新ひぼろぎ逍遥1125 松浦党の起源を探る ⓯ 続々 阿 漕(アコギ)20101012(復刻版)
20250813
太宰府地名研究会 古川清久
姫 戸
阿漕的仮説 ―さまよえる倭姫― の掲載について
はじめに
水野代表による「阿漕的仮説」―さまよえる倭姫―をお読み頂いたものと思います。か
なり分かりにくく、容易には理解し得なかったかと思いますが、話の一端でも理解された方はかなり驚かれたことと思います。
「阿漕的仮説」にも出てきますが、かつて、日量六〇万トンとまでいわれた球磨川の伏流水にしても、山の破壊(針葉樹林化)、側溝から都市の小河川さらには駐車場のコンクリート化などによって、圧力、水量ともに減退し、恐らく半減から、もしかしたら、現在は見る影もないほどまでに減少しているのではないかと危惧するものです。
それはさておき、水野代表による「阿漕的仮説」は非常に魅力的です。私は九州在住の同会会員として僅かなお手伝いをさせて頂いたわけです。上天草市の姫戸町を訪れ、姫浦神社、姫石神社、永目神社、二間戸諏訪神社などの宮司を兼ねておられる大川定良氏からもお話をお聞きしてきました。
「倭姫命世紀」
そもそも、「倭姫命世紀」は鎌倉期に成立した書物であり、水野氏も書かれているとおり、“「倭姫命世紀」を信じる人が多くて困る“といった話があることも十分承知しています。しかし、この話は倭姫命が御杖代として天照大神の鎮座地を探すというものであり、別名、元伊勢神社と言われる京都府宮津の籠神社があるように、まさしく、さまよい、最終的に伊勢の“五十鈴河上”に辿り着くというものです。このため、このルートを探るマニアもいて、“どこそここそがその場所である”といった話が飛び交ってもいるようです。
しかし、まず、“日本の神々の最高神にまで高められた天照大神の最終的鎮座地が、なぜ、伊勢でなければならないのか“さらには、それは、”なぜ、大和王権の膝元の大和などではいけなかったのか“という事など、考えれば多くの謎があります。
従って、天照大神のルーツが対馬小船越の阿麻底留神社とすると(「船越」参照)、いつかの時点では、九州に“元々伊勢神社”とでもいうべきものが存在したのではないかという仮説、また、大宰府と久留米の中間に位置する小郡市水沢(ミツサワ)の伊勢山神社、伊勢浦地名は何なのか(いずれも宝満川の支流の側に位置する)、さらには”小郡市大保の御勢大霊石神社(ミセタイレイセキジンジャ)が地元では伊勢(イセ)大霊石神社と呼ばれているのは何故か”といった興味深い問題が横たわっています(大分県の耶馬溪町や玖珠町から鹿児島県などにも伊勢神社、伊勢山神社・・・があります)。
水野氏は「倭姫命世紀」に登場する七つの島を断定まではされていませんが、一応、不知火海の大築島周辺の島に比定されたものと思われます。それを前提にお話しいたしますが、国土地理院の地図によると、大築島周辺には大築島、小築島、黒島、箱島、その箱島の独立礁に根島を併せた六島(いずれも一.五キロ程度の範囲にかたまっている)と、二キロほど離れた場所に船瀬がありますので、七つの島という事は、一応、可能かもしれません。
対岸の天草上島の姫戸を宮地として神饌の調達先を球磨川河口とするならば、ちょうど中間に位置する大築島が第一候補であるのは当然でしょう。
ただ、私は、水野説に反旗を翻すというわけではありませんが、八代は古代において、干拓地などはなく、球磨川左岸では、奈良木神社がある高田(コウダ)周辺が陸化していた程度ではなかったかと考えています。このため、現在は埋立や干拓が進んで陸地になっている八代の中心街の陸地にも、かつてはかなり小島が存在していたはずなのです。
具体的には球磨川右岸の大鼠蔵(オオソゾウ、標高48m)、小鼠蔵(コソゾウ、同、35.3m)、現在、球磨川の三角州に流れる南川と前川に挟まれた麦島(ムギシマ、中世に麦島城が存在した)、八代市街地の西側の干拓地にかつて存在していたと考えられる白島(同、18.7m)、高島(同、32.8m)大島(松高小大島分校がある)、それに万葉集に歌われた水島(同、5m程度)の七島を比定する事もやろうと思えばできるのではないかと思えます。これらの小島は縮尺の大きな地図であれば現在でも地名として確認できますので、興味のある方は試みて下さい。結局、「倭姫命世紀」の解読、科学的検証といった事が重要になってくるのですが、その間にも大築島周辺の浅海は確実に埋立られ続けているのです。
姫浦神社と姫石神社
天草に釣りに来る度にこの姫戸に足を踏み入れていたために、永目神社、姫浦神社の存在には気づいていました。ただ、姫戸という地名と姫浦神社には関係があるのではないか(姫戸は姫浦の門)といった程度の感想しか持っていませんでした。このため、ここを通ると、かつては、この神社の真下まで海が入っていただろうし、まさしく姫浦の地形をしていたのではないかなどと考えていました。今回、「阿漕的仮説」が発表され、にわかに調べる必要を感じたものです。実際、姫石神社の存在に気づいたのも昨年の事(脱稿は〇五年中)でしたが、その時も、なぜ、姫浦神社の直ぐ傍(二百メートル程度海岸寄り)にこのような神社が存在するのかと奇妙に思ったものでした。もちろん、この謎はいまだに解明できないのですが、上宮、下宮といったものではなく、やはり、別の神が祭られていたのです。
八月から九月にかけて、教育委員会から姫浦神社の宮司を教えていただき、ご連絡したところ、快くお教え頂き大変有難たかったのですが、いかんせん、ほとんど記録が残っておらず、僅かに祭られている神々の名が確認できる程度でした。以下は神主(宮司)から聴き取らせて頂いたことと、五十年ほど前の神社庁への届け出によるものです。
姫浦神社 : 神武天皇、天照大神、神八井耳命、阿蘇一二柱
姫石神社 : 若比□*命口羊*は口の右に羊(メと読む)
永目神社 : 姫浦神社に同じ
二間戸諏訪神社 : 建御名方神、八坂刀賣神、外十五柱神
とりあえず、姫浦神社が伊勢神宮の原初的な形態を留めているとするならば、天照大神が主神とされていることから、水野仮説の一部は裏付けられた事になったわけです。
さて、水野氏は、“古川氏は「アコギ樹の北限よりも北に」なぜ「阿漕が浦」の地名があるのかを疑われたのである。わたしはここにヒラメキを感じた。”とされていますが、私は元々三重県津市の阿漕ヶ浦という地名が、現在はアコウの木が生えていないものの、かつてはアコウが存在した場所、百歩譲っても、そこからの移住者によって持ちこまれた地名なのではないかと考えたのです。ところが、驚くことに、氏はこの阿漕ヶ浦の話を伊勢遷宮伝承と関連付け、伊勢もアコウの木の生える地域つまり筑紫島(九州)の領域からの移設(氏は移築とされていますが)されたのではないかと考えられたのです。私も相当に天邪鬼な方ですが、水野さんはさらに上手で、実に柔軟かつ、大胆な発想、思考をされる方と、驚きも感服もしたところです。多分、水野氏のお考えでは、津市の阿漕ヶ浦にはアコウの樹は生えたことはなく、逆に、伊勢神宮の方が動いて来たのだと考えられているのでしょう。こうして、私の「阿漕」(阿漕地名仮説)は水野「阿漕的仮説」の前に脆くも崩れ去ったわけです。
最後に、水野代表は「しかるに九州には倭姫命を祭る神社がある。古川氏の奥様の実家のお隣、がそうだという。」と書かれておられますので、この点にふれておきます。
(2)味島神社 谷所 鳥坂
鳥坂の鳥附城があった山の南の山麓に倭姫命を祭神とする味島神社がある。社の由緒等詳かではないが大正五年毛利代三郎編「塩田郷土誌」によれば「仁明天皇承和年間(八三四〜八四八)新に神領を下し社殿を建立した。」 (塩田町史)
とあります。

