新ひぼろぎ逍遥1126 松浦党の起源を探る ⓰苧扱川(オコンゴウ)20110701(復刻版)
20250813
太宰府地名研究会 古川清久

長崎県の南部、島原半島の先端といえば、有明海の出口、早崎ノ瀬戸、瀬詰崎灯台などが頭に浮かぶ旧口之津町(現南島原市)となりますが、その岬の中ほどに苧扱川(おこんご)と呼ばれる奇妙な地名群があります。
昭文社の『県別マップル』長崎県広域・詳細道路地図などでも直ぐに確認できますので、まずは地図を見て頂きたいと思います。
かつて口之津といえば、上海向けの石炭の積出港として、また、“カラユキサン”を送り出した外洋船の出港地(寄港地)として、さらには、戦前、戦中、戦後を通じて海国日本を支えた多くの船乗りの養成を行なった海員学校があった町としても有名でしたが、今や、その華やかさは衰え、ただただ、天草下島に向かうフェリーの出船場としての存在だけを主張しています。
しかし、百年前、この地には国際貿易港として目も眩むばかりの繁栄が確実に存在していたのです。
さて、口之津港に深入りすると先に進みませんので、この話はこれまでとしましょう。興味をお持ちの方は長崎県下でも最も資料の充実した歴史民俗資料館に足を向けられる
事を望んでやみません。
話を元に戻します。五年ほど前でしたが、いつものように地図を眺めていると、ひらがなで「おこんご」と書かれている地名があることに気付きました。その時は単に変な地名と思っていただけでしたが、その後、資料館を訪問した際に館長にお尋ねしたところ、口之津史談会の西光知巳氏による「オコンゴ考」という論文があることを知ったのです。
…口之津の行政区、南大泊に「オコンゴ」と呼ばれる地名がある。かつて遊郭があった所としても知られている。口之津の字界図を見ると、早崎名(みょう)と町名(みょう)の間の小さな川が流れ「苧扱川」とある。これをオコンゴと呼ぶらしい。
「口之津史談会」創刊号
これについては、最後に全文を掲載しておりますが、実はこの地名が久留米の中心街、それもまん真中にもあった(ある)のです。
西鉄久留米駅付近は南北に国道3号線が、国道209号、322号線が東西に交差する文字通りの中心地ですが、久留米井筒屋から西鉄久留米駅に向かう209号線の少し南を東から西に流れる川があり、池町川と呼ばれています。
現在は筑後川からポンプで汲み上げられた水が流され、いわば、造られた「癒し」の河川空間が演出されているのですが、今や、六つ門町から東町という官庁街、商業地、歓楽街になじみ、趣味ではありませんが、それなりの調和を得ているようです。
さて、「おこんご」です。この池町川が、かつて、苧扱川(おこんがわ)と呼ばれていたといえば皆さんは驚かれるでしょうか。
もちろん、千数百年前の古文書に書かれていたなどといったものではなく、少なくとも父祖の代程度の話で、私達でも十分に辿れる時代のものなのです。
「おこんご」と「おこんがわ」は多少異なるようですが、あまり使われない「苧」という難しい文字と川の表記が一致する事から、同一起源の地名であることは、まず、間違いないでしょう。
一般的に九州の西岸部(長崎、佐賀、熊本、鹿児島…)では、川を「コウ」「ゴウ」と呼ぶ傾向が認められます。佐賀でも、谷川をというよりは、さらに急峻な滝に近い渓流を「タンゴ」、「タンゴー」、「タンゴウ」などと呼びますが、このことは、川内を「こうち」と呼ぶこととも対応しているようです。
こうち
【川内・川内】
(カハウチの約。後に、「かうち」「かはち」とも)川の中流に沿う小平地。一説にカハフチの約で、川の淵(ふち)。万葉集(1)「山川の清き−と」
(広辞苑)
この池町川(苧扱川)は、本町付近で国道209号線を北に横断し再び西流しますが、この付近にかつて鉄道の駅があり、その駅名が「苧扱川」だったといえば、思い出される方もかなりおられるのではないでしょうか。
市の中心部を貫いて流れる池町川。
西鉄久留米駅付近に端を発しJR久留米駅付近までの川の岸辺は、商店街や歓楽街、官庁街といろんな顔をもっています。
この川は江戸時代初め苧扱川と呼ばれていました。
池町川と呼ばれるようになったのは、18世紀以降のことです。
城下町の地名1つ、池町にちなんで池町川へと変わったといわれています。
市のHP「ふるさと再発見」
