わたしは最高の案内人を得たのである。ただ大築島地区には島は六個で、うちひとつは岩礁みたいなもので島といえるかどうかの問題がある。もちろん河口と天草上島との間には別の島もあり、現在は陸地でも過去には島であったと思われる土地もあるので、「嶋七個」を確定するには至っていないが、七個以上は確実にある。


さて地図を見ると、球磨川河口から大築島地区を越えた天草上島に「姫戸町」があって、ここには「姫の浦」「姫浦神社」「姫石神社」があり、姫戸町・永目地区には巨大な「アコウ樹」がある。この「姫」は倭姫ではないか?。倭姫は「朝の御饌、夕の御饌とおっしゃった」と言うから、毎日朝夕に神饌を運べるくらいの近さのところだろう。(津市・阿漕浦から五十鈴河口まで直線距離約30km、近鉄電車で津−五十鈴川、32km/急行40分。八代から姫戸まで直線距離は約15km、天草観光汽船の高速艇はややまわり道だが22ノットで30分。三重県の方が2倍くらい遠いか)とにかくここが神饌供給地としての「阿漕が浦」にふさわしく思われる。もっとも現地に地名「阿漕浦」はない。塩味の甘い「淡海浦」であるが、球磨川は伏流水が有名であって(本流日量千万トン、伏流水六十万トンと言う)、海の中に海底から川水が噴出している場所があるのだ。万葉集にも出てくる水島付近で泳ぐと、塩味をほとんど感じない場所があるという。ここは河口のうちでも南側であって、『倭姫命世記』の記述とよく合致している。古川氏は「姫の浦」「姫浦神社」「姫石神社」の現地へも行かれているのだが、現地伝承聴取は困難らしい。ただ姫石神社の伝承や姫石と称する石についての伝承をホーム・ページに見ることができる。「むかし、お姫様が宝を積んで航海して居られたが、海が荒れてきたので良い浦がないかと探されて姫の浦へ着き、景色が良いのを気に入られて滞在された。後の世の人がその跡を見つけたが、お姫様の名はわからなくなっていた。ただ姫とその宝だという石が残っていたので祭った」という。倭姫命はどこかに祭られているだろうか?。伊勢神宮境内には倭姫命を祭る神社がある。しかしこれは御杖代として功労のあった倭姫命を祭る社がないのはおかしいとして、近世になってから祭られた社である。ということは倭姫命を祭る神社は近畿にはないということらしい。しかるに九州には倭姫命を祭る神社がある。古川氏の奥様の実家のお隣、がそうだという。『倭姫命世記』が後世の神道書で信用ならない(極言すれば偽書だ)として、「西に嶋七個」とか「塩味の淡い海」などという具体的で、しかも伊勢には適合しない地理をどうして記述できるだろう?。なにか先行資料に基づいたとしか考えられないのである。


さて以上の、阿漕、淡海、倭姫の仮説がすべて正しいとしてみよう。倭姫がさまよわれた地域の最後が九州内部だから、出発から落着までの範囲はすべて九州内部だったはずだ。しかるに現在の伊勢神宮は三重県にある。ならば倭姫伝説全体、阿漕浦などの地名、伊勢神宮の社殿、神饌を奉納する住民たち、これらの全体が「九州から近畿・東海に移植された」ことになるだろう。これまでに九州のある範囲にある地名グループが、奈良県にもグループとして存在する例は多数知られていた。理由は、一部の住民が移動したのだろう程度に考えられてきた。そうではなくて、古事記、日本書紀を信頼あるものにするために、遺跡、遺物、伝承、住民を含めて、史書に合うように移植されたという可能性が見えたのではなかろうか。書き上げるだけなら四ヶ月で済んだ古事記に比べて、日本書紀が企画から完成まで数十年もかかった秘密はここにあるのではないか。


@、潮出版社、1991

A、「古田史学会報38」、2000/06、『古代に真実を求めて第五集』所収

B、2001/01/20講演、於・北市民教養ルーム。但しこの内容は著書等には未採用、インターネットなら読める。

C、『新古代学第七集』、2004/01

D、『原初の最高神と大和朝廷の元始』、桜楓社、昭和59 古田武彦氏御所蔵。

E、『中世神道論』大隈和雄編、1977

※ 会報69号には『倭姫命世紀』原文の一部分が掲載されています。(古川注)

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大築島周辺の地図 マピオン

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