おわりに
倭姫命を祭る神社は全国的にも佐賀県嬉野市の旧塩田町にしかないことから、それだけでも伊勢神宮や淡海が本来は九州にあったのではないかと思うものです。さらに、「淡海」が不知火海であれ、古遠賀湖であれ、琵琶湖とされた『万葉集』の舞台が九州であったという可能性に興味は尽きません。
私は伊勢神宮の前史としてアコウが生茂る九州南半に鎮座ましましていた時代があったのではないかと想いを巡らしています。
さて、伊勢神宮が現在の地に落ち着くまでには、元伊勢をはじめとしてかなりの前史があることが知られていますが、もしかしたら、この神社も九州から持ち出されたのではないかという疑問が付きまといます。そういうわけで、本稿は九州の南半分に分布するアコウという印象的な海岸性樹木、阿漕、赤尾、赤木・・・といった地名に関係があり、伊勢の阿漕ケ浦もその一つではないかという問題に答えようとするものです。
県 | 市 | 町 | 大字 | 小字 |
長崎 | 対馬 | 上対馬町 | 大浦 | アコウ |
長崎 | 南高木郡 | 国見町 | 松尾郷 | アコキ山 |
長崎 | 南高木郡 | 国見町 | 長峰郷 | アコギ山 |
長崎 | 南高木郡 | 国見町 | 長峰郷 | アコギノ下 |
長崎 | 南松浦郡 | 奈留町 | 船廻郷 | 阿古木 |
長崎 | 南松浦郡 | 奈留町 | 船廻郷 | 後阿古木 |
長崎 | 西彼杵郡 | 大瀬戸町 | 松島内郷 | アコノ谷 |
長崎 | 南松浦郡 | 岐宿町 | 川原郷 | 阿古木 |
佐賀 | 東松浦郡 | 肥前町 | 田野 | 阿漕 |
現在、九州古代史の会のメンバーで写真集も出されている松尾 紘一郎氏(糸島市)との共同作業により、“明治15年全国小字調べ“から太宰府地名研究会でとりあげた「釜蓋」「永尾」地名の拾い出し作業を行っています(本題から逸れますが想定古博多湾、古遠賀湾から夥しい釜蓋、永尾地名を発見しています)。
実はこの作業の副産物として、これまで把握していない「阿漕」地名も発見しています。
まだ、類例も少なく決定的なことは言えませんが、予想していた通り北部九州には分布していないようです。例外は対馬海流が洗う壱岐、対馬です。このことをもってしてもこの地名がアコウの分布と重なり、南方系の漁撈民によって付された地名であることを示しているように思います。この作業の延長に何らかの発見が出てくるかも知れません。










にお読み頂き有難いと思っています。
















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