もう少し詳しくお話しましょう。久留米には明治の末から昭和四年ですから満州事変が勃発する頃まで、筑後川沿いの豆津から日田の豆田まで走る軽便鉄道が走っていました。
もちろん軽便鉄道ですから、元々の狭軌である日本の一般的鉄道よりもさらに狭いナロー・ゲージです。
〜荘島〜苧扱川〜日吉〜となれば、地元の方であれば、その場所については直ぐに見当がつくことでしょう。苧扱川の停車場はちょうど現在の みずほ銀行 久留米支店 辺りになるようです。
筑後川左岸の加ヶ鶴トンネルも、現在、国道に転用されていますが、元は、この鉄道の路線だったようです。
ここに久留米地名研究会メンバーが運営するHPがあります。
「山への旅(シリーズ)」です。本人の牛島氏からは了解をとっていますので、「おこんごう」のその他の分布について書かれたものがありましたので、必要な部分だけを使わせて頂きました。
第7回 苧扱川という地名
九州地方:
@苧扱川“おこんご”(島原、口之津)
A苧扱川“おこん川”(久留米市)
B麻扱場橋“おこんば橋”(熊本、南関)
C苧扱川“おこぎがわ”(熊本、合志)
D苧扱川“おこく川”(香川、観音寺市) 2010.1.11up
@ おこんご”(島原、口之津)
島原、口之津歴史民俗資料館 資料より 旧税関跡を整備した資料館写真:牛島稔大(2009/7/31)
口之津、苧扱川“おこんご”遊郭:
広報くるめ No.1102 2004.2.1 |ふるさと再発見|ふるさとの歴史を伝える池町川 より
市の中心部を貫いて流れる池町川。
西鉄久留米駅付近に端を発しJR久留米駅付近までの川の岸辺は、商店街や歓楽街、官庁街といろんな顔をもっています。
この川は江戸時代初め苧扱川と呼ばれていました。池町川と呼ばれるようになったのは、18世紀以降のことです。城下町の地名1つ、池町にちなんで池町川へと変わったといわれています。
苧扱(おこん)川公園: 福岡県久留米市梅満町543−1
その他の“おこん川”
山口県下関市王子地区(地元の人たちが「おこん川」と呼んでいる小川):
山口県防府市大字江泊(おこん川は、徳山領(富海村)と三田尻宰判(牟礼村)との藩境):
長崎県五島市岐宿町(福江島岐宿町名物・おこん川かかし祭り):
麻扱場(おこんば)橋
おこんば橋は、南関町大字下坂下、北辺田の内田川に架かっていたアーチ式の石橋で、平成5年にほ場整備にともなう河川改修により、解体撤去のやむなきにいたり、ここ大津山公園内の太閤水の地に移転復元されました。建造年代は不明ですが、江戸末期か明治の初期と考えられています。石工名も残念ながらわかっていません。
橋名は、昔内田川で麻のさらしが行われていて、橋の近辺を「麻(お)扱(こ)き場」と呼んだことによるものです。撤去前は農道として近隣の人々が利用する程度でしたが、昔は肥猪方面から高瀬に出るには、この橋を渡り、上坂下、三ツ川を抜けるのが最短でしたので、多くの人々が利用する大事な橋でした。おこんば橋は、やむをえず移転復元されましたが、これからもずっ
と町の文化財として大切にしていきましょう。福岡県八女市黒木町木屋字苧扱場
広報こうし 平成19年7月号(第17号)より。
平成15年10月に発見された史跡豊岡宮本横穴群の整備が、今年3月に完了しました。

横穴とは、がけ面に横から穴を掘ってつくられたお墓です。この豊岡宮本横穴群は、古墳時代後期(約1500年前)の有力者の家族墓で、約9万年前の阿蘇山噴火による火砕流でできた凝灰岩の岩盤につくられています。合志市豊岡の竹迫日吉神社北側にあり、正面にはホタルの住む塩浸川(苧扱おこぎ川)が流れています。
写真は、記事とは別に牛島稔大(2004/9/25撮影)。・・・これは省略しています。古川
高屋町(たかやちょう)旧高屋郷高屋村。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
七宝山山麓で、苧扱川(うこくがわ)が流れる、田園地帯。稲積山高屋神社では春に高屋祭りが行なわれ、満開の桜とちょうさのコラボレーションが見られる。----> 現地の人の呼び方は、“おこく”のようです。
おこんご関連連地名
長崎県西海市西彼町白似田郷字苧漬川
佐賀県嬉野市岩屋川内字苧漬川(おつけごう)
大分県国東市国東町岩戸寺字葛原苧着場(おつけば)
大分県国東市国東町来浦苧畑(おばたけ)大分県国東市安岐町富清苧畑(おうばたけ)
大分県国東市小畑 大分県大分市賀来小畑
大分県日田市大山町西大山小切畑(おきりはた)大分県日田市大山町東大山字小畑(おばたけ)大分県日田市小畑大分県臼杵市小切畑
大分県豊後大野市小切畑
熊本県山鹿市小畑
宮崎県えびの市苧畑宮崎県延岡市小切畑
宮崎県東臼杵郡門川町小切畑宮崎県西臼杵郡五ケ瀬町小切畑
兵庫県丹波市春日町棚原 苧漬場(おつけば)の池
京都府宮津市中津(京都府与謝郡栗田村中津)字苧漬場
福島県南会津郡只見町大字田子倉字芋(苧)漬場(オオアザタゴクラアザオツケバ)
山形県酒田市泥沢苧漬場山形県酒田市苧畑
山形県東田川郡庄内町大字廿六木字苧漬沼、字苧漬台



苧扱川の苧麻布とは木綿以前の繊維
古代において、有明海の最奥部であったと考えられる久留米の市街地にオコンゴウと呼ばれる川、苧扱川(池町川)があり、西に開いた有明海のまさにその出口の一角に苧扱川と苧扱平という地名が三ケ所も残っています。
さて、この島原半島南端の良港、口之津にオコンゴ地名があることは象徴的ですらあります。始めはそれほどでもなかったのですが、今になって、このことの意味することが非常に重要であることに気づき、今さらながら戦慄をさえ覚えるほどです。
一つは、あまりにも強固な地名の遺存性についての感動であり、今ひとつは、有明海が西に開いていることと多くの伝承や物象が符合していることです。
まず、広辞苑を見ましょう。「【苧麻】ちょま〔植〕カラムシ(苧)の別称。」としています。カラムシ(苧)を見れば、かなり多くの記述あり、ここでは略載しますが「…木綿以前の代表的繊維(青苧(あおそ))…」などと書かれています。
重要なことは、もしも外回りの航路を採ったとすれば、口之津が大陸へ向けた本土最後の寄港地であることからして、この苧が衣服ばかりではなく、船の帆や綱として組織的に生産され、それが地名として今日まで痕跡をとどめたのではないかとも考えられるのです。
ここで、さらに視点を拡げます。実は、この苧、苧麻が皆さん誰もがご存知の、いわゆる『魏志倭人伝』(魏志東夷伝倭人条)に登場するのです。
もはや、写本のどれが正しいかといった議論は一切必要ありませんので、手っ取り早くネットから拾いますが、いきおい「苧」、「苧麻」が出ています。少なくとも有明海沿岸が倭人の国の候補地になることは間違いがないところでしょう。
婦人は髪を束ね、単衣の布の中央に穴を開けた様な衣である。
稲、チョマを植え桑の木に蚕を飼い糸を紡ぐ。(苧麻は沖縄から南で繊維を使う)
http://www5.ocn.ne.jp/~isao-pw/wazin.htmを参照されたし。
もう一つ補足の意味でご紹介します。宿敵安本美典系のサイトから…(ほんの洒落ですが)。
其風俗不淫 男子皆露以木緜招頭其衣幅但結束相連略無縫 婦人被髪屈作衣如單被穿其中央貫頭衣之種禾紵麻 蠶桑緝績 出細紵緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與擔耳朱崖同
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gishi_gen.htmを参照されたし。
その風俗は、淫(みだら)でない。
男子は、みなみずら(の髪)を(冠もなく)露 (出)している。木緜(ゆう:膽こうぞの皮の繊維を糸状にしたものとみられる)をもって頭にかけ(はちまきをし)、その衣は横に広い布で、結びあわせただけで、ほとんど縫うことがない。
婦人は、髪をたらしたり、まげてたばねたりしている。
作った衣は、単被(ひとえ)のようである。その中央をうがち(まん中に穴をあけて)頭をつらぬいてこれを衣る(いわゆる貫頭衣)。
禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から繊維をとり、糸をつくる)をうえている。蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸をつむいでいる。細紵(こまかく織られたからむしの布)・絹織物、綿織物を(作り)だしている。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/wazinnden.htm を参照されたし。
古代史、それも、九州王朝説(論)に地名の話を持ち込みましたが、当然にも奇異な感じをお持ちになった方もおられたことでしょう。
そろそろ、それに何らかの決着を着けなければなりません。久留米地名研究会を十人足らずで始めた実質的な第二回目の会合において、「久留米市街地にオコンゴが流れる」を取り上げました。非常に間の抜けた話なのですが、その頃になって、このオコンゴ=苧扱川の「苧」(チョマorオ)がいわゆる『魏志倭人伝』に出ていたことに気づいたのです。
もちろん、“倭の水人が好んで潜水し魚貝を採る”など倭人の風俗に触れた部分なのですが、女が貫頭衣を着ているとした後に、種禾稲紵麻…出細紵(稲チョマを植え桑の木に蚕を飼い糸を紡ぐ)と書かれているのです。
当時の研究会でも久留米の池町川と有明海の出口にあたる島原半島の口之津に同じオコンゴという地名があり、久留米がかつて繊維産業(久留米絣)の中心地であったことを考える時、いわゆる倭人伝に書かれた文字がそのまま残る両地が、また、同時に倭人の棲む土地であったことを意識したのです。
実際、絹の分布を考える時、それほど絶対量が多いわけでもないのですし、考古学の世界では纏向遺跡のようにたった一つの発掘例で卑弥呼の時代のものだなどと決め付ける愚か者の学者や大新聞があるのですから、それで良いとは言わないものの、無視されるほどの物でもないように思います。
私は2010年3月まで口之津史談会に入っていましたが、同会の平 一敏氏が書かれた「口之津の神社総覧」を頂き読ませていただきました。その中に高良山神社が出てきますのでご紹介しておきます。
このような小冊子でも同様ですが、その地域で重要な神社、信仰を集める神社は先頭に掲げられます。ここもその例にもれず、口之津湾の裏山とも言うべき富士山(190m)山頂に鎮座する富士山神社に次ぐ二番目に高良山神社が掲載されています。
唐人町の裏山、高良山に建つ3棟の社殿、御堂によりなる。昔の鎮守の杜の面影をそのまま残す姿の美しい神社である。向かって左は金比羅宮、有翼の像を祀り潜伏キリシタンの信仰をも思わせる。右は大師堂、島原半島版鎮西八十八ケ巡りの第17番札所となっている。 (古川:以下省略)
平氏もその由来などはほとんど知られていないとされながらも、「ただ有家町木場に同名の神社があり、創建の由来もはっきりしている。同社は島原の乱の後の慶安4年(1651)、筑後吉村から移住してきた末吉氏が故郷の高良神を勧請してきたもので、…(中略)…唐人町の高良さんも、その名称からして同様の経緯で創建されたものとみてほぼ間違いない。すなわち、島原の乱後、すっかり荒廃したこの地に筑後周辺から来た移住者が、高良大社から勧請、創建したものであろう。」とされています。

私は木場の高良神社(有家町堂崎)も、複数回に亘り注意深く見てきました。平氏の説には敬意を払いつつも率直に言わせて頂ければ、木場は全くの開拓集落であり、名称も玉垂宮(旧字ですが)と異なることから、埋立の進んだ口之津港湾奥の一等地とも言うべき地にある同地の一の宮とも言うべき神社が、新参者の外地からの移住者によるものとの説には容易には同意できかねます。まず、金比羅とのセットであることが、九州王朝との関係が揶揄される宮地嶽神社と同じであり、背後に聳える富士山神社(祭神は言うまでもなく木乃花佐久耶媛でこれまた九州王朝との関係が濃厚であり、もしかしたら、「フジ」と言う地名も東海に持ち出されたものかも知れないと考えています。)も天長3年(826)という古い時代に富士山浅間(せんげん)神社から分祀されたものとの伝承を考え併せれば、九州王朝との関係を否定できないと考えています。
なお、有家町堂崎の高良玉垂神社については、「木場の高良さんの祭り」(『有家風土記』)という伊福芳樹氏による詳細なリポートもあります。また、付近の六郎木地区には同町(当時)教育委員会で神籠石ではないかと言われる未調査の遺跡があることもお知らせしておきます。


にお読み頂き有難いと思っています。
